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コラム

「ふたば創生」片寄 洋一さん(高6回)

 あの大惨事から4年が経過した。避難生活は未だ続き、何時になったら避難指令解除になるのか誰も判らない闇の中にある。また避難指示解除の令がでても、以前と同じような生活が戻ってくる保証は全く無い。それどころか新たな苦難の始まりになりかねない。

 ふる里の人々は苦しみ、悩み、絶望の淵にいる。このような時に安閑として傍観している場合ではない。ふる里の惨状を救済したい、手助けの方法は何かないか、恩返しをしたい。双高OBとして思いは同じ、東京栴檀会として何か出来ないか。ここに各種の資料を提供し、OB諸兄姉の叡智と行動を期待したい。

高6回 片寄 洋一

 まえがき 【第四編 我が国の電力事情】
【第一編 東日本大震災】   第25章 我が国の電力事情
  第01章 福島第一原発事故再考   第26章 只見川総合開発
  第02章 大熊町全町民避難   第27章 原子力発電への途
  第03章 双葉町全町民避難   第28章 原発と福島県
  第04章 浪江町全町民避難   第29章 地元誘致の動き
  第05章 富岡町・川内村避難   第30章 磐城飛行場
  第06章 楢葉町・広野町・葛尾村   第31章 福島第一原発建設開始
  第07章 双葉病院の悲劇   第32章 原発建設の必要性
  第08章 福島第二原発   第33章 中東情勢と原発
  第09章 第一原発吉田所長の活躍   第34章 中東の複雑さ
  第10章 外国での反響・協力   第35章 中東からの輸送路確保
  第11章 核の恐怖   第36章 海洋資源
  第12章 数々の隠蔽工作   第37章 海の国境線
  第13章 福島県知事の叛旗   第38章 ロシア革命
【第二編 事故後の混乱】   第39章 ポーランド孤児救済・保護
  第14章 原発事故後の混乱   第40章 第二次大戦への突入終結
  第15章 SPEEDI情報   第41章 北方四島問題
  第16章 その他の情報があった 【第五編 栴檀のふたば】
  第17章 事故は防げたのか   第42章 五年目の春
  第18章 国会最終報告書   第43章 残留放射線(能)汚染再考
  第19章 顧みて   第44章 ふる里は聖地
【第三編 核の知識】   第45章 双葉地方の農業
  第20章 原子力発電所の仕組   第46章 これからの農業形態
  第21章 放射線量(能)の知識   第47章 双葉地方の工業化
  第22章 除染作業   第48章 太平洋に挑む
  第23章 中間貯蔵施設   第49章 人工島の活用
  第24章 もう福島には住めないのか   第50章 被災地再興の原動力は教育にあり

第十四章 原発事故後の混乱

 アメリカ政府の対応

 第一原発事故発生の翌日から、グァム島のアンダーセン基地から無人偵察機グローバルホークが飛来、それも連日福島原発上空に飛来し、正確な事故状況を把握していたらしい。

 この偵察機の凄さは軍事機密だが、少し公開すると高度1万8千mを飛行しながら電子光学・赤外線カメラ、雲を透視する合成開口レーダーを搭載し、猛烈な速度で飛行、滞空時間30時間で自動操縦、リアルタイムの映像を地上に送り、その解析能力は地上30cm四方を識別する写真撮影が可能、 多分もっと細かい物を識別する能力があるらしいがそれ以上は軍事機密。最大航続距離は2万5千km。

 第一原発の建屋が爆発した時点で、アメリカ側は高性能な軍事衛星写真を、また無人偵察機を飛ばして鮮明な映像により「4号機の使用済み核燃料プールが空になっている、早く注水しないと大変だ」との状況を把握していたようだ。

 しかし、東電は状況を把握しておらず、従って政府も対応が出来ず、アメリカ側を苛立たせる結果になってしまった。

 当初アメリカ政府は事故対策に全面的に支援することを申し出ていたが、状況を把握できていない外務省、官邸は日本国内の問題だから国内で解決できると自信を持っていたし、東電も外部の介入を嫌ったみたいだ。

 またフランス政府からも申し出があり、サルコジ大統領、原子力大手のアレバ社の最高責任者(CEO)アンヌ・ロベルジョン氏が来日、海江田経産相に「私達を大臣の従業員として使ってほしい」と提案している。

 初動のモタツキが悔やまれる。

 世界一の原発を持つアメリカ、第二位のフランスとしては、日本での原発事故を何とか収束させ、原発反対運動の拡大を食止めたいとの思惑もあったのでしょう。

 ルース駐日米大使が動くことによって、原子力安全・保安院、東電、米原子力規制委員会(NRC)が会合して、21日になって「福島第一原発事故の対応に関する日米協議」が、やっと発足、大統領の権限が絶対的な上意下達の社会とボットムアップ、根気よく根回しをする習慣、先送りの習慣、文化の違い、緊急を要する、同時進行型の難事に対処するには、なかなか決まらない日本側のお家事情が、醜態をさらけ出すだけだった。

 情報は把握していた

 2011年3月11日、事故発生、11日夜以来原子力安全・保安院が、12日朝からは文部科学省が多数試算した。

 この試算では、第一原発のプラントデータを配信する緊急対策支援システム(ERSS)のデータが使用不能になっていたため、放射性物質放出量の条件について仮想事故データ等の仮定を入れて計算し、実際の風向きなどで20km〜100km四方程度の地域について一定時間後の各地の大気中濃度、地表蓄積量などをSPEEDIによって算出し、事故後5,000枚以上の試算表を作っていたらしい。

 当然3月14日の段階で日本政府機関はSPEEDIの詳細な予想図を把握していた。ところが何故か公表していない。

 国民生活とは遊離した集団、組織、指揮命令系統がはっきりしないと動こうとしないわが国独自の理論が存在したらしい。

 しかしこの貴重な情報は公表されることもなく、関係各県にさえも知らせていない。(非公式にはSPEEDIの情報が一部流されたらしい、受信側もなんだか判らず放置していた。福島県にもファックスで送られてきていた)

 何故なんだ、その答えは「試算なので国民に無用な混乱を招くだけだと判断したからだ」弁明していたが、このような弁明が通用するのか。被災者の存在など無視し、責任感は全くないお役人の回答はこれだ。

 情報が無いために汚染地域に留まっていたり、飯舘村のように汚染警戒区域にも指定されないままに長期間放置されてしまうような危機管理以前の醜態をさらけだしてしまった。

 この点に関して国会でも追及され、同年6月17日の参議院東日本大震災復興特別委員会で、議員の質問に対して、文部科学大臣はSPEEDIの情報を何故公表しなかった理由を「現地情報がなかったので計算できなかった」と答弁し、更に追求されると「計算していたことを知らなかった」と答弁、遂には「一般には公表できない内容だった」と無責任な答弁を繰り返した。

 7月10日、参院予算委員会に参考人として招致された双葉町井戸川町長(当時)が原発事故直後にアメリカ政府が提供してくれた「汚染地図」それにともなう観測分析資料を政府は公表しなかった問題で「情報がスムースに出ていれば逃げる方向も変えていた。なんのための情報隠しなのか納得いかない」と声を震わせた。

 この井戸川町長が証言したアメリカ政府の「汚染マップ」についても申し述べたい。

 福島第一原発事故直後の2011年3月17〜19日、アメリカ・エネルギー省は放射線量測定の専門家を派遣、在日米軍横田基地を拠点にして、空中測定システム(AMS)を米軍機2機に搭載し第一原発から半径約45km内を計40時間以上飛行し、綿密な測定を行った。

 これにより地上の放射線量を電子地図に表示でき、この資料を基に作成された汚染マップは、在日米大使館を通じて外務省に電子メールで計2回送られた。

 外務省は担当省庁である経済産業省原子力安全・保安院と、線量測定の実務を担当する文部科学省に転送した。

 ところが文部科学省科学技術・学術政策局に入ったこの貴重なデータはこの局で埋没してしまう。即ち肝心の官邸、原子力委員会には報告されなかった。

 同じく経産省原子力安全・保安局に入った情報もこの局で握りつぶされた。

 まさか故意でやった訳ではないだろうが、ことの重要性を認識していない、あるいは出来ない担当幹部が放置してしまったのだろうと推測する。

 専門家でない官僚が定期的に人事異動を繰り返す官僚システムの弊害で、たまたまその役職にあった官僚にとって何をどうしていいのか全く解らないままに不作為こそ自己保身と判断したのか。

 その結果、浪江町や飯舘村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯舘村では避難対象にもなっていなかった。

 ところが不思議なことが起きた。浪江町赤宇木地区に避難していた人達の前に白装束の怪人が現れ、ここは危険だから早く逃げろと指示、風の様に去っていたらしい、所属も名前も何もなのらず去ってしまったが、役場の吏員でも県庁の職員でもないらしい、と噂していた。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 ともかく官邸にはSPEEDI所管の文部科学大臣、アメリカ政府から提供された「汚染マップ」とSPEEDIが計算した放射性物質拡散予想図の両方を受け取っていたはずの経産大臣と原子力安全・保安院長官、更には原子力委員長までが詰めているにも拘わらず、官邸には全く報告が上がってこない、そのことに疑問も持たなかったのか。省庁の長とは単にお飾りに過ぎなかったのだろうか。

 アメリカ政府の申し出

 アメリカ・クリントン長官の支援申し出を日本政府が断った。という記事の最初は読売新聞でした。事故後の朝日新聞の記事から引用する。

 1981〜82年にかけて、アメリカにあるオークリッジ国立研究所がアメリカ原子力規制委員会の依頼を受けて大がかりな実験、実証のシミュレーションを1981〜82年に繰り返し行い、その報告書を同委員会(NRC)に提出した。

 この研究報告書は、原発の全ての電源が失われた場合のシミュレーションを実施して得た事実を報告したものです。

 このシミュレーションに使われたモデルは「GE社製マークI炉」で、それは福島第一原発の1〜5号機もGE社製を輸入したもので全く同じタイプ原子炉でした。

 その報告書によると、全電源が喪失して非常用バッテリーが四時間使用可能な場合、「五時間で核燃料露出」「五時間で水素発生」「六時間後に燃料溶解」「七時間後に圧力容器下部が損傷」というのが、主な経過ですが、まさに福島第一原発の事故の経過はシミュレーション通りとなった訳だ。

 この報告書を受けたNRCは直ちに安全規制に取り入れ活用したのです。

 では、東電としてはこのような報告書があることを知らなかったのか、福島原発の1号機の建設は1971年、GE社が設計、機材から据え付け工事まで全て請け負う「フル・ターン・キー」契約ですから、その後の責任もあります。

 この報告書が提出されたのが1982年なので、GE側から報告はあり、NRCからも連絡があったようで、その事実があるからこそ、つい最近の10月4日アメリカ議会における福島第一原発に関する公聴会での証言台に立ったグレゴリー・ヤツコNRC委員長が日本政府の怠慢さを徹底的にこきおろした証言をおこなったのも、報告書を生かそうともせず、放置してしまった日本側に我慢できなかったのでしょうか。

 では何故、日本側は活用しなかったのか、そもそも全電源が喪失するような状況は起こることない、起こり得ないから想定する必要はない、だから対策は必要ない、の危険極まりない三段論法が通用してしまった。

 しかし、現実に原発事故は起きて、NRC報告にあることが起きてしまった。それでも東電は大丈夫だと信じて、アメリカやフランスからの援助を断ったのは、東電側はバッテリーの稼動が約8時間、その間に外部電源は回復できる。と信じていたようで、これまた安全神話の神頼みに終始した。

 しかも会長、社長、副社長(原子力担当)が出張中で、東電の司令塔は不在、残された幹部はマニアルはなし、責任は負いたくないとオロオロするばかり、官邸はこれまた東電からの報告を受けても、それを消化、判断できる人材不足、日本人全体の危機管理に対する感覚が問われる大問題に進展した。

 事故直後、クリントン長官の連絡は「直ぐに水(ホウ酸水)をアメリカから空輸する」と、これはアメリカの軍事衛星で福島第一原発の事故の模様をつぶさに監視していた国防省から長官に連絡がいき、長官から日本政府へ申し出たのでしょう。

 軍事監視衛星の解析能力は地上1m以下の物体まで判る能力を持っていますから、事故の内容は正確に把握し、冷却装置壊滅、全電源喪失を解析した筈で、だからこそ水の注入こそ最優先、それ以外に方法はない。と判断して即座に申し出たのだが、日本政府では事故後は詳細報告なし、原発事故は想定外で官邸の危機管理室も機能しない。全電源喪失など想定外だからマニアルなし、従ってアメリカの申し出である水を空輸する事の意味が理解出来ないまま断ってしまったようだ。

 その後の過程を見れば解る通り水を注入する以外に方法はなかった。

 さらに日本側としてはアメリカ、フランスの援助を受け入れれば、復旧の指導権を奪われてしまう。原子炉施設を外国に売り込もうとしている時期に外国の技術を借りなければ復旧できない。技術の未熟さを公表することになる。だから日本側だけで対処する。とするのが政府、東電の了解事項だったようで、援助を断ってしまった。

 時間経過と共に原子炉融解、水素爆発となって、アメリカ、フランスに助けを求めざるを得なかったし、後にクリントン国務長官、フランス・サルコジ大統領、アリバ社総裁アンヌ・ロベルジョン氏の相次ぐ来日、わざわざお見舞いに来たわけではない。日本だけに任せていたら世界が大変だとの認識からで、もしこれ以上モタツいて収束が遅れれば原発反対の運動が激化してしまうと、原発先進国であるフランス、アメリカでは政権維持さえ困難なる、事実ドイツとスイスは原発全廃を議決した。その波が自国に及ぶのをなんとか防ぎたい、それには一刻も早く原発事故を収束しなければならない、日本だけでは無理と判断してやって来たわけで、日本に対する好意だけでやって来たわけではない。

 クリントン国長官は「日本は技術的水準は高いが、冷却剤は不足しているはず」だから空軍機を使って急送したと声明を発表したが、後で国務省高官が日本政府が断ってきたので送らなかった、と発表した。  新聞には「水を送ると、アメリカ政府の申し出」と記事にあったが、冷却剤の意味は多分、ホウ酸(ホウ酸水、通常‘ボリン’と呼んでいる)ホウ酸水は核分裂反応を抑制する、いわゆる第二の制御棒に成りうるもので注水系に使用しているのだから、想像するに水と言ったのはホウ酸水のことだと思う。またホウ酸水を注入しても廃炉にしなければ成らないほど炉内を傷付けることは決してあり得ないこと、廃炉を心配して断った。というのは何処かで挿入された言い訳でしかない。

 アメリカ大使館の動き

 この前段階において、このルース大使が枝野官房長官に「アメリカの専門家を官邸に常駐させて欲しい」と要請したことがあったらしい。ところが枝野氏はとんでもない国家主権をないがしろにするものだと解釈し拒絶したとのこと。

 独立国家の面目としては当然かも知れないが、一方アメリカ側から視れば、世界をゆすがす大事故が起きている、若しかしたら日本は壊滅的な大打撃を被るかもしれない瀬戸際にありながら、誰がどう対処しようとしているのかさっぱり判らない。二号機はもう爆発寸前の危険状態陥っている、東電は撤退を検討中という情報もあり、極限状態に陥入っていたから、アメリカ政府は「国家崩壊」の最終シナリオを読んでいたのかも知れない。

 だからこそ同盟国としてなんとか阻止したい。援助したいとの思いが強く、それには官邸中枢に専門家を常駐させ情報を得たかったのだろうし、アドバイスしたかったのだろう。このことはルース大使の思惑ばかりではなく本国政府からの要請だったろうし、あるいは大統領の要請だったかも知れない。日米同盟の根幹を揺るがす大問題で、同盟とは何ぞやと問われる緊張した瞬間だったらしい。

 そのくらい官邸の指導力は危うく見えたのだろうか。

 結果的には、原子力発電は絶対に事故は起きない、という安全神話を掲げ、信じてきた政府、電力各社、安全なのだから事故対策・準備は必要ないとばかり、何の準備も機材もなかったが故に、官邸中枢にアメリカ政府の専門家を常駐させることはなかったが、全面的にアメリカ、フランスの援助に縋るほか方策はなく、哀願にちかいお願いとならざるを得なかった。

 原発の安全管理を直接的に担当している主管庁は、経産省の外局である資源エネルギー庁の特別機関として原子力安全・保安院が担当していた。

 ところが原発には「安全神話」なる妖怪話が存在し、この話を官も民も信じ切っていたために、安全対策を講じることは安全神話を冒涜することであり、信ずることこそ最高の対策としていたために、原発事故で大失態をさらけだしてしまった。

 2012年9月19日に廃止、環境省の外局である原子力規制委員会へ移行した。

 経産省・原子力安全・保安院

 経済産業省の一機関であり、法令上は「資源」エネルギー庁の特別機関」とされ2001年(平成13年)1月6日、新設、正式名称は「原子力安全・保安院」。霞が関の本院の下、地方機関として全国に産業保安監督部、原子力保安検査官事務所が置かれている。

○ 任務(原子力安全・保安院)

(1) 原子力に係わる製錬、加工、貯蔵、再処理及び廃棄の事業並びに発電用原子力施設に関する規制その他これらの事業及び施設に関する安全の確保に関すること。

(2) エネルギーとしての利用に関する原子力の安全の確保に関すること。

(3) 火薬類の取締まり、高圧ガスの保全、鉱山における保安その他の所掌に係る保安の確保に関すること。

(4) 所掌事務に係わる国際協力に関すること。

(5) 前各号に掲げるもののほか、法律(法律に基づく命令を含む。)に基づき経済産業省に属させられた事務

 このように、本院は「原子力安全」と「産業保安」とが主な所掌事務で、決して原子力関係のみを専門としている組織ではない。原子力、電力、都市ガス、高圧ガス、液化ガス、火薬、鉱山関係の施設や産業活動の安全規制、保安を所管し、これらの施設に対しては必要に応じて、立入検査、報告徴収、改善命令等を行うことができる。

 保安院の下部組織は、各地方に事務所があり、福島第一原発にも7人の保安院職員が常駐しており、大熊町JR大野駅近くの「オフサイトセンター」で監視しようとしたが、全てのモニターが停電、通信回線不通で使用できず、安全性に問題あり、食料補給が確保できない等の理由を挙げ福島県庁内の現地対策本部へ全員引け上げてしまったことが、国会で追求された。

 アメリカの監督官庁制度

 アメリカの監督官庁はどうなっているのだろうか。

 アメリカ・原子力規制委員会(NRC)は、アメリカ国内の原子力に関連する全ての施設の安全に関する監督業務を担当する。この委員会の委員長は大統領によって選任され、かつ原子力の安全に関する業務を全て委任されている。

 その体制は全米の原子力発電所104カ所とその他の原子力関連施設に原子力規制委員会の検査官が原則2人が常駐し、安全が守られているかどうかを厳しくチェックする。

 検査官は「いつでも、どこででも検査が出来る」権限があり、抜き打ち的に検査を行う。毎朝6時半、当日の作業内容が報告される会議には必ず出席して傍聴し、作業内容を掌握し、また前日の運転日誌や作業報告書をすべて目を通す。

 さらに、タービン建屋や原子炉建屋には足繁く見回る。使用済み燃料プールや中央制御室のような立ち入り禁止区域内にもフリーパスで入室出来るし、係員に直接質問することが出来る。

 わが国の原子力安全・保安院の検査官は、電力会社が作成する検査書類の審査することが主で、現場の検査は疎かになる。

 NRCの場合は、ワシントン郊外にある本部と全米4ヶ所にある地方局の専門職員が文書業務を分担し、不具合があれば直ぐ検査官に連絡する。

 重要な問題が見付かれば記者会見で明らかにされる。2011年の1年間で全米で200件余の不具合が公になった。わが国のように隠蔽工作が慣例のような原子力ムラの体質はない。

(ヤツコ元長官)

 NRCの検査官は原子力工学の修士以上の学位を有する人が多く、検査官としての訓練を7週間、必須は原子炉制御盤のシュミレーターの操作、平時、非常時にどのような操作が必要か徹底的に習得する。全課程が修了すると、さらに現場で1年間訓練を重ね、更に試験に合格して検査官になる。

 従って専門職として「検査官はNRCの目であり、耳となって」業務に邁進することになる。

 わが国も米国のような現場主義に徹しないと、今回の原発事故による右往左往の大混乱を繰り返すことになりかねない、官僚は検査書類を審査するだけでの書類主義を脱し、大幅な官僚制度の改革こそが必要。

 福島第一原発事故の際は、メリーランド州にあるNRCオペレーションセンターにそれぞれの専門家が集結し、情報を収集して約2ヶ月にわたり活動したとのこと、その間、窒素注入の必要性など適切なアドバイスを送り続けたが、「汚染地図」同様、司令塔不在のわが国では活用できなかったらしい。

 このNRC委員長であったグレゴリー・ヤツコ氏が2011年10月4日、アメリカ議会・公聴会で証人として登壇し、福島第一原発事故について証言した。

 それによると地震、津波は予想されていたことであり、その対策を全く執っていなかったのは怠慢であり無責任な体制によるもので起こるべきして起きた人災であると報告した。

 事故後の処理に関してのモタツキは司令塔の不在、国内法の不備、決断の遅さ、責任転嫁、組織の不備等々、猛烈な日本批判を証言した。

 これらは指摘の通りだから反論も出来ないが、事故直後即座に援助申しでて、資材の提供などアメリカ側の好意ある申し出を、事故の規模を掌握出来ないままにことごとく断ってしまった日本政府と東電の傲慢な対応に相当立腹していたようだ。さらには専門家を本国から派遣して飛行機によって調査・測定して作成した汚染マップも日本政府が無視したことに対して猛烈に噛みついた。

 福島原発事故の対策に専念したが、その際アメリカ国内の原子力規制に関し、法規制の強化を謀ったり、アメリカ政府の日本に対する対応を強く迫ったり、新規原子炉の新設を30年ぶりに認可に関する委員会での対立、核廃棄物処分場建設計画を中止したりとの等の独断専行があったのか、約4千人の職員を統括・指揮するのは5人の委員会があり、そのトップを務めるのが大統領による任命である委員長であるが、そのヤツコ委員長が他の委員と対立し、排斥運動があり、嫌気がさしたのか、突如辞表を提出し職を去ってしまった。アメリカ政府内部にもいろいろあるのだろうか。

 後日、ヤツコ氏辞任の真相が明らかになった。01年9月11日、アメリカで航空機による同時多発テロ(9.11事件)があった。

 この時は原発を狙うことはなかったが、狙われる可能性があり、02年に「原子力施設に対する攻撃の可能性」に備えた特別の対策を執ることを各原発に義務付ける命令を出した。これが「B5b」で全ての災害に対する防護・保安措置とした。

 当然この情報は我が国の原子力安全・保安院と原子力安全基盤機構とに正式に伝達され、その防護・保安措置を勧告されたが、肝心の原子力委員会長には、この「B5b」情報が全く報告されていなかった。

 B5bの情報に関しては、事故後アメリカ側からが何故対策を講じなかったのかと詰られて、初めてB5bの存在を知って驚いたという。

(馬場町長とヤツコ氏会談)

 残念ながら我が国には「安全神話」が蔓延しており、お上が安全と唱えれば安全だと猛信してしまう国民性があり、お上(カミ)は神に通ずるものがあるらしい。従って全てが「想定外」として見送った経緯がある。

 もしこの時、防護措置を執っていれば第一原発の事故はある程度防げたはずだとアメリカ政府筋の見解であった。

 ところがNRC委員長であったヤツコ氏は、第一原発の事故をつぶさに検討して得た結論は「B5b」があるからと言って絶対的な安全は保証されないとして、「B5b」の見直しを政府に迫った。

 そのような折、アメリカ政府は34年振りに原発の新設を認めた。NRCの委員人のうち4人が賛成、反対はヤツコ委員長ただ1人で、絶望したヤツコ氏は辞表を出してNRCを去った。

 その3ヶ月後の12年8月27日、ヤツコ氏は一人で浪江町を訪れ、防護服姿で瓦礫の中を歩き、町の様子を見て回り、その後、二本松市にある浪江町仮役場に馬場町長を訪ね、会談。町長は情報がないまま30km離れた津島地区に町民を誘導避難させたが、そこが最も放射能が高いところだったのを後で知り、町民を被曝させてしまったことに責任を痛切に感じ、苦悩したことを述べ、ヤツコ氏は目を潤ませて聞きいったという。

 我が国にもヤツコ氏のように安全神話などに惑わされず、真剣になって取り組んでくれる人材が一人でもいたならば、また違った展開になっていたかも知れない。

 危機管理センターの存在

 阪神淡路大震災時、情報が内閣に挙がって来るのが遅れ、救助活動の発令が大幅に遅れてしまったことを反省し、新しい官邸の地下1階にオペレーションルームを設け、ここを首相官邸危機管理センターとした。(但し、組織名ではない)

 ここを主に運用しているのは内閣情報調査室集約センターで24時間体制(5班20人)で重大事故、災害、テロ等に備え警察庁、警視庁、消防庁、海上保安庁など危機管理に関係する省庁とホットラインで結ばれている。

 管理しているのは「内閣危機管理監」(官ではなく『監』)歴代の内閣危機管理監は大物警察官僚OBが就任している。

(警視総監経験者)

 有事の場合は総合幕僚長、各自衛隊(陸海空)幕僚長が参謀として入る。

 設備は素晴らしい機器が設置されているのだろうけども今回もまた司令部としての働きはしていない。但し、首相とその側近は上階の首相執務室で指揮を執っていたらしい。

 まさか承知の上で「だんまり」を決め込んだとは思えないが、これらの貴重な資料がある点で握りつぶされてしまったのは事実らしい。もしこの危機管理センターが完全に機能していたら、SPEEDIの存在も承知しているはずだから情報が上がってこないことに不審を感じなかったのか、ホットラインで繋がっていながら各省庁に問い合わせもしなかったのか。

 内閣危機管理センターは存在していたが、安全神話を信じてシミュレーションを怠っていたのだろうか。

 かつての参謀本部は進撃の作戦は華々しく遂行したが、撤退作戦は想定外でシミュレーションの発想もなかったらしい。不都合な情報は佐官クラスの参謀が握り潰してしまい、肝心の参謀総長をはじめとする参謀中枢には届いていなかったという。

 危機管理センターの存在意義を問う

 福島第一原発事故直後の2011年3月17〜19日、アメリカ・エネルギー省は放射線量測定の専門家を派遣、在日米軍横田基地を拠点にして、空中測定システム(AMS)を米軍機2機に搭載し第一原発から半径約45km内を計40時間以上飛行し、綿密な測定を行った。

 これにより地上の放射線量を電子地図に表示でき、この資料を基に作成された汚染地図は、在日米大使館を通じて外務省に電子メールで計2回送られた。

 外務省は担当省庁である経済産業省原子力安全・保安院と、線量測定の実務を担当する文部科学省に転送した。

 ところが文部・科学省科学技術・学術政策局に入ったこの貴重なデータはこの局で埋没してしまう。即ち肝心な官邸、原子力委員会には報告されなかった。同じく経産省原子力安全・保安局に入った情報もこの局で握りつぶされた。

 まさか故意でやった訳ではないだろうが、ことの重要性を認識していない、あるいは出来ない担当幹部が放置してしまったのだろうか。

 専門家でない官僚が定期的に人事異動を繰り返す官僚システムの弊害で、たまたまその役職にあった官僚にとって何をどうしていいのか全く解らないままに不作為こそ自己保身と判断したのか。

 その結果、浪江町や飯舘村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯舘村では避難対象にもなっていなかった。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 危機管理センターは何故これらの貴重な情報を把握できなかったのか、あるいは把握しようとしなかったのか。日頃シミュレーションを繰り返していてば必然事項として行動していたはずだが、残念ながら責務は果たしたとはいえない。

 また官邸もデータがないままに、3km圏、5km圏、10km圏、20km圏、30km圏と同心円状を描いて避難地区を決めたが、危機管理センターはこれらの決定には参加しない枠外の存在だったのか。

 汚染状況に応じて避難圏を決めるべきだが、資料に基ずいて避難圏を決めるべきだと意見具申をした官僚も専門家もいなかったことになる。菅総理は裸の王様にすぎなかったのだろうか。あるいは、官邸は危機管理センターやその他の専門機関を全く無視していたのか。

 このような重大事件にも拘わらず相互不信に陥っていたのだろうか。

 米軍からの資料は黙殺され、放置されその存在さえも明らかにしなかったが、1年3ヶ月後の6月18日、朝日新聞朝刊1面でスッパ抜かれた。

 アメリカ・エネルギー省提供の「放射能汚染地図」を駐日米大使館を通じて外務省に送付し、これを受けた外務省は担当省庁である文部科学省と経済産業省に転送した。が、この貴重な資料が住民避難に生かされることなく、無視または放置されたいたことを1年3ヶ月後に朝日新聞によってスクープされた。慌てた経産省保安院の担当者が18日午後3時から記者会見を行い、言い訳か、弁解なのか、保安院・首席統括安全審査官の記者会見があった。

 審査官はアメリカ側から提供された「汚染地図」が計7枚あったことは認めた。が、しかし、その「汚染地図」がどう扱われたかは「記録にない」と繰り返すに留まっり、それ以上は識りませんと嘯いた。

 アメリカ・エネルギー省の航空機モニタリングのデータが外務省を通じて3度にわたり保安院の国際室に電子メールが届いた。またデータが、保安院に設けられた緊急対応センターの「放射線班」に伝わったことも認めた。

 しかし、何故その貴重なデータが同センター内にある住民避難対策担当である「住民安全班」に渡らなかったのか、という肝心な点については「解らない」を繰り返すだけ、しかし、「汚染地図」は同センター内のホワイトボードにA2判に拡大されて掲示されていたとのこと、従って同じ室で作業する「住民安全班」の係官が目にしても不思議ではない。

 しかし、正式に受領しなければ全く関心を示さない、与えられた業務は懸命に取り組むが、テリトリーの範囲以外は無関心、まして外国のデータ等は無視が当然、同じ日、文部科学省も「情報は共有すべきだったかも知れないが、陸上でのモニタリングを収集することが文部科学省の担当」であることを強調、従って海外からの「汚染地図」の取り扱いについては当時者である認識はない。

 「汚染地図」の取り扱いは保安院が担当するものとの認識を表明し、文部科学省にはなんら落ち度はないことを強調した。

 それならば文部科学省が担当しているSPEEDIによるデータがありながら公表しなかったのは何故か、正確でなかったから公表しなかったと弁明しているが、危険が迫っている地域を認識していたはず、であればせめて現場責任のある福島県庁の担当者に連絡すべきだと考える。

 なんら情報がないまま汚染地域に避難してきた人々は被曝してしまった。

 ところがこの地区に避難していた人々のところに、突如白装束(防護衣服)が現れ、名をなのらず「ここは危険だから直ぐに避難して下さい」とだけ告げて風のように去って行った謎の1行がいたらしい。

 県や市町村の係員ではないとのこと、「汚染地図」を掌握していた人々の直接行動なのか、現在でもその正体は不明。

 では何故これほど混乱してしまったのか、原子力規制組織として経済産業省、原子力安全・保安院、独立行政法人・原子力安全基盤機構。内閣府、原子力安全委員会。文部科学省、放射線モニタリング部門、全てが縦割り行政。

 所属する省庁が異なる組織が原発事故という1っの災害に対処した場合、事前に綿密な打ち合わせと、組織全体を横断的に統括する本部及び司令官がいなければ、それぞれがバラバラに行動することになる。

 まさに今回悪しき例をさらけ出してしまった。経産省と文部科学省が同じ室内で作業していながら「汚染地図」を共有、活用することはなかった。

 また、総司令官であるべき菅総理は情報が集まらないまま、現場に介入したり、東電本店に怒鳴り込んだりと動き回ったが、総司令官としての自覚があまりないのか総司令部を留守にして現場を電撃訪問、介入して混乱させるなど危機管理体制が全く整っていないことを自身の行動で露呈してしまった。

 第一原発事故で担当する保安院は事故直後に情報を集めきれず、あっても活用できず組織としてきちんと機能できなかった。

 また、事故以前にも地震・津波・地盤等、過酷事故の警報を認識していながらも、電力会社への周知徹底を怠っており、更には検査の手抜きに手を貸したりと電力会社に擦り寄っていたことが次々と明らかになり原子力ムラの様相を呈した。SPEEDIを管轄する文部科学省もデータを掌握しながらも公表せず、公表の義務はない、落ち度はない、全て適切に行動した、と強弁を繰り返した。

 さすがに国としてはこの制度の欠陥を認め、経済産業省の原子力安全・保安局。内閣府の原子力安全委員会を廃止。いくつかの省庁にあった原子力安全に関する部局を廃止し、1っに統合することになった。

 有識者5人による「原子力規制委員会」と言う独立した組織を9月発足をメドにして委員任命者を選考中。

 独立性の高い委員会として、技術的・専門的な事項の判断は委員会に委ね、その範囲外の判断は首相がする、ということになった。

 保安院が行ってきた業務等は、新たに環境省の組織の一部として「規制庁」を設置し、約1千人体制の官庁になるらしい。

 大飯原発は野田政権が仮の基準を作って安全を判断し、再稼働を認めたが、それに続く他の原発の再稼働は、新しく出来る「原子力規制委員会」が安全性を確かめて判断することになる。だが、どのような基準になるのかはこれからの問題だ。

 何故見過てしまったのか

 情報が無視または放置されたいたことを12年6月18日、朝日新聞・朝刊によってスクープされ、慌てた経産省保安院の担当者が18日午後3時から記者会見を行い、言い訳か、弁解なのか、保安院・首席統括安全審査官の記者会見があった。

 審査官はアメリカ側から提供された「汚染地図」が計7枚あったことは認めた。が、しかし、その「汚染地図」がどう扱われたかは「記録にない」と繰り返すに留まった。

 更に調査を進めると、外務省は担当省庁である経済産業省原子力安全・保安院と線量測定の実務を担当する文部科学省に転送した。

 ところが文部・科学省科学技術・学術政策局に入ったこの貴重なデータはこの局で埋没してしまう。即ち肝心な官邸、原子力委員会には報告されなかった。同じく経産省原子力安全・保安局に入った情報もこの局で握りつぶされた。

 故意でやった訳ではないだろうが、ことの重要性を認識していない、あるいは出来ない担当幹部が放置してしまったのだろう。専門家でない官僚が定期的に人事異動を繰り返す官僚システムの弊害で、たまたまその役職にあった官僚にとって何をどうしていいのか全く解らないままに不作為こそ自己保身と判断したのか。

 その結果、浪江町や飯舘村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 アメリカ・エネルギー省の航空機モニタリングのデータが外務省を通じて3度にわたり保安院の国際室に電子メールが届いた。またデータが、保安院に設けられた緊急対応センターの「放射線班」に伝わったことも認めた。

 第一原発事故のあと直ぐにアメリカ側から航空機による実測で放射線量の詳細な「汚染地図」が提供されていたにも拘わらず住民避難指示に活用せず、この貴重なデータを放置していた問題で、その存在すら認めようとしなかった政府がやっとその存在を認め、経済産業省原子力・保安院の平岡英治次長が12年6月26日、大熊、富岡、浪江の仮役場を訪れ謝罪した。その後、県内12市町村を訪れ謝罪する予定になっていた。

 特に二本松市にある浪江町仮役場では情報が遅れたが故に高放射線量の地域に多くの避難者が留まっていたため被曝してしまったかも知れない問題では、馬場町長と非公式ながら長時間の会談が行われたという。

 しかし、この問題で事故後1年3ヶ月も経たなければ正式な謝罪も何もないこの国の行政はどうなっているのか。SPEEDI問題では文部科学省が完全に沈黙したままだが、平岡達夫復興相が地元に謝罪どころか、何の説明もないのは意外だ、と批判している。教育行政の中央官庁がこの態度だ。

 更に原子力保安院の森山善範・原子力災害対策監が6月28日、記者会見を行い、保安院の緊急時対応センターには汚染地図データの資料は残っていなかった。と明らかにし、破棄したのか、紛失したのか、存在しないのは確かだと強調した。

 存在しないと強調すれば免罪符になるらしい。

 保安院の職員に聴き取り調査をした結果、保安院の国際室が受け取り、同センターの放射班に届けた。

 その資料はホワイトボードに張ってあったのを複数の職員が目撃していたが、活用した形跡は全くなく、更に上方機関に報告しようなどとは全く考えなかった。

 その資料も放射線班には残っておらず、放射線班以外の部署では資料としては受け取っていないという。従って避難誘導の為の資料として全く活用されないまま放置され、消えてしまったのか、消されたのか。

 国の組織や社会の組織は、ある衝撃的な出来事が起きると、普段は全く見えてこない断面が次々と浮かび上がってくることになる。まさに今回の原発事故はその例で、我が国の組織はこれほど欠陥だらけだったのかと痛切に思い識らされた。

 司令塔になるべき内閣が不慣れなのか情報を収集、分析する能力に欠けていたし、官僚を使いこなす手腕に欠けていた。

 その官僚も我が省庁だけが守備範囲で、省庁間の連携にはほど遠く、縦割り行政の弊害がもろに出てしまった。

 更にいえば初期段階で我国の政官界が一介の民間会社である東京電力に振り回されてしまったことにある。

 その結果かどうかは識らないが、電力会社との癒着が甚だしかった経産省原子力・保安院は解体され、他の組織に衣替えした。但し中身は同じらしい。

 これが一種の懺悔なのか、スケープゴートなのかは判断に迷うところだが、全責任は内閣にありとはしなかった。

 同じような事故・事件として、韓国で300人余の犠牲者を出した4月のフェリー沈没事故で、この国特有の「無限責任」を大統領に求めた。

 事故原因が明らかになるにつれ、船舶検査体制、官界と業界の癒着体制、政府の責任は大きいことは確かだが、その責任は現大統領に集中するロジックが働く。

 その結果として「事故をきちんと対処できず、最終責任は私にある」と大統領は声明を出した。

 テレビの映像だけで判断するのは危険だが救助態勢に問題ありと感じており、現場に駆け付けた海洋警察庁の船舶職員の救助態勢に関してだ。その結果として海洋警察庁そのものが解体されてしまった。

 また船長以下の職員がやるべき乗客救助を放棄して真っ先に逃げ出したことに関しては、シーマンとして人間としてまことに唾棄すべき行為であって、国民から糾弾を浴びることは当然の結果だし、刑事告発もやむを得ない。

Q:もし仮にアメリカ国内で福島第一原発のような原発事故が起きた場合、対応する組織はあるのでしょうか?

 A:アメリカ合衆国原子力規制委員会(Nuclear Regulatory Commission、NRC)はアメリカ合衆国政府の独立機関の一つであり、合衆国内における原子力安全に関する監督業務(原子力規制)を担当する。

 NRCの規制業務は3つの主要な分野をカバーする。

 * 原子炉:発電用、研究用、開発のための試作品、試験用、訓練用の商用原子炉

 * 各物質:医学、工業、学術のための各施設、及び燃料製造施設における各物質の利用

 * 核廃棄物:核物質及び核廃棄物の輸送、貯蔵、廃棄及び各施設の廃棄

 NRC組織は本部(メリーランド州ロックビル市)、全米4つの地区に分け、それぞれ地方局を置き、104基の発電用原子炉と36基の非発電用原子炉の運転を監督している。

 その業務内容

 * 各発電用原子炉には監督官が常駐し、毎日の運転状況をモニターする。

 * 様々なスペシャリストから構成される多数の特別監査チームが、各サイトから監査を行う。

 * 内部情報通報者からの通報は本部規制局の申し立て調査部門により調査を行う。NRC全職員4,211人(2010年10月現在)

 NRCの委員はアメリカ合衆国大統領によって指名され、アメリカ合衆国上院の同意に基づいて任期5年、委員5名からなる。

 5名のうち、1名は大統領から委員長及び委員会の公的すスポークスマンとして任命される。

 現在の委員長はグレゴリー・ヤツコ(Gregory B Jaczko)氏、2005年1月21日ブッシュ大統領によって選任されたが、2009年5月13日オバマ大統領によって再び選任された。(大統領専権事項)

 我国の保安院を連想するが、その権限は絶大で、もし国内で原発事故が起きた場合、その対応の権限は鎮圧を含めて全て委員長に委ねられる。

 ヤツコ委員長は素粒子物理学者で、原子力に関しては専門家であり、その委員長を補佐するのがエネルギー長官であるチュー長官、この人はノーベル物理学賞、受賞の人物。

 オバマ大統領は全ての権限を与え、大統領は事故対策に介入することはない。重要な決断を必要なときに関しては、説明を受け承認を与えることはあっても、大統領が命令をすることはない。

 もし、今回の福島第一原発のような規模の事故が、アメリカ国内で起きた場合は、その鎮圧、収束の活動はNRC委員長が司令塔となり全指揮を執ります。

 このNRCヤツコ委員長が2011年10月4日、議会の公聴会で福島第一原発事故に関する証言として、地震、津波が予想されていたにも関わらず、対策を講じなっかたのだから、事故は起こるべきして起きた人災だ。その後の事故処理のモタツキは国内法の不備、全責任をもって指揮監督する司令塔の不在、決断の遅さ、責任転嫁、組織そのものの不備が原因だ、と痛烈な日本批判の証言をした。(CNN)

 確かに一国の宰相が、事故現場、電力会社、地方自治体等々慌ただしく駆け回わらなければならなかったとすれば司令塔も、統括する組織は存在しなかった、と批判されても仕方がない。

 NRCの研究報告書を知らせたにも係わらず、それを無視した、日本政府、電力会社、かつ、事故が起きてからのクリントン長官からの援助申し出までも断ってきた日本政府の態度に怒りが吹き出したようです。

Q:福島第一原発の事故の経過をシドロモドロな状態で発表している保安院の職員がいましたが、どのような役所なのですか?

 A:枝野官房長官の発表とは別に記者会見していた役人がおりました。所属は保安院ですが何をする役所なのか、どこに所属しているのか、判らなかった方が多いと思います。

 官房長官は内閣のスポークスマンですから、内閣のメッセージを伝えるの役目で、要領よく伝えておりました。

 一方、保安院は、原子力安全・保安院が正式名称で、経済産業省に属する一機関で、原子力、その他のエネルギーに関わる安全及び産業保安の確保を図るための機関、資源エネルギー庁の特別の機関である。

 2001年1月6日、中央省庁再編の祭に新設され、平時の保安検査を主たる任務とする行政機関である。本院が経産省総合庁舎別館にあり、地方機関として、全国所要の地に産業保安監督部、原子力保安検査官事務所がある。

 定員 803名(本院443名、監督部等360名)

 その業務として

 * 原子力に係わる製錬、加工、貯蔵、再処理及び廃業の事業並びに発電用原子力施設に関する規制その他これらの事業及び施設に関する安全の確保に関すること。

 * エネルギーとしての利用に関する原子力の安全の確保に関すること。

 * 火薬類の取り締まり、高圧ガスの保安、鉱山における保安その他の所掌に係わる保安の確保にかんすること。

 * 所掌事務に係わる国際協力に関すること。

 * 前各号に掲げるもののほか、法律に基づき経産省に属される事務。

以上が本院の業務であり、経産省の1機関である。

 従って、保安、検査が主体で、NRCのような独立機関ではなく、事故に際しては直接の鎮圧等に対処する機関ではない。

 国民の大半は保安院の存在を知らなかった。その存在を知ったのは原発事故の経過発表を、保安院の職員がシドロモドロの発表で、オヤと思い、そして保安院とはなに、となり、原子力の監督官庁だと知り、事故を防がなかったばかりか、国民に知らせるべき情報を隠したのか操作したのか、誰のため、なんのため、存在価値そのものが問われている。

 今回の福島第一原発事故を受け、原子力利用を推進する経産省から原子力安全・保安院を分離出来るかどうか、推進と検査は別組織にすべき都県等をはじめ、内閣府への移管、或は災害時直接防止に務めることができる総務省消防庁との再編が検討されるだろう。

 この保安院の職員は原発に常駐しており、事故後は現場に残って本院、官邸等に状況を報告する義務があるのだろうけれど、さっさと福島県庁へ避難し、更に郡山市へ避難、自主避難なのか、上部からの指示なのか判りません。しかし、東電の職員「フクシマ・フィフティ」は現場で頑張ってやっているのに、何か片手落ちの気がします。

Q:日本政府は情報を隠しているのではないか、情報操作をしているのではないか、と外国メデアから大分たたかれたようですが、ホントに隠していたのですか?

 A:まさに通信衛星時代で、世界中に送られた凄まじい津波の映像に、テレビの前に釘付けになり、世界中に衝撃が走った。それに続いて原発の事故、監視衛星で水素爆発で破壊さた建屋の映像に、水蒸気爆発、原子炉の爆発と解釈してしまったから、東北地方・関東地方が壊滅するだろう判断したようです。

 だから在日外国人は我先にと国外へと避難していった。在日各国大使館、領事館は全力を挙げて東北・関東在住の自国民に電話で何度も避難を呼びかけた。

 これは最初アメリカ政府が、在日アメリカ人で福島原発から80km圏内に住むアメリカ人を対象に圏外避難を大使館を通して連絡しはじめたことから、他の在日大使館から自国民に対し一斉に避難支持をだしたのです。

 外国政府は25年前のチェルノブイリ原発事故の悲惨さが念頭にあり、当時のソ連政府は事故を公表せず、放射性物質だけが風に乗って忍びよってきた恐怖、最初に気付いたのは、遥か遠く離れたスエーデンの原発で、監視用のガイガァーカウンターの警報音が鳴り、メーターの指針は跳ね上がった。

 係員は当原子炉の事故かと驚いて調査したが、その兆候なし、そのうちヨーロッパ各地にある原発、研究所、大学等でもガイガァーの警報音、メーターの急上昇、大騒ぎのうちに各地の放射性物質の濃淡、上空の風の方向等を探り、爆発点はソ連国内だと特定したが、ソ連政府は沈黙、勿論マスコミや調査団の入国は認めない、調査、取材は出来ない、

 従って、西側で観測して推測することしか出来なかったので余計に恐怖が増した。

 その後遺症があるから原子炉爆発に関心が高まり、今度の福島第一原発は、東日本大震災で地震、大津波で世界中が注目していた中で続いて起きたために水素爆発の映像を世界中が初めて視たので、水蒸気爆発による原子炉本体の爆発と勘違いし、チリイブイリの爆発は1機でしたが、福島原発は3機稼動しており、1号建屋、3号建屋、爆発、2号建屋も煙が上がると続き、世界中がチェルノブイリより遥かに大きな重大事故、極端に言えばこの世の終わりを匂わせる報道まであった。

 従って、日本発信の報道は凄まじく悲惨なものになるだろう、思っていたが、保安院の発表は何故か日本人が聴いても意味不明なシドロモドロな応答、外国人記者には理解できない記者会見、枝野官房長官の政府発表も歯切れはよいが、経過だけの発表で奥行きがない、しかも手話通訳はあっても、同時通訳はない片手落ちの記者会見でした。

 もう一つ、保安院が外国人だけの記者会見をやっており、CNNでその中継を視た。

 保安院の西村審議官が担当しており、相当厳しい質問がありましたが、これまた歯切れの悪い応答に成らないような応答に終始、記者会見に臨んだ記者達は苛立っていたようだ。

 さらに現場に取材に行けないもどかしい思いが強かったのでしょう。記者会見の後で、1記者が曰く、本社からもっと掘り下げた記事を送れと矢の催促だが、発表が少なく、しかも経過だけの表面だけで、送る記事が少ないので、日本政府は何か重大情報を隠しているのではないか、と勘ぐるのは当然、事実その様な記事を送ったようだ。

 しかし、かつての大本営発表のような意識的に虚意の発表や情報操作をする、という事はゼロでは無いでしょうが、少なかったと思う。

 最初の政府発表ではレベル4相当としていましたから、スリーマイル島事故よりは低いくらいだとやや安心していましたが、次の発表はレベル5になり、さらにレベル7と引き上げらると発表されたときはチェルノブイリと同じ程度と知って仰天した。

 テレビで原子力の専門家が解説していたが、水で冷やしておけば大丈夫、我国の技術力を持ってすれば収束するのは近いと、していたが、レベル7に引き上げられてからは解説者が番組から消えてしまった。

 外国での報道では、東電、日本政府の責任追及の論調が多く、特にフランス・メデアは厳しく切り込んできた。東電のトラブル隠し、「怠慢と不透明な10年」、事故後の見通しの甘さ、日本には原子力の専門家はいない、とまで断じている。ドイツでは「死の恐怖東京」「東京に放射性の雲」と反原発を煽るような記事が続き、ロシア、中国、韓国等世界のメデアがこぞって報じたのは日本政府、東電の見通しの甘さ、後手に回る対応、反応の鈍さを指摘、またより正確な情報を得たいならアメリカ政府に取材した方が確実だ、との皮肉った報道もあった。

 日本政府の情報操作や情報隠しの真相はどの程度なのかは分からないが、国民の動揺、風評被害を怖れて過小評価したきらいはあったようだし、また、東電自体が情報を出し惜しんでいたようで、事故前でも資料改竄問題、隠蔽工作、告発の内部もみ消し等何度も問題視された前歴があり、当然事故後も情報操作をしているだろうと推測されても不思議ではない。外国メデアからは批判的な報道が数多くあったし、情報が少ないので推論で大袈裟な記事が報道されたのも事実だ。

 情報発信が少ないから、あるいは情報操作の結果、かえって日本に対する悪感情を増幅し、信用を失ってしまったことになる。

 全てのことに言えることは日本人は情報発信が苦手だ。隠したがるのは国民性か。

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第十五章 SPEEDI情報

 SPEEDIとは

 SPEEDI 緊急時迅速放射能影響予測ネットワーク
(System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information)

 文部科学省所管の財団法人・原子力安全技術センターが運用する、放射能の影響を予測するためのシステム。

 原子力発電所などの事故により大量の放射性物質が放出された場合、若しくは其の恐れがあるという緊急事態発生に対して、放出源の情報周辺の気象条件や地形データに基づき、周辺環境における放射性物質の大気中濃度や被曝線量のなど環境への影響を予測するシステム。

 SPEEDIINNET 環境防災Nネット

 SPEEDIには2つの役割がある。

1、原子力の緊急時において、国や関係道府県が防護対策の検討を進める際に、放射性物質による環境への影響予測情報を提供すること。

予測情報には、大気の風向、風速、大気中の放射性物質の濃度、移動方向、速度等、外部被曝による実効線量、吸入による甲状腺等価線量がある。

2、全国の原子力施設周辺の環境放射線監視と異常児の通報。

SPEEDIでは、全国の関係道府県が足底・監視している原子力施設周辺の環境放射線データを、常時オンラインで、10分毎に収集して、これらの環境放射線データが高い値を示した場合、自動的に原子力防災関係者(原子力規制委員会、原子力安全技術センター)の携帯電話に通報される。

道府県庁にはファックスで情報は詳細な図面が送られる。

 SPEEDIの開発・運用の経緯

 昭和54年3月に発生したアメリカ・スリーマイルアイランド原子力発電所事故を契機に、昭和55年に日本原子力研究所において、事故発生事業所周辺環境の放射性物質の分布状況と被曝線量などの予測のためSPEEDIシステムの設計を開始、昭和59年に基本システムが完成、同システムの開発においては計算モデルを検証するために、野外拡散実験、流跡線観測、風洞実験等の各種実験を繰り返し、予測精度の確認がなされた。

 昭和59年からネットワーク化のための調査が行われ、其の翌年から福島県、佐賀県などを対象とするSPEEDIネットワークシステムの維持・運用を開始した。

 平成2年に中央情報処理計算機が(公財)原子力安全技術センターに設置され、現在の運用形態になった。

 その後ネットワークはが拡張されて平成14年には19道府県となり、更に全国22ヵ所に整備されたオフサイトセンターとも接続された。

 その間、ハードウェアーの進歩にともない中央情報処理計算機、中継機1及び中継器2の更新が行われきた。

 平成17年1月には、気象予測の方法をはじめとして、予測精度の向上を図るために改良された計算モデルへの更新が行われた。

 AMeDAS

 アメダス(AMeDS)(Automated Meteorological Data Acquisition System)

 気象庁が管理する国内約1,300箇所の無人気象観測装置から電話回線でデータが時間毎に気象庁のコンピュータに送り込まれる。

 観測する気象要素は、降水量、気温、日照時間、風向、風速の4要素である。

 観測で得られたデータはISDN回線などを通じて気象庁内の地域気象観測センターへ10分毎に集信され、データの品質チェックを経た後全国に配信される。

 アメダスのデータは、気象庁HPで公開されるような地図、表形式の観測値として利用されるほかに、数値予報の入力データとして用いられる。

 浜通り地方にもアメダス装置は数多く設置されており、あの3月11日に電話回線に一部障害があったのが、他は健在で10分ごとに観測データを送り続けていた。

 SPEEDIは文部科学省所管の外郭団体である原子力安全技術センターが運営しており、中央情報処理計算機を中心として関係府省、関係道府県、日本気象協会、オフサイトセンター等とネットワークで結ばれており、関係道府県からの気象観測点データとモリタリングポストからの放射線データ、及び日本気象協会からのGPV(格子点資料)データを常時収集し緊急時に備えている。

 第一原発事故時には、11日夜には放出源情報を基に、風速、風向、放射性物質の大気中濃度、被曝線量等の予測計算を行い、これらの結果は、ネットワークを通じて文部科学省、経済産業省、原子力安全委員会、関係道府県に送られた。

 官邸には12日未明に届けられた。福島県庁にもファックスで情報は送られてきた。

 情報が無かった、と官邸も福島県庁も言い訳したが、情報はあった。しかも何度も何度もファックスで送られてきたことは事実だ。

 後日の調査によると、SPEEDI情報は福島県庁に届いていたことが判明。

 ◎福島県災害対策本部(福島県発表平成24年5月19日)

保安院からFaxにより3月13日10時37分受信、3月12日から3月13日までの試算結果を受信。

NUSTECから電子メールにより3月15日朝、3月15日8時の試算結果を受信。

 ◎国の見解(平成24年5月23日発表)

NUSTECから電子メールにより福島県庁へ3月12日23時54分に送信した。

NUSTECから電子メールにより3月11日23時49分、原子力センターへ送信。

 ◎見解の相違に関し調査の結果

県災害対策本部におけるSPEEDI情報の受信開始は3月12日23時54分であり、3月16日9時45分までに86通のSPEEDI情報を受信していたことが判明。

これは国の見解と一致した。

この間、受信した86通のSPEEDI情報のうち、USBメモリー、印刷物として保管されていたのは21通のみ、残りの65通に関しては電子メールデータの残存記録は消失していることが判明した。

 ◎SPEEDI情報を受信していながら全く活用出来なかった原因

 ・県災害対策本部におけるSPEEDI情報の取り扱い規定の不備

 ・県災害対策本部における組織対応の不備

 ・電子メール受信容量の制約

 ◎県の対応の問題点

 ・県災害対策本部事務局におけるSPEEDI情報の情報共有意識不足

 ・県災害対策本部事務局における県と国の見解の相違に係わる詳細調査の懈怠

 この結果として、SPEEDI情報は県災害対策本部で留まってしまい、肝心の被曝の恐れのある地域には伝わらず、福島県知事にも報告はなかたようで、県庁内の組織としても不備があったことを暴露してしまった。

 この点に関しては、政府内部でも大変な不備があることが判明した。

 3月12日未明、官邸にはSPEEDI情報は届いていた。後日、枝野官房長官が認めた。またSPEEDIの運用は文部科学省であり、内閣の一員である文部科学大臣は官邸に居たのだから文部科学省から連絡はいっていたはずだが、菅総理には伝わって居なかったみたいだ。

 SPEEDI情報はあったのだから報告は最高司令部である官邸に上がっているはずだが、聴き流してしまったのか、無視したのかはわからないが、内閣としては誰も気付いていなかったという異常事態が起きてしまった。

 情報は把握していた

 2011年3月11日、事故発生、11日夜以来原子力安全・保安院が、12日朝からは文部科学省が多数試算した。

 この試算では、第一原発のプラントデータを配信する緊急対策支援システム(ERSS)のデータが使用不能になっていたため、放射性物質放出量の条件について仮想事故データ等の仮定を入れて計算し、実際の風向きなどで20km〜100km四方程度の地域について一定時間後の各地の大気中濃度、地表蓄積量などをSPEEDIによって算出し、事故後5,000枚以上の試算表を作っていたらしい。

 当然3月14日の段階で日本政府機関はSPEEDIの詳細な予想図を把握していた。ところが何故か公表していない。

 国民生活とは遊離した集団、組織、指揮命令系統がはっきりしないと動こうとしないわが国独自の理論が存在したらしい。

 しかしこの貴重な情報は公表されることもなく、関係各県にさえも知らせていない。(非公式にはSPEEDIの情報が一部流されたらしい、受信側もなんだか判らず放置していた。福島県にもファックスで送られてきていた)

 福島県災害対策本部には確かにファックスを受信していた。では何故現地に情報を提供しなかったのか。

 何故なんだ、国の答えは「試算なので国民に無用な混乱を招くだけだと判断したからだ」と弁明していたが、このような弁明が通用するのか。被災者の存在など無視し、責任感は全くないお役人の回答だ。

 福島県庁は知事をはじめ県幹部はSPEEDI情報の存在すら識らなかったと弁明した。責任をどの程度感じているかは説明無し。

 情報が無いために汚染地域に留まっていたり、飯舘村のように汚染警戒区域にも指定されないままに長期間放置されてしまうような危機管理以前の醜態をさらけだしてしまった。

 この点に関して国会でも追及され、同年6月17日の参議院東日本大震災復興特別委員会で、議員の質問に対して、文部科学大臣はSPEEDIの情報を公表しなかった理由を「現地情報がなかったので計算できなかった」と答弁し、更に追求されると「計算していたことを知らなかった」と弁解を繰り返した。

 7月10日、参院予算委員会に参考人として招致された双葉町井戸川町長(当時)が原発事故直後にアメリカ政府が提供してくれた「汚染地図」とそれにともなう観測分析資料を政府が公表しなかった問題で「情報がスムースに出ていれば逃げる方向も変えていた。なんのための情報隠しなのか納得いかない」と声を震わせた。

 この井戸川町長が証言したアメリカ政府の「汚染マップ」についても申し述べたい。

◎SPEEDI情報以外にも汚染情報(汚染地図)があった。

 福島第一原発事故直後の2011年3月17〜19日、アメリカ・エネルギー省は放射線量測定の専門家を派遣、在日米軍横田基地を拠点にして、空中測定システム(AMS)を米軍機2機に搭載し第一原発から半径約45km内を計40時間以上飛行し、綿密な測定を行った。

 これにより地上の放射線量を電子地図に表示でき、この資料を基に作成された汚染マップは、在日米大使館を通じて外務省に電子メールで計2回送られた。

 外務省は担当省庁である経済産業省原子力安全・保安院と、線量測定の実務を担当する文部科学省に転送した。

 ところが文部科学省科学技術・学術政策局に入ったこの貴重なデータはこの局で埋没してしまう。即ち肝心の官邸、原子力委員会には報告されなかった。

 同じく経産省原子力安全・保安局に入った情報もこの局で握りつぶされた。まさか故意でやった訳ではないだろうが、ことの重要性を認識していない、あるいは出来ない担当幹部が放置してしまったのだろうと推測する。

 専門家でない官僚が定期的に人事異動を繰り返す官僚システムの弊害で、たまたまその役職にあった官僚にとって何をどうしていいのか全く解らないままに不作為こそ自己保身と判断したのか。

 その結果、浪江町や飯舘村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯舘村では避難対象にもなっていなかった。

 ところが不思議なことが起きた。浪江町赤宇木地区に避難していた人達の前に白装束の怪人が現れ、ここは危険だから早く逃げろと指示、風の様に去っていたらしい、所属も名前も何もなのらず去ってしまったが、役場の吏員でも県庁の職員でもないらしい、と噂していた。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 ともかく官邸にはSPEEDI所管の文部科学大臣、アメリカ政府から提供された「汚染マップ」とSPEEDIが計算した放射性物質拡散予想図の両方を受け取っていたはずの経産大臣と原子力安全・保安院長官、更には原子力委員長までが詰めているにも拘わらず、官邸には全く報告が上がってこない、そのことに疑問も持たなかったのか。省庁の長とは単にお飾りに過ぎなかったのだろうか。

 危機管理センターの存在意義を問う

 危機管理センターは何故これらの貴重な情報を把握できなかったのか、あるいは把握しようとしなかったのか。日頃シミュレーションを繰り返していれば必然事項として行動していたはずだが、残念ながら責務は果たしたとはいえない。

 また官邸もデータがないままに、3km圏、5km圏、10km圏、20km圏、30km圏と同心円状を描いて避難地区を決めたが、危機管理センターはこれらの決定には参加しない枠外の存在だったのか。

 汚染状況に応じて避難圏を決めるべきだが、資料に基づいて避難圏を決めるべきだと意見具申をした官僚も専門家もいなかったことになる。菅総理は裸の王様にすぎなかったのだろうか。

 官邸は危機管理センターやその他の専門機関を全く無視していたのか。

 このような重大事件にも拘わらず相互不信に陥っていたのだろうか。

 米軍からの資料は黙殺され、放置されその存在さえも明らかにしなかったが、1年3ヶ月後の6月18日、朝日新聞朝刊1面でスッパ抜かれた。

 アメリカ・エネルギー省提供の「放射能汚染地図」を、駐日米大使館を通じて外務省に送付し、これを受けた外務省は担当省庁である文部科学省と経済産業省に転送した。が、この貴重な資料が住民避難に生かされることなく、無視または放置されたいたことを1年3ヶ月後に朝日新聞によってスクープされた。慌てた経産省保安院の担当者が18日午後3時から記者会見を行い、言い訳か、弁解なのか、保安院・首席統括安全審査官の記者会見があった。

 審査官はアメリカ側から提供された「汚染地図」が計7枚あったことは認めた。が、しかし、その「汚染地図」がどう扱われたかは「記録にない」と繰り返すに留まった。

 アメリカ・エネルギー省の航空機モニタリングのデータが外務省を通じて3度にわたり保安院の国際室に電子メールが届いた。またデータが、保安院に設けられた緊急対応センターの「放射線班」に伝わったことも認めた。

 しかし、何故その貴重なデータが同センター内にある住民避難対策担当である「住民安全班」に渡らなかったのか、という肝心な点については「解らない」を繰り返すだけ、しかし、「汚染地図」は同センター内のホワイトボードにA2判に拡大されて掲示されていたとのこと、従って同じ室で作業する「住民安全班」の係官が目にしても不思議ではない。

 しかし、正式に受領しなければ全く関心を示さない、与えられた業務は懸命に取り組むが、テリトリーの範囲以外は無関心、まして外国のデータ等は無視が当然、同じ日、文部科学省も「情報は共有すべきだったかも知れないが、陸上でのモニタリングを収集することが文部科学省の担当」であることを強調、従って海外からの「汚染地図」の取り扱いについては担当官でなければ我関せず、海外からの情報を担当する担当官は存在しない、従って無視して当然との認識でしかない。

 「汚染地図」の取り扱いは保安院が担当するものとの認識を表明し、文部科学省にはなんら落ち度はないことを強調した。

 それならば文部科学省が担当しているSPEEDIによるデータがありながら公表しなかったのは何故か、正確でなかったから公表しなかった。と弁明しているが、危険が迫っている地域を認識していたはず、であればせめて現場責任のある福島県庁の担当者に連絡すべきだと考える。

 なんら情報がないまま汚染地域に避難してきた人々は被曝してしまった。ところがこの地区に避難していた人々のところに、突如白装束(防護衣服)が現れ、名をなのらず「ここは危険だから直ぐに避難して下さい」とだけ告げて風のように去って行った謎の1行がいたらしい。

 県や市町村の係員ではないとのこと、「汚染地図」を掌握していた人々の直接行動なのか、現在でもその正体は不明。

 では何故これほど混乱してしまったのか、原子力規制組織として経済産業省、原子力安全・保安院、独立行政法人・原子力安全基盤機構。内閣府、原子力安全委員会。文部科学省、放射線モニタリング部門、全てが縦割り行政。

 所属する省庁が異なる組織が原発事故という1つの災害に対処した場合、事前に綿密な打ち合わせと、組織全体を横断的に統括する本部及び司令官がいなければ、それぞれがバラバラに行動することになる。

 まさに今回悪しき例をさらけ出してしまった。

 経産省と文部科学省が同じ室内で作業していながら「汚染地図」を共有、活用することはなかった。

 しかし、縦割り行政の弊害が出たとの認識だが、縦割り行政の頂点は内閣だ。にもかかわらず、それらの貴重な情報が総司令官であるべき菅総理は情報が集まらないまま、現場に介入したり、東電本店に怒鳴り込んだりと動き回ったが、総司令官としての自覚があまりないのか総司令部を留守にして現場を電撃訪問、介入して混乱させるなど危機管理体制が全く整っていないことを自身の行動で露呈してしまった。

 第一原発事故で担当する保安院は事故直後に情報を集めきれず、あっても活用できず組織としてきちんと機能できなかった。

 また事故以前にも地震・津波・地盤等、過酷事故の警報を認識していながらも、電力会社への周知徹底を怠っており、更には検査の手抜きに手を貸したりと電力会社に擦り寄っていたことが次々と明らかになり原子力ムラの様相を呈した。

 SPEEDIを管轄する文部科学省もデータを掌握しながらも公表せず、公表の義務はない、落ち度はない、全て適切に行動した、と強弁を繰り返した。

 さすがに国としてはこの制度の欠陥を認め、経済産業省の原子力安全・保安局。内閣府の原子力安全委員会を廃止。いくつかの省庁にあった原子力安全に関する部局を廃止し、1つに統合することになった。

 有識者5人による「原子力規制委員会」と言う独立した組織を、9月発足をメドにして委員任命者を選考中。

 独立性の高い委員会として、技術的・専門的な事項の判断は委員会に委ね、その範囲外の判断は首相がする、ということになった。

 保安院が行ってきた業務等は、新たに環境省の組織の一部として「規制庁」を設置し、約1千人体制の官庁になるらしい。

 大飯原発は野田政権が仮の基準を作って安全を判断し、再稼働を認めたが、それに続く他の原発の再稼働は、新しく出来る「原子力規制委員会」が安全性を確かめて判断することになる。だが、どのような基準になるのかはこれからの問題だ。

◎アメリカの対応

 東日本大震災の被害救助でアメリカ軍は「友達作戦」として大規模な援助活動をした。

 アメリカ国内の活動として、福島第一原発事故発生後直ちにメリーランド州にあるNRCオペレーションセンターにそれぞれの専門家が集結し、情報を収集して約2ヶ月にわたり活動したとのこと、その間、窒素注入の必要性など適切なアドバイスを送り続けたが、「汚染地図」同様、司令塔不在のわが国では活用できなかったらしい。

 このNRC委員長であったグレゴリー・ヤツコ氏が2011年10月4日、アメリカ議会・公聴会で証人として登壇し、福島第一原発事故について証言した。

 それによると地震、津波は予想されていたことであり、その対策を全く執っていなかったのは怠慢であり無責任な体制によるもので起こるべきして起きた人災であると報告した。

 事故後の処理に関してのモタツキは司令塔の不在、国内法の不備、決断の遅さ、責任転嫁、組織の不備等々、猛烈な日本批判を証言した。

 これらは指摘の通りだから反論も出来ないが、事故直後即座に援助を申し出て、資材の提供などアメリカ側の好意ある行為を事故の規模を掌握出来ないままにことごとく断ってしまった日本政府と東電の傲慢な対応に相当立腹していたようだ。

 さらには専門家を本国から派遣して飛行機によって調査・測定して作成した汚染マップも日本政府が無視したことに対して猛烈に噛みついた。

 福島原発事故の対策に専念したが、その際アメリカ国内の原子力規制に関し、法規制の強化を謀ったり、アメリカ政府の日本に対する対応を強く迫ったり、新規原子炉の新設を30年ぶりに認可に関する委員会での対立、核廃棄物処分場建設計画を中止したり等の独断専行があったのか、約4千人の職員を統括・指揮するのは5人の委員会があり、そのトップを務めるのが大統領による任命である委員長であるが、其のヤツコ氏は退職後、浪江町を訪れ地震、津波、汚染の三点をつぶさに検証し、二本松市にある浪江町仮役場に馬場町長を訪ね会談した。

◎全く情報が無かった現地での対応は?

 12日15時36分 1号機原子炉建屋水素爆発、爆発で現場退避、怪我人の救助、搬送を実施、(東電3人、協力企業2人)ホウ酸水注入ポンプは爆発による飛散物により敷設したケーブルが損傷、高圧電源車は自動停止。準備していた海水注入のためのホースが損傷して使用不能、作業中断。

 その頃、大熊町では避難指令により全町民が行く宛てのない避難となったが、会津若松市に仮役場を設置した。

 双葉町は埼玉県大宮市に仮役場を移し、浪江町は同じ町内の津島地区に移動、原発からは約30km離れているからと安心していた。

 12日夕刻、この集落に1台のワゴン車が現れ中には見慣れぬ防護服とガスマスクを着用した二人がいて「ここは放射性物質が拡散している。危険だから直ぐ避難してくれ」と真剣な表情で訴えた。しかしその時は10km圏内だけが、2、3日だけ避難との通達だったので、30km以上離れている津島地区が危険だとは露程の疑いもなかったから仰天して直ぐに報告した。一方防護服の二人は浪江町幹部には何も伝えず福島市方面へ走り去ってしまった。

 更に12日18時、国から半円20km圏避難指令が出た。隣接する葛尾村では全村避難を決めて、防災無線で村民に避難を呼びかけているとの情報が伝えられ、避難している浪江町民の間で動揺が走った。

○14日午前11時1分、第一原発3号機の爆発で避難住民の不安は渦を巻いていた。続いて2号機4号機も小規模の爆発があり放射能は放出、拡散した。

 3月14日午後、断続的に災害対策本部会議が開かれ、再避難すべきかどうか討議が続いた。しかし外部からの放射能情報は全くなし、お隣の葛尾村は全村避難しており、津島地区も危険であることは本能的に悟っており、即刻の再避難を決議した。14、15日は雨と雪が降り、大気中に漂っていた放射性物質は地上に降り、そのまっただ中に避難していたことになる。

 だが、津島地区には何の情報も伝えられず、ただ一つの情報源は断片的なテレビ情報であり、それもニュースソースは政府発表だけだから、危機的な様相は全く伝えられなかった。

 さらに東電の下請けの人が線量計を持参してきて、この辺は高濃度汚染地区だから直ぐに再避難した方が良いと役場吏員に告げて立ち去った。

 断片的に入ってくる情報によると、相当に危険状態の区域なのだと自覚しだし、そのため14日午後から災害対策本部の会議が続き、再避難すべきかどうかを協議し「一刻も早く再避難すべし」の意見が飛び交った。

 しかし、放射線量に関する正式な情報は全くなし、それでも住民は再避難の必要性を訴え、災害対策本部を動かし、馬場町長に迫った。

 これはテレビによる断片的な情報があり、隣接する葛尾村の全村避難の情報を知れば自分達も当然危険に曝されていることを感じていた。

 14日夕刻にはヨウ素剤1箱が届けられ、配布したが服用するのは各自の判断に任せるとした。この頃になると避難している住民も不安が募り再避難を求めだした。

○3月15日午前6時、4号機爆発、2号機損傷

 馬場町長は必死で次の受け入れ先を探し、受け入れ要請・嘆願し、やっと二本松市の了承を得て、15日早朝5時30分、区長、住民代表を集め、二本松市へ再避難することを告げた。

 15日早朝から住民に二本松市へ再移動することを告げ、各自移動準備、午前10時、移動開始、一斉に二本松市向け移動開始、町のバスは老齢者を乗せ二本松市へ、その他、会津地方や県内外の親戚、知人を頼ってそれぞれの地へ散っていった。15日夕刻には二本松市役所東和支所に浪江町仮役場を開設した。

 14日の爆発時の風は津島地区方面に向かって吹いていた。このため避難指示半径20km圏は何の意味もなく、津島地区、隣村の葛尾村、更に奥地にある飯舘村、川俣町の一部が濃度の高い汚染地区になってしまった。

 14日の記録はない。これは役場には放射測定器を常備していたが、直ぐ還れるとの思い込みから持参してこなかった。3月15日午後、津島地区は濃い放射能霧に襲われ、雪と雨が降っていために、放射能は地表に落ち、高い放射能はこの地表に居座った。

 15日夜、文部科学省から派遣されたモリタリングカーが津島地区各地で測定したが、計器はなんと毎時270〜330マイクロシーベルトを指した。

 16日の津島地区の測定値毎時58.5マイクロシーベルトの放射線量が測定され、4月22日に計画的避難地区に設定された。

 再脱出した3月15日、午前10時に協議の上、二本松市へ移動することとし、昼頃悪天候の中、二本松市やその他の縁者へ向けて出発したが、その時既に上空には放射性霧が襲っており、雨や雪と共に地表に落ちてきていた。最悪の中での再脱出となったが、少しは救いになるのは放射性霧の来襲と再脱出が同時刻であったことで、もし1日でも先延ばしていれば被曝の怖れがあった。

 15日17時50分、最終脱出出発。この頃、後刻の調査では津島地区、赤宇木地区の汚染度は最高値を示している。

 局地的に高濃度の汚染地区が見付かった。7月26日時点での調査で赤宇木地区最大毎時26.3マイクロシーベルト、南津島地区最大毎時40.1マイクロシーベルト、避難の目安となる年間積算線量20ミリシーベルトを短期間で上回る線量が計測された。

 津島地区に避難していた浪江町民は14日、15日、16日の間、避難の目安となる年間積算量を大幅に上回る汚染地区に滞在していたことになってしまった。

 更には津島地区の住民は家業である家畜を捨ててまで避難するのをためらい、大半の住民は居残ってしまった。そのため役場吏員が残り説得することになった。

 放射性プルーム(放射性雲)という現象がある。気体状(ガラス状あるいは粒子状)の放射性物質が大気と共に煙のように流れる状態を放射性プルームという。

 放射性プルームには放射性希ガス、放射性ヨウ素、ウラン、プルトニウムなどが含まれ、外部被曝、内部被曝の原因になる。

 この放射性プルームが風に乗ってF1から浪江町方面に流れ、請戸川に沿った山に囲まれた低地を這うように流れたと推測される。

 放射性プルームが上空通過中、雨や雪が降るとこの粒子に結びついて地表面に降ってくることになる。15日朝から雨と雪が降っていたので地表面が汚染されてしまった。

 その結果、浪江町や飯舘村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯舘村では避難対象にもなっていなかった。

 '12年7月10日、参院予算員会で野田佳彦首相(当時)は、東電福島第一原発事故で被害を受けた福島県浪江町に、米国から提供を受けた放射線測定結果などを伝えなかったことに関して「関係機関の連携、情報共有が不十分であり、住民の命を守るために適切に情報を公開する姿勢が希薄であったことは大きな教訓であり、浪江町の皆様にご迷惑をお掛けしましたことをお詫びしたい」と陳謝した。

 この日(7/10日)参考人として出席していた浪江町議会吉田数博議長は「町民は無用の被曝をした人災そのものだ。無念さと同時に憤りを感じている」と証言。

 同時に招致されていた双葉町井戸川克髓ャ長も、声を詰まらせながら「情報があれば逃げる方向を変えていた。情報隠しは納得できない」と証言した。

 被曝の事実は証明できないが、内部被曝検査として警戒区域と緊急避難準備区域、計画避難区域、特定避難奨励区域住民で4才以上を対象に同年6月から開始、3才以下は行動を共にした保護者を対象に検査を行い、浪江町は2,618人が受けた。

 その後、甲状腺検査は10月から始まり、3月11日時点で18才以下だった全県民が対象として検査が行われることになった。

 これも結果論だが、国が定めた地図上にコンパスで円を描いて避難地区を決めた超原始的なやり方も全く意味をなさない愚行となった。

 情報は数々あった。アメリカからも航空機による直接の大気観測、衛星写真分析、無人偵察機による観測したデータを分析して日本政府に情報を提供した。

 日本側は受取っておきながら無視、放置しまったからアメリカ側は激怒した。

 其の責任者であったNRC長官グレゴリー・ヤツコ氏は後日、無人の浪江町を視察し、二本松市にある浪江町仮役場を訪れ、馬場町長と会談し、全く情報が無い中で逃げ惑った状況を説明、ヤツコ氏は涙を浮かべながら聞き入ったという。

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第十六章 その他の情報があった

○15時14分 政府・緊急災害対策本部設置

 東京・内幸町にある東電本社では、清水社長は関西へ、勝俣会長は中国へ出張中で不在、「電源が無ければ原子炉は冷やせない」判っていても幹部役員はどうすることも出来ない。

 官邸への報告は11日15時「1〜5号機が全交流電源喪失」「1〜2機注水不能」続いて東電より「原子炉の冷却ができなくとも、8時間までは問題がない」と報告、これは非常用バッテリーの使用可能時間、その間に冷却機能が復旧できると判断したらしい。

 しかし、8時間を過ぎた翌6時になっても官邸には連絡無し、官邸から東電へ連絡すると要領を得ない返答しかないことに怒った総理は、自ら陸上自衛隊のヘリを用意させ7時すぎには、福島第一原発へ到着している。

 非常災害対策本部のある免震重要棟の会議室で怒り爆発し、第一原発の吉田昌郎所長に官邸へ直接連絡するようにと、東電本社とは距離を置いた。

福島県は知事を中心として災害対策本部を設置

「国や東電からの連絡を待っていられない」と、11日20時50分には原発から半径2km(双葉町・大熊町)の住民に避難を呼びかけた。

○11日15時 東電は「原発の全交流電源喪失のため、原子力災害対策特別措置法第10条に基づき、1、2、3号機について特定事象発生の通報」

○11日16時30分 1、2号機のECCS(非常用炉心冷却装置)注水不能を報告

○11日16時 2号機について第15条通報

原発を有する国外の専門家は最大の関心を持って衛星写真を解析しており、この時点で絶望的状態に陥っていると分析して、炉心が溶け落ちるメルトダウン(炉心溶融)に至ることを懸念しいたようで、各国のメディアも探知して新聞にもその懸念を論じていた。

○11日20時50分 福島県知事が原発半径2km圏内の住民避難を指示

○11日21時23分 菅首相、福島県知事を通じて、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町各町長に住民への避難指示を通達。

其の内容「1号機から半径3km圏以内の住民は避難、半径10km圏内の住民は屋内待避。現地の対策本部長から新たな指示が出された場合は、その指示に従うことを区域内居住者周知されたい」(電話が不通、指示は不徹底、爾後の行動は町長独自の判断による)

○12日0時6分 格納容器内部の圧力が上限の1.5倍に上昇を確認、ベント開放を指示、準備。ただし、ベント実施は、首相、経済産業大臣、原子力安全・保安院に申し入れ、了解を得なければならない。付近住民の避難完了後が条件。

大熊町の一部住民が避難していない情報があり、避難完了後を確認してからとする。ベント弁開放は放射性物質の放出が懸念されるからだ。

○12日00時30分 対象住民の避難措置完了と報告される。

○12日 電源が動かないのではなく、完全に流失して存在しない、あるいは水没してしまったことが海外では監視衛星の映像で掌握しており、その点に触れようとしない政府発表は何かを隠蔽しているとして全く信用しなくなっていた。

○12日08時頃 1号機燃料の大部分が圧力容器の底に溶け落ちた。

○12日10時17分 ベント開け作業開始。空気圧縮機の空気不十分で作業難航

○12日05時44分 菅総理から福島県知事に富岡町、大熊町、双葉町、浪江町各町長に対して避難指示

其の内容「半径10km圏内の住民は圏外へ避難」該当住民約5万1,000人。

この指示により早朝より防災無線が全町民避難を呼びかけ、富岡町では川内村への避難を指示、避難指示の内容は「東京電力技術者による福島第一原発の原子炉停止に伴う問題発生の報告を受けたので、その予防措置」と伝えられた。

大地震に続く大津波、余りにも甚大な被害に呆然としていた翌早朝防災無線を通じて突然耳を疑うような内容の放送があった。

各町は町長の指令により避難開始、但し詳しい情報は誰も知らず、闇雲に第一原発より離れることだけで、山の方へ向かって避難を開始した。

其の危機の重大性には、町としても掌握しておらず、まして町民は誰しもが2、3日で戻れるとの認識で貴重品や生活必需品等を家においたまま出発してしまった。全町民が一斉に避難するなど前代未聞の事象に当然ながら一度の訓練も無く、シミュレーションも無かったのに、町長をはじめとする全職員が一丸となって奮闘し避難任務を遂行できたことは見事というほかない。

○12日5時46分 消火系配管から淡水を備え付けの消防車で注水、9時間で約80トンを注入、14時56分に海水注入に切替える。

○12日 地上波テレビ17時のニュースで最初の映像が流れる。

○12日15時36分 1号機原子炉建屋水素爆発、爆発で現場退避、怪我人の救助、搬送を実施、(東電3人、協力企業2人)ホウ酸水注入ポンプは爆発による飛散物により敷設したケーブルが損傷、高圧電 源車は自動停止。準備していた海水注入のためのホースが損傷して使用不能、作業中断。

○12日16時 放射線量500μSv/h(マイクロシーベルト)を超えたことで、原子力災害対策特別措置法15条通報

○12日18時 首相から県知事を通じて、富岡、大熊、双葉、浪江の各町長に避難指示、其の内容「半径20kmは避難」。

従って新にいわき市の一部(久ノ浜)、広野町、楢葉町、川内村、葛尾村、南相馬市が対象となり、既に10km圏で避難していた町民も更に避難地をさらに遠く換えなければならなかった。

川内村に避難していた富岡町民は三春町を目指して避難、更に郡山市へ、川内村の村民も同行することになった。該当住民総計は約17万7,500人

○12日20時 1号機に消火系ラインを通じて海水の注入を開始

○13日05時 3号機にECCS注水不能状態で15条通報

○13日08時 3号機 燃料露出始まる。

放射線量500μSv/hを越えたため15条通報

○13日08時41分 3号機ベント開始、以降複数回実施

○13日09時08分 3号機原子炉減圧

○13日10時頃 3号機炉心損傷始まり、水素発生

○13日09時 3号機にベント開放処置中の空気を放出

○13日13時 3号機に対して海水注入開始(防火水槽の淡水は枯渇)

○14日11時01分 3号機で爆発、建屋が吹き飛ぶ、現場避難

爆発により消防車及びホース破損、使用不可能になる。

○14日 応援の消防車が付近まで到着したが、悪路と瓦礫で現場付近に近づけない。

○14日13時18分 原子炉水位の低下傾向を確認、格納容器ベントの後に海水注入を決定

○14日16時頃 圧力抑制室に蒸気を逃す「逃がし安全弁」による原子炉の減圧を優先。

○14日18時頃 原子炉の減圧を開始

○14日18時22分 2号機の原子炉水位がマイナス3,700mmに達して燃料棒が全露出

○14日20時22分 炉心が溶融する可能性

○14日22時22分 原子炉格納容器損傷の可能性

☆14日夜 この頃、非公式だが東電本社から官邸へ「福島第一原発から社員を撤退させたい」との意向があると伝わり、総理は「東電は電力会社としての役割を放棄するのか、社長を呼べ」と声をあらげた。

○15日05時30分 首相自から東電・内幸町本社に乗り込み、会議室に居並ぶ東電幹部を前に「撤退などありえない、覚悟を決めて下さい。撤退を決めたら東電は100%潰れます」政府と東電を統合した事故対策本部を東電本社に設置することを決めた。その頃2号機では白煙が発生し、圧力抑制室に損傷の疑いが出始めた。

この頃になると、事故発生時現場で働いていた地元下請会社の作業員が避難者に加わり、非常電源装置が全て流失してしまっていることを目撃していたため、この情報が瞬く間に避難者の間で広がり不安が増幅していった。

○15日06時 4号機爆発音がして壁に穴が空く。3号機から発煙

2号機圧力抑制プール付近で爆発音して内圧低下。

○15日07時 4号機建屋が変形・破壊される。

○15日08時30分 2号建屋から白煙

○15日09時30分 4号機で火災確認、消防隊に通報

○15日10時 4号機の火災について、経産省より米軍に応援要請

○15日 原発敷地内の正門〜西門前に設置された放射能測定装置、急上昇

○15日11時 菅首相が「20〜30km圏内の住民は屋内避難」を指示

空は半径30kmの上空は飛行禁止

屋内避難とは、避難する行き先がない、避難の手段がない、弱者だけが取り残される結果となる。

○15日 防衛省、北沢防衛大臣と陸自幹部、東電幹部の会談が行われ、ヘリによる放水作戦の是非が話し合われた。

燃料プールが空の所へ水をかけたら水蒸気爆発がおきないか、しかし早急に水を入れないと溶解を起こすことは必定、決行を決める。

◯16日16時 水嚢をぶら下げたヘリ2機が原発上空に達したが、予想以上の強い放射線に阻まれ、その日は断念し撤退

○17日08時 作戦を練り直し、3号機上空の対空時間は4分内と決め2機のヘリが9時48分開始、計約30トンを投下した。

○17日19時 警視庁第一機動隊、デモ鎮圧用の高圧放水車が地上放水の先陣をきって、3号機に約10分間で44トンを放水。陸上自衛隊の消防車5台参加。

○18日 東京消防庁消防救助部隊(ハイパーレスキュー)が、3号機への放水計13時間30分にわたり2,400トン以上の海水をかけた。

その後、航空自衛隊航空基地配属の大型消防車、横浜消防局、川崎消防局等の応援が続いた。

情報は把握していた

 2011年3月11日、事故発生、11日夜以来、原子力安全・保安院が、12日朝からは文部科学省が多数試算した。

 21時12分:SPEEDIによる第1回目の予測図を作成(保安院)

 23時49分、福島県原子力センター、SPEEDIによる予測図をファクス受信

 12日01時12分:SPEEDIによる2回目の予測図を作成(保安院)

 この試算では、第一原発のプラントデータを配信する緊急対策支援システム(ERSS)のデータが使用不能になっていたため、放射性物質放出量の条件について仮想事故データ等の仮定を入れて計算し、実際の風向きなどで20km〜100km四方程度の地域について一定時間後の各地の大気中濃度、地表蓄積量などをSPEEDIによって算出し、事故後5,000枚以上の試算表を作っていたらしい。

 風向・風速は、気象庁にアメダス(AMeDAS)という無人観測施設である「地域気象観測システム」があり、全国に約1,300カ所に設置されており、観測データは10分の毎にISDN回線等を通じて気象庁内の地域気象観測センターで集信され、気象予報の観測データとして活用される。

 このAMeDASとSPEEDIは連動しており、爆発時の風向・風速は観測しているのだから、北西方向に流れたことも観測しているはず。従って事故後の試算表を見れば一目瞭然であるはずの試算表がどこかのセクションで埋没してしまった。

 当然3月14日の段階で日本政府機関はSPEEDIの詳細な予想図を把握していた。ところが何故か公表していない。

 国民の安全とは遊離した集団、組織、指揮命令系統がはっきりしないと動こうとしないわが国独自の理論が存在したらしい。

 官庁間に蔓延する「上がらない」「回らない」「判らない」そのままに、最重要であるはずの情報が官邸には届いていなかったか、届いても理解できなかったのか。文部科学省と保安院がSPEEDIによる最新情報を掌握していた。従ってその省庁のトップである大臣に報告するのが当然と思うが、その担当大臣がいる官邸には届いていなかったのはどうゆうことなのか理解に苦しむ。

 だからこそ官邸では地図上にコンパスで半円を描き、3km、5km、10km、20km圏と小刻みに避難地域を広げ行った超原始的な方法しか採れなかった。

 この貴重な情報は共有されることも公表されることもなく、関係各県にさえも知らせていない。(非公式にはSPEEDIの情報が一部流されたらしい、受信側もなんだか判らず放置していた。福島県庁にもファックスで受診していたことが後刻判明)

 何故なんだ、その答えは「試算なので国民に無用な混乱を招くだけだと判断したからだ」弁明していたが、国民どころか官邸にも報せないのは理解できない。

 このような弁明が通用する不思議さ。被災者の存在など無視し、責任感は全くないお役人の回答はこれだ。

 情報が無いために浪江町の津島地区の汚染地域に留まっていたり、飯舘村のように汚染警戒区域にも指定されないままに長期間放置されてしまうような危機管理以前の醜態をさらけだしてしまった。

 この点に関して国会でも追及され、同年6月17日の参議院東日本大震災復興特別委員会で、議員の質問に対して文部科学大臣はSPEEDIの情報を何故公表しなかった理由を「現地情報がなかったので計算できなかった」と答弁し、更に追求されると「計算していたことを知らなかった」と答弁、遂には「一般には公表できない内容だった」と無責任な答弁を繰り返した。

 7月10日、参院予算委員会に参考人として招致された双葉町井戸川町長(当時)が原発事故直後にアメリカ政府が提供してくれた「汚染地図」それにともなう観測分析資料を政府は公表しなかった問題で「情報がスムースに出ていれば逃げる方向も変えていた。なんのための情報隠しなのか納得いかない」と声を震わせた。

国外の動き

 第一原発 事故発生の翌日から、グァム島のアンダーセン基地から無人偵察機グローバルホークが飛来、それも連日福島原発上空に飛来し、正確な事故状況を把握していたらしい。

 この偵察機の凄さは軍事機密だが、少し公開すると高度1万8千メートルを飛行しながら電子光学・赤外線カメラ、雲を透視する合成開口レーダーを搭載し、猛烈な速度で飛行、滞空時間30時間で自動操縦、リアルタイムの映像を地上に送り、その解析能力は地上30cm四方を識別する写真撮影が可能、多分もっと細かい物を識別する能力があるらしいがそれ以上は軍事機密。最大航続距離は2万5千km。

 第一原発の建屋が爆発した時点で、アメリカ側は高性能な軍事衛星写真を、また無人偵察機を飛ばして鮮明な映像により「4号機の使用済み核燃料プールが空になっている、早く注水しないと大変だ」との状況を把握していた。

 しかし、東電は状況を把握しておらず、従って政府も対応が出来ず、アメリカ側を苛立たせる結果になってしまった。

 我が国としての空撮による情報は全くなく、3月24日になって新潟県妙高市にある「Air Photo Service社」という民間会社所有の写真撮影用のリモコン操縦機を急遽借り受け、やっと上空からの写真を撮影できた。

 まさに日米の力の差、情報量・質の差、体制の差に愕然とした。

 当初アメリカ政府は事故対策に全面的に支援することを申し出ていたが、現況の情報を把握できていない外務省、官邸は日本国内の問題だから国内で解決できると自信を持っていたし、東電も外部の介入を嫌ったみたいだ。

 またフランス政府からも申し出があり、サルコジ大統領、原子力大手のアレバ社の最高責任者(CEO)アンヌ・ロベルジョン氏が来日、海江田経産相に「私達を大臣の従業員として使ってほしい」と提案している。初動のモタツキが悔やまれる。

 世界一の原発を持つアメリカ、第二位のフランスとしては、日本での原発事故を何とか収束させ、原発反対運動の拡大を食止めたいとの思惑もあった。

 ルース駐日米大使が動くことによって、原子力安全・保安院、東電、米原子力規制委員会(NRC)が会合して、21日になって「福島第一原発事故の対応に関する日米協議」が、やっと発足、大統領の権限が絶対的な上意下達の社会と、ボットムアップ、根気よく根回しをする習慣、先送りの習慣、文化の違い、緊急を要する、同時進行型の難事に対処するには、なかなか決まらない日本側のお家事情が、醜態をさらけ出すだけだった。

 福島第一原発事故直後の2011年3月17〜19日、アメリカ・エネルギー省は放射線量測定の専門家を派遣、在日米軍横田基地を拠点にして、空中測定システム(AMS)を米軍機2機に搭載し第一原発から半径約45km内を計40時間以上飛行し、綿密な測定を行った。

 これにより地上の放射線量を電子地図に表示でき、この資料を基に作成された汚染マップは、在日米大使館を通じて外務省に電子メールで計2回送られた。

 外務省は担当省庁である経済産業省原子力安全・保安院と、線量測定の実務を担当する文部科学省に転送した。ところが文部科学省科学技術・学術政策局に入ったこの貴重なデータはこの局で埋没してしまう。即ち肝心の官邸、原子力委員会には報告されなかった。

 同じく経産省原子力安全・保安局に入った情報もこの局で握りつぶされた。

 まさか故意でやった訳ではないだろうが、ことの重要性を認識していない、あるいは出来ない担当幹部が放置してしまったのだろうと推測する。

 専門家でない官僚が定期的に人事異動を繰り返す官僚システムの弊害で、たまたまその役職にあった官僚にとって何をどうしていいのか全く解らないままに不作為こそ自己保身と判断したのか。

 その結果、浪江町や飯村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯村では避難対象にもなっていなかった。

 ところが不思議なことが起きた。浪江町赤宇木地区に避難していた人達の前に白装束の怪人が現れ、ここは危険だから早く逃げろと指示、風の様に去っていたらしい、所属も名前も名のらず風のように去ってしまったが、役場の吏員でも県庁の職員でもないらしい、と噂していた。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 ともかく官邸にはSPEEDI所管の文部科学大臣、アメリカ政府から提供された「汚染マップ」とSPEEDIが計算した放射性物質拡散予想図の両方を受け取っていたはずの経産大臣と原子力安全・保安院長官、更には原子力委員長までが詰めているにも拘わらず、官邸には全く報告が上がってこない、そのことに疑問も持たなかったのか。省庁の長が自省ではどのような業務を負っているのかさえ知らなかったことになる。

 さらに新装なった官邸の地階には、官邸危機管理センターがあり、常時24時間態勢(5班20人)、重大事故、災害、テロ等に対応するものだが、業務の一つに原子力災害対策特別措置法第16号1項があり、当然福島第一原発事故でもその対策本部を設置したはずだが、どのような対策をしたのかは判らないが、SPEEDI情報を入手しようとした形跡はない。あれば当然同じ官邸の上階に報告しているはずだ。

 アメリカ政府の申し出たアメリカ・クリントン長官の支援申し出を日本政府が断った。という記事の最初は読売新聞だったが、事故後の朝日新聞の記事から引用する。

 1981〜82年にかけて、アメリカにあるオークリッジ国立研究所がアメリカ原子力規制委員会の依頼を受けて大がかりな実験、実証のシミュレーションを1981〜82年に繰り返し行い、その報告書を同委員会(NRC)に提出した。

 この研究報告書は、原発の全ての電源が失われた場合のシミュレーションを実施して得た事実を報告したものです。

 このシミュレーションに使われたモデルは「GE社製マークI炉」で、それは福島第一原発の1〜5号機もGE社製を輸入したもので全く同じタイプ原子炉でした。

 その報告書によると、全電源が喪失して非常用バッテリーが4時間使用可能な場合、「5時間で核燃料露出」「5時間で水素発生」「6時間後に燃料溶解」「7時間後に圧力容器下部が損傷」というのが、主な経過だが、まさに福島第一原発の事故の経過はシミュレーション通りとなった訳だ。

 この報告書を受けたNRCは直ちに安全規制に取り入れ活用した。

 では、東電としてはこのような報告書があることを知らなかったのか、福島原発の1号機の建設は1971年、GE社が設計、機材から据え付け工事まで全て請け負う「フル・ターン・キー」契約だから、その後の責任もある。

 この報告書が提出されたのが1982年なので、GE側から報告はあり、NRCからも連絡があったようで、その事実があるからこそ、つい最近の10月4日アメリカ議会における福島第一原発に関する公聴会での証言台に立ったグレゴリー・ヤツコNRC委員長が日本政府の怠慢さを徹底的にこきおろした証言をおこなったのも、報告書を生かそうともせず、放置してしまった日本側に我慢できなかったのだろう。

 では何故、日本側は活用しなかったのか、そもそも全電源が喪失するような状況は起こることはない、起こり得ないから想定する必要はない、だから対策は必要ない、の危険極まりない三段論法が通用してしまった。

 しかし、現実に原発事故は起きて、NRC報告にあることが起きてしまった。それでも東電は大丈夫だと信じて、アメリカやフランスからの援助を断ったのは、東電側はバッテリーの稼動が約8時間、その間に外部電源は回復できる。と信じていたようで、これまた安全神話の神頼みに終始した。

 しかも会長、社長、副社長(原子力担当)が出張中で、東電の司令塔は不在、残された幹部はマニュアルはなし、責任は負いたくないとオロオロするばかり、官邸はこれまた東電からの報告を受けても、それを消化、判断できる人材不足、日本人全体の危機管理に対する感覚が問われる大問題に進展した。

 事故直後、クリントン長官の連絡は「直ぐに水(ホウ酸水)をアメリカから空輸する」と、これはアメリカの軍事衛星で福島第一原発の事故の模様をつぶさに監視していた国防省から長官に連絡がいき、長官から日本政府へ申し出たようだ。

 軍事監視衛星の解析能力は地上30cm以下の物体まで判る能力を持っているから、事故の内容は正確に把握し、冷却装置壊滅、全電源喪失を解析した筈で、だからこそ水の注入が最優先、それ以外に方法はないと判断して即座に申し出たのだが、日本政府では事故後は詳細報告なし、原発事故は想定外で官邸の危機管理室も機能しない。

 全電源喪失など想定外だからマニュアルなし、従ってアメリカの申し出である水を空輸する事の意味が理解出来ないまま断ってしまったようだ。

 その後の過程を見れば解る通り水を注入する以外に方法はなかった。

 さらに日本側としてはアメリカ、フランスの援助を受け入れれば、復旧の指導権を奪われてしまう。原子炉施設を外国に売り込もうとしている時期に外国の技術を借りなければ復旧できない。技術の未熟さを公表することになる。だから日本側だけで対処する。とするのが政府、東電の了解事項だったようで、援助を断ってしまった。

 時間経過と共に原子炉融解、水素爆発となって、アメリカ、フランスに助けを求めざるを得なかったし、後にクリントン国務長官、フランス・サルコジ大統領、アリバ社総裁アンヌ・ロベルジョン氏の相次ぐ来日、わざわざお見舞いに来たわけではない。日本だけに任せていたら世界が大変だとの認識からで、もしこれ以上モタツいて収束が遅れれば原発反対の運動が激化してしまうと、原発先進国であるフランス、アメリカでは政権維持さえ困難になると判断しての行動だ。

 事実ドイツとスイスは原発全廃を議決した。その波が自国に及ぶのをなんとか防ぎたい、それには一刻も早く原発事故を収束しなければならない、日本だけでは無理と判断してやって来たわけで、日本に対する好意だけでやって来たわけではない。

 クリントン国長官は「日本の技術的水準は高いが、冷却剤は不足しているはず」だから空軍機を使って急送したと声明を発表したが、後で国務省高官が、日本政府が断ってきたので送らなかった、と発表した。

 新聞には「水を送ると、アメリカ政府の申し出」と記事にあったが、冷却剤の意味は、ホウ酸(ホウ酸水、通常‘ボリン’と呼んでいる)ホウ酸水は核分裂反応を抑制する、いわゆる第二の制御棒に成りうるもので注水系に使用しているのだから、水といったのはホウ酸水のことになる。またホウ酸水を注入しても廃炉にしなければならないほど炉内を傷付けることは決してあり得ないこと、廃炉を心配して断った。というのは何処かで挿入された言い訳でしかない。

アメリカ大使館の動き

 この前段階において、このルース大使が枝野官房長官に「アメリカの専門家を官邸に常駐させて欲しい」と要請したことがあったらしい。ところが枝野氏はとんでもない国家主権をないがしろにするものだと解釈し拒絶したとのこと。

 独立国家の面目としては当然かも知れないが、一方アメリカ側から視れば、世界をゆすがす大事故が起きている、若しかしたら日本は壊滅的な大打撃を被るかもしれない瀬戸際にありながら、誰がどう対処しようとしているのか、さっぱり判らない。二号機はもう爆発寸前の危険状態陥っている。東電は撤退を検討中という情報もあり、極限状態に陥入っていたから、アメリカ政府は「国家崩壊」の最終シナリオを読んでいたのかも知れない。

 だからこそ同盟国としてなんとか阻止したい。援助したいとの思いが強く、それには官邸中枢に専門家を常駐させ情報を得たかったのだろうし、アドバイスしたかったのだろう。このことはルース大使の思惑ばかりではなく本国政府からの要請だったようだ。

 日米同盟の根幹を揺るがす大問題で、同盟とは何ぞやと問われる緊張した瞬間だったらしい。そのくらい官邸の指導力は危うく見えたのだろうか。

 結果的には、原子力発電は絶対に事故は起きない、という安全神話を掲げ、信じてきた政府、電力各社、安全なのだから事故対策・準備は必要ないとばかり、何の準備も機材もなかったが故に、官邸中枢にアメリカ政府の専門家を常駐させることはなかったが、全面的にアメリカ、フランスの援助に縋るほか方策はなく、哀願にちかいお願いとならざるを得なかった。

 マサチューセッツ工科大学(MIT)原子力安全専門家であるジム・ウォルシュ博士が、アメリカ側が入手解析した写真を見て、スリーマイル島より遙かに酷い、チュリノブイリに近いと判断、即座に福島第一原発より半径50マイル(約80km)圏内に居住するアメリカ人の即時避難を勧告した。それを訊いた諸外国の在日大使館・領事館も100km圏内居住の自国民に圏外への避難を勧告、若しくは本国へ帰れと電話で命令に近い勧告を繰り返し、帰国ラッシュとなった。

 また、母国の家族からも帰ってこいと繰り返し電話があったらしく、東北地方、関東地方ばかりではなく西日本に住む外国人も帰国したらしい。

 これは世界各国で連日放送されていた東日本大震災関連映像が、編集者もよく内容を把握できなかったらしく、原発事故と原子爆弾の区別もつかず、第二のヒロシマになってしまったと報じたり、市原のコンビナート火災の映像を第一原発の大爆発と報じたのだから心配するのも当然で「直ぐに還ってこい」と言うのも無理もない心情だろう。

危機管理センターの存在

 阪神淡路大震災時、情報が内閣に挙がって来るのが遅れ、救助活動の発令が大幅に遅れてしまったことを反省し、新しい官邸の地下1階にオペレーションルームを設け、ここを首相官邸危機管理センターとした(但し、組織名ではない)

 ここを主に運用しているのは内閣情報調査室集約センターで、24時間体制(5班20人)で重大事故、災害、テロ等に備え警察庁、警視庁、消防庁、海上保安庁など危機管理に関係する省庁とホットラインで結ばれている。

 管理しているのは「内閣危機管理監」(官ではなく『監』)歴代の内閣危機管理監は大物警察官僚OBが就任している。(警視総監経験者)

 有事の場合は総合幕僚長、各自衛隊(陸海空)幕僚長が参謀として入る。

 設備は素晴らしい機器が設置されているのだろうけども今回もまた司令部としての働きはしていない。

 但し、首相とその側近は上階の首相執務室で指揮を執っていたらしく、危機管理センターを活用したのかどうかは判らない。

 まさか承知の上で「黙ンまり」を決め込んだとは思えないが、これらの貴重な資料がある点で握りつぶされてしまったのは事実らしい。もしこの危機管理センターが完全に機能していたら、SPEEDIの存在も承知しているはずだから情報が上がってこないことに不審を感じなかったのか、ホットラインで繋がっていながら各省庁に問い合わせもしなかったのか。

 内閣危機管理センターは存在していたが、安全神話を信じてシミュレーションを怠っていたのだろうか。

 かつての参謀本部は進撃の作戦は華々しく遂行したが、撤退作戦は想定外でシミュレーションの発想もなかったらしい。不都合な情報は佐官クラスの参謀が握り潰してしまい、肝心の参謀総長をはじめとする参謀中枢には届いていなかったというが、戦後60数年を経てもその悪弊は残っているらしい。

 福島第一原発事故直後の2011年3月17〜19日、アメリカ・エネルギー省は放射線量測定の専門家を派遣、在日米軍横田基地を拠点にして、空中測定システム(AMS)を米軍機2機に搭載し第一原発から半径約45km内を計40時間以上飛行し、綿密な測定を行った。

 これにより地上の放射線量を電子地図に表示でき、この資料を基に作成された汚染地図は、在日米大使館を通じて外務省に電子メールで計2回送られた。

 外務省は担当省庁である経済産業省原子力安全・保安院と、線量測定の実務を担当する文部科学省に転送した。

 ところが文部科学省科学技術・学術政策局に入ったこの貴重なデータはこの局で埋没してしまう。即ち肝心な官邸、原子力委員会には報告されなかった。同じく経産省原子力安全・保安局に入った情報もこの局で握りつぶされた。

 まさか故意でやった訳ではないだろうが、ことの重要性を認識していない、あるいは出来ない担当幹部が放置してしまったのだろうか。

 専門家でない官僚が定期的に人事異動を繰り返す官僚システムの弊害で、たまたまその役職にあった官僚にとって何をどうしていいのか全く解らないままに不作為こそ自己保身と判断したのか。

 その結果、浪江町や飯村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯村では避難対象にもなっていなかった。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 危機管理センターは何故これらの貴重な情報を把握できなかったのか、あるいは把握しようとしなかったのか。日頃シミュレーションを繰り返していれば必須事項として行動していたはずだが、残念ながら責務は果たしたとはいえない。また官邸もデータがないままに、3km圏、5km圏、10km圏、20km圏、30km圏と同心円状を描いて避難地区を決めたが、同じ官邸の中にありながら危機管理センターはこれらの決定には参加しない枠外の存在だったのか。

 汚染状況に応じて避難圏を決めるべきだが、資料に基づいて避難圏を決めるべきだと意見具申をした官僚も専門家もいなかったことになる。菅総理は裸の王様にすぎなかったのだろうか。

 官邸は危機管理センターやその他の専門機関を全く無視していたのか。

 このような重大事件にも拘わらず相互不信に陥っていたのだろうか。

 米軍からの資料は黙殺され、放置されその存在さえも明らかにしなかったが、1年3ヶ月後の翌年6月18日、朝日新聞朝刊1面でスッパ抜かれた。

 アメリカ・エネルギー省提供の「放射能汚染地図」を、駐日米大使館を通じて外務省に送付し、これを受けた外務省は担当省庁である文部科学省と経済産業省に転送したが、この貴重な資料が住民避難に生かされることなく、無視または放置されたいたことを1年3ヶ月後に朝日新聞によってスクープされた。慌てた経産省保安院の担当者が18日午後3時から記者会見を行い、言い訳か、弁解なのか、保安院・首席統括安全審査官の記者会見があった。

 審査官はアメリカ側から提供された「汚染地図」が計7枚あったことは認めた。が、しかし、その「汚染地図」がどう扱われたかは「記録にない」と繰り返すに留まった。

 アメリカ・エネルギー省の航空機モニタリングのデータが外務省を通じて3度にわたり保安院の国際室に電子メールが届いた。またデータが、保安院に設けられた緊急対応センターの「放射線班」に伝わったことも認めた。

 しかし、何故その貴重なデータが同センター内にある住民避難対策担当である「住民安全班」に渡らなかったのか、という肝心な点については「解らない」を繰り返すだけ、しかし、「汚染地図」は同センター内のホワイトボードにA2判に拡大されて掲示されていたとのこと、従って同じ室で作業する「住民安全班」の係官が目にしても不思議ではない。

 しかし、正式に受領しなければ全く関心を示さない、与えられた業務は懸命に取り組むが、テリトリーの範囲以外は無関心、まして外国のデータ等は無視が当然、同じ日、文部科学省も「情報は共有すべきだったかも知れないが、陸上でのモニタリングを収集することが文部科学省の担当」であることを強調、従って海外からの「汚染地図」の取り扱いについては担当者である認識はない。

 「汚染地図」の取り扱いは保安院が担当するものとの認識を表明し、文部科学省にはなんら落ち度はないことを強調した。

 それならば文部科学省が担当しているSPEEDIによるデータがありながら公表しなかったのは何故か、正確でなかったから公表しなかった。と弁明しているが、危険が迫っている地域を認識していたはず、であればせめて現場責任のある福島県庁の担当者に連絡すべきだと考える。

 なんら情報がないまま汚染地域に避難してきた人々は被曝してしまった。ところがこの地区に避難していた人々のところに、突如白装束(防護衣服)が現れ、名をなのらず「ここは危険だから直ぐに避難して下さい」とだけ告げて風のように去って行った謎の一行がいたらしい。県や市町村の係員ではないとのこと。「汚染地図」を掌握していた人々の直接行動なのか、現在でもその正体は不明。

 では何故これほど混乱してしまったのか。原子力規制組織として経済産業省、原子力安全・保安院、独立行政法人・原子力安全基盤機構。内閣府、原子力安全委員会。文部科学省、放射線モニタリング部門、全てが縦割り行政。

 所属する省庁が異なる組織が原発事故という1つの災害に対処した場合、事前に綿密な打ち合わせと、組織全体を横断的に統括する本部及び司令官がいなければ、それぞれがバラバラに行動することになる。

 まさに今回悪しき例をさらけ出してしまった。経産省と文部科学省が同じ室内で作業していながら「汚染地図」を共有、活用することはなかった。

 また、総司令官であるべき菅総理は情報が集まらないまま、現場に介入したり、東電本店に怒鳴り込んだりと動き回ったが、総司令官としての自覚があまりないのか総司令部を留守にして現場を電撃訪問、介入して混乱させるなど危機管理体制が全く整っていないことを自身の行動で露呈してしまった。

 首相在任中に私企業に怒鳴り込んだ例は、戦時中の東条元首相に次いで歴代二回目の出来事であった。

 第一原発事故で担当する保安院は事故直後に情報を集めきれず、あっても活用できず組織としてきちんと機能できなかった。

 また、事故以前にも地震・津波等過酷事故の警報を認識していながらも、電力会社への周知徹底を怠っており、更には検査の手抜きに手を貸したりと電力会社に擦り寄っていたことが次々と明らかになり原子力ムラの様相を呈した。

 SPEEDIを管轄する文部科学省もデータを掌握しながらも公表せず、公表の義務はない、落ち度はない、全て適切に行動した、と強弁を繰り返した。

 さすがに国としてはこの制度の欠陥を認め、経済産業省の原子力安全・保安局。内閣府の原子力安全委員会を廃止。いくつかの省庁にあった原子力安全に関する部局を廃止し、1つに統合することになった。

 有識者5人による「原子力規制委員会」と言う独立した組織を、9月発足をメドにして委員任命者を選考中。

 独立性の高い委員会として、技術的・専門的な事項の判断は委員会に委ね、その範囲外の判断は首相がする、ということになった。

 保安院が行ってきた業務等は、新たに環境省の組織の一部として「規制庁」を設置し、約1千人体制の官庁になるらしい。

 大飯原発は野田政権が仮の基準を作って安全を判断し、再稼働を認めたが、それに続く他の原発の再稼働は、新しく出来る「原子力規制委員会」が安全性を確かめて判断することになる。だが、どのような基準になるのかはこれからの問題だ。

謝罪

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 アメリカ・エネルギー省の航空機モニタリングのデータが外務省を通じて3度にわたり保安院の国際室に電子メールが届いた。またデータが、保安院に設けられた緊急対応センターの「放射線班」に伝わったことも認めた。

 第一原発事故のあと直ぐにアメリカ側から航空機による実測で放射線量の詳細な「汚染地図」が提供されていたにも拘わらず住民避難指示に活用せず、この貴重なデータを放置していた問題で、その存在すら認めようとしなかった政府がやっとその存在を認め、経済産業省原子力・保安院の平岡英治次長が12年6月26日、大熊、富岡、浪江の仮役場を訪れ謝罪した。その後、県内12市町村を訪れ謝罪した。

  特に二本松市にある浪江町仮役場では情報が遅れたが故に高放射線量の地域に多くの避難者が留まっていたため被曝してしまったかも知れない問題では、馬場町長と非公式ながら長時間の会談が行われたという。

 しかし、この問題で事故後1年3ヶ月も経たなければ正式な謝罪も何もないこの国の行政はどうなっているのか。SPEEDI問題では文部科学省が完全に沈黙したままだが、平岡達夫復興相が地元に謝罪どころか、何の説明もないのは意外だと、文部科学省を名指しで批判している。教育行政の中央官庁がこの態度だ。

 更に原子力保安院の森山善範・原子力災害対策監が6月28日、記者会見を行い、保安院の緊急時対応センターには汚染地図データの資料は残っていなかった。と明らかにし、破棄したのか、紛失したのか、存在しないのは確かだと強調した。

 存在しないと強調すれば免罪符になるらしい。

原子力安全・保安院とNRC

 経済産業省の一機関であり、法令上の位置付けは資源エネルギー庁の特別機関とされ、2001年1月6日、中央省庁再編の際に原子力安全・保安院が新設された。

(1)原子力に関わる製錬、加工、貯蔵、再処理及び破棄の事業並びに発電用原子力施設に関する規制その他これからの事業及び施設の関する安全の確保に関すること。

(2)エネルギーとしての利用に関する原子力の安全の確保に関すること。

 わが国の原子力安全・保安院の検査官は、電力会社が作成する検査書類の審査することが主で、これらの施設に対しては必要に応じて、立ち入り検査、報告徴収、改善命令等を行う事ができる。

 第一原発事故の対応や、それ以前の検査、監督に多くの問題が指摘され、「国会事故最終報告書」では、電力会社と規制当局のあり方にも踏み込んで「規制する立場とされる立場の『逆転関係』が起き、規制当局は電力事業者の『虜』になり、その結果、原子力安全についての監督機能は崩壊していた」と酷評された。原発の安全規制を担ってきた国の原子力安全委員会と経産省の原子力安全・保安院は'12年9月18日をもって廃止、19日に発足した原子力規制委員会と原子力規制庁に統合された。

 アメリカ合衆国原子力規制委員会(NRC)、アメリカ合衆国政府の独立機関の一つであり、合衆国内における原子力安全に関する監督業務(原子力規制)を担当する。原子炉の安全とセキュリティ、原子炉設置・運転免許の許認可の変更、放射性物質の安全とセキュリティ、及び使用済みの核燃料の管理(貯蔵、セキュリティ、再処理及び破棄)を監督する。

 NRCは、アメリカ合衆国大統領によって指名され、アメリカ合衆国上院の同意に基づいて5年の任期で任命される5名の委員とし、そのうち1名は大統領から委員長及び委員会の公的スポークスマンとしての任命を受ける。

 NRCの組織は、ワシントン郊外にある本部と全米4ヶ所にある地方局の専門職員が文書業務を分担し、不具合があれば直ぐ検査官に連絡する。

 重要な問題が見付かれば記者会見で明らかにされる。2011年の1年間で、全米で200件余の不具合が公になった。わが国のように隠蔽工作が慣例のような原子力ムラの体質はない。

 NRCの検査官は原子力工学の修士以上の学位を有する人が多く、検査官としての訓練を7週間、必須は原子炉制御盤のシミュレーターの操作、平時、非常時にどのような操作が必要か徹底的に習得する。全課程が修了すると、さらに現場で1年間訓練を重ね、更に試験に合格して検査官になる。

 従って専門職として「検査官はNRCの目であり、耳となって」業務に邁進することになる。

 わが国も米国のような現場主義に徹しないと、今回の原発事故による右往左往の大混乱を繰り返すことになりかねない。官僚は検査書類を審査するだけでの書類主義を脱し、大幅な官僚制度の改革こそが必要。

 福島第一原発事故の際は、メリーランド州にあるNRCオペレーションセンターにそれぞれの専門家が集結し、情報を収集して約2ヶ月にわたり活動したとのこと、その間、窒素注入の必要性など適切なアドバイスを送り続けたが、「汚染地図」同様、司令塔不在のわが国では活用できなかったらしい。

 このNRC委員長であったグレゴリー・ヤツコ氏が2011年10月4日、アメリカ議会・公聴会で証人として登壇し、福島第一原発事故について証言した。

 それによると地震、津波は予想されていたことであり、その対策を全く執っていなかったのは怠慢であり無責任な体制によるもので起こるべきして起きた人災であると報告した。

 事故後の処理に関してのモタツキは司令塔の不在、国内法の不備、決断の遅さ、責任転嫁、組織の不備等々、猛烈な日本批判を証言した。

 これらは指摘の通りだから反論も出来ないが、事故直後即座に援助、資材の提供などアメリカ側の好意ある申し出を、事故の規模を掌握出来ないままにことごとく断ってしまった日本政府と東電の傲慢な対応に相当立腹していたようだ。

 さらには専門家を本国から派遣して飛行機によって調査・測定して作成した汚染マップも日本政府が無視したことに対して猛烈に噛みついた。

 福島原発事故の対策に専念したが、その際アメリカ国内の原子力規制に関し、法規制の強化を謀ったり、アメリカ政府の日本に対する対応を強く迫ったり、新規原子炉の新設を30年ぶりに認可に関する委員会での対立、核廃棄物処分場建設計画を中止したりとの等の独断専行があったのか、約4千人の職員を統括・指揮するのは5人の委員会があり、そのトップを務めるのが大統領による任命である委員長であるが、そのヤツコ委員長が他の委員と対立し、排斥運動があり、嫌気がさしたのか、突如辞表を提出し職を去ってしまった。アメリカ政府内部にもいろいろあるのだろうか。

 後日、ヤツコ氏辞任の真相が明らかになった。01年9月11日、アメリカで航空機による同時多発テロ(9.11事件)があった。

 この時は原発を狙うことはなかったが、狙われる可能性があり、02年に「原子力施設に対する攻撃の可能性」に備えた特別の対策を執ることを各原発に義務付ける命令を出した。これが「B5b」で全ての災害に対する防護・保安措置とした。

 当然この情報は我が国の原子力安全・保安院と原子力安全基盤機構とに正式に伝達され、その防護・保安措置を勧告されたが、肝心の原子力委員長には、この「B5b」情報が全く報告されていなかったらしい。

 B5bの情報に関しては、事故後アメリカ側からが何故対策を講じなかったのかと詰られて、初めてB5bの存在を知って驚いたという。

 残念ながら我が国には「安全神話」が蔓延しており、お上が安全と唱えれば安全だと猛信してしまう国民性があり、お上(カミ)は神に通ずるものがあるらしい。従って全てが「想定外」として見送った経緯がある。

 もしこの時、防護措置を執っていれば第一原発の事故はある程度防げたはずだとアメリカ政府筋の見解であった。

 ところがNRC委員長であったヤツコ氏は、第一原発の事故をつぶさに検討して得た結論は「B5b」があるからと言って絶対的な安全は保証されないとして、「B5b」の見直しを政府に迫った。

 そのような折、アメリカ政府は34年振りに原発の新設を認めた。NRCの委員5人のうち4人が賛成、反対はヤツコ委員長ただ1人で、絶望したヤツコ氏は辞表を出してNRCを去った。

 その3ヶ月後の12年8月27日、ヤツコ氏は一人で浪江町を訪れ、防護服姿で瓦礫の中を歩き、町の様子を見て回り、その後、二本松市にある浪江町仮役場に馬場町長を訪ね、会談、町長は情報がないまま30km離れた津島地区に町民を誘導避難させたが、そこが最も放射線量が高いところだったのを後で知り、町民を被曝させてしまったことに責任を痛切に感じ、苦悩したことを述べ、ヤツコ氏は目を潤ませて聞きいったという。

 我が国にもヤツコ氏のように安全神話などに惑わされず、真剣になって取り組んでくれる人材が一人でもいたならば、また違った展開になっていたかも知れない。

全電源喪失対策

 NRCが提唱した「B5b」の中に、「全電源喪失の場合の対策」が含まれていた。もしB5bが定めた規定通りの対策を準備していたならば、事故は防げたかも知れない重要な事項であった。

 東日本大震災発生前にアメリカ政府から日本政府に伝えられていた原子力発電所の全電源喪失対策の情報が、保安院の担当課長、東京電力にも伝えられず、第一原発事故拡大の一因になったと'13年12月16日夕刊で報じられた。

 この重要な情報は、2001年9.11同時多発テロを受け、特に危機感を持ったのは9.11の同時多発テロでは大変な被害があって、多くの犠牲者が出たが、もし原発を標的にして自爆テロが行われたら、全米に被害を及ぼす大事故、大事件になっていたかも知れないという恐怖から、その対策としてのB5bの計画である。

 アメリカ政府が自国原発向けに義務付けた対策の内容で、「B5b」で、その中の一部として、全電源喪失に備え、(1)持ち運びできるバッテリーの配備、(2)ベント弁や炉心冷却装置を手動で動かす手法の確立、(3)手順書の整備や作業員の訓練、といった対策を具体的に示している。このB5bの内容は08年迄に複数回に渡り、その内容を日本の原子力安全・保安院に伝えられていたらしい。

 まさにその危惧通りの事故が発生、(1)持ち運び出来るバッテリーの配備、は全くなかったから、事故発生後、慌てふためいて車のバッテリーを外したり、下請け業者に調達を依頼したりと、「備えあれば憂いなし」の言葉と通りで、非常用バッテリー設備は海水漬けになってしまい、最後の望みであった非常用電源は全滅してしまっていた。

 (2)ベント弁や炉心冷却装置を手動で動かす手法の確立、全電源を失ってしまえば、電動での稼働は出来ない、だが早急に動かさなければ危機は迫っている、手動で動かす方法はない。現場は必死だったのだろうがいかんともしがたい、遂に限界は来てしまった。

 (1)(2)(3)と揃って準備できていたならば、最悪の事態は避けられたはず、数回に渡り報せてやったB5bを全く無視、その存在さえも判らないという日本側の官僚組織にアメリカ政府側が怒るのも無理はない。

 確かに日本側は受領した。ところが保安院は閲覧資格者を決め幹部数人に制限し、担当すべき責任者には閲覧させない組織らしい。では何故そのような制限をしたのか、それは秘密扱いを前提としてアメリカ側から提供されたから秘密にしたと言い訳けしているが、保安院の閲覧者とは何様なのか知らないが、キャリア組が次々と引き継いでいく椅子にたまたま座っていただけで、何もしません、何の落ち度もありませんと次の椅子に移動しただけ、重要な情報は重要なるが故に裁断されてしまったのか。

 従って、保安院の担当課長もこの情報は全く知らされていないし、下命もない。さらにこの貴重な情報は原子力委員会にも東京電力にも伝えられず消えてしまった。

 第一原発事故の全電源喪失で、現場の人達はバッテリー調達に狂奔し、自家用車、トラック等のバッテリーを外してきて非常電源に繋ぐ努力を重ねたと記録されており、もし事前に(1)、(2)が準備されていれば、あれだけの大事故にならずに済んだのは確かだろう。

 12月16日、第一原発事故を検証する国会の事故調査委員会が開かれ、事故当時の事務次官、その前は安全・保安院長であった参考人が調査委員の執拗な質問責めに「当時の記憶は全くない」と証言したが、参考人証言の常套語として「記憶にない」の連発なのか、もしかしたら本当に記憶にないのかも知れない。それは安全神話を信ずる余り「B5b」はテロを意識したアメリカ国内だけの問題であって、絶対安全である我が国には関係ないことだとの意識から最初から無視してしまったと推察できるからだ。だから具体的な指示は何処にも何も伝わっていない。

 確かに「B5b」は、テロリストによる破壊工作を想定してアメリカ国内の原発を如何に護るかの数々を実践的な防衛策を講じている。

 その中には第一原発事故で、もし事前に準備してあったならば、もしかしたら防げたかも知れない。あるいはあのような大事故にならなかったかも知れない、と考えるのは現場に精通した技術者が判断することで、全く関係ない文系のキャリアーにとってはテロリストの破壊工作だけで、我が国には無関係とばかりに読みもしないで捺印して終わり、従って記憶にないのも当然となる。

(1)全電源喪失:「B5b」の規定では、交流と直流電源同時喪失を想定、中央制御室を含むコントロール建屋の全滅も想定。

対策として持ち運び可能なバッテリーの準備を規定している。

第一原発にもバッテリー室はあったが、最初に水没しており、何を想定しての予備電源室なのか、設計当初からのミスに誰も気付かなかったのか。

(2)原子炉内部の減圧:「B5b」の規定、持ち運び可能な直流電源で「逃し安全弁」を現場で開け閉めする方法の準備を義務付けている。バッテリーを運ぶ台車や、交流電源を直流に変換する整流器の準備も促している。

(3)原子炉の冷却:「B5b」の規定、直流電源、交流電源がない状態でも、ICやRCICを手動で起動・運転する方法の文書化を義務付ける。

(4)格納容器ベント(排気):「B5b」の規定、ベント弁を手動で開けるための準備を義務付け、空気駆動の弁を開けるのに必要な物資は被災をさけるため少なくとも100ヤード(91メートル)離れた場所に保管するよう明記されている。

 いずれも第一原発事故で発生したことであって、東電は想定外の事故の連続で対応が間に合わなかったと弁明していたが、実は全てが想定内での事故であって、事前に準備しておけば防げた、あるいはある程度は軽減できた可能性はあった。

 幸いにも、2011年11月現在、福島原発事故の後始末に従事している作業員には確定的影響は見られていない。

 福島第一原発事故の時、原子力・保安院が事故の翌日3月12日の発表によると、「第一原発正門付近の放射線量が通常の8倍、1号機の中央制御室で通常の約1,000倍」これを受けて菅総理が即座に、当初3km圏内の住民だけに出していた避難指示を10km圏内に拡大、さらに20km圏内に拡大、15日には半径20kmから30kmの範囲の住民は屋内避難、10日後の25日には、国内避難の住民に「自主避難」を呼びかけた。

 避難住民の地域を、半円を描いて決めるのにはどんな意味があるのか。さらに自主避難とは何なのか。

 万が一に備えてシミュレーションをやり、対策の策定、マニュアルを作成しておくべき政府も地方自治体も何もない状態でのぶっつけ本番ですから、対策が後手になるのは当然の結果なのでしょう。安全管理、安全対策後進国の悲劇です。

 ただし、保安院では放射能飛散の状況をシミュレーションして汚染状況マップを作成していたところ、官邸の独断で先に半円を描いて避難区域を決め、各自治体に避難要請を出したとのことのようです。

 では半径10km、20kmに広げていった根拠は何だったのか。

 放射線及び放射能漏れを起している原発から離れれば離れるほど放射能を浴びる量は減るからだとの発想かららしい。

 理論を申しますと、放射線の強さは、放射線を放射する放射線物質(第一原発)からの距離の二乗に反比例します。具体的にいいますと、第一原発から倍の距離離れて遠くへ行けば原発周辺で浴びる放射線が1/4に減少します。

 さらに4倍、8倍離れれば1/16、1/64・・・・といった数値は理論上成り立ちます。ですから避難範囲を半円の数値を広げていけば大丈夫と理論上で決めていったのでしょうか。

 ところが、皆さんが承知している通り、そうはいかなかった風に乗った放射性物質が遥か遠くへ飛ばされ、30km圏より外側に存在していた飯舘村等の5市町村が「計画的避難区域」に指定され、飯舘村は全村避難した。

 富岡町よりも飯村の方が汚染度は高いようで、距離で比較すると遙かに近い広野町は警戒地区が解除になりましたから、等心円周上での避難区域決定はあまり意味がないことになるが、一刻を争う緊急事態発生で、肝心のデータが報告されていない状況であったからやむを得ない措置だったかも知れない。

 チュリノブイリ事故では、最初に気付いたのが遠く離れたスゥエーデンであり、全欧州が被害を被ったのだから、理論はあくまで机上の理論に過ぎない。

 従って何km以上離れれば大丈夫という、具体的な数値を示した円を描くことは出来ない、と言うことになる。

 福島第一原発事故後の外国人記者会見で、「世界唯一の被爆国である日本が世界第三位の原子力発電所を保有しているのはどうしてですか?」と質問があり、続いて「地震国日本としては安全管理が甘すぎたのではないか?」と質問されたが、納得のいく答えはなかった。

 安全神話を唱えた電力会社、政府が自ら唱えた「安全神話」を盲信してしまった結果が、今回の事故の背景にある。

安全神話流布

 「安全神話」は何処にでも存在する。絶対に安全であると納得し信じ込ませるには「安全神話」を流布することにある。

 原子力発電所は、どうしても原子爆弾を連想し、特に被爆国民としてはより一層のその懸念が大きかった。

 更に戦後においても、国連理事国である五大強国が競って原水爆の実験を繰り返し行っていた頃、1954年3月1日ニューキャッスル作戦として水爆実験を南太平洋のビキニ環礁、ムルロ環礁で米国が行った水爆実験海域の危険海域圏外で鮪延縄漁をしていた焼津港所属の「第五福竜丸」(140トン)が操業中、突如黒い霧状の細かな灰が降ってきて、「死の灰」が甲板に黒く積もり、足跡が付いたというから相当な量の放射能を帯びた降灰があった。

 乗組員は何がおきたのか意味が分からず、黒い雪が降ってきたと冗談をいっていたらしいが何か危険を感じて現場から遁れるようとしたのだが、揚げ縄作業中だったから作業は十数時間を要し、かつ全乗組員23名が甲板上で長時間作業を継続したため、忌まわしい外部、内部被曝をしてしまった。

 後の調査では乗組員23人が浴びた外部被曝量は、1.7〜6.9グレイ(Gy)と推定される(主に影響したγ線の場合は、1Gyは1Svと換算で致死症に近い)

 この放射線量は急性症状が出る被曝量にあたり、事実全乗組員が嘔吐、頭痛、皮膚障害、脱毛、白血球の減少などの急性症状が出た。

 世界中で核実験が続く中、放射能雨が度々報じられ、濡れると禿げになると噂が飛び交い、全国民が核アレルギーであったから、その状況下での原発建設推進はなかなか進まなかった。

 しかし、かつての我国は経済成長著しく右肩上がりで世界が眼を見張る成長ぶりだった。そうすると電力消費も右肩上がりで上昇し、当然電力不足が懸念され、かつ火力発電は二酸化炭素問題で頭打ち、水力発電も開発地点がない、風力発電、太陽光発電、その他の発電手段は技術的に未知の世界でしかない。

 そうすると残るは原子力発電、先進国のイギリス、フランスは積極的に原子力発電に取り組み、それに続いてアメリカも取り組みはじめた。

 それでは我国でも原子力発電所の建設を押し進めようとの動きになり、それには二酸化炭素を出さない非常にクリーンであることを強調、しかも経費が非常に安価であることを前面に押し出した。

 そして何重にも安全装置がしてあり絶対に事故はない、と安全であることを強調し出しなければならなかった。

 読売新聞が1955年1月1日、突如、原子力平和利用キャンペーンを始めた。「米の原子力平和使節、本社でポプキンス氏招待、日本の民間原子力工業化を促進」この見出しで論説が続いた、昭和30年だからずいぶん早くからキャンペーンが始まったのだと思うが、これは読売新聞社主が正力松太郎氏であることを考えれば納得できる。

 正力松太郎氏は日本で最初に原子力発電所の建設を提唱した人であり、その後は国会議員になり原子力担当国務大臣を務めて、原発建設を推進した。

 これに共鳴して推進派になったのが若き日の中曽根康弘代議士とその同志。

 電力業界も九電力一致して原発推進に協力し、其の中心は東電の木川田社長で、社内に原子力課を新に設置し、強力な宣伝態勢を整えた。

 原発反対を唱えていた朝日新聞が1974年7月から月1回10段の原子力広告を掲載し、朝日新聞が原発賛成派になったのは電力業界による根回しが効を奏したものと思われる。

 その後、毎日新聞も原発反対を止め、賛成派にまわった。これで三大新聞が賛成派になり、大半のマスコミが容認派に転向したことになった。

 三大新聞の広告費は高い、全国版1ページまるごと広告を入れると1回何千万円、年間では地方紙を入れて10億円にもなる。そこで「原発PR予算は、建設費の一部」と会社が認め、豊富な資金をつぎ込んで「原発安全神話」を作っていった。

 電力中央研究所という機関があり、電力関連の研究をするところで、その研究費は電力会社が負担しており、委託研究が殆どだ。だから電力会社に逆らう研究は御法度というのが暗黙の了解事項となる。

 原発事故は絶対にあってはいけない、従って何重にも安全対策をこうじた、だから原発の事故はありえない、原発の安全は絶対である、と言う三段論法が成り立っていた。

 ということで全電源喪失などは万が一にも起こり得ない事項で、その対策など文字通り想定外、だからシミュレーションもしない、勿論マニュアルも存在しない。研究も必要ない。従って、アメリカのNRC、フランスのアレバ社のような機関は存在しなかった。

 安全神話の発端は、1980〜90年代、「原子力政策研究会」という日本の原子力政策を推進してきた研究者、官僚、電力会社で作る非公式な会合があり、そこで話し合われたことは如何にして国民に原子力の安全性をPR出来るかが中心で、それらは議事録として残っているそうだが、そこでいろいろなPR作戦が練られたという。しかし門外不出で明かにはしない。

 電気事業連合会は、原発のイメージ向上を謀るため多数の著名人を起用して安全のPRを行った。勿論原子力に関してはなんの関係もない著名な人達だ。

 PRを積極的に行い、安全神話を流布するのは当然のことで、悪いことではない。ただ問題は余りにも安全神話が先行してしまい、肝腎の安全対策が疎かになってしまったことにある。

 安全神話を日本全国に染み込ませる。とりわけ重要なことは原発地域住民に安全神話を繰り返し染み込ませていくことで、原発稼動には地域住民の承認を必要とすれば、なおさら安全神話を信じてもらう必要があった。

 東電の原子力担当副社長を辞して、1998年の自民党から出馬、比例代表区で当選した参議院議員がいた。氏は次の2004年の選挙でも再選され、自民党での原発推進派の筆頭として活躍した。

 氏の著書「なぜ原発か」の一節で日本の原発の安全性を強調する「安全度抜群の根拠」の章の中での文を紹介する。

 「核に敏感だから安全性が高い、被爆国・日本ならではの反応が、世界に冠たる技術を生んだ。チェルノブイリの事故は、核分裂を止めるのに失敗し、放射能を閉じこめることも失敗した例で、設計自体に問題あり、日本では考えられない。スリーマイル島の事故は、冷やすのに失敗した例である。日本ではこれらを教訓に安全確保対策52項目をとりまとめ実施している」と、原発の安全性を強調している。

 あまり関係ないかも知れないが、二世代前「日本は神国」「神州不滅」「皇国神話」を小学生の頃から刷り込ませ、本気で信じ込んだ結果、世界を相手に戦って完膚なきまで叩きのめされたことを思い出し、信ずることの怖ろしさを感じる。

 戦前「大東亜共栄圏」「聖戦遂行」等を大新聞が率先して唱えていた。

 福島第一原発事故後の外国人記者会見で、「世界唯一の被爆国である日本が世界第三位の原子力発電所を保有しているのはどうしてですか?」と質問があり、続いて「地震国日本としては安全管理が甘すぎたのではないか?」と質問されたが、納得のゆく答えはなかった。

 安全神話を唱えた電力会社、政府が自ら唱えた「安全神話」を盲信してしまった結果が、今回の事故の背景にある。

 2011年11月3日、新聞報道だが、東京電力が巨額の損失を出したのは、経営陣が安全対策を怠ってきたからであり、福島原発事故の最大の要因は経営陣の怠慢にある、として東電の株主およそ30人が歴代の経営陣に対して、合計1兆1,000億円余りを返還するよう求める株主代表訴訟を準備することにした。

 この1兆1,000億余の金額は、東電が8月に明らかにした福島原発事故による損失見込額で、過去20年の間に役員を勤めてきたおよそ60人が対象だとしています。

 もし返還されない場合は、株主代表訴訟を提訴する、としていますが、1兆円を超える請求額は国内では最高額になる。

 提訴の理由として、原発は絶対に安全だ、と繰り返し説明してきた。株主総会でも安全性に疑問を呈したが、安全性を強調するだけに終始したが、取り返しのつかない大事故を起こしてしまった。

 事故は経営陣の怠慢こそが最大の原因である、この件に関して司法の場で責任追及をしていきたい、としている。

 もう1件は、米国内で東電の経営責任を問う声が上がっている。

 東電は昨年9月公募増資で4,000億円相当を米国投資家の資金を調達したばかりだからで、東電取締役は経営のプロとして通常期待される「善管注意義務」を果たしていなかった。更に原子力損害賠償法に従って、数兆円規模といわれる周辺地域の補償となれば負担しきれないから、政府が負担することになれば、東電は事実上の国有会社になる可能性が高い。巨額赤字は免れず無配となれば株主の損失は計り知れず、その責任は経営陣が原発の安全対策を怠ったことにあり、経営責任を果たしていないとして、損害賠償の代表訴訟をされる可能性大であり、東電は更に苦しい立場に追い込まれる。

 また、福島原発事故に関し対応処理、情報開示その他に関し、日本政府、東電に対するマスコミ、エコノミスト、学者、ウォール関係者、その他からの非難、苦情が多い。

 経済分析は、第2四半期(4〜6月)の日本の国内総生産(GDP)が前年比約3%と見るが減少率の1.5%分は東電によるネガティブが要因としており、解決した訳ではないので更に落ち込みは続くと見ており、放射能に汚染された地域の経済活動は制限され、消費の落ちこみ、人心の萎縮等で「誠に残念ですが、日本はやがて貧しい国になるでしょう」とは米国経済会議(NEC)前委員長ローレンス・サマーズ、ハーバァート大学教授がニューヨーク市内で10月23日行った講演の一部で、世界の眼は日本の落ち込みを予想した。

 しかし、安倍内閣に替わってからは、円安ドル高を追い風に着実に輸出を伸ばし、順調に景気回復が見られる。但し原発が稼働停止になっており、それに替わる火力発電用の化石燃料輸入が増大し、ドル高に転じたため貿易収支が悪化してしおり、財務省が14年1月14日発表した昨年11月の国際収支(速報)輸出入の金額や投資資金の出入りなどを差し引きした「経常収支」は過去最大の5928億円の赤字になった。日本から海外へお金が流れ出していることを示している。

 円安で輸入品が割高になっているところに冬になって燃料輸入が増え、輸入額のほうが輸出額より多い貿易赤字が膨らんだことによる。

 世界の眼は東日本大震災で被災住民には同情的であるかも知れないが、東電、日本政府に対するものは相当に厳しいものがある。

 特にアメリカは「友達作戦」で多大な援助をしてくれたが、東電、日本政府に対しては厳しく、事故直後、援助の申し出を悉く断ってしまった愚行が響いており、その後の事故対応の危うさに怒り心頭だったらしい。

 経済に関しても世界の一般的な見方は、ギリシャと同じように見ており、世界最大額の1千兆円超え(10月末で大台を超えた)負債を負い、返済の見込みは全くない、経済は低迷、追い打ちをかけるような東日本大災害、福島原発事故となれば、諸外国から見れば絶望的な見方しかできないし、経済理論からいっても日本経済の見通しは暗い。

 ただし、戦後の絶望的な状況から短期間で世界第二の経済大国に躍り出た実績がある。これからが日本民族の真価、力量が問われることになる。

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第十七章 第一原発事故は防げたのか

Q:事故の原因は想定外の地震と津波によることは判りましたが、全く不可抗力であって事前に安全対策を執る事は出来なかったのですか?

A:確かに非常電源も含めて6系統もありながら全ての電源を喪失し、冷却水の循環ポンプが停止したため、原子炉内の水は崩壊熱で蒸発、燃料棒が露出してメルトダウンが起きた訳で、残念ながら‘モシ’は許されませんが、モシ外部電源の鉄塔が地震で崩壊しなかったら、津波の襲来に備えてもっと高台に非常電源用の施設を移していたら、愚痴かも知れませんが残念な事ばかりです。

 女川原発、福島第二原発も地震、津波の条件は殆ど同じ、立地条件も同じで、何故これほどの明暗に分かれたのでしょうか。

 女川原発はより震源地に近い、牡鹿半島に立地しながら、勿論無傷ではないが、付近住民が避難して来た位ですから、それほどの被害を受けなかった。それは建設時、本来の設計図よりもより高台に非常電源装置を設置したのは担当した現場の技術者でした。

 第二原発の非常電源は建屋の中にあった。ほんの僅かな相違が無限の大きさになりました。

 事故の最大の要因は、大地震とそれに伴う大津波であることは明白ですが、そればかりではないことを、朝日新聞夕刊から引用します。

福島第一原発 1号機 BWR-3GE 1971年3月26日完成 工費390億円
2号機 BWR-4GE 1974年7月18日完成 工費560億円

 当時の我国では原子力建設に関する技術はなくGE、アメリカ・ゼネラル・エレクトリック社の製品、据え付け工事、調整、技術指導も全てアメリカ、GE社が請け負うという「フルターンキー」と呼ばれる契約で、技術的課題は全てGE側が請け負う、施工主である東電側は運転開始時にキーを捻るだけ、これが「フルターンキー」の意味で、全て丸投げの工事契約であった。

 従って安全基準もアメリカ仕様であって、地震は殆どない、歴史的にみても大きな津波も前例がないアメリカでの災害の最大なのはハリケーン、日本では想像もつかない、アメリカ独特の巨大なトルネード(竜巻)の被害、「木のミサイル」と呼ばれる大木が空を飛ぶ怖ろしさ、また武装したテロの襲撃等の対策としては、非常電源や重要付帯設備は地下施設にすれば安全だとする、アメリカ側の仕様で設計した。

 原発建設を担当した旧通産省幹部が当時を振り返っての証言によると「アメリカ仕様通りに造らないと安全は保証しないと言われ、反論出来ないままに造らざるを得なかった」と証言しています。確かにアメリカ人の気質として独善的なモノがありますが、その後、建設以来40年近くも経つのですからその間 東電側で非常用電源施設だけでも高台に移すとか、何らかの対策があったはずです。

 ですから、40年も経た現在、アメリカ・GE側に設計に不備があった、とするのは単に責任回避の弁解にすぎません。

 安全神話だけを喧伝し、安全対策を怠ってきた監督官庁、電力会社の怠慢こそ責めるべきです。

Q:日本側には原子炉、原子力発電所建設の技術なし、全てGEから学び、丸投げ状態でスタートした日本側には不安はなかったのでしょうか?

(福島第一原発工事、原子炉据え付け工事)
A:東京電力で福島原発建設の責任者で原子力担当本部長池亀亮氏、後に副社長になり、引退後新潟市に住み、昨年10月14日83歳で死去しました。

 この方が「初号機の誕生」(縦の木会・東電原子力会編「福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集」(2001年所収))の中で、福島第一原発1号機のトラブルについての記述があり、ともかく1号機のトラブルには悩まされたと池亀氏は1969年発電準備事務所次長として赴任、その後GE社との原子炉購入に関しては責任者として東電側は長島副社長、契約担当に池亀氏がなり、さらに現場据え付けに関しGE側との折衝担当となり、1号機の運転に関しても運転責任者になった。

 そもそもこのGE製マークI型原子炉はスペイン原発公社の発注によって製作されたモノで、スペイン仕様で設計され製造された原子炉で、日本向けの耐震構造ではなかった。

 それがスペインでの建設現場の遅れから、急遽日本側に配置換えになったものだから、原設計での耐震設計では地震国日本の基準が合わず、結局、日本側で耐震構造にあう支持構造物の補強を行った。

 それで内部空間が狭隘に成らざるを得なかったので構造物の内部を作業員がすり抜けるのに無駄な時間がかかり、内部での作業を阻害するばかりだった、という。

 契約担当だった池亀氏は、フルターンキーの契約をしていたのでGE側は独断で工事を進め、東電側のクレームは無視され、双方の間に立った池亀氏は大分苦労していたようで、フルターンキーの契約を後まで悔やんでいたようです。

 無事引き渡しを終え、昭和46年3月26日営業運転に入り、池亀氏もそのまま現場に残り1号機運転の責任者になったそうで、故障が多く苦労したようです。

 その後、本社に戻り原子力担当のセクションを昇り、最終的には原子力担当副社長に就任し、死者に鞭打つようですが、数々の事故隠し、資料改竄等々数々のスキャンダルがありましたが、原子力担当副社長の辣腕による強硬突破を謀った結果だったようです。

 また1号機は度々故障を起こしながらも、40年間もだましだまし使い切った技術は大変なモノだと評価されています。

 池亀氏の原子力界、東電内での信用度は絶大だったようです。

Q:東電としては、地震、津波に対する安全基準の最大値をどの位に見積もっていたのですか?

A:詳しいことは解りませんが、東電のHPでは地震は関東大震災(M7.9)が最大であり、M8.0以上はあり得ない。津波は過去の例からみて最大5.6mとしていた。

 専門家の調査によると地震は最大M8.0程度、津波は最大波高 数m程度と結論付、安全対策は十分に執られている、としていたようです。

 但し、改めて調査した結果、浜岡原発の近くに活断層が発見されたり、四国電力で唯一の原発である伊方原発は愛媛県佐多岬半島の根元部分にあたる地域にあり既に30年以上経つ、この佐多岬半島に並行するように我国最大級の活断層である中央構造線が存在しているが、建設後に断層が発見されたわけではなく、断層の存在を無視して建設したのだ。

 南海地震が懸念され、改めて伊方原発の存在が問われている。

 原発事故後に「貞観地震・津波」が新聞紙上を賑わしておりますが、そのような固有名詞は歴史の教科書にはなかったとする人が大半でしょう。

 この貞観地震(ジョウガン)というのは、1980年代の半ば頃、東北電力が女川原発の増設に伴い、付近の地質調査をした結果、津波の痕跡を発見した。

 従来、実施してきた地質調査(ボーリング調査)は直径3cm程度の穴で行っていたが津波の痕跡を発見することは困難と考え、面的な拡がりを持つ「坪堀り抗」という手法で、地層の砂やその上下にある年代測定資料等の分析を積極的に行った。結果、大津波の痕跡を発見、その後何ヶ所かで坪堀り抗の調査を続け、総合的なシミュレーションでは仙台平野では海岸より600〜1,500mの内陸部まで津波はうち寄せ、河川付近は更に上流まで津波は朔流した。 波高は推定、海岸で9〜10m位とした。

 仙台平野の中心地、多賀城に国府があり、ここに残されていた多数の古文書に「多賀城が壊れた」「千人が流された」「数千里が海になった」という記述があったが、実証されないままになっていたが、古文書の記録が事実であった事が証明された。

 869年(貞観11年)、今から1142年も昔で、平安中期、藤原氏全盛の頃、若き菅原道真が新進気鋭な官人として登用された頃です。

 この大津波は浜通り一帯も襲っており、富岡海岸も調査すれば駅付近まで津波の痕跡があるかも知れません。

 この貞観津波が明るみにでてから、安全対策見直しが提案、津波の最大波高は10.6mと修正され、その対策として、ここ3年の間に対策委員会を立ち上げる程度で、未だ本格的な活動には至ってはいなかった。なにしろ千年以上昔のことであり、歴史感覚では今すぐやらなければならないという緊迫感は全くなかったようだ。

 事業仕分けでも千年に一度のことを今すぐやらなければならない理由にはならない、と答弁したばかりなのに、翌年早速襲ってきた。

 近年、国外での津波の状況をみてみましょう。1960年5月22日のチリ海底地震では最大8.5それから連続してM7.0クラスの地震が連続し、チリ沿岸で最大18mの津波が襲い、ハワイ・ヒロ湾で10.5m、我国では22時間後の5月24日未明 最大6.0mの津波が三陸沿岸を襲い、142人が犠牲になった。

 2004年12月26日 午前7時58分、インド・オーストラリア・プレートのインド洋海底で発生したM9.3の大地震で津波が波高は平均で10m超えの大津波となり、ベンガル湾一帯での犠牲者約60万人(国連推定)と言われている。

 その他 世界の例をみても地震M8.0,津波も波高10mはあり得ることであって、我国周辺では絶対にありえないことだと決め付けていた「安全神話」は根拠のない願望の世界でしかなかった。

「原発に安全神話はありえない」

○福島第一原発事故の時間的経過をもう一度辿ります。

3月11日 午後02時46分 東日本大震災発生
午後07時03分 政府、原子力緊急事態宣言
午後09時23分 3km圏内の避難指示
3月12日 午前05時44分 10km圏内の避難指示
午後03時36分 1号機水素爆発
午後06時25分 20km圏内避難指示
3月15日 午前11時01分 3号機水素爆発
3月12日 午前06時頃 2号機で衝撃音(水素爆発ではなかった。原因不明)
       4号機でも爆発(水素爆発)
午前11時 20〜30km圏内屋内避難指示

Q:1号機建屋が12日午後3時36分、3号機建屋が14日午前11時1分水素爆発で建屋の上部が崩壊しましたが、津波後から爆発までの間に対策の方法はなかったのですか?

A:確かに1号建屋が津波から1昼夜、3号建屋は約3日経っており、その間現場職員の皆さんは死にものぐるい活躍をしていたと思います。

 文字通り「フクシマ・フィフティ」と世界が評価している通りです。

 何度も説明してきましたが、全ての電源が停止したのですから、如何にして冷却水を循環させるかですかに集中していたはずです。

 では何故、1号と3号の爆発に時差があったのかをみてみます。

 地震で外部電源である鉄塔が倒壊、所内の外部電源を喪失したため、非常用電源であるディーゼル発電機が起動したが、地震発生41分後の午後3時27分第一波とする波高15m超える大津波が襲い、以後数回にわたり大津波は防波堤を超え、施設を破壊、地下室や立坑にも浸水、地下にあった1〜6号機の非常用電源は水没、使用不能に陥った。

 1号機では地震直後、非常用復水器が起動したが、急激な圧力低下があり、懸命に調整に努力したが、そこへ津波襲来、午後3時50分遮断状態のまま非常用復水器は使用不能に陥り、同時に計器、動弁電源も失われ、後は電源車の来援を待つしかなくなった。

11日 午後07時30分頃 1号機の燃料は蒸発による水位低下で全露出して炉心溶解がはじまった。所内での直流小電源融通で動かした非常用復水器も夜半の12日午前1時48分に機能停止、12日の明け方6時頃には全燃料がメルトダウンした。
11日 午後08時50分 1号機のメルトダウン必至となり福島県知事は原発半径2km圏内の住民に圏外への即時避難指示。
11日 午後09時23分 菅総理、福島県知事を通して、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町の各町長へ「1号機から半径3km圏内は圏外へ即時避難、半径10km圏内の住民は屋内避難」
12日 午前05時44分 10km圏内の住民は圏外避難指示
12日 午後08時00分 半径20km圏内住民は圏外避難指示、対象住民17万5,000人
1号機、12日午前1時48分に機能停止、12日早朝6時には頃には全燃料がメルトダウンに至った。

 時間が経過すると格納容器内の圧力が通常値を遥かに超えてしまいます。そのままにしておくと格納容器自体が危険です。格納容器は放射性物質の拡散を防ぐため、絶対に護らなければならない。それを防ぐには圧力を制御出来るように調整しなければならない。

 蒸気の一部を大気に放出するという対応です。

 午前10時17分、ベント開作業開始 空気圧縮器の空気不十分で作業難航。

 燃料棒を覆っているジルコニウムが高温になり反応を起して水蒸気から水素を生成しますから、水蒸気の放出と同時に軽い水素は上昇して放出され、建屋の上部に滞留し、水素の濃度が4%を超える状態で空気中に存在すると極めて危険な状態になります。

 このような状態がしばらく続いたのは、空気中に大量の水蒸気を含んでいると爆発は起きない。しかし建屋の上部は外気の影響を受け、まだ3月の寒い日でしたから、格納容器内と比べてもの凄い差があり、水蒸気はやがて水滴に替わり、水蒸気の量が段々と減少し、混合比が替わって何らかの発火要因があり

 午後3時36分 1号建屋水素爆発

 午後4時 放射線量500μSv/h超える

 事故当日、11日の東電本社では、勝俣恒久会長、鼓紀男副社長(原子力担当)は「第九回愛華訪中団」と称する電力会社、大学関係者、マスコミ関係者で構成、大勢の団員からなるご一行様を引き連れて北京、蘇州を訪問していた。

 清水社長は関西方面に出張中で、事故の連絡を受けても東海道新幹線は全線ストップ、飛行機も飛ばず、高速道路は大渋滞、自衛隊の飛行機を出すよう要請したが、防衛庁から1民間人に利用させるのは如何なモノかと断られ万事窮す、本社機能は緊急事態に対応できないまま過ごしてしまった。

 菅総理は自衛隊ヘリで原発の事故現場にいき、更に佐藤知事と会っている。

 2号機、3号機には全交流電源喪失を考慮し、隔離時注水系(RCIC)・高圧注水系(HPCF)と、2系統の蒸気タービン装置があり、2号機の高圧注水系はバッテリーが水没して起動しまかったが、3号機はバッテリーが生きていたHPCFが、RCI停止を感知し入れ替わり起動して15時間ほど稼動し炉心に注水し続けたが非常用バッテリーを使い切って停止した。

 渋滞による電源車の到着遅れ、電源車の出力不足、唯一の受電施設が水没で使えなかった。やっと開通した仮設電源ケーブルが6分後に1号機の水素爆発で吹き飛ばされてしまった、という最大限の努力をしながらも運命の女神に次々と見放されたような災難の連続であった。

 13日午前8時 3号機燃料の露出はじまる。

 午前11時1分 3号機 建屋水素爆発。

Q:東日本大震災では、震災直後から自衛隊や地元消防隊、警察隊が出動して救助や復旧に従事しておりましたが、原発事故では何故か当初においては東電関係者だけで対応していたようで、何か腑に落ちない点があるのですが?

A:確かに当初は東電関係者だけで対応していたようです。監視衛星で地震、津波による被害状況を詳細に監視していたアメリカ政府は、日本政府に対して原子炉冷却に関する技術支援に関する申し入れをした、またフランス・アレバ社の技術陣も炉心溶融は必至と判断し、原子力に関しては世界一の技術を持つと自認しているフランス・アレバ社に任せろ、と日本政府に申し入れたが日本政府が断ったようだ、と3月18日読売新聞朝刊で報じている。

 アメリカ、フランスの専門家は、電源が止り、8時間以内に冷却水循環の対策を執らなければ、炉心融解が起こるのが必至と判断していた。

 今アメリカ側が提案している原子炉の冷却は廃炉が前提ですから、まだまだ使用する原子炉を廃炉にするなんてとんでもない、というのが東電側の見解だったようで、40年間使用してきた1号原子炉を含めて未だ使用できると東電は判断しており、特に経費削減が東電の当座の目標であって、そのため資材部出身の清水氏が社長の座を得たのですから、廃炉などはとんでもない選択となり、アメリカの申し出を拒否、官邸も東電の言い分を訊いて、アメリカ側の申し出は「前例がない」「時期尚早」という意味のない言葉で拒否、東電側の判断は、非常電源が壊滅したのは承知していたが、バッテリーが生きているから、8時間は冷却水循環は確保できる、その間に地震で鉄塔が倒壊したが、総力を挙げて外部電力の復旧にかかれば復旧可能、だから炉心の融解や冷却プールでの崩壊熱など起こり得ない、と判断したようで、東電だけの力で回復できると信じていたようです。

Q:事故直後、アメリカ、フランスが支援の申し出を日本政府、東電は断ったそうですが、何故ですか?

A:アメリカ・クリントン長官の支援申し出を日本政府が断った、という記事の最初は読売新聞でした。

 1981〜82年にかけて、アメリカにあるオークリッジ国立研究所がアメリカ原子力規制委員会(別項で解説)の依頼を受けて大がかりな実験、実証のシミュレーションを1981〜82年に繰り返し行い、その報告書を同委員会(NRC)に提出した。

 この研究報告書は、原発の全ての電源が失われた場合のシミュレーションを実施して得た事実を報告したものです。

 このシミュレーションに使われたモデルは「GE社製マークI炉」で、それは福島第一原発の1〜5号機もGE社製を輸入したもので全く同じタイプ原子炉でした。

 その報告書によると、全電源が喪失して非常用バッテリーが四時間使用可能な場合、「五時間で核燃料露出」「五時間で水素発生」「六時間後に燃料溶解」「七時間後に圧力容器下部が損傷」というのが、主な経過ですが、まさに福島第一原発の事故の経過はシミュレーション通りとなった訳です。

 この報告書を受けたNRCは直ちに安全規制に取り入れ活用したのです。

 では、東電としてはこのような報告書があることを知らなかったのか、福島原発の1号機の建設は1971年、GE社が設計、機材から据え付け工事まで全て請け負う「フルターンキー」契約ですから、その後の責任もあります。

 この報告書が提出されたのが1982年なので、GE側から報告はあり、NRCからも連絡があったようで、その事実があるからこそ、つい最近の10月4日アメリカ議会における福島第一原発に関する公聴会での証言台に立ったグレゴリ・ヤッコNRC委員長が日本政府の怠慢さを徹底的にこきおろした証言をおこなったのも、報告書を生かそうともせず、放置してしまった日本側に我慢できなかったのでしょうか。

 では何故、日本側は活用しなかったのか、そもそも全電源が喪失するような状況は起こることない、起こり得ないから想定する必要はない、だから対策は必要ない。

 しかし、現実に原発事故は起きて、NRC報告にあることが起きてしまった、それでも東電は大丈夫だと信じて、アメリカやフランスからの援助を断ったのは、東電側はバッテリーの稼動が約8時間、その間に外部電源は回復できる、と信じていたようです。

 しかも会長、社長、副社長(原子力担当)が出張中で、東電の司令塔は不在、残された幹部はマニュアルはなし、オロオロするばかり、官邸はこれまた東電からの報告を受けても、それを消化、判断できる人材不足、日本人全体の危機管理に対する感覚が問われる大問題に進展した。

 事故直後、クリントン長官の連絡は「直ぐに水をアメリカから空輸する」と、これはアメリカの軍事衛星で福島第一原発の事故の模様をつぶさに監視していた国防省から長官に連絡がいき、長官から日本政府へ申し出たのでしょう。

 軍事監視衛星の解析能力は地上1m以下の物体まで判る能力を持っていますから、事故の内容は正確に把握し、冷却装置壊滅、全電源喪失を解析した筈です。だからこそ水の注入こそ最優先、それ以外に方法はない、と判断して即座に申し出たのだが、日本政府では事故後は詳細報告なし、原発事故は想定外で官邸の危機管理室も機能しない、全電源喪失など想定外だからマニュアルなし、従ってアメリカの申し出である水を空輸する事の意味が理解出来ないまま断ってしまったようだ。

 その後の過程を見れば解る通り水を注入する以外に方法はなかった。

 さらに日本側としてはアメリカ、フランスの援助を受け入れれば、復旧の指導権を奪われてしまう。原子炉施設を外国に売り込もうとしている時期に外国の技術を借りなければ復旧できない、技術の未熟さを公表することになる、だから日本側だけで対処する、とするのが政府、東電の了解事項だったようで援助を断ってしまった。

 時間経過と共に原子炉融解、水素爆発となって、アメリカ、フランスに助けを求めざるを得なかったし、後にクリントン国務長官、フランス・サルコジ大統領、アリバ社総裁アンヌ・ロベルジョン氏の相次ぐ来日、わざわざお見舞いに来たわけではない、日本だけに任せていたら世界が大変だとの認識からで、もしこれ以上モタツいて収束が遅れれば原発反対の運動が激化してしまうと、原発先進国であるフランス、アメリカでは政権維持さえ困難なる、事実ドイツとスイスは原発全廃を議決した。その波が自国に及ぶのをなんとか防ぎたい、それには一刻も早く原発事故を収束しなければならない、日本だけでは無理と判断してやって来たわけで、日本に対する好意だけでやって来たわけではない。

 クリントン国長官は「日本の技術的水準は高いが、冷却剤は不足しているはず」だから空軍機を使って急送したと声明を発表したが、後で国務省高官が日本政府が断ってきたので送らなかった、と発表した。

新聞には「水を送ると、アメリカ政府の申し出」と記事にあったが、冷却剤の意味は多分、ホウ酸(ホウ酸水、通常‘ボリン’と呼んでいる)ホウ酸水は核分裂反応を抑制する、いわゆる第二の制御棒に成りうるモノで注水系に使用しているのだから、想像するに水と言ったのはホウ酸水のことだと思う。またホウ酸水を注入しても廃炉にしなければ成らないほど炉内を傷付けることは決してあり得ないこと、廃炉を心配して断った、というのは何処かで挿入された言い訳でしょうか。

Q:東京電力は、東電帝国とか、幹部は完全に官僚主義だと言われていますが、どうしてですか?

A:市井の片隅に居る私としては、東電の方とのお付合いなど全くなく、社員ではないでしょうが検針係の方くらいとしか口をきいたことがありませんから、何とも答えられませんが,巷間の噂話程度として述べます。

 第二次大戦後、戦時体制は全て崩壊し、全国の電力を支配した日発は解散、電力業界も再編成となったが、東邦電力社長松永安左ヱ門氏と関東配電社長新井章治氏の主導権争いから始まった。

 電力の鬼と言われた松永安左ヱ門氏は慶応大学出身、その関係で福沢諭吉先生の娘婿で初期の電力王であった福沢桃介氏に弟子入りし、桃介氏の後釜として東邦電力の社長に就任、電力の鬼と言われるような実力者になっていった。

 戦後の電力再編成では松永・新井の抗争に端を発し、政界を巻き込み吉田茂総理の娘婿であり、麻生元総理の父親でもある麻生多賀吉氏、東北電力会長でTVドラにもなった風雲児白州次郎氏、電力の鬼松永安左ヱ門氏に対するのは新井章治氏を中心として長野電灯社長であり信州にある全ての会社のオーナーでもある名門小坂一族、結局、民間による九電力体制の地域独占による電力会社設立に決まり、日本最大の電力会社「東京電力」が設立されたが、役員人事での人事抗争が二回戦の紛争開始。

 初期の大規模電源開発の最初は戦前から計画されながら軍備拡張が優先され、資金難で開発が出来なかった只見川総合開発であった。

 只見川特定地域総合開発計画で、1950年(昭和25年)に施行された国土総合開発法に基づき、日本政府が決めた地域開発の目玉として、只見川総合開発を決めた。

 只見川の水源は栃木、群馬、福島、新潟に広がる尾瀬沼高原であるから、当然それぞれの県が権利を主張、また新潟県は新潟県側に水を流して発電所を新潟県側に建設する。

 福島県は只見川から阿賀野川までの山間部の高低を利用して、川に沿って幾つものダムを建設する。

 それぞれの主張は、陳情、接待の連続で只見川は、タダノミ川と揶揄された。

(只見川水力発電所)
(広川弘禅氏)

 当然政府内に波及し、吉田派、鳩山派に分かれての抗争に発展した、この時活躍したのが、吉田派の実力者で、吉田茂首相の懐刀といわれていた広川弘禅農林大臣(当時)、福島県選出、石川郡出身、この人の実力は凄かった。次いで活躍したのは福島県知事の大竹作摩氏、ともに底辺から這い上がった苦労人、二人の実力者を中心にした福島県勢の結集力によって福島県が主体となる本流案が採択され、只見川の総合開発となった。

 今日でも上越線小出駅と会津若松駅を結ぶ、JR只見線は見事に連続してあるダムの景観に沿って走る、2012年、田子倉発電所再開発事業が完成する、誠に息の長い開発で、黒部渓谷総合開発と並ぶ難工事の末に生まれ、かつ今日でも現役として活躍し、他の河川のようにダム建設により下流が水枯れになってしまうようなこともなく、満々と水を蓄えたダムが望見でき、阿賀野川に繋がった電源開発としては成功例に挙げられる。

 ここで判ることは、電源開発とは政治権力によって決まる。電力会社としては有力な政治家を抱き込む、官僚の実力派にはコネを付けておく、ダムは限られた土地だが、送電線は延々と選挙地盤を通って敷設される、利権に群がる政治家がいるのは当然となる。

 この只見川総合開発で東電は水源地である国立公園尾瀬沼の敷地約4割を東電が所有している、当初の計画は水源を確保するためで、現在は大変な価値となっているだろうけれども、災害補償のためにこの国立公園の敷地を売却することになれば大騒動になるだろう。

 天下り人事、1957年通産省次官石原武夫氏が最初、常務、副社長、常任監査役を歴任、退職後は相談役になり、亡くなるまでの34年間東電の役員として過ごしてきた。

 その後は続々と天下りが慣例となり、庁長官、局長、審議官クラスが東電の役員に収まり、役職がなければ人数制限のない顧問に収まった。

 この顧問も公表されることなく、誰が顧問に就任しているのか藪の中であったが、原発事故以来風当たりが強く、東電は5月21日遂に公表に踏み切り、顧問の氏名、報酬を発表、その天下り前の官庁は、経済産業省ばかりではなく、国土交通省、警察庁、旧建設省、旧通産省、国際協力銀行等々OBが天下り先の指定席は決まっていたらしい、平均報酬額は1,042万円、まさに東電は天下りの天国であったが、自民党時代の1962年から続き、今回の事故を受けて批判され、2011年4月30日民主党政権がこれを裁ちきり、自粛措置を執った。これから官庁との癒着がない新しい関係がどう構築されるのか。

 株式会社の役員人事は六月末の株主総会で決めるのが一般的だが、東電の初代社長は日本発送電副総裁だった安蔵弥輔、二代が関東配電社長だった高井亮太郎、三代が品川白煉瓦社長だった青木均一、そして四代目社長になったのが東電社員出身の木川田社長まで松永安左ヱ門氏の鶴の一声で決まった。

 その後は松永氏が亡くなり、五代目以降現在の十二代西沢俊夫社長まで東電社員が受け継いでいる。

 天下りの最盛期は田中内閣の時代、札束が乱れ飛ぶ金権政治の幕揚げをしたのが田中氏で、東電の新潟県柏崎刈羽原発建設の始まりは、刈羽村の隣町が西山町で田中氏の生家はここにあり、支持基盤はここにあるから、木川田東電社長は田中氏詣でを繰り返し、用地買収、反対派対策、すべてが田中氏の胸三寸、当時の田中氏の口利き料が5%、1基3,000億円といわれていた原発建設利権、1971年期待通り田中氏は原発建設の許認可を握る建設大臣に就任、電源開発促進法など電源三法を成立させ、周辺市町村を含めた補助金をばらまく制度を成立させた。

 田中氏はやがて首相になり、金権政治を行ったが、その頃、経済は進展し続け、高度経済成長の波にのって電力の消費はウナギ昇り、電力会社は電源確保さえ出来れば単一商品である電気はいくらでも売れる、地域独占であるから他社との競争はなし、しかも電気を消費する電化製品はメーカーがどんどん生産して販売してくれる。産業界は輸出増大に血なまこになって電気をどんどん消費してくれる。

 生活水準もどんどん上昇し、‘三種の神器’から家庭電化製品の充実こそがステイタスとばかりに取り揃えれば電気の消費も拡大、営業によって会社の業績が上下する一般会社と異なり、単一商品である電気を生産し、送電すれば、自動的に売り上げになる、その料金は国が決める営業努力する必要はない。

 あとは管理する官僚や政治家との折衝だけ、それは一部の幹部が担当、となれば関心事は会社の内部だけ、年功序列の賃金体系となれば官僚らしくなるのは当然で、社風は官僚より官僚らしい、と外野の評価だがこれまた当然の結果であり、外野のひがみ根性がそう言わせているだけ、とは内野からの評価。

 ところがこの世相を苦々しく思う国民がいて当然だが、その筆頭は市民運動家市川房枝参議院議員で、政治献金阻止を訴え、その手段として、東電をやり玉に挙げ電気料金請求額を1円差引いた料金支払うという市民運動をおこし、東電側は満額でなければ受け取らない、不払いならば送電停止の対抗措置を執ると泥試合になり、総評は裁判所に献金阻止を訴訟する準備を整えていた。

(市川房枝代議士と菅直人青年)

 市川房枝議員の草の根運動に共鳴して、手足となって働いていたのが、大学を出てまもない菅直人青年、市川房枝議員と二人で二院クラブを結成したのが参議院議員の青島幸男氏で後の東京都知事、‘シャボン玉ホリデーでのアオシマだー’のほうが有名かも。

 この1円差し引き運動は効を奏し、東電南社長(当時)が市川房枝事務所に出向き、東電が政治献金を自粛することを告げ、手打ちとなった。

 東電の歴史において社会的な軋轢は大分ありましたが、政治的な軋轢であって官僚的な解決に終始しましたから、東電の企業努力は政治権力や官僚との折衝にあれば、官僚的な思考、発想に陥ることは当然の流れでしょう。

Q:東電は政府に対して原発事故現場から社員を撤退させたい、と政府に対し申し入れがあったと訊きましたが、本当ですか?

A:その様な噂があったのは事実ですし、3月15日早朝、東電本社へ菅総理が乗り込んだことも事実です。そこでの経緯を関係者は口を噤んでおり明らかではありません。

 公表されてはおりませんが、3月14日の深夜、海江田経済産業相のところに清水社長から電話があり、「事故現場から社員を撤退させたい」との申し入れがあり、海江田大臣は即座に拒否、その後再び同じ内容の電話が枝野官房長官にあったとのこと、このことが菅総理の耳に達し、早朝の行動になったらしい。

 菅総理は、東電本社会議室で居並ぶ東電幹部の前で、「撤退などはあり得ない、東北地方が壊滅してしまうし、東電も壊滅する」と死守を命じたが、この報道は当初 ネガティブな論調で報じられたが、とんでもないことで、危機管理の重大性を理解できていない。

 一方,菅総理は既に政権交代しているが、在職中は残念ながら批判が集中した内閣であった、が、しかしこの一点は最高の判断であり、日本を救った最大の功績と言える。

 この事実は現場から要請があったのか、本社サイドだけの判断なのか、判らないが、吉田所長は作業を継続することを宣言し「フクシマ・フィフティ」の先頭で突き進むことを誓っているから、本社取締役会の判断なのか、社長、会長の独断なのか、関係者は沈黙したまま、清水社長はその様な申し入れはしていないと、こちらも全面否定、真相は藪の中、その後、清水政孝社長は3月16日〜21日の5日間心労による体調不良を訴え、東電内に設置された原子力緊急対策本部長を外していた。政府と東電の間で立ち上げた福島第一原発事故統合本部の副本部長を務めていたが、13日記者会見に立ち会った後は姿を消していた。3月29日、都内の病院に緊急入院したと30日東電から発表があった。

 体調不良は高血圧とめまいと発表された。今後の総指揮は勝俣会長がとる、と30日の記者会見で経緯を説明した。

 東電本社に乗り込んで、東電幹部は頼りに成らず、と判断した首相はそれ以後、官邸から直接矢継ぎ早な命令がでた。

 事故現場へ自衛隊の全面的な出動、各都道府県知事に消防隊の出動要請、

 15日午前11時菅首相「20〜30km圏内の住民に屋内避難を指示」

 半径30kmの上空の飛行禁止を発令

 15日 北沢防衛大臣、陸自担当幹部、東電幹部による協議によりヘリコプター部隊による放水作戦決定。

 建屋が水素爆発で上部が吹き飛び、燃料プールへ直接 空から放水できるようになり、ヘリが水嚢をぶら下げて、燃料プール目がけて放水する作戦、しかし、過熱している燃料棒へ直接水を掛けたら、水蒸気爆発の怖れがあったが、このまま放置すれば、間違いなくメルトダウンになる、溶解を防ぐためにはやれることをやると判断し、決行を決意した。

 防衛大臣が自衛隊支援部隊現地総指揮官である、東北方面総監君塚陸将に下令、ここからヘリによる放水作戦実施となった。

 陸上からの放水のため自衛隊消防車の出動、陸上自衛隊中央特殊武器防護隊からの派遣で核兵器、化学兵器による汚染除去を主任務とする部隊が出動した。

 3月16日福島第一原発、3号機の建屋から白煙が上がり、すわ大事故か、と緊張しましたが、これは水蒸気で、3号建屋内で保管していた、使用済み核燃料貯蔵プールの冷却水循環が停止し、水位が下がって使用済み燃料が露出し、崩壊熱による水蒸気ですから、放射線濃度が高い水蒸気が放出されていたことになる。

Q:福島第一原発事故で被害拡大を防ぐため、外部からの支援である自衛隊、消防隊、その他多数の人達が現場に投入され、活躍しましたが法的根拠はどうなっているのですか?

A:自衛隊法をみてみます。先の阪神・淡路大震災時には、災害救助に自衛隊派遣が大幅に遅れてしまい、大きな非難が巻き起こりました。これは当時災害派遣要請がない限り出動出来ない規定に成っており、地方自治体からは出動要請なし、村山内閣、当時は危機管理室がなく、バラバラに入ってくる情報に混乱し、全く対策を執らず他の案件を審議していたという大失態を演じ、徹底的に批判されたのを契機として自衛隊法が改正され災害派遣が大幅に出動し易くなりました。

 災害派遣:地震、水害等の大規模な天変地異や、大量の死傷者の発生を伴う規模の事故等の各種災害に対して救助や予防活動などの対応に対し限界を超えた場合、陸海空の自衛隊部隊を派遣し、その組織を以て救援活動を行う、のが災害派遣です。

○ 近傍派遣(自衛隊法第83条3項)

部隊や自衛隊施設の近傍で災害が発生した場合、部隊の長が部隊を派遣してすることは、都道府県知事の出動要請の必要はなく、部隊の長の命令だけでよい。

○ 地震・災害派遣(自衛隊法第83条の2)

地震に関する警戒宣言が出され際に地震災害警戒本部長から要請された場合に出動する。 この条文での出動の実績は未だない。

今回の原発事故に出動したのは北沢防衛大臣、陸自幹部、東電幹部との協議によるへリコプター部隊の出動、消防車の出動となった。

○ 原子力災害派遣(自衛隊法第83条の3)

原子力緊急事態宣言が出された際、原子力災害対策本長の要請により部隊が派遣される。東海JCO臨界事故を受けて1999年(平成11年)に制定された原子力災害対策特別措置法に関連して追加された。福島第一原発では原子力災害対策特別措置法に基づき派遣された。派遣部隊は「陸上自衛隊中央特殊武器防護隊」。2008年創設、埼玉県大宮駐屯地内にある部隊で、約200名の隊員で構成される特殊部隊です。

特殊とあるのは扱う武器が特殊だと言う意味で、「特殊武器」とは、核兵器、生物兵器、化学兵器等を指し、その兵器で攻撃された際には、汚染された地域があれば「防護」、つまり汚染除去に活躍する部隊です。 原発事故では初めて80名の隊員が出動して、最も危険な個所に入って活躍していますが、その報道はなし、マスコミは無視したようです。

 自衛隊法上のその任務においては、首相や防衛大臣などの指示命令が必要とされ、行動が厳しく制限されております。

 災害派遣だけは例外として、災害派遣の要請は都道府県の知事の他、海上保安庁長官、管区海上保安本部長、空港事務所長、現地警察署長が要請できます。

 また、有線通信が途絶えた、現地が混乱していて関係機関に連絡できない場合は、直接自衛隊に派遣要請、若しくは自衛隊が独自に判断して出動するのが自主派遣で、後に都道府県知事の要請を受ければ良いとされた。

 自主派遣は、駐屯地司令である二佐(旧中佐相当)の自衛官の判断で、出動を命ずることが出来るようになった。

 今回の東日本大震災では、東北各地に駐屯している自衛隊では、各駐屯地とも、地震発生15分後には出動準備下令、30分後には出動しております。

 各都道府県の消防隊、警察官の派遣は内閣の要請により、各都道府県知事による下令になります。

Q:ヘリコプターによる放水投下作戦が行われ、TVで放送されていましたが、どんな効果があったのですか。

A:目的は3号建屋にある「使用済み核燃料一時貯蔵プール」への冷却水循環が停止し、崩壊熱で水が蒸発してしまった、その冷却水補給としての放水投下、地上からの放水作戦です。続いて他の建屋にも放水しました。

 出動命令を受けた、陸上自衛隊・第一ヘリコプター団(千葉県木更津基地)ヘリ2機が参加予定されたが、その前に偵察として、16日午後、事故現場上空の放射線の測定を実施したが、放水投下予定の90m上空が877mSv/hの高濃度で、乗組員の被曝が懸念されるた、その日は中止。

 翌17日、ホバリングしてから狙いを定め、モリタリングの結果、1機40分が計放水投下の予定を取止め、飛行を続けながら投下し、直ぐ避難する飛行ルートを設定した。

 現場上空の滞空時間は計40分が限度、2機が交互に計4回放水投下として午前9時48分 3号機のプールに向かつて放水投下、計4回投下して午前10時終了。

 「蝉の小便」作戦と外国メデアは嘲笑的に報じたが、せっぱ詰まった状況下で他に方法がなく、高濃度の放射線量に汚染されている上空へ飛び込んでいかなければ放水投下できない苦渋の決断であり、それによってやっと小康を得たのだから、外国のメデアが報じると、それに便乗して早速、国内でも報じた、無責任な野次馬は何処にでも居るのだ。

 (蝉の小便、とは、欧米では何の役にもたたない、という意味がある。)

 続いて、陸上から警視庁機動隊、デモ鎮圧用の高圧放水車、自衛隊の消防車が放水を開始した。しかし高圧放水車はデモ用なので、上方へ向けての放水には適さなかった。

 18日 三自衛隊 消防車計6台、計40トン放水、米軍消防車貸与操縦は関電工職員2トン放水した。

Q:外部からの放水作戦の成功で3号機の使用済み核燃料一時貯蔵プールに注水できて 小康を得ました。よかったとホットしました。でも3号建屋の上部が破壊されたから上部がむき出しになり、外部からの放水が可能になったのであり、もし建屋が健在だったらどうなりましたか?

A:確かにご指摘の通りですが、その点に関し調べましたが、専門家の解説はありません。素人が勝手に想像することですが、3号機の「使用済み核燃料一時貯蔵プール」は建屋のなかにあり、原子炉とは別にある施設で建屋の上部にあります。

 燃料棒は原子炉の中での核反応分裂で熱エネルギーを放出し続け、約3年で使用済みとなり、新しい燃料棒と交換します。そうして取り出した燃料棒が「使用済み核燃料」ですが、崩壊熱を出しつ続けますから、これを冷却しなければならず、「使用済み核燃料一時貯蔵プール」に入れて冷却水を循環させ崩壊熱を冷却するのですが、これが長期間で約3年かかるのです。その間冷却水の循環が必要ですが、今回の事故のように冷却水の循環が停止すれば、崩壊熱によりプールの水は蒸発してしまい、燃料棒は露出し、最悪メルトダウンの可能性があります。

 ですから必死になって外部からの放水に拘ったのです。素人が考え込んでしまうのは、建屋の上部が破壊されたから外部からの放水が可能になった。もし水素爆発がなく建屋が破壊されなかったら放水は不可能、或は建屋の崩壊がなかったら、放水の必要はなかったのか。しかし、そんなことはない、原子炉とは別にプールでの貯蔵であり、それも覆いのないむき出しですから、崩壊熱で水は蒸発、燃料棒が露出し、崩壊熱で融解はありうることで、その結果の被害はどのようなモノなのか。あるいは建屋は1〜2mの厚いコンクリートの壁で覆われていますから、健在ならば放射能は内部で抑えられたのか。または、建屋の外側からプールに直接注水できる施設があったのか。素人には判らないことばかりです。専門家の解説を是非訊かせて下さい。

Q:使用済み核燃料はどの位あるのですか?

A:東電発表によりますと、3号機 514本。 4号機 1,331本。 5号機 946本。 6号機 876本。 共用プール 6,375本。 だそうです。

Q:放水は電源が回復し冷却水循環システムの再稼働まで続けたのですか?

A:3月19日 この日から外部消防隊が揃い本格的な放水作戦が開始

 東京消防庁ハイパーレスキュー隊(消防救助機動部隊)139名、屈折放水塔車、特殊災害対策車、大型化学車、ハシゴ車、作業車等 計30台参加、屈折放水塔車へ2台で水を補給する中継車を連結で連続毎分3.8トン放水可放水作業は、使用済み核燃料一時貯蔵プールへの冷却水循環システムが再稼働するまで継続し、融解を防ぐことに成功しました。

 午前0時半 東京消防庁ハイパーレスキュー隊3号機への放水開始、20分の放水で中止。3号機周辺1時間当り3,181マイクロシーベルト観測(単位に注意、マイクロ、μSv/h) 

 午前4時22分 5号機の核燃料保管プールの冷却水循環機能が復活

 午後2時5分 ハイパーレスキュー隊3号へ放水再開、連続7時間予定

 20日 午前3時40分まで13時間放水し続けた

 午後7時 1、2号機への配電盤兼変圧器と外部からの送電線と接続作業完了

 午後10時 6号機の核燃料保管プールの冷却機能回復

 午後11時 3号機付近、1時間当たり2828マイクロシーベルト(μSv/h)

 20日 午前8時20分、陸海空自衛隊消防車11台による4号機への放水開始  

 午後4時 送電線が外部と繋がった2号機の電力設備で通電を確認

 午後6時半 自衛隊消防車地上から4号機へ放水開始、連続6時間予定

 午後9時半 緊急消防援助隊(東京消防庁)3号機へ連続6時間放水予定

 21日 午前4時 3号機への放水終了

 3月21日 午前6時40分、自衛隊による地上から4号機へ放水開始

 午前8時40分 4号機への放水終了

 午前11時半 5号機の配電盤まで受電、6号機にも電気が流せる状態になる

 午後6時20分頃 2号原子炉建屋から白煙上がる。

 22日 午前8時、電源復旧作業開始

 午後3時10分 緊急消防援助隊3号機へ放水開始、午後4時終了

 午後5時17分 東電は生コン圧送機(中国から輸入)を使い4号機保管プールへ放水

 午後10時43分 3号機の中央制御室に外部電源が供給され、照明点灯

 3月23日 午前10時 東電生コン圧送機で4号機の保管プールへ放水

 午後4時20分頃 3号機から黒煙が上がり3、4号作業員退避

 3月19日〜22日  東京消防庁     参加人員 139名

 3月19日〜22日  大阪市消防局      〃  53

 3月22日〜24日  横浜市消防局      〃  67

 3月24日〜26日  川崎市消防局      〃  36

 3月26日〜28日  名古屋消防局      〃  34

 3月29日〜30日  京都市消防局      〃  40

 3月17日〜4月まで 陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊の消防車

 放水作戦終了

 使用済み核燃料一時貯蔵プールへの冷却水循環システムが回復して、正常に冷却が出来るようになった。(3月20日外部電源と繋がったが、その後内部電路修復が必要だった)

Q:原子炉内への冷却水注入はどうなっていたのでしょうか?

A:1〜3号機の原子炉は融解しておりこれ以上の融解は防がなければならないのです。

 外部から内部へ通じるパイプを使って海水の注入が行われた。しかし簡単にはいかないのです。

 原子炉は圧力容器の中にあり、圧力容器と名の通り、容器の中は70気圧というもの凄い圧力なのです。外部は1気圧ですから、70気圧の中へ水を注入するためには、70気圧に対応できる高圧ポンプが必要です。従って消防車の力では水をいくら送っても注入出来ないのです。

 では圧力容器の気圧を下げればよいではないか、とはいかないのです。何故なら原子炉では70気圧で280度の高温で沸騰するよう設計されています。

 もし1気圧に下げたら、100度で沸騰することは常識で知っている通りです。

 従って容器の中を1気圧にしたら瞬間的に沸騰し、水をいくら注入しても足りず、もの凄い水蒸気が吹き出し、放射能が飛び散ってしまい、水蒸気爆発の危険もあります。

 ですから絶対に出来ないことですが、圧力を少し下げて水を入れ、温度を下げて水の蒸発を送らせる、と言う難しい作業を繰り返し燃料棒の頭ギリギリの水を保つよう操作しいたようです。

 そしてやっと外部電源である新福島変電所と接続できたのが、事故から9日目の20日で、制御系統、機器が海水を被り、その一つ一つの塩分をふき取り、導通を確かめ、やっと電源を確保して、応急作業ながら冷却水循環機能が回復するには更に時間がかかった。

 次ぎの闘いは、膨大な汚染水の問題ですが、これは放射線量、放射物質、汚染土、除染のこれまた頭の痛くなる問題ばかりですが、項を改めて解説します。

Q:外部電源が喪失したことは判りましたが、どうして復旧に9日間も要したのですか?(3月20日午後4時外部電源と通電確認)

A:地震で鉄塔が崩壊し、送電線が切断され外部電源が喪失した。非常電源は全て津波で壊滅または水没。従って外部電力の回復に全力を尽くしたと思う。

 鉄塔を建て直すわけではないのだから、応急処置で取り敢ず通電するだけの工事がこれほどかかったのは、地震で障害物がありすぎて工事が難行したのか。放射能汚染で外での作業が難しかったのか。

 福島第二原発は地震、津波とも第一と同じように被害を受けたが、奇跡的に炉心融解という最悪の被害は免れた。その違いは全電源を喪失した第一、第二は辛うじて一部電源が生きていたという幸運によるものか、更なる幸運は第二には東京電力と東北電力からの二系統あったが、第一は東京電力だけの一系統だった。これは設計の段階で決まっていたそうだが、危機管理の認識があれば双方の電源を確保しているだろが、その認識はなかった。だが、第一原発には東北電力からの電源があった。それは原発建設期間中、地元東北電力から工事用の電源として敷設したもので、工事完了後はそのまま放置して活用はしていなかった。

 事故後、その事に気づき東北電力からの工事用外部電源ケーブルに接続しようとしたが、容量も不足しており、活用するには時間がかかるとして、再び放棄された。

 ‘モシ、if’は許されないが、外部電源として東電の新福島変電所からの系統と並んで東北電力の系統を整備していたならば最悪の炉心融解、水素爆発、放射性物質の放出は回避出来たかも知れない。

 さらにもう一つ、安全対策を怠った事実が判明した。10月23日朝刊、東電が福島第一原発の全電源喪失を防ぐため、2006年に1〜6号機を電気ケーブルで繋いで電源を融通しあう改良工事を検討しながら、技術的な障害を理由に見送った経緯があったらしい、この当時には既に貞観地震、津波も明らかになっており、当然東電内部では検討課題だったのでしょうが、実質的な検討までは至ってなかた。

 第一原発では5〜6号機は互いに連携しており、唯一残った6号機の非常用ディーゼル発電機1台で原子炉の冷却は出来た。その後応急措置として地面をあわせた電気ケーブルで1〜6号機と連繋したのが4月25日、もし、06年の時点で改良工事を推進していれば事故は防げたかもしれない。

 元東電幹部によれば、06年、自然災害などで電源を失って過酷事故に至る事態を避けるために、電源設備を増強する計画が練られたという。

 構内の南側の1〜4号機は互いに電気ケーブルで繋がっており、電源を共有していた。北側にある5、6号機の間でも繋がっていたが、1〜4号機と5、6号機の間には繋がっていなかったので、これを改良工事で鉄塔を建て電線を架設する計画であったが技術的な問題もあり断念した、とあるが、おかしいと思うのは電力会社が技術的問題というのはどうゆうことか、自社の技術力を卑下しているわけでないでしょうから、資金難ということか。優先事項でなかった、要は想定するような全電源喪失などあり得る訳がなく、余計な金は使たくない、安全神話が優先してしまった。

 さらに東電幹部は原子力本部を「原子力村」と呼ぶ福島原子力発電所の建設を決めたとき、原子力の専門家はいなかった。水力発電と火力発電の電力会社であり、その途の専門家は居ても、戦後暫くの間は占領軍が原子力の研究を禁止、戦前の研究施設は全て海に放棄させた。

 大学の工学部にも原子力科はなかったのだから、国内的にも専門家は居なかった。

 だから、建設当時はやっと原子力科が開講し、そこを卒業したばかりの若人に頼らざるを得なかった。そのうち次々と建設され原子力関連技術者が増えても、原子力部門と他の部門との人事交流がない、あるいは仕様がなかったのだから閉ざされた部門として原子力村が出来ても不思議ではない。

 原子力本部長は絶対的な権限を持ち、会長、社長を筆頭とする経営陣といえども口出しできない聖域が形成されてもこれまた不思議ではない。

 日本経済新聞には「米国の電力会社に比べ、東電の経営陣には原発の精通者はいない、米電力会社では原発の専門家が最高責任者と同じフロアに居て意志決定に深く係わっている。東電では原発の専門家の多くは本社から遠く離れた場所にいる」という記事があった。

 東電歴代社長は法学部か経済学部卒、東電内でも営業部、総務部、企画部がキャリアーコース。11代社長清水政孝氏が初めて資材部から社長に抜擢された、これは長びく不況で電力消費が落ち込んだため初めて護りに入った布陣だったが手腕を振るう前に災難がやってきた。12代の安西社長は企画部出で元に戻った。

 会長は社長引退後のポストだから東電トップの布陣には替わりはない。そうすると水力部門や火力部門とのバランスもあり、特別に原子力部門だけを重視するわけにいかない、技術的なことが判らなければ、安全対策の重要性の判断も鈍くなる、悪循環が吹き出してしまった。

 さらにもう一つは、この十年間は、事故による停止、資料隠し、隠蔽工作、内部告発をもみ消し等々東電に纏わるスキャンダルが続出し、経営陣はその対策に追われ、本来の業務が疎かになってしまったのか?

(内部告発はGEからの派遣技術者が帰国の際に内部告発したが、もみ消してしまった)

Q:福島第一原発事故は現在収束に向け最大限の努力をしているでしょうが、収束した後、東電としてはどの様に処理する計画ですか?

A:3月30日、東電の今後の方針を発表したが、事故を起した1号機〜4号機の原子炉は廃炉と、東電取締役会が決定したと、勝俣会長が発表した。

 事故後19日も経ってからなのは、その間なんとか再建できないか、1基3,000億円もするコスト感覚からすれば廃炉するには躊躇して当然かも知れない。

 しかし、そのコスト感覚こそが事故の原因になっていることも考慮すべきだ。

 廃炉の要因として挙げたのは、核燃料ペレットの溶解や水素爆発により設備に著しい損傷を受けたことを廃炉の理由だとした。

 計画中の7号機8号機の建設を中止する。

 点検中だった5号機、6号機の原子炉は冷温停止状態にあり、除熱機能は維持されていたので損傷は受けていない、としているが、東電としては、まだ詳細な調査をしていないので、当面は安全な冷温停止状態の維持に全力を尽くす。

 事故の1〜4号機の原子炉等の冷却や放射性物質の飛散防止等安全性確保に要する費用として、4,262億円。

 第一原発の5号機、6号機、第二原発の原子炉の安全な冷温停止状態維持のための費用として、2,118億円。

 第一電発1号機〜4号機の廃炉に関する費用、2,070億円。

 7号機、8号機の増設計画中止に伴う費用、393億円。

 災害特別損失の現状での見積額を計1兆175億円。

  福島第一原発廃炉までの工程表

* 使用済み燃料プールからの燃料取り出し・・・・5年後

* 原子炉の使用済み核燃料取り出し・・・・・・・10年後

* 建屋の解体までの見通しは観測として・・・・数十年後 

* 今後の技術力強化に見通しより早くなる可能性はある。

* 原子炉冷温停止後、警戒区域縮小・解除を慎重に検討する。(年末か1月まで)

* 技術開発、原子炉内の放射線量を下げるための、遠隔除染技術の開発(ロボット)取り出した燃料、放射性物質等の廃棄物の処分技術、または封じ込め技術。

* 廃炉その他 放射性物質に汚染されている物体の再処理・封じ込め、埋め立て等の原発保持している国を含めて総合的な研究が必要で、政府が指導する必要がある。

今後この分野では世界中の原発保有国が再処理、保管、廃炉その他困難な問題に直面することは明らかなので、この機会にとことん研究を重ね、出来れば処理能力で世界をリードする原発処理先進国になってほしい。

Q:事故現場で活躍している人達の被曝の心配はないのですか? 作業環境における放射線量の許容限界を教えて下さい。

A:原子力発電所での作業における国際的な放射線被曝限界は5年間平均で年20ミリシーベルトであり、1年間で50ミリシーベルトを超えてはならない。しかしアメリカ環境保護庁は緊急時に対処する要因は「高い財産を保護するため」100ミリシーベルト、「多くの人々の生命を助け保護するため」250ミリシーベルトまで引き上げを許容する。

 我国では、事故に直面した際の最大許容量を1年で100ミリシーベルトとしていたが、2011年3月15日、厚生労働省は福島第一原発事故の状況を鑑みて、これを250ミリシーベルトまで引き上げた。これが現在の基準です。

 しかし、この放射線量は突如高くなることがあり、常時測定をし続け、許容範囲を超える警報が鳴ったら即座に避難する設備を設けなければならない。

 2011年3月15日朝、1時間当り1,000ミリシーベルトが検出した瞬間には、作業員達は一時退避しなければならなかった。これが最大値でその後は起きていない。

 放射線量は長時間浴びていると健康に影響があるが、瞬間的なモノは影響がない。

 250ミリシーベルトの放射線を1日中浴びていた場合、状況によっては即座に兆候が現われる場合がある。

 その兆候は、吐き気、食欲不振の症状から。骨髄、リンパ節及脾臓へのダメージがある。 一般的には、1〜3シーベルトのレベルではより大きな影響が現われ,回復が難しくなる可能性がある。3シーベルトを超えると影響は深刻となり、皮膚の剥離や出血、生殖障害などが現われ、即刻、治療が施さなければ最悪の場合 死に至る場合がある。

 5シーベルト以上であれば、治療しても確実に死に至る。

(単位に注意して下さい。1シーベルト=1,000ミリシーベルト、5シーベルト=5,000ミリシーベルト。 メートルの,,,1/1,000がミリ(m)。ミリの1/1,000がマイクロ(μ))

(時間の単位も要注意、1時間、1日、1月、1年)

 福島第一原発の収束作業で、10月4日までに3人の作業員の死亡が確認されていますが、被曝による死亡ではなく、持病が悪化したと発表されていますが、3人とも事故後現場採用されて働きはじめた作業員の方のようです。

Q:日本政府は情報を隠しているのではないか、情報操作をしているのではないか、と外国メデアから大分たたかれたようですが、ホントに隠していたのですか?

A:まさに通信衛星時代で、世界中に送られた凄まじい津波の映像に、テレビの前に釘付けになり、世界中に衝撃が走った。それに続いて原発の事故。監視衛星により水素爆発で破壊された建屋の映像に、水蒸気爆発、原子炉の爆発と解釈してしまったから、東北地方・関東地方が壊滅するだろう判断したようです。

 だから在日外国人は我先にと国外へと避難していった。在日各国大使館、領事館は全力を挙げて東北・関東在住の自国民に電話で何度も避難を呼びかけた。

 これは最初アメリカ政府が、福島原発から80km圏内に住むアメリカ人を対象に圏外避難を、大使館を通して連絡し始めたことから、他の在日大使館から自国民に対し一斉に避難指示を出したのです。

 外国政府は25年前のチェルノブイリ原発事故の悲惨さが念頭にあり、当時のソ連政府は事故を公表せず、放射性物質だけが風に乗って忍びよってきた恐怖、最初に気付いたのは、遥か遠く離れたスエーデンの原発で、監視用のガイガァーカウンターの警報音が鳴り、メーターの指針は跳ね上がった。

 係員は当原子炉の事故かと驚いて調査したが、その兆候なし、そのうちヨーロッパ各地にある原発、研究所、大学等でもガイガァーの警報音、メーターの急上昇、大騒ぎのうちに各地の放射性物質の濃淡、上空の風の方向等を探り、爆発点はソ連国内だと特定したが、ソ連政府は沈黙、勿論マスコミや調査団の入国は認めない、調査、取材は出来ない、従って、西側で観測して推測することしか出来なかったので余計に恐怖が増した。

 その後遺症があるから原子炉爆発に関心が高まり、今度の福島第一原発は、東日本大震災で地震、大津波で世界中が注目していた中で続いて起きたために水素爆発の映像を世界中が初めて視たので、水蒸気爆発による原子炉本体の爆発と勘違いし、チリイブイリの爆発は1機でしたが、福島原発は3機稼動しており、1号建屋、3号建屋、爆発、2号建屋も煙が上がると続き、世界中がチェルノブイリより遥かに大きな重大事故、極端に言えばこの世の終わりを匂わせる報道まであった。

 従って、日本発信の報道は凄まじく悲惨なものになるだろう、思っていたが、保安院の発表は何故か日本人が聴いても意味不明なシドロモドロな応答、外国人記者には理解できない記者会見、枝野官房長官の政府発表も歯切れはよいが、経過だけの発表で奥行きがない、しかも手話通訳はあっても、同時通訳はない片手落ちの記者会見でした。

 もう一つ、保安院が外国人だけの記者会見をやっており、CNNでその中継を視た。

 保安院の西村審議官が担当しており、相当厳しい質問がありましたが、これまた歯切れの悪い応答に成らないような応答に終始、記者会見に臨んだ記者達は苛立っていたようだ。

 さらに現場に取材に行けないもどかしい思いが強かったのでしょう。記者会見の後で、一記者曰く、本社からもっと掘り下げた記事を送れと矢の催促だが、発表が少なく、しかも経過だけの表面だけで、送る記事が少ないので、日本政府は何か重大情報を隠しているのではないか、と勘ぐるのは当然、事実その様な記事を送ったようだ。

 しかし、かつての大本営発表のような意識的に虚意の発表や情報操作をする、という事はゼロでは無いでしょうが、少なかったと思う。

 最初の政府発表ではレベル4相当としていましたから、スリーマイル島事故よりは低いくらいだとやや安心していましたが、次の発表はレベル5になり、さらにレベル7と引き上げられると発表されたときはチェルノブイリと同じ程度と知って仰天した。

 テレビで原子力の専門家が解説していたが、水で冷やしておけば大丈夫、我国の技術力を持ってすれば収束するのは近いと、していたが、レベル7に引き上げられてからは解説者が番組から消えてしまった。

 外国での報道では、東電、日本政府の責任追及の論調が多く、特にフランス・メディアは厳しく切り込んできた。東電のトラブル隠し、「怠慢と不透明な10年」、事故後の見通しの甘さ、日本には原子力の専門家はいない、とまで断じている。ドイツでは「死の恐怖東京」「東京に放射性の雲」と反原発を煽るような記事が続き、ロシア、中国、韓国等世界のメデアがこぞって報じたのは日本政府、東電の見通しの甘さ、後手に回る対応、反応の鈍さを指摘、またより正確な情報を得たいならアメリカ政府に取材した方が確実だ、との皮肉った報道もあった。

 日本政府の情報操作や情報隠しの真相はどの程度なのかは分からないが、国民の動揺、風評被害を怖れて過小評価したきらいはあったようだし、また、東電自体が情報を出し惜しんでいたようで、事故前でも資料改竄問題、隠蔽工作、告発の内部もみ消し等何度も問題視された前歴があり、当然事故後も情報操作をしているだろうと推測されても不思議ではない。外国メデアからは批判的な報道が数多くあったし、情報が少ないので推論で大袈裟な記事が報道されたのも事実だ。

 情報発信が少ないから、あるいは情報操作の結果、かえって日本に対する悪感情を増幅し、信用を失ってしまったことになる。

 全てのことに言えることは、日本人は情報発信が苦手だ。

Q:避難を強いられた富岡町民として最大の関心事は、何時帰れるのか、本当に安心して帰れる日がくるのでしょうか?

A:専門家も政府高位高官の人にも答えられない難しい質問ですが、レベル7のチェルノブイリとレベル5のスリーマイル島の現在を述べます。

 チェルノブイリ:1986年4月、ソ連(当時)現在ウクライナ共和国のチェルノブイリにある原子力発電所で黒鉛減速軽水炉4号炉が突如爆発、炎上し燃えやすい黒鉛火災のため10日間にわたり炎上し、放射線物質が火災の上昇気流にのって数千メートルの上空に達し、南東の風に乗ってスカンジナビヤ半島まで達し、風向きが変わって逆方向に向きをかえ南下しイタリアまで達し、高級なイタリア産小麦が放射汚染で商品にならなかった。

 この放射被害はソ連邦、ヨーロッパ全土に及んだ。

 我国でも微量のセシウム137が検出された。

 この時拡散された放射性物質は250万テラベクレル(テラは1兆倍)と見積もられ、国際原子力機関(IAER)によると、広島に投下された原爆の400倍に換算された。

 原発から半径30km圏内の住民約11万6千人は強制避難、圏外の周辺地域でもスポットの高濃度汚染地域があり、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの各地で約40万人が移住勧告された。

 汚染地域は約14万5千平方km、我国の約4割強、東北、関東、北海道を併せたくらいの面積、この地域に住む住民は、約600万人、強制移住地域は約1万平方km、岐阜県の面積で、約27万人が強制移住した。

 事故から25年経過しましたが、半径30km圏内は立ち入り禁止が継続したままで、解除の見通しは立っておりません。

 ただし、被曝することを承知で1部の人々が30km圏内の故郷へ帰りました。帰宅を希望するお年寄りには特別に許可したようです。また強制避難時に隠れていて避難しないまま住み続けていた人もいるようです。

 スリーマイル島:1979年3月28日、アメリカ・ペンシルバニア州にあるスリーマイル島原発でレベル5の事故がありました。スリーマイル島といっても海にある島ではなく、内陸ですが大きな川の中州が周囲3マイルなので付けられた名で、ここに加圧水型原子炉が2基あり、そのうちの1基が営業運転中操作を誤り、事故が発生し、非常用炉心冷却装置を手動で止めたため、炉心上部の水がなくなり、崩壊熱によって燃料棒が破損、炉心溶融が起きたが、給水回復によって翌日収束した。

 半径5マイル(約8km)圏内の住民は強制避難、半径5マイル圏外だが近くのミッドタウン市の住民は自主避難としたが、大半の市民は避難し約14万人が避難した。

 アメリカの小・中学校の生徒はバス通学が原則で、市の運営する通学用として多数のバスを所有しており、かつ各家庭で車を所有しているから、これらの車両をフルに活用し14万人の避難は一斉に行われ、市内は直ぐに無人になったそうだ。

 収束したのは翌日でしたが、安全確認のため10日後に帰宅を許可したようです。

 事故を起した原子炉は廃炉にし、他の原子炉は州裁判所の稼動再開可の判決を得て再開しましたが、市民との協定は厳しく、市側は緊急事態管理庁を設置、事故時に備え、緊急避難場所、大量運送のバスの運用方法、集合場所、避難の受け入り施設等々、事故に備えた厳しいマニュアルを作成、裁判所の立ち会いで住民と市との間で協定が出来た。

 この協定の締結が、原子炉稼動再開可の条件でした。

 事故を起した原子炉が完全に廃炉になり、安全終息宣言がでたのは14年後でした。

 富岡に帰れる日を指折り数えて待っているのに答えられなくて本当にご免なさい。

 ステップ2が収束すれば、少しは明るいニュースをお届けできると思います。

 少し明るいニュースです。10月10日、体育の日、JR常磐線は久ノ浜駅まででしたが、やっと広野駅まで開通した。

 広野町は9月30日、緊急時避難準備区域が解除されたが、未だ除染作業は始まっておらず、町民の多くは避難地から帰っていない。

 残る不通区間は広野〜亘理の約102km、木戸〜小高間は警戒区域で立ち入り禁止、駒ヶ嶺〜亘理間は部分的に駅舎、線路が流失、路線変更派と現状復活派の対立で全てが白紙状態、常磐線全線再開にはまだまだ時間が掛かりそうだ。

 避難解除になっても、その時点から除染作業が始まるとしたら、どの位の作業量、時間を必要とするのか、帰れるような住環境が整うのはいつなのか、なんとも答えられません。

Q:今更後悔してもどうしょうもありませんが、どうしてあれほど原発建設誘致に積極的だったのでしょうか?

A:原発が密集しているのは、双葉郡ばかりではなく、日本で最高の原発銀座は、福井県の若狭湾沿岸一帯、敦賀市内に関西電力の原発2基、日本原子力研究開発機構の「もんじゅ」と「ふげん」(解体中)。若狭湾沿岸市・町、関西電力の美浜原発3基、大飯原発4基、高浜原発4基が並び、双葉郡の10基よりも多い。  両地方の共通点は、めぼしい産業がない、農業が主体としても稲作以外に特産物なし、出稼ぎの常習化、若者の流出、出口のない閉塞感。

 そこへ降って湧いたような、美味しい話、飛付くのは当然でしょうか。

 電源三法交付金:電源開発促進税法などの「電源三法」に基づき、計画段階を含めて、発電所の立地自治体や周辺に国が支払う交付金。

 原発の立地促進を目的として、1974年に創設された。一般的な家庭で月約10円が電気料金に上乗されている。

 資源エネルギー庁の試算では、出力135万kwの原発を新設する場合、環境影響評価から運転開始までの10年間で約480億円、その後の40年間で約480億円支払われる。

 今年度予算額で全国の自治体に配られる交付金は、補助金を含めて1318億円。

 具体的にみますと、電源三法による電源立地促進交付金、1974年から1984年の10年間に大熊町26億円、双葉町33億円、隣接町村にも同額交付された。また、電源施設など周辺地域交付金が1981年から1994年まで大熊町10億円、双葉町8億円。

 更に毎年確実に入ってくるのが固定資産税、この中には設備投資額の約10%にあたる償却固定資産税が15年間にわたり償却に応じて地元自治体に入る。従って運転開始年度が一番多く、償却に従って減少することになるが、設備の改善,更新、付帯設備、増設が続くので途絶えることはない。

 土地、建物の固定資産税は実質的には存在する限り半永久的な収入源だ。

 1996年度の町税収、大熊町、原発関連固定資産税21億円を中心として、個人、法人の町民税を全て併せると約25億円。大熊町町税調停額37億円の65.6%を占める。

 最高額は1975年度90.7%が原発関連の税収であった。

 同じように双葉町は13億円で町税調停額19億円中67.5%が原発関連である。

 電源三法の施行は1974年3月だったので1・2号機はその前に運転開始であったので、満額は適用されなかった、が、その後は全て適用された。

 第二原発の富岡町・楢葉町は電源三法の恩恵を満額享受した。

 豊かな財政のためこれらの町には地方交付税は交付されていないところが電源三法交付金は使途が制限された故に、町民の生活とは直接的に関連しない図書館、体育館、資料館等々のハコモノが続々と建設され、町のシンボルとなったが、ハコモノは維持管理のカネクイムシ、やがて町財政を圧迫することになったのだが。

 町民の生活も原発建設の大工事が始まると、全国から土木工事関連の関係者が集まり、地元は一大ブームに湧き、関連の仕事が増え、当然ながら町民の所得水準も上昇、1号機建設時はGEが「フルターンキー」の全面請負であったため、アメリカから多数の技術者が来日してアメリカ村まで出来たのだから、貧しいながらも平穏な生活をしていた町民にとって天変地変の一大事件であった。

 運転開始からも住民は原発のお陰で多くの人々が雇用される機会があった、第一原発では最大6,000人が働き、敷地内には関連企業の事務所が30社もあり、その他下請けが300もあったという。出稼ぎの必要がなくなった、若者の流出が止まった、商業面も発展した、転入人口も増えてきて町に活気が蘇った、当然町民の所得も県水準を大きく上回って上昇、県でも最高水準にランクされ、地域経済も上昇、誠に結構だらけの面も満ち溢れていたのも事実で、企業城下町、東電様のお陰です、との思いも強かった。

 双葉町を例に挙げ、その内情を探ります。町の浮沈は財政力指数をみれば歴然とします。税収など自前で賄える財源の指数と、町として最低限必要なサービスを賄える状態のバランスを指数1.0とすれば、これを満たす税収がなければ地方交付税が交付される。逆に超えれば余剰財源ありとして、不交付団体とし裕福団体となる。

 1963年、原発建設前の双葉町の財政力指数は0.23 税収は必要経費の1/4しかない極貧町であった、が、工事が始まり電源三法の交付金が入るようになると、財政力指数は1.0を簡単に超え、1980年にはなんと財政力指数が驚異の3.73に跳ね上がって、超富裕団体になった。詰まり単年度の税収で、3年半以上の財政が賄える、超セレブ町になった。

 町の税収は23億円、その内固定資産税は15億円、さらに電源三法による交付税があれば町、或は町民は豊かな財政を背景にしてハコモノやあらゆる新設、整備の要求。

 しかし、一時的に収入があっても当然ながら年々減らされ、気が付けば早くも1990年には財政指数力は1.0を割り込んでいたのだから早すぎる転落だった。

 通常の自治体であれば交付金があれば賄えるが、豊かな財政で整備したハコモノが足枷となって、何にも無かった町が何でもある町に変貌した結果の悲劇だ。

 そこで町議会は6・7号機の増設、プルサーマルの増設と大変なポテンシャリティを内包しており、これを活用すれば再び活気に満ちた町に蘇ると、建設誘致を議決した。

 しかし、東電は、1度は快諾したが、長引く不況で、電力消費は伸び悩み、建設計画は凍結したままとなって、町財政は困窮に陥っていった。

 乱気流に巻き込まれたような町造りであったかも知れない、身丈に合った牛の歩みに似た息の長い歩みがあったはず、歴史に学び、まずその基本は‘知育’にあり、人を育て、人が町や地域を牽引し、またそれを繰り返す、人材の育成こそが地域振興の基本。

 戦後の日本が再興できたのは、物質的な資源があったからではない、人材という資源があったからこそであって、最大の資産は人間にあり。

 将来は、世界有数の原発地帯になる可能性を秘めた双葉郡であった、が、地域住民は消え、虚しく‘空の城’だけが残された。

Q:10月になって東電に対する新しい動きがあったようですが?

A:2011年11月3日 報道

 東電に纏わることですが、東京電力が巨額の損失を出したのは、経営陣が安全対策を怠ってきたからであり、福島原発事故の最大の要因は経営陣の怠慢にある、として東電の株主およそ30人が歴代の経営陣に対して、合計1兆1,000億円余りを返還するよう求める株主代表訴訟を準備することにした。

 この1兆1,000億余の金額は、東電が8月に明らかにした福島原発事故による損失見込額で、過去20年の間に役員を勤めてきたおよそ60人が対象だとしています。

 もし返還されない場合は、株主代表訴訟を提訴する、としていますが、1兆円を超える請求額は国内では最高額になります。

 提訴の理由として、原発は絶対に安全だ、と繰り返し説明してきた、株主総会でも安全性に疑問を呈したが、安全性を強調するだけに終始した、が、取り返しのつかない大事故を起こしてしまった。

 事故は経営陣の怠慢こそが最大の原因である、この件に関して司法の場で責任追及をしていきたい、としています。

 もう1件は、米国内で東電の経営責任を問う声が上がっております。

 東電は昨年9月公募増資で4,000億円相当を米国投資家の資金を調達したばかりですから、東電取締役は経営のプロとして通常期待される「善管注意義務」を果たしていなかった、更に原子力損害賠償法に従って、数兆円規模といわれる周辺地域の補償となれば負担しきれないから、政府が負担すれことになれば、東電は事実上の国有会社になる可能性が高い。巨額赤字は免れず無配となれば株主の損失は計り知れず、その責任は経営陣が原発の安全対策を怠ったことにあり、経営責任を果たしていないとして、損害賠償の代表訴訟をされる可能性大であり、東電は更に苦しい立場に追い込まれる。

 経済分析は、第2四半期(4〜6月)の日本の国内総生産(GDP)が前年比約3%と見るが減少率の1.5%分は東電によるネガティブが要因としており、解決した訳ではないので更に落ち込みは続くと見ており、放射能に汚染された地域の経済活動は制限され、消費の落ちこみ、人心の萎縮等で「誠に残念ですが、日本はやがて貧しい国になるでしょう」とは米国経済会議(NEC)前委員長ローレンス・サマーズ、ハーバァート大学教授がニューヨーク市内で10月23日行った講演の一部です。

 米国での一般的な見方は、ギリシャと同じように見ており、世界最大額の1千兆円超え(10月末で大台を超えた)負債を負い、返済の見込みは全くない、経済は低迷、追い打ちをかけるような東日本大災害、福島原発事故となれば、諸外国から見れば絶望的な見方しかできませんが、それでもなお円高なのは何故なのか、経済理論にはない動きですから、これから日本はどうなっていくのでしょうか。

Q:原子力発電所全廃が叫ばれ、定期検査で停止した原子炉の再稼働も停止したまま、一方で電力不足が叫ばれ、火力発電の再稼働、しかし二酸化炭素の増大は北極のオゾン層まで破壊してしまった。電力不足は国内産業の国外への逃避を招き、失業者の増大は必至、自然エネルギーへの転換、送電線の自由化等々判らない事ばかりで、どう考えればよいのでしょうか?

A:国民感情としては即時全廃ということでしょうが、原発に替わるべき電力確保の方法が確立していない、その対策もない。

 節電にも限界があり、経済力維持、発展、国民の文化的生活の維持には絶対的に必要な電力であり、電気は確保しろ、原発は廃止しろ、では無責任な感情論でしかない。

 電力会社もこの夏は一部計画停電と、消費者の協力で乗り切ったが、暖房で消費量が上がるこの冬も危機状態は続く、それも東電ばかりではなく全国の電力会社が不足するという、しかもこの狭い日本で50ヘルツ、60ヘルツの区域に別れ、ヘルツ変換能力は僅かしかないので融通しあうことも出来ない。

 九電力は地域別に独占しており、沖縄電力を除き他は全て原発を所有し、新たな設置も含めて事故後は全て凍結、運転中の原子炉順次、法定点検期日がくれば稼動停止、点検後再稼働を地域住民から差し止め請求があるだろうし、いまさら安全神話の魔力は通じない。

 そうすれば日本中の原発が停止しかねない危機があるかも知れない。

 反原発のうねりの中、ヤラセメール問題でゆれた九州電力玄海原発は再稼働した。

 マスコミは挙って非を唱えているが、電力は絶対的な必要事項、代換え生産は不可能となれば独占企業である電力会社を頼らざるを得ない。

 電力不足が続けば企業の海外進出と言うよりは海外逃避に拍車がかかり、我が国経済の先行きは暗くなるばかり、しかし、その海外もバラ色ばかりではない、タイの水害問題で我が国進出企業400社が操業停止に追い込まれ、中国でもインフレとバブル崩壊の兆しに怯えて投資は停滞気味となっている、が、それでも次の適地を探しベトナムやインド進出が注目されている。

 東日本大震災で大打撃を受けた東北地方としては、海外へ進出するなら東北地方に進出して欲しい、あるいは海外で困っているのなら東北地方へリターンしたらどうですか、と

 誘致したいのだが、それにはインフラ整備と住民の受け入れる意欲の問題、これから東日本大災害からの復興として政府資金が投入されるのであれば、その資金を使って長期的展望に立って東北地方再興を謀りたい。

 第二次大戦で全てを失い、廃墟の中から立ち上がり、20年足らずで東京オリンピック、続いて大阪万博の大成功と世界が驚嘆させた復興を成し遂げ、世界最大の強国アメリカに次ぐ第二位の経済大国に成長した経験があり、成し遂げた自負がある。

 しかし、バブル崩壊後の低迷、1千兆円を超えてしまった借金大国に転落したのは何故なのか、政府の舵取りが悪いのか、国民が働く意欲を失ったのか。

 戦後の復興期、所得倍増論を掲げて登場した池田勇人内閣の政治指導は功を奏し、あの当時1家に1台の自家用車をと唱え、国民は何を夢見ているのだと呆れたが、何とその夢を実現してしまったのだから驚きでした。

 絶対反対を唱える前に、国民が真に願っているのは何なのか、何に耐え、何を引き出すのか、不幸な大災害であったが、これを契機として新しい途を切り開くべきチャンスと捉え、共に強く立ち上がろうではありませんか。絶対に途は拓けると確信しています。

 4年目を迎えたが、前進らしいものは感じられず、否、むしろ地元崩壊の兆しがある。

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第十八章 国会事故調最終報告書

 東京電力福島第一原子力発電所事故を検証する国会事故調査委員会(黒川清委員長)(元日本学術会議会長)は、7月5日、最終報告書を衆参両院議長に提出した。

 東電や規制当局が地震、津波対策を先送りにしていたことが「事故の根源的原因」と指摘し、「自然災害ではなく人災」と断定、首相官邸の初動対応の拙さを指摘、東電側の責任を厳しく糾弾している。

 報告書は641ページ、事故調は延べ1,167人に900時間以上の聴取を行い、関係先から約2千件の資料提供を得て、首相をはじめ官邸の責任者、規制省庁当局、東電側、電気事業連合会など関係機関の責任を追及している。

 この報告書の要点、結論を先に纏める。

「原発事故は人災」

結論

◆今回の事故は「自然災害」ではなく「人災」

◆被害を最小化出来なかった最大原因は、官邸、規制当局の危機管理体制が機能せず、事業者と政府責任の境界が曖昧だった為

◆東電はより効果的な対応が出来た可能性があり、組織的にも問題あり、経営陣は現場を軽視

◆歴代の規制当局と東電経営陣は意図的な先送りと不作為、自己組織に都合の良い判断をしていた

◆今回の事故は、今後も独立した第三者によって継続して厳しく監視、検証すべきだ

提言

(1)原子力問題に関する常設の委員会を国会に設置する

(2)政府の危機管理体制の抜本的な見直しを行う

(3)政府の責任で被災地の住民の健康と安全を長期的・継続的に守る

(4)政府と電気事業者間の接触についてのルール作りと情報開示

(5)高い独立性と透明性を持った新たな規制組織を設置

(6)国民の健康と安全を第一とする一元的な原子力法規制を再構築

(7)民間中心の専門家からなる独立した調査委員会を国会に設置する

(黒川清委員長)

国会事故調査委員会メンバー

黒川 清委員長(元日本学術会議会長)

石橋 克彦  (神戸大学名誉教授)

大島 賢三  (元国連大使)

崎山 比早子 (元放射線医学総合研究所主任研究官)

桜井 正史  (元名古屋高検検事長)

田中 耕一  (島津製作所フェロー、ノーベル賞受賞者)

田中 三彦  (科学ジャーナリスト)

野村 修也  (中央大法科大学院教授)

蜂須賀 礼子 (福島県大熊町商工会会長)

横山 禎徳  (社会システムデザイナー)

「憲政史上、初めて国会に設置された独立機関」として他の調査会(東京電力、政府、民間)の調査委員会が踏み込めなかった、首相官邸の初動の拙さ、東電本社の組織的問題を糾弾し「事故は人災」と結論付けたことは評価できる。

ただし、報告書を提出した国会が、この報告書を生かしていくのか、事故原因の解明と再発防止に調査結果をどう生かしていけるのか、国会事故調の設置根拠となった法律では、両院議長に報告書を提出するまでしか記載されていないから、調査の成果をどう生かすのかは国会議員達の取り組み如何にかかっている。

報告文の要約

 事故前の対策

 人々の命と社会を守るという責任感、覚悟の欠如が第一の原因にある。

 東京電力福島第一原発事故を検証する国会事故調査委員会の報告書は、過去の安全対策や事故対応を厳しく批判した。事故を防げた可能性や、政府と電力業界の体質にも切り込んだ。

 「今回の事故は決して『想定外』とは言えず、責任を免れることは出来ない」

 地震、津波、過酷事故のいずれの対策についても、東電、原子力安全・保安院が危険性を認識しながらその対策を先送りしていたことを突き止め、この点を厳しく指摘、もし適正に対策を講じていたならば「事故は防げた可能性が大きい」とした。

○地震対策

 地震対策では、2006年に改訂された国の新しい原発耐震指針に対する東電の対応の遅れを指摘した。

 東電は、福島第一原発を新方針で引け上げた想定に適合させるため、耐震補強工事に約800億円の費用が必要だと見積もっていた。しかし、一部実施したのみで、肝心の1〜3号機は全く実施していなかった。

 国への最終報告期限を当初09年6月と届けていたが進まず、報告時期を16年1月に先送りすることを決定していた。

 耐震の余裕が充分にあることを示すのが難しかったため、スケジュールは公表できなかったようだ。

 監督官庁であった原子力安全・保安院は、あくまでも事業者の自主的な取り組みであるからとして黙認していた。

○津波対策

 津波対策については、東電側が主張する「想定外」、想定を超える津波の発生を発想できなかったとしていたが、これを真っ向から否定した。

 「想定津波を絶対に超えないとは言い切れない」「上昇側はあるレベルを超えると炉心損傷に至ることを懸念している」07年4月にあった電力側と保安院の津波対策に関する打ち合わせ会議での発言記録である。

 06年時点で保安院は電力会社に想定を超える津波が来れば、炉心損傷に至る危険性があると指摘した。ただし口頭で指摘しただけで文書にはしていなかったらしい。従って担当責任者に伝わっても、東電経営陣には届いていない。

 想定外とされる地震、津波の発生の可能性は早い時点で指摘され、その対策を講じなければならないのを保安院、電力会社双方が認識、懸念していたこを示すもので、その懸念が非公開の場で不透明であったことや、対策の実施が緩慢だったり、先送りだったりと、想定外の事態発生で起こるであろう過酷事故への対応がなかった。そもそも壊滅的な事象を起こすであろう事故シナリオへの対応は全くなさていなかった、と報告書は断じている。

 国際的にはどうか、国際水準的にはどうか。

 欧米では機器の故障などの「内部事情」に加え、地震、洪水等の「外部事情」、さらに、テロのような「人為的事象」に分けて対策を講じている。

 わが国の「外部事情」は地震のみが対象で津波は対象になっていない。人為的事象はあり得ないと対象外となっている。

 しかも欧米では主な対策では国の規制によって強制力があるが、わが国で電力会社の自主規制だった。

 原子力安全委員会の斑目春樹委員長は「わが国では国際的な安全基準に全く追いついていない。ある意味では30年前の技術か何かで安全審査が行われている」と指摘しているが、それまでに安全委員会の委員長が政府に対してどの程度の報告書を提出していたのか、政府が無視したのか、国は電力会社を監督・指導の権限を放棄していたのか。

 「規制側が癒着、監視骨抜き状態、東電の虜になっていた」と報告書では指摘している。

 事故後

 東電側のこれまで地震による重要機器の損傷、破損はなく、事故後の原発操作に問題は無かったと主張してきた。しかし国会事故調の報告では、緊急時に原子炉を冷やす機器が地震で壊れた可能性があり、それによって冷却水が漏れるのを怖れて、運転員が装置を止めたと指摘した。

 昨年12月15日に新聞にスッパ抜かれたが、東電側は改めて全面否定、1〜3号機の原子炉の炉心溶融は、津波に襲われたことで非常用電源が壊れて、原子炉が冷却出来なかった為だと主張してきた。

 ところが、東電が主張する津波の到達時刻は、事故調が調べた到達時刻と異なり、東電の津波が到達し非常電源が破壊されたと主張する時刻には、実際には原発の沖合1.5kmに到達していた時刻だと指摘した。

 従って、津波が到達する前に、既に一部の非常用発電機は機能しなくなっていた可能性が高いと指摘した。

 最初の炉心溶融を起こした1号機の非常用復水器(IC)についても東電は地震による破損は無かったと主張、地震直後に原子炉の圧力が急激に下がっていないことから明らかだとした。

 しかし、国会事故調の報告書には、ICの配管で小さな破断が起きていた可能性が高いと指摘、小さな配管破断なら圧力は下がらないという原子力安全機構の解析を挙げ「東電の説明は不合理であることは明白」とした。

 このICについて、運転員は地震と津波が襲って来る間に運転と停止を繰り返していた。この時ICを止めずに動かし続けて一気に炉内を冷やしていたら事故の拡大を防げた可能性もあったと指摘、しかし東電は手順書に従って行動しただけで問題は無いとした。しかし国会事故調はこれを否定、運転員がICの配管から冷却水が漏れているのではないかと心配し確認をするために止めたと推定した。

 また、1号機の原子炉の圧力を下げる主蒸気逃し弁が作動しなかった可能性も指摘。運転員の聴き取り調査で、弁の作動音を誰も聞いていないことが判明。地震で既に配管が破損し、弁が動かなかった可能性もあるとした。

 格納容器の圧力を下げる排気(ベント)は、操作訓練は一度もなく、電源のない中で十分な図面もなく操作は難しかったとした。

 結果として水素爆発を防ぐことは出来なかったと結論付けた。

 原子炉内は放射線量が高く、今後数十年にわたって原子炉内の状況が直接確かめられない状況にも拘わらず東電が原因究明を津波だけに求めて、地震の影響を過小評価するのは「既設炉への影響を最小化しようという考えが東電経営陣にあるからだ」と断罪した。

 報告書の「地震で壊れた」とするのも可能性を示しただけで、断定するには未だ確証はない。

 ◆事故以前の備え

  海水ポンプが機能喪失し炉心損傷に至る危険性は保安院も東電も認識していたが、対策の検討を先延ばしにしていた。

 ◆事故の主な原因

  歴代の規制当局による東電への監視機能が崩れていた。事前に対策を講ずる機会はいくらでもあったが、単に先延ばしするだけであった。

  事故の原因を津波のみに限定すべきではなく、地震による損傷の可能性も否定できない。

首相官邸の過剰介入

 被災地住民の防護対策の全力を尽くすべき官邸・政府がその役割を認識せず、第一義的に事業当事者が責任を負うべき事故発電所内に入り、事故対応への拙速な介入を繰り返し、現場を混乱させ、東電の当事者意識を希薄なものにしてしまった。

 ところが福島第一原発事故の情報の収集は混乱したらしい。地震と津波で肝心の通信線が破断、電源が破壊、オフサイトセンターは機能しない、Speediも機能しない、情報が入ってこない、そして危機管理のあり方として根本的間違いを犯したのは最高責任者であり、最高指揮官たる首相が災害現場に飛び出して行ってしまったことにある。重大事故発生中、対策本部を留守にするとは首相としての自覚が欠如していたとしか思えない。しかも官房長官が必死になって止めたのを振り切って行ってしまった行為は批判されて当然であり、最高指揮官として不適であることを自ら証明したようなものだ。

 その重大な時間帯に次なる大事故が進行中であり、その対策の時間を奪ってしまったことは重大な過失になる。その行為に対して東京電力本社が批判するのは当然だし国会事故調査報告書で首相の行為は軽率すぎると批判するのも当然だ。

 阪神淡路大震災では、時の宰相であった村山首相の対応は余りにも鈍重すぎて批判が集中したが、今回は軽々しく動き回りすぎて批判された。

撤退問答

 原発周辺被災地住民に対する避難誘導に関する指示や命令の出し方や時期について政府のあり方を厳しく非難した報告書になっている。

 原発事故発生、冷却装置の非常電源が全て破損、停止した時点、即ち津波襲来の時点で最悪の事態に陥ることは明らかであった。当然その情報は即、東電本社、内閣危機管理センターに届いているはずだが、東電では会長、社長とも出張中で不在、内閣は国会中だったので即対応したらしいが、地震と津波の対応に忙殺されたのか、原発事故の対策が混乱して判断ミスが重なっている。

 事故調の調査では、原発事故周辺の12市町村約2万1千世帯を対象にアンケート調査を実施、そのうち回答のあった約1万世帯の統計では、政府の事故当日(11,3,11)の午後7時3分に緊急事態宣言を発令したが、この時点で事故発生を知ったのは住民の約1割未満。

 翌12日午前5時44分に半径10km圏内に避難指示を出す頃になって約2割程度。午後6時25分に20km圏2拡大した頃では浪江、大熊、双葉の各町では大半が知るようになった。富岡では町長の英断で全町民が川内村に避難、20km圏に拡大を知ったのは川内村に集結した後だったので更に三春町へ向かった。

 原発に隣接している各自治体では翌日夕には8割が事故を知るようになり避難指示も伝達されたが、具体的な指示はなかった。

 まして遠く離れた飯村の住民の大半は被曝の危険性など全く感知していなかった。ただ同心円の半円だけの距離だけだったからだ。放射能汚染の科学的数値に基づくものではないことは確かで、Speediによる観測数値、アメリカ政府が送ってくれた「汚染地図」等が危機管理センターに届いていなかった。あるいは報告されていなかったのは事実らしい。体制そのものが杜撰だったのだ。

 国や県の指示を待たず町長の判断で自主的に避難したのは英断と言うべきだ。

 国が判断した誤りの例は原発20〜30km圏内の住民に屋内避難の指示を出し10日間出したままにしたあと自主要請避難に変更した対応を報告書は「避難の判断を住民個人に丸投げしたとも言え、国民の生活を預かる責任を放棄したと断じざるを得ない」と指摘した。

 特に原発の北西部にあたるに飯村や浪江町の奥地方面は避難指定地よりも高い濃度だったにも拘わらず放置していた。

 7月10日、参院予算委員会に参考人として招致された双葉町井戸川町長が原発事故直後にアメリカ政府が提供してくれた「汚染地図」それにともなう観測分析資料を日本政府は公表しなかった問題で「情報がスムースに出ていれば逃げる方向も変えていた、なんののための情報隠しなのか納得いかない」と声を震わせた。

 更に原発20km圏内の病院や介護老人施設では昨年3月末までの20日で、避難中、避難後に容体が悪化し亡くなった人が少なくとも60人以上いた事実、事前に防災訓練や防災計画の不備が原因だと分析した。

 復興庁の検討会が東日本大震災をきっかけに体調を崩して亡くなった「震災関連死」を、医療機関の機能停止、避難先の環境の悪化等12の項目に分け分析した結果を7月12日発表した。

 関連死と認定された1632人のうち、岩手、宮城、福島3県の529人の死因を分析したが、最も多かったのは「避難生活の疲れ」で47%。原発事故に限定すると「避難所への移動中の疲れ」が56%と最多となり避難所が転々と変わったり、無理な移動が重なったりと苛酷な条件がありすぎたことによる。

 事故直後の住民の健康被害で最も心配なのが放射性ヨウ素の影響だ。県や原発周辺の自治体には影響を防ぐため十分な「安定ヨウ素剤」を備蓄していたはず、だが服用は内部被曝前でなければ意味が無いため、その服用は危険を察知したら直ぐでなければならない。直ぐ服用したのは富岡町、双葉町、大熊町、三春町のみ、他の市町村は国や県の指示を待っていて時期を逸してしまうという大失態をしてしまった。

 原発より45kmも遠く離れた三春町がいち早く安定ヨウ素剤服用に踏み切ったのは偶然の出来事らしい。13日に富岡と大熊の住民約2千人が三春町に避難してきた。その時町の保健師さんが避難所を巡回し健康状態をチェックしていたところ、避難してきた人達が変わった薬を持参していることに気付いた。2粒ずつシートに入った茶色の丸薬、「ヨウ化カリウム丸」となっていた。そこで町内の薬局に確認したところ、薬剤師が甲状腺を守る安定ヨウ素剤だろうとの答えがあり、町役場に報告し、副町長が大熊町の担当者に問い合わせたところ、地元では防災教育で安定ヨウ素剤の服用は常識化しており、詳しくその効用を説明した。

 三春町は急遽安定ヨウ素剤確保に動き、県に問い合わせたところ数を確かめ取りに来るなら渡すとのこと、早速パソコンで必要数を計算して取りに行った。

 安定ヨウ素剤の服用のタイミングで国の指示、県知事の判断で服用することになっていた。

判断基準は

 (1)原発の爆発

 (2)その時の風向き

 (3)降雨があるか

 このような情報を把握できるのは国の機関しかない。ここにこそSpeediを施設・運用する価値があるのだが、何故か国は情報を流さなかったし、服用の指示も出さなかった。

 情報が錯綜し混乱していたからという言い訳は通用しない。

 指揮する中枢が存在せず、各省庁がバラバラに動いたことにあり縦割り行政の欠陥をさらけ出しただけだ。

 喉にある甲状腺は、ヨウ素を取り込みやすい。原発事故が起きると、大気中に放射性ヨウ素が放出され、それを吸い込むと甲状腺に取り込まれる。そこで放射線を出し、甲状腺癌を引き起こす原因になる。

 安定ヨウ素剤を服用し、甲状腺を放射性にない普通のヨウ素剤で満たしておけば、後から入ってきた放射性ヨウ素は甲状腺に吸収されず体外へ排出される。

 問題は服用するタイミングで、服用してから24時間経つと甲状腺癌の予防効果はなくなる、副作用の怖れから、2度3度の服用は出来ない。だから早すぎる服用もだめだ。

 放射性ヨウ素は無色無臭、機器で測定しないと、漂っているのかは解らない。

 だからこそ的確なタイミングを国が指示を出すことになっており、県知事の判断することになっていた。ところが国も県も服用の指示はだしていない。この指示に関しては、政府の原子力災害対策本部や原子力安全委員会などの間で責任転嫁の論争が続いただけだ。

 全ての失態は「安全神話」という得体の知れない魔物に取り憑かれてきた政府、省庁が事前の訓練、指揮系統の確認、再構築その他全てをないがしろにしてきた付けが一挙に吹き出してきた。

 ところが大熊町職員は放射能拡散予想の情報を個人のパソコンから得ていた。

 大熊、富岡、三春の子供達が服用のタイミングを掴めたのはこの情報による。

 これは1986年のチェルノブイリ原発事故をきっかけとして、ヨーロッパ諸国は放射能が自分の国に何時、どの位の量が飛んでくるかを予測する監視体制を構築し、技術を磨いていた。

 そこにフクシマ原発事故第一報が入ると監視体制を強め、わが国の気象庁にアクセスして気象データを収集すれば後は原発事故の爆発規模と時間を知れば計算は出来る。わが国には世界一と称する気象観測システムAMeDAS(Automated Meteorological Data Acquisition System)が全国1,300ヶ所に自動観測装置を設置し降水量、気温、日照時間、風向、風速を観測して電話回線で毎時気象庁のコンピュターに入り、解析されて気象予報のデータになる。

 このシステムに遠く離れたノルウェーとオーストリアの機関がアクセスして予測図を造りインターネットで公開した。

 わが国の観測施設であるSpeediとAMeDASも連動しており、山や川などの細かい地形を掌握して予報を出すことになっていた。当然3月14日の段階で日本政府機関はSpeediの詳細な予想図を把握していた。ところが何故か公表していない。

 国民生活とは遊離した集団、組織、指揮命令系統がはっきりしないと動こうとしないわが国独自の理論が存在したらしい。

 幸いなことには大熊町職員の機転でノルウェーとオーストリアのネットにアクセスできて重要な情報を入手出来た。後はAMeDASの正確な情報で判断すれば良い14日は北風で南に流れ、15日には南東の風になり、三春町は東風が吹けば危険だと判断し役場の屋上で風向を観測して服用のタイミングを判断したらしい。

(ノルウェーでネットに公開された予想図の一枚、数多く公表された)

 またひとつ失態が明るみに出た。7月11日朝刊、第一原発事故による近隣の子供達、調査対象になった1,080人の生涯平均12ミリシーベルト、最大42ミリシーベルトと推計されることが、放射線医学総合研究所の分析で判った。

東電撤退問題

 東電の最高責任者である清水社長が、官邸へ全員撤退を申し出たという問題で、官邸側はそう聞いた、東電側はそのような申し入れはしていないと全面否定であったが、国会調査委の参考人招致で最大の焦点になったのは、昨年3月14日夜から15日早朝にかけての官邸と東電清水社長のやりとりで、報告書では「現場は全面撤退を一切考えていなかった」という理由を挙げ、全面撤退問題は官邸側の早とちりによる誤解であったと結論付けた。

 15日早朝、菅首相は東電本社に怒鳴り込んで行ったことは大きく報道されたが、この一連の行動によって「全面撤退を阻止した」という事実は認められない、菅首相がいなければ日本は深刻な危機に曝されていたというストリーは不自然すぎる。と切り捨て、さらに「東電に統合対策本部を設置してまで介入を続けた官邸の姿勢は理解困難」と強く批判している。

 当時の官邸や規制当局の危機管理意識の低さや情報発信を批判して、「機管理体制は機能しなかった」と官邸側の対応の拙さを批判した。

 同じく東電側の清水社長の全面撤退問題で誤解を生んだ最大の原因は、「清水社長のコミュニケーシヨンの取り方にあったことは間違いない事実で「最低限の人員は残す」という重大な事実を伝えられず、曖昧で要領を得ない説明に終始したことが誤解を生んだ最大の要因である。

 「東電の最高責任者という立場でありながら、役所と手を組むことによって責任を転嫁する傾向があった東電の黒幕的な経営体質から曖昧な連絡に終始した」としたとして東電の経営体質まで踏み込んだ。

 さらに東電と規制当局のあり方にも踏み込んで「規制する立場とされる立場の『逆転関係』が起き、規制当局は電力事業者の『虜』になり、その結果、原子力安全についての監督機能は崩壊していた」と事業者と規制当局がもたれあっている構図に踏み込んだ。

避難指示

 阪神淡路大震災時、情報が内閣に挙がって来なく、救助活動の発令が大幅に遅れてしまったことを反省し、新しい官邸の地下1階にオペレーションルームを設け、ここを首相官邸危機管理センターとした(但し、組織名ではない)

 ここを主に運用しているのは内閣情報調査室集約センター。24時間体制(5班20人)で重大事故、災害、テロ等に備え警察庁、警視庁、消防庁、海上保安庁など危機管理に関係する省庁とホットラインで結ばれている。

 ここを管理しているのは「内閣危機管理監」(官ではなく『監』)歴代の内閣危機管理監は大物警察官僚OBが就任している。(警視総監経験者)

 有事の場合は総合幕僚長、各自衛隊(陸海空)幕僚長が参謀として入る。

 東日本大震災、福島第一原発事故が発生したさいには官邸対策本部が設置され、危機管理センターに入ってくる情報が分析されて対策本部に報告される。

 理由で計算せず、調べた子供の55%の保護者に計算前のデータだけを伝え、「ゼロ」と通していた。

 7月10日、千葉県で行われた国際シンポジウムで発表されたことによると、甲状腺の被曝線量を計算するにはまず、放射性ヨウ素を取り込んだ甲状腺が1時間に出す放射線を測定する。この実測値から個人の年齢や被曝時期などを考慮して、生涯被曝線量を計算する。

 政府は昨年3月下旬、いわき市、川俣町、飯村等の強制避難半円外のいわき市川俣町、飯村等の10市町村以上に住んでいる15歳以下の1080人を対象にした1時間当たりの線量を実測した。しかし、政府は「検査の目的は、安定ヨウ素剤を飲む必要があるかどうかを判断するため」として、一部高い子供だけの線量計算をし、他はしなかった。

 保護者には昨年8月、1時間当たりの実測値しか伝えず、55%の保護者には、計測した場所と甲状腺の実測値の差が無いなどの理由で「ゼロ」、約30%には「毎時0.01マイクロシーベルト」と通知した。

 今回、放射腺医学総合研究所の研究チームは、実態がはっきりしない事故直後の甲状腺被曝を解明するため、1080人全員の1時間当たりの実測値から生涯の被曝腺量を計算しなおし、検査場所と、甲状腺実測値の差が最大になると想定して求めた。

 その結果、最高で42ミリシーベルト、30ミリシーベルト台が3人いることが判明した。飯館村、いわき市では高い傾向にあった。

 甲状腺被曝を防ぐためには安定ヨウ素剤を飲む国際原子力機関(IAEA)の基準は、1歳児で50ミリシーベルトと規定されており、今回の調査では幸いにもこの基準を上回る子供がいなかったから健康面での影響は低いと専門家はみている。

 今回の結果について政府関係者は「研究者が研究目的で計算したものであって、今後とも個人々に線量を通知するよていはない」とした。

安定ヨウ素剤

 放射性ではないヨウ素をヨウ化カリウムの形で製剤したもの、ヨウ素は、甲状腺ホルモンの構成成分として必須の微量元素である。甲状腺にはヨウ素を取り込み蓄積し、それを用いてホルモンを合成するという機能があるため、もし原発事故があり環境中に放出された放射性ヨウ素が呼吸や飲食物に付着して体内に吸収されると、甲状腺に濃集し、甲状腺組織内で一定期間放射線を放射し続けその結果甲状腺障害が起こり、比較的低い線量域では甲状腺癌を、高線量では甲状腺機能低下症を引き起こす。

 これらの障害を防ぐために、放射性ヨウ素を取り込む前に甲状腺をヨウ素で飽和しておくのが安定ヨウ素剤服用の目的である。したがって安定ヨウ素剤の服用の効果はその服用の時期にあり、放射性ヨウ素吸入直前の投与が最も効果が大きい。また、安定ヨウ素剤は放射性ヨウ素の摂取による内部被曝の低減にのみ効果がある。従って被曝後服用しても効果はない。

 安定ヨウ素剤を配布した際に、その服用に関する規定は予め各自治体に通達してあったはず、国、県知事の指示を忠実に守って服用のタイミングを逃してしまった各自治体に責任はないのか。

チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)

 1990年以降、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの三ヶ国における小児の甲状腺癌の著しい増加が確認されている。

 1995年末までに三ヶ国で約800人の小児が甲状腺癌の治療を受け、そのうち半数が、ベラルーシ共和国に集中し、外科治療を受けている。

 当時はソ連邦であってソ連政府は原発事故そのものを公表せずにいたので、この三ヶ国は安定ヨウ素剤の服用指示は出していなかった。

 その一方、ポーランド政府は原発事故の第一報が入るやいなや国内に厳戒態勢を布告、子供を守るために全国一斉に安定ヨウ素剤を配布し服用させた。その結果はポーランド国内で子供の甲状腺癌発症例はなかったという。

 甲状腺癌の治療を受けたのが800人とあるが、これは公表されたもので、国連の調査によると、子供を中心として約6千人が甲状腺癌になったと発表された。

 チェルノブイリ事故での避難民の甲状腺被曝は平均490ミリシーベルトだったと国連は発表した。50ミリシーベルト以上で、甲状腺癌のリスクが上がるとされており、国際的に防護剤を服用する基準は50ミリシーベルトに設定されている。

 甲状腺被曝を、全身への健康影響に換算すると、全身は甲状腺の1/20以下になる。

 ベラルーシでは甲状腺癌の外科手術が行われたが、医学的水準が低く喉に大きな傷跡が残って乙女には二重の苦しみを与えてしまった。

 そこで立ち上がったのが甲状腺癌手術の第一人者だった信州大学医学部准教授の菅谷昭博士で、職を辞して単身ベラルーシへ赴任し、最新の医術を指導し、自らも執刀して傷跡が残らない手術を行った。

(菅谷昭氏は現在長野県松本市長二期目)

 国会事故調査委の形で報告では、緊急時の情報伝達に失敗した対策本部医療班と安全委員会、投与を判断する情報があったにも拘わらず服用指示を出さなかった県知事に、初期被曝を減らす対策を執らなかった責任は重大だと指摘した。

 国や県は「100mSv以下の被曝では明らかな健康被害は報告されていない」とし、年20mSvを避難区域の見直し基準とする。しかし報告書は、100mSv以下でも線量に応じて健康に影響は出るという立場で住民の健康防護策を執るべきだと明記。特に子供や妊婦についてはチェルノブイリ原発周辺の基準に比べても「20mSvは高すぎる」と批判した。

 現在、県は県民の事故後の外部被曝線量の推計や18歳以下の子の甲状腺検査などの健康管理調査を実施している。しかし、内部被曝の調査は国も県も「依然としてほぼ無策のまま」と指摘した。

 この最終報告書が発表されると、海外から大きな反響があった。それは事故調査委の報告書が日本文と英文の二種あり、英文の報告書には「根本原因は日本に染みついた習慣や文化にある」と記載されていたが、この点を重視した英米のメディアは「事故の本質を見誤らせる」と批判した。

 報告書が「人災」断定したことは評価するも「誰がミスを犯したのかを特定していない」「集団主義が原因」「責任ある立場に他の日本人が就いていたとしても、同じ結果になる可能性は十分ある」と今回の大惨事でそれぞれの分野で責任ある立場に就いていた人達の責任を追求することなく、かえって擁護するような報告書に批判が集中した。

 「日本文化に根ざした習慣や規則、権威に従順な日本人の国民性が事故を拡大させた」とする点を強調し、「日本的な大惨事」とする論調が多かった。

 タイムズ紙は「非常に日本的な大惨事」の見出しを掲げ、「過ちは日本が国全体で起こしたものではなく、個人が責任を負い、彼らの不作為が罰せられるべきものだ。集団で責任を負う文化では問題を乗り越えることはできない」と論じた。

 ガーデアン紙「フクシマの惨事の中心にあった日本文化の特徴」と題し、島国の慣習や権威に責任を問わない姿勢が事故原因の一端にあることを強調し、責任の所在を有耶無耶にしてしまう日本文化の特徴を糾弾している。

 不作為は犯罪である、という法律の規定があるにも拘わらず、全くその責任を問うことなく許容してしまう日本に根付く文化が外国人には不思議な文化と感じている。

 確かに危険性を認識していながら先送りしていた東電幹部、その事実を黙認していた原子力安全・保安院、一部政治家。誰一人として責任を問われることなく、満額の退職金を手にして、しかも天下り先まで用意して戴き去って行った東電幹部、公務員は絶対に責任を問われることはなく、定期異動で去って行った。業務妨害のような愚行、現場を混乱さるだけの行為であった政治家もニコヤカニにして反省の色サラになし。責任観念希薄なわが国の島国文化に呆れたという感じだ。しかも「責任ある立場に他の日本人が就いていたとしても、同じ結果だった可能性は十分ある」とした記述には責任のがれでしかないと斬り捨てた。或いは日本人とはこの程度でしかないと自虐的な見解を示しているだけなのか理解に苦しむ。

 「チェルノブイリ原発事故の後で、悲劇的にも、日本の政治家、監督省庁、電力会社経営者、技術者は事故原因をソ連の設計や運用にありと判断し、日本の原発の安全性を検証することを怠たった。世界の原発はフクシマ原発事故に学び、この過ちを絶対に繰り返してはならない」と結んである。

 更にもう一点、この報告書で「人災」であることが強調され、一般国民は良く言ってくれたとこの報告書を評価したが、外国での受け取り方は違っていた。

 人災を強調することは「Human error」を強調してしまい、原発の機器・装置は正常に稼働していたが、運用していた人間にミスがあったから事故が起きたのだと受け取られかねない、運用者が確りと取り組んでいたら事故は起きなかったとなり、事故原因の究明に関し人災に比重が移ってしまうと機器・装置の究明・調査が疎かになってしまうことが懸念される。

 人災は勿論だが、原発機器・施設・保安・安全の全てに対してより慎重な再検討・再点検をお願いしたい。

 例を挙げると飛行機事故の場合、墜落原因を調査する専門家の調査委員が選任され調査をするが、コクピットの全員が死亡している例が多く、最大の手掛かりはボイスレコーダーだけになってしまい調査は難航するが、過去の例として終局的にはパイロットの操縦ミスが原因とする報告書が多かった。即ちHuman errorである。

国会事故調査委員会委員長 黒川清

 1936年生、東京大学医学部卒、医学博士、カリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部教授、東大医学部教授、東海大学医学部部長、日本学術会議19代会長を歴任。安倍内閣、福田内閣では内閣特別顧問を務め、2011年、国会が設けた東京電力福島第一原子力発電所事故調査委員会の委員長に任命された。

 現、政策研究大学院大学アカデミックフェロー。

 栄典

 1999年 紫綬褒章

 2011年 旭日重光章 受章

追記

国が出した避難指示

 3月11日 午後9時 第一原発から3km圏内に避難指示を発令

 3月12日 午前2時 避難用として当座100台のバス確保を指示

 3月12日 午前3時 1号機の格納容器内の圧力を下げるため放射性物質を含む

  蒸気を循環中に放出する「ベント」を行うと発表

 3月12日 午前5時 避難圏を半径10km圏内に拡大すると発表

 3月12日 午前6時 細野首相補佐官が直接大熊町役場に10km圏内避難指示

 3月12日 午後3時36分 1号機で最初の水素爆発、付近住民は重大な事故が起きたことを肌で感じた。

 3月12日 午後6時18分 避難指示範囲を半径20km圏内まで拡大

 これ以降、14日15日にかけて、3号機、2号機、4号機が次々と破壊し大量の放射性物質が放出された、が避難指示は15日午前11時に「20km〜30km圏内の住民は屋内待避」の指示が追加されたのみ。

 政府としては地図上に半径20km、30kmの線を引けばそれで良いかも知れないが、避難指示を命ぜられた自治体にしみれば正確な線をどうやって引けば良いのか判るはずがない、避難指示を出すならば行政区単位で出すのが当然だが、緊急時避難マップ等準備しておくべきはずの危機管理の観念はない。

 更に政府が20km圏30km圏の町村に指示を出したとしているが、実際は当該自治体の長はそのような指示を聴いておらず、テレビからの緊迫した情報が流れているのを視て初めて知ったという放置状態だったらしい。

 電話回線が地震で壊滅、非常時の無線電話も使用不可状態となれば連絡手段がなし、緊急時の対策の遅れが悔やまれるだけ。

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第十九章 顧みて

 「憲政史上、初めて国会に設置された独立機関」として他の調査会(東京電力、政府、民間)の調査委員会が踏み込めなかった、首相官邸の初動の拙さ、東電本社の組織的問題を糾弾し「事故は人災」と結論付けたことは評価できる。

 ただし、報告書を提出した国会が、この報告書を生かしていくのか、事故原因の解明と再発防止に調査結果をどう生かしていけるのか、国会事故調の設置根拠となった法律では、両院議長に報告書を提出するまでしか記載されていないから、調査の成果をどう生かすのかは国会議員達の取り組み如何にかかっている。

報告書の要約

 人々の命と社会を守るという責任感、覚悟の欠如が第一の原因にある。

 東京電力福島第一原発事故を検証する国会事故調査委員会の報告書は、過去の安全対策や事故対応を厳しく批判した。事故を防げた可能性や、政府と電力業界の体質にも切り込んだ。

原発事故は人災

 「今回の事故は決して『想定外』とは言えず、責任を免れることは出来ない」

 地震、津波、過酷事故のいずれもの対策についても、東電、原子力安全・保安院が危険性を認識していながらその対策を先送りしていたことを突き止め、この点を厳しく指摘、「もし適正に対策を講じていたならば事故は防げた可能性が大きい」とした。

 「東電の最高責任者という立場でありながら、役所と手を組むことによって責任を転嫁する傾向があった東電の黒幕的な経営体質から曖昧な連絡に終始した」としたとして東電の経営体質まで踏み込んだ。

 さらに東電と規制当局のあり方にも踏み込んで「規制する立場とされる立場の『逆転関係』が起き、規制当局は電力事業者の『虜』になり、その結果、原子力安全についての 監督機能は崩壊していた」と事業者と規制当局がもたれあっている構図に踏み込んだ。

○地震対策

 地震対策では、2006年に改訂された国の新しい原発耐震指針に対する東電の対応の遅れを指摘した。

 東電は、福島第一原発を新方針で引け上げた想定に適合させるため、耐震補強工事に約800億円の費用が必要だと見積もっていた。しかし、一部実施したのみで、肝心の1〜3号機は全く実施していなかった。

 国への最終報告期限を当初09年6月と届けていたが進まず、報告時期を16年1月に先送りすることを決定していた。

 耐震の余裕が充分にあることを示すのが難しかったため、スケジュールは公表できなかったようだ。

 監督官庁であった原子力安全・保安院は、あくまでも事業者の自主的な取り組みであるからとして黙認していた。

○津波対策

 津波対策については、東電側が主張する「想定外」、想定を超える津波の発生を発想できなかったとしていたが、これを真っ向から否定した。

 「想定津波を絶対に超えないとは言い切れない」「想定外であるレベルを超えると炉心損傷に至ることを懸念している」07年4月にあった電力側と保安院の津波対策に関する 打ち合わせ会議での発言記録である。

 06年時点で保安院は電力会社に想定を超える津波が来れば、炉心損傷に至る危険性があると指摘した。ただし口頭で指摘しただけで文書にはしていなかったらしい。従って担当責任者に伝わっても、東電経営陣には届いていない。

 想定外とされる地震、津波の発生の可能性は早い時点で指摘され、その対策を講じなければならないのを保安院、電力会社双方が認識、懸念していたこを示すもので、その懸念が非公開の場で不透明であったことや、対策の実施が緩慢だったり、先送りだったりと、想定外の事態発生で起こるであろう過酷事故への対応がなかった。

 そもそも壊滅的な事象を起こすであろう事故シナリオへの対応は全くなさていなかった、と報告書は断じている。

 国際的にはどうか、国際水準的にはどうか。

 欧米では機器の故障などの「内部事情」に加え、地震、洪水等の「外部事情」、さらに、テロのような「人為的事象」に分けて対策を講じている。

 わが国の「外部事情」は地震のみが対象で津波は対象になっていない。人為的事象はあり得ないと対象外となっている。

 しかも欧米では主な対策では国の規制によって強制力があるが、わが国で電力会社の自主規制だけだった。

 原子力安全委員会の斑目春樹委員長は「わが国では国際的な安全基準に全く追いついていない。ある意味では30年前の技術か何かで安全審査が行われている」と指摘しているが、それまでに安全委員会の委員長が政府に対してどの程度の報告書を提出していたのか、政府が無視したのか、国は電力会社を監督・指導の権限を放棄していたのか。

「規制側が癒着、監視骨抜き状態、東電の虜になっていた」

と報告書では指摘している。 

 この最終報告書が発表されると、海外から大きな反響があった。それは事故調査委の報告書が日本文と英文の二種あり、英文の報告書には「根本原因は日本に染みついた習慣や文化にある」と記載されていたが、この点を重視した英米のメディアは「事故の本質を見誤らせる」と批判した。

 報告書が「人災」断定したことは評価するも「誰がミスを犯したのかを特定していない」「集団主義が原因」「責任ある立場に他の日本人が就いていたとしても、同じ結果になる可能性は十分ある」と今回の大惨事でそれぞれの分野で責任ある立場に就いていた人達の責任を追求することなく、かえって擁護するような報告書に批判が集中した。

 「日本文化に根ざした習慣や規則、権威に従順な日本人の国民性が事故を拡大させた」とする点を強調し、「日本的な大惨事」とする論調が多かった。

 タイムズ紙は「非常に日本的な大惨事」の見出しを掲げ、「過ちは日本が国全体で起こしたものではなく、個人が責任を負い、彼らの不作為が罰せられるべきものだ。集団で責任を負う文化では問題を乗り越えることはできない」と論じた。

 ガーデアン紙「フクシマの惨事の中心にあった日本文化の特徴」と題し、島国の慣習や権威に責任を問わない姿勢が事故原因の一端にあることを強調し、責任の所在を有耶無耶にしてしまう日本文化の特徴を糾弾している。

 不作為は犯罪である。という法律の規定があるにも拘わらず、全くその責任を問うことなく許容してしまう日本に根付く文化が外国人には不思議な文化と感じている。

 確かに危険性を認識していながら先送りしていた東電幹部、その事実を黙認していた原子力安全・保安院、一部政治家。誰一人として責任を問われることなく、満額の退職金を手にして、しかも天下り先まで用意して戴き去って行った東電幹部、公務員は絶対に責任を問われることはなく、定期異動で移って行った。

 業務妨害のような愚行、現場を混乱さるだけの行為であった政治家もニコヤカニにして反省の色サラになし。責任観念希薄なわが国の島国文化に呆れたという感じだ。 しかも「責任ある立場に他の日本人が就いていたとしても、同じ結果だった可能性は十分ある」とした記述には責任のがれでしかないと斬り捨てた。

 或いは日本人とはこの程度でしかないと自虐的な見解を示しているだけなのか理解に苦しむ、とまで言及している。

 「チェルノブイリ原発事故の後で、悲劇的にも、日本の政治家、監督省庁、電力会社経営者、技術者は事故原因をソ連の設計や運用にありと判断し、日本の原発の安全性を検証することを怠たった。世界の原発はフクシマ原発事故に学び、この過ちを絶対に繰り返してはならない」と結んである。

 更にもう一点、この報告書で「人災」であることが強調され、一般国民は良く言ってくれたとこの報告書を評価したが、外国での受け取り方は違っていた。

 人災を強調することは「Human error」を強調してしまい、原発の機器・装置は正常に稼働していたが、運用していた人間にミスがあったから事故が起きたのだと受け取られかねない、運用者が確りと取り組んでいたら事故は起きなかったとなり、事故原因の究明に関し人災に比重が移ってしまうと機器・装置の究明、制度、体制の調査が疎かになってしまうことが懸念される。

 人災は勿論だが、原発機器・施設・保安・安全の全てに対してより慎重な再検討・再点検をお願いしたい。

 例を挙げると飛行機事故の場合、墜落原因を調査する専門家の調査委員が選任され調査をするが、コクピットの全員が死亡している例が多く、最大の手掛かりはボイスレコーダーだけになってしまい調査は難渋するが、過去の例として終局的にはパイロットの操縦ミスが原因とする報告書が多かった。即ちHuman errorである。

 そうすると航空機自体が持つ欠陥、あるいはシステムの欠陥が見過ごされてしまうことが多い。

 私も海難審判に携わってきたが、海難事故の場合、沈んだり、流されたり、証拠物件は皆無の場合が多く、更に全員遭難死、または当直者死亡の場合が多く審判が難渋するが、操船ミス(Human error)で結審するのには抵抗感があった。

東電撤退問題

 東電の最高責任者である清水社長が、官邸へ全員撤退を申し出たという問題で、官邸側はそう聞いた、東電側はそのような申し入れはしていないと全面否定であったが、国会調査委の参考人招致で最大の焦点になったのは、昨年3月14日夜から15日早朝にかけての官邸と東電清水社長のやりとりで、報告書では「現場は全面撤退を一切考えていなかった」という理由を挙げ、全面撤退問題は官邸側の早とちりによる誤解であったと結論付けた。

 15日早朝、菅首相は東電本社に怒鳴り込んで行ったことは大きく報道されたが、この一連の行動によって「全面撤退を阻止した」という事実は認められない。菅首相がいなければ日本は深刻な危機に曝されていたというストーリーは不自然すぎる。と切り捨て、さらに「東電に統合対策本部を設置してまで介入を続けた官邸の姿勢は理解困難」と強く批判している。

 当時の官邸や規制当局の危機管理意識の低さや情報発信を批判して、「機管理体制は機能しなかった」と官邸側の対応の拙さを批判した。

 同じく東電側の清水社長の全面撤退問題で誤解を生んだ最大の原因は、清水社長のコミュニケーシヨンの取り方にあったことは間違いない事実で「最低限の人員は残す」という重大な事実を伝えられず、曖昧で要領を得ない説明に終始したことが誤解を生んだ最大の要因である。

 「東電の最高責任者という立場でありながら、役所と手を組むことによって責任を転嫁する傾向があった東電の黒幕的な経営体質から曖昧な連絡に終始した」としたとして東電の経営体質まで踏み込んだ。

 さらに東電と規制当局のあり方にも踏み込んで「規制する立場とされる立場の『逆転関係』が起き、規制当局は電力事業者の『虜』になり、その結果、原子力安全についての 監督機能は崩壊していた」と事業者と規制当局がもたれあっている構図に踏み込んだ。

事故後

 東電側のこれまで地震による重要機器の損傷、破損はなく、事故後の原発操作に問題は無かったと主張してきた。しかし国会事故調の報告では、緊急時に原子炉を冷やす機器が地震で壊れた可能性があり、それによって冷却水が漏れるのを怖れて、運転員が装置を止めたと指摘した。

 11年12月15日に新聞にスッパ抜かれたが、東電側は改めて全面否定、1〜3号機の原子炉の炉心溶融は、津波に襲われたことで非常用電源が壊れて、原子炉が冷却出来なかった為だと主張してきた。

 ところが、東電が主張する津波の到達時刻は、事故調が調べた到達時刻と異なり、東電の津波が到達し非常電源が破壊されたと主張する時刻には、実際には原発の沖合1.5kmに到達していた時刻だと指摘した。

 従って、津波が到達する前に、既に一部の非常用発電機は機能しなくなっていた可能性が高いと指摘した。

 最初の炉心溶融を起こした1号機の非常用復水器(IC)についても東電は地震による破損は無かったと主張、地震直後に原子炉の圧力が急激に下がっていないことから明らかだとした。

 しかし、国会事故調の報告書には、ICの配管で小さな破断が起きていた可能性が高いと指摘、小さな配管破断なら圧力は下がらないという原子力安全機構の解析を挙げ「東電の説明は不合理であることは明白」とした。

 このICについて、運転員は地震と津波が襲って来る間に運転と停止を繰り返していた。この時ICを止めずに動かし続けて一気に炉内を冷やしていたら事故の拡大を防げた可能性もあったと指摘、しかし東電は手順書に従って行動しただけで問題は無いとした。

 しかし国会事故調はこれを否定、運転員がICの配管から冷却水が漏れているのではないかと心配し確認をするために止めたと推定した。

 また、1号機の原子炉の圧力を下げる主蒸気逃し弁が作動しなかった可能性も指摘。運転員の聴き取り調査で、弁の作動音を誰も聞いていないことが判明。地震で既に配管が破損し、弁が動かなかった可能性もあるとした。

 格納容器の圧力を下げる排気(ベント)は、操作訓練は一度もなく、電源のない中で十分な図面もなく操作は難しかったとした。

 結果として水素爆発を防ぐことは出来なかったと結論付けた。

 原子炉内は放射線量が高く、今後数十年にわたって原子炉内の状況が直接確かめられない状況にも拘わらず東電が原因究明を津波だけに求めて、地震の影響を過小評価するのは「既設炉への影響を最小化しようという考えが東電経営陣にあるからだ」と断罪した。

 報告書の「地震で壊れた」とするのも可能性を示しただけで、断定するには未だ確証はない

劇場型事故の推移

 福島第一原発事故を検証してみる。爆発の規模としてはチェルノブイリ事故で放出された放射性物質の量の約1割程度であったが、国際社会に与えた衝撃はチェルノブイリ事故よりも遙かに大きな衝撃を与えた。それは、チェリノブイリ事故は1回の爆破であり、しかもその瞬間を世界は関知できず、ソ連政府(当時)の発表もなかったから、その最初は北欧各地の原子力発電所に設置された放射線感知器の警報によるもので、その後の報道はソ連政府が世界のマスコミとの接触を拒否、現場付近への立ち入りも拒絶されたので、報道にも限界があったことは確かである。

 ところが福島第一原発事故は、東日本大震災での巨大な津波の凄まじい映像がリアルタイムで世界中に配信され、世界中の人々がテレビの前に釘付けになっていた。 更に自国の救援隊が続々と派遣され、自国の救援隊こそ素晴らしい活躍をしてくれるだろうと期待をもってそれぞれの国民は注視していた。

 そこへ第二の衝撃として原子力発電所爆発の映像が流されたので、各国は被曝を怖れ救援隊を引け返させろとの悲鳴を上げた。だから余計に原発事故の過剰反応があったことになる。

 この第一原発事故は劇場型の事故で、世界中が注目する中で事故の進展が報道され、世界中が一喜一憂していったのだから、日本政府、東京電力の対策の屈劣さが余計に目立ち、苛立たせた。

 我が国の放送技術は世界でも一流の技術と設備を有しているから24時間リアルタイムであらゆる情報が世界に配信され、まさに世界中が日本と同じ時間、同じ映像をテレビで見ることが出来たのだから、まさに劇場型の事故、事件であった。

 しかも現場に居合わせた被災者が自らカメラ片手に津波の情景を撮影したのが数多く集まり、それらを編集して放映したから、まさに現場中継のようなリアルさで世界に届けられた。

 外国からの取材陣が多数東京にやってきたが、現場には近づくことも出来ない、政府発表である保安院のスポークスマンの会見はシドロモドロ、しかもオドオドと余ほど発表の内容が制限されているのか、上部からの圧力があったのか、しかも同時通訳はなし。日本人が見ていてもイライラするような稚屈な態度、外国人特派員や取材陣が苛立つのは当然、報道の内容が批判的になるのもこれまた当然だ。

 最大に驚きは外国人の記者が大勢詰めているのにもかかわらず通訳を用意しない不手際さ、猛烈な日本政府批判があっても当然、ところが更に取材を進めると、日本政府の情報公開が著しく不透明であったのは、日本政府が情報を隠ししていたわけではない、政府はそもそも情報を把握できていなかったのが真相、と断じられ、日本政府の無能ぶりが暴露された。

 そして外国メデイアは次にくるものは最悪の事態、メルトダウンと視ていた。だからこそ、その状況下にあっても現場を離れず、頑張る「FUKUSHIMA 50」が英雄と写ったのだろう。

 日本人から見れば職場で頑張るのは至極当然のこと、と冷めた見方をしていたが、外国人から見れば滅私奉公は驚異でしかなかった。だから世界中が「FUKUSHI 50」に熱い視線を送り、そして長い長い時間を経てなんとか収まりそうだとの見透しがついたとき、世界中が「FUKUSHIA 50」にまさにスタンディングオベーションを贈った。

 「FUKUSHIMA 50」の皆さん「アリガトウ」

 ニューヨークタイムズ紙はアメリカ国民が日本人から学ぶべきこと、として福島第1原発の事故処理の作業する人々を「無私の精神、克己心と規律」で「不平も言わず、無名の作業員」が、他所に被害が及ぶのを防ぐため命を賭けて試練に立ち向かっている、と絶賛し、同時に東日本大震災の被災者の整然とした避難生活、また原発事故と津波の二重の被災を受けた地域住民が即座に自主的に秩序良く避難した。

「FUKUSHIMA 50」のタイトルで世界中のメディアが絶賛し、事実、自衛隊、警察、消防の代表をスペインに招待し皇太子賞を授与し、その献身的な行動を表彰した。

「FUKUSHIMA 50」(フクシマ・フィフティ)を直訳すれば、「福島の50人」の意味だが、福島第一原発事故発生の後も現場に残って事故の拡大を食止めようと必死になって働いている人々、50人の作業員を意味するが、50人とは欧米のメディアが与えた呼称で、実際に現場で活躍した人数とは無関係、語呂合わせと多分に尊敬の念が含めて50にしたらしい。

 欧米のメディアは、現場に残って作業を続けた無名の作業員の勇気をヒーローと讃え、“Fukushima 50”と紹介、世界中に知れ渡った。

○フランス「Japan's Faceless Heroes」(日本の顔が知れない英雄達)

○イギリス「Other nuclear power employee, as well as the wider population, can only look on in admiration.」

 (他の原子力発電所に従事している者達は、他の多くの人々と同様に、強い賞賛を持ってみていることしかできない。)

○ドイツでは、なんと忠臣蔵の“四十七士”にたとえて、その献身振りを絶賛した。

○アメリカ、ウォールストリート・ジャーナルは「フクシマ50」こそ“地上の星”と讃えた。

(右端渡部警視「事故時双葉署長」)

○中国語のニュースサイトは彼等を“福島50死士”と名付けた。(最高の誉め言葉)

○スペイン、この英雄的行為に、2011年9月7日、スペイン皇太子賞(アストゥリアス皇太子賞)授賞を決めた。福島第一原発事故の安全宣言がでれば、ノーベル賞(平和賞)の選考有力候補に挙がることは確実と報じられ

 そのくらい世界中が注目し、絶賛しており欧米での評価は高い。

 まだ収束してないが、「フクシマ・フィフティ」世界を放射能汚染から救い、世界に勇気をあたえた無名の戦士達であることは確かで、世界が絶賛しており、来年のノーベル平和賞の有力候補だと、これは欧米での下馬評だが、国内での賛美の反応は全くなし。

 「逆境の中で勇気や使命感を世界に示した」として、スペイン王室の財団が主宰する平和関係の賞を「フクシマの英雄」を代表する形で、事故現場で活躍した自衛隊、消防、警察の現場責任者5人が代表に選ばれ、11年10月21日にスペイン・オビエドで開かれた授賞式に出席、福島県警本部からは渡辺正巳警視が表彰を受けた。

 陸上自衛隊岩熊真司一佐、加藤憲司二佐、警視庁大井川典次警視、福島県警渡辺正巳警視、東京消防庁富岡豊彦消防司令。

 福島第一原発の事故現場では、どの位の人達が働いているのか。

 2011年10月20日の報道によると、事故収束作業として連日約2,700人が働いております。

 中心は東電社員ですが、その他関連機器メーカー、東芝、日立、IHI、関連企業の関電工、東電環境エンジニアリング、東京電力協力企業、各電力会社、その他、からの派遣、支援の人達、と報じられた。

 この人達を束ねていたのが、吉田昌郎福島第一原子力発電所所長で、プロフィールを紹介します。

 昭和30年大阪府生まれ、東京工業大学工学部卒業、東京工業大学大学院、原子核工学、昭和54年修了、東京電力入社、原子力の技術畑を歩み、福島第一、第二発電所の保守課、ユニット課を経て平成19年に本店(本社)の原子力設備管理部長に就任しましたが、直後に新潟県中越地震で柏崎刈羽原子力発電所が損傷し、その収束作業の責任者になり、現場で奮闘、その後、平成22年6月、福島第一原発所長として還ってきた。その職歴を見るように徹底して現場主義で培われた技術者魂でしょう。

 身長180cmの大柄な体格で学生時代はボート部で活躍、豪快、部下には慕われる親分肌、申し分のない現場の長のようです。

 官僚主義に徹していた本社幹部からは、「自信過剰」「本社に楯突く困った奴」と言うのが評価だったようで、本社のお公家さん達と領地を支配する地侍のような関係だったのか。

 私見の連想ですが、第二次大戦中悲惨な戦場となった‘インパール作戦’における第31師団(烈)は最前線でイギリス軍と戦っていたが、補給が全くなく、弾薬、食量が尽き、独自の判断で撤退を始めたため、師団長佐藤幸徳中将は第15軍司令官牟田口廉也中将によって抗命罪を問われ、親補職であるにもかかわらず解職して軍事裁判にかけようとした。(軍司令官にそのような権限はない)

 31師団は師団長を欠いたまま、撤退作戦となったが、其の殿(しんがり)を歩兵旅団長であった宮崎繁三郎少将(当時、後中将)が引き受け、旅団が一丸となって見事な作戦で戦死者、餓死者もださず、あの理不尽がまかり通った日本陸軍において、将軍から一兵卒まで一致団結して見事作戦を遂行できたのは宮崎旅団長の才能、人徳にあり、部下はこの人のためなら何時でも死ねる、と思っていた程の統率力があったからこそ全員が生還できた、ということでした。

 戦後、第15軍司令朱田口中将は生還し、老衰で死去したが、その墓石は度々ひっくり返される事があったようだ。生還した元兵士達は、戦友会で牟田口中将が話題になれば居並ぶ全員が烈火の如く怒り出し、宮崎旅団長の事が話題になると途端に全員が和やかになった、とのこと。

 全くの蛇足ですが、宮崎将軍に関して、帰還された将軍は都内下北沢で小さな商店を開業された。現在のような瀟洒な商店街ではなく、戦後の闇市のような入り組んだ露地のような狭い道路を挟んで小さな個人商店が軒を連ね、その一角にあった小さな店と小柄な初老の店主が店番をしており、店の前を行ったり来たりを繰り返し覗かせてもらった。偶然行ったのではなく、情報を得てから電車を乗り継いで小田急線の下北沢に出かけ、偉大なる将軍とはこのような方なのかと密かに満足し、我が人生の仰ぎ見る師はこの人と決めたことを現在でも鮮明に思い出す。

 吉田所長、宮崎将軍、時代も職務も全く異なるが、何故か重ねて考えてしまう。この吉田所長の人徳と統率力をもって絶対に収束すると確信していたが、病気が原因なのか、本社との軋轢なのか、真相はわからないが静かに引退してしまった。当然日本人として名もなき英雄に感謝し、国民栄誉賞を授与するものと想っていたが、喉元過ぎればの例え通り、完全に忘却の彼方へと消えてしまった。これも国民性らしい。

 菅総理、野田総理が現職の時に授賞させるべきであったが、余りにも多くのことが重なり多忙すぎて考慮の暇なしの状況、数ある国会議員の中でも悲しいかな提唱したのは辻本清美議員唯一人。

 安倍内閣に替わったら、意中の人をさっさと決めてしまった。

 そして驚くべき訃報があった。吉田昌郎元所長が13年7月9日 午前11時32分、都内信濃町慶応病院で食道癌のため急逝(享年58才)された。

 事故後、極限状態の原発を復旧させようと必死の闘いの連続、更に現場を理解していない東電本社と官邸からの指示、要請との闘いでもあった中での9ヵ月で、事故の更なる拡大を防いだ功績は大であった。

 残念ながら体の不調により11年11月に緊急入院、(所長を退任)12年7月には脳出血で緊急手術を受けられた。余りにも多くのストレスがあったのだろう。

と闘った地元浜通り出身の無名の戦士達に感謝の意を表する方法はないものだろうか。

 日本崩壊を寸前で食い止めてくれた吉田昌郎所長以下、手足となって頑張って頂いた戦士の皆様、本当に有り難うございました。

 もう一人、第二原発の増田尚宏所長以下職員の皆様、第一原発と同様に地震、津波と闘い、奇跡的に生きの残った1本の外線で最悪の事態を未然に防いで頂いた功績は甚大です。深く感謝の意を表します。

安全神話流布

 「安全神話」は何処にでも存在する。絶対に安全であると納得し信じ込ませるには「安全神話」を流布すること。

 原子力発電所は、どうしても原子爆弾を連想し、特に被曝国民としてはより一層のその懸念が大きかった。

 しかし、かつての我国は経済成長著しく右肩上がりで世界が眼を見張る成長ぶりだった。そうすると電力消費も右肩上がりで上昇し、当然電力不足が懸念され、かつ火力発電は二酸化炭素問題で頭打ち、水力発電も開発地点がない、風力発電、太陽光発電、その他の発電手段は技術的に未知の世界でした。

 そうすると残るは原子力発電、先進国のイギリス、フランスは積極的に原子力発電に取り組み、それに続いてアメリカも取り組みはじめた。

 それでは我国でも原子力発電所の建設を押し進めようとの動きになり、それには二酸化炭素を出さない非常にクリーンであることを強調、しかも経費が非常に安価であることを前面に押し出した。

 そして何重にも安全装置がしてあり絶対に事故はない、と安全であることを強調し出した。

 読売新聞が1955年1月1日、突如、原子力平和利用キャンペーンを始めた。「米の原子力平和使節、本社でポプキンス氏招待、日本の民間原子力工業化を促進」この見出しで論説が続いた、昭和30年だからずいぶん早くからキャンペーンが始まったのだと思うが、これは読売新聞社主が正力松太郎氏であることを考えれば納得できる。

 正力松太郎氏は日本で最初に原子力発電所の建設を提唱した人であり、その後は国会議員になり原子力担当国務大臣を務めて、原発建設を推進した。

 これに共鳴して推進派になったのが若き日の中曽根康弘代議士とその同志。

 電力業界も九電力一致して原発推進に協力し、其の中心は東電の木川田社長で、社内に原子力課を新に設置し、強力な宣伝態勢を整えた。

 原発反対を唱えていた朝日新聞が1974年7月から月1回10段の原子力広告を掲載し、朝日新聞が原発賛成派になったのは電力業界による根回しが効を奏したものと思われる。

 その後、毎日新聞も原発反対を止め、賛成派にまわった。これで三大新聞が賛成派になり、大半のマスコミが容認派に転向したことになった。

 三大新聞の広告費は高い、全国版1ページまるごと広告を入れると1回何千万円、年間では地方紙を入れて10億円にもなる。そこで「原発PR予算は、建設費の一部」と会社が認め、豊富な資金をつぎ込んで「原発安全神話」を作っていった。

 電力中央研究所という機関があり、電力関連の研究をするところで、その研究費は電力会社が負担しており、委託研究が殆どだ。だから電力会社に逆らう研究は御法度というのが暗黙の了解事項となる。

 原発事故は絶対にあってはいけない、従って何重にも安全対策をこうじた、だから原発の事故はありえない、原発の安全は絶対である、と言う三段論法が成り立っていた。

 ということで全電源喪失などは万が一にも起こり得ない事項で、その対策など文字通り想定外、だからシュミレションもしない、勿論マニアルも存在しない。研究も必要ない。

 従って、アメリカのNRC、フランスのアレバ社のような機関は存在しなかった。

 安全神話の発端は、1980〜90年代、「原子力政策研究会」という日本の原子力政策を推進してきた研究者、官僚、電力会社で作る非公式な会合があり、そこで話し合われたことは如何にして国民に原子力の安全性をPR出来るかが中心で、それらは議事録として残っているそうだが、そこでいろいろなPR作戦が練られたという、しかし門外不出で明かにはしない。

 電気事業連合会は、原発のイメージ向上を謀るため多数の著名人を起用して安全のPRを行った。勿論原子力に関してはなんの関係もない著名な人達だ。

 PRを積極的に行い、安全神話を流布するのは当然のことで、悪いことではない。ただ問題は余りにも安全神話が先行してしまい、肝腎の安全対策が疎かになってしまったことにある。

 安全神話を日本全国に染み込ませる、とりわけ重要なことは原発地域住民に安全神話を繰り返し染み込ませていくことで、原発稼動には地域住民の承認を必要とすれば、なおさら安全神話を信じてもらう必要があった。

 東電の原子力担当副社長を辞して、1998年の自民党から出馬、比例代表区で当選した、加納時男参議院議員がいた。氏は次の2004年の選挙でも再選され、自民党での原発推進派の筆頭として活躍した。

 氏の著書「なぜ原発か」の一節で日本の原発の安全性を強調する「安全度抜群の根拠」の章の中での文を紹介する。「核に敏感だから安全性が高い、被爆国・日本ならではの反応が、世界に冠たる技術を生んだ。チェルノブイリの事故は、核分裂を止めるのに失敗し、放射能を閉じこめることも失敗した例で、設計自体に問題あり、日本では考えられない。スリーマイル島の事故は、冷やすのに失敗した例である。日本ではこれらを教訓に安全確保対策52項目をとりまとめ実施している」と、原発の安全性を強調している。

 加納議員はエネルギー政策基本法を議員立法で成立させるのに狂奔、東電の原子力発電所増強に議員の力を最大限活用して絶大なる国会からの応援団長として活躍した。

 二期で政界を引退、その後はテレビで原子力発電推進派の論客として度々拝見していたが、事故後はなんと発言するか期待していたが姿を見せなくなった。

 安全神話を繰り返しているうちに、安全が当たり前のことになり、なんの疑念も不安も感じなくなってしまったのは、一般民衆よりも先に当事者達で、陶酔してしまったのか、自己暗示なのか、あり得ない想定外の安全対策なんか考える必要はない、安全神話を呪文のように唱えていればそれですむことだ。

 あまり関係ないかも知れないが、二世代前「日本は神国」「神州不滅」「皇国神話」を小学生の頃から刷り込ませ、本気で信じ込んだ結果、世界を相手に戦って完膚無きまでに叩きのめされたことを思い出し、信ずることの怖ろしさを感じる。

 戦前「大東亜共栄圏」「聖戦遂行」等を大新聞が率先して唱えていた。

 この時代、TVは未だ無い、勿論ネットもない。あるのはNHKラジオだけ、そのような時代では新聞の威力は凄く、完全なオピニオンリーダーだったから世論を誘導してしまった。

 福島第一原発事故後の外国人記者会見で、「世界唯一の被爆国である日本が世界第三位の原子力発電所を保有しているのはどうしてですか?」と質問があり、続いて「地震国日本としては安全管理が甘すぎたのではないか?」と質問されたが、納得のゆく答えはなかった。安全神話のPRが浸透し過ぎたから、とでも答えるべきだったのかもしれない。

それでも事故は起きていた

 東海村 JCO 臨界事故 レベル4

 この事故は原発の事故ではないが、1999年9月30日 被曝事故が起き、2名死亡、1名重症という原子力事故(臨界事故)で、日本国内初の事故被曝による死亡事故である。

 1957年、茨城県那珂郡東海村に我国で最初の日本原子力研究所が設置され、原子炉JRRー1が臨界に達して以来、原子力関連の施設の開設が相次ぎ、13もの施設、企業があった。

 茨城県海岸部にあり、水戸市と日立市の中間にある純農村地帯であったこの村に日本初の原子力施設の開設が相次いだため、昭和45年 村の人口1万8960人、平成22年人口3万7430人、住民世帯の7割が原子力産業に従事、村には「地縁」「血縁」「原子力縁」と言いう言葉があるくらい、原子力に依存した地域となった。

 この原子力施設の1企業として住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(JCO)があり、その施設内で核燃料を加工中に、ウラン燃料が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名死亡、1名重症の大事故となり、その他667名の被爆者を出した。

◎ 国際原子力事象評価尺度(INES)レベル4の事故とされた。(事業所外では大きなリスクはない)

 9月30日10時35分 転換試験棟で警報音、警報発令、直ちにJCOは臨界事故の可能性ありと政府機関(科学技術庁)へ報告

  11時52分 被曝作業員3名搬送のため救急車の出動要請

  12時30分 東海村役場を通じて住民の屋内退避の呼びかけ広報開始

  12時40分 小渕恵三(当時)首相へ報告があがる。

   その後、事故現場から半径350m以内の住民約40世帯へ避難要請。

   (核燃料加工施設の付近にも民家があった)

   500m以内の住民へは避難勧告、

   10km以内の住民約10万世帯(約31万人)は屋内退避

   換気装置使用禁止の呼びかけ。

   現場付近国道6号線、高速常磐道、県道封鎖、JR常磐線、水戸〜日立、水郡線、水戸〜常陸太田間の運転見合わせ、陸上自衛隊災害派遣要請(第101化学防護隊、現中央特殊武器防護隊)

   翌10月1日 16時30分、解除

事故原因

 本事故の原因は、JCOが行っていた杜撰極まりない作業工程管理にあることが判明した。旧動燃が発注した高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料を加工している際に起きた。

 核燃料を加工するのであるから、国が規定した厳しい管理規定があり、この規定に沿って作業する義務がある。またJCOの管理責任者は規定に従って作業を行わせる義務がある。

 ところが「裏マニュアル」と称する工程を短縮したり、簡素化するマニュアルが存在し、作業員とすれば当然、作業が楽な方を選ぶ、監督責任者も黙認していたという。

 事故時にもこの裏マニュアルでの作業中で、さらに裏マニュアルを改悪した最悪の手順で行われたという。

 原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では正規のマニュアルでは「溶解塔」という装置を使用する手順であったが、裏マニュアルではステンレス製バケツを用いる手順で行われ、具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らないよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使用するところを、作業の効率化を図るため、別の、背丈の低く、内径の広い、冷却水のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していた。

 その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線等が大量に放射された。

 この現象は制御不能に陥った原子炉のようなもので、ステンレス製バケツで溶液を扱っていた作業員は「ウラン溶液を溶解槽に移していとき青い光をみた」と語った。

 事故に驚いたJCOの職員は逃げだし、沈静させる作業は誰もしなかった、という。

 怒った国は強制作業命令を出し、JCO幹部も「当社が起した事故は、当社で処理しなければならない」と同社職員が数回に渡り、交代で内部に入って冷却水を抜き、ホウ酸を投入するなどの作業を行って、連鎖反応を食止めることに成功した。

 中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った翌10月1日6時30分頃であった。

事故被曝者

 この事故で3名の作業員が被曝したが、このうち2名は大量の放射線(中性子線)を浴びており、作業員はヘリコプターで放射線医学総合研究所に搬送され、うち2名は造血細胞の移植の関係から東大病院へ転院し集中治療された。

 この時浴びた放射線量は作業員大内さん(当時35歳)は、16〜20グレイ・イクイバレント(推定16〜20シーベルト以上)。短時間のうちに全身に8グレイ以上の放射線を浴びた場合、現在の医学水準では殆ど手の施しようがない、と言われているが、実際は6〜7シーベルトが致死量だそうだ。

 その倍以上の強烈な放射線量を被曝したのだから染色体破壊により新しい細胞が生成できない状態になり、白血球が生成できなくなったため実妹から提供された造血細胞の移植が行われ、移植手術は成功し、白血球も増加の傾向にあったが、時間の経過とともに新細胞の染色体に異常が発見され、白血球が再び減少に転じ、59日後の11月27日、心停止、救命処置により蘇生したものの、心肺停止によるダメージで各臓器の機能が著しく低下、最終的に治療手段がなくなり、事故から83日後の12月21日、多臓器不全により死亡。

 作業員篠原さん(当時40歳)6.0〜10グレイ・イクイバレント(推定6〜10シーベルト)大量被曝による染色体破壊されたが、造血細胞の移植が成功し、一時的に警察の調書がとれる程に快復した、が、放射線障害で徐々に容態が悪化し、さらにMRSA感染による肺炎を併発し(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)、事故から211日後の2000年4月27日、多臓器不全により死亡。

 もう一人の被曝者は、死亡した二人の作業員を監督していた現場責任者のC氏(54歳)同じ現場でしたが、少し離れていたので推定1〜4.5 グレイ・イクイバレント被曝して、一時は白血球がゼロになったが、放医研の無菌室において骨髄移植を受けて回復し、12月20日、放医研を退院した。

 致死量と言われる6〜7Svの2倍量の被曝であり、治療自体が初めてのことなので毎日のように発生する新しい症状に試行錯誤しながら治療に当たり83日も持たせたのは医学的見地からは賞賛に値するとの欧米医学界の評価だそうだ。

 臨界状態を収束する作業を行ったJCOの職員7名が年間許容線量を超える被曝をした。

 また、事故の119番通報を受けて出動した地元消防署救急隊員に対してJCO側は、放射線事故であることを知らせず、救助にあたった3名の隊員が二次被曝を受けてしまった。

 このことは後で茨城県側からJCOに対して厳重な抗議があった。

 当事者3名以外での被爆者は、最高被曝線量120mSv、50mSvを超えたのは6名だった。

 周辺住民の被曝者は207名、最大で25mSv、年間被曝線量限度1mSv以上の被爆者は112名、被爆者総数は667名を認定した。

 半径 350m 圏内 避難要請  半径 500m圏内は 避難勧告。

 半径 10km 圏内 屋内避難要請 対象 9市町村 約31万人

 賠償請求数 約8,000件 約150億円、原子力損害賠償法が適用された。

 会社は刑事責任を問われ、会社の免許が取り消され、解散した。

レベル3以下の事故

 国際原子力事象評価尺度(INES) レベル3:重大な異常事故、レベル2:異常事故、レベル1:逸脱

 国内で起きた原子力関連事故例 年代順

○1973年3月 関西電力美浜原発燃料棒破損事故

美浜1号炉において核燃料棒が折損する事故が発生したが、関西電力は公表せず秘匿した。事故が明らかになったのは内部告発による。

○1974年9月1日 原子力船「むつ」(8,246トン)は原子力で航行する船舶を開発しようとの国の方針で青森県沖の太平洋を試験航行中、放射能漏れの事故を起した。その後も試験航行を繰り返したが、採算点で無理と判り試験は中止され、原子炉を撤去し、通常の内燃機関で航行する海洋地球調査船「みらい」になって活躍している。

○1978年11月2日 東京電力福島第一原発3号機事故、我国最初の臨界事故戻り弁の操作ミスで制御棒5本抜け、7時間半臨界が続いたという。

他の原発でも同じような事故があったが、情報は共有されず、国にも報告なし、事故から29年後の2007年3月22日に発覚した。

○1989年1月1日 レベル2、東京電力福島第二原発3号機事故

原子炉再循環ポンプ内部が壊れ、炉心に多量の金属粉が流出した。

○1990年9月9日 レベル2、東京電力福島第一原発3号機事故

主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。

○1991年2月9日 レベル2、関西電力美浜原発2号機事故

蒸気発生器の伝熱管の1本が破断、非常用炉心冷却装置(ECCS)作動

○1991年4月4日 レベル2、中部電力浜岡原発3号機事故

誤信号により原子炉給水量が減少し、原子炉が自動停止した。

○1995年12月8日 レベル1、動力炉・核燃料開発事業団高速増殖炉「もんじゅ」

ナトリウム漏洩事故、2次主冷却系の温度計の鞘が折れ、ナトリウムが漏洩し燃焼した。この事故により「もんじゅ」は15年間停止、2010年4月再稼働した。

○1997年3月11日 レベル3、動力・核燃料開発事業団東海再処理施設アスファルト固定施設火災爆発事故、低レベル放射性物質を固化する施設で火災発生、爆発

○1998年2月22日 東京電力福島第一原発 4号機、定期検査中137本の制御棒のうち34本が50分間、全体の25の1抜けた。

○1999年6月18日 レベル1-3、北陸電力志賀原発1号機事故定期点検中に沸騰水型原子炉(BWR)の弁操作の誤りで炉内の圧力が上昇し3本の制御棒が抜け、無制御臨界になり、スクラム信号が出た。手動で弁を操作するまで臨界が15分続いた。この事故は所内で隠蔽し、運転日誌記載なし、本社への報告なし、原発関連の不祥事故続発に伴う2006年11月、保安院指示による社内総点検中、明るみに出て、2007年3月公表され、国内2番目の臨界事故と認定された。

○2004年8月9日 関西電力美浜原発3号機2次系配管破損事故、2次冷却系のタービン発電機付近の配管破損により高温高圧の水蒸気が大量に噴出、(破損した蒸気パイプ)逃げ遅れた作業員5名が熱傷で死亡。

○2007年7月16日、新潟県中越沖地震発生、東京電力柏崎刈羽原発事故

外部電源用の油冷却式変圧器で火災発生、微量の放射性物質漏洩を検出。

震災後の高波で敷地内が冠水、使用済み核燃料棒プールの冷却水の一部が流出した。柏崎刈羽原発はしばらくの間 全面停止となった。

○2010年6月17日、東京電力福島第一原発 2号炉緊急自動停止

制御板補修工事ミス、常用電源と非常用電源から外部電源に切り替わらず、冷却系ファンが停止し、緊急自動停止した。電源停止により水位が2m低下した。燃料棒露出まで40cmであったが、緊急自動停止から30分後に非常用ディーゼル発電機が2台作動し、原子炉隔離時冷却系が作動し、水位は回復した。

◎外国での原子力関連事故

 1979年3月28日、アメリカ、スリーマイル島原発炉心溶融事故レベル5

 1986年4月26日、ウクライナ共和国(当時ソ連)チェルノブイリ原発、爆発、炎、大量の放射性物質を放出、史上最悪の原発事故レベル7

 チェルノブイリ事故に関し、直接の犠牲者は作業員、救助隊員、消防士、兵士等、数十人だけと発表されているが、癌などの疾病を含めると、数万から数十万にのぼるとされている。2005年の世界保健機関(WHO)等の複数組織による国際共同調査の結果では、この事故による直接的な死者は最終的には9,000人とした。

 2000年4月26日に行われた14周年追悼式典では、事故処理に従事した作業員85万人のうち、5万5,000人が死亡したと発表し、WHOの発表とは大きく食い違っており、この事故を契機として国際的な原子力情報交換の重要性が認識され、世界原子力発電事業者協会(WANO)が結成(1986年)された。

 参加国35ヶ国、132原子力事業者が参加

 地域センター、パリ、アトランタ、モスクワ、東京の4ヶ所に事務局がある。

外国における代表的な事故例

○1957年9月29日 ウラル核惨事、ソ連ウラル地方カスリ市に近くに建設された「チェリヤビンスク65」という暗号で呼ばれた秘密都市の中に兵器工場(原子爆弾用のプルトニウムを生産)があって原子炉5基及び再処理施設があるプラントで事故が起きた。

 ソ連政府は全く沈黙しているためいまだに真相は判らないが、大爆発がおきて プルトニウムを含む200万キュリーの放射性物質が飛散したらしい。

 推測だが爆発の原因は、何らかの原因で冷却不能に陥り、大爆発を起したが、当時、ソ連政府は事故を極秘にし、西側でも感知していなかった。

 ソ連の科学者ジョレス・A・メドベージェフ氏が1976年 西側へ亡命し、英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に論文を掲載し、その中で事故が語られていたので明るみにでたが、事故の詳細は不明のまま。

○1957年10年10日 ウィンズケール火災事故、世界初の原子炉重大事故。イギリス北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール原子力工場(現セラフィールド)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素)減速材の過熱により火災が発生、16時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出した。当時のマクミラン内閣は避難命令を発せず極秘に処理しようとしたため、地域住民は生涯許容量の10倍以上の放射線を受け、数十人が白血病で死亡した。現在でもこの地域の白血病発病率は全国平均の3倍以上という。

 また火災に対して水をかけると水素爆発の怖れがあり、消火に手間取ってしまったことも被害を大きくしてしまった。

○1961年1月3日 SL-1事故(Stationary Low-Power Reactor Number One)はアメリカのアイダホフォールズにあった海軍の軍事用試験炉である。

 運転出力は軍事基地内の暖房としての熱エネルギー400kw、電気出力として200kwの合計600kwのであったが、設計上は3Mwであったという、3人の運転員は死亡したため、原因は分かっていないが、制御棒を運転員が誤って引き抜いたために原子炉が暴走したと推定されている。

 事故が起きたのが午後9時頃で、付近には人が居なくて運転員以外の被曝者はいなかった。事故発生時直ちに救急隊員が駆けつけたが、放射線量が多すぎて現場に近づけず、1時間半後に近づいたが遺体の露出部は汚染度が強すぎ、切断して放射性廃棄物として処理した。搬送した救急車も汚染が酷く、廃棄処分にしたほどだ。

○1963年10月 フランスのサン・ローラン・デ・ゾー原子炉で燃料溶融事故

○1966年10月5日、エンリコ・フェルミ1号炉 炉心融解事故エンリコ・フェルミ炉はアメリカ、デトロイト郊外にある高速増殖炉試験炉、炉心溶融を起して閉鎖された。原子炉の炉心溶融事故が起きた最初の例。

○1973年11月 バーモントヤンキー原発炉心臨界事故、 アメリカ、バーモント州、検査のため抜いた状態だった制御棒の隣の制御棒を誤って抜いてしまい、炉心の一部が臨界に達した。

○1976年11月 ミルストン原発1号機 臨界事故、アメリカ、コネティカットの原発で臨界になり炉心スクラムで停止した。

○1987年7月 オスカーシャム原発3号機(スウェーデン)

制御棒の効果を調べる試験中に制御棒を抜いたところ想定外の臨界状態になったが、運転員が気付くのが遅れ、臨界状態が続いた。

○2008年7月7日 トリカスタン原発事故、フランス、アヴィニョン北部ボレーヌ市郊外あるトリカスタン原発において、ウラン溶液貯蔵タンクのメンテナンス中、誤ってタンクからウラン溶液約3万リットルが溢れ出て流れ出し、職員100人余りが被曝し、かつ付近の河川に74kgのウラニウムが流れでた。原発は一時閉鎖され、水道水の使用や河川の航行、立ち入りが禁止された。

その他の事故

○1987年9月 ゴイアニア被曝事故、ブラジル、ゴイアニア市で発生した放射性汚染事故、閉鎖された病院の中に放置されていた放射線療法用の医療機器から放射線源が盗まれ、これを地元のスクラップ業者が買い取り、解体したところで内部にあったセシウム137が露出、暗闇でも青白く光る珍しい物体として販売し、好奇心から自宅に持ち帰って飾って置いたところ、汚染が広がり2ヶ月位経った頃に被曝症状がでて、調査の結果、約250人が被曝していたことが判明した。4人が 急性放射線障害で死亡、汚染が酷い家屋7軒が解体、破棄された。

 外国での被曝事故のほんの一部を紹介したに過ぎない。さらに多いのは軍事原子力による事故ですが、軍の威信にかけて軍事機密を楯に公表しないので、判明していないだけで、軍事関連原子力事故が山積していることは推測するが、1私人として出来得る限りの各種文献を探り僅かに入手できた情報だけを綴りますが、氷山の一角に過ぎない。

 特に原子力潜水艦の事故例が多く、ソ連海軍、米海軍共に多くの原子力潜水艦を実戦配備に付いていたために、事故その他で原子炉、搭載核兵器を配備したまま沈没、行方不明が数多くある。

 ソ連海軍は米ソ冷戦中、原子力潜水艦250隻を建造就航させたが、そのうち160隻をムルマンスクを中心としたコラ半島を一体に基地を持つ北洋艦隊に配属され、90隻がウラジオストック周辺を基地とする太平洋艦隊に所属していたが、ソ連邦崩壊により老朽化した原子力潜水艦がそのまま放置されたが、原子炉内は融解熱があるから陸上からの電源から電気を供給して循環水を回転しなければならず、ところがその電気代が払えないほど困窮しており、驚いた日本をはじめとする周辺国家で、急遽資金を提供して、なんとか食い止めたことがある。

 老朽原潜の何隻かは密かに日本海やオホーツク海に遺棄、沈没させたらしい。

今後の原発運用の見通し

 原発事故の後、しばらくの間、脱原発・原発全廃を求める人々がネットやFBの呼びかけに応じて毎日官邸前に集まり、激しいシュプレヒコールやデモが繰り返されていたが、事故以来2年半が過ぎて政権担当も菅政権、野田政権、阿部政権と替り、官邸の周りには殆ど人影はなくなってしまった。

 菅政権では全国の原発を稼働停止にしたが、6月16日、野田内閣は関西電力大飯原子力発電所3、4号機再稼働を決めた。

 関電は同日午後2時半から再稼働に向けた作業を開始、7月下旬から8月上旬にかけて3、4号機ともフル稼働する見込み、政府はフル稼働を見極めたうえで、関 電管内の節電目標を見直すことにしている。

 関電によると、「原発を動かすための配管の洗浄や弁の点検等が必要なため3、4号機ともフル出力で発電するまでに5〜6週間かかる。フル稼働は先に作業に入る3号機が早くて7月8〜13日、後から作業に入る4号機は7月24日〜8月2日の見通し、真夏の最大電力消費期にぎりぎりで間に合う見通しとなった。」と当時の新聞は報じた。

 政府は原発が再稼働しない場合、関電管内で8月のピーク時に14.9%の電力 不足になるとして、15%の節電(猛暑だった2010年比)を求めていた。

 関電によると3、4号機をフル稼働すれば、その発電量と、その電力で水を汲み上げて行う揚水発電分が計446万kwになり、ピーク時の不足分を何とか補える見通しだという。

 だがこれで電力問題が解決したわけではない。暫定的な安全基準で真夏の電力最大需要期を何とか乗り切ろうと再稼働に踏みきったのであって多くの国民が納得した訳ではない。

 原発に絶対の安全はない。原発は出来るだけ早くゼロにすべきだが、ただ電力不足が日常生活を脅かし、産業空洞化、経済活動を阻害するとなれば軟着陸には慎重にならざるを得ない。

 全原発の「仕分け」をどうするのか、福島第一原発の教訓をどう生かしていくのか、教訓を反映させた新たな安全基準を各原発立地条件に基づき、その対策を確りと講じ、更には危険性の高い原子炉途判断したならば廃炉を命令する。

 その上で有識の第三者機関が必要最小限の原発を絞り、国民の理解を求める。

 8月に発足する原子力規制委員会とその事務局になる原子力規制庁がどこまで踏み込めるのか。

 新しい組織が抜本的に生まれ替われるのか、規制委員5人の人事が最重要になる。崇高な使命を自覚し、第三者機関として厳正忠実、良心に従って見解を述べられる信頼できる人材を委員として選びたい。

 規制庁は約1千人程度の規模になるらしいが、当初は矢張り保安院や安全委、文部科学省など従来の原子力関連組織か等の移籍組だろうが、原子力ムラの意識を変えなければより強固な原子力ムラの仲良しクラブになってしまう。

 そのために規制庁は、5年後から全職員に出身官庁への復帰を認めないことにした。この間に職員の意識改革を徹底し、母体の意識を高め、そのためには新規採用の人材を確保し育成に努める必要がある。

 この規制庁が厳正な安全基準を策定し、それに基づいて全ての原発の評価を見直し、ストレステストの結果に於いて廃炉にすべき原発をリストアップし、再稼働可能な原発は期限を決めて稼働に踏み切るべきだ。

 5月5日以降、全国の原発が稼働停止し、やっと大飯原発の再稼働が決まったが、それに続く再稼働は何処になるのか、各電力会社は必至になって政府や地元出身の議員に陳情を繰り返しているが、これは電力不足ばかりではない。原子力規制委員会の設置法案を成立させ、ストレステストを経て1日でも早く再稼働させなければならない切羽詰まった理由がある。

 それは電力会社経営の根幹を支える大問題を抱えているからだ。原発1基が停まり、代わりに火力発電で発電すれば当然燃料としてLPG、石油、石炭等の化石燃料を使わなければならないが、燃料費は1日当たり約2億〜3億円、再稼働しなければ、燃料費に増加分は電力会社全体で年間3兆円の負担増になる。

 原発を持つ電力9社の赤字額は、昨年度決算で計1.5兆円になった。その赤字分を補う為の電気代値上げなかなか認められない。

 銀行からの融資の条件は「電気代値上げと、原発再稼働の道筋を付けること」事故の第一原発以外は正常に稼働していたのを国民世論に押された政府が再稼働をためらっているのだから、銀行側としては再稼働して経営を軌道に乗せるのが条件とするのが当然の成り行きになる。  一方で廃炉の方針も推し進めなければならないが、これまた困難な事案であって、廃炉に係る費用も膨大であるが、それ以上に原発に依存してきた地元経済をどう救済するのか、かつて石炭産業が戦後の基幹産業として政府の手厚い保護のもと盛業してきたが、エネルギー源がより重宝な石油に替わり、やがて石炭産業は政府によって安楽死したが、長い激しい闘争があった。

 特に私達は地元に常磐炭田があったから、中小炭鉱から1つ、また1つ、ヤマが閉鎖され、炭住の灯が消え、最後に磐城地方のシンボルであった常磐炭鉱が閉鎖された時は覚悟はしていたものの涙がこぼれるほどの寂寥感があった。

 石炭は産出地が特定の地域にあったが、原発は地元に金をばらまき、恐喝的な意味あいを含めて無理に押しつけてきたものであるから、廃炉を決めてもハイサヨウナラとはいかない。しかも廃炉から完全に復旧するまでは40年以上もかかると言われており、その間地元の雇用、財政への支援、さらには使用済み核燃料問題、汚染の固まりである廃炉等々問題は山積しており、どうせ長続きしない内閣ならば汚れ役は御免とばかりに先送りが得策と考えておれば解決にはほど遠い。

 原子力規制委員会は6月19日、原発の新しい規制基準を正式に決めた。

 福島第一原発の事故を踏まえ、過酷事故、地震と津波、航空機テロ等の対策を大幅に強化した。原子炉等規制法の規則として7月8日に施行する。

 新基準は、電力会社に過酷事故対策を義務化、事故時にも原子炉を冷却できる電源車や消防車を配備のほか、大気中への放射性物質の飛散を抑えるフィルター付ベント(排気)設備を取り付ける。放射能漏れ事故を起こしても復旧作業ができるよう免震や放射能防護の機能を備えた緊急時対策所の設置が必要になる。

 地震、津波対策では、各原発で起こりうる最大級の基準津波を想定して防潮堤等を造る。

 活断層が露出している地盤の真上に原子炉建屋などの設置の禁止を明記、火山や竜巻等に対策も求める。

 航空機テロ対策としては中央制御室が破壊されても遠隔操作で原子炉を冷やせる緊急時制御室の設置を義務付けた。緊急時制御室など一部の設備は設置に時間がかかるとして5年間の猶予を認めた。

 原発は新基準を満たし、国の審査に合格しないと再稼働は出来ない。

 関西電力など4社は、7月8日の施行後直ぐにも、6原発12基について再稼働申請する構えを見せ、原子力規制委員会の審査は半年ほどかかる見通しなので、年内の再稼働は難しい状況になる。

 原発を40年で廃炉にする場合、国内原発50基のうち8電力会社の34基が対象になる。原子力規制委員会は7月8日に新しい規制基準をスタートさせ、原発の運転期間を「原則40年」にした。

 経産省はこれまでも、運転開始から40年かけて廃炉に必要な金額を電力会社が積み立てておくように指導してきた。

 しかし、この金額で廃炉に必要な経費が賄えられないと試算され、34基で1,700億円不足となるらしい。不足額の穴埋めは電気料金に上乗せられることになる。

先人の業績、偉業

 地震、津波、原発事故、まさに想定外の大災害、大事故が立て続けに起き、日本列島は国家的危機に陥った。

 我が国史上最大の試練だったかも知れない。過去を振り返れば大地震、大津波は何度か襲われた記録がある。その都度逞しく復興を遂げ、今日の繁栄に繋がってきたたことは確かだ。

 明治以後の大地震災害に対処してきた先人の偉業を顧みることによって、これからの復興の足がかりを模索している現在、先人の業績を学ぶべきことは多い。

 「遅すぎた対策本部」の項で述べたが、東日本大震災、福島第一原発事故に対する初動、救済活動への動きは鈍く、適切な対処だったのかは疑問がある。更に本格的な対策本部の設置は余りにも遅かったし、適切な行動が執れなかったことも事実で、人事面でもたつきがあり、人材不足であったことでも混乱を招いた。

 過去の災害時の対応の事例を振り返ってみて先人の偉大さに触れてみたい。

 関東大震災、1923年(大正12年)9月1日

 関東大震災の復興を直接担当したのは内務大臣後藤新平

 この人は歴代内閣で重要な閣僚として活躍してきた人で、都市計画法、市街地建築法といった諸法令を整備し、前近代的な街並みを欧州先進国並の近代的な都市を造ろうと活躍してきた人だ。

 大正9年から震災前の大正12年4月までは東京市長を務め辣腕を振るっており、壮大な計画、綿密で周到な計画施行、ついたあだ名は‘大風呂敷’でしたから、山本総理も適材適所として後藤翁を任命したのも頷ける。

 内務大臣兼帝都復興院総裁に就任し、帝都復興計画と土地区画整理事業を立案し、大規模な区画整理と、公園、幹線道路の整備を伴うもので、予算として13億を要求、全域での復興計画では30億を要求した。

 これは1922年(大正11年)の国家予算、一般会計予算が14億7千万円だから、国家予算の2年分強になる。

 30億円を現在の国家予算規模93兆円で換算すると約2年分の約180兆円となり、この要求には無理があって、議会は勿論、財界からも猛烈な反対があり、結局5億7500万円しか認められなかった、が、しかしこれでも国家予算額の1/3強だから現代の金額で30数兆円という凄い予算額になる。

 更にこの復興予算には横槍が入った。現在では想像もつかないことだが陸軍中枢から、これだけの予算があるなら、復興予算全てを軍備拡張に使い、アメリカとの戦争を準備し、世界の覇者アメリカを倒してから、世界の王者になった日本が世界中から資金を集め、理想的な帝都を建設すれば良い、と本気で主張する参謀達がいたし、ラジオ、テレビのない時代、全国で陸軍主催の講演会を各地で開催しこの旨の主張を繰り返し、国民も賛同者が多かったらしい。

 其の中心人物は、後に満州事変を引き起こし、15年戦争の口火をきった石原莞爾中佐(満州事変当時の階級)だ。

 このような暴論を本気で吐いていたエリート参謀が陸軍中枢にいたのだから、後年の陸軍の暴走はこの頃から芽生えていたのだろうか。

 このような様々な圧力と闘いながら後藤総裁は辣腕を振るい、吏員を手足の如く活用し、次々と復興支援法案を提出し、立法化していったが、大物総理とその強力な閣僚が布陣してサポートできたことも幸いしている。

 大正時代になったとはいえ、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と戦乱が続き、とてもインフラ整備に予算が廻らず、この当時の道路は江戸時代と殆ど変わらない細い路地が複雑に入り組んだ中世の都市のような街だったから、後藤翁の決断によって近代都市東京・横浜が誕生したといっても過言ではない。

 この時策定した下町の碁盤の目のような道路、昭和通り、山の手通り、明治通り、靖国通り等現在でも活用されている大通りはこの時策定されたもので、後藤大臣の先見の眼に敬服する。

 更に20数年後の第二次大戦で都市は焼け野が原になり、戦後復興計画として後藤大臣が策定した諸法案に基づいて内務省国土局計画課長であった大橋武夫氏を中心として戦災復興計画を立案、後に戦災復興院計画局長に就任して、全国の戦災都市復興の指揮をとっている。

 名古屋市の久屋大通、広島市の平和大通、仙台市の青葉大通り等、この時の計画法に基づくもので、大橋武夫氏は浜口雄幸元首相の娘婿で、池田内閣労働大臣、佐藤内閣建設大臣を歴任し戦後復興に活躍している。

 戦後復興計画の母体は後藤大臣の遺産とも言えるくらい凄いものでした。

 従って現在、“後藤新平翁”待望論が沸き起こるのも至極当然、もし現代の復興院総裁に就任していたらきっと素晴らしい仕事をやり遂げてくれたことと思う。

 さらに後藤翁の凄さは、総裁として活躍したのは僅かな期間でしかなく、同じ年の12月に有名な虎ノ門事件が起きて、責任をとった第二次山本内閣は辞任、後藤翁も閣外に去っておるが、それでも今に続く名声だから、その凄さが伝わってくる。 後藤翁について述べると、岩手県胆沢郡塩竃村(現奥州市)に生まれ、高野長英は大叔父、甥に椎名悦三郎氏がいる。

 一寸だが福島県とも関わりがあり、福島県令であった安場保和氏を頼って福島にきて、須賀川にあった公立岩瀬病院の付属として明治6年須賀川医学校が併設され、安場氏の推薦により17才で医学校に入学(この医学校の後身が福島県立医科大学になる)、医師になった。

 関東大震災前後頃の政界もまた不安な時代であった。

 大正11年6月12日 高橋是清内閣が立憲政友会の内紛に基づく閣内不統一で瓦解したのを引き継いでの組閣で、高橋内閣は僅か半年足らずの降板、その前は大正10年11月4日 原敬首相が東京駅頭でピストルによる狙撃で暗殺され、急遽高橋是清が内閣総理大臣を拝命したのだから、短命内閣が続き政局は不安定でした。

 その様な中、第21代加藤内閣が発足したのですが、1年2ヶ月後の大正12年8月24日病死しており、内閣は総辞職、次期首相として元海軍大将山本権兵衛に二度目の大命降下となった。

 しかし、未だ正式に組閣し認証したわけではなく、組閣中に関東大震災が発生してしまい、首相不在の時期だったので、その時の新聞記事「二十七日西園寺公より御下問に対し山本権兵衛伯を奏薦したる結果、徳川侍従長は二十八日午後三時十分、山本伯を高輪の自邸に訪問、聖旨を伝え、その結果山本伯は午後四時三十四分赤坂離宮に伺候、摂生宮殿下に拝謁親しく後継内閣組織の大命を拝し、数日間のご猶予を乞うて御前を退下した。」(大正12年8月29日「東京朝日新聞」)

 このため外務大臣内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として急場をしのぐ緊急避難措置が執られており、震災時には正式な内閣は存在していなかった。

 この数日間の猶予を戴きたいとの奏上が、結果的には大変な幸運をもたらしている。

 それは摂政宮殿下(昭和天皇、大正天皇が病気療養中の為、君主に代わってその任務を行うのが摂政)は内閣の親任式が終わり次第静養のため箱根の別邸へ赴かれる御予定になっており、震源地が相模湾のサガミトラフですから、間近な熱海や箱根は壊滅的な打撃を受けていたのです。

 震災発生後 摂政宮の招請により、臨時総理大臣内田康哉、水野練太郎内務大臣、赤池濃警視総監が当面の責任者となって臨時閣議を開いて、翌2日 臨時震災救護事務局を設置、非常時にあたり組閣を急ぎ、2日午後7時 親任式は赤坂離宮へ山本伯以下が参内し、夕闇迫る帝都の黒煙が上る中での新任式でした。

 「猛火中の親任式、摂生宮には前庭の四阿に御野立あらせられ、七時半親任式を行はせられた」と、新聞の記事にあり、四阿とありますから、未だ余震の虞がある頃なので庭園にある‘あずまや’での新任式だったようです。

 第一次山本内閣は外部の事件でしたが、出身母体である海軍を揺るがすシーメンス事件だったので責任を問われ、内閣は総辞してしまっていた。

 ですがこの未曾有の難局に対処出来るのは山本権兵衛しかいない、と元老である松方正義の強い推薦があったからです。

 大命降下について、明治憲法時代の内閣総理大臣の選任は選挙ではなく、天皇の諮詢に答える形で首班候補を元老と呼ばれる人達が奏薦し大命降下となります。

 元老とは明治政府で活躍した黒田・山県・伊藤・西郷・井上・大山・桂・西園寺・松方といった人達で明治天皇が任命しておりました。

阪神・淡路大震災

 平成7年1月17日、阪神淡路大地震は、村山内閣が発足して半年しかたってなく、しかも自民、社会、さきがけという三党による連立政権、危機に際して適切かつ迅速に対応できない、危機管理不在と言われても仕方がないような対応の遅さが指摘されている。

 村山内閣成立の背景には、細川内閣の成立、五五年体制の崩壊にはじまる政界再編成の大きなうねりの中、自民党の分裂、金権政治による大物政治家の逮捕続出、非自民七党と一会派による連立内閣成立、しかし不協和音ばかりで崩壊、その後は短命内閣が続き、そしてやっと社会・自民・さきがけ三党による社会党党首を首班とするウルトラCの様な離れ技で、対立候補海部俊樹氏を破って村山富市氏(日本社会党)が首班となった。

 村山内閣(1994年(平成6年)6月30日〜1995年8月8日)が成立したが当初からから脆さを抱えながら船出したばかりだった。

 内閣発足半年後に阪神淡路大震災、更にその2ヶ月後の3月20日「地下鉄サリン事件」が発生、それに続くオウム真理教による事件が続々明るみに出て日本ばかりか、世界中が驚愕した事件が続いた。

 1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、阪神・淡路大震災発生、M7.3震源地、明石海峡深さ16km、市街地が激震に襲われ、死者6,402人、行方不明3人、負傷者43,792人、住宅被害全壊104,906棟、被害総額約10兆円規模。

 テレビは地震発生時直後から速報で報道し、現場中継も入った。

 勿論、中央官庁にも逐一報告され、各省庁とも被災状況は掌握していた。

 しかし、内閣には報告されていない。この時たまたま現場に居合わせた議員が閣僚の一人に直接携帯電話で報告したらしいが、大げさに何を言っているのだと取り上げなかったらしい、何故取り上げなかったのかその理由は、もしそれだけの大地震なら内閣官房に正式な報告があるはず、それがないのはたいしたことはないと無視したらしいし、肝心の村山総理にはどの省庁からも全く報告がなかったらしい。

 このため地震発生が早朝だったにもかかわらず、午前中閣議があって、全く関係の無い議題が取り上げられていたというから呆れた醜態だ。

 このため初期救済活動が大幅に遅れてしまった。特にこの当時自衛隊は出動要請がない限り出動できず、駐屯地内で出動待機態勢を執り、じりじりしながら出動令を待っていたとのこと、市街地のビルが崩壊し、道路を塞いでしまったため消防車、救急車、レスキュー車両等が走行できず、自衛隊が持つキャタピラの車両しか走行できなかったのだから尚更初動の遅れが悔やまれる。

 このため、自衛隊法改正が行われ、出動要請がなくとも、現地部隊指揮官の判断で出動出来ようになった。

 東日本大震災では、自衛隊の救援出動は素早く、大活躍したことによって自衛隊に対する認識が全く改められた。

 小里貞利議員が現地神戸市を視察し、即座に「これは命がけでやらなければならない」と決意、自分から担当相になることを申し出、地震対策担当相を任命されてから、現地に張り付き陣頭指揮を執った。「一切をやる」をモットーにして、官吏の圧力をはねのけ、時には超法規的なウルトラ手法でがれきの撤去から始まった。

 まず問題になるのは瓦礫の集積所、六甲山の裏側、神戸港に集積所を設置、森林法、農地法の手続は一切執らず、責任はオレが執ると強行した。

 仮設住宅建設を現地自治体から3万戸建設の要望があると、4万戸建設を決め、全国の建設業者の社長を一堂に集め、「土日返上で急ピッチでやれ」と檄を飛ばし、見事な手腕で1年で復興させた。

 それを支えたのは、野中広務議員と内閣官房副長官の石原信夫氏は長年官房副長官として歴代の内閣に仕えたベテランで、法整備には万全を尽し、下里担当相をサポートした。

 また村山総理は全てを任せ、絶対に口出ししない偉さがあった。

 震災後の40日の間で11本の復興関連法案を提出、成立させ、その後を入れると計16本成立させている。各省間を調整して実働部隊を編成、その下に各省の官房長クラスを配して、上からの指示が各省にストレートに伝わる仕組みを創って、短期間で復興への方向と道筋を構築した。

あとがき

 2011年3月11日、双葉地方の皆さんの生活は一変してしまい、筆舌では表わせないほどの苦痛、苦難を味わってきたことでしょう。

 慰めの言葉など何の役にも立たたないことを重々承知ですが、富岡地区が一部を除き3月から許可なしでも入域出来るようになったので4月16日「在京富岡友の会」のメンバーと共にふる里富岡を訪れたが、その惨状に息を呑み、この状態で再興は可能なのだろうかと自問自答を繰り返しながら、帰りのバスの中で私なりの復興案を練った。

 避難中の皆さんが悩んでいるもののうち最大のものは帰還後の生活手段だろうと勝手に想像し、特に耕作地がどうなるのか判らない農家の皆さんの不安は深刻なものと思い、帰宅翌日からパソコンに打ち込み、避難中の皆さんの少しでもこれからの指針に役立てばと思いながら書き上げました。

 失礼な言葉で申し訳ないが、避難民イコール棄民になりかねないことを危惧しており、 忘れるのが早い国民性からみても、事故は過去のものになりかねない。

 政府はインフラ整備や除染を確約し復興に全力を尽くすとは言うが、元の生活に戻れることを保障しますとは絶対に言わない。しかし言って欲しいのはこの言葉であり、当然過ぎる要求だと思えるが、現実を視れば無理だと考え込んでしまう。

 双葉地方での主な産業は一次産業であって、土地とは絶対に切り離すことが出来ない産業であるから、その土地が放射能汚染区域となって汚染地から人々を、責任を持って避難させることは出来ても、汚染地域を正常地域に戻すことは不可能でしかない。まして時間の逆戻りは出来ない。それでは諦めろというのか。汚染地区であっても活用できる方策はないのか、自問自答の世界に陥った。

 双葉地方約1000㎢に及ぶ汚染地帯になってしまい、一時期は10万人にも及ぶ人々が強制避難し、2年以上たった現在でも5万人以上の人が不自由な避難生活を余儀なくされているが、一番の不安はこれからの生活をどうするかでしょう。

 しかし除染を幾らやっても元に戻すのは物理的に不可能との結論になってしまうと「双葉地方の一次産業は放棄」と宣告するかも知れない。その換わり全国の休耕地や放棄された田畑を斡旋するから其方に移れとでも言う代案を出すかも知れない。

 地元の地縁、血縁、コミュニケーションの和、輪、冠婚葬祭、地域の行事、地域社会の結びつきは強い、この復活こそが復興、再興の始まりとなる。

 だからこそソーシャルキャピタルを重視し、何代にも渡って生活してきたふる里こそが黄金郷なのだということを前提として、土地を離れず、且つ汚染された耕作地を放棄せず利用する方法として水耕栽培を提案した。

 さらにコミケートがあり、生活のリズム、風通しの良い生活を基本とした集落を中心とし、完全に除染された四町合同の新城塞都市建設を提案した。

 太陽光利用の温室栽培、太陽光と人工光併用の温室ハウス栽培、完全制御型の植物工場等を提案したが、文献から思い付いた訳ではない。

 オランダには駐在員として滞在し、ロッテルダム近郊の小さな村に住んで、市内にあるオフィスに通勤していたことがあるので、身近に温室栽培を見聞しており、早朝から働いている農民の皆さんが村に一軒だけあるパン屋さんに朝食のパンを買いに開店前から並んだ。私もパンを買いに行くと顔見知りになり朝の挨拶を交わすようになったし、また石窯で昔ながらの製法で焼くパンは素朴な味で実においしく、隣の農家が分けてくれる絞りたての牛乳と風味豊なバターの相性は格別で、土の香り豊かな楽園だった。

 また、スペインのアンダルシア沖合いで海難事故があり、全損保険委付の海難事故だったので、しばらく滞在して調査したことがあった。

 その時は別に意識していた訳ではないが壮大なビニールハウス群の連なりに圧倒され、一家総出で働く人達を眺め、単身赴任で異境の地で働く我が身が情けなく自己嫌悪の思いがあった。

 それらを思い返し、もしかしたら双葉地方の救済に役立つのではないかと思い至り書き綴ってみた。

 世界中を転々とする旅鴉のような半生だったので、中東、アフリカ、カリブ海の島々、欧州と渡り歩き、その地に根付き力強く生きる人々を数多く観ているうちに、そうだ若い日に専攻した文化人類学の分野でもう一度勉強することに挑戦してみようと思い立ち、何しろ毎日の生活がフィルドワークのようなもので、周りにあるものは全て教材という環境に感激し、毎日が実に快適だった。

 お陰で書き綴った駄文が雑誌に掲載され、特に中東での現地生活をレポートしたのが好評だったらしい。

 宗教の世界では信仰と日常生活が一体化しており、中東のイスラム教とアフリカ大陸でのイスラム教の違い、カリブ海でのキリスト教と欧州でのキリスト教の違いなど、その土地と住民は実に密着した土着信仰と本来の宗教との融和があり、人の和、輪、絆を結びつけているものは信仰だった。

 そうして生まれた風俗・習慣は長い年月を経て培われてきたのが文化であり、その文化の香りが漂う土地こそがふる里になる。どこに居ようとも帰巣本能は常にふる里に向かう。

 しかし、そのふる里が現状のまま推移すると、月日が経つにつれ帰還を諦める人が多くなってくるのもやむを得ない。特に若い人ほど就職、転職の機会があれば、そこに生活の本拠を移すだろうし、それを止める訳にもいかない。

 これから何年帰還できないのか判らないが、やがては双葉地方は不毛の地に化してしまう怖れがある。

 だからこそ、四町が一丸となって再興案、これからの青写真、ビジョンを創り、鮮明に掲げるべきであって、国の指針を黙って待っているべきではない。

 被災者の皆さんが声を大にして自分達の希望、願望を叫ぶべきだ。ふる里は自分達のもの、自分達が創っていくものなんだから。

 避難地の皆さん、どうか元気を出して苦難を跳ね返して下さい。きっときっと懐かしいふる里へ帰れます。みんなと一緒にきっと帰れます。

 “栴檀は双葉より芳し”双葉の里は、帰還した皆さんの手で素晴らしいふる里を創造して下さい。だからこそ今納得のいくビジョンを皆さんの叡智で描きましょう。きっと出来ると確信しています。

 避難中の皆さん、ふる里再興の青写真を描きましょう。それを国に提案しましょう。荒唐無稽な提案だなどとバカにされるかも知れませんが、地元避難者が声を大にして叫ばなければ、ふる里は消滅してしまう運命にあります。引っ込み思案では前進はない。地元民が叫べば必ず協賛者は立ち上がってくれます。

提唱

@ 四町合併の奨め、(双葉市)

A 新城塞都市建設(放射能汚染を防御する)四町合同居住区

B 汚染された田畑に換わり、水耕栽培工場の新設

C 双葉港建設(汚染残土処理も同時に行う)、燃料の集積地建設

D 火力発電所の新設、増設

E 海上風力発電、各種海洋発電、大電力生産地、海洋牧場の開発

F 電力特区を新設、大電力消費企業、工場を誘致

G 第一原発を中心とした、廃炉、核ゴミ処理原子力関連の研究施設の充実

H 汚染区域は積極的に植林し、大森林公園とする

I 現在進行している浜街道桜プロジェクトを更に拡大し、桜を中心としたツツジその他花と樹木の大公園化、行楽地の建設

J 常磐線の早期全通開業、いわき〜岩沼間の完全複線化、更には常磐新幹線

K 高速常磐自動車道の完成、開通

L 浜通りにある伝統行事、文化遺産を積極的に保護・保存に務め、更に全国的な文化遺産としてPRし、世界に登録したい(例相馬野馬追祭り)

M 大変な災害に見舞われ、被災地は零の状態になってしまった。従って現在は全くの白紙といえる状態にある。その真っ白なキャンバスにどのような絵を描くのか、子、孫、曾孫と続く子孫が双葉の地に生まれて佳かったと思うような絵を描きたい。それは皆さんの叡智によって生まれ、育てましょう。

参考

☆原子力災害対策特別措置法第10条 

 原子力防災管理者の通報義務について規定した法律、 

 原子力防災管理者は、原子力事業所の区域の境界付近において定められた基準以上の放射線量が検出されたり、又は定められた原子力事象の発生についての通報を受けたとき、又は発見したときは、直ちに主務大臣、所在都道府県知事、所在市町村長及び関係隣接都道府県知事(事業所外運搬に係わる事象の発生の場合にあっては、主務大臣並びに当該事象が発生した場所を管轄する都道府県知事及び市町村長)に通報しなければならない。

 所在都道府県知事及び関係隣接都道府県知事は、関係周辺市町村長にその旨を通報しなければならない。また、この場合に、主務大臣は、都道府県知事又は市町村長の要請により、その事象の把握のため専門知識を有する職員を派遣しなければならない。 

☆原子力災害対策特別措置法第15条

 原子力緊急事態宣言について規定したもの、主務大臣(経済産業大臣、文部科学大臣或いは国土交通大臣)は、通報された放射線量が、避難、退避が必要になると予想される異常な水準の放射線量以上の放射線量が検出されたり、又は、原子力緊急事態が発生したと認められるときは、内閣総理大臣に報告を行う。内閣総理大臣は、原子力緊急事態宣言及び緊急事態対策を実施すべき区域、原子力緊急事態宣言の概要、区域内の居住者、滞在者その他の者及び公私の団体に対し周知させるべき事項の公示を行う。原子力緊急事態宣言の解除も本条項による。

 今回の事故について、本法10条により通報義務があり

 原子力防災管理者(東京電力)⇒経済産業省、原子力・保安院⇒主務大臣⇒内閣総理大臣

 通報(報告)された内容は、官房長官によって公表され、それによって政府の見解を国民へ告知することになります。

 本法15条により、原子力緊急事態発生を認め、内閣総理大臣は原子力緊急事態宣言をして、区域内の居住者、滞在者その他の者の避難を団体の長(町長)に命

 参考文献、資料

 東電、福島原子力事故調査報告書

 国会・東電福島原子力発電所事故調査報告書

 政府、東電、福島原子力発電所における事故調査、検証委員会中間報告書

 朝日新聞、 日経新聞、読売新聞、福島民報、各種業界紙、月刊誌、週刊誌

 大鹿康晴、「メルトダウン」講談社

 淵上正朗、笠原直人、畑村洋太郎、「福島原発で何が起きたのか」日刊工業新聞

 塩谷喜雄、「原発事故報告書の真実とウソ」文春新書

 佐藤栄佐久「福島原発の真実」平凡新書

 小出裕章、「原発事故と農の復興」有機農業技術会議

 小出裕章、「隠された原子力核の真実」創史社

 原子力資料室、「検証、東電原発トラブル隠し」岩波新書

 矢崎克馬、守田敏也、「内部被曝」岩波新書

 朝日新聞特別報道部、「プロメテウスの罠」株式会社学研

 長谷川慶太郎、泉谷渉、「シェールガス革命で世界は激変する」東洋経済新報社

 佐藤栄佐久、「知事抹殺」平凡社

 図解、「世界の農業と食料問題」ナツメ社

 高辻正基、「図解植物工場」日刊工業新聞社

 月刊誌、文芸春秋、13年6月号「原発と太平洋戦争」

 立花隆、「田中角栄研究」月刊誌、文芸春秋、掲載

 児玉隆也、「淋しき越山会の女王」岩波新書

 田原総一郎、「戦後最大の宰相田中角栄、ロッキード事件は無罪」講談社

 早坂茂三、「怨念の系譜」東洋経済新報社

 日本経済新聞社編、「中東激変」日経新聞出版社

 「石油の戦争とパレスチナの闇」、成甲社

 越沢明、「後藤新平・大震災と帝都復興」筑摩新書

 辻本嘉明、「山本権兵衛論」

 日経新聞、2010年9月2日夕刊、「危機の決断、小里貞利」記事

 高木俊郎、「インパール」文春文庫

 牛山才太郎、「ああ菊兵団、フーコン作戦」

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