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コラム

「ふたば創生」片寄 洋一さん(高6回)

あの大惨事から4年が経過した。避難生活は未だ続き、何時になったら避難指令解除になるのか誰も判らない闇の中にある。また避難指示解除の令がでても、以前と同じような生活が戻ってくる保証は全く無い。それどころか新たな苦難の始まりになりかねない。

ふる里の人々は苦しみ、悩み、絶望の淵にいる。このような時に安閑として傍観している場合ではない。ふる里の惨状を救済したい、手助けの方法は何かないか、恩返しをしたい。双高OBとして思いは同じ、東京栴檀会として何か出来ないか。ここに各種の資料を提供し、OB諸兄姉の叡智と行動を期待したい。

高6回 片寄 洋一

 まえがき 【第四編 我が国の電力事情】
【第一編 東日本大震災】   第25章 我が国の電力事情
  第01章 福島第一原発事故再考   第26章 只見川総合開発
  第02章 大熊町全町民避難   第27章 原子力発電への途
  第03章 双葉町全町民避難   第28章 原発と福島県
  第04章 浪江町全町民避難   第29章 地元誘致の動き
  第05章 富岡町・川内村避難   第30章 磐城飛行場
  第06章 楢葉町・広野町・葛尾村   第31章 福島第一原発建設開始
  第07章 双葉病院の悲劇   第32章 原発建設の必要性
  第08章 福島第二原発   第33章 中東情勢と原発
  第09章 第一原発吉田所長の活躍   第34章 中東の複雑さ
  第10章 外国での反響・協力   第35章 中東からの輸送路確保
  第11章 核の恐怖   第36章 海洋資源
  第12章 数々の隠蔽工作   第37章 海の国境線
  第13章 福島県知事の叛旗   第38章 ロシア革命
【第二編 事故後の混乱】   第39章 ポーランド孤児救済・保護
  第14章 原発事故後の混乱   第40章 第二次大戦への突入終結
  第15章 SPEEDI情報   第41章 北方四島問題
  第16章 その他の情報があった 【第五編 栴檀のふたば】
  第17章 事故は防げたのか   第42章 五年目の春
  第18章 国会最終報告書   第43章 残留放射線(能)汚染再考
  第19章 顧みて   第44章 ふる里は聖地
【第三編 核の知識】   第45章 双葉地方の農業
  第20章 原子力発電所の仕組   第46章 これからの農業形態
  第21章 放射線量(能)の知識   第47章 双葉地方の工業化
  第22章 除染作業   第48章 太平洋に挑む
  第23章 中間貯蔵施設   第49章 人工島の活用
  第24章 もう福島には住めないのか   第50章 被災地再興の原動力は教育にあり

第34章 中東の複雑さ

 第一次から第四次までの中東戦争はイスラエルとその周辺国家との戦闘であったが、その後はイラン対アメリカ、イラン対イラク、イラク対クウェート、イラク対多国籍軍、イラク対アメリカ・イギリス連合軍、の戦闘が続いた。

 2010年アラブの春、2010年12月18日、チュニジアの暴動で始まったジャスミン革命、エジプト、リビアと飛び火し、チュニジア、ザイン・アル=アビーディン・ベン=アリー大統領はサウジアラビアへ亡命(2011年1月14日)。

 エジプト:ホスニ・ムバラク政権が崩壊(2011年2月11日)サダト大統領暗殺により、後継者となったムバラク大統領が30年に及ぶ長期・独裁政権が崩壊し、軟禁、裁判、病没。

 リビア:2011年2月15日、カダフィ大佐の退陣を求めるデモが発生、その後内乱となり、フランスを中心としたEU軍が海上から支援、8月24日首都トリポリが陥落、カダフィ大佐は死体で発見され、42年間に及ぶカダフィ大佐の独裁は消滅した。

 イエメン:サーレハ大統領の退陣を求めるデモが発生、サーレハ大統領の退陣を求める反政府抗議活動が開始、大統領は次期大統領に出馬しない、世襲しないことを表明したが、即時退任を求めるデモ隊に圧され、副大統領に権限を委譲し、32年にも及んだサーレハ政権の終焉を迎えた。

 イエメンの女性活動家タワックル・カルマンさんはアラブの春に触発されておきたイエメン・サレハ大統領退陣要求デモに最初から参加し、政府軍と反サーレハの戦闘が起きたとき、首都サヌアの中心に小屋を建て立てこもって政府軍と対峙した。イスラムの女性は家に籠もっているのが普通であったが、カルマンさんの勇気に感動し多数の女性がデモに参加し、ついに大統領を辞任に追い込んだ。

 イスラム社会に於いて勇気ある行動の数々に「女性が参加なしでは民主主義を築くことはできないという、アラブ世界全体へのシグナルだ」として、ノーベル平和賞が授与された。

 シリア:イスラエルと国境を接するシリアでも2011年4月15日、バジャール・アル・アサド大統領の退陣を求める大規模な民主化要求運動があったが、治安当局が出動して参加者と衝突、多数の負傷者がでたが鎮圧された。しかしこれをきっかけにして暴動が発生、武力衝突となり内乱状態に陥り、民衆側に立つEUとロシア・中国が支持する政権側となり、国連の調停も監視委もアナン元国連事務長の調停も全て失敗し、悲惨な武力衝突が続いている。8月中旬未だ解決の路筋も見えない泥沼となっている。なお現アサド大統領は世襲で、父親であるハーフィズ・アル・アサドは軍人であったが、クーデターを起こし自ら大統領に就任し、その次男として生まれたのが、現大統領で兄が後継者になる予定で本人は医学に進み、医者になったが、兄が交通事故で死亡したため、急遽大統領になった。

 その政治的な経験は皆無で、医師であったのと温厚な性格で、前大統領の側近に任せていたが周辺国家との紛争や国内的にも摩擦が多くなると、段々と独裁的な様相を帯び、ジャスミン革命の飛び火には猛烈な弾圧を続け、解決の見通しはない。 国連停戦監視団は撤収した。8月20日シリア・アレッポで日本人ジャーナリスト山本美香さんが、戦線の取材中政府軍兵士に銃撃され死亡した。

 シリアの内乱は続き、シリア政府軍と反政府軍の激戦が続き、泥沼化してきたが、新たな敵が表れ、ISIS(イラク・シリア・イスラム國)、イラクで立ち上げた国際的テロ組織アルカイダから分派したより過激集団で、母体は旧フセイン政権時代の旧軍人やバース党の幹部らで組織されているらしい。

 国連やオバマ大統領、一部のマスコミはISILと呼んでいるが、アラビア語名を約した(イラクとレバントのイスラム國)。レバントとは地中海の東部沿岸地方の地名を指す。(ISIS=ISIL組織としては同じもの)

 イラク、シリアの領内で勢力を拡大し、支配地域を独自な方法でイスラム教スンニ派の過激派でイラク北部、シリア、レバノンを含む地中海東部の地帯を支配してイスラム國を造ることを目指している。

 闘いはイラク正規軍、山岳民族のクルド人との地上戦、欧米軍のアラブの春による政権打倒、内乱中の国を挙げたが、騒動はあったが鎮圧されてしまった国々は、アルジェリア、モロッコ、サウジアラビア、ヨルダン、レバノン、イラク、クウェート、バーレーン、オマーンに及び、小規模で済んだ国は数限りなくあり、アラブ以外でも騒動があった国々があった、特に中国ではいち早く中央政府が動き出し、監視の強化、予防拘禁を繰り返し、鎮圧に成功した。

 世界は決して安定しているわけではない。チュニジァの一青年の自殺をきっかけにこれだけの連鎖反応がおき、幾多の政権が倒され、数多くの犠牲者がでた。

 これだけのアラブの騒動の数々も2011年から2012年現在に至るまでの僅かな1年数ヶ月の間に起きたことであり、現在でもシリア内戦状態は続いており解決の見通しは全くない。

 また、政権が倒れ民主化政権が成就したかに見える国々も内情は内紛の連続で、安定した政権が成立するにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 前項で述べた第一次から第四次中東戦争は、イスラエルとその周辺国家との戦争であるが、そればかりではなくアラブ国同士、対EU、日本が関係する紛争もあったので、これらを考察してみる。

 石油外交政策に関しアメリカ政府はやや強気になり出した。それは石油の大消費国であるアメリカは自国内で原油採掘が出来る恵まれた先進国であるが、一方で中東諸国、ナイジェリア等から大量の原油を輸入し総計9億トン(2011年実績)の石油を消費している。

 我が国は2億5千万トンを消費。従って中東産油国の顔色を伺いながらの弱気な面があったのは否定できない。

 ところがアメリカ国内には油田に代わる「シェールオイル」が豊富にあることは以前から判明していたが、この採掘の見通しがついたらしい。

○シェールオイル:頁岩(ケツガン)(シェール)層と呼ばれる岩盤に閉じ込められている石油で、シェールガスと同様に大量の水を注入して岩盤に亀裂を造って油を滲み出させる方法があるが、近年その方法が開発され、採算的には1バレルあたり50〜60ドルが採算点だとしていたが、OECDは強気で80〜100ドルの高値を付け、IEAも油価100ドル高止まりを推定している。

 そうすると一挙にシェールオイル開発に資本が集中することになる。

 現在の技術で採掘できるアメリカ国内の埋蔵量推定は332億トン、コストも計算に入れたうえで、確実に採掘できるとされてきたアメリカ国内の石油の推定埋蔵量は252億バレルとされており、シェールオイルは約1.3倍の規模になる。

 この計画が遂行されれば、中東からの石油輸入は徐々に削減し、20年後には中東からの石油輸入は零になり、米州機構だけで調達でき、「脱中東」の政策は成就する。

 1973年石油危機以来、経済活動や日常生活に欠かせない石油を中東に大きく依存しており、この解決が大きな足枷となっていた資源外交が石油不足の心配が無くなれば、新たな資源外交に転換するだろう。

「エネルギーを巡る安全保障の国際地図は書き換わるかもしれない」

 これから途上国の成長が続けば嘗ての我が国のように自動車の普及が伸び、石油需要が伸びればアメリカの外交面での影響力は強化する。

 中東がこれからどう変化していくのかは解らないが、第二次大戦後、中東各地で幾多の戦乱が発生していたのは事実であるが、イスラエルと周辺アラブ国家との戦争であった第一次から第四次までの中東戦争ばかりがニュースとして報道され、他の紛争は余り報道されていない。

 この1〜4次中東戦争はパレスチナの地に2000年前に建国していたイスラエルの民が舞戻ってきて建国したから、パレスチナの住民が怒り、闘争になるのは必然的で、同情した周辺のイスラム教国が協同で戦争に突入した。

 「敗戦=国の消滅」を承知しているイスラエル国民は、西暦70年エルサレムを巡っておきた攻城戦で、ユダヤ属州のユダヤ人とローマ帝国軍の戦いで(ユダヤ戦争)ティトゥス将軍率いるローマ帝国軍はユダヤ人が立て籠もるエルサレムを破壊し、有名なエルサレム神殿(ヘロデ大王が築いた第2神殿)もこの時に破壊され焼け落ちたが、壁の一部が残った、これが「嘆きの壁」でユダヤ教徒は必ずこの壁に触れながらお祈りを捧げるのを恍惚の歓びとしている。

 なおも抵抗を続けたユダヤの兵士は最後の砦「マサダ要塞」に立て籠もり、2年間も戦い続け、少数の生き残りは全員自決して終わった。

 その後、生き残ったユダヤの人々は住地を追われ、中東やヨーロッパ各地を流浪し、ローマ帝国軍に捕らえられた捕虜は奴隷として売られ、ユダヤ民族の悲劇が始まった。

 従って、当然ながら祖国への執着は強く「敗戦=国の消滅」は恐怖となっている。

○マサダの戦い:死海西岸近くの山岳地帯に築かれた要塞でマサダという(マサダとはヘブライ語で要塞の意)標高400mの岩山に紀元前120年頃に要塞として建設され、ヘデロ大王の時、離宮兼要塞として改修された難攻不落の要塞。

 ユダヤ戦争でエルサレムが陥落するとエルアザル・ベン・ヤイルに率いられた僅か967人がこのマサダ要塞に立て籠もった。

 ローマ軍は15,000の兵士で要塞を取り囲んだが、攻防は2年間にも及び、遂に全員集団自決で終わった。(女性2人、子供5人が残されていた)

 ローマ帝国軍は要塞を破壊し、その後は放置されたまま、その存在さえ忘れ去られていたが、ドイツ人研究者が長年探し続け、1838年、発見した。

 現在は世界遺産に登録されており、標高は400mもあるのでロープウェーが整備されており見学に訪れてみたが、2000年前、しかも標高400mの岩山にこれだけの要塞は築くとは、ユダヤ人の潜在能力の凄さに改めて驚嘆した。

 そして最も興味があったのは岩山の頂上にある要塞で2年間も籠城していたのは事実であるから水の補給はどうしていたのか、沙漠地帯の岩山には地下水は全くない、沙漠地帯に1年中降雨はない。どこから水を導入していたのか、一寸離れているが死海があるが、ものすごい塩水湖で何もしないでも人が浮く位の高濃度。

 ロープウェー乗車口で貰ったパンフレットにその答えはあった。マサダ要塞には地下に巨大な石で出来た水槽があって、ヨルダン川の上流から導水して豊富な貯水があり、食糧も貯蔵しておいたらしい。

 イスラエル国防軍の入隊式はこのマサダ要塞から始まり、イスラエルを護ろうとした祖先の凄い信念を感受し、国防の信念として新隊員一人一人が祖先の勇士に誓うことを儀式としている。

○イランとの関係

〔速報〕2012年8月11日、イラン北西部、トルコとアゼルバイジャンとの国境付近で、嘗てはソ連に占領されていた山岳地帯にある町ダブリーズで強い地震が2回発生、イラン国営プレステレビによれば死者300人、負傷者2,000人以上と報じた。米地質調査所(USGS)によると、現地時間11日午後4時53分頃、東アゼルバイジャン州、州都ダブリーズの北東約60kmの地点でマグニチュド

(M)6.4の地震が発生、その約11分後、ダブリーズの北東約50kmの地点でM6.3の地震が発生、その後11回の余震があった。

 この付近は断層が多く、家は日干し煉瓦が多く崩壊しやすい。イラン国全体はザクロス山脈、イラン高原、カビル砂漠で囲まれ、平地はペルシャ湾付近に広がるのみ。首都テヘランも高原地帯にある。

 ロンドンオリンピック開催中で、イラン選手は大活躍で金4、銀5、銅3で堂々の世界第17位で、イラスム教国ではカザフスタンに次いで第二位、イラン国民は歓びに溢れたが、突然の天災に悲しみに沈んでしまった。

 中東と我が国は地政学的にも余り深い関係にはないが、石油に関しては大いに関係があり、嘗て我が国は石油の輸入は一位サウジアラビア、二位アラブ首長国連邦、三位イランであったが、現在はアメリカの経済封鎖に付き合って輸出入の零の状態が続いている。

 当のアメリカ・ホワイトハウスは地震の翌日の12日、「支援を提供する用意がある」との声明を発表したが、イラン外務省のガダミ次官が米国からの支援申し入れを断った、と発表した。

 第二次大戦中のイランは1945年3月、日本に対して宣戦布告をして連合軍の一員になったが、実際の戦闘には参加していない。サンフランシコ条約締結で国交は回復した。

 第二次大戦中にバーレビ王朝の国王を22歳のレザー・レビが継承した。

 当時イラン国会は存在したが極端なナショナリズムが起きていて、特に石油に関し議会は国有化に傾いていた。その中心人物は議会石油委員会の委員長ムハンマド・モサディクで、イランの石油は石油メジャーの支配下にありイギリスに本社があるアングロ・イラニアン[後のブリティッシュ・ペトロリアム(BP)]が支配していた。

 オイルショック以前の石油産出国ではその支配権を石油メジャー(通称セブンシスターズ)と呼ばれた7大石油会社(エクソン、モービル、ガルフ、ソーカル、テキサコ、ロイヤルダッチシェル、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP))があった。但し、その後離合集散があった。

 この7社が中東各地の石油利権を独占していた。これは中東各地がイギリスの植民地であった関係で、石油の利権を独占し、アップストリュムの探査、掘削、採油、ダンストリュウムの輸送、精製、販売と全てを支配する技術と資本を有し、君臨していた。

 ところが第二次大戦後の各地では独立の気運が高まり、かつ第二次大戦の当事国になっていたイギリスはもはやユニオンジャックを七つの海になびかせた栄光のイギリスではなくなり、疲れ切った老大国であったから、各地でおきた独立運動を押さえつけるだけの力はもう無かった。

 そのような関係で1951年、民族主義者のモハメッド・モサデックはイギリスが所有する石油会社を国有化することを主張、実際実力行使に出て国有化しまった。議会はモサデックを首相に任命してしまったが、国王はこれを拒否したが圧倒的な国民の支持があり、ヤムを得ず国王は首相任命と石油会社国有化にサインした。

 これがアバダン危機の始まりで宗主国イギリスは経済封鎖、他の石油メジャーに呼びかけてイラン石油のボイコットを実施、他の西側諸国にもイラン石油不買運動を呼びかけると同時にイギリス政府は国連安全保障理事会に提訴した。

 イランは石油しか外貨収入の途はなく、独立はしたけれどイラン経済は最初に躓き国民は不況に苦しみ、国庫はカラッポの状態が続いた。

 そこでモサデック首相の執った手段はアメリカ・アイゼンハワー大統領に「もしアメリカが援助の手を差しのべてくれないのなら、ソ連の援助を受けざるを得ない」と懇願とも脅迫とも読める書簡を送った。

 この書簡を見たアイゼンハワー大統領は脅迫と解釈、モサディクを危険人物とみなし、CIAに「イランの清掃」を下命した。(この頃のCIAは強力でアメリカにとって不都合な人物、政権を潰してしまうことなど朝飯前)国王はアメリカの力を頼り、モサデック首相は国民の支持を背景にして対立は続いた。その頃一つの事件があった。

○1952年にはモサデックは首相辞任を迫られたが、国民の支持が強く、辞任させようと工作していた頃、国の収入はなし、国民は不況に苦しんでいた。

 そこで極秘裏に政府特使を、石油を欲している国で、石油メジャーの眼がない国へ派遣し、原油の直接買い取りを打診した。

 我が国が独立をはたした翌年の1953年(昭和28年)極秘に来日した特使が当時は小さな石油会社であった出光興産を訪ね、創業者出光佐三社長と直談判に及んだ。

 出光社長自身も直接の買い付けを狙っていたので、商談は極秘に行われて成立、出光興産はタンカー1隻だけ所有する小さな会社だが、出光社長の度量は大きく、1隻だけのタンカー日章丸二世(1万8774トン、当時は日本最大の大型タンカーであったが、現在の基準では小型になる)を通常運航している港には入らず、神戸港に隠れ、夜間行先サウジアラビアとして出港、(多分クリアランス[出港許可書](税関発行)も行き先サウジアラビアになっていたと考える。この許可書が無いと外国の港に入港できない)。また、もしイギリスの艦艇による臨検を受けても行く先はサウジアラビアと主張できる。

 ペルシャ湾ではイギリスの駆逐艦が見張っており、また常時タンカーの発信する無線電信を傍受しており、もしイランへ向かうことが判明すれば拿捕も辞さないと公表していた。もし1隻しかないタンカーが拿捕されれば倒産確実の中での決断だから社長の度量の問題だ。

 日章丸二世は無線通信を封印して、無言のままホルムズ海峡を抜け、シャトルアラブ河を遡航して4月11日、積出港アバダンに横付けガソリン・軽油2万2千キロリットルを満載し無言で出航、ペルシャ湾に出たところで警戒中のイギリス海軍駆逐艦に発見され追跡、停船命令の旗旒信号旗と発光信号を発信し続けたが、公海航行自由の原則に基づく無害航行権の権利を返信し停船必要なしと応答、戦争当事者ではないので拿捕は出来ない、拿捕すれば国際法違反になる。この駆け引きで見事ホルムズ海峡を抜け、1ヶ月後川崎港に還ってきた。

 かんかんに怒ったイギリス政府は外務省に厳重な抗議を申し込むと同時に、アングロ・イラニアン社は積み荷の所有権を主張して東京地方裁判所に即時積み荷の引き渡しを要求し提訴した。

 しかし法的には無理な要求で、出光興産の行為は純粋な商取引であって法違反や国際慣行に違反したわけではない、さすが強気のアングロ・イラニアン社も不利を悟って提訴を取り下げた。

 出光興産社長、出光佐三氏は一躍時の人となり、戦勝国イギリスと堂々と渡り合い勝利したその行為に敗戦でしょぼくれていた日本国民を奮い立たせた。そして苦しいイラン政府財政を助けてくれた恩人として出光社長を処遇し、その後の石油取引には色々と便宜を与えてくれ日本・イランの友好関係は築かれた。

 しかし、イラン政情は不安定で政界は、一寸先は闇。国民の圧倒的人気を背景にモサディク首相は対立していたシャーを一時期亡命に追いやった。モサデック首相は更に自信を得て共和国を宣言するが、ところがこの亡命にはCIAが仕組んだ裏工作があり、シャーは自分の意志で亡命したと見せかける策謀をCIAが仕掛け、モサデック首相を罠にかけた。トリックに気付かなかったモサデックはやがて逮捕され・拘禁されて政界から消された。

 シャーは即座に帰国、国王モハマンド・レザー・バフラヴィーは公式には「シャー達のシャー」の意味になる、即ち諸王の王となり、詰まり“皇帝”を意味する「シャーハンシャー」と名乗り皇帝として君臨した。また新任の首相はシャーの腹心を任命、皇帝として君臨することができたのはアメリカ政府のお陰と感謝し、その見返りとして、1954年、旧宗主国イギリス40%、アメリカ40%、フランス6%、オランダ14%、の割合でイラン石油利権を分割する国際コンソーシアムの操業を今後25年間に渡って認める契約に調印した。喜んだのはこれらの国で、皇帝に多額のリベートがあったことは言うまでもない。

 結果は石油の支配権、利益も国民を素通りし、外国石油会社とシャーの懐への構図ができあがり、国民の不満は爆発したがシャーは弾圧で抑えた。

 アメリカとの蜜月は続き、バグダット条約に加盟し多額の軍事援助、経済援助を受け、中東の憲兵と言われるほどの強力な軍隊を組織した。

 そしてシャーの政策は、自由主義的西欧的政策を基本としたため、敬虔なイスラム国民としてのイスラム宗教集団、政治集団は片隅に追いやられてしまった。

○日本とイランの関係につて、1974年、「日本・イランビザ相互免除協定」を締結、日本での出入国ではビザが要らなくなった。これは観光の為の短期ビザであり、イランから日本へ観光に来る客がいると思えないから、石油が欲しいばっかりにリップサービス程度でビザ協定を提案したが、ふたを開けると多数の観光とは無縁のオッサンばかりがやってきて、手引きするブローカーの案内で建設現場や零細企業の工場等へ消えてしまった。

 慌てた政府も打つ手なし、1992年、ビザ相互免除協定が失効、その時点で推定3万人以上のイラン人が不法滞在者であることが判明した。

 この間治安は一挙に悪化しだした。私が住む地方都市でも大きな自動車工場の下請け企業が多数あり、住み込んで働くイラン人によるレイプが頻発、若い女性の自殺事件が何件か続いた。

 日曜日になると上野公園や代々木公園内にイランにあるバザールのようなイラン人だけの市ができ異様な風景があった。

 イラン国内ではシャーの独裁は続き、西側とは良い関係が続いたが、国内的には軍事力の強化、西欧型の近代化と国内産業を拡充しようとイラン産業の進展を諮った。(白色革命)しかし完全な失敗に終わってしまった。

 我が国はこの白色革命に深く関わって「IJPC」という大プロジェクトがあった。1968年訪イラン経済使節団が政、官、経の代表者で結成された使節団が訪イ

 1968年 イラン経済省の次官が来日して石油化学プロジェクトの計画を提案

 1968年 三井物産を中心としたプロジェクトチームを結成

 1969年 イラン・ザヘディ外相来日、佐藤首相に石油開発協力要請

 1969年 イラン石油化学調査団の専門家チームが訪イ

 1970年 NIOCがロレタス鉱区、海上第3鉱区入札参加

 1971年 日本、ロレタス鉱区落札、鉱区開発のため日本・イラン石油会社設立

 1973年 第四次中東戦争勃発、第一次オイルショック

 1973年 IIPC発足、コンビナート敷地に杭打ち始まる 用地造成

 1974年 建設予算5,500億円承認

 1976年 河本通産大臣訪イ、現地視察、第一、第二船着き場完成

 1976年 ICDC池田会長(非常勤)、八尋俊邦社長、岡田高三本部長就任

 1978年 バハラヴイ国王、建設現場視察

 1978年 建設現場作業員約7,000人(日本人2,200,イラン4,000、韓国500、他)

 1978年 イラン国内、国王打倒のデモ頻発

 1978年 福田首相訪イ、国王と会談、現場視察

 1978年 首都テヘランで10万人規模のデモ、地方都市に飛び火

 1978年末 在留イラン外国人退去始まる デモは暴徒化

 1979年 バハラヴイ国王は家族と共に国外退去 エジプトへ脱出

 1979年 IJPC工事断念を発表、日本人全員3,176名引揚げ決定

     その時の工事進捗状況86%

 1979年 ホメイン師がイランイスラム共和国宣言

 1979年 反米デモ各地で発生、イラン学生 在イラン・アメリカ大使館占拠

 1980年 アメリカ、イランと断交、経済制裁宣言、EC諸国大使引揚げ通告

 1980年 イラン対日石油輸出全面停止発表

 1980年 新政権 工事再開を要請、合意

 1980年 イラク空軍イラン領各地を空爆、イラク地上軍国境突破進撃

 1980年 全面戦争 国境のシャトルアラブ河に面した現場は戦場となる

 1980年 現場には日本人744名全員テヘランへ脱出決定

 1981年 アメリカ大使館人質やっと解放、この間人質奪還作戦が失敗

 1981年 イラン首相府爆破事件、ラジャイ大統領、バホナーノル首相死亡

 1983年 安倍外相、イラン・イラク両国を訪問 停戦を申し込む

 1986年 イ・イ戦争 地上戦が激化、各地で激戦が続く

 1986年 建設現場15回にわたり被爆し破壊される

 1986年 実務スタッフが破壊された現場を視察し、事業解消策を討議

 1987年 国連安保理 イラン・イラクへ停戦勧告、タンカー戦争激化

 1988年 国連デクイヤル事務長 イ・イ戦争停戦を発表

 1989年 イラン宗教指導者ホメイン師死去

 1989年 事業清算最終交渉 合弁事業解消合意書承認

 1990年 合弁事業解消合意書調印

 1991年 ICDC、海外投資保険求償 930億円の請求書提出

 1991年 ICDC臨時株主総会、解散を決議

 1991年 ICDC清算株主総会、清算結了を承認、清算解散登記

 IJPC プロジェクトイラン、ジャパン石油化学(Iran-Japan Petrochemical Company)

 ICDC イラン化学開発、日本側の事業会社

 NPC イラン国営石油化学、イラン側の事業会社

 日本、イランの両国が事業費折半でIJPCを設立、石油資源が欲しい日本は国家的事業としてこの合弁事業を始めたが、壮大なコンビナート建設中に度々の試練が発生し、85%建設が進捗しながら断念に追い込まれた悲劇な事業、しかし日本国内では余り知られていない。

 資本参加事業:三井物産、東洋曹達、三井東圧化学、三井石油、日本合成ゴム、1968年11月、イラン訪問中の高杉三井物産副社長(当時)に対しモストフィイラン石油化学公社総裁がイランの油田廃ガス有効利用につき強力を要請。

 1970年、日本・イラン双方で覚書を交換、事業、建設開始

 しかし、中東の政情不安をどの程度念頭にあったのか、石油だけが念頭にあった政・官・財の思惑は経済観念だけだったのか、中東の魑魅魍魎たる複雑な歴史をどの程度理解していたのか、イランの現状、政情をどう理解していたのか。

 調印の頃にはイラン国内でシャーの圧政が国民の限界に達し、かつ反米感情が燃えさかり爆発は時間の問題とされていた。

 1973年、第四次中東戦争勃発、第一次石油危機

 1978年、テヘランのデモ、暴徒化、イラン在留外国人避難開始

 1979年、シャー一家エジプトへ亡命、ホメイン師、イランイスラム共和国宣言

 反米学生が在イラン、アメリカ大使館占拠、職員を人質にした

 1980年、アメリカ政府、イラン政府と断行、EU諸大使引き揚げを通告

 1980年、イラク空軍機イラン領内の軍事施設等を爆撃、地上軍も侵攻を開始

 1986年、数度にわたり砲撃により建設した施設が破壊された

(在イラン・アメリカ大使館跡地、廃墟)

 1991年、ICDC清算、全面撤退

 何度も撤退の時期があったが決断がつかなかったからずるずると伸びてしまい傷口を大きくしてしまった。

 IJPCの清算完了、日本側損失に対して海外投資保険から(付保額1662億円、請求930億円)777億円の支払いがあって、中東から大きく後退した。

○在イラン・アメリカ大使館占拠、人質事件

 1952年から1953年、民主的に選出されたモハマド・モサデック首相は急速に勢力を拡大し、国王シャーと対立した。

 当時イランの石油産業はアングロ・イラニアン社[現在のブリティッシュ・ペトロリアム(BP)社]が独占していたが、これをイランが国有化しようとモサディクが動き、イギリスは最大の企業であるアングロ・イラニアン社を護ろうと必死だったが、過去に於いて会社がイラン政府に財務報告をしていなかったのが致命傷になり、イラン国会が国有化宣言を満場一致で可決した。

 シャーは一時的であるがイタリアへ避難、その間アメリカCIA、イギリスM6の秘密工作「アイアス作戦」を遂行、これは反モサディクをアメリカ大使館指導で組織し、1953年イランクーデターが成功、モサディク首相とその一派を追放し、帰国したシャーが復権、議会に対するシャーの権限を制約する憲法上の規定を全て撤廃し、シャーはアメリカの庇護のもと絶対的な権限を持ち専制君主として国民の頂点に立った。

 石油採掘の権限をアメリカ、イギリス、オランダ等のセブンシスターズ系に与え、国民経済を素通りしたシャーと石油メジャーの利益独占を諮った。

 また軍事力の強化、産業近代化を図り白色革命と言われた。

 我が国関連のIJPCもこの白色革命の一つとして遂行された。

 しかし、国民の間では反シャー、反米、反白色革命の意識が根強く、1973年、第四次中東戦争、第一次石油危機、アラブ産油国と西側列強の対立しかし、絶対的に石油確保が命題の我が国はより一層IJPCの合弁にのめり込んでいった。

 イスラム教の国家であるイランには優れた宗教指導者ホメイニー師がいた、が青年期バフラヴィー政権と対立し、国外追放になっていた。

 この追放の14年間、国外から国王の反宗教的行為、反国民的行為を暴き、国民を煽動した。

 1978年、学生を中心とした反シャー、反政府運動が激化、外国人は避難開始。

 1979年、シャー一家はエジプトへ亡命、その後シャーは癌が発見さ、その治療のためアメリカに渡り治療に専念した。ところがイラン国民はシャーの引き渡しを求めて連日アメリカ大使館前でデモをしていたが、11月4日、学生のうちイスラム法学校の学生が大使館に雪崩込み、大使館を占拠、外交官、職員、警備の海兵隊員と家族52人を人質に立て籠もり、シャーの身柄引き渡しを要求した。

 外交関係に関するウィーン条約によって接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び安寧・威厳の侵害を防止するために適当な全ての措置を執る義務を負う(同法22条2)の規定に反すること明らかであるが、シャーが亡命したイラン政府は大使館の占拠に対処するどころか支援の態勢にあった。

 アメリカ政府、ジミー・カーター大統領は軍事作戦による人質奪回作戦「イーグルクロー作戦」を発令、1980年4月25日〜26日、作戦は実施されたがヘリコプターRHー53Dシースリオンが故障、その上Cー130輸送機とヘリが接触し、隠密裏に挙行された作戦は、イラン側が気付く前に自滅的な事故で消滅してしまった。

 これはイラン高原独特の砂嵐で視界状態が零状態になり、かつヘリのローターに砂塵が入り故障したらしいが、砂塵が凄まじいのは作戦参謀であれば承知しているはず、万全の準備をしたのだろうに初歩的なミスで自滅した。

 軍事力による救出作戦を諦めたアメリカはシャーをパナマへ出国させ、最終的に辿り着いたエジプト・カイロの病院に入院したが1980年7月に失意のままシャーは死亡した。

 またカーター大統領は選挙に落ち、共和党のドナルド・レーガンが大統領に就任引き続き交渉は継続し、仲介する国があり、1981年1月20日、人質解放に合意し444日振りに解放された。

 しかし、この間1980年9月22日、イラク空軍機がイラン領内のイラン空軍基地10ヶ所を同時攻撃、地上軍も侵攻した。

 元々イラン・イラク両国の関係は石油の積み出し港であるシャットル・アラブ河の領有権を巡ってしばしば紛争があり、さらに中東の政情を複雑にしているのはイスラム教内のシーア派とスンニ派の歴史的対立、ペルシャとアラブの歴史的対立、これらが複雑に絡み合っているのが中東の歴史であって、IJPCの計画はこの複雑な中東の歴史を軽く観たのか、気付かなかったのか、失敗の原因は石油の確保だけが全てだったのか、残念ながら無残すぎる撤退であった。

 イラクによる攻撃は予想されていたことで、これはイラン国内で宗教革命とも言えるホメイニー師の帰国、指導権の獲得、シャーの亡命となればイラン政府指導力は乱れ、特にホメイニー師はイラン国軍幹部の粛正を断行、シャーが育て上げ中東の憲兵と言われたイラン国軍はガタガタになってしまい、国防力は脆弱になった。

 この機会を待っていたイラク・フセイン大統領はイラン侵攻を発令、8年にも及んだイラ・イラ戦争が開始された。

 この時、イラン憎しに凝り固まったアメリカは全面的にイラクを支援、膨大な軍事援助を行った。この時援助された兵器を使ってイラク国軍はクウェートを侵攻し、湾岸戦争ではアメリカ軍と闘うのだから中東の複雑さに唖然とするが、これこそが中東、昨日の友は今日の敵、明日は明日の風が吹く、これがまさに中東。

 私事ですが開戦時イラクのバスラで働いており、砲撃の大音響に驚いて外に飛びだしたらイラク人の同僚が「戦争だ」と叫びながら駆け込んできて、「事務所内の金目のモノは直ぐ隠せ」と指示、さすが避難民即暴徒化する現状を良く心得ており、そのための地下室もあり、必死で隠し終え、さてそれからが死を覚悟した逃避行の始まりであった。

 沙漠地帯での闘いは炎熱下沙漠の気温は50℃を超え、そこで伏せていると沙漠表面温度は70℃以上、熱せられたフライパンで焼かれているような心情でまさに地獄、そこで服装はフード付き分厚い外套着用になる。ともかく36℃の体温を保つためには外気を遮断する必要があり、厚着こそが命を保全するただ一つの方法、眼には大型防塵眼鏡、口は医師がするような大型マスク、これは直接外気を吸うと熱風で肺が爛れてしまうのと、砂塵を吸い込まないため、靴は払い下げのイラク軍戦闘用ブーツを着用で完全防備、沙漠に生きる民の生活の知恵、日本での知恵は何の役にも立たない。

 ただ一つ日本の知恵の産物、炎熱下の沙漠を縦横に走り回れるのはトヨタとニッサンのジープだけ、炎熱の沙漠を平然と走れるのはブリジストンのタイヤだけ、これはイラク人同僚の評価。たしかに砂塵の中でも完全に作動してくれたエアクリーナーは凄いとこれは私の実感。最悪の条件下でこそ製品の真値が発揮出来、日本製品は本当に凄い。

 日本に還ってきて感じたことは夏の炎暑、こりゃあ沙漠より凄い、何故なら汗がタラタラの不快感、昼も夜も余り変わらない気温、沙漠の暑さは厚着で防ぎ、汗は一切無し、何故なら湿度十数%なので発汗しても即蒸発、肌はいつも爽やか、日中は50℃以上になっても夜間は20℃前後、夜明け頃は15℃位まで下がり寒いくらいで実に爽やかな感じになる。

 この沙漠には小さな生き物が多数棲んでおり、水が全くない沙漠でどうやって水分を補給するのだと疑問に思うでしょうが、この寒暖の差に秘密あり1日で30℃以上の差があるので湿度が十数%でも夜明け頃はもの凄い露で沙漠の表面を流れます。そうすると穴に潜っていた生き物が一斉に飛び出し水分補給、その後は弱肉強食、沙漠に生きる動物の宿命、植物もあり米俵くらいの大きさで針金のバラ線の塊のような赤茶けたもので大きな棘だらけの異様な物体ですが、これが風の吹くまま沙漠の上を転がっているがこれが生きている植物なのですから不思議です。この秘密は棘にあり夜明けの露を地面に接している棘が根になって水を吸収し1日分を補給するのです。

 この露があるのは夜明けから3時間くらい。日が昇るにつれ元の沙漠に戻り、炎熱地獄がはじまる。この後、戦線が変わって一応安全を確認してから戻ってみると、アメリカの本社から指令がきて、ペルシャ湾内が危険なので大型タンカーが入らないから、代わりに原油運送を請け負えと無慈悲な指令、無防備で戦時下のペルシャ湾内を航海する不気味さ、怖いのは対艦ミサイルと磁気機雷、浮遊機雷は何とか見付けることが出来るが海面下にある磁気機雷はお手上げ、幸いにも無差別攻撃宣言(タンカー戦争)の前だったので、武装高速艇の艇首に据えてあるキャリバー50重機関銃で掃射を数回受けた程度でこれも無事任務終了。

 イラン・イラク戦争(1980年9月22日〜1988年8月20日)

 歴史上名高いチグリス河とユーフラテス河は歴史の教科書には必ず記載されているが、古代メソタミア文明は世界最古の文明といわれ紀元前3500年前は、まさに世界史の始まりは此処にあり、その後シュメール、バビロニア、ヒッタイト、アッシリア、ペルシャと続く文明は、この両河の間にある肥沃な沖積層が母体だ。

 両河ともその水源はトルコ共和国のトロス山脈、アナトリア高原でこの高地の東部に降る雨は南部にあたるメソポタミア平原へと流れ出し、乾燥地帯であるこの地を潤す大河となって流れるのがこの両河であって豊かな文明を育んだ。

 このメソポタミア平原は全てイラク共和国の領内にあるが、下流のアルクナという街付近で両河は合流、更に下流にあるバスラ市でバーマー湖の放水と合流し一挙に水量が増え、更にペルシャ湾の潮がこの付近まで朔流するため水量豊かで此処までは大型船(5万トン位までの大型船の航行可能)が航行出来るからバスラはイラク唯一の貿易港になり、河の名も変わってシャットル・アラブ河になる。

 この下流域にあるアバダンはイラン唯一の国際貿易港でありイラン最大の石油コンビナートがある。即ちこのシャットル・アラブ河が国境線になるのだが、沙漠を流れる河は大きく蛇行しており、単純に河を国境線とする訳にはいかない事情があり、ペルシャ湾に注ぐ河口付近はイラン、イラク、クウェート三国の国境線が狭めており、更には河口付近にイラン海軍の基地があるから、紛争が絶えないのも頷ける。

 イラクの独裁者フセイン大統領はイランのシャーが君臨していた頃はアメリカの援助で強力な国軍を育て、中東の憲兵として存在していたからさすがのフセイン大統領も手が出せず隠忍自重の状態にあった。

 ところがイランにイスラム革命がおき、宗教学者ホメイン師が指導者になると政治的・軍事的知識は弱く、シャー憎しとばかりに国軍幹部を粛正した。

 イラク・フセイン大統領はこの時を待っていた。イラン国軍が弱体になればイラク軍は攻め込むだろうことは歴史が教えるところ、世界もそう観ていた。

 1980年9月22日、イラク空軍のMiG-21戦闘機がイラン空軍基地爆撃から始まったが、イラン空軍の実力を怖れ、小規模だったらしい、その他石油基地や陸軍基地を低空から攻撃したが小規模な作戦の連続で、重要拠点を集中・反復攻撃する作戦計画が整っていなかったのか、作戦指導部が弱気だったのか?

 戦争が本格化したのはしばらく経てからで、イラン憎しのアメリカは軍事援助をイラク・フセイン大統領にした。フランスは石油代金をバーターでミラージュF1戦闘機60機を契約、はてはエグゾセ対艦ミサイルも含まれていたらしく死の商人の商魂は逞しい。

 中東に戦火が絶えないのは豊富な武器弾薬があるからで、武器商人にしてみれば代金として石油を取り立て、支払いに支障が無いのが最大の魅力、産油国にしてみれば、勢力拡大には絶対的に必要な兵器が地下に眠る資源を掘り起こしさえすればば幾らでも手に入るという悪循環、しかしこの点ではイラン側が圧倒的に不利で、シャー時代兵器の大半をアメリカから輸入し、そのメンテナンスもアメリカの技術者に委ねていた。それがシャーの亡命と共にアメリカ人も全て引き揚げてしまったし、必要なパーツが入ってこなくなったから、特に戦闘機の大半は飛行不能になってしまった。

 アメリカ、西欧諸国、ソ連はイラクを支援、他のアラブ諸国はスンニ派や世俗的な王政、独裁者が多いので、イランで起きた十二イマーム派によるイスラム革命の輸出を怖れ、イラクを支援した、中国もフランスに次いで多くの武器輸出の商談を纏めた。

 世界で唯一イランを支援したのは北朝鮮で、多量の武器を輸出したし軍事顧問団も派遣された。またアメリカはイラクを公式に援助し兵器を送った。ところが後刻発覚したのだが「イラン・コントラ事件」という奇妙な事件がばれてしまった。

 これはレバノン内戦に派遣されたアメリカ軍兵士がイスラム教シーア派の過激派ヒズボラに拘束され人質になった。

 この兵士を救出するためにはヒズボラの後ろ盾になっているイランと秘密裏に接触、イランの協力を願い出たが、イラン側の回答はアメリカ製の武器が欲しい、武器を密かに譲ってくれるのなら救出に協力しようと回答、当時はレイガン大統領がこれを承諾し、無事人質救出に成功メデタシ、メデタシとはいかなかった。

 イランに隠密裏に輸出した武器の代金は公には出来ないので、この代金を左翼化が進んでいたニカラガで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ・コントラにこの資金を与えていた。

 この一連の秘密工作を担当したのが当時CIA長官であったジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領)、この裏工作がばれてしまい、議会で追及され大問題に発展してレーガンン大統領は苦境に立たされた。

 1981年6月7日、またもや予想外の事件が起きた。イスラエル空軍機がヨルダン、サウジアラビアの領空を超低空で飛行し両国のレーダー網を潜り抜け、イラクがフランスの技術で建設中のオシラク原子力発電所(未稼働)を爆撃し破壊した。(バビロン作戦)

 これはイラクの核開発を未然に防止するためで、イスラエルは国防上必要であったと公表した。これに対してイラクはイランと交戦中で報復する余裕はなく抗議をするだけだったが、これには更に裏がありイスラエルはイランと事前に連絡し合っており、イラクは対イラン戦線と対イスラエルとなれば全く逆方向なので戦線を敷けば軍事力を二分しなければならない、そうすればイランは断然有利になる。

 国際間とは一瞬たりとも油断のならない関係に満ちあふれており、謀略に継ぐ謀略の連続で、国際間の結びつきとは複雑な利害関係にあり。

 また同年イラン最大の貿易港であったホラムシャハル港は開戦時にイラク軍に占領されてしまったが、イラン軍が総攻撃をかけ激戦の末、同港を奪還に成功、その際イラク兵3万人が捕虜になった。この勢いでイラク領土内へ侵攻しはじめた。

 さらにはシリア領内を経由して地中海に繋ぎヨーロッパへ輸出していたイラク産の原油を運ぶパイプが止められ、輸出できなくなるとペルシャ湾への出口が塞がれているので石油の輸出が全く出来なくなり外貨を稼ぐ方策がなくなれば武器弾薬を買い込む資金がなくなり、継戦応力がガタ落ちになってきた。

 中東の戦争の特徴は近代兵器で戦うが、外国製の兵器が大半で石油での資金を支払うため武器商人にとって最大のメリットがある市場になってしまう。

 イラン・イラク戦争はエスカレートして追い込まれたイラクは毒ガスを使い出した。対イランばかりではなく、イラク国民であるはずのクルド族(山岳遊牧民)に対して大量虐殺を謀り、フセイン大統領直接の命令で、極秘で実施されたので世間一般では解らなかった。

 戦争の行き詰まりで手段を選ばずとなり、ペルシャ湾航行中の船舶は国籍の別関係なく撃沈すると通告。このためペルシャ湾から積み出しているタンカーの護衛のため世界中の軍艦がペルシャ湾に集結、自国のタンカー護衛に当たった。

 しかし世界最大の輸入国である我が国は護衛艦の派遣を国民が認めず、日本籍タンカーはペルシャ湾内に入れなくなり、別のタンカーが運んできたのを湾外で積み替えて日本へ運ぶという奇策がやっとだった。

 1985年3月17日、48時間の猶予時間を於いてイラン上空を飛ぶ航空機を無差別で撃墜すると突如イラク・フセイン大統領が宣告、対空ミサイル攻撃だが、戦闘機パイロットであれば対空ミサイルの追尾を振り切る訓練を常に受けているが、旅客機は全く無防備で赤外線追尾のミサイルでは防ぎようがない。驚いた各国は即座に救援機を飛ばして自国民を連れ帰った。韓国も大韓航空(KAL)が救出に向かい連れ帰った。取り残されたのは日本人だけ、勿論、政府も日本航空に救援機を飛ぶように要請したが、安全が保障されない限り派遣しないと労働組合が拒否回答、ところが航空自衛隊出身のパイロットが名乗り出て、派遣を了承したが地上勤務の労組が拒否したため飛び立つことが出来なかった。

 航空自衛隊の輸送機の派遣も検討されたが、長距離飛行可能な輸送機がなく、また社会党が海外派兵反対を叫んで阻止した。

 この時、在トルコ伊藤忠商事支店長の森永氏がトルコのオザル首相にトルコ航空機による救出を懇願、連絡を受けた中曽根首相も在日トルコ大使館を通じて救出を要請した。

 「トルコ人を優先して救出するのは当然ですが、どうか、日本人をトルコ人と同じように扱ってくださいませんか。今日本が頼れるトルコ国しかありません」

 オザル首相は即座にトルコ航空本社に連絡、救援機2機がイラクに向かった。

 救援機の1番機機長はオルハン・スヨルジュ氏(後刻この人は日本に招待され勲章を授けられた)。3月19日午後8時30分がタイリミット、それ以後は対空ミサイルで撃ち落とすと撃墜予告がされていた。

 撃墜予告1時間前に1番機198名、2番機17名の日本人を乗せて離陸に成功、予告時刻ギリギリ国境を越えた。

 この時、在イランのトルコ人を救出することになっていたが、急遽日本人を救出することになり、残されたトルコ人はトルコ大使館が手配した車に分乗してトルコへ帰還した。それでも誰も文句を言った人はいなかった。

 1999年(平成11年)8月17日、トルコ北西部で大地震が発生した。多くの家屋が崩壊し多数の犠牲者が出た。

 以前に救出されて日本に戻る事ができた商社マン、銀行マン達、所属する会社は一斉に立ち上がり義捐金を募り贈った。日本政府も迅速に緊急物資や無償援助、レスキューチーム、医療チーム、耐震診断専門のチーム、ライフラインの専門家等、地震大国として専門家を即座に救援に向かった。

(輸送艦おおすみ8,900トン、トルコ救援物資の
コンテナを満載し横須賀出港、相模湾航行中の空撮)

 さらに海上自衛隊の輸送艦おおすみ、掃海母艦ぶんご、補給艦ときわ、の三艦に救援物資と仮設住宅を満載して横須賀港から出航(1999年9月23日)し、10月19日にイスタンブールのハイダルバシャ港に無事入港した。

 仮設住宅は「日本トルコ村」と名付けられて約5,000人が収容された。また、通りは「東京通り」、「神戸通り」と命名された。

 1986年、イラン国軍指揮系統が完全に回復、本来の実力を発揮し、シャッタル・アラブ河口部は広大な三角州で幾条もの流れがあってペルシャ湾に流れ出る。

 この三角州の北側がイラン国境、南側がクウェート国境、河口付近にあるイラク最南端のアル=ファオ市を含むファオ半島が要衝なことは軍事的には常識であったが、イラク国軍は国際貿易港バスラの防衛線構築は熱心だったが、河口付近の防御線は殆どなかった。推測だがイラク国軍は陸軍が主体で参謀本部も陸軍の発想しかなかったらしく、多くの船艇を要するファオ半島攻略をイラン国軍が実施するとはまさに想定外で、無防備な状態だったが、その要衝をイラン軍は密かに多数の船艇を集結させ英国製の揚陸艦(2,500トン級、2隻)を中心とした小型船艇団を組織して夜間密かに上陸し、戦闘はあったが河口全域を短期間で占拠、クウェート国境付近までにイランの軍事力が及んだ。

 この時携行したイラン軍の装備は最新式の兵器AH-1コブラを中心とした対戦車兵器多数装備、これはイラン・コントラ事件の裏取引で、アメリカからせしめた最新兵器の数々で、これがイラ・イラ戦争の明暗を分けてしまったのだから駆け引きに長けたイラン側の圧勝。

 この河口を占拠されればイラクはペルシャ湾への唯一の出口を失うことになり、まさに袋の鼠、あとはバスラが最後の砦になった。

 危機感の募ったフセイン大統領はバスラ死守を発令とともに精鋭からなる戦略予備軍第7軍に出動を命じ、ファオ半島のイラン軍に反撃を開始、イラク機甲師団が進撃したが、河口付近は当然ながら軟弱なデルタ地帯に嵌まってしまい機動力を発揮できず撃退されてしまった。

 1987年、イラン軍は優勢になり全面的にイラク国内に侵攻を始めた。

 この頃になると両軍とも常規を逸し、1988年2月、イラン・イラクは相互都市の無差別攻撃、湾内航行中の船舶への無差別攻撃とエスカレート、船舶護衛のためアメリカ海軍艦艇が出動、4月14日、イラン軍と交戦(ブレーイン・マンティス作戦)、4月18日には米空母エンタープライズを含む4艦隊がペルシャ湾内に集結アメリカ艦隊は第二次大戦後初となる海戦でイラン海軍の軍艦2隻、武装高速艇6隻を撃沈した。

 1988年3月16日、クルド人が多く住むイラク東部のハラブジャでイラク政府に対して反乱を起こしたとして、フセイン大統領が化学兵器使用で大量虐殺(ハラブジャ事件)を謀ったらしい。この時使用した化学兵器はマスタードガス、サリン、VXガス等複数の種類が極めて大量に使用さたらしい。詳細が不明なのはイラク政府が発表する訳がなく、生存者がいないことも一因、クルド人が反乱を起こしたのはイラン工作員の陰謀によるものであることは確かだ。

 また、スンニ派イスラム諸国、欧米諸国がイラクを支持していたためフセイン大統領が不利になるような情報は表に出ないよう工作をしていた。

 戦後CIAの分析官が調査した結果、イラン軍がシアンガスの詰まった砲弾を撃ち込んだからだとの説を唱えた。真相は藪の中だが、バスラへ向け進撃を開始したイラン国軍を防ぐため最後の手段としてフセイン大統領は化学兵器(毒ガス)を使用も許可したことは確かだ。

 バスラ戦線では使用するであろうことは十分予想されるので、イタリアから100万個の防毒マスクを輸入し、全兵士に携帯させた。

 化学兵器を使用したが沙漠地帯では日中は猛烈な上昇流がありガスが直ぐに拡散してしまうし、イラン軍は防毒マスク着用していたため、効果は余りなかったが、イラク軍内部でとんでもない誤算が生じてしまった。

 それは誤爆があったり、風で逆流したりで自軍の兵士1,000人以上が毒ガスで死亡する事件が発生してしまった。

 この頃となると両国とも常規を失い、互いに都市の無差別攻撃、湾内航行中の船舶への無差別攻撃とエスカレートし、サウジアラビアがイランとの国交断行、アメリカ軍は既にイランと交戦状態、ペルシャ湾岸諸国(サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、バーレーン、オマーン)は湾岸協力会議(GCC)を結成、イランに圧力をかけた。

 1989年6月、イランの宗教指導者で革命の父であるホメイニー師が死去。イランの勢力が拡大し、周辺諸国が最も怖れる「宗教改革」が輸出される怖れがありと判断し、イラクが未だ余力のあるうちに停戦させなければ自国が危ないとした湾岸諸国はやイラン周辺諸国も動きだし停戦勧告圧力運動になった。

 1988年7月、イランは安保理決議597号の受諾を表明、8月20日停戦。

 1990年9月10日、イラン・イラク両国は正式に国交を回復した。

 しかし、イラン・イラク国交回復の日の1ヶ月前の8月にはイラクはもう既に次の戦争を始めてしまったのだから驚く。なんと隣国クウェートに侵攻したのだ。

 それもイラ・イラ戦争時にはクウェートはイラクを積極的に支持し、イラク唯一の国際港バスラが被害を受け使用不能になったときクウェート港を開放して自由に使用させた。また戦費として約400億ドルを用立てた。

 それが、イラ・イラ戦争が終わった途端に「昨日の友は今日の敵」と侵攻し始めたのだから中東の複雑さは底なしの様相があり、我々土着の農耕民族には遊牧民の厳しさは理解できない。

 イラクとクウェートは隣接して、シャッタル・アラブ河の河口三角州ではアイラ・イラク・クェート三国の国境が接近しており、更に河口付近にあるワルバー島とブービヤーン島というクウェート寄りのところに海に浮いたお盆のような島があり、勿論クウェート国領有の二島だがイラクはかねてからイラク固有の領土だと主張していた。

 さらにもう一つイラクとクウェートの国境近くのネフド沙漠の北東端にルメイラ油田がありこれの領有権を争っていた。

 クウェート国:1914年、イギリスの自治保護領になる。

 1961年、イギリスの保護領から独立国になる。立憲君主制を取っているが、実際は首相以下、内閣の要職は全て「サバーハ家」の一族によって占められており、一族の独裁による絶対君主国家だといえる。

 この「サバーハ家」には「ジャービル家」と「サーリム家」の二つの分家があり、例えば、徳川宗家の将軍職を徳川御三家が争うようなモノか、内紛が起きていたことは確かだし、オイルマネーが溢れるほど入ってきて、それが三代、四代と続けば息子達は放蕩三昧になってくるのも世の常。

 軍事力は陸海空三軍と国家警備隊、沿岸警備隊と一応は整備されているが、兵員数は総員数で1万人に満たない、装備も貧弱でイラク軍が侵攻すると数時間で崩壊、王族は国軍の実力を承知しておりいち早く隣国サウジアラビアへ逃亡した。その後、ロンドンの高級ホテルに移り住み贅沢三昧の亡命生活をしていたのは有名。

イラクとクウェートの摩擦

 イラ・イラ戦争中、イランの「宗教革命」の波及を怖れた中東イスラム教国ばかりではなく、アメリカ、西側諸国、ソ連等の大国までもがイラク援助に動いた。

 この動きは「宗教革命」の怖れと同時に石油資源をイランに抑えられてしまう恐怖が働いた。

 そのためイラクへの武器援助が盛大に行われ、イラクは軍事大国になったが、しかし、戦争が停戦になり、終結すると膨大な兵器が負の資産になってしまった。

 そして戦時中戦費調達のためクウェートから400億ドルの融資を受け、その他計600億ドルの戦時債務をおっていた。

 戦争が終結すれば返済を求められるのは当然だが、イラク政府としては返済したいが戦争で全ての予算を使い果たし、ただ一つの収入源である石油生産は採掘現場、輸送パイプ、積み出し港等、全ての石油関連施設が破壊されており外貨の収入なし、しかもイラ・イラ戦争終結と同時に石油の安定供給にメドがつき、原油価格1バレル、15〜16ドルという安値で推移しておりイラク経済は行詰まってしまった。そのうえ沙漠の国イラクは農産物の輸入国でアメリカの余剰農産物に頼っていたが、外貨不足で農産物も輸入できず国民生活も窮乏を極めると、独裁者フセイン大統領も追い詰められた。

 そこでクウェートとサウジアラビアに石油を減産して、石油原価値上げするよう取り謀ってくれと懇願したが一蹴され、さらにOPECに対して、原油価格を1バレル25ドルまで引き上げるよう要請したが、これも無視された。

 この頃フセイン大統領はクウェートを侵略、合併、イラク属州にしてクウェートの油田から汲み上げて石油を輸出すれば全てが解決するという独裁者らしい策略が考えられていたらしい。

 大統領はエイブリル・グラスビーアメリカ・駐イラク特命大使を機会ある毎に呼んでクウェートとの国境問題に触れアメリカ政府の見解を確かめたが、大使は「国境問題には介入するつもりはない」と再三表明していた。

 1990年7月17日、イラク革命記念日での演説でサッダームは「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。彼らが言葉で警告しても解らないならば、なんらかの効果的手段を執らざるを得ない」と間接的ながらクウェートに警告を発した。

 しかし、情報機関が機能しないクウェートは完全無視に終始した。

 このクウェートの石油採掘はルマイラ油田が主で、この油田はイラクとクウェートの国境附付に位置し、従来イラクは自国のモノだと主張を繰り返してきており、過去に幾多の衝突があった曰く付きの油田で、地下では油層が繋がっており、それをクウェート側で採掘するのは盗掘だと罵った。しかし、クウェートのジャービル首長は単なる金目当ての脅迫に過ぎないと完全無視、ところが王政内部で金を巡るトラブルが発生し、急遽金が必要になったのでイラクに戦費として融資した400億ドルの返済を迫った。

 油田の帰属問題は無視、戦費の融資は急遽は返済を迫るクウェート王室に対して怒り心頭に達したフセイン大統領は実力行動に出る用意があると宣言し、軍の総動員令を出すそぶりをみせた。

 当時のイラクはイラ・イラ戦争が終わったばかりで、アメリカの援助で得た米製最新兵器を多数装備し、その実力はイスラエル軍を除けば中東一の軍事力を持つと言われており、驚いたクウェート王室はサウジアラビアのファット国王とエジプト・ムバラク大統領に仲介をお願いした。

 事態を重く見たサウジアラビアとエジプトは仲介の労を執るべく両国代表がイラク訪問の意志があることを表明した。

 1990年7月24日、クウェート国境に3万人のイラク軍が集結した。

 あわててムバラク大統領はイラクを訪問、フセイン大統領に軍事行動を思いとどまるよう説得にあった。

 ムバラク大統領の提案はイラク、クウェート、サウジアラビア、エジプトの四カ国会議を開催することで調停しようとしたが、この構成ではイラク対3ヵ国になり、イラクは絶対不利だと判断し、あくまでもイラク・クウェートの直接会談を望んだ。一方、フセイン大統領は駐イラク、エイブリル・グラスビーアメリカ特命全権大使と会談を重ねアメリカは「絶対に介入しない」ことを確証した。

 結果として歴史が示すように多国籍軍をアメリカ主導で編成してクウェートを奪還し、ルメイラ油田近くの沙漠の中の一本道に的を絞り、ここに大戦車軍団の包囲網を敷きイラクへ引き返そうとするイラク占領軍の大車列を一方的に撃破した。

 この時の闘いは余りにも一方的な殺戮だったので、多国籍軍は公表しなかったくらいの惨劇だったらしい。

 戦後、しばらくしてからこの街道を走行したことがあるが、おびただしい数の丸焦げのイラク軍の戦闘車両が放置されており、原野に奇妙なオブジェが陳列してあるような異様な光景で、エンジンオイルの焼け焦げた臭いが未だあった。

 もし事前にアメリカの介入ありとの感触を得ていたならばフセイン大統領はクウェート侵攻を決意しなかったろうと言われている。確かにこの侵攻が引き金になってやがて大統領の命運が尽きるのだから、軽率な暴走はなかったはず。

 しかし、一方でアメリカのやや不思議な行動にあり、もしイラク軍のクウェート侵攻の危険性を察知していたのなら介入の意志をハッキリさせておいて、侵攻を諦めさせるのが常道だと思うが、駐イラク米大使の発言は全く理解できない。

 当の米大使はアメリカの介入があることを承知していながらボケを演じたのか、全く知らされておらず、正直に自分の見解を述べたのか、CIAの罠に踊らされていたのか、当事者は口を噤んで黙して語らず、沈黙のまま。これが外交・政治的駆け引きなのか。

 71年前、我が国は国際連盟を脱会してから世界の孤児となり孤立無援、意気だけは盛んだったが、ABCDラインの経済封鎖を敷かれ、石油の輸入ができなくなる由々しき事態に陥ったことがあった。その打開を求めてワシントンDCで日米交渉が行われ日本の運命はそこに集約された。ところがその席上において最後通牒とも言うべきハルノートを突き付けられるという想定外の事態になった。

 日米交渉における本国政府の指示は全て暗号電報によったがアメリカ側は暗号電報を全て解読しており、日本代表が知るより前に情報を掌握しており日本政府はアメリカの掌の上で踊らされていたことになる。

 当時、第二次大戦がヨーロッパでは勃発しておりナチスイツが破竹の勢いで進撃して、フランス、オランダ、ベルギーは既に降伏、その他のヨーロッパ諸国も占領される最悪の事態になっており、残るはイギリスのみで戦っていたが、それもロンドン空襲の激化で風前の灯火、危機を感じたイギリスの首相チャーチルはアメリカの参戦をルーズベルト大統領に要請、1941年8月9日〜14日ニューファンドランド港に停泊していたイギリス海軍戦艦プリンス・オブ・ウェールズ艦上でルーズベルト、チャーチル米英両首脳の秘密会談が行われ、アメリカの参戦を強く要請した。

 これはアメリカ議会がヨーロッパでの戦争には絶対に参戦しないと議決を行い、かつ大統領として「絶対に参戦しない」ことを宣言していた。

 唯一残された参戦の方法は、日本政府に圧力をかけ、「窮鼠猫を噛む」の喩え通り日本軍が行動を起こし、アメリカに対し最初の一撃を加えてくれれば自動的に参戦でき、ヨーロッパ戦線で軍事行動を執ることが出来る。

 さらにいえば宣戦布告交付前に‘トラトラトラ’が発信されるように外務省の最終電報の配達を遅らせた巧妙なトリック、結果は日本軍の騙し討ち、「リメンバ、パールハーバー(Remember Pearl harbor)」「真珠湾を忘れるな」を合い言葉にアメリカ国民を結束させ、一丸となって参戦することになってしまった。

 日米が対立しABCDラインの経済封鎖をさせてしまった原因は、満州事変以来の軍部の暴走だが、同時にナチスドイツの威力に心酔した軍部がその勢いに便乗しようと日独伊三国同盟を結び、アメリカ・イギリス等の連合国側と枢軸側と完全に対立・色分けしてしまったことによる。

 従って日米交渉において日米懸案事項に妥結の途は最初からなかったといえるし、アメリカ側から見ればトラップを仕掛けるには絶好の機会でもあった。

 一方、日本側も日米交渉中にも拘わらず、単冠湾を密かに出撃した第一機動艦隊がハワイ・真珠湾攻撃に向かっていたのだから、お互いが騙しあいの状態だった。更に上をゆくコミンテルン・スターリンの謀略があった。との説はかなり以前から囁かれていたことで根拠のない推測ではない。我が国が絶体絶命の縁に追い詰められたハルノートの制作者の一人がコミンテルンのスパイであったことが判明し、我が国に対する苛酷な要求を最後通牒たるハルノートに書き加えたのはこの人物で、ハル国務長官の腹心だったらしい。一国の運命がこうして決められた。

 日本の運命を決めた日米交渉も、実はスターリンが書いたシナリオに踊らされていたのだから、国際的謀略戦は底なし沼の様相で、それを手探りで調べるのも歴史を探る醍醐味になる。

 アメリカ政界の中枢にまでコミンテルンの手が侵入しており、これによって最重要であるべき政策に介入させてしまったことで、いわば政界の恥部をさらけだすことを避け、公表しなかった。またこの密偵は既に安全地帯に逃亡した後であり連合国にとっては益だったので不問にふしたらしい。また、当事者であったルーズベルト大統領は終戦直前に死去しており、ハル国務長官も引退していた。

 一方、太平洋戦争に引き込まれていった我が国の為政者達は右往左往するだけでこの謀略は全く読めていなかったのだから、諜報戦では最初から完敗しており、だから結果は明らかだった。

 互いに謀略の凄さには驚くばかりだが、数々の謀略が渦巻いているが、一般的に判るのは判り易い謀略のみで、真の謀略は闇の中だ。

 今回の駐イラク米大使の言動には謎が多く、アメリカ政府の真意は何処にあるのか全く分からない。何かもの凄い秘密が隠されているのかも知れない。

 歴史の裏に秘められた真実を探る面白さ、歴史を学ぶ意義はここにあり。

 イラク共和国防衛軍12万人規模の軍隊が集結、戦車350両を中心とする機甲師団であっが、周辺国家は単なる軍事威嚇だと思っていた。その確証は両国を仲介したエジプト・ムバラク大統領とパレスチナ解放機構(PLO)ヤーセル・アラファート議長が「イラクの侵攻はない」と明言したことによる。

 1990年8月2日午前2時(現地時間)、突如共和国防衛隊(RG)が動き出し、国境を超えてクウェート国内に進撃を開始した。

 寝耳に水のこの軍事行動は、フセイン大統領の胸の内にだけにあったモノらしいく、イラク軍幹部も、閣僚も知らなかったらしい。

 ですから機甲師団の装備も十分に準備しないうちの進撃命令であったが、クウェート軍が弱体で散発的に抵抗したくらいで、午前8時にはクウェート全土を制圧して占領宣言をしたのだから文字通りの朝飯前の一仕事であった。

 同時に革命評議会はクウェート政府崩壊、新政権樹立を宣言、アラー・フセイン・アリーイラク陸軍大佐を首班とする暫定自由政府樹立を宣言した。

 首班と閣僚全員がイラク軍軍人で佐官クラス、事実上の傀儡政権であった。

 クウェート王室・首長シャー・ビルアル=アフマド・アッ=サバーハ一家・一族は素早く逃避し隣国サウジアラビアへ遁れた。さすが祖先が沙漠の遊牧民ベドウィーン族であるからその行動は素早かった。

 その後、ロンドンに移り住み、自国が占領され、国民はイラク占領軍の圧制下に苦しんでいるにも拘わらず、一族は高級ホテルを貸し切り贅沢三昧な亡命生活を送り世の顰蹙を買った位だからアラビヤンナイト物語を地でいくような成金王族は桁違いの豪勢さだったらしい。

 一方、占領されたクウェート国内では数多くのフィリッピン女性が出稼ぎにきておりメイドとして働いていたが、逃げ場を失いイラク兵の餌食になってしまった。

 またロンドン発クウェート経由マレーシア行きBA149便(BOAC)は占領を知らずにクウェート国際空港に着陸、乗員、乗客全員がイラク軍によって捕らえられた。

 占領下の国際空港に着陸したのはこの1機だけで他は全て引き返すか、他の国の国際空港に緊急着陸し無事であった。

 捕らえられた乗客、乗員のうちアメリカ、イギリス等イラクと敵対すると見なされた欧米人はクウェート国内在住の人達と共にバクダットへ移送され「人間の盾」にされた。この際、客室乗務員はイラク兵の集団暴行を受け、後に国際問題になって明るみに出たが、集団暴行に加わった兵士全員が逮捕・銃殺された。またこの飛行機に乗って帰国したクウェート王室の一人は即座に銃殺された。

 また別のルートで帰国したジャービル三世の異母弟で、クウェート、オリピック委員長のシャイフ・ファハド殿下は宮殿に戻った直後、RGと銃撃戦が始まり、宮殿護衛隊と共に銃撃戦を行い射殺された。

 国際連合は緊急安全保障理事会を招集し、イラク軍の即時撤退を要求する共同決議案を全会一致で可決したが強制力はない。

 1990年8月4日、「クウェート共和国」の樹立を宣言、しかし国際社会がこれを承認しなければ意味がない(かつて、我が国は「満州国樹立宣言」をしたことがあるが、世界は無視、または承認しなかった)。

 8月8日、イラク革命指導評議会はクウェートの併合を決め、イラク19番目の県「カズィマ県」という名称を一方的に決めでイラクの一地方とした。

 この後、湾岸戦争に突入するが、その際、ペルシャ湾岸から石油の恩恵を蒙っているアメリカを筆頭とする諸国が多国籍軍(34ヶ国)を編成、クウェート解放戦争・湾岸戦争になるのだが、最も恩恵を蒙っているはずの我が国はアメリカからの強い要請があったが不参加を表明、世界からは非難が集中、国内からは不参加が当然とする勢力が大半を占め、「石油は絶対に必要、しかし国際協力には絶対に加担しない」と唱え日本人特有の国際感覚のなさ、身勝手さがモロにでて、政府はオロオロ狼狽するだけ、どう対処していいのか判らないうちに、編成された多国籍軍は作戦行動開始(砂漠の剣作戦)し瞬時にしてクウェートを奪回、退却するイラク共和国軍の車列を包囲待ち伏せし、徹底した残敵掃討に発表を躊躇うほどの凄まじい一方的な殺戮であったらしい。だがイラク国内は空爆したが地上軍は攻め込まなかった。

 そして湾岸戦争終結後、クウェート王室は世界の主要新聞に多国籍軍に対する1ページ大の感謝宣言を広告として掲載した。そこにはアメリカをはじめとする多国籍軍に協力した国、30数カ国の国名が並んだ。しかし日本の名は何処にもなかった。

 更に翌日の別な新聞には戦勝国の国名と敗戦国の国名が掲載された。敗戦国はイラク1国だが、なんと日本が敗戦国の一員だとした新聞もあった。

 我が国は多国籍軍の分担金130億ドル(当時のレート約1兆数千億円)を特別法まで制定してやっとの思いで拠出し多国籍軍に貢献したと信じていたのに、それが何と無視または敵視されたのだから海部内閣は狼狽した。

 湾岸戦争を巡る我が国の迷走振りは次章で述べる。

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第35章 中東からの輸送路の確保

 福島第一原発事故以来、国民総意で原子炉停止、廃止を叫んでいるが、それに替わるべき電力は準備しろ、火力発電にシフトしろ、風力だ、太陽光だと叫んでいるが、それが可能なのか、最大の電力需要期である夏は近い。

 火力発電は二酸化炭素排出問題で反対運動が有り、オゾン問題をも絡めて極力削減しようと国を挙げての運動中だった。

 鳩山元総理が国連の晴れの舞台で25%削減という、世界に向かって不可能事を謳いあげ大見得を切ったが、今は議員も辞め、反政府、反日的な言動を弄している。

 それが背に腹は換えられない、全てを忘れて火力発電への回帰でいいのか。

 現在原子炉再稼働反対、原子炉廃炉を叫んでも、あれほど叫び続けていた二酸化炭素ガス排出反対運動・脱化石燃料運動は寂として声なし。

 オゾン層破壊による紫外線問題も気にしなくなってUVカットなんてもう死語になってしまったから不思議な現象だ。

 その火力発電の燃料は石油、LNG、石炭全てが輸入に頼るモノばかり、しかも継続して補給しなければならない燃料ばかり、さらにその産出国は何時戦火に巻き込まれるか判らない不安が常に付きまとう政情、そして輸送についても不安な海域をどう乗り越えることができるのか。

 ホルムズ海峡、マラッカ海峡、南沙諸島等、危険な海域は数知れず、特に絶対的な危険海域はペルシャ湾内とその出口であるホルムズ海峡で、封鎖の怖れは常に付きまとってきたし、狭い海峡の中央に船を沈めると、簡単に封鎖されてしまう。喫水の深い大型タンカーは海峡の中央部しか航行できない。

 もう一つ日本国民が知らない裏事情は、政府指導で日本人船員を切りすててしまい、わが国の必需品を運ぶ船舶の乗組員は大半が船長を含めて外国人船員になってしまった。

 わが国外航海運は、第二次大戦中、軍事輸送船として徴用され、米潜水艦によって撃沈され、壊滅的な打撃と多数の乗組員が船と運命を共にした。

 戦後は無から立ち上がり、昭和40年代には世界一の大海運国になり外航商船隊(外航船1,580隻)になり、外航船職員数約7万人を築き上げた。

 ところが平成18年外航船舶95隻、外航船員約2,500人、1/28に減少、現在は更に減少してしまった。船員とは徒弟制度のように下から経験を積み上げていくモノなので新人が入ってこなければ、そこで途切れてしまう。従って限りなく零に近づきつつある危険な状態だ。

 現在、外航海運は、殆どが外国人によって運航されているが、平時はともかく、もし危険が迫ったとき日本の為に命を賭けてまで輸送してくれるだろう、と望むのは虚しいことにすぎないし、あり得ないことだ。

 ペルシャ湾内が戦場になり、タンカーの運航が危険にさらされ、大型タンカーは湾内に入れなくなったことがある。更に続いて、タンカー戦争と称したタンカーのみを狙い撃ちにする攻撃があった。ペルシャ湾内には数多くの船舶が航行しており、沿岸国の生活必需品や原材料を運んでおり、沿岸国国民が必要としている。

 ところがタンカーは外国の利益のために油を運ぶだけだから、利敵行為に過ぎない。従って「攻撃せよ」となったらしい。これが「タンカー戦争」で、湾内で輸送に従事していた私は青くなった.だが、それでも輸送に従事しなければならない使命があり、中、小型のタンカーが船団を組み、軍艦の護衛付で湾外まで運び、そこで大型タンカーに積み込むという戦術で乗り切ったが、連日緊張と恐怖との闘いであった。

わが国の石油事情

 わが国の原油輸入総量は21,535万kl(2010年現在)

 石油の成分は殆どが炭化水素であり、色々な炭化水素混合物から構成されている。工業的に有用な石油製品を作るためには、分留によって成分を分け、精製することによって、天然ガス、ナフサ(ガソリン)、灯油、軽油、重油、潤滑油、アサファルト等の製品が得られる。

 わが国の石油輸入先 (2010年の統計)

 1位 サウジアラビア  28.8%

 2位 アラブ首長国連邦 20.4%

 3位 カタール     11.8%

 4位 イラン      9.6%  (現在イラン制裁措置で減少している)

 5位 ロシア      7.2%

 6位 クウェート    7.1%

 7位 オーマン     3.3%

 7位 東南アジア諸国  3.3%

 8位 イラク      3.2% 

 世界の情勢によって輸入国や輸入量が変動し、かつ取引価格も先物買いやドーハ価格や非常に危険な取引の連続です。

(2008年統計)

 わが国の石油輸入量の約九割はこの狭いホルムズ海峡を通過して運ばれるが、何時封鎖されるか判らない危険な海峡で、別のルートは全くない。

 ペルシャ湾岸以外からの輸入は僅かしかなく、これを増やすことは産油量からみても不可能だ。

 VLCC 超大型タンカー 総重量トン484377トン、型幅62.00m 全長378.85m(東京タワー333m、東京駅330mそれより遙かに大きい、航海中マラソンをすると1周約1,000mになる)

 このような超大型タンカーが列をなしてこの狭いホルムズ海峡を航過します。

 ・東航路原油満載のタンカーがアラビア海へ向かいます。

 ・西航路は空船のタンカーがペルシャ湾へ入ります。

 航路中央付近で大きく変針しなければならないところがあり、潮の流れ、風向、風速、自船のドラフト等を勘案しながら変針のタイミングを合わせるのが冷や汗ものです。

 操船の難しさは車の運転のようにハンドルを回せば即回るようにはいかないのだ。

 巨大船は舵が効くまではしばらく時間を要し、舵を戻してもしばらくの間変針を続けるのでそのあて舵のタイミングは難しく経験と勘でだけが頼りだ。(あて舵:船が針路を換えるとき、船首に働く回転惰力を抑えるために、針路に入る直前に執る反対方向への舵をいい、そして戻すミジップ、舵中央は難しい)

 更に砂嵐や黄砂のようなもので視界が極端に悪くなることがあり、なにしろ両岸とも砂漠地帯ですから何が起きるか判らない。レーダーを凝視するが、完全とは言い難く、手探りでの前進のようで緊張の連続だ。

 もう一つ、午後二時頃砂漠の気温が最高になると猛烈な上昇流があり、そこへ吹き込む風が海面上を吹き抜けるから、空船での入り船は船腹が大きく出ているので横風をもろに受けると流されて狭い水路を航走するのがこれまた冷や汗だ。

 自然災害なら対処する方法を講じるが、1991年の湾岸戦争ではペルシャ湾全体が機雷で封鎖され全船舶が航行出来なくなったことがあった。戦争終了後海上自衛隊の掃海部隊(ペルシャ湾掃海派遣部隊)が派遣され掃海活動を行い、完全に除去したため航行出来るようになり、世界の海運国から感謝された。

 タンカーに原油を積載する方法はシーバースといって原油のパイプラインが遙か沖合まで施設してあり、そこでタンカーのパイプにジョインとして流し込む、その手続きや立ち会いで、中東駐在員の私がスピートボートで訪船するのですが、各タンカーのキャプテンは私が日本人と判ると「日本海軍」が掃海作業を完璧にやってくれて有り難うと握手を求めてきた。

 ところが世界で唯一ケチを付けた国がある。他ならぬ日本国民で、石油は運んでくるのは当たり前。どんな危険海域を航行しようと知らぬが仏、掃海活動は絶対やるなとの大合唱、世界情勢には全くの不感症、何も理解しないのが国民性なのか。

わが国の電力事情

 上図がわが国の発電形態別の施設の比率で、約1兆362億kWhを消費している。わが国は世界第4位のエネルギー消費国。資源に乏しくエネルギーの大半は輸入に頼っており、自給出来るのは水力程度で、LNG、石炭、石油を併せた火力発電が約6割強、原子力発電が約3割弱、水力発電が僅か8%、その他が1%で風力、太陽光、地熱で、これから増大する予定だが、まだまだ時間がかかりそうだ。原子力発電は29%だが、福島第一原発事故以来、検査後の再稼働が地域の理解が得られず再稼働が保留になっており、全国にある55基の原子力炉のうち、福島第一原発の5基は廃炉決定なので、残りの50基も再稼働が出来なければ全て停止になり、一挙に約30%の発電能力が失われ電力不足は明らかだ。

 その分火力発電に頼ることになるが、国の方針も、国民の総意も脱石油、二酸化炭素削減で努力してきたはずだが、それが事故後一夜にして脱原発で固まり、安易に火力発電にシフトして良いモノかどうか?

 原子力は国内問題で解決できるが、火力発電のエネルギーとして頼るモノは全てが輸入品、しかも何時破裂するか判らない危険地帯からの輸入であり、過去にも何度かオイルショックや危機があり輸入削減、停止に追い込まれた経験があった。

 だからこそ脱石油政策が執られてきたが、それが一挙に全面的に石油、LNG頼りでは余りにも安易すぎないか。

 世界の火薬庫と言われている中東から9割近くの石油に頼り、しかも何時封鎖されるかも知れないホルムズ海峡経由しかない危険性をわが国民諸兄姉は何処まで理解しているのだろうか。

中東原油の危うさ

 第三次中東戦争(六日戦争)の時はイスラエル軍がアラブ側を先制攻撃で圧勝したが、続いて1973年10月6日、第四次中東戦争が勃発、今度は反対にエジプトの機甲師団がスエズ運河を渡った戦車部隊が先制攻撃でイスラエル領内に侵攻し、エジプト軍を中心とてシリアや中東アラブ諸国が結束して、イスラエル一国を相手に戦争状態になった。ソ連製の近代兵器で装備したアラブ諸国連合が優勢であったが、アメリカ製の近代兵器で武装したイスラエル軍が巻き返し、優勢になったがアメリカ政府の仲介で停戦となった。

 この戦争が始まると同時に、イスラエルを支援するアメリカを分断するとして10月16日石油輸出機構OPEC)加盟国産油国のうちペルシャ湾岸6ヶ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから、一挙に5.12ドルに70%のひき揚げを実施した。さらには段階的に原油生産をひき下げる、と宣告した。

 更には5.12ドルから11.65ドルへ引き上げることを決めた。石油危機到来である。イスラエル支持国への圧力をかけ、アメリカの同盟国が悲鳴を上げる手段にでた。これは効果的な手段で、ペルシャ湾岸産油に頼るヨーロッパ諸国や日本が完全に悲鳴を上げ、アメリカ政府の国務長官であったキッシジャー博士が飛び回って、アメリカの力強さを強調したり、宥めたりと同盟国を歴訪し、わが国にもやってきた。その後の中東は混沌とし、あらゆる事件の連続であった。(キッシンジャー元国務長官の両親はユダヤ系ドイツ人だったが、ナチスの迫害でアメリカへ脱出)

 1980年9月22日未明、イラク軍が全面攻撃を仕掛け、イラン側の空軍基地10ヶ所を集中攻撃した。イラン・イラクの国境線はシャトル・アラブ河の流れの中央線が国境線としており644kmになる。

 この河は世界史を学ぶと必ず出てくるペルシャ文明発生の地であるチグリス・ユーフラテス両川が合流するのがイラク第二の都市バスラ市の上流で、イラク唯一の国際貿易港でもある。

 このバスラで合流してその下流がシャトル・アラブ河でペルシャ湾に注ぐ。この河は可航水域で、遡航域はバスラ港までで3万トンクラスの貨物船が荷役できる。

 この河を遡航すると右舷がイラン側の港や石油コンビナート、石油貯蔵タンクが並び、イランが輸出する石油製品の大半は右舷側にあるホラムシャハル港でイラン最大の貿易港だ。ここは戦時中イラク側に占拠され、コンビナートの施設が徹底的に破壊され、ゴーストタウンになってしまったが、戦後再築され見事に復活した。

 左舷側はイラクの施設が沿岸に沿って並んでおり、その遡航限界にイラク最大の港で唯一の国際港バスラがある。そこまでの沿岸は両岸とも大半が砂漠なので、河に沿って灌漑がしてあり野菜畑やナツメヤシの植林、部落があって河畔のみが居住区域になっている。

 このシャトル・アラブ河がイラン・イラクの国境線になっているが、河が砂漠の中を蛇行しながら流れているので、大きく蛇行する部分はイラン側の領土になったり、イラク側の領土になったりで、その度にパイロットが交代する(外航船が外国の港に入るときは必ずその国のパイロットが乗船して操船指揮を執る)従ってペルシャ湾の河口からバスラ港までの遡航中十数人のパイロットが交代する。

 さらには両軍の軍事施設やトーチカが散在しており、河口にはイランの海軍基地がある、その真ん中を航行するのは誠に不気味だった。

 それがある日、河を挟んでイラク側から火を噴き、一瞬にして国境全線に渡って戦線が拡大した。それで河口にあった海軍基地から出撃した艦艇によって大型船が破壊され、河口を塞いでしまい、シャトル・アラブ河の中にいた外国籍船19隻はペルシャ湾に出ることが不可能になってしまい、砲弾が飛び交う河の中に孤立してしまった。

 イラン・イラク両国にあるのはシャトル・アラブ河の領有権を巡る争いで、石油積み出しやその他貿易に関し、その帰属は死活問題であるが、イランとイラクの力関係は圧倒的にイランが強力だった。それは親米だったバーレビー国王・政権であったので中東の憲兵として近隣に睨みをきかせ、中東の安定に役立っていたのでアメリカ政府は強力な援助をしていたので、アメリカ製の兵器で武装したイラン軍は中東では近代的な装備で圧倒的に強力な軍隊を擁していた。

 従ってフセイン大統領が率いるイラクは手がだせず、悔し涙にくれていたが、突如1979年にシーア派によるイラン革命が起き、バーレビー国王は国外追放、宗教指導者であるホメイニ師を迎え、バーレビー国王の軍隊は解体、高級軍人や高級官僚は、処刑、入牢、追放と国体は一挙に中世の宗教国家になってしまった。

 そうすると隣国イラクのフセイン大統領は好機到来とばかりイランに攻め入った。しかし、一時的には敗退したイランは徐々に態勢を挽回し、逆に攻勢に出た。その後は一進・一退になったが、これはイラン軍の装備がアメリカ製であったが外交が断絶状態にあったので、補給が無かったことが影響したのか、戦線は膠着状態になり、1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎え約8年に及んだ戦争は終わった。

 しかし、これで火種が収まったわけではなく、次の戦争のステップに過ぎない。このイラン・イラク戦争の間、いろいろな事件が発生した。

 イラン・コンドラ事件、ハラブジャ事件、ドゥジャイル事件、アンファール事件、イラン・イラクが闘っても武器生産能力が無い両国は武器・弾薬の調達は外国に頼るしかない、が、そこにイラン革命によるイスラム色が前面に出ると思惑が替わってきて、そこに石油の利権が絡み合うと世界の動きは複雑多岐で複雑な難事件が起きるのは当然かも知れないが、当時は何が起きるか混沌としていた。

 その中で最大の驚きは、1981年6月7日、イスラエル空軍機がヨルダン、サウジアラビアの領空を侵犯しながらイラク領空に侵入して、イラクがフランスの援助と技術で建設した原子力発電所を稼働前に空爆.・破壊してしまった。

 今回のイラン経済封鎖問題で、イスラエル空軍機によるイラン核施設への空爆は予想されることであり、アメリカ政府が何とか抑えているようだ。

 この激しい中東の動きは数々あるが、欧米の新聞とわが国の新聞が採り上げる数量ともわが国は圧倒的に少ない。これは石油以外には中東に関心を持たず、中東やイスラムに関して国民は何も知らないし、知ろうともしない。

 しかし、わが国と中東とは密接な関係があり、利害が繋がっている。

 その一例として、この戦争の最初わが国に関する重大事件が起きた、が、これを採り上げる。

 かつてイラン・ジャパン石油会社(IJPC)があった。

 三井物産が中心となって東洋曹達、三井東圧化学等が参加したイラン政府と日本の会社が合弁で大石油コンビナートを建設する。

 1971年10月 基本協定調印

 1973年04月 会社設立

 1973年10月 中東戦争勃発 第一次オイルショック

 1978年10月 建設工事85%完成

 1979年01月 イラン革命発生

 1979年03月 建設工事中止 日本人総引け揚げ

 1980年09月 イラン・イラク戦争勃発、建設現場砲撃を受ける

 1980年11月 IJRCの関係者と在イラン邦人の引き上げ命令

 それでも必要最小限の人々は残って職務に従事していた。これはイラン空軍が優勢でイラクの首都バクダットや港湾都市バスラが空爆により破壊されたが、イラク空軍は弱体だったのでイラン側は余り空爆の怖れは無かったから残留していた。

 ところが怒ったイラクのフセイン大統領は1985年3月17日、イラン上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃すると宣言、これは地上からミサイルを発射して撃ち落とすぞと宣告した。(戦闘機はミサイル攻撃を防御する訓練を受けているが、旅客機は撃ち落とされてしまう怖れがある)

 猶予は48時間、この間に在留イラン外国人は‘脱出しろ’との宣告に驚いた諸外国政府は軍用機や旅客機を総動員して自国民を脱出させた。ヨーロッパの国々は比較的近距離であるから直ぐに飛来できた。

 アメリカは近隣に空軍基地が散在しているから大型空軍輸送機が飛来し荷物までを含めて全てを運んだ。

 最も遠距離にあったのは日本と韓国だが、韓国政府は即座にKAL(大韓航空)の派遣を決め、スチュワーデスを乗務させて飛来し、鮮やかに全韓国民を搭乗させ飛び去った。

 ところが情けないことには世界で唯一取り残されたのが在留イラン日本人200人。この救出の経緯は前章で述べた。

 トルコの人達は猛烈な日本ファンが多いのは事実で、これはトルコのボスポラス海峡が黒海と地中海を結ぶ唯一の水路で帝政ロシアとトルコ政府の対立の原点でもあり、トラブルの連続でもあった。

 それを遠く離れた日本が日露戦争で宿敵帝政ロシアを撃破してくれたのだからトルコ国民は狂喜した。しかも同じ有色人種が白人をやっつけるという史上最初の快挙をやり遂げたのだから、歓びは極点に達したようだ。

 トルコの小学校では長い間、修身の教科書に東郷元帥と乃木大将の逸話が記載されていたから全トルコ国民が知っている英雄であり、街の通りの名も、トウゴウ通り、ノギ通りが実在する。 それと1890年、和歌山沖で遭難したトルコ海軍フリゲート・エルトゥールル号の乗組員救出に尽力した地元民の献身的な働きが、矢張り修身の教科書にのっており、全トルコ国民はその恩義を感じている。ところが日本人は誰も知らないし、これまた全くの無関心。

 現在マルマティー計画でボスポラス海峡の海底をトンネルで繋ぐ工事が行われており大成建設が活躍している。わが国とトルコの縁は深い、いつまでも良好な親善関係を保持したい。

 後年、小泉内閣の時、トルコ航空のオズデルミル機長を招待したことがあった。氏は既に定年退職していたが、わざわざ東京までやってきて、小泉総理と政府関係者、その時救出された人々とその家族、トルコ大使館、トルコ航空の人達が多数出席しての感謝のパーティーが開催された、が、ニュースにもならなかった。

 ※日本国政府専用機:自国民を救済することが出来なかった醜態を深く反省し、1987年、中曽根内閣は閣議決定で政府専用機2機の導入を決めた。

 機種:アメリカ ボーイング747-400 2機 価格:2機で計360億円

 所属は航空自衛隊、操縦士、客室乗務員、整備員も全て自衛隊員(航空自衛隊特別航空輸送隊第701飛行隊、基地千歳航空自衛隊基地)

 導入から20年以上経ち古くなってきたが、2018年には退役の予定、後継機種は未定となっている。

 その他の専用機はフランス製アエロスバシアルAS332Lヘリコプター(陸上自衛隊所属、航空自衛隊多用支援機ガルフストリューム・エアロスペースUー4がある。

(キャリバー50重機関銃)

 私事ですが、イラン・イラク戦争中ペルシャ湾内航行中、キャリバー50重機関銃を装備した小型高速艇が近づいてきて船橋目掛けて銃撃され、船橋の鉄板を貫通して操舵室に飛び込んできた銃弾が内部で弾け飛び回り、咄嗟に全員床に伏せたが、私以外は全員韓国人船員だったので、ベトナム戦争に参戦した元兵士であり、銃声だけでキャリバー50重機関銃だと判断出来るベテラン達で、攻撃された反対舷側では消火ホースの準備、消火ポンプの作動開始、これはゲリラが船に乗り込むためにジャコップ(縄ハシゴ)を架け、登って来るのでこれを妨害する、縄ばしごを外す為の鉄棒等即座に準備したから感心した。

 もっとも、チョッサー(首席航海士)には準備しておくようにと私から指示は出していたがこれほど見事に動いてくれるとは思っていなかったので、戦場体験とは凄いモノだと思いを改めた。

湾岸戦争

 1988年8月20日、シーア派イスラム共和制国家のイランと、サッダーム・フセイン大統領率いる全体主義国家イラクとの、8年間に及ぶイラン・イラク戦争が一応の停戦を迎えこれで中東に平和が戻ると、世界中がホット胸をなで下ろしたが、ここに大きな落とし穴を造ってしまった事に気付かなかった。

 それはイラン革命で親米だったバーレビー国王を国外追放し、宗教指導者ホメイニ師が指導する体制は、真のイスラム教への回帰を目指し、同時に反米一色となり、世界を震撼させたアメリカ領事館占拠事件が起き、アメリカは一挙に反イランになり、「敵の敵は友」とばかりにイラクに近づき、そこでイランを解放しようとアメリカ側は側面攻撃したが、イラン・イラク戦争が起きたので、イラン憎しに凝り固まっていたアメリカ政府はイラクに対して武器の援助・補給をした。同じくイランの宗教革命を快く思わないソ連、湾岸諸国もイラク支援・援助に動き、思わぬ武器の援助を受けたイラクはイスラエル軍に次ぐ軍事大国に成長してしまった。

 イラクは軍事大国になったが、同時にイラン・イラク戦争による失費で600億ドルに及ぶ膨大な戦時債務を抱え込んでしまった。

 イラクの外貨獲得手段は石油輸出しかない。ところが戦争で石油採掘施設やパイプラインが破壊され、辛うじて破壊を免れた施設で採掘した石油は戦争が終われば、世界の原油価格は下落、当時1バレル、15〜16ドルまで下落したから、イラク経済は行き詰まってしまった。

 特に深刻な問題は、アメリカ政府が貸し付けた戦時債務が返済できないために、アメリカからの農産物輸入がストップしたことで、砂漠の国イラクは食糧の大半を輸入に頼っており、それが停まれば即食糧危機に陥ることになった。

 更にもう一点、採掘施設、製油施設の再建にはアメリカの援助と工業部品が必要であるが、それも制限されてしまった。

 そこでフセイン大統領はOECDに対して1バレル、25ドルに価格設定することを要請し、それを突破孔にしようとした。これは根拠がある事で、ペルシャ湾岸産油国石油相会議で原油か価格25ドル案が採択しており、これを実行しろと迫った訳だ。

 ところがサウジアラビア、クウェートおよびアラブ首長国連邦が、OECDが決めた割り当て産油量を遙かに超えた石油を産出して輸出した。そのため原油価格が値崩れし輸入国は喜んだが、イラク経済は大打撃を受けた。

 フセイン大統領が特に怒りを向けたのは隣国クウェートで、イラクとクウェートの国境付近の砂漠地帯にあるのがルイマラ油田でクウェートはここから原油を生産し、輸出して得た外貨は当時一人当たりの収入は世界一であった。

 イラクの主張は、ルイマラ油田は自国のものであり、それを盗掘しているのがクウェートだと訴いていた。この砂漠地帯はかって大英帝国が支配しており、第二次大戦後イギリスが撤退し、その後それぞれの部族が支配し、国に形成されていったが、力関係で国境線が引かれたが、特に砂漠地帯は明快に引いたわけでは無いらしい。

 このルイマラ油田はイラクのバスラからクウェート(国名と首都は同じ名前)に通ずる砂漠の中の街道で、その街道沿いに油田の櫓が林立しており、この街道は何度も車で行き来したが国境線の標識は無かったと記憶している。

 1990年7月17日、イラク革命記念日でのサッダーム大統領の演説「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。彼らが言葉で警告しても判らないのならば、何らかの手をうたなければならない」と間接的であるがクウェート侵攻の可能性を示唆している演説を行った。

 また、イラクはクウェートから100億ドルの借金があり、その返済を強く迫られていた。その他数々の危険な兆候があったし、アメリカの軍事衛星がイラク軍の不穏な動きを感知し、クウェート側へ通告していたが本気にせず、特別の警戒態勢はとらなかった。

 1990年8月2日午前2時、戦車350両を中心としたイラク共和国防衛軍の機甲師団10万人が隣国クウェートに侵攻を開始した。

 クウェート軍は防戦どころか逃げるのがやっとで僅か4時間でクウェート全土が制圧され、クウェートの首長ジャービル・アルはサウジアラビアへいち早く逃亡、亡命した。午前8時にはイラク軍による傀儡政権が誕生した。

 イラクの軍事侵攻に対し、国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を決議し、さらに全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁の措置を執った。

 8月9日には、当時のアメリカ大統領ジョジ・H・W・ブッシュはサウジアラビアへ圧力をかけ、アメリカ軍の国内駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決めた。

 この決定が後にオサマ・ビンラディンによる地下抵抗組織アルカイダが結成され、ゲリラ活動に悩まされることになった。

 その理由はイスラムの聖地サウジアラビアに異教徒である外国の軍隊が駐留したこと、聖地マッカ(メッカ)を抱えている同国にとって異教徒である外国人は厳しく入国を制限していたにもかかわらず首長が認めたという裏切り行為を許すわけにはいかない。

 国連決議に対するイラク側の反応は完全無視、更に態度を硬化させ、8月8日、「クウェート暫定自由政府は母なるイラクへの帰属を求めている」として、イラク第19番目の県「カーズィマ県」として併合を宣言した。

 このイラクの行動に対処するためにアラブ諸国は首脳会議を開いたが、アメリカに反感を持つ国が多く、イラクに対する干渉は消極的なものになった。

 ともかく中東という地域は利害関係が複雑で理解することは容易ではない、私事ですが長年中東に働いていたが一寸先は闇のような複雑さに気が休まることはなく疲れ果てた。

 この複雑さはパレスチナ問題、イスラエルとアラブ諸国の関係、イラクのクウェートへの侵攻、アメリカ政府の介入ということがリンクし、更に歴史問題と宗教、宗派が複雑に絡み合うと話し合いによる解決などは夢物語になってしまった。

 さらにイラクは8月18日、クウェートに滞在していた外国人を捕らえて「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表した。

 その後日本人、アメリカ人、イギリス人の民間人を自国内の軍事施設等に「人間の盾」として貼り付ける作戦を執った。

 中世の戦争に逆戻りしたような卑劣な行為に世界は激怒、ここでイラクを撃つべしの気運が漲ってきた。

 11月29日、国連安全保障理事会「1991年1月15日」までに、撤退期限とし、対イラク武力行使容認決議を採択、多国籍軍(約30ヵ國)の編成をアメリカが「有志を募る形式で編成し、多くの国が賛同して自国軍の派遣を決め約50万の軍隊が編成された。

 わが国は世界一のペルシャ湾岸産油に頼っていながら軍の派遣は出来ないと断ったが故に後刻痛烈なシッペ返しを喰うことになった。

 撤退期限が来ても全く無視していたイラク軍に対し、1991年1月17日、多国籍軍によるイラク国内軍需施設への爆撃から「砂漠の嵐」作戦は始まった。宣戦布告はなかったが、サウジアラビアの基地を飛び立った多国籍軍の攻撃機は大半がアメリカ軍の攻撃は首府バグダットとイラク軍基地に向けられ、クウェートに進駐していたイラク軍は孤立し、撤退を決めた。

 2月27日クウェート解放

 多国籍軍側の近代兵器実験場の様相を呈した湾岸戦争は圧倒的な力の差にイラク軍側は戦意喪失してしまったようだ。

 特に凄まじかったのは急遽本国へ戻ろうと砂漠の中の1本道を機甲師団と戦闘車両・輸送車両が隊伍を組んで走行中、多国籍軍の戦車M1は砂漠を高速で自由自在に走れ、かつ暗視装置とレーダー照準の戦車砲と中東では強力軍備であったイラク軍の戦車を含む大量の車両を破壊、短時間の戦闘で1,000両以上戦闘車両が破壊された。この戦闘で劣化ウラン弾が多用されたため、後刻、被曝に依る後遺症が大問題となった。

(劣化ウラン弾による後遺症)

 後日ですが、油田復旧の資材を陸揚げし、トラックで現場まで運ぶとき、特殊な精密機材を現場責任者に直接手渡す契約だったので、トラックに同乗させてもらい、イラク機甲師団が全滅した街道を走行して現場に行ったことがあるが、焼け焦げた無数の戦闘車両が放置されていた、が、その時はまだ劣化ウラン弾による被曝は判明しておらず、後遺症が判明したのは2、3年後だった。

 劣化ウラン弾による被曝は現地住民ばかりではなく、戦闘に参加した米軍兵士までもが被曝してしまった。特に女性兵士は被曝の有無が判らず、結婚、出産で奇形児が生まれて初めて被曝していたことに気付いたという。

 米軍自体もウラン弾による被曝は想定外だったらしい。

 1991年3月3日暫定休戦協定をイラク側が受け入れ、イラク側が敗戦を認めたと同時に休戦したため、フセイン大統領直属の精鋭部隊が温存された結果になった。その後の北部クルド人が反フセインの暴動を起こしたとき、温存していた精鋭部隊を派遣して徹底的に弾圧、虐殺をした。(フセイン大統領のしたたかさは長期政権を維持してきただけある。私が中東駐在の時、イラク人の同僚は全て熱烈なフセイン大統領支持派であり、外国での報道との乖離に驚いた)そしてアメリカ軍によるイラク侵攻となった。

 近代兵器実験投入:トマホーク巡航ミサイル、劣化ウラン弾、F-117ステルス攻撃機、パトリットミサイル、バンカーバスター地中貫通爆弾、F-15戦闘爆撃機等の新兵器を投入した。

 この湾岸戦争での戦費は多国籍軍側は611億ドルを費やし、そのうち約520億ドルがアメリカ以外の国々が負担し、わが国は130億ドル(紛争周辺3ヶ国への20億ドルの経済援助を含む)を拠出した。これはアメリカ以外の国としては、最大の拠出となった。ところが原油の輸入が最大で受益をしている。

 日本が金だけ負担して、後はシランフリしているのは何事だと猛烈なパッシングが起きた。

 キリスト教的な発想やイスラム教においても身に降りかかる災難は共に助け合い、共に汗を流し、死も怖れず防御に働くのが基本であって、十字軍的価値観が根付いている。金だけ出して、共に闘うなんて真っ平御免と逃げるのは最も卑怯な態度だと詰られた。

 さらに後方支援として軍需物資を運送するために民間の船会社に依頼したが、労働組合がこれを拒否、また外国の医者や看護師を臨時に雇用して後方支援として病院設備を設置するために送り込むために日本航空に依頼したが全て拒否。

 石油は欲しいが、戦争は嫌だ、国際協力もしない。世界には通用しない日本国民極独特の感情に世界は怒りだした。

 そこで急遽作成した「国連平和協力法案」は野党の反対で廃案。

 結局何もしない、何も出来ないで戦争は終結した。

 その結果は、戦後クウェート政府がニューヨークタイムスやワシントンポストその他世界の主要な新聞に、参戦国に対して感謝の意を表する1ページ大の広告を載せ、アメリカを始めとする国々の国名を六十数カ国掲載した、が130億ドルを戦費として拠出した世界第二位の額のわが国の国名は当然ながら記載されていなかった。

 更に別の新聞にはウィン(戦勝国)とロスト(敗戦国)のリストが記載され、わが国は何とロストの中に入っていた。

 国際的には石油が欲しい、それ以外は何もしない何も協力しない卑怯な国との評価が通説であった。ところがわが国のマスコミは莫大な戦費を日本が負担したので世界が日本に対して感謝していると報じた、大本営発表並みの記事を書いた。

 この感謝広告に驚愕したのが海部内閣で、戦費負担として130億ドル(当時のレートで1兆数千億円)もの巨額の金額を、特別税を新設してやっとの思いで捻出し、提供したのだから、当然、感謝されるものと思っていたのが、この報道だからなおさら驚きが大きかったようだ。

 日本人、日本政府の感覚は世界とは大分かけ離れており、慌てふためいた政府は、国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にする「PKO協力法」を成立させ、クルド難民支援として5億ドルを追加支援、ペルシャ湾の機雷除去を目的として海上自衛隊の掃海艇部隊の派遣を決めた。野党の凄まじい反対を抑えて自衛隊の海外派遣の途を開いた。

 世界に見放されたら我が国は間違いなく危機に墜入ってしまう。絶対に石油を確保しなければならない。

 そうなると野党の反対や国民感情など考慮してはいられない。海部内閣は強硬手段でペルシャ湾内の機雷除去に海上自衛隊掃海部隊の派遣を決めた。

ペルシャ湾掃海部隊派遣

 自発的に掃海部隊派遣を決めたわけではない。アメリカ側からペルシャ湾内に設置された機雷を掃海してくれないか、という打診があった。

 海部内閣は、日本に対するパッシングをどう回避して良いか方策が建たず、迷っていた時だから、アメリカ側の申し出に飛びついた。

 掃海なら直接戦争に参加するわけではないから、憲法には抵触しないと判断し、また掃海技術は世界一だと自他共に認める実力がある。

 更に言えば、海上自衛隊の掃海艇は世界で唯一船体が木製で出来ている。木製の特性は磁気に反応しないので、磁気機雷の除去に有利となる。

 我が国の漁船の建造は、伝統的に木製であり、300トン位まで木製で建造していた。第二次大戦でも掃海艇は木製だった。

 従って海上自衛隊の掃海艇も木製で建造していた。この木製の有利さは海底の泥の中に鎮座する磁気機雷発見には威力を発揮する。

 ヨーロッパ諸国海軍もペルシャ湾内の掃海に参加していたが、発見処理がそれほど難しくない浮遊機雷の除去だけで帰国してしまった。これは2隻の掃海艇がピアノ線を曳いて、機雷を引っかけ、銃撃で爆発させるもので技術的にはそれほど困難ではない。困難は残された海底の泥の中にある磁気機雷だ。

 アメリカ側も日本の海上自衛隊掃海部隊に任せるのが最良策と判断していた。

 自衛隊法第99条を根拠に掃海部隊を「ペルシャ湾掃海派遣部隊」として、自衛隊創設以来初の海外実務派遣となった。

 歴史的にも第一次世界大戦の時、連合国側の一員として参戦、枢軸側と戦ったので地中艦隊支援の為に海軍の一艦隊が参加した。第二次大戦初期、南雲第一航空艦隊がインド洋まで進出した。それ以来のインド洋越の艦隊行動となる。

 また、他国海域での掃海活動は朝鮮戦争時においてアメリカ側の命令(当時わが国は占領下)によって韓国周辺海域の機雷除去の掃海活動を行った。(この活動が海上保安庁の誕生に繋がる)

 特に仁川上陸作戦では複雑な海域(小島が散在している、潮汐流が複雑、アジア一の満干の差が10mもある)この海域での掃海は大変な苦労があったらしい。またこの複雑な海域での大艦隊による上陸作戦は、この海域を熟知していた旧海軍の某参謀がアメリカ海軍の要請により作戦を立案した。(秘密事項でした)

 1991年4月26日ペルシャ湾掃海派遣部隊が編成され出航した。(出港とは言わない)

 掃海母艦「はやせ」

 掃海艇「はつしま」「ゆりしま」「あわしま」「さくしま」

 補給艦「ときわ」

 指揮官 落合o一等海佐(第一掃海隊群司令)

 幹部76名、准尉17名、曹士428名、医官3名、他、 総員511名

 掃海作業は1991年2月28日、停戦協定が成立した直後から多国籍軍として戦闘に参加していた米、英、ベルギー、サウジアラビア海軍の掃海部隊が、掃海を開始し、仏、独、伊、蘭の海軍も掃海に参加していた。

 わが掃海部隊が到着して時には6割以上除去しており、英、仏、独、伊、蘭、ベルギーの艦隊は日本部隊が到着すると、後は任せたと帰国してしまった。

 残ったのは日、米、サウジアラビアの海軍だけになったが、サウジアラビア海軍は掃海の経験は殆ど無い、結局は日本の掃海部隊が全ての後始末を任されたことになった。

 機雷に関し、解説すると、機能としては磁気機雷、音響機雷、水圧機雷、異種金属間で発生する微弱な電流に反応するUEP機雷があったが、現在では複数のセンサーからの情報に基づく高度な起爆装置を設定した複合機雷が主流となっている。

 施設形態は、海底に沈めておく沈底機雷、任意の海底に係維索での係維機雷、短係止機雷、浮遊機雷、目標を関知すると追尾するホーミング機雷、陸上から管制する管制機雷、航空機から投下する自走機雷等多くの機雷が開発されている。

 攻撃方法は最新技術を駆使して開発するが、防御である掃海技術はなかなか開発されない。

 従って掃海に参加した各国海軍は主に浮遊機雷と系維機雷だけを除去して、掃海終了を宣言して還ってしまった。

 問題は海底の泥の中に隠れている沈底機雷の発見・処分で、これは海底の磁気に反応する装置でもって磁気反応を確かめ、潜水員が潜って確かめる作業を繰り返すが、海底には多くの鉄器類が沈んでいるから、それらを確かめる為の潜水を繰り返す根気の要る作業で、99%完了は有り得ない。完全に100%完了で初めて終了宣言できる困難さがある。

 その全てを海上自衛隊の掃海部隊に托し、他國の海軍は引き揚げてしまった。

 第二次大戦中、アメリカ軍が日本近海に無数の機雷をばらまき、戦中戦後触雷により多くの船が沈み、犠牲者が出た。

 従って戦後、アメリカ軍の要請で旧海軍軍人が集められ、海上保安庁を創設、その任務は掃海作業から始まった。

 それを引き継いだ海上自衛隊の主な任務も掃海作業で、技術的には世界一と自負出来る掃海能力を有している。

 アメリカ海軍も最後の総仕上げは海上自衛隊掃海部隊に全てを任せるとして引き上げた。

 任された掃海部隊は全ての機雷を除去し、その後には触雷事故が全くないのがその証明である。

 この偉業によってやっと多国籍軍側としての評価を得てクウェートから感謝の意が表された。さらに敵側であったイラク沿岸航路の機雷も除去したのでシャトル・アラブ河への遡航が可能になったのでイラク側からも感謝の意が表された。

 まさに敵味方から感謝されたのだから、世界的偉業といえる。ところが日本国内ではこの掃海実績を全く評価せず、相変わらず国外への自衛隊派遣反対の声ばかりが大きく報道され、世界の感謝の声は全く報道されなかった。

 従って、この偉業もまた日本国民は知らないし、知ろうともしない。石油がどうやって運ばれているかも我関せず、知ったこっちゃない、これが日本人の感覚。

 日本部隊はMDA-7海域で17個の機雷を処分、MDA-10 17個。

油田の航路

 イラン、イラク、クウェート国の要請により領海内での掃海活動を行い計34個の機雷を処分した。リモコン式処分具を使い、安全な遠隔操作で区は処分する5個、水中処分隊員が潜水して機雷を発見し、手作業で処分したのが29個であった。

 ※機雷とは:機械水雷の略で、アメリカの南北戦争時代には開発されていた。日露戦争では日露とも機雷を多用し、相互に戦艦を触雷で失っている。また陸上戦でも旅順要塞から投げ落とし日本軍兵士が多数吹き飛ばされた。

 海上自衛隊が掃海したペルシャ湾内では機雷の爆発は現在に至るまで全くない。このことはまさに偉業と言うべきで、世界一の掃海技術を有することが証明された。

 だが湾岸戦争で中東に平和が戻ってきたわけではない、さらに混迷を深めて今日に至っている。

 イラク戦争2008年〜2011年(軍事介入と占領統治)

 中東は一瞬たりとも油断できない地域であり、我が国の戦国時代を連想するような群雄割拠と思えば良い。

 そこに石油というお宝があるのだから、その利権争いは絶えることはない。為政者は国民の安寧秩序、福祉、経済発展など考える余裕もなく、次なる闘いに没頭していた。豊富な原油収入で世界中から武器弾薬を買うことが出来る。さらに武器商人が暗躍するのだから、どんどん争いがエスカレートし、戦争のしなければならないような条件を煽り、仕掛けていった。

 湾岸戦争は終結した。やっと平和が戻ってきたとは現地の人々は思っていない。イラク國が崩壊したわけではない。クウェートを占領していたイラク陸軍を連合国が武力で追っ払ったに過ぎない。イラク国は健在し、サダム・フセイン大統領が支配しているのは事実だ。さらにクウェートに駐留していたのは二流の機甲師団で、最新鋭の機甲師団はイラク国内に温存され健在であり、さらに大量破壊兵器を隠して大量に隠し持っているという疑惑が持ち上がり、次の侵略の準備中だとの情報がもたらされた。

 現地の人達は次なる戦争が間近に起きるだろと予感していた。

 1990年8月2日、イラク軍、クウェート侵攻、全土を占領、クウェート王族は辛うじて隣国サウジアラビアへ遁れ、後ロンドンに亡命政府を樹立。

 イラクを併合し、イラクの19番目の県として、「カーズィマ県」と名付けた。

 アメリカ軍を中心とした多国籍軍(30数カ国を結成)多国籍軍がクウェート解放の湾岸戦争が勃発。

 1991年1月17日、サウジアラビアから爆撃機が飛び立ち、イラク国内の基地を爆撃「砂漠の嵐」作戦を発令、直接イラク国内を叩く「左フック作戦」と称した。宣戦布告はない。慌てたのはイラク政府で、イラク国軍大半はクウェートの占領軍として出払っており、国内を防衛する留守部隊は手薄になっており、また政府中枢はクウェートを占領してもアメリカの反撃はないと信じていたらしい。

 これには背景があり、アメリカの駐イラク特命大使エイブル・グラスビーは「国境問題に介入するつもりはない」と明言していた。

 アメリカ政府や議会、国民も他国国境問題には不干渉が基本姿勢などでこの時の大使の発言は個人的なものなのか、政府指令なのかは判らないが、イラク側はアメリカの反撃は絶対にないと信じていたようだ。

 ところがクウェート側の裏工作、アメリカ議会での少女の証言(ナイラ証言)、病院内で保育器の中の赤ちゃんをイラク兵士がつまみ上げて床に投げつけた、と証言。裏付けとしてその赤ちゃんを埋葬したと担当医師の証言、これがTVで中継されたからアメリカ国民の怒りが沸騰した。

 ところが後で判明したことは、証言した少女は駐米クウェート大使の娘、医師も偽者、全てがクウェート側の自作自演。但し判明したのは大分後になってからだ。このようにして醸成された反イラクが多国籍軍の結成となった。

 クウェートを占領していたイラク駐留軍は慌てて本国へ戻ろうとした。夜間、本国への砂漠の中の1本道を多数の車両が退却の列を作って走行していた。

 多国籍軍は退却の大軍を待ち構えていた多国籍軍の戦車が一方的に攻撃撃破した。この時徹甲弾が戦車砲から発射され、多くの被爆者が出た。

 またイラク軍は撤退の際700ヶ所の油田が放火され、ペルシャ湾内には400億ガロンという大量の原油を流した。

 1991年2月から11月まで油井火災の最後の油井が消火されるまで10ヵ月を要した。消火はアメリカから大勢の油井火災専門の消火隊が駆け付け、ブルドーザーで砂の山を造り、それを押し縮めて油井の孔を塞ぐ方法で消火していったが、火焔、煤、有毒ガスによって肺、呼吸器障害、その他の後遺症があり、更には戦場で戦車戦があった地域と同じであったから被曝の後遺症もあった。

 戦闘は短期間で終わったが、戦争の後始末は大変な苦労があった。後始末の1つであった湾内の掃海は見事に海上自衛隊が完了させた。

 多国籍軍はイラク国内には侵攻せず、停戦となった。このため更なる混乱が継続することになった。

 停戦の条件は国連安全保障理事会によって大量破壊兵器の破棄が義務付けられた。

大量破壊兵器保有の疑惑

1、イラン・イラク戦争中マスタードガス、及び神経ガスをイランに対して使用。

2、イラン・イラク戦争中、自国内でクルド族虐殺に化学兵器を使用。

3、湾岸戦争前、マスタードガス、神経剤サリンその他大量の化学兵器を所有。

4、高度な生物兵器、炭疽菌、ボツリヌス菌毒素系等の生物剤散布計画。

5、核兵器開発、ウラン濃縮技術の開発

6、スカッドミサイルを含む多数のミサイルを保有。

(7)、湾岸戦争中、化学兵器、生物兵器等を実戦用に配備。

等以外にも様々の情報がアメリカ側の情報機関にもたらされた。

 1991年4月の停戦合意以降、査察を実行しようとすると、イラク側は様々な口実を設けて入国や査察を阻害した。

 そうすると尚更疑惑は浮上するし、対イラクの心証は悪くなるばかりだった。

 通常であれば敗戦国であるイラクは、武装は致しません。平和を希求する善良な政府と国民です、と世界に訴えるべきであった。

 ところがフセイン大統領は査察を回避若しくは拒否しようとしたし、自国が未だ強国であることを近隣諸国に誇示したかったのかも知れない。

 負け戦があると政権に内部に亀裂が生じることがしばしば起きることで、フセイン大統領一族にも内紛が起きた。

 大統領の長女の婿であるカメル・フセインが隣国ヨルダンに亡命、アメリカ側にイラクが湾岸戦争後も大量破壊兵器や化学兵器、核開発の可能性も暴露した。

 アメリカ側の情報機関は信憑性ありと判断、ブッシュ大統領へ報告した。

 様々なルートから入手する情報はイラクの危険性を示すものばかりであった。

 アメリカ国内でもプッシュ政権はイラク脅威論を意識的にばらまいた。

 2001年1月、ブッシュ大統領誕生、2001年9月11日の同時多発テロ事件(NYの貿易センタービルに大型航空機が突入した事件)、犯行は中東の人々によって引き起こされた。アメリカにとって最も危険な存在はイラクだとの認識が急速に広まった。

 後刻、その黒幕はオサマ・ビンラディンによる地下抵抗組織アルカイダであることは明らかになったが、未だイラクが9.11事件にどの程度関与したのか全く判らない段階で、イラク主犯説に傾いてしまった。

 同時テロ発生4日後の9月15日には緊急安全保障会議が開かれイラク叩くべしが主論となり、一部慎重論や反対論があったが押し切れてしまった。

 しかし、即侵攻とならなかったのは、なおも慎重論が根強くあったからで、また査察を巡って双方の疑惑や対立があり、数限りない摩擦があった。

 新しく就任したブッシュ大統領は最初からイラクに対し不信感を持っており、イラク侵攻は時間の問題となった。

 2002年初頭の一般教書演説において「悪の枢軸」発言をおこない、イラク、イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ支援国家であると避難した。

 予てよりフセイン大統領と対立していたイスラエルのネタニヤフ元首相は訪米し、イラクは核兵器の開発を急ぎ、何時戦争を始めるか判らない、危険人物だと訴えた。

 更にシャロン首相もイラクの危険性を訴え、即時侵攻を求めた。

 2002年11月8日、国連では、「イラク武装解除遵守」の最後の機会を与えるとして、安全保障理事会に中間報告書を提出させ、この報告書には大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないが、イラク側からの回答には多くの疑念があり、不審点が多すぎるとした。具体的には多くの不信点が列挙されたが、更なる回答には不審点を氷解させるような回答はなく、対立は深まるばかりであった。

 もう一つ重要なことは亡命イラク人、あるいは組織が故意に情報を捏造し、フセイン大統領とその1族、バース党、軍部の壊滅を狙って暗躍していたのも事実だ。

 アメリカ、イギリスは即時侵攻を決めたが、フランス、ドイツ、ロシア、中国は強硬に反対、しかし国際平和を希求するためのものではない。あくまでもイラク国内産の原油の確保、利権が問題であって、フセイン大統領との間に結ばれた石油の利権を失うことへの怖れであった。

 2003年3月20日、アメリカ軍が主体で、イギリス、オーストラリア軍と、工兵隊のみをポーランド軍が派遣し、有志連合軍を結成、イラク侵攻を開始した。

 侵攻してきた有志連合軍は猛烈な反撃があるだろうと予想していたが、強大な軍隊を要しているはずのイラク軍の反攻は予想していたような反撃はなかった。

 有志連合軍の攻撃は、首都バクダットへの空爆とミサイル攻撃だったが、市内には多数の西側のマスコミ関係者が存在し、攻撃されている市内から現場中継をするリアルタイムの中継に、映画を観ているようなTVの画面に世界中が唖然として見入った。

 当然イラク軍自慢の最新鋭の機甲師団の出撃もなかった。イラク軍はあっけないほど脆くも破れ、軍組織は解体され、大統領一家は逃亡したが、途中で確保された。フセイン大統領は農家の穴蔵に潜んでいたところを逮捕され、裁判の上、死刑になった。

 バース党幹部も地下に潜ったが、これが後にとんでもない事になったが、この時点では誰も予想もしていなかった。

 またイラクが隠し持っているはずの大量破壊兵器の使用もなかった。しかし絶対になかったとも言いきれない。

 その疑いが、現在暗躍しているISILの手に渡っているのではないかという疑念である。というのは、ISILはバース党やイラク軍の幹部が組織したテロ部隊だと認識されているからで、これからも中東の動向には眼が離せない。

 フセイン政権は完全に崩壊し、全く新しい政権がアメリカ主導で発足し、勿論軍隊も完全に解散し、新しい軍隊がこれもアメリカ主導で発足、全てアメリカ式の軍隊になった。

 しかし、新しい政権、新しい軍隊はあまりにも弱体だった。次々とテロ事件、内乱の頻発、ついにはISILの魔手が伸び、正規軍が敗退するという大規模な戦闘が頻発し、謎の軍隊が暗躍するテロの頻発地帯となってしまった。

 これに対し西側は、空爆はするが、地上軍は送らない方針らしい。これは先の有志連合軍の侵攻作戦の失敗に懲りて、直接介入を避けているのだろうか。

 現在ISと直接戦闘を交えているのはクルド族の民兵らしい。

 一方、政府軍、イスラム教シーア派民兵が加わった約3万の軍隊がティクリートへ攻撃した。問題はこの攻撃に隣国イランの精鋭部隊である革命防衛隊が参加していたことにある。

 このティクリートとは、フセイン元大統領の生誕地で、住民の大半はスンニ派であるから、シーア主導の政権には根強い反感がある。

 中東の歴史は内乱、戦争の繰り返しだが、当然だが次の争いの芽が芽生えだしてしまった。

 このイラク戦争初期の2003年12月から2009年2月まで、陸上自衛隊がイラクに派遣された。

 目的は人道復興支援活動の実施に関する特別措置法によるもので、活動は現地の人道復興支援活動、安全確保支援活動であった。

 専ら飲料水確保と治安維持に活躍した。大地の大半は乾燥地帯であるから水の確保は死活問題で、水の浄化と運搬に専従した。任務が終了し、撤退が決まったとき現地民から、もっと駐留してくれとの嘆願デモがあったくらい、現地民の信頼は厚かったのこと、派遣部隊の任務は完全に全うした。

 海上自衛隊は陸上自衛隊の車両や資材を運んだ。

 航空自衛隊は主にC-130型輸送機を派遣、輸送任務を担当、クウェートのアリ・アルサレム空軍基地からイラクのタリル基地まで資材を運んだ。

ソマリア問題

 アフリカの角と称されるソマリア國がある。世界ダントツの最貧国、1991年以降、國を統治する中央政府は存在しない。治安は完全に不安定、無警察状態にある。

 場所は地図のようにアデン湾とインド洋に突き出たような半島で、アフリカの角と称される由縁である。

 このアデン湾は紅海とスエズ運河に通ずる重要な航路筋にあたり、アジアとヨーロッパを結ぶ唯一の航路なので年間2万隻の大型船舶が航行する。

 経済は混沌とし、生業がない住民は沖を航行する外国船に眼をつけ、小型高速ボートに乗り、AK47、携帯型ロケットランチャーで武装し、沖を航行する大型船を襲い、船員を人質にして船会社に金銭を要求する海賊行為が盛んになった。

 船員、船体、積荷を乗っ取られては船会社としてはどうしようもない。まして現地には取り締まるべき治安部隊や警察権限はなにもない。

 最初は現地漁民が生活のためにやむを得ず海賊行為に走ってしまったが、海賊行為が手っ取り早く巨額の金銭が得られる職業行為だとして、高速船、高度な武装、海賊として訓練、乗っ取ってからの交渉、金銭の受け渡し等が分業し、1つの大きな組織が出来上がった。

 そうなると海運界に大きな衝撃となり、国際貿易に支障をきたすようになり、海賊行為を阻止するために、国連安保理が動き、国連憲章により安保理決議1838号決議として採択され発動した。

 我が国は共同提案国であり護衛艦派遣を決めた。

 ソマリア沖派遣自衛艦:DD-113 さざなみ、DD-106 さみだれ

 インド洋派遣自衛艦:DD-108 あけぼの、AOE-423 ときわ

 航空部隊:P3C 2機

 航空部隊はジブチ国際空港に隣接するアメリカ軍キャンプ・レモニエ基地を拠点としている。

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第36章 海洋資源

 これまで原発を中心として論を展開してきた。我が国近代化の歴史は、無資源国家が如何にして近代国家建設を推進すべきか。理想としての富国強兵策をどう進めるべきか。

 開国した明治政府の悲願は近代化を謀り、欧米列強に少しでも近づく水準にしたい。アジアで唯一開国し独立国になった我が国は自国を護るべき軍備が急務だ。

 でなければアジアの大半は欧米列強の植民地として隷属しているように、我が国も植民地になってしまう怖れは充分にあっし、また欧米列強もそれを狙っていた。

 そこで我が国の執った政策は、反撃に出ることであり、それこそが富国強兵に繋がるものだと確信していたようだ。

 それが二十世紀前半の戦争の世紀となってしまった。その原因はエネルギー源確保、鉱物資源確保の手段として足掻きが、戦争へと導いてしまった。

 特に第二次大戦はABCDラインの経済封鎖打破が主因であり、あまりにも短絡的な軍人や為政者の判断ミスが重なってとんでもない結果になってしまった。

 持てる者と待たない者との争いが不幸な第二次大戦となった。持てる者とは油田を支配する植民地を持っている国と植民地獲得競争に出遅れたしまった日独伊三国の対立を指す。

 ドイツは第一次世界大戦で敗れ全ての植民地を失い、かつ過酷な戦時賠償を求められ、経済、社会は大混乱していた。そこへ突如現れたのがヒットラーを盟主とするナチス党で、富国強兵を唱え、社会的な混乱を平定していった。理知的なドイツ国民もこの若き盟主の強烈な個性に心酔してしまった。

 イタリアも同様、国内は混乱していたのを国家ファシスト党統領ベニート・ムッソリーニが政権を奪取、イタリア国王・首相という一党独裁国家を創り挙げた。

 これらの国とは全く利害関係のない極東の島国日本の三国が何故か結びついたのか。それはシナ事変を起こしてしまった日本陸軍は、最初、盧溝橋という上海近郊の狭い範囲における事変として沈静化を謀ろうとしたが、現地駐屯軍が拡大してしまい、中国大陸全土に拡大した。こうなるとシナ方面軍も日本政府もどうしていいか判らない位の混乱をもたらした。

 休戦を焦る政府、名誉ある休戦協定、即ち国民政府からの申し出がなければ休戦しないという横暴な陸軍中枢。

 中国大陸各地は欧米列強の植民政策により侵蝕されており、当然反日となり、列強各国は国民政府支援に回って、武器弾薬の支援物資を国民政府に贈り、国府軍の強化を謀った。

 こうなると泥沼化し、益のない闘いを続けなければならない陸軍に対し、欧米列強にとっては日本帝国打倒となり、最初の締め付けは経済封鎖となり、最終的にはABCDラインの経済封鎖となるが、持たざる3国が利害を共有するままに結びついていったのが日独伊三国同盟であり、悪夢の始まりでもあった。

 共通する悲願は油田の確保であり、ドイツ機甲師団が進撃したのはソ連領内の油田地帯であり、わが海軍機動艦隊が第一撃を加えたのはハワイ・真珠湾に在泊するアメリカ太平洋艦隊だが、目的は南方油田地帯を確保するまでアメリカ太平洋艦隊の出撃を食い止めるのが第一目的であり、太平洋戦争勃発の主目的は東南アジアの油田地帯の確保であった。

 極論すれば石油資源確保という目的が三国を結びつけ、第二次大戦を共に闘い、近代兵器を持ちながら、それらを駆動する燃料が枯渇したとき闘いに敗れた。

 第二次世界大戦勃発の主な原因は石油資源の争奪にあり、石油資源を失った国が敗れ去ったという石油資源が全てを決めたといっても過言ではない。

 第二次大戦後も石油資源の争奪は続き、何度も論述してきたが、中東での混乱、争いもすべてが石油資源絡みであって、セブンシスターズの結束も緩み、やがてOPEC石油輸出機構にその権力が奪われ、世界は何度も苦杯を味わった。

 その石油からの支配をなんとか脱することができないか。それが原子力発電への転換、ガソリンエンジンやディーゼルエンジンからの転換への努力。

 中東原油からの転換としてアメリ・カナダにおけるシェール石油、ガスの開発、この開発が軌道に乗るとみるやいなやOPEC石油輸出機構は大幅原油価格の値下げに走り、シェール石油開発阻止に挑んできた。

 世界情勢は常に流動的であり、次の時代何が起きるのか、興味深い事象を次に述べる。

海洋開発と海の国境線

 海の国境線に関し述べてみたい。国連海洋法条約第十五条では、海の国境となる線を「中間線」と書く、そうすると線の向こう側は外国の領土と認めたことになるので、海上保安庁では中間線とは言わず「参考ライン」と表現しているがマスコミ報道は「中間線」の用語を使っている。

 何故こだわるのかというと、北方四島問題で日ロ間での「中間線」としているのが1946年(昭和21年)6月22日、GHQ命令、日本漁船の漁業範囲を定めたいわゆるマッカーサーラインが敷かれた。

 この指令はサンフランシスコ講和条約締結直前に取り消され、現在は無効になったはずだが、北方四島に敷かれた中間線はマッカーサーラインが踏襲されてそのままになっており、海上保安庁が「参考ライン」だと表現しているのは、もし中間ラインだと認めてしまえば、その向こう側にある領土は外国だと認めたことになってしまう。

 返還要求を繰り返し行っている政府としては認められないラインである。

 マッカーサーラインは日本全土の周辺海域全てを囲むように敷き、日本漁船操業海域を定めたもので、GHQが独自に作成し指令したもので、占領下の我が国は絶対服従が強いられた。

 同じように日本海側に敷かれたマッカーサーラインが竹島付近を通るが日本側に存在するように敷かれていた。ところがこのマッカーサーラインが廃止になる直前に韓国は李承晩ラインを設定し、竹島が韓国領になるように線を敷いた。

 この暴挙は国際法も慣例も全く無視したもので、当然国際司法裁判所の裁定を必要とするものだが、韓国政府が応訴せず13年間苦しめられたことになった。

 日韓条約によって李承晩ラインは解消したが、竹島問題は日韓の間に突き刺さった骨のように険悪な状態が続いている。

 日韓では竹島問題ばかりではなく、対馬の領有権、返還請求があり、大陸棚主張では沖縄近海まで韓国の大陸棚だとの主張を繰り返している。

 日中間は完全に実力行使の段階で、一触即発の状態だ。

 尖閣諸島問題は何度も論じてきたので、今回は東シナ海における海底ガス開発問題について触れたい。

 日中の中間線を敷くと、その線上に海底ガス田が存在する。中国名、春暁(日本名、白樺)、中国名、断橋(日本名、楠)、天外天、(日本名、樫)、平湖・冷泉(日本名、桔梗)、龍井(日本名、翌檜)、6ヶ所のガス田があるが、中国側は既にガスの採掘を始めており、日本政府の抗議は完全無視の態度だ。

 問題となっているガス田は両国の排他的経済水域(EEZ)内にあり、我が国は現在国際的に一般的に適用されている日中中間線としているのに対して、中国政府は1970年頃までの国際法上の解釈に基づく大陸棚の先端である沖縄トラフ迄を主張している。

 この主張を強行するから尖閣諸島も沖縄トラフの大陸棚上にあるから当然中国の領土だと主張する。

 こうした排他的経済水域に関する問題は世界中に存在するが、国連海洋法条約において「関係国の合意到達の努力」に委ねられているが、解決が見られない場合は調停を要請できる。

 それでも解決が見られない場合は各裁判所に要請することが出来る。当条約は平和的な解決を要求しているが、条文には強制力はない。従って関係国がこれに応じない場合調停や裁判所での解決が出来ない。

 日本、中国共に国連海洋法条約に批准しており、国際司法裁判所や国際海洋法裁判所に付託することを日本政府が中国政府に申し入れたが、中国側は拒否した。

 同じことは竹島問題で国際司法裁判所への付託を韓国政府は頑なに拒絶しており、といって両国政府が平和的に解決する方策はなく、強制力のない条文では国際法として存在しているだけに過ぎず、最終手段は実力行使になってしまう怖れがある。

 この日中中間線での対立が続き、中国側が海中に櫓を作り上げ海底ガスの汲み上げを開始してしまった。

 それに対し我が国は遅ればせながら海底調査を開始したことがある。

 ところが残念ながら我が国には本格的に海底資源を探査する能力のある調査船がなかった。かけ声はあったが海底に関する関心は余りなかったといえる。

 従って日中中間線問題が出てきてから関心を持つようになったと言える。

 探査船を建造するには時間がかかりすぎるので、ノルウェーの新鋭探査船をチャーターして日中中間線付近の海域で本格的な海底の調査をしたことがある。

 探査したのは、ノルウェー国所属の海洋調査船ラムフォーム・ヴィクトリー(Ramform Victory)で世界最新鋭の探査船で、船尾より全長6,000mの探査線ストリーマーケーブルを曳航し、展開された探査線は同じように曳航されたエアガンから海底に向かって圧搾空気を発射、地震波が海底及び海底内部からの反射波をケーブルのセンサーがキャッチ、それによって精密な三次元地図を作成、分析し資源探査に役立てようとした。

 日中中間線付近海域で探査を始めたところが、中国政府は領海侵害行為だと猛烈な抗議すると共に、中国の公船が現れ、猛烈な航路妨害をはじめた。それも執拗に妨害を繰り返し、衝突寸前の妨害を繰り返した。

 尖閣諸島の専管水域侵入のようなてぬるいものではなく、まさに実力行使の戦闘状態だったらしい。

 困り切った我が国政府はこの船をチャーターではなく、購入(約230億円)して日本国籍船とし、経済産業省所属の公船とした。そうすると日本政府の公船となり国際法の保護を受けることになる。

 船名を“資源”と名付け、2008年から再就航し10年間で約6万平方kmの海域を探査する予定で活躍している。

 この‘資源’は独特の船型で船首部分を切りとった様な三角形の船で、写真で見るように船尾が広い、これは曳航索を幅広くするためで最新鋭の機材が設備されている。

 探すのは石油、天然ガスで、埋まっていると推定される特殊な地層を集注的に探査する。

 石油や天然ガスは泥や砂、火山の噴出物が層状に厚く積もった地層で、動植物が溜まった場所に存在することが多い。経済産業省の調査によると日本周辺海域にはそうした特殊な地層が45カ所、約84平方kmある。

 2008年から約10年間で約6万2千平方kmを探査する予定で、堆積する可能性の高い順に行うが、この面積は東北六県全面積に匹敵する広さになる。

 この探査の指揮をとっているのが独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構で経済産業省の監督下にある。

 ‘資源’の活躍の一端を述べれば昨年6月、佐渡島の南西約30km、水深約1100mの海底を更に約2700m掘った場所に有望な地層を発見したと経済産業省資源エネルギー庁が発表した。

 地層の広さは約135平方kmあり、中東の中規模油田とほぼ同じ規模になる可能性がある。本年4月から98億円をかけて試掘を始めるが、成功すれば産油国になる可能性もある。

 なおノルウェーの資源探査会社大手のベトロレウム・ジオ・サービス社が三菱重工長崎造船所に三次元海底資源探査船2隻発注し、今春4月完工引き渡しになる。

 我が国には世界最新鋭の海底資源探査船建造能力を有しながら本格的な海洋探査船を所有していなかったのはただ先見の明がなかっただけなのか、海底開発に遅れを執ったことは事実だ。

 海洋資源開発の技術の面でも世界的なのだと強調したい。

 2013年3月12日、経済産業省は愛知県渥美半島沖の水深1,000mの海底から地下330mにあるメタンハイドレートから天然ガスの採取に成功したと発表した。

 メタンハイドレートは「燃える氷」と呼ばれ、将来国産燃料として期待される。海底から採掘に成功したのは世界初で、12日午前9時半頃、ガスを採取はじめ10時にはガスを燃やし、炎が確認された。

 メタンハイドレート(MH)は、天然ガスの主成分であるメタンが、水分子で出来た篭に入ったシャーベット状の結晶を言い、海底や永久凍土層に存在する。

 今年3月12日から18日、渥美半島の沖で世界初の海底面下での産出試験が行われ、圧力を下げることで水分子の篭が崩れ、メタンと水が採れる。

 経産省の委託で、独立法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)所属の探査船「ちきゅう」が渥美半島沖約80km、志摩半島沖約50kmの地点の海域で探査に当たり採掘に成功した。

 通産省によれば2018年には生産技術を確立して、国産燃料として生産する目標を掲げた。

 今回の今回の試験では6日間行われたが、12万立方メートルのメタンガスを採取した。

 仮にメタンの輸入価格は現在1立方メートル当たり70円見当であるから、単純計算だと840万円で商業的には全く採算割れになってしまう。

 従って試掘技術の問題になるが通産省は2018年を目標にしているから技術の見通しは付いているのだろう。

 このメタンハイドレートの鉱床は渥美半島沖から紀伊半島沖、四国沖、鹿児島県沖まで続く海底に広く分布しており、天然ガスの国内全消費量を国内産の天然ガスで充当することも可能とのこと無資源国が有資源国になるかも知れない。

◎メタンハイドレート(Methane Hydrate):メタンを中心として周囲を水分子が囲んだ形になっている包接水和物である。低温かつ高圧の条件下で、水分子は立体の網状構造を造り、内部の隙間にメタン分子が入り込み氷状の結晶になっている。メタンは、石油や石炭に比べ燃焼時の二酸化炭素の排出量がおよそ半分であるから、地球温暖化対策には有効な新エネルギーとして注目されているが、商業化はこれからの問題となる。

 メタンハイドレートは氷に似ているが1立法mを1気圧の状態で解凍すると164立方メートルのメタンガスと水に変化する。従って凍結した状態で運送すればコストは低価格に抑えられ効率のよいガス体になる。

 2008年現在、日本近海は世界有数のメタンハイドレート埋蔵量を持つと発表された。そして今年3月、少量だが世界最初の採掘に成功し「燃える氷」が実際に炎を上げた。

 本州・四国沖、九州太平洋側沖といった南海トラフに最大の推定埋蔵域があり、北海道周辺、新潟沖、南西諸島沖にも存在する。

 日本海側には純度の高く塊の状態で存在することが確認されており、開発に着手するのは日本海側の方が有望で有り、採算ベースにも乗り易いと思われる。

 竹島、尖閣諸島問題についても国運を賭けたような猛烈な領有権争いもその主眼は海底資源確保の争いだと考えると納得がいく。

 このように海底には鉱物資源が埋まっており、宝の山ならぬ宝の海と言える。

 宝の山の海底を探ると、地球の深部からの熱水を噴出しているところがあり、熱水に含まれて地球深部にある鉱物が噴出し、その金属が海底に蓄積されたところでまさに宝の山がある。

 この海底熱水鉱床は、海底のうち海嶺などマグマ活動のある場所に海水が染み込み、それが熱せられた海水がマグマや地殻に含まれていた種々の元素を抽出され、この海水が海底に噴出して冷却されることによって沈殿して生成された鉱床だ。

 深海熱水噴出孔が見られるのは中央海嶺沿いにある2つのプレートの境界域でマントルブリュームが上昇するとこに多く見られる。

 熱水噴出孔から噴出する水温は約400℃にも達するが、深海の水温は2℃位であるが、深海の高い水圧によりこの高温でも水は液体のままで沸騰はしない。物理学位的に言えば、水深3,000mで407℃の水が超臨界状態となる。

 熱水噴出孔は常時熱水を噴出しているが、その熱水に含まれて噴出した諸々の金属、元素が堆積し何万年、何十万年を経ると堆積物により円柱形の構造物が形成される。これがチムニー(煙突)と呼ばれるモノで、20m、30mという大きさのチムニーが形成される。60mに達する巨大チムニーの存在が報告されたことがある。

 チムニーは、海底から噴出する熱水に含まれた金属などが析出・沈殿でできた構造物、海底から柱状に突き出した構造になり、その柱の先端から金属や硫化水素等を多く含んだ黒い熱水を噴出するので、あたかも煙突から黒い煙を吐き出す様に似ているのでチムニーと名付けられた。

 このチムニーには金属が蓄積されるが、同時に有機物合成するバクテリアが多く増殖し、これを餌とする端脚類やカイアシ類などが繁殖し、さらに食物連鎖で巻き貝、カニ、たこが生息する。

 このチムニーこそが地球上に生物が最初に発祥したのがこの地点で長い期間を経て植物、動物となり陸上に進出してきたのだ。

 40年も前になるが、今から比べると誠に貧弱な機器で海洋調査に従事していたことがある。テーマは四国海盆と九州・パラオ海嶺であったが成果は零に近く、途中で挫折してしまった。現在のような近代的な装備の探査船で研究できたらなと悔やんでも仕方がない。

 この調査中、沖ノ鳥島へ行ったことがある。その時は防波堤の工事が行われる以前だったので、環礁の中で海面上に僅かに先端が出ていたが、これが領土、領海の起点になるのだと思うと、どうか何時までも頑張ってくれと祈る気持ちだった。

 我が国及び周辺海域は4つのプレートで構成される(ユーラシア、北米、太平洋、フイリッピン)。世界的に見ても多彩な構成で、それだけでも豊かな海底資源に恵まれていると考えられる。また反面、地震・津波の災害もあり、その災害を受けたばかりで恐怖の方が大きいかもしれないが、このような自然の恵みもあり、陸上では温泉で癒やされ、海底には各種の宝が埋もれている

 この海底熱水鉱床が水深約4,000m以下の海底が目標であるが、この調査を可能にしたのが探査船‘ちきゅう’で船中央に巨大な櫓を設置し深海のボーリングが可能な特殊船があり、周辺海域で探査の結果を国が発表したが2010年までの調査では伊豆、小笠原海域の熱水鉱床からは土砂1トン当たり金11.5g、銀290g等の金属を含有する鉱石が採取できた。

 この比率は陸上の金鉱山や銀鉱山よりも遙かに含有率が高い。もしかしたら佐渡金山や石見銀山よりも恵まれていると推定される。

 近年、金価格は世界的に高騰しており、充分に採算ベースに乗るようだ。

 この深海にはレアアースを含む希少な金属を豊富に含む「マンガン団塊」がある。

 このマンガンも海底には塊となって海底に存在するので採掘実験をやったことがある、40年も前なので設備は今考えるとだいぶ原始的な代物であったが、マンガンの塊を採掘に成功したが、なにしろ船、設備、海上での長期の採掘作業の連続で大赤字になって撤退してしまった。国家事業でないととても出来ないのが実感だった。

 我が国の最南端の島(サンゴ礁)“沖の鳥島”があるが、東京都小笠原村に属し、住所は東京都小笠原村沖ノ鳥島1番地(北小島)、2番地(東小島)、郵便番号は「100-2100」。しかし無人島であるから郵便番号名簿には記載されていない。

 東京から南へ約1740km、硫黄島から720km、フイリッピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺上に位置し、太平洋上絶海に孤立して形成された南北約1.7km、東西4.5km、周囲約11kmのサンゴ環礁で、北回帰線より南にある我が国唯一熱帯に属する。

 この環礁は干潮時には全体が海面上に現れるが、満潮時には大半が没してしまい、僅かに環内にある東小島と東小島が海面上に僅かに先端が海面上にあるだけなので波に洗われ削りとられる怖れがあるので、波消しブロックを造り波による浸食を防ぐ工事をした。

 但し嵩上げのような工事は国際的な取り決めで禁じられている。1933年の調査では満潮時でも2.25mもあったらしい。

 この沖ノ鳥島が‘島’であるか‘岩’であるかの解釈で中国と韓国から猛烈な抗議がきた。それは、我が国は‘島’であると主張、中国と韓国は‘岩’であると主張、その解釈を巡って紛糾した。

 何故なら島でも岩でも日本領土であることは認める。従って12海里の領海は認められる。しかし島と認めれば排他的経済水域EEZが認められる。岩だとすればEEZは認められないから公海として自由航行の権利がる。

 ところが島だとすると有害航行となり漁労、調査、採掘等が出来なくなる。

 そのEEZ内でレアアースが発見された、しかも中国産のレアアースよりも10倍以上も純度の高いモノで、このレアアースの生産は世界の90%が中国産で経済戦略として輸出を制限して、特に日本を標的として牽制してきた。

 それが日本国内で充分に調達できれば国家戦略としての効能を失うことになる。だから反対していると解釈しがちだが、中国の真意は更に深いところにある。

 中国は太平洋を二分割して東半分をアメリカが支配し、西半分を中国が支配するという国家戦略があり、事実アメリカに提案したが、一蹴されたことがある。日本のことは完全無視、シカト状態。

 航空母艦を中心とした機動部隊が西太平洋を制圧するという構想をもって空母を建造中だが、これはもう時代遅れで監視衛星が海上をくまなく監視しているので隠密行動することは全く不可能、従って常時ミサイル攻撃の危険に晒されることになるので、うっかり外洋に出ることは不可能になってきた。

 ところが潜水艦は深々度航行で深海に潜むことが出来るから外洋での航行、活動は可能となる。そこで潜水艦隊の増強に努めているが、行動には精密な海図が必要だが、海上のようにGPSでの位置確認は出来ないから、潜行中であれば海底地形図の海図が必要になる。

 しかし潜水艦所有国は独自に作成しており、軍事機密を漏らす訳がないから、中国は独自に作成しなければならない。そうすると漁船に化けた海底探査船が動き回って作成することになる。

 かつてのソ連海軍は太平洋、大西洋、インド洋の海底海図を作成したが、何百隻という300トン位の漁船にカムフラジした探査船が精巧な測深機を搭載して、漁労は一切せずに走り回っていた。私もアメリカ東海岸の大西洋岸を航行中何度も見かけた。時にはアメリカ海軍最大の基地、ノーホークの沖合にまで出没していたからその大胆さには驚いた。

 ニューヨークに入港の際、パイロットに訊ねたらアメリカ側も充分に承知しているが公海上の漁船を取り締まる法はなく困っているのだとの返答だった。(当時EEZはなかった)

 潜水艦拡充に努めている中国海軍としては活動する太平洋の海底海図が必要になるし、特に日本周辺海域や日本の南に拡がる海域の海図が必要、どうしても探査したい、だがEEZが拡がる南太平洋は探査するのが非常に困難になる。硫黄島と南鳥島には海上自衛隊の基地があるから余計目障りだ。従ってEEZの適用を絶対に認めない。これが基本方針。

 この沖ノ鳥島のEEZが認められたことは我が国の排他的経済水域が世界第六位にあるが沖ノ鳥島の存在は大きいし、EEZ内での海底資源開発の調査が本格的に行われる。

 排他的経済水域EEZ世界ランキング(EEZ+領海の面積)

 1. アメリカ    11,351,000平方km

 2. フランス    11,035,000平方km(南太平洋の海外領土を含む)

 3. オーストラリア 10,648,250平方km

 4. ロシア      7,766,673平方km

 5. カナダ      5,599,077平方km

 6. 日本       4,479,358平方km

 我が国の領土面積は約38万平方kmで、世界第61位だが、領海、EEZを併せると世界第六位の大国になり、更にそのEEZ内はプレートが重なり合い、火山帯であるから危険性と同時に鉱物資源が豊富に埋蔵されていることが推定され、開発のしようによっては資源大国になる可能性を秘めている。

 2012年4月、国連の大陸棚限界委員会が、日本から申請されていた大陸棚拡大申請部分のうち、沖ノ鳥島北方海域を含む31万平方kmの海域を日本の大陸棚と勧告した。この勧告はそのEEZが重複する隣接国が存在しない場合は、日本のEEZに関する国内法を整備し、国連に報告すれば日本のEEZは効力が発効されることになる。

 なお沖ノ鳥島南方海域の大陸棚拡大の申請は結論が先送りされ検討課題になった。

 我が国と周辺諸国との間では排他的経済水域を巡っては激しく対立しており、尖閣諸島、竹島、北方四島問題は領有権争い、東シナ海ガス田・日韓大陸棚協定の解釈を巡る争い、沖ノ鳥島はEEZの設定問題で争われている。

 沖ノ鳥島南方海域の国連に大陸棚拡大申請をしたが中国代表は猛烈な妨害工作をしており、国連の裁定は先延ばしになる怖れがある。もし認められれば我が国のEEZは更に飛躍し、世界第五位も夢ではない。

◎南鳥島:小笠原諸島に属し、行政上は東京都小笠原村南鳥島、日本の島としては唯一日本海溝の東側に位置し、日本で唯一太平洋プレート上にある。日本が実効支配の及ぶ島では、唯一他の島と排他的経済水域に接していない。

 一辺が2kmの正三角形の形をしたサンゴ礁の島で最高標高は9mの平坦な島で周囲は環礁になっており、環礁内は浅いが、その外周は急激に深くなっており、潮流が速く、サメが多い。

 島の底辺になる一番広い部分に1,380mの滑走路があり、海上自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空派遣隊が常駐し、気象庁観測所、関東地方整備局が交替で職員を派遣している。

 交通機関としては航空自衛隊のC-130H輸送機が月1度、厚木基地から約4時間、海上自衛隊YS11が週に1度、厚木基地から硫黄島を経由して約7時間、食料や必需品を運ぶ。一般住民は零。

 2013年3月21日、東大と海洋研究開発機構の合同チームがEEZ内でレアアースを含む泥を採取し、希土類を含んでいることを確認した。

 埋蔵量は国内消費量の数百年分以上という。海底下数mの浅いところの泥で、採掘は容易と思われるが、水深5,700m海底の泥を採取、分析の結果、世界最大級の高濃度なレアアースを含む鉱床であることを突き止めた。

 中国の一般的な鉱床の濃度は500〜1,000ppmであるのに対して、南鳥島沖の鉱床はその約10倍の6,600ppm(0.66%)だと発表した。

 但し、約5,700mの深海の海底にあり、更に海流と水圧を克服して採算ベースで採掘するには技術的な課題が多い。

 この海流と水圧の問題が解決できれば、海底下2〜4mにある泥の層なのでこちらは容易に採掘できる。

 レアアースはiPad、プラズマテレビ、レーザー、自動車エンジン用コンバーター等のハイテク機器製品や最新兵器に使われ、現在、全世界の90%が中国産で占められており、そのため戦略的見地から2009年、輸出制限に踏み切り、世界は大きな衝撃を受け、そのため価格も高騰した。

 アメリカの磁性協会は「アメリカは静かな危機に瀕している」とコメントした。

 日本に対しては対日全面禁止措置を執ったことはメディアでも大きく取り上げられているが、アメリカの反応はこの措置がアメリカにも波及する怖れがあるとしてアメリカ産のレアアース産業に補助金を出す、中国産のレアアースを頼りにするハイテク兵器の見直しを軍事産業に求めるなど動いていたが、我が国のレアアース発見の朗報が世界に発信された。

 しかしレアアースは中国が世界産出量の93%を占め、最も希少といわれる高価な鉱物資源に関しては99%と言われている位レアアースに関しては恵まれた国だ。

 その中国が国家戦略としてレアアースの輸出制限をすることはあり得ることで、世界もそれを予想していた。特に日本に対しては全面輸出停止の切り札をチラツカセ、圧力を加えてきた。

 我が国も対抗処置としてレアアースを使用しなくともよい製品開発に努力し、モーターその他の製品で可能にしたし、既製品の廃品からレアアースを回収する技術も開発した。

 それに加えて今回の南鳥島沖の発見であるから、まさに朗報となった。更に言えば南鳥島沖ばかりではなく日本のEEZ内には有望な海底鉱床が多くあることも判明した。

 このことは中国政府にとってレアアースの輸出規制は国家戦略にはなり得ないことを悟らせたことが大きい。

 3月30日、モンゴル公式訪問中の安倍総理はモンゴル国内に豊富に存在する地下資源開発に日本技術と資本を投与することを示すモンゴル開発計画を締結した。

 この中にはレアアースも含まれており、明らかに中国を意識した締結になる。

 バブル崩壊後の失われた10年、更に10年と言われる不景気の嵐に見舞われ国民全体が意気消沈していたが、安倍新政権が発足してなんとか光物質・材料研究機構によれば、我が国は世界有数のレアメタル資源国だとしている。勿論天然の鉱石を産出する鉱山が国内にあるわけではない。

 日本全国でゴミとして破棄される家電製品等に存在する有用なレアメタルを回収することによって、破棄物から有用な資源を再生、有効活用しようというリサイクルの一環で、地上資源と言われている。

 資源の少ない我が国は特に熱心に開発に専念してきた。古くから新聞や雑誌等の回収によって紙を再生してきたが、これも我が国が始めたリサイクルの一環であるが、2011年度の古紙回収率は77.9%という驚異的な効率なのは国民性が大きく貢献しており、‘もったいない’精神の発露といえる。現在でもこのリサイクルを実施している国は少ない。

 まして金属の元素別の抽出には高度の技術が必要なので我が国は最先進国だと自負できる。

 特に破棄された携帯電話、パソコンの基板はレアメタルの宝庫で、やがては世界中からこれら廃棄物の輸入大国になり、「都市鉱山」と言われるリサイクル技術により廃棄された工業製品からそれぞれの元素に分けて回収する技術が開発されており、レアアースもリサイクルされるようになった。

 金、銀は勿論、あらゆる元素が分類され回収できるのだからまさに都市鉱山と言える。「必要は発明の母」都市鉱山、まさに世界有数の鉱山を擁する都市伝説明を見出せそうで、未だ薄明かりで良くは判らないが、精神的には明るくなってきた兆しはある。

 その中で金融政策の見直しでデフレ脱却、2%の物価上昇、と経済学の逆を行くような政策に驚いたが、果たして日本経済のカンフル剤になり得るのか、今後とも注意深く見守る必要がある。

 その成果とは言えないが福島第一原発事故、それによる原子力発電所の全面稼働停止、これに伴い一斉に火力発電所の再稼働に踏み切り、その結果、火力発電所の燃料といて石油、LPG、石炭の等の輸入増大、貿易収支は大幅赤字、貿易決済はドル決済であるから、為替レートではドルが上昇し、円が下落する当たり前の現象があり、輸出産業は思わぬ恩恵を受け、株価上昇、個人投資家が動き出したところをみると今後活発に動き、株価を操る原動力になり得る。

 そうなると株を保有することによって会社を育成するという本来の目的よりも株価が上昇したら売り抜けるマネーゲームの再来で、決して健全ではない。

 世界中の先進国はバブル経済、その崩壊の繰り返しで、バブル(泡)とは気付かず好景気を謳歌しているうちに不景気に見舞われ、そこでやっとバブルだったのかと目が覚めるという愚かさを繰り返してきた。

 これからの日本経済に確実に貢献するであろうことはEEZ内の海底資源活用にある。世界第六位の領海・EEZの総面積、更に複雑なプレートの存在、海溝、火山帯、熱水鉱床の存在等、災害の怖れもあるが、おそらく世界一恵まれた海底資源国とも言える。

 この海底資源の探査に活躍するエースを紹介する。

 日本初の海底の三次元探査船‘資源’は沖縄海域で探査作業して、中国公船の執拗な妨害工作をうけた。

◎探査船‘ちきゅう’独立行政法人海洋研究開発機構所属、

 2005年竣工、総トン数56,752トン、乗員総数200名、船体の中央部分に巨大な掘削用櫓(121m)を備えている。

 日本・米国が主導する統合国際深海掘削計画(IODP)において中心的な掘削任務を担当する。

 その活躍は渥美半島沖でのメタンハイドレートからの天然ガス掘削・採取はこの‘ちきゅう’が探査・工事を行い、見事世界初の採掘に成功をおさめた。

 その他、東日本大震災の発生メカニズムの調査、南海トラフ地震発生帯掘削、ケニア沖、オーストラリア沖の掘削に従事し海底の調査に当たってきた。

 5万トンクラスの探査船は世界有数の大きさで、日本では最大です。

 この船の特徴はライザー掘削システムを有する掘削専用船で、掘削を始めると現在点を約半年以上動けないので、研究員の交替はヘリコプターで行い、船首部分にヘリポートが設備されている。

◎探査船‘白嶺’

 独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)所属。

 竣工:2012年、総トン数6,283トン、乗組員総数70人。

 先代第二白嶺の代船として新造、就航した新鋭船でこれからの活躍が期待される。

 船上設置型の掘削装置使用する場合の船上設置型掘削装置搭載の船型と、海底着座型掘削装置、パワークラブ、深海カメラ、等のサンプリング装置を使用する場合のムーンブールハンドリングタワー搭載の船型の2つの船型を持つ。船体中央にムーンプールと呼ばれる開口部があり、船尾だけでなく、そこから各種装置を使用することが出来る。

 南鳥島沖のレアアースを発見・採取したのはこの‘白嶺’。

◎海洋調査船‘白鳳丸’

 初代白鳳丸は1963年竣工の東大海洋研所属の海洋調査船であった。現在活躍中の調査船は1989年竣工の二代目‘白鳳丸’

 2004年の国立大学独立法人化の際に東大海洋研究所から独立法人海洋研究開発機構に移管された。

 総トン数:3,987トン、定員総数:89名

 他の調査船と異なり、白鳳丸の運航は「共同研究船」との形態を執り、航海計画は全国の研究者を対象とした公募を元に航海計画が決定される。

 また、海洋研究所の観測研究企画室が研究者と海洋研究開発機構の仲立ちとなって航海を具体的に運営して行くという体制を執っている。

◎海洋地球研究船‘みらい’

 原子力船‘むつ’が原子力設備を撤去、ディーゼル・電気複合動力船に改装し海洋観測船にし、海洋研究開発機構に所属

◎磐城沖ガス田

 磐城沖ガス田とは、楢葉町沖合約40km、水深154mの海底下に位置した太平洋側初の本格的な海洋天然ガス田だった。

 1981年、国際石油開発帝石株式会社とエッソ・グループが共同で商業生産に向けて開発を決定し、全額出資の子会社「磐城沖石油開発(株)」を設立、海洋生産施設、海底パイプラインを建設、

 1984年7月から生産開始、生産された天然ガスは全量を東京電力広野火力発電所に供給したが、枯渇して2007年7月をもって23年間に及ぶ生産操業を終了し、この間の累計生産量は約56億立方メートルに及ぶ。

 海上生産施設であるプラットフォームは2010年7月に完全撤去されたので大津波による被害は免れた。

 東京電力・広野火力発電所は1980年1月に1号機が運転開始、その後4号機までが建設され天然ガスを動力源としていたが、1999年8月、燃料を石炭した5、6号機の増設が決定。5号機は2004年運転開始、

 東京電力の火力発電所としては唯一の供給エリア外立地発電所として、全量を磐城沖ガス田から供給される天然ガスを前提として建設されたため、生産された全量を広野火力発電所が消費する形態を執ってきた。

 2007年、磐城ガス田操業停止により、石油と天然ガスを混焼してきた従来の方式から石油専焼に切り替えた。

 2011年3月の東日本大地震と大津波により被災、当時運転中だった2、4号機は停止、1、3、5機は運転停止中であった。

 大津波によって、タービン建屋など広範囲にわたって津波の被害を受け、破壊したために発電全機能が失われた。

 第一原発事故で広野町全域が4月22日、「緊急避難準備区域」に指定されたため東京電力では復旧作業に着手、現在は完全復旧している。

 1979年5月に行われた第三回国際エネルギー機関(IEA)閣僚理事会において石油火力発電所の新設禁止条項が盛り込まれた石炭利用拡大に関する「IEA宣言」の採択が行われたために、それ以降我が国でも原則として石油専焼の火力発電所の新設は出来なくなり、広野火力発電所の5、6機は石炭が使用されている。

 磐城天然ガス田は残念ながら枯渇してしまったが、海底にガス田の層があるかぎり、太平洋プレートの内側のどこかに第二の磐城天然ガス田が埋もれているはずであって、もう一度綿密な海底調査をして欲しい。

 21世紀は海底開発の世紀になることは確かで、20世紀は石油が欲しいばかりに、ABCDラインの経済封鎖に押し潰されそうになり、太平洋戦争に駆り立てられてしまった苦い経験があるが、今世紀は海底資源開発の端緒に就いたばかりで、どのように展開するかは皆目判らないが、少なくとも夢は見ることが出来る。

 今世紀後半は、我が国周辺海域の海底から有望なガス田や鉱物資源の開発が行われるようになるだろうし、海洋そのものがエネルギー源となって活用出来る日がやって来るだろう。

海洋開発

 世界で最も深い海底に到達できる次世代有人潜水調査船「しんかい12000」について、独立行政法人海洋研究開発機構(本部横須賀市)の構想案が発表された。

 操縦席の周りを球形の強化ガラス製にして視界を広げ最新技術を盛り込む。

 完成は2020年後半で、資源探査、深海生物の調査に当たる

 「しんかい12000」は世界最深のマリアナ海溝チャレンジャー海淵(水深1万911メートルを超える。水深1万2,000メートルの水圧に耐えられる構造にする。

 水深6,500メートルまで潜ることが出来る現行の「しんかい6500」は人が乗り込む部分がチタン合金製で、小さなのぞき窓しかなかったが、「12000」は直径約2m、厚さ約5〜10センチの強化ガラス製にし、視認性を大幅に向上させる。

 世界では仏・露が水深6,000m、中国が7,000mの潜水能力を持つ有人潜水調査船を保有している我が国は最先端の潜水船を目指す。

 2015年6月、下関市にある三菱重工造船所で行われた海洋調査船「かいめい」の進水式に「佳子様」が出席され、進水式の斧を振られ式典を盛り上げた。

 「かいめい」は独立法人海洋研究開発機構の海洋調査船で、全長100メートル、総トン数5,800トン、建造費約207億円、2016年3月、海洋研究開発機構に引き渡される。

 水深3,000メートルまでの海底掘削が可能、水深1万メートルを超える海底からも物質の採種可能で、「レアアース[希土類]」などの海底資源の調査にも応用出来る。また最新の機材として地震発生前後において地殻の変化を立体的に映像化できるシステムを搭載している。

 世界最高水準にある各種調査機材を搭載しており、完熟航海の後、本格的な調査が行われる。

 海洋開発が商業的にも可能な時代がまもなくやって来ることになり、資源小国がやがて資源大国になる可能性は充分に期待出来る。

 次世代は海洋開発の時代となり、資源大国になるのも夢ではない。ならばその準備機関として新人工島(第五編栴檀の“ふたば”の項で述べる)に一大研究開発機関と海洋調査船の集約した基地(母港)を建設すべきだ。

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第37章 海の国境線

 竹島、尖閣諸島、北方四島問題について総括してみる。

 竹島問題については、韓国大統領が朴槿恵新大統領に代わったが、その政策に変化はない。何故ならもし対日政策が少しでも妥協の姿勢を執ったなら即座に内閣は崩壊する。

 その位、対日感情は憎悪の塊となっており、対日強硬姿勢こそが国是なのだ。

 現実には北朝鮮が戦争状態に突入したと宣言し、臨戦体制にあるかどうかは定かではないが、少なくとも北の金正恩・第一書記は「休戦協定を白紙に戻す」、「核先制攻撃」「1号戦闘勤務態」「射撃待機状態」等、危険極まりない号令を発していることは確かで、更には日本に関しても横須賀や三沢はミサイル射程内だと挑発的な言動を繰り返しているが、三代目に代わった途端にこの言動であるからある種の危険性が感じられる。

 それは祖父、父親に比べカリスマ性は少なく、無理矢理に帝王に祭り上げられ足掻いているのか、求心力を高める体制固めなのか、軍部独裁への警戒なのか、国民の不満をそらすためなのか、北の動きには要注意であることは確かだ。

 韓国はこのような情勢の中でもその背後にある日本とも敵対関係にあってなお安全を保つことが出来ると信じているのかどうか、危険な賭だと思う。

 日韓の相互防衛協定はない、米韓と日米とあって連携確認程度で米国が相互に拘わり合っているだけで、善隣友好こそが自国の安全を保つ最善の方法だと思うが、不幸にして互いにその芽は全く育たない。

 ヨーロッパから見ると世界で最も危険な地域は中東と極東であって、極東はまさに第一次世界大戦勃発前の1914年の状態にあると見ている。

 極東とはずばり、日本、中国、朝鮮半島(北朝鮮、韓国)であって一蝕即発状態にあると論評している。(一番平和ボケしているのは日本国民で絶対あり得ないと考えて居る)

 それが尖閣諸島と竹島問題でEEZ、海底資源が絡んでくると絶対に譲れない大問題で国の威信をかけた外交問題だ。

 ◎竹島:竹島に関しては江戸時代からの大凡の歴史的な見解は述べてきた。今回は第二次大戦後のサンフランシスコ講和条約、それに伴う李承晩ラインを巡る凄まじい攻防を述べたい。

 韓国との交流は、常に敵対関係の連続で良好であったのは、江戸時代の朝鮮通信使がやって来た時くらいのモノで、この時でも朝鮮通信使が帰国後書いた紀行文では徹底的に我が国の民度の低さを嘲笑っている。

 韓国人が日本人を見る目は常に後進国日本、野蛮国日本であって、兄である李王朝韓国、弟である野蛮国・日本という位置付けで観ている。

 これは大陸文化を日本に伝えてやった、漢字を教えた、米作りを教えてやった。あらゆる文化を伝授してやったのは韓国なのだ。

 その兄たる韓国を弟の分際で恩義を忘れ侮辱を加えてきた。年功序列に厳しい儒教文化の韓国人にとって道義をわきまえない絶対に許しがたい暴挙なのだ。

 この傍若無人の弟たる日本を兄(韓国)として諫めるのが当然の行為である。

 私事ではあるが、紐育で働いていた時のこと、当時は朴大統領時代で、北朝鮮との厳しい対立、激しい反政府運動があり、スパイ容疑の摘発、反政府運動の取り締まりによる激し弾圧が有り、ソウル大卒や在学生がアメリカへ多数遁れてきたことがあった。

 私が在籍していた会社にもこれらの人々がパートで働いていたことがあり、同じ東洋系なので私に声をかけてきたが、日本人と判ると途端口を噤んで去ってしまったが、しばらくしてから会話を交わすようになってからの話では、絶対に日本人とは交際するな、彼等は常に人を騙そうとしており、狡猾さの塊のようなのが日本人なのだと徹底的に教え込まれ、倭奴との交際を固く禁じられていると話していた。凄まじい反日教育を受けてきたらしい。李承晩大統領時代は特に凄かったと言っていた。

 私に関しては、教えられてきた日本人とは大分違うので戸惑ったと後で笑いながら教えてくれたが、しかし、最後まで打ち解けることはなかった。

 現在の反日教育は少し緩んでいるかも知れないが、基本的にはそう変わりはないだろうし、現在の政権担当者達は反日教育を徹底的に叩き込まれた世代なのだから小・中学生の時の教えは一生記憶に残るし、竹島問題や北の威嚇等国民の苛立ちが募ればその捌け口は日本に向かって吐き出される。

 再び竹島問題を論ずる。竹島に関し江戸時代及びそれ以前のことは他章で述べてきたが近世以前の史実や歴史的根拠はこじつけや推測であって確かな証拠にはなり得ない。

 1905年、島根県編入前後から覧てみる。

 1849年(嘉永2年)フランスの捕鯨船リアンクール号(Liancourt)が竹島を発見、リアンクール列岩(Liancourt Rocks)と名付けてヨーロッパに報告した。

 アメリカ・アップル社が提供する地図では日本版では竹島、韓国版では独島、日韓以外の版ではLiancourt Rocksと表記してある。他国版の地図には英文のLiancourt Rocksとして表記されている。

 幕府は松島と称していたが、地元伯耆国の漁民達や隠岐の島の人達は「りゃんこの島」と呼ぶようになった。

 李朝朝鮮も、干山島、リヤングゴド、リャングゴ島と呼ぶようになったから、その頃から初めて意識されだしたことになる。

 1904年(明治37年)9月、島根県在住の中井養三郎は、内務、外務、農商務の三大臣に対し「りゃんこ島領土編入並びに貸下願」を提出した。

 「りゃんこ島」とは奇妙な名だが、当時未だ竹島という正式名はなく、1849年フランス人がこの無人の島礁を「リアンクール列岩」と命名してこの周辺でアシカ猟をしていた。アシカの毛皮はヨーロッパでは高価だったらしいが、あの時代地球を半周して日本近海まで遠征して事業をやろうとしたヨーロッパ人がいたのは、結果的には略奪かも知れないが、次々と植民地を獲得していった原動力はこのような人達の開拓者精神に充ちていたことによる。

 また竹島はアシカが多数生息していたらしい。この‘リアンクール島礁’を日本語風に「りゃんこ島」とした。

 中井養三郎氏もアシカ猟をしており乱獲によりアシカの滅亡を心配し、乱獲規制を仕様とし、それには領土権をハッキリさせ、政府が介入して規制を強化しようと考えて政府への領土宣言を申請した。

 これを受けた政府は島根県庁と協議し、周辺国家の領有権宣言はないか異議申立期間を設け、1905年1月28日、閣議決定(桂太郎内閣)をもって竹島を日本国領土とし「島根県に編入登記島根県所属隠岐島司ノ所管」と明記した。(竹島と正式命名)

 1905年2月22日、島根県知事は島根県告示第40で内容を告示

 島根県告示により竹島を島根県に編入(韓国政府からの異議申し立ては、または抗議声明はなかった)

 隠岐国四郡の官有地台帳への登記

 漁業取締規則によるアシカ漁業の許可

 仮設望標の設置

 島根県知事視察

 その後、竹島でのアシカ猟は許可制となり、第二次大戦が始まった1941年(昭和16年)に中止されるまで猟は続いた。(現在、ニホンアシカは絶滅)

韓国の主張:

 朝鮮王朝の文献「三国史記」(1145年)、「世宗実録」地理志(1454年)には干山島の記載があり、鬱陵島の西側に描かれた架空の島があるが、この島を新羅時代の六世紀から支配していたと主張し、この干山島こそ独島だから韓国古来の領土であったが、1904年から1905年は日露戦争の真っ最中で日本陸軍は朝鮮半島全土を我がモノ顔で満州への兵員輸送、軍需品輸送に使っていた。

 さらに1904年2月、日韓議定書、同年8月、第一日韓協約、1905年11月、第二日韓協約調印(乙巳保護条約)

 まさに銃剣で脅かされての調印で、これで朝鮮半島は日本の保護国となった。

 竹島を韓国古来の領土だなど主張したら殺される恐怖があって何も言えなかった。(韓国側は脅迫によっての契約行為は全て無効だと主張)

 1910年8月22日、日韓併合、朝鮮総督府設置(初代総督寺内正毅)

 韓国の悪夢が1945年まで続いたと主張。【日帝36年の恨(ハン)】

 1905年(明治38年)1月28日、日本政府は竹島を島根県隠岐島司の所管と閣議決定し以降、竹島の行政区画では島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地として、正式に日本国有地とした。

 当時朝鮮半島は李王朝時代であったが、この決定に抗議し、自国の領地であるとの抗議声明は全くないし、抗議文も受け取ったことはないとした。

 1945年8月15日、第二次世界大戦は終了、我が国は敗戦国になったため、植民地として支配していた外国領土は全て放棄、明治初期の四つの島と沖縄を含む周辺島礁にかぎられたが、それも全て連合軍の占領地になり、オキャパイド・ジャパンになった。

朝鮮半島

 1945年8月9日、ソ連は対日宣戦布告、蘇満国境を超え満州領に大部隊が雪崩込み、破竹の勢いで満州を占領し、鴨緑江を越えて朝鮮北部に侵攻、一方、豆満江を越えて清津方面からも海岸線沿いに南下、ソ連軍は朝鮮半島全土の占領を目論んだ。

 慌てた米軍はソ連側に申し入れ、北緯38°線を境界とする南北を分断し、北側をソ連軍が、南半分を米軍が占領することを提案し了承した。

 この妥協案によって、北は呂運亨を代表とする「朝鮮建国準備委員会」、南ば晩植を代表とした「五道中央行政委員会」が発足、朝鮮人による建国の動きになり、統一した国家建設を目指したが、南の米軍、北のソ連軍の利害や対立、朝鮮人同志も北と南が対立し、結局南と北は別々に選挙をした結果、1948年、北は金日成を首班とする「朝鮮民主主義人民共和国」、南は李承晩を大統領に選び、「大韓民国」という二つの分断国家が誕生し今日に至った。

 1948年8月13日、ソウル市旧朝鮮総督府で李承晩が大韓民国の成立を宣言した。李承晩は日本の朝鮮合併に抗議し、宗皇帝がアメリカの援助を求めて若き李承晩をアメリカに派遣したが、請願書をアメリカ政府が受け取り拒否、そのままアメリカに残り、アメリカの大学に入学し、博士号取得を取得した。

 後に韓国へ帰国したが、寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件の容疑者となり、再びアメリカへ戻り、ハワイに居住して朝鮮独立運動に携わった。

 その後上海亡命政権を成立し、戦後直後に祖国に戻り、英語が達者でアメリカ軍にとりいり、大統領に推薦されて大韓民国樹立宣言した。

 徹底した反日家である李承晩が大統領になったのであるから、その後の日韓紛争の種はこの時蒔かれたことになる。

◎李承晩(イ・スンマン)(1875年3月26日〜1965年7月19日)

 大韓民国臨時政府主席1947年3月3日〜1948年7月20日

 大韓民国第1代大統領〜第3代大統領、1948年7月20日〜1960年4月26日

 大統領就任後3日目に、反日攻勢開始、竹島領有権問題が日韓で激しく争われるようになったのはこの時からだ。

 (1)ポツダム宣言で日本は海外領土を放棄したが、それにつけ込んで日本古来の領地を含む幾つかの領地を返還せよと迫った。その最大は1948年8月18日、記者会見を開き「対馬は350年前に日本に略奪された韓国の領土だ」と主張、1949年1月7日、対馬領有宣言をした。

 (2)1950年朝鮮半島南部で日本侵攻作戦大演習を行った。当時の日本は占領されており、防衛能力は零状態だったが、さすがアメリカ軍もこの大統領との接し方には苦慮したようだ。

 (3)1950年6月25日〜1953年7月27日、朝鮮動乱、朝鮮半島全土が戦場となって荒廃、国連軍が押し戻して38度線付近で休戦協定となり、軍事境界線とし南北分断国家になってしまった。その軍事休戦協定も本年3月白紙撤回宣言が行われ臨戦態勢に入ったと北朝鮮は宣言した。

 (4)保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件等数々の失政を行ったが、反日教育を強化、全ての責任は日本にあり、日本が悪いからだとした。

 (5)日本との国交正常化の動きを悉く粉砕、また日本帝国統治時代官僚として働いていた人や日本の会社で働いていた人を親日派のレッテルを貼り、徹底的に弾圧、追放に励んだ。

 (6)「対馬は韓国の領土であるから返還せよ」「沖縄は韓国古来の領土である」「竹島は古来からの領土である」朝鮮動乱の際には「福岡に亡命政府を置くために九州を占領する」「日本文化は退廃的で公序良俗に反するから全て禁止」

 (7)1952年1月18日、マッカーサーラインに代わる、李承晩ラインを勝手に決め日本漁船を片っ端から拿捕、没収、漁船員を抑留した。

 (8)北韓送還阻止工作員潜入事件

a、1959年2月13日、石橋内閣は「在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題は基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」と閣議決定した。

b、韓国・李承晩大統領は北朝鮮傀儡政権を幇助する行為だと激しく非難、予定していた日韓会談乗中止を指示。

c、在日本大韓民国居留民団員が日本赤十字社に乱入、大騒動になった。

d、1959年12月14日、北朝鮮への帰国船第一陣が出港、乗船していた帰国者の中に、韓国政府による大弾圧事件であった済州島4.3事件や麗水・順天事件等の虐殺を遁れて日本に密入国していた韓国人が含まれていたことに李承晩大統領は激怒し、帰国を阻止するための工作員を密入国させ破壊活動を命じた。

e、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業を阻止するために秘密工作員66名を組織し、日本に密航、帰国事業を主導していた「日赤本社爆破命令」、帰国事業を担当していた「日本人職員の暗殺指令」、帰国船が出る新潟港へ通じる「鉄道線の爆破の指令」。

 これらの工作員は朝鮮動乱中、在日韓国人が韓国陸軍に義勇兵として志願し、戦争に参加していた在日韓国人が休戦後も日本に戻らず兵士として残っていたが、これらの兵士から選抜して工を養成して日本に密入国させた。更にこの工員は日本生まれであるから当然日本語が流暢に話せるために日本国内に溶け込み、指令された工作を開始した。これらの在日義勇兵の選抜41名、韓国軍予備役将校、韓国警察官からの選抜24名、総指揮官1名、計66名の工作員を任命。

 ソウル郊外の訓練所で「破壊班」「説得班」「要人拉致班」に分かれて猛特訓を受けた。

 1959年12月から日本潜入開始、少人数に分かれ貨物船に乗り込み、九州沖でゴムボートに乗り換えて密入国し、小倉や山口県の海岸に上陸し、テロ工作の司令部を富山県内に設置。

 1959年12月12日、巨斉島から九州に向かった明星号が時化に遭い九州沖で遭難し、工作員12名が溺死。

 この頃から日本側の警察、海上保安庁も当然ながら情報は入手しており、厳戒態勢で対処し水際作戦で逮捕してり、諦めて引き返したりしたが、それでも多くの工作員が密入国に成功し、各地に潜んで指令を待った。

 これらの工作員とは別に韓国陸軍特務機関員が日本に潜入しており、これら特務機関を韓国代表部(当時韓国とは国交がなく領事業務を行うのが代表部と称した)が匿い、本国との指令・連絡は代表部を通じて行っており、総指揮は韓国代表部金泳煥三等書記官(特務機関員)と韓国特務機関幹部が指揮を執っていた。

 工作は帰国船の出る新潟市周辺に多く、警視庁外事課の捜査員が新発田市内のバァーで密談中の工作員二人を逮捕、鞄の中から雷管を装填した4本組ダイナマイト3束計12本が発見、実行寸前であった。

 新潟駅では駅構内の預かり所にガソリン1L缶4本を隠したウィスキー瓶の箱を発見、押収した。新潟日赤ビルを放火、爆発する予定であった。

 工作員の司令塔は大統領府直属の景武台機関であったが、その潜入していた幹部が逮捕され自白によると「日赤本社ビル爆破」「帰国船爆破」「帰還者を乗せた特別列車爆破」を任務としていたことを明らかにした。

 工作員66名と政府機関からの特務工作員入れて総計71名になり、韓国国内では「北送阻止国家任務」の勇士と讃えられ英雄となった。

 終戦後の日韓関係はまさに臨戦状態の連続であった。

 朝鮮動乱の最中、戦闘区域内に船舶が入り込まないように境界線を敷き、その中に入ることを禁じた軍事境界線を敷き、それをマッカーサーラインと呼んでいた。

 ところが休戦協定が成立し、動乱は休止になる予定であったため、李承晩大統領はそのラインの存続を強く要望し、GHQに願い出たが拒否されたため、それではと李承晩大統領は勝手にラインを敷いて、これを平和ラインだと称した。

 (7)李承晩ライン

 朝鮮戦争終結後、マッカーサーラインは解除され、船舶航行の自由が保障された。ところが1952年(昭和27年)1月18日、突如、大韓民国大統領布告、李承晩の海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に日本海・シナ海に設定した軍事境界線、韓国での呼称は「平和ライン」として公布された。

 李承晩ラインは図に示すように竹島をラインの内側にするように膨らませて引いてある。目的は竹島を自国領だとするための手段としたのは明白だ。

 李承晩ラインは韓国が独自に海洋資源の保護を謳い、韓国周辺海域の公海部分にラインを引き、韓国漁船以外の漁船の操業を、武力をもって禁止し、もしラインの内側へ入れば臨検・拿捕・韓国国内に曳航、船舶は没収、漁船員は留置、刑務所に入れ、船舶不足に悩む韓国は、没収した船舶は直ちに機関銃を装備し、韓国国旗を掲げ、警備船に早変わり次の獲物を求めてライン周辺海域に張り付いた。

 もし逃走を図れば容赦なく銃撃、殺害された事件が起きた。(第一大邦丸事件)

 勿論国際法違反であることは明らかであるが、敗戦国、新生日本、軍事力は皆無、国力は無し、超弱気な政府、戦争に負けるということはこうして跳ね返ってくるんだと悔し涙にくれるだけだった。

 但し、日本政府はただ傍観していたわけではない、海の護りは海上保安庁が担当しており、国土交通省の外局・海上保安庁が独立行政機関としてある。

 発足は戦後まもなくの1948年(昭和23年)に占領軍の要請で組織された。これは戦時中アメリカ軍が日本周辺海域に多数の機雷をばらまき、処理されない(拿捕、曳航される日本漁船)まま放置されていたが故に多数の船舶が触雷で沈没した。そこで日本人の手によって掃海させることにし、沿岸警備隊として旧海軍の掃海経験者を集め、掃海作業を担当させたのが海上保安庁の前身で 李承晩ライン当時は海上保安庁として独立行政機関で巡視船・艇を保有していた。

 第八管区(舞鶴市)が担当し、常時、巡視船が出動していたが、韓国警備船の進路を妨害し、日本漁船の拿捕を食い止めようとするのがやっとで、武器携行は許されていなかった。

 したがって韓国警備船から機関銃で銃撃されることがしばしばあったらしい。また巡視船‘さど‘(350トン型)が銃撃され拿捕された事件があったが、日本政府の厳重な抗議で後刻開放された。しかし、この当時国交がなく、アメリカ政府経由での交渉に手間取ったらしい。

 1965年(昭和40年)日韓基本条約、日韓漁業協定の成立により、李ラインが解消されるまでの13年間に、韓国に拿捕された船舶数328隻(没収)、抑留漁船員数3929名、死傷者数44名、抑留された人達は罪人として6畳ほどの板の間に30人が押し込められ、僅かな食糧と桶一杯の水を与えられ一日を過ごしたという。

 日本政府が厳重な抗議を申し入れても韓国とは国交が無く、勿論大使館はない、また、反日に凝り固まった李承晩大統領は「日帝36年の恨み」の報復として日本人に対してはどのような苛酷なことをやっても許されるという自己暗示があり、聞く耳は持たなかった。また全韓国民は「日帝への恨み」を秘めていた。

 抑留した漁船員を犯罪者として取り扱い、更に共産主義者の烙印を押した。朝鮮戦争で痛手を受けた韓国としては共産主義者だとの烙印は、それだけで重罪になる犯罪者との烙印になる。

 やがて李承晩ライン解除の政府間交渉で、抑留漁船民の返還協定が出来たが、韓国側の要求は韓国国内で罪を犯した日本人囚人を解放する。従って日本国内で常習的犯罪、重大犯罪者、また韓国国内で政治犯として指名されてから日本に密航して逮捕され刑に服している韓国国籍の囚人を即時解放せよ、と要求、但し強制送還は拒絶、日本国内に自由に開放せよ、との協定であった。

 この李承晩ライン設定は国際法違反であることは明白だが、それを承知で韓国が強硬した背景はなにか。

 1945年8月15日、ポツダム宣言受諾、敗戦国になった日本、当然韓国は8月15日を光復日として戦勝国になるはずだったが、連合国側からは日本と共に闘った国と認定され、連合国側には認めなかった、よってサンフランシスコ平和条約調印式には招待されていない。

 従って日韓には日韓正常化協定が調印されるまで国交は無かった。

 第二次大戦後、占領政策として日本国内での飛行を禁止し、日本の飛行機は全て日本上空を飛行することが出来なかった。同時に船舶が海洋を航行することが制限され、マッカーサーラインと称するラインを日本周辺海域をぐるっと取り囲むように引き、そのライン内での航行だけを認めた。さらに漁船の操業もそのラインの内側だけでの操業を認め、漁船は2人か3人程度が乗り組む小型漁船に限られた。よって漁船を含む日本船舶が韓国周辺海域を航行することはなかった。

 1949年(昭和24年)1月7日、韓国政府は一方的に対馬領有宣言、連合国占領下で主権が制限されていたことを見透かして日本に対して返還を要求した。

 1951年(昭和26年)7月19日、韓国政府はサンフランシスコ講和条約草案を起草中の米国政府に要望書を提出、この要望書では日本の在朝鮮半島資産の韓国政府及び米軍政庁への移管、竹島(独島)、「波浪島」を韓国領土とすること、並びにマッカーサーラインの継続を要求した。

 これに対しアメリカ政府は1951年8月10日、「ラスク書簡」として回答した。在朝鮮半島の日本資産の移管を認についてのみ認め、後の部分は拒否した。

 「ラスク書簡」で回答した1ヶ月後の1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印、1952年昭和27年4月28日条約が発効されることになり、同時にマッカーサーラインは廃止されることになった。

 従って、竹島の領有権を主張する韓国政府の要求は拒絶され、サンフランシスコ講和条約発効をもって日本古来の領土であることが明らかになった。

 ここで不可思議な話をすると、竹島(独島)と同時に「波浪島」を韓国領土確認の要望書に記されていたが、このような名の島があることを知っていた人がおりますか?間違いなく韓国政府の公文書である要望書に記載されていたのです。

 「波浪島」またはバラン島(バランド)日本海にある小島で古来より韓国の領土である、と主張した。

 1951年、サンフランシスコ講和条約会議開催に際し、韓国駐米大使の梁裕燦大使が外交文書としてアメリカ政府に提出し要望書、米国草案(サンフランシスコ講和条約)に対する韓国側意見書で、竹島などとともに日本側が放棄する島の一つとして波浪島を明記し韓国への返還を求めるよう要望した。

 この書簡を受け取った、アメリカ国務長官・ディーン・アチソンは竹島と波浪島の位置や面積を尋ねたが、梁大使は波浪島に関しては「だいたい鬱陵島の近くで日本海にある小島」と回答したが、波浪島とは伝説にある島で、架空の島でしかない。それを韓国政府の公文書に記載して要求した顛末をどう処理するのか、意地になって日本海をくまなく調査したらしいが、人工衛星で1m以下の物体も確認できる現在、全く何も確認されていない。

 現在でも韓国政府は波浪島の存在を主張し、東シナ海の蘇岩礁(実際は暗礁:干潮でも岩頭が海面に出ない)を波浪島だと言ったり二転三転している。

 アメリカ政府は「ラスク書簡」にて竹島、「波浪島」の韓国領であることの確認要望を全面却下している。

 波浪島騒動(韓国政府は波浪島の存在をなんとしても証明したかった)

 1951年、歴史学者崔南善が韓国領土として確認しておくべき島嶼について政府に諮問したさい、波浪島は木浦・長崎・上海を結ぶ三角形の中心にあり、波に浮いたり沈んだりするバラン島を指す、との回答があった、と証言した。

 1951年7月19日、要望書提出すると共に、梁大使はジョン・フォスター・ダレス、サンフランシスコ講和条約草案の総責任者と会談し、それまでの対馬返還の要望を引っ込め、竹島(独島)、波浪島(バラン島)の返還を強く要望、条約に明記することを望んだ、が同じくその位置を尋ねられたが「鬱陵島近海にある小島」と回答した。

 1951年8月、日本海軍が残していった海軍水路部発効の海図を使って、韓国海軍、韓国山岳会合同で韓国近海をくまなく探したが発見できなかった。またアメリカ国務省の地理学者サミエル・W・ボックスが報告として、そのような島は確認できない、とした。

 サンフランシスコ平和条約調印

 1951年(昭和26年)7月20日、米英共同で日本を含む全50ヶ国へ招請状を発送したが、印度は参加したが途中で不参加を決めた。 ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの三国は中国人民共和国が招請されなかったことを不満とし調印を拒否。中国に関しては、中華民国、中華人民共和国のいずれを招請すべきかで揉め、結果はどちらにするか決まらず、後刻日本が決めることにした。

 「大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国ともに日本と戦争状態になったことはなく、連合国共同宣言にも署名してない」として、署名国になることを拒否され、参加できなかった。講和会議に関しオブザーバーとしての参加も拒否された。

 従って戦勝国としての地位は韓国国内だけのものだった、国際的には認められない。

 1945年、第二次世界大戦は終わり、韓国は独立国となったが、我が国とは国交がないまま20年を過ごし、その間様々な軋轢があって常に対立関係が続いたが、クーデターにより軍事政権が誕生、世論を気にしなくて済む軍人大統領になってから急速な接近が謀られ、水面下で密かな連絡があった。

 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)

 1965年(昭和40年)6月22日、日韓基本条約締結、これにより日韓は国交回復、この交渉は相当に長期間の交渉の末に妥協したもので、そのいきさつを辿ってみたい。

 最初は韓国が戦勝国としてサンフランシスコ平和条約調印に招待されるモノとしていたが、日本と韓国の間では戦争状態になったことは一度もなく、従って連合国側ではない、と判断され講和条約会議には招待されなかった、オブザーバーとしての参加も拒絶された。

 当時の李承晩大統領としては日本との直接交渉しか途はなかった。占領下にあった日本との交渉は連合軍最高司令部(SCAP)のシーボルト外交局長の立会いのもと東京で1951年(昭和26年)10月20日から予備会談が行われたが、交渉は難行、予備交渉は紛糾の連続で、特に1953年(昭和28年)1月5日から7日までの二回に渡る非公式に訪日した李承晩大統領と吉田茂首相とのトップ会談は非常に険悪なモノで全く進展はなく、物別れに終った。

 朴正煕陸軍少将(当時)がクーデターにより政権を奪取、軍人を退任しないまま大統領になったが、就任挨拶としてアメリカ公式訪問となったが、三軍の長であるアメリカ大統領と会談するには韓国陸軍少将ではバランスがとれないと、二階級特進の陸軍大将と昇格してから渡米した。

 アメリカ訪問の途中、羽田で飛行機を乗り換える際、東京に滞在し、池田総理を公式訪問し、池田・朴会談で日韓正常化への会談の契機になり、その後進展の運びとなった。

 日韓正常化に動き出すきっかけとなった池田・朴会談が実現したのには、事前に日韓の実力者達の根回しがあったからだ。

 1961年、軍事クーデターによって政権を掌握した朴正煕大統領は「対日請求権」の処理で政権安定を目論み、最も信用していた部下の金鍾泌(朴正煕大統領の姪の夫、KCIA初代部長)に命じ、密かに日本側と接触、日本側は大野伴睦、大平正芳等の自民党の重鎮、更にフィクサー児玉誉士夫も登場するが、根回しはできあがった。特に自民党の長老大野伴睦は韓国に対する思い入れが強く、韓国の利益の代弁するような言動があったし、日韓合併時代を知る名残があった。

 その後、竹島密約になるのだが、大野伴睦死去、その後を宇野宗佑、中川一郎がその意志を継いで動いた。

 密かに選ばれたのは自民党の実力者・次期総理と目された河野一郎だが、総理佐藤栄作とは犬猿の仲、その人が総理の密使になったのだから辻褄が合わない話だが、その真相は韓国側にあった。

 「日米関係を重視していた自民党内の官僚派は米国政府の要請もあり、日韓国交正常化には積極的であったが、党人派は消極的であった」

 こうした自民党内の切り崩し、党人派への急接近を謀るには、党人派の重鎮河野一郎が代表として密約を成立させ、日韓国交正常化の「裏の纏め役」には河野一郎しかいないと読んで、河野代表を望んだらしい。

 竹島密約

 竹島(独島)の領有権帰属問題は「解決せざるをもって・・・解決したとみなす。従って日韓基本条約では触れない」で知られる丁・河野密約により「紛争処理事項」として棚上げされた。

 密約だから当然ながら秘密になっており、誰も知らないことになっている。

 竹島密約とは、1960年代に日韓の権力上層部間で交わされ、以後約30年間遵守された竹島問題永久棚上げ協定、即ち竹島問題は韓国が主張する最初から韓国の領土だから領土問題は存在しないのだ、という主張は根底から崩れる。

 では何故このような密約が必要としたのか、それは韓国側の要望にある。それは「日韓基本条約」(1965年6月)を結ぶにあたり、竹島問題を討議していたのでは本命の基本条約締結に最大の障害になって締結に至らない怖れがあった。

 当時、韓国は経済的に困窮し、どうしても日本からの資金援助としての賠償交渉をしたかった。

 そのためには竹島問題を避けて通りたい、そこで外交裏舞台で事前に秘密協定を結ぶ必要があった。

 日本・佐藤栄作首相、韓国・朴正煕大統領の意を受けた、河野一郎国務大臣と丁一権国務総理が正式交渉会談の5ヶ月前になる1965年1月、密かに会合、しかもマスコミや政敵に漏れるのを警戒し韓国国内の某経済人の私宅で行われた。

 河野代表の主張は「自民党政権は一貫して竹島問題を国際紛争として位置付け、国際司法裁判所に付するという立場を守った」

 韓国側は「朴政権は独島の話は国交正常化の後の交渉を行う」との主張を行い、交渉は平行線であったが、最終的には「未解決の・・解決」という棚上げ論で密約は結ばれた。

 勿論、今まで公表されたことはない。多分外務省の文書保管庫の奥深く眠っていると推察するが、韓国には存在しない。何故なら朴政権の後を継いだ全斗煥政権は強権をふるい国民を弾圧したが、密約の存在がバレタ場合「歴史の逆賊という烙印を押される」ことを怖れて、金鍾珞という人物が「私が密約文書を燃やしてしまった」と証言した。どこからの命令なのかは口を割らなかった。

 現在でも両政府ともその存在を否定している。

 この密約の存在は朴大統領以後、全斗煥、廬泰愚の軍人大統領頃までは知っていたが、野党時代が長く政権側にはいなかった金泳三が大統領になってからはこの密約の存在を知らず、「独島(竹島)は大韓民国不可分の一部であり、日本政府の主張は如何なる考慮の対象にもならない」と自信をもって断言している。

 この密約の内容は

 (1)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれを反論することに異論はない。

 (2)しかし、将来、漁業区域を設定する場合、双方とも竹島(独島)を自国領として線引きし、重なった部分は共同海域とする。

 (3)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を行わない。

 (4)この合意は以後も引き継いでいく。

 (3)に関して竹島には韓国軍が駐留し、ヘリポートまで建設しているのだから密約違反であることは事実だが、密約そのものの存在を認めない韓国にとっては「自国領土内に何を作ろうと勝手でしょう」がその見解で、領土問題は存在しないのが前提、金泳三大統領時代に「歴史の清算」を宣言してからは強硬な態度に変身した。

 それまでは日本外務省と韓国外務部は「竹島は我が領土」「独島は我が領土」と主張する口上書を交換し、かつ互いにそれを無視する慣行があったが、金泳三大統領の「歴史の清算」以来、独島は我が国不可分の領土宣言で全てが途絶えた。

 首相親書を受け取り拒否、挙げ句は郵送で送り返すようになっては、相互に国としては全く信用していないことになり、日韓に密約が結ばれたことは、日本側に矢次一夫や児玉誉士夫のような韓国を知る人物が居り、韓国側にも日本側に繋ぐ有力者がいたことが大きいし、相互に理解し合う空気が存在していた。

 朴正煕陸軍少将は陸軍士官学校第8期を中心としたグループと軍事クーデターを起こし、陸士11期も参加、その中には全斗煥、廬泰愚の後に大統領となった朴正煕将官は軍を掌握し戒厳令を布き、張勉政権の閣僚を逮捕、軍事政権を樹立、そのトップに立ち、後に第三代大統領に就任した。

 朴正煕大統領になって日韓会談は進展したのは、韓国経済を何とか立て直すには日本からの資金導入がどうしても必要であった現実問題を解決しようとする大統領の冷静な判断があったからだ。

「経済協力金」

 財産請求権及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する資金供与

 ○3億ドル相当の生産物及び役務無償(1965年1ドル=360円)

 ○2億ドル円有償金(1965年)

 ○3億ドル以上民間借款(1965年)

 約11億ドル以上が韓国政府に供与された。

(韓国国内の反対運動)

 当時の韓国国家予算は3.5億ドル、韓国国家予算の約3倍の金額が供与されたことになる。ちなみに当時我が国の外貨準備高は約18億ドル程度であった。

 この経済協力金に関し日本側は個別の補償として軍人・軍属としての徴収、民間人の徴用とかの補償金、その他の補償請求を個別に金額を決めて支払うことを主張したが韓国側は総額で支払ってもらえれば韓国政府が責任を持って個々人に支払うことを主張した。

 そこで総額で支払うことにしたが、韓国政府は大半の資金をインフラ整備や工場、企業等に投資し見事に「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展の礎を築いた。

 しかし、収まらないのは国民感情で、個人的補償は僅か、歴史認識、請求権、李承晩ラインの破棄等、屈辱的な譲歩で日韓基本条約が結ばれたことに対する怒りは凄まじく、「売国奴」「豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の日帝侵略の償いにこんなはした金で妥協するのか」「屈辱的妥協」等々の怒りが軍事政権に対する怒りと相乗して渦巻き、同時にその矛先は日本に向けられた。

 現在問題になっている「慰安婦問題」に関しては、その頃は全く知られておらず、韓国側も補償に関する請求は全くしていなかった。

 従って全ての補償に関する請求権はこの日韓基本条約に含まれており、その後には請求権は発生しない、解決済みとした。

 ところが、廬武鉉政権になってから「慰安婦」「サハリン残留韓国人」「韓国人原爆被害者補償」は対象外だったから改めて補償交渉を開始せよ、と主張し始めた。

 また日韓基本条約は屈辱的であるからこれを破棄し、同時に日本統治下に被害を受けた個人への補償などを義務付ける内容の新しい条約を改めて締結するよう要求した決議文を国会に提出した。

(韓国国内の反対運動)

 金大中(キム・デジュン)拉致事件:1973年8月8日、大韓民国の政治家で後に大統領になった金大中氏が、東京千代田区のホテルグランドパレス2212号室から白昼、韓国大使館一等書記官金東雲とその部下により拉致された事件があった。

 クーデターで政権を奪取し、大統領になった朴正煕大統領だが再選するには国民の支持を得る必要があり、大統領選挙に臨んだが、その対立候補が国民的人気のあった民主党金大中氏で、現役の力であらゆる選挙妨害を駆使し、辛うじて僅差で勝利、二度目の大統領の椅子を保持した。

 しかし、民主主義回復を求める金大中史に危機感を覚え、大統領選挙直後に大型トラックが金大中氏の乗った乗用車に突っ込み、同乗の3人が即死、本人も腰と股関節に傷を負い、生涯杖で歩ける程度の重傷を負った。

 後に明らかになったが韓国KCIAの工作員が実行した交通事故を装った暗殺計画であった。

 翌年、朴大統領は非常事態宣言を発布し、憲法を無視して国家戒厳令下においた(十月維新)。この時金大中氏はアメリカに滞在していたが、帰国すれば国家反逆罪(スパイ容疑)で逮捕されれば死刑が間違いないと言われていた。

 このためアメリカと日本で同志達と連絡を取り合い、国外で祖国民主化運動に活躍していた。

 国内的にも民主化運動は盛んで、それを阻止・弾圧するのが戒厳令で、その中心はKCIA(韓国中央情報局)その部長には大統領側近で腹心の李厚洛(イ・フラク)を任命していた。この人は有能で北朝鮮の高官と平壌で会談したり、北朝鮮副首相をソウルに招待して会談したりと南・北の垣根を取り外し統一の機運を盛り上げて、韓国国民の心を掴み一気に次期大統領の噂が囁かれた。

 このような時に、首都警備団長尹必縺iユン・ビヨン)将軍と李厚洛KCIA部長との会談で洩らした失言「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべきだ」が漏れてしまい、激怒した大統領は両人並びに関係者を拘束し、徹底的に取り調べたが、側近から裏切り者が出たと世間に公表されては、かえって大統領の評価が下がってしまう、とアドバイスされ、極秘のうちに釈放され前の役職で返り咲いた。

 従って李厚洛にしてみれば名誉回復、大統領のご機嫌を伺うためにも大手柄をたてる必要があり、それが東京にいる金大中氏の暗殺、もしくは拉致・監禁であって、 KCIAが中心となって企謀、実行した国家的犯罪であった。

 アメリカに滞在していた金大中氏が訪日していた理由は日本の政治家とも連絡を取り合っており、この時は自民党の有力グループの招待により、講演会を開く予定にしていた。

 1973年8月8日午後1時20分頃、宿泊中のホテル2212号室の廊下に出たところを数人の男に襲われ、クロロホルムを嗅がされて意識朦朧となった金大中氏は地下の駐車場に用意してあった車に押し込められ、東名高速経由で神戸の隠れ家に連れ込まれ、神戸港発の韓国貨物船で韓国へ連れてこられた。

 計画では玄界灘で海に投棄する予定だったらしく脚に錘を付けてその準備をしていたらしい。

 しかし、日本側でも気付いており、厚生省の高官がアメリカ大使館に通報したとしているが明らかにはしていない。それから自衛隊が動きだし、ヘリコプターが拉致した韓国貨物船を特定、照明弾を発射、追跡していることを明らかにした。

 これにより海へ投棄するのを諦め、拉致から5日目にソウル市内の自宅付近にあるガソリンスタンドの前で目隠しされたままの金大中氏が無事保護された。

 事件後、警視庁はKCIAの犯行であると発表、その実行犯として金東雲・1等書記官(本名は金炳賛キム・ビョンチャン)とその部下を特定、ホテルから採取された指紋と尾行して採取した指紋と照合の結果、実行犯をあぶり出した。

 営利誘拐の容疑で出頭を求めたが外交官特権を盾にして出頭を拒否、逃走に使用した車は在横浜副領事の車であったことも突き止め、韓国領事館ぐるみの犯行であることが明るみに出た。

 困り果てた日本政府は「ベルソナ・ノン・グラーダ」を発動、間もなく特権を利用して帰国してしまったが、韓国領事館員全員も帰国してしまった。

 この特権発動は我が国政府の初めての発動であった。

 警視庁の発表によると少なくとも四つのグループがこの拉致事件を幇助し、ホテルのロビーは山口組系柳川組の組員が関与し、逃走を助けたらしい。

 当時は田中角栄内閣時代だが田中総理は事前に韓国から連絡を受け、殺人をしないこと条件にして拉致を視て見ぬ振りをしていたと言われているが真相は闇の中だ。その黒幕は児玉誉士夫がお膳立てをしたと言われている。

 この拉致事件の後遺症として金大中氏は完全に反日となり、大統領に選ばれてからは完全に反日政策に終始した。

 この事件の責任を執って首謀者の李厚洛KCIA部長は解任、日本国内では反朴大統領の運動の高まりがあり、その流れに乗って大阪在住の在日韓国人である文世光(ムン・セグァン)が総連系に唆されて「殺し屋」に仕立てられ、しかも交番(大阪府内)で仮眠中の警察官の枕元においてあった拳銃が盗まれ(実行犯は別人らしい)、この拳銃を持った文世光は8月15日の光復節の式典で演説中の朴正煕大統領を狙撃、即座に演台の陰に隠れ無事であっが、真後ろに座っていた大統領夫人陸英修さんに命中し即死した。

 このため長女朴槿恵さんは急遽留学中のフランスから帰国し、大統領のファーストレディーを務めた。

 この事件の責任を執って警護室長朴鐘圭パク・チョンキは解任、その後中央情報部長に就任にした金載圭が、警護室長に就任した車智K(チャ・ジチョル)との軋轢なのか深い事情は明らかにされていないが金載圭の単独犯で朴正煕大統領を暗殺してしまった。

 短期間で両親を凶弾で失った長女朴槿恵さんは2月25日新大統領に就任、見事親子で韓国大統領の椅子を射止めた。

 朴政権は金大中拉致事件を切っ掛けに次々に起きた事件で遂には大統領自身までもが命を失い、そのとき後始末を率先してやり遂げた全斗煥が力を付けた。

 日韓はこうしたドロドロした政治的な密着から、その後は完全対立時代になっていった。

 この暗殺事件があったため第十代大統領として崔圭夏氏が選挙を経ない臨時代行大統領となって、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードがあったが、しかし、軍内部では維新体制の転換を目指す軍上層部と、朴正煕元大統領に引立てられた中間幹部勢力が対立、1979年12月12日、保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕、軍の実権を掌握(粛軍クーデター)。

 この時全国各地で反軍部・民主化要求のデモが続発したが、全斗煥の新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告、野党の指導者金泳三、金大中や旧軍部を代表する金鐘泌を逮捕・軟禁した。

 金大中氏は全羅南道の出身で広州市では人気が高く、金大中逮捕軟禁の抗議デモがあり、5月18日、学生、市民のデモ隊に鎮圧の空挺部隊が発砲、怒った市民デモ隊は郷土予備軍の武器庫を奪取し、武装した市民・学生と鎮圧部隊との間で激しい撃ちあいになって、数に勝る市民軍は鎮圧部隊を撃退したが、編成し直した2万の鎮圧部隊が襲いかかり、市民側に多数の犠牲者がでて鎮圧された。

 粛軍クーデターにより軍内部の実権を握った全斗煥、廬泰愚二人の将軍は光州事件を経て野党側の指導者を一掃、崔圭夏大統領は僅か8ヵ月で辞任させられ、全斗煥が11代大統領に就任した。

 この大統領は積極的に日本に近づいてきたが、目的が経済援助で60億ドルにのぼる経済援助で求めてきたが、我が国としてとても呑めない巨額の援助要求で、交渉は難航していたが、対日政策は歴代大統領に比べやや柔軟で1984年には戦後の韓国大統領としては初めて訪日し、天皇陛下との晩餐会に臨むなど、日本とは前向きな姿勢を強調していた。

 だが国内的には独裁強化の体制固めが強く、反政府運動の取り締まりや言論弾圧など強化し、過度なスパイ容疑の取り締まり、密告制度の奨励など世相を暗くしていったことは事実だ。

 国外でも北朝鮮の挑発行為事件が続発、1983年にミャンマー・アウンサン廟へ赴いた際、北朝鮮の工作員が仕掛けたラングーン爆弾テロ事件、大韓航空機爆破事件、北朝鮮の工作員金賢姫の逮捕、これには日本の領事館の連携プレーが役に立った。

 何故なら北の工作員は偽造した日本政府のパスポートを所持し、男は蜂谷真一(金勝一)、女は蜂谷真由美(金賢姫)と名のっていた二人組が中東を行ったり来たりの怪しげな行動をしていたのが中東を管轄していた日本の領事館員のアンテナに「怪しげな日本人旅行者の行動」が引っかかり、 中東にある各日本領事館の係官に連絡し合い、監視を続け、現地の入国管理官とも協力を得てパスポートを点検、番号を本省に紹介したが偽造パスポート、偽日本人、実は北朝鮮籍らしいことを突き止め、大韓航空機爆破事件で大変な騒ぎをしていた韓国領事館に連絡し、日韓の外交官が立ち会い、現地の入国管理官・警察官を動員して逮捕に踏み切った。

 男は逮捕時の揉み合いの瞬間歯に細工してあった毒入カプセルを呑み込み覚悟の自殺をしてしまったが、女は素早く口を押さえて自殺を食い止めた。

 その後韓国国内に連行され、北朝鮮が派遣した破壊工作員であることが判明、裁判の結果、死刑判決が出た、が、大統領の特赦令により減刑、保護観察処分となって、韓国国内で監視されたままひっそりと暮らしていた。

 日本との関わり合いは、菅内閣の時、金賢姫を政府専用機で迎えに行き、鳩山由紀夫氏の軽井沢別荘で厳重な警戒の中、拉致被害者の家族との面談で、拉致に関し少しでも情報を得ようとした。その内容は公表されることはなかったが、3日間滞在した後韓国へ戻った。

 この全斗煥大統領の数々の失政、特に光州事件での大量虐殺、金大中氏の軍事裁判での死刑判決(後無期、特赦)などが続き、国民の支持を失って次の大統領選には出馬しなかった。

 大統領退任後光州市事件の責任を問われ、裁判の結果死刑判決であった。(後無期、特赦)

 次の大統領は共に粛軍クーデターをやった廬泰愚氏で士官学校同期の仲であった。

 廬泰愚氏は粛軍クーデターが成功した時は保安司令官・陸軍中将の要職にあったが、1980年、予備役編入陸軍大将で退官、政務第二長官として全斗煥大統領の下で要職に就いた。

 スポーツ振興に力を注ぎ、ソウルオリンピック組織委員会委員長としてソウルオリンピックを成功に導いた。

 1987年、高まりつつある民主化要求に対し、次期大統領候補として「オリンピック終了後、しかるべき手段で信を問う用意がある」と声明(6.28民主化宣言)、直後16年ぶりに行われた選挙で大統領に選ばれた。

 1988年2月25日、第13代大統領に就任、全斗煥大統領時代の不正容疑を徹底追求、一方、金泳三、金鐘泌等の人達を取り込み、国政の安定化を謀った。

 外交面では共産圏諸国との関係改善を積極的に行い、結果としてソビエト連邦、中華人民共和国との国交を樹立、北朝鮮の国連加盟にも協力した。

 1990年国賓として訪日

 国会で演説をしたが、その時の演説の一部に「我々は国家を護ることが出来なかった自らを反省するのみであり、過去を振り返って誰かを咎めたり恨んだりはしない」大統領歓迎宮中晩餐会で天皇陛下が述べたお言葉に「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じ得ません」と述べられたが、後年の李明博前大統領が「痛惜の念など持ってくるな」と暴言を吐いたのは、この歓迎宮中晩餐会での陛下のお言葉を採り上げたものです。

 この盧泰愚大統領までの三代に渡る軍人大統領時代は、対日政策は前向きであったが文官大統領時代になると極端に後ろ向きに変貌した。

 1993年、大統領退任

 1995年、政治資金隠匿容疑、光州事件デモ追及され、懲役17年の実刑判決

 (後、特赦)

 朴正煕大統領から廬泰愚大統領まで三代続いた32年間の軍事政権が消滅し、文民政権と呼ばれた金泳三(キム・ヨンサム)大統領(1993年〜1998)年から現在にいたるまで文民大統領が同じ32年間続いてきた、が対日政策に変化がないどころか、軍亊政権時代よりも悪化してきことが感じられる。その原因は何か、答えは簡単で反日の政策を執らなければ政権維持、若しくは選挙で支持を得ることは出来ないという国民感情がある

 選挙で選ばれた文民大統領としては侮日的言動を連発することこそが支持を得る最良の方策で、「イルポン、ポルジャンモリの悪い癖をたたき直してやる」イルポン:日本、ポルジャンモリは日本語で「バカタレ」だがもっと最悪の侮蔑語、一国のトップが他国を侮辱する言葉としては適切ではないことは確かだが、韓国民は大喜びであった。

 このような反日強硬政策であるから、竹島問題ではより一層強硬な姿勢を示すようになった。

 任期終期の1997年、東アジアや東南アジア各国を襲った経済危機(通貨危機)で、韓国国内でも起亜自動車が倒産を皮切りに経済状態が悪化、日本の支援を仰ぐ案があったが、日頃の言動からか大統領はこれを拒否、国際通貨基金(IMF)の援助を要請したが、誇り高き韓国民としては最大の恥辱と受け取られ急速に指示を失ってしまって退任した。

 引退後は早稲田大学から名誉博士学位が贈られ、更に早大の客員教授に就任し

 流暢な日本語で講義しているから根っからの反日だったのか、政治的パフォーマンスだったのかは不明。

 金大中(キム・デジュン)第15代大統領(1998年〜2003年)

 民主化運動の闘士として活躍していたが、交通事故を装った暗殺団に襲われ、重傷を負い、身体障害者になった。

 北朝鮮のスパイと喧伝され、国民の大半はスパイと信じてしまうこともあった。

 東京からの拉致事件では玄界灘に投棄されるところだったり、後の軍事裁判では死刑判決があったり、大統領に就任すると北朝鮮に対する太陽政策を執ったり北朝鮮を訪問したことが評価されノーベル平和賞を受賞したりと誠に多彩な政治家であったが、北朝鮮がこれに応ぜず成功だったとは言えない。

 ノーベル賞受賞に関しては、受賞のための事前工作を猛烈にやったことや、北朝鮮に不法に5億ドルを送金したことなどの内幕、安全企画部による盗聴など、メデアに次々と暴露した国家情報局員であった元側近はアメリカへ亡命した。

 対日政策では親日的であったことは全くなく、特に拉致問題で田中角栄総理と朴正煕大統領との間で政治決着として秘密裏に妥協してしまったことに対し、猛烈な批判をし、朴政権を親日売国奴政権と罵倒した。

 また犯罪行為を立案、実行したKCIAを解体、廃止、国家情報院を大統領直轄機関として新設した。

 小泉総理の靖国参拝に対しては痛烈な抗議の声を荒げ、教科書問題でも噛みついているが真の反日なのか、政治的反日なのか、答えがないまま死去した。

 廬武鉉(ノ・ムヒョン)第十六代大統領)(2003年〜2008年)

 家が貧しく商業高校卒で働きながら司法試験に挑戦し合格、判事を経て弁護士を開業、その後、政界に入った苦労人、

 終戦後の1946年生まれなので、日韓合併時代を経験していない初の大統領であったが、李承晩大統領時代の猛烈な反日教育を受けてきた初の大統領でもあって、より一層厳しい反日政策を執った。

 政権発足当時は「未来志向」を謳い、日韓融和の糸口があるかも知れないと思わせたが、2005年3月、三・一節での演説で日本植民地時代の明確な謝罪と反省、賠償を要求、対日強硬政策への転換を明確にした。

 そうなると反日政策はより一層強硬なモノになったが、同時に反米主義者でもあったからどちらを向いていた政治家なのか、単なる国粋主義者なのか評価は定まらない。

 これには背景があり、女子中学生が在韓米軍兵士の無謀運転により交通事故で死亡した事件があったが軍事裁判で無罪となったため韓国世論が憤激、一挙に反米感情が吹き出したことがあり、これは米韓行政協定による裁判であったが、労働組合や民主活動家が扇動し、キャンドルデモを全国的に展開、これに便乗したかたちで大統領の反米的言動が多くなり、対日政策では、日韓シャトル外交を提案しながら靖国神社参拝を巡り小泉首相と対立、結局シャトル外交をも拒否してしまった。

 反米で有りながら、韓国・アメリカ共通の敵は日本であることを提案。

 韓国の優越性だけを誇示したかったのか。

 退任後、故郷金海市近郊に新居を構え住んでいた。側近・親族が汚職嫌疑で次々と逮捕され、廬氏自身も逮捕が近いと思われていたが、自宅の裏山のミミズク岩から転落死を遂げた。覚悟の自殺か、事故かで騒がれたが、自殺と断定された。

 李明博(イ・ミョンバク)第17代大統領(2008年〜2013年)

 大阪府中河内郡可美村(現、大阪市平野区)生まれ、終戦後帰国、貧しい環境にありながら苦学力行、大統領にまで上り詰めた努力の人。

 反日的な言動で日韓併合時代を徹底的に批判し、かつ三大懸案(歴史認識・竹島問題・靖国神社参拝)を積極的に解決することを一方的に強要した。

 また、ドイツを例にとりナチスドイツのユダヤ人虐殺やその他の残虐行為に対しドイツの大統領は被害国に対して心から謝罪と賠償を行った。

 だから日本も同じように心からの謝罪と損害賠償に応じろ。

 北朝鮮に対しては核放棄をさせるためには、国民の平均所得を上げる(3,000ドル目標)。その資金100億ドル(当時のレート1.1兆円)を北朝鮮への賠償として日本政府が出す案を選挙公約としていた。クーデターにより政権を奪取した軍人大統領は比較的楽に日本と接触してきたが、直接選挙で選ばれる一般民である大統領候補としては世論を汲み取り、より強烈な反日政策を掲げる必要があり、大統領になってからも支持率が低下したときのカンフル剤は極端な反日を声高に唱え、且つ行動することである。

 2012年8月10日、韓国歴代大統領として初の竹島上陸を強行き、数々のパフォーマンスを演じて国内ばかりか、日本を始めとする外国メデァに配信した。

 2012年8月14日、天皇謝罪要求、侮蔑的な態度で終始、日本の世論を激怒させたが韓国国内では大統領支持率が高騰した。

 朴槿恵(パク・クネ)第18代大統領(2013年2月25日〜)

 第5代〜第9代・大統領朴正煕の長女、母親陸英修は文世光事件で暗殺(1974年)、その後父親も部下の金載圭によって暗殺(1979年)された悲劇の人。

 その後、政界に出て韓国史上初の女性大統領になった。

 絶対的反日政策、父親が大統領時代、親日売国奴大統領と罵られ、かつ反抗勢力を力で押さえ込む弾圧政策を執ったため多数の犠牲者や逮捕者を生み、その世代が、新大統領と同じ世代か、やや上の世代で朴正煕元大統領に対する恨みは根強い。したがって娘である新大統領をどう思っているかは判らないが、もし一寸でも融和的な発言があれば親日売国奴の罵声が浴びせられることは必定。

 独島は我が領土(歌詞と踊り)

(1)鬱陵島の東側 航路に沿って200海里

孤独な島ひとつ 鳥たちの領土

誰がどれだけ自分の領土とだと言い張ろうとも

独島は 我が領土 我が領土

(2)慶尚北道鬱陵郡ナムミョン島洞1番地

東経132度北緯37度

平均気温12 降水量1300

独島は 我が領土 我が領土

(3)イカ イイダコ タラ メンタイ カメ イクラ

水鳥の卵 海女の待合室

17万平方メートル 井戸が1つに噴火口

独島は 我が領土 我が領土

(4)チジュン王13年 島国干山国

世宗実録地理 50ページ 3行目

ハワイはアメリカ領 対馬は知らない

独島は 我が領土 我が領土

(5)日露戦争直後 主のない島だと

無理に言い張られ 本当に困ってしまう

新羅の将軍イサフは

地下で笑っているだろう

独島は 我が領土 我が領土

 現在、日韓間は完全に冷え込んでおり、日韓両国主脳は就任以来一度も公式な会談が開かれてない異常事態にある。

 突き刺さる棘は竹島問題と慰安婦強制連行の有無、謝罪の問題で容易に和解できる問題ではない。韓国側も和解するつもりは全くない。

 戦後70年、日韓国交正常化50年を迎えた今年こそが節目なのだが、韓国マスコミは年頭より反日報道に荒れ狂っている。

 2015年、まさに「日韓歴史戦争」の新たな幕開けとなった。

 最大の争点は「慰安婦強制連行問題」であるが、日韓国交正常化した日韓基本条約調印時には日韓懸案事項としては全くなかった。これは日本側、韓国側共にこのような問題が存在すること事態を知らなかった。

 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)

 1965年(昭和40年)6月22日、日韓基本条約締結、この時の韓国大統領が、現、朴大統領朴槿恵(パク・クネ)第18代大統領(2013年2月25日〜)の父親である。

 ちなみに朴正煕氏は、日韓併合時代、日本名高木正雄、日本帝国陸軍軍人で陸士卒、陸軍少尉に任官していた(終戦時ポツダム中尉)、終戦、独立国となり新たに韓国軍が組織され、朝鮮動乱に参戦、終結時には韓国軍大佐、その後、1959年陸軍少将に昇格、第2軍副司令官に就任、この時点で韓国国内は貧困と政治的腐敗が続き、このため朴少将とその同志の改革派がクーデターを決行、政権を樹立した。

 1961年、陸軍軍人であった朴正煕少将は軍事クーデターによって政権を掌握し、自らを陸軍大将に昇格、かつ選挙することなく大統領に就任、政権を樹立した。朴正煕大統領は「対日請求権」の処理で政権安定を目論み、最も信用していた部下の金鍾泌(朴正煕大統領の姪の夫、KCIA初代部長)に命じ、密かに日本側と接触、日本側は大野伴睦、大平正芳等の自民党の重鎮、更にフィクサー児玉誉士夫も登場するが、根回しはできあがった。特に自民党の長老大野伴睦は韓国に対する思い入れが強く、韓国の利益の代弁するような言動があったし、日韓合併時代を知る名残があった。

 経済的にも困窮していた韓国としては戦時賠償として日本側から取り立てることに魅力を感じていたのだろう。

 この時の巨額の戦時賠償金が「漢江の奇跡」と言われる経済復興に役立った。

 但し、この時の賠償金は民間人の損害をも補償するための金額を含まれていたのだが、日本側はその細目を条文にすることを要求したが、韓国側はこれを拒否、韓国政府は責任を持って民間人の損害は補償する、とした口約束があったが、全額を経済復興に投資し、民間人の補償は全くしなかった。

 従って民間人が日本政府に損害賠償、補償を求めるのは当然だが、日本政府は日韓条約締結により全ての賠償金は払い済みとしている。

 そうすると朴正煕元大統領に対する反感となり、その娘である現大統領への反感となる。そこで必要以上の反日を表明しなければならなくなり、就任以来、反日、嫌日の連発となった。

 では、これまで日韓関係は険悪の状態で推移してきたのだろうか、良好とは言えないまでも重要な隣国として政治的にも経済的にも相互関係があった。

 それが急速に悪化したのが、前大統領李明博の竹島(独島)上陸、天皇陛下は韓国に対し跪いて謝罪しろ等の言動により、日韓関係は急速に冷え込んだ。

 李明博大統領のあとをついだ現大統領は最初から全てが反日に凝り固まった言動となった。

 最近、前大統領・李明博回顧録『大統領の時間2008〜2013』という本が刊行された。

 それによると2010年、菅直人首相によって出された「日韓併合100年」の「談話」の経緯が記載されている。

 回顧録は、過去の謝罪と反省が今回は韓国に特定されたことに加え、李王朝文書の返還など、李前大統領が求めてきた謝罪と反省の具体的こうどうが込められているとして、「村山談話を越えて韓日関係を進展させる歴史的措置だった」と自身の成果をべた褒めしている。では懸案事項はそれで解決したとするのが国際間のルールだが、日韓関係に国際的常識は通用しない。

 戦後50年の村山談話、慰安婦問題の河野談話(1993年)もそうだが、韓国が守れ、守れと日本に対してしきりに要求して騒ぎ立て、それに対し日本側が謝罪すると、韓国側では大統領の要求で日本側が満足いく謝罪を表明した。大統領の政治力は素晴らしい。だが大統領が替わるとまた同じ蒸し返しで謝罪要求を突き付けてくる。

 1998年「日韓共同宣言」と銘打って文書で完璧に「謝罪と反省」を明記し、これを取り付けた金大中大統領はこれで「過去は清算された」と言明したが、大統領が替われすべてが反古にされ、また最初からのぶり返しとなる。

 日韓関係とはエンドレスゲームのような虚しい関係にある。

 韓国政府とはもはや「謝罪と反省」は何の意味も効果もない「謝るほど悪化する日韓関係」であって、終止符を打つ時期も機会も到来する訳がない。

 では突き刺さる棘とは何だ。第九章原発吉田所長の末尾で一寸触れたが、慰安婦強制連行問題をもう一度お復習いをしてみたい。日韓国交正常化交渉が妥結調印したのが1961年、その時点ではこの問題はなかった。ところが、吉田清治1913年(大正2年)5月15日〜2000年(平成12年)7月30日福岡県出身の自称文筆家。当時は全くの無名だった。

 1980年代に、太平洋戦争中、軍令で朝鮮人女性を強制連行(慰安婦狩り)した事実を目撃した、と証言し、またこの証言を自筆の本に纏めて出版した。

 出版当時は数ある出版される本の中に埋没し、注目されることはなかった。

 とこがこれに飛びついた朝日新聞はあたかも新真実が発掘さたれたかのように大々的に報道、長らくこの報道を事実として流布し、日本政府攻撃の材料としてきた。

 朝日新聞は、この吉田著書の信憑性の裏付けは全く執ってはいない、この本は全てが真実として記事を書いている。無名の筆者の与太記事を鵜呑みにしてしまった。

 その結果として韓国政府は日本政府攻撃の最高の攻撃弾として活用、韓国歴代政権は諸外国に日本政府の態度を詰り、歴史認識を質すという外交問題として訴える攻撃を繰り返してきた。日韓両国民の対韓、対日の感情は最悪の状態となり、国際問題にもなりかねない最悪の外交関係にある。

 その原因は朝日新聞の報道にあるのは明らかだが、週刊誌がこの「慰安婦強制連行」この報道が誤りであることを指摘し、筆者吉田某のインチキ性を暴いても朝日新聞は訂正や釈明は全くなく、かえって名誉毀損で告訴し、裁判沙汰になった。

 しかし朝日新聞社内でも突き上げがあったらしい。

 原発事故が発生し、この際吉田第一原発所長の命令に違反して多数の所員が第二原発へ避難した。というニュースを報じたがこれが誤報であったことが明らかとなり、朝日新聞の記事が勇み足であったことを認め、朝日新聞は1面全面で謝罪文と訂正文を載せた。

 同時に慰安婦問題の吉田調書も記載し、朝日新聞社長の謝罪文と写真を報道した。

 たまたま同じ吉田姓だったからなのか不明だったが、新聞社社長が謝罪会見に臨むなら同時進行で謝罪してしまった方が良いと判断したのだろうか。

 では何故このような謎が多すぎる吉田清治なる人物の証言を朝日新聞が鵜呑みにしてしまったのか。

 吉田清治なる人物は、如何なる人物か。出自や経歴は全て嘘で塗り固められていた。本籍地山口県としていたが、実は福岡県らしい。吉田は本姓らしいが、清治は自称、「吉田雄兎」の名が、卒業したと称する門司商業学校の卒業名簿にあるが、大分前に死亡とされていた。

 自著には法政大学卒とあったが、法政大の調べでは在籍した痕跡は全くない、全く出鱈目な経歴詐称であったことが判明。

 1937年(昭和12年)、満州に渡り、一旗揚げようとしていたことは事実らしい。当時は新天地満州へ多くの人達が進出していった。

 満州や朝鮮半島で動き回り、阿片密輸、軍事物資横領罪で軍法会議にかけられ、有罪となったと自称していたが、軍人、軍属でない民間人が軍法会議にかけられるはずはなく、上記の写真では元軍人となっているが、これも自称であって軍人であった事実はない。(軍籍がない)

 軍法会議で有罪判決であれば服役は衛戍監獄であるから、他の何らかの罪で刑務所に入っていたことは事実らしく、戦後諫早刑務所を出所したらしい。

 ともかくこの人の前歴は全てが虚構の世界にある。

 出所後は朝鮮動乱の好景気であったが故に、下関市で肥料会社を興し、一時期には羽振りも良かったらしい。

 しかし長続きせず十数年後に倒産、その後は生活が苦しくなり、文筆業で身を立てようと週刊誌への投稿から始まった。

 1963年、週刊朝日で公募された手記「私の8月15日」で金5,000円を得た。

 1977年、新人物往来社刊「朝鮮人慰安婦と日本人」を出版、この本では慰安婦の強制連行の記述はなく、朝鮮人地区の女性が慰安婦を中継ぎする話になっている。

 慰安婦狩りの話に発展するのは1982年以降で、吉田証言は、戦時中韓国・済州島でアフリカの奴隷狩りのように若い女性を軍命令で捕縛、拉致・強制連行した、と自著や新聞発表、講演などで暴露し尽くした。

 しかし、当然このような事実はなく、疑問に感じた人は大勢いたが、大朝日新聞が報じているが故に、沈黙してしまった。地元済州島新聞も調査したが、娘さんが拉致されたという家族は全く居らず、全くの事実無根だと報じた。しかし、吉田は韓国国内でもアメリカ本土でも講演を繰り返し慰安婦強制連行は事実だと訴え、韓国国内では勇気ある歴史の証言者として歓迎された。

 1983年以降、朝日新聞は吉田証言を16回にわたり事実として記事にしてきたが、2014年8月5日、やっと吉田証言が全くの虚偽であり、吉田本人の創作に過ぎないことを認め、全ての記事を取り消した。

 共同通信も7回にわたり吉田証言を記事にしていたが、1992年頃から識者の間では信憑性に疑問を感じられており、この時から記事を差し止めた。

 北海道新聞は社告でお詫びの訂正記事を載せた。

 最終的に朝日新聞が全面的に非を認め、朝日新聞社長が訂正、お詫びの社告を出した。

 従って日本国内では慰安婦強制連行は捏ち上げだったとの事で収まったが、

 1992年、韓国政府による「日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書」が公開された。

 韓国国内では吉田証言を史実として認め、韓国の憲法裁判所は「日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関する具体的解決の努力をしないことは憲法違反」と判決した。

 韓国政府は国連にも訴え、アメリカ政府にも訴え、事実だと認定された。

 現政権・朴大統領はことある毎に慰安婦強制連行を題材とし、日本政府に噛みつき、関係ない諸外国でも必ず政治問題として、日本政府を詰り、歴史認識を迫ってきた。

 この慰安婦強制連行の史実は吉田清治の悪意の捏造であったことが明らかになったが、しかしこれらは日本国内で問題であり、韓国政府が認めたわけではない。

 むしろ日本政府の悪意ある作為であると断定し、さらに日本政府攻撃の矛先は鋭さを増してきた。

 誤報であったと弁明しても、韓国政府や国連が認めたわけではない。否むしろ日本政府が卑怯にも誤報だと捏ち挙げたもので、安倍内閣の謀略だとしている。

 今後ますます日韓関係は難しくなり、極東の政治不安は増すことになる。一個人の悪意ある証言が国際紛争を巻き起こし、政治不安に繋がった。

 だが、吉田証言が実に不確かな事象に基づいた証言であったかは検証すれば直ぐ判ったはずなのに、疑問に思いながらも検証を怠ったのには、何かの力が働いたのか。謎ばかりの吉田証言であった。

 一方、国内では一部教科書で「従軍慰安婦」、「強制連行」を削除することを決めたが、韓国政府は反発し「歴史の真実は修正することも削除することもできない」などと批判し、「日本政府がこのような愚を繰り返す場合、韓日関係改善に深刻な障害をもたらすだろう」と警告した。

 一方国内では、慰安婦問題の記事をかいた元朝日新聞記者が、慰安婦問題が吉田清治の個人的な捏造であったことが判明してから、「元朝鮮人従軍慰安婦、戦後半世紀重い口を開く」「帰らぬ青春、恨みの半生」などの見出しで掲載されたが、これが捏造であり事実誤認も甚だしいと週刊誌が書きたてたが、これに対して元記者は名誉を傷付けられたとして週刊文春の発行元・文芸春秋社を訴えた。

反日という国是

 韓国が反日である理由は、慰安婦問題、歴史認識等数々挙げているが、戦争終結後70年余になっても一向に収まる気配は全くないのは何故か、植民地支配、先の大戦で迷惑かけた国々は数多くあるけれども他の国とは戦時賠償金の支払い、その他で和解は成立し、互いに良好な関係にある。

 ところが韓国とは悉く衝突の連続で、絶対に和解が成立することがない。今後も良好な関係になることは絶望的である。それには、それなりの根拠があるからだ。

 従ってどんな謝罪も歴史認識も全く通用しない、国是があるからで、互いの歩み寄りは全くない、外交努力も一際受け付けない理由が存在する。

 韓国憲法 1948年7月12日、制定

 「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は巳未三一運動で大韓民国を建立し、世界に宣布した偉大なる独立精神を継承し、今や民主独立国家を再建するにあたり、正義、人道と同胞愛によい民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習を打破し、民主主義制度を樹立し、政治、経済、社会、文化の全ての領域において各人の機会を均等にして能力を最高度に発揮させて、各人の機会を均等にして能力を最高度に発揮させて、各人の責任と義務を果たすようにし、内には国民生活の均等な向上を期して、外では恒久的な国際平和の維持に努力して私たちと私たちの子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを決意し、私たちの政党、または自由に選挙された代表として構成され代表として構成された国会で壇紀4281年7月21日に憲法を制定する」

 それによると2010年、菅直人首相によって出された「日韓併合100年」の「談話」の経緯が記載されている。

 しかし、韓国の大統領が替わり、我が国の首相も数多く代わったが、その都度日韓首脳会談が行われ、謝罪も繰り返し行われてきたが、その時1時的な小康を保ったが、大統領が替われば、また改めて謝罪を要求され続けてきた。

 それには韓国側には反日、侮日を続けなければならない理由があるからだ。

 この憲法の前文に記載されてある「巳未三一運動で大韓民国を建立した」とある記述こそが、これが韓国の独立宣言であって、この時をもって大韓民国が建立したのであって「正しい歴史認識を認知せよ」と迫ることにある。

 巳未三一運動とは、己未とは干支の1つで、1919年(大正8年)がその年になる。1919年3月1日、日本統治時代の朝鮮で起こった運動、暴動。独立万歳運動や万歳事件とも言われているが、韓国では3月1日を三一節として祝日としている。

 第一次世界大戦末期の1918年1月、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンにより「十四ヵ条の平和原則」が発表された。これを受け、民族自決の意識が高まった李光洙ら日留朝鮮人学生達が東京府東京市神田(当時)YMCA会館に集まり、「独立宣言」を採択した。是を「二、八宣言」と言う。これが伏線となって、この宣言に刺激され呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者達33名が、3月3日に予定されている大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)葬儀に合わせた行動計画を定めていた。

(独立宣言の朗読、レリーフ)

 3月1日午後、京城(現ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者が集まり「独立宣言」を読み上げることを計画したが、実際は仁寺洞の泰和館に変更され、ここで宣言を朗読し万歳三唱をした。

 この時参列したのは33人でこれらの人々を民族代表33人」と呼ばれている。

 独立宣言書は崔南善によって起草され、1919年2月27日までに天道教直営印刷所で2万枚印刷され、各地で配布された。

独立宣言

 「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明し、これを以て子孫萬代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする」

 この文は冒頭の一節であり、これを契機として、京城を中心として各地でデモ行進、独立万歳を叫ぶ民衆の示威運動が起こり、鎮圧する側との争いが各地で起こり、警察署、学校、郵便局等の公共施設が襲われ、焼き討ちされた。

 朝鮮総督府当局による鎮圧も武力を持って行われ、警察官ばかりではなく憲兵、陸軍兵をもって鎮圧にあったった。

(上海臨時政府設立委員)

 この結果多くの逮捕者が出たし、司直の手を免れた活動家の多くは外国へ遁れた。(中国とアメリカが多かった)

(李承晩初代大統領)

 この時代の背景として、日韓併合、1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づき大日本帝国が大韓帝国を併合、植民地化した。その後日本による統治は1945年9月9日の朝鮮総督府の降伏まで35年間続いたことになる。

 これが、韓国側が唱える「失われた35年」「日帝35年」とし呪われた35年となった。

 この独立万歳事件で地下に潜った多くの運動家達は中国に遁れ、上海に大韓民国臨時政府を樹立したと宣言した。その中心人物は後に初代大統領になる李承晩氏、呂運亨氏、金九氏等で結成し、日支事変勃発により重慶に移り、蒋介石国民政府主席の庇護を受けていたが、臨時政府の存在は、枢軸国、連合国双方から如何なる地位としても認められて居らず、国際的承認は皆無であった。[国際的な承認がなければ臨時政府とは認められない]

 臨時政府は成立直後から政府としての承認を求め続けていたが、国民党政府は構成員能力と資質の不足を理由に承認しなかった。但し、金九氏の韓国独立運動に占める名声を考慮して資金援助だけは続けた。

 1941年、太平洋戦争が勃発すると、臨時政府は中華民国及び連合国に対して承認を求める動きを活発にしたが、1942年、国民政府が他の国より早く承認すると言う原則を定めたが、アメリカの承認拒否によって中華民国による承認も行われたかったことにより、世界中で承認した国は皆無となった。

 そのためサンフランシスコ平和条約締結に関して大韓民国政府の招待はなく、後日、日韓両国だけでの平和条約締結となった。

 ところがこの事実をなんとか隠蔽したい、臨時政府が存在していたと宣伝したいために、臨時政府の対日宣戦布告71周年記念式典を開催した。

 「韓国が自主独立の意志を世界に発信した大韓民国臨時政府の対日宣戦布告から12月10日で71周年を迎えるため、ソウル市内で記念式典が開催された。

 式典には独立運動関係者ら約300人が出席し、宣戦布告文の朗読や3、1女性同志会の独立軍歌合唱、万歳三唱などが行われた。

 李承晩初代大統領時代李承晩ラインを日本海に勝手に設定し、韓国の領海と宣言し、日本漁船を拿捕するという暴挙をなし、竹島を領有宣言をし、これまで日本の領土だとしていたのは、日本が武力で領有宣言をしていたのであって、古来、韓国の領土であることは歴史的な事実であるとした。

 韓国が主張する歴史認識とか歴史を直視せよとは、「巳未三一運動」によって、この日独立宣言を朗読したのだから、1919年のこの日に大韓民国臨時政府は成立したのだ。

 臨時政府は上海に遁れ、更に重慶に遁れ、国民政府の庇護の元、抗日戦線で活躍したと主張、ところがその実績は皆無、臨時政府を承認した政府は世界中で1カ国もないという事実。その証しはサンフランシスコ平和条約締結に戦勝国として出席したいと猛然と運動したが、韓国は日本と一緒になって連合国と闘ったのではないかと指摘され、出席を拒否された。従って臨時政府の樹立を認めさせたい。

 その後は李承晩ラインの制定を正当化し、竹島(独島)領有は歴史的事実だと主張し、歴史的歪曲化を正当化しなければならないことになる。「恨(ハン)の国」と言われるように過酷な運命に翻弄され続けてきた歴史を学ぶ必要がある。

 壇紀4281年7月21日、大韓民国憲法を制定する、としてある。

 壇紀とは、韓国の紀元を表すもので、その始祖は13世紀末に書かれた「三国遺事」に初めて登場する、伝説上の古朝鮮王、三国遺事によると天神桓因の子桓雄と熊との間に生まれたと伝えられる。壇君とは「壇国の君主」の意味で大韓民国の始祖となる。

 従って壇君が開祖になり、紀元はそこから始まり壇紀4千年以上の歴史を誇ることになる。但し神話であって歴史的事実ではない。

 ちなみにソウルオリンピックのマスコットが熊でしたが、この壇君神話に基づくものでした。

 我が国の紀元は神武天皇即位をもって紀元元年とし、今年は紀元2675年(西暦2015年)です。年配の方は覚えている事と思いますが、紀元2600年、昭和15年紀元節を国中で盛大に祝賀しました。

 紀元節の歌

 “雲に聳ゆる高千穂の高根颪に草や木も

 靡き伏しけん大御代を仰ぐ今日こそ楽しけれ

 海原為せる埴安の池の面より尚広き

 恵みの波に浴みし世を仰ぐ今日こそ楽しけれ”

 終戦時までは年号は全て紀元を用いていた。その例は2600年に正式採用された海軍艦上戦闘機は零式戦闘機(ゼロ戦)、2601年に採用された陸軍戦闘機は一式戦(隼)、海軍軽爆撃機は一式陸攻と命名された。

 昭和、平成の年号で呼ばれていたのが、2000年を契機として全て西暦になってしまったが、その理由はコンピューターのソフトを統一するためで、1999年から2000年に変わるとき、1月1日、正月休みなしでコンピューターがどんな反応をしめすか固唾を呑んで待ち構えていたが、緊張の瞬間だった。

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第38章 ロシア革命 北方四島問題(1)

 我が国は竹島、尖閣諸島、北方四島問題を抱えている。

 歴史的に見れば北方四島問題は第二次大戦終結以後にソ連軍が不法占拠したことから始まり、古来の日本領土であったから返還要求は当然であるが、終戦後、鳩山一郎内閣時代からの息の長い返還交渉であるが進展は全くない。

 では何故、日本古来の領土だと主張できるのか、またソ連が如何に不法侵略を企でてきたのか。

 その関わり合いを歴史の流れの中で覧れば、帝政ロシア、ソビエト連邦、ロシア共和国と隣接する国として江戸時代から関わり合いを持ち、関係良好な時代もあったが、その大半は全面衝突の日露戦争、シベリア出兵、蘇満国境を巡る小競り合い、張鼓峰事件、ノモハン事変、第二次世界大戦と数限りない武力衝突を繰り返してきた日蘇、日ロ関係史でもある。

 帝国陸軍の護りもソ連赤軍に対してであり、陸軍大学校の主要研究課題はソ連軍対抗作戦研究にあり、無敵関東軍といわれるような巨大な戦力を満州の地に配備、軍備拡張に努めてきた。

 蘇満国境線は、フランスの「マジノ線」のような巨大な要塞地帯を構築していた。また昭和15年には関東軍特別大演習が行われ、陸軍の主力が満州に集結し、ソ連シベリア極東軍を牽制した。この頃が陸軍の絶頂期であったといえる。

 それがナチスドイツの快進撃に惑わされ急遽南下政策に転じ、結局は無敵関東軍を南方作戦に転用して、満州の護りが空になったところをソ連極東軍に衝かれ僅かな期間で壊滅してしまった。

 同じくこのとき北方四島を含む千島列島にも襲いかかり、この方面は8月15日のポツダム宣言受諾を世界に向かって宣言したがソ連軍はこれを無視して完全占領まで戦闘を続け、9月まで戦闘を続けて四島を完全制圧して初めて戦闘を終えた。

 スターリンの野望は北海道完全制圧であったが、アメリカ軍の北海道進駐により諦め、北方四島占拠をもって対日戦争勝利の日を9月3日として侵略を終結した。江戸時代の中期以降、帝政ロシア、社会主義ソビエト連邦、新生ロシアと政治体制が代わっても、地理的位置が変わるわけではない。100年以上微妙な関係は続いている。今後も資源問題、北極海航路開設等北方の隣人が如何なる無理難題を持ち出してくるのか。その前に日ソの日露歴史は弁えておくべきだ。

 ロシア帝国の東方進出は1552年から始まる。この年モスクワ大公国の雷帝イヴァン4世はヴォルガ河中流の要衝地カザンを攻略してカザン・ハーン国を滅ぼし、その4年後の1556年にヴォルガ河下流のアストラ・ハーン国を滅ぼしてヴォルガ河全流域にその影響を及ぼし、東方進出の足がかりを得た。

 しかし、この地には多数のムスリムが居住しており、宗教上の対立から統治は困難を極めた。

 しかし、18世紀末になるとエカチェリーナ2世の治下になると帝国の政策がイスラム教容認へ転換すると、タタール商人との交易が活発化し東方貿易が軌道に乗った。

 女帝エカチェリーナは、北ドイツ(現在はポーランド領内)ボンメルで神聖ローマ帝国領邦君主の娘として生まれ、ルター派の洗礼を受けゾフィーと名付けられた。

 幼児より頭脳が優れ、フランス語が堪能で知性と教養を身につけた。

 それほどの美貌ではなかったが、知性と教養は群を抜いて優秀であったため、本来この家柄ではとても大国のお后候補に推されることはなかったが、后妃候補に推薦され、ゾフィーは14歳でロシア皇太子妃候補として、当時王宮があったサンクトペテルブルクに招待され、晩餐会やダンスパーティー等を経て、后妃候補は絞られ、ついにゾフィーが選ばれた。

 この背景には皇帝の身内にも問題山積でいろいろな葛藤があった。更に問題は夫たるピヨートル3世に知的障害があり、さらに性的不能者であったことだ。

 それでも出産しているのは女帝エリザベータが王位継承者を絶やさないために、側近の遺伝的にも優秀で眉目秀麗な青年が選ばれたことによる。

 やがてエリザベータが死去すると、ピヨートル3世が皇位を継承し、ゾフィーは后妃になってエカチェリーナ妃になった。

 ところが皇帝であるピヨートル3世は奇行が多く国民の信用を失い、実権は皇后に移り、失意のうちに死去、事実上の実権はエカチェリーナ大公妃に集中した。

 このエカチェリーナ2世と我が国との関係について述べれば、伊勢白子(現鈴鹿市)の回船問屋大黒屋の持ち船、神昌丸が幕府献上の米を積んで船頭大黒屋光太夫と乗組員15名、立会人1名で1782年12月、白子の浦から江戸へ向かう途中、駿河沖で暴風に巻き込まれ漂流し、アリューシャン列島のアムチアット島に漂着、現地のロシア人に救助された。

 その頃既にアリューシャン列島には先住民のアレウト人と共に毛皮収穫のためのハンターや商人のロシア人が在留し、その勢力はアラスカまで進出していた。

 遭難者は計17名であったが、1人は船中で死亡、11名は島やシベリアに滞在中死亡した。

 その後シベリアの首府イルクーツクに滞在し、ここで博物学者のキリル・ラックスマンと知り合い、日本に興味を持ったキリルは日本への渡航の許しを得るため光太夫を伴って、遠路はるばるサンクトペテルブルクに赴き女帝エカチェリーナに拝謁し、日本への渡航と漂流民の日本送還を願い出た。

 全く未知であった隣国日本への興味を持った女帝は渡航のための資金を負担し、キリルの次男アダム・ラックスマンを長とする遺日使節を、大黒屋光太夫を道案内人として日本へ派遣した。

 これがロシア帝国と江戸幕府の最初の接触となったが、当時我が国は鎖国状態であったが、漂流民を届けることが目的としたため寄港(根室)が許され、エカチェリーナ大公妃の親書が江戸幕府に届けられた。遭難時から生き残ったのが5名となったが、光太夫と磯吉・小市の三人だけが遭難から10年振りの帰国となったが、残りの2名はシベリア滞在中ロシア正教の洗礼を受けたため異教を許さない徳川幕府を怖れて現地に残った。

 11代将軍徳川家斉はロシアに興味を持ち3人を江戸に住ませ、学者達に聞き取りさせ書物として広く海外の情勢を知らしめた。

 井上靖「おろしや国酔夢譚」、吉村昭「大黒屋光太夫」その他がある。

映画「おろしや国酔夢譚」1992年、監督佐藤純彌、主演緒形拳。

 1700年代後半頃、西洋暦学や天体観測、測量学が入ってきて、それを学んだ伊能忠敬は1800年に奥州・蝦夷地の測量を行い、その後全国の測量を行って「大日本沿岸輿地全図」を幕府へ献上した。

 同時代の間宮林蔵と伊能忠敬との間には接点があり、茨城県伊奈町には間宮林蔵記念館があるが、そこのパンフレットには1800年伊能忠敬と間宮林蔵は師弟の誓いをしたとある。また司馬遼太郎「菜の花の沖」では函館で伊能忠敬が間宮林蔵に測量学の手解きをしている様子が描かれている。

 間宮林蔵は蝦夷地に渡り、1806年択捉島に渡り大日本国の標識を設置した。

 1808年、幕府から樺太探検を命じられ、1809年、樺太が半島ではなく島であることを発見、間宮海峡と命名し、更にシベリア大陸にわたり、足跡を残し、幕府へ報告した。

 同じ時代、1807から1809年に会津藩が江戸幕府から樺太出兵を命ぜられたことはご存じだろうか?

 これはエカチェリーナ大公妃が江戸幕府に親書を送ったことは事実だが、開国したわけではない。ところが鎖国中にもかかわらずロシア通商使節と称して、ニコライ・レザノフが実力で通商しようとエカチェリーナ2世の跡を継いだバーヴル1世の許可もなく海軍力を使って海賊のように北海道の各地を襲った。

 この事実に危機感を持った江戸幕府は1807年、秋田藩、弘前藩、仙台藩などに蝦夷地防衛を命じた。

 会津藩は家老田中玄宰が会津藩の実力を誇示しようと樺太出兵を願い出て、内藤信周を隊長とする総数1558名の藩士が宗谷(稚内市)に本陣を置き、台場や見張り台を設置し、支隊は利尻島、樺太本島に派遣された。

 しかし、ビタミン不足の水腫病や船の遭難などで54名の死者があった。

 後年、松平勇雄福島知事が「タンポポや会津藩士の墓はここ」宗谷岬にある会津藩士の墓に詣で句を捧げた。

 不凍港を求めるロシア帝国と何とか食い止めた江戸幕府との間で悶着が起きるのは当然で、樺太、千島の帰属問題を含めて江戸幕府は危機感を持っていたが、それ以上の危機が訪れていたのは、アメリカ・ペリー艦隊が開国を迫って、下田、浦賀へとやってきて江戸幕府を威圧してきた。

 またイギリス艦隊は、1842年アヘン戦争を仕掛け、清朝と南京条約を締結し、香港を割譲させ、次の狙い目は当然日本ということになる。

 江戸幕府はペリー提督の脅しに不平等条約・日米修好通商条約を締結した。

 その1ヶ月後、ロシア艦隊が長崎に現れた。この頃の国内は尊皇攘夷の気運が芽生え、江戸幕府頼りにならずの気運が漲り倒幕に動き出し始めた。

 ロシア艦隊はプチャーチン海軍提督(中将)が率いる4隻の軍艦からなる艦隊で、ロマノフ1世の極東地区征覇の野望実現を狙い、1852年、派遣艦隊がペテルブルグを出航、喜望峰周りでインド洋、東南アジア、小笠原・父島から長崎へ向かい、その当時江戸幕府の外交の窓口であった長崎奉行に出向き皇帝の国書を提出し、通商条約を結ぶことを申し入れた。

 江戸幕府の返答は下田に回航し、そこで幕府代表が会談に応じると提案した。

 下田・長楽寺で幕府全権、筒井政憲、川路聖謨。ロシア代表、プチャーチンで会談、日本国魯西亜国通好条約が締結された(日魯和親条約)。(この時代露は魯)

 主な内容

 (1)千島列島における日本、ロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする。

 (2)樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする。

 (3)ロシア船の補給のため箱舘(函館)、下田、長崎を開港する。

 (4)ロシア領事を日本に駐在させる。

 (5)裁判権は双務に規定する。

 (6)片務的最恵国待遇(3年後、1858年)日魯修好通商条約に改める。

 (1)千島列島中、択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島は日本古来の領土と明記

 日米和親条約、日魯通好条約等の‘安政五ヶ国との条約締結’をしたが、孝明天皇の刺許を得ないで勝手に調印したのは怪しからんと、下級武士が憤激、さらに幕閣では将軍継嗣問題、鎖国令の綻び、問題山積で時の大老、井伊直弼(彦根藩主)苦慮を重ね、不満の動きを弾圧(安政の大獄)で臨んだため、更に憎しみを一身に集め、桜田門外の変1860年(安政7年)3月24日で水戸浪士によって暗殺された。

 これ以後、1867年、大政奉還、王政復古まで国内は混乱を極めた。

 この時代の流れの中で会津藩の運命を辿ってみる。その後、江戸幕府沿岸防衛を命ぜられ、さらには京都守護職を命ぜられ、薩長と対立、これが戊申戦争、白虎隊、鶴ヶ城落城、「八重の桜」にみる悲劇となったが、落城後降伏、生き残った会津藩士とその家族は蝦夷地へ追放され辛苦の運命にあった。

 1896年(明治31年)、第二師団にて聯隊編成、軍旗拝受、福島県の青年はこの聯隊に入隊を義務付けられていた。

 1904年 日露戦争に動員され、第二師団、聯隊は九連城、摩天嶺、僚陽、沙河会戦と激戦地を戦い続け、最後は奉天会戦で高台嶺の戦闘で勝利を収め、凱旋した。1925年、聯隊本部を会津若松に転営、徴兵検査後甲種合格者の福島県人は会津若松聯隊に入隊することになった。

 1931年 関東軍満州駐軍、奉天駐屯となり、満州事変動員

 1937年 日中戦争勃発、徐州作戦に参加

 1939年 ノモハン事件出動

 1941年 太平洋戦争勃発

 1942年1月 会津若松聯隊に動員令が下り、ジャワ島攻略上陸作戦に参加

9月27日 ラバウル集結後、ガダルカナル島上陸作戦に参加

第二次大戦中最大の激戦地となり若松聯隊はヘンダーソン飛行場突入を命じられ、激戦の末飛行場基地内に突入、一部を確保したが補給が続かず、撤退したが大半は戦死してしまった。

軍旗は奉持して連隊長とともに敵陣に突入した。

軍旗覆いと紐は軍旗護衛兵の上等兵が掌握、保原町に現存するらしい。

この激戦で聯隊は大半が戦死、または病死、餓死。聯隊で救出されたのは僅か253名となって撤退した。

 1944年 若松聯隊は再編され、ビルマへ転出、龍陵作戦に参加

古山高麗雄著の「龍陵会戦」があるが、これはインパール作戦に一環として中国雲南省とビルマ(現ミャンマー)の国境・山岳地帯の拉孟・騰越地区で行われた激戦地で、中国国府直轄軍、アメリカ雲南遠征軍、イギリス正規軍、インド軍の混成部隊との戦いで拉孟、騰越、龍陵で激戦が戦われ、龍陵作戦に会津聯隊が参戦、拉孟、騰越は熊本聯隊・久留米聯隊が参戦し大陸でありながらも玉砕してしまった。

 福島県人は受難・苦難の日々であったが、現在もまた受難の日々である。

 江戸末期、アメリカ・ペルー提督が指揮する太平洋艦隊が久里浜沖に表れ、「蒸気船(上喜撰)たった四杯(隻)で夜も眠れず」(上喜撰とはお茶の銘柄)有名な落首であるが、文字通り幕閣は大混乱だった。

 更にイギリス、フランス、オランダの艦船が上海に集結しており、日本近海に表れたのだから、まさに夜も眠れずの混乱に陥った。

 四国連合の艦隊が日本近海に表れる前の1861年、ロシア帝国海軍軍艦ボサドニック号が対馬島に来航し、無断で尾崎浦内に投錨、付近を測量、上陸もした。

 対馬藩藩主宗義和が退去を求めたが、船が故障しており航行不能を口実に居座り、海岸に兵舎、修理工場、練兵場まで構築してしまった。更に上陸し、食料の略奪、島の娘達を手籠めにする等やりたい放題の乱暴狼藉となった。

 対馬藩を管轄するのは長崎奉行であったが武力は貧弱で、僅か1隻のロシア軍艦との抗戦も出来ないのだから鎖国政策の難しさを悟りはじめた。

 甲冑に身を固め槍や刀で武装しても軍艦には手も足も出ない、困り果てた末、イギリス公使、オールコックに相談して、イギリス海軍艦隊が対馬に急行、ロシアの軍艦を追い払ったが、イギリスもまた対馬島を占領することを本国政府に進言しているのだから油断も隙もない弱肉強食の時代だ。

 実はロシアの強硬な対馬島上陸は、イギリスが先に対馬島を占拠してしまうとロシア艦艇は対馬海峡を通過できなくなることを怖れて先手を打ったのだが、何もしらない江戸幕府はイギリスに助けを求めたのだからイギリスの思うつぼだったことになる。

 幕末、国内は尊皇攘夷で荒れ狂い、四国連合艦隊が下関砲台を砲撃、生麦事件から薩英戦争、薩長連合軍が北上、この薩長を支援するのがイギリス公使と軍人、兵器弾薬の補給を担当、これに対する幕府軍はフランス政府が全面的に支援、これは英仏百年戦争の延長線上にあると考えれば、そのものずばりで会津にもフランス軍の士官が参戦していたし、函館戦争にも榎本武揚と共に戦ったフランス士官がいた。徳川幕府直参の旗本達の大半は遁走してしまったのに比べて実にアッパレというべき軍人魂であった。

 この幕末の狂乱はまさにヨーロッパの騒乱がそのまま極東で再現されているだけで、江戸幕府270年太平の世に慣れきっていた日本人にとっては誠に理解できない不思議な世界であり、激動と試練の時代であった。

 幕府は崩壊し、薩長中心の明治政府となるが紆余曲折はあったもののアジアで唯一近代国家に脱皮出来た。

 天皇を中心とした中央集権的国家体制を基本とし、版籍奉還、廃藩置県、武士階級を士族、農工商は平民、日本国民全てが苗字を認めた四民平等政策、広く西洋文明の導入、和魂洋才、近代国家建設を目指して国民は一丸となった。

 明治新政府は国民皆兵の令を敷き、国防にも力を注いだ。

 明治政府成立直後から、朝鮮半島に経済進出を試み、国交交渉を始めようとしたが、当時韓国は鎖国状態にあり、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っており開国を頑なに拒み続け、日本に対しては開国した洋賊だと罵っており、開国、国交回復を拒んだ。

 明治新政府は西郷隆盛らを中心とした使節団を派遣してはどうかと検討したが、岩倉具視や大久保利通等が反対し取りやめになった。

 この頃から政府内部に不満が鬱積し、やがて士族の乱が各地に続発したが、西郷隆盛の乱を最後に沈静化した。

 資金難の中で最大の力を注いだのが近代海軍創設で、幕末、外国軍艦に如何に痛めつけられたか、近代国家建設には海軍の存在が絶対に欠かせないと悟ったのが明治の先駆者達の偉大さだ。

 建艦能力のない我が国としてはイギリスに建艦を依頼し、多くの海軍軍人や造艦技術者が渡英させ、技術の習得に励んだ。

 江華島事件:1875年、東シナ海、江華島で事件が起き、これを切っ掛けとして圧力をかけ1876年、日朝修好条約を結び、朝鮮国を独立・開国させた。

 当時朝鮮は清の冊封国であったが、この条約で独立国となった。

 ところが、独立後の朝鮮国内は急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と漸進的改革を進めようとする親清派の守旧派(事大党)に分かれ激しい争いとなった。それと同時に独立党を支援する日本と事大党を支援する清国との対立でもあった。

 1882年、壬午事変が起こり、日本軍、清国軍が同時に朝鮮国首府漢城に駐留、清国軍の方が数が多く、これを背景に守旧派が勢力を拡大、これを阻止しようと開化派がクーデターを起こしたが失敗し、日本軍は撤退した。

 1894年、甲午農民戦争(東学党の乱)が起き、朝鮮王宮はこれを鎮圧するために清国軍の派兵を要求、このとき天津条約により日本軍も出動した。

 乱は鎮圧されたが、清国軍、日本軍とも漢城内に留まり、王宮の撤退要求にも関わらず駐屯した。

 両軍とも王宮内の勢力争いに荷担し、日・清両軍が対立を深めたが、この際に清の勢力を駆逐し、朝鮮半島を日本の勢力下に置きたい、その本音は南下政策を執る帝政ロシアの勢力を何とか朝鮮半島より北で食い止めたい、それが帝国の安全だと信じていたので、戦争に踏み切った。

 1894年(明治27年)9月17日、日本海軍連合艦隊と清国北洋艦隊とが黄海海戦(中国呼称:鴨緑江海戦)。

 北洋艦隊の主力艦は定遠、鎮遠の二隻の戦艦、各7千トン、ドイツ造船所で建造、当時はアジア唯一の戦艦で装甲されていた堅艦といわれていた。

 その他多数の巡洋艦10隻、水雷艇を擁しアジア一の海軍力であった。

 日本海軍は創成期で戦艦はゼロ、旗艦松島、巡洋艦8隻、コルベット艦2隻、砲艦その他

 戦果は北洋艦隊巡洋艦5隻沈没、大破、鎮遠は座礁、日本軍が鹵獲、海軍軍籍に入る、定遠は自沈した。

 日本側の損害は沈没艦なし、大破4隻。

 清朝末期には内乱が続いたので軍事力維持のため陸軍の近代化に力を注いだが、海軍は何時しか無視されるようになり、また清朝は満州族が支配していたため漢族の反発もあり、清朝打倒の反清復明思想が芽生え、太平天国の乱、辛亥革命(1911年)が起き、清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家が成立するのだが、その過程は内乱に次ぐ内乱で、艦隊の維持は不可能になり海軍力は消滅し、その後、北洋艦隊消滅から150年近く中国海軍は存在せず、中国共産党軍が中国人民解放軍海軍部を創立(1949年4月23日)

 初期は沿岸の小艦艇のみで、海軍の名はあっても大半が陸上兵であった。

 2000年代でも主要艦艇は旧式艦艇のみであったが、中国国内の経済発展によって海軍予算も増え続け、最近10年の間に急速な増強があった。

 航空母艦就航‘遼寧’1隻だが、建造中の空母がまもなく就航する。

 原子力潜水艦、原子力弾道ミサイル潜水艦、弾道ミサイル潜水艦、潜水艦、水上戦闘艦駆逐艦、フリゲート多数、中国版イージス艦、揚陸艦を有する大艦隊で、特に揚陸艦は隻数、揚陸能力はアメリカ海軍に次いで世界第二位の戦力があり、台湾を呑み込むか、沖縄を呑み込むのかその意図するモノは何なのか。

 尖閣諸島へのチョッカイは、太平洋に進出するための小手調べなのか。軍事予算は11兆円以上、推定では15兆円以上海軍力増強は留まることを知らない。アメリカ海軍に次いで世界第二位の海軍勢力になるのは時間の問題か。

 中国の軍事予算

 2015年度予算は前年度10%増

日本 米国 中国
兵力 15.1万 53.9万 160万
戦車 688台 2,785台 6,540台
空母 0隻 10隻 1隻
弾道ミサイル原潜 0隻 14隻 4隻
空軍 4.7万 33.4万 39.8万
作戦機 420機 3,498機 2,582機

 中国軍事予算8,868億9,800万元(日本円17兆円)

 我が国の防衛予算の優に3倍以上、さらに軍独自の収入があるから無限大に近い、更に予算の中身はきちんと説明はしない

 日本の防衛予算4兆9,801億円

 日清戦争は日本の勝利になって、下関条約が締結され、遼東半島割譲と台湾本島、澎湖諸島を日本領とした。現在台湾政府が主張しているのは澎湖諸島と尖閣諸島が一緒に日本領になってしまったのだから、本来台湾領であることは間違いない事実だと主張しているが、下関条約以前から日本領であったことは事実だ。

 もう一つの難題は遼東半島割譲が決まると、猛烈に反発したのがロシアで、その目的は不凍港を求めての南下政策であるから満州を支配し、黄海の出口であり不凍港である旅順、大連の理想的な港湾のある遼東半島をわが掌中に納めよとしていたロシアは、猛烈な勢いで日本政府に噛みつき、更に西欧列強と語らい日本に圧力をかけようと「三国干渉」を申し入れてきた。

 「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和を妨げとなる。従って遼東半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表すべきだ」これが有名な三国干渉でロシア、ドイツ、フランスの三国である。遠く離れたヨーロッパの列強が極東の小国に何で干渉するのだと考えるが、遼東半島ばかりではなく、清国に魅力があり、イギリスがアヘン戦争を仕掛けて香港割譲を得た、当然列強は中国各地の割譲を狙っていた。それを極東の小国日本が遼東半島の割譲を決められては困るのが列強で、特にロシアは不凍港を求めて南下政策は必要不可欠の政策で、満州の大地を我がモノし、最大の狙いは不凍港にして黄海への出口、遼東半島こそロシアの狙いはそこにあった。

 従って主導はロシアで、ドイツはロシアの資力が極東へ向かえば、ドイツへの圧力が少なくなると緊張緩和を期待し、極東へ勢力を伸ばすチャンスと判断、更にドイツ皇帝は黄禍論を信奉し日本を徹底的に嫌っていた。

 フランスも同じように清国の蚕食を考えており、かつ露仏秘密同盟が存在し、ロマノフ王朝とは縁戚関係にあった。

 この圧力は日本ばかりではなく、清朝に対しての方が更に凄まじく、何しろ日清戦争に敗れ、「眠れる獅子」と怖れられていた中国が実はそれほどの実力はなく、まして北洋艦隊が壊滅してしまったからには何も怖がるモノはないとばかり、清朝に無理難題を働きかけ、中国国内での利権を毟り取った。

 この三国干渉には日本国内では憤激の嵐となったが、極東の小国がヨーロッパ列強と太刀打ち出来る訳がなく涙を呑んだが、このとき‘臥薪嘗胆’の言葉がはやった。

 この結果はすぐに表れ、ロシアが満州全域と遼東半島を奪い、ドイツは山東半島を奪い青島に要塞を築いた(第一次世界大戦で日本軍が立てこもるドイツ軍を攻撃、陥落した)。フランスも同じく中国国内にフランス租界を広げ蚕食していった。

 この三国干渉が日露戦争の遠因となり、ついにはロマノフ王朝が崩壊するのだから歴史は一寸先は闇、歴史の教訓は随所にあり学ぶ重さがある。

 中国本国に対する列強の蚕食はまして、怒った民衆は外国人を襲撃したが、これが組織的に行われたモノで、義和団という秘密結社が排外運動を起こしたのが義和団事件であるが、清朝の西太后がこれを支持し欧米列強に宣戦布告をしたため北清事変と呼ばれた(1900年6月19日)。

 このため北京市内には多数の外国人が居たが、居住区として紫禁城南東にある東交民巷というエリアがあり、ここに外国人居留民925人、中国人クリスチャン約3000人が逃げ込み、各国在外武官を中心として駐留軍人481人が防衛した。

 このとき在外武官の総指揮を執ったのが柴五郎陸軍中佐(後陸軍大将)で、救援軍が到着するまで持ちこたえた。

 救援の連合軍はイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の8ヶ国で総兵力約2万人、そのうち8千人は日本軍兵士で、最大の派遣となった。

 8月14日、北京郊外到着、翌日には北京市を解放、紫禁城も制圧したから僅か2ヶ月足らずの籠城戦で、かつ戦死者も最小限にとどめた。

 これは西太后が勝手に宣戦布告したのだとの思いが強く、清朝軍は戦意が乏しかったことによる。かつ西太后自身は貧しい庶民に扮して紫禁城を脱出し、西安に隠れ住んでしまった。

 この都落ちには甥光緒帝を同行したが、その愛妃‘珍妃’を殺害して紫禁城内の井戸に捨てたが、日本軍が遺体を引き上げ丁重に埋葬した。 全面降伏した清朝は莫大な賠償金を支払うことになり、さらに植民地主義侵略が中国全土で行われた。

 この後も、清朝の崩壊、辛亥革命、内乱、国民政府、中国共産党軍の台頭、北伐、日本軍の侵略、国共内戦と連続する侵略、内乱の連続、このような悲惨な歴史を辿ってきた中国民衆には心底自らの国の統一、侵略から民族を守るのは武力しかないと思う心情になるのも不思議ではない。

 日露戦争1904年〜1905年

 三国干渉、義和団事件を経てロシアの南下政策は露骨となり、満州を完全制覇、両遼東半島の旅順はアジア1の海軍要塞基地となり、次の狙いは朝鮮半島であることは明らかで、我が国の独立までもが脅かされること確実となった。

 これは当時の風潮を解析しなければ理解できないが、いわゆる「帝国主義時代」、軍事力、経済力が絶対で他国や異文明を破壊し、植民地支配が当たり前、力こそが正義、武力こそが世を支配する。

 この過酷な風潮を生み出したのはヨーロッパで地理発見時代、大航海時代、植民地獲得競争時代、植民地から甘い汁を十分に吸い取る旨味を知れば、ヨーロッパ列強は競って中南米、アフリカ、アジアへと向かった。

 その結果は弱肉強食、白人全盛、キリスト教を布教すれば未開地の住民は幸せになれる、植民地は幸せが訪れる等々、勝手な屁理屈を並べ立て、搾取や弾圧は当然のこと、文明の恩恵を与えてやったのだから有難く思え、見事なまでの身勝手な理論が支配者側の理論であったが、反抗する力がなく、従服するしかなかった。

 日露戦争は大日本帝国とロシア帝国、日本支援国はイギリス、アメリカ、大韓国の親日派。ロシア帝国支援はフランス、ドイツ、大清帝国、大韓国親露派。

 この戦争は最初に調停国を決めておいた。1年程度の短期間で終えることが出来たのは用意周到な為政者が居たためだ。

 太平洋戦争はこのような対策は全くしていなかったから全滅寸前まで戦わなければならなかったのは軍人が政治の前面に出てしまったことによる。

 また日英同盟によるイギリスの支援も大きかったし、アメリカ、イギリス在住のユダヤ系金融機関が多額の戦時国債を買ってくれたことが大きく戦費調達が上手くいったことで補給を続けることができた。

 ☆陸軍の主な戦場は満州の曠野で戦われたが、順に述べると鴨緑江の戦い、南山の戦い、第一次旅順攻略、遼東作戦、沙河会戦、第二次旅順攻略、第三次旅順攻略

 奉天会戦(1905年、明治38年3月10日)日本軍勝利(後、3月10日陸軍記念日)Θ海軍、旅順港奇襲攻撃、仁川沖海戦、第一次、第二次、第三次旅順港口封鎖作戦、黄海海戦、蔚山沖海戦、日本海海戦1905年、5月27日)日本連合艦隊がロシア、バルチック艦隊を撃破、完勝。(5月27日海軍記念日)

 1905年8月10日、アメリカ・ポーツマス海軍工廠内で講和条約交渉開始

 日本代表小村寿太郎外務大臣、ロシア代表ヴィッテ、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト

 9月5日、講和条約調印

 樺太(サハリン)北緯50度以南を割譲、日本領土とする。

 千島列島、占守島(シュムシュ)から得撫島(ウルップ)を割譲

 択捉島、国後島、色丹・歯舞諸島は1855年江戸幕府とロシア帝国の間で「日魯通好条約」に調印し、この四島は古来より日本領土であることを確認していた。

 日露軍の満州撤兵、遼東半島の返還、朝鮮半島からロシア勢力の撤退、

 日本側は多額の戦時賠償を求めたがロシア側はこれを拒否、

 期待していた日本国民は激怒し、日比谷公園騒動のような不穏な空気が流れた。

 ロシア側を覗けば日露戦争最中である1905年1月22日、ロシアの首都ベテルブルクにおいて、ツァーリに「ブラウダ(正義)」の実現を直接誓願するために冬の宮殿に向かうデモ隊に対し宮殿警備の軍隊が発砲、これが史上名高い「血の日曜日事件」で、この事件を契機として反帝政運動が一挙に拡大した。

 欧州における反ロマノフ王朝運動を利用しようと、陸軍明石元三郎大佐(後、陸軍大将、台湾総督府長官)が日露戦争勃発時、国家予算は2億3千万円程度の中で、山県有朋の英断で参謀本部から金額100万円(現価値400億円)を支給され、欧州で秘密工作をやれと密命された。

 明石大佐は天才的な才能と実行力を有し、欧州には武官として長年勤務していたからドイツ語、フランス語、ロシア語、英語が堪能で、そのほかポーランド語も解したと言われているから、まさに語学の天才、主に欧州各地に展開する反帝政組織に近づき、資金や武器を援助し、情報収集、ストライキ、サボタージュ、武力蜂起等に関わった。

 最大の功績はレーニンを説き伏せロシア国内に潜入させたこと。内務大臣ブレベーェ暗殺事件、血の日曜日事件、戦艦ボチョムキンの反乱等大小の反帝政運動に関わり、革命成立後レーニンは「日本の明石大佐に感謝している。感謝状を出したいほどだ」と語ったと伝えられている。

 陸軍参謀本部参謀次長、長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に該当する」と評し、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世は「明石大佐一人で、満州で活躍した日本軍20個師団に匹敵する活躍であった」と語ったと伝えられている。

(司馬遼太郎著「坂の上の雲」でもその活躍が描かれており参照)

 内憂外患に満ちたロマノフ王朝であるが、家族内でも憂いが発生した。それは日露戦争が始まったばかりの1904年8月にニコライ2世(ロマノフ王朝第十四代皇帝)夫妻に長男アレクセイ誕生、上には皇女四人が居たが、初めての皇太子誕生に喜びに満ちあふれた。

 ところが不治の病とされていた血友病を患っており、当時の最高の医学を持ってしても完治は不可能、そこで祈祷にたよろうと、祈祷僧ラスプーチンが宮廷に呼ばれ祈祷したところ、どのような手段を使ったのか血友病は快方へ向かった。

 一説によると催眠術療法の一種だと言われているが定かではない。

 驚喜したアレクサンドラ皇后は絶大なる信頼をラスプーチンに寄せ、またニコライ2世も「我が友」と呼び、政治的な悩みまで相談してしまったからラスプーチンは宮廷内で隠然たる勢力を持つようになり、こうして史上名高き怪僧ラスプーチンは出現した。

 危機を感じた側近は何とかラスプーチンを遠ざけよと画策したが、皇后の信頼は厚く、馬泥棒の前歴が暴かれたり、女信者との乱れた性関係が暴かれたりと新聞に書きたてられたりしたが、何しろ皇后の絶対的な信頼は揺るぎなく後ろ盾となったため宮廷内での対立が激しくなってしまった。

 1914年6月、サラエボ事件発生、7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦を布告、ロシア軍部は戦争を主張、ところがニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とは従兄弟の関係にあり、それが敵として戦うのに躊躇したが、軍部に押し切られ戦争を決意、汎スラブ主義を掲げ連合軍側として参戦、7月31日、ロシア軍総動員令を布告、これによって戦線は一つ挙に拡大し、第一次世界大戦の規模に拡大してしまった。

 1915年の春には近代兵器で武装したドイツ軍に大敗し退却したが、その敗因を占ったところロシア軍最高司令官ニコライ・ニコラビッチ大公が呪われているからだと怪僧ラスプーチンの占託があり、閣僚全員が反対したにもかかわらず、ニコライ2世は従叔父にもあたる大公を罷免してしまった。

 そのため皇帝自から最高司令官に就任、戦線に出たから宮廷と政治は皇后と怪僧ラスプーチンに託されたが、気に入らない人物を次々と罷免したことによって政治も宮廷も大混乱となり、貴族や民衆はロマノフ王朝を完全に見限ってしまい「怪物」「ドイツ女」と罵った。(アレクサンドル皇后はドイツ生まれのドイツ人、江戸時代初めて幕府に親書を贈ったエカチェリーナ大公妃もドイツ出身である。当時ヨーロッパ諸国王室は王室同士の婚姻、他国の貴族の娘をお后にすることは普通に行われており、皇帝や王が従兄弟や親戚関係が複雑に絡まっており、この関係を調べると歴史が見えてくることがある。江戸時代の松平姓を辿るのも歴史を紐解く面白さがある)

 1916年12月、皇帝の従弟に当るドミトリ大公と姪の夫ユスホンス公がラスプーチンに毒を盛り暗殺しようとしたが、平然としておりピストルを放ち、剣で突き、それでも死なず、燭台で殴り、簀巻きにして氷の河に投げ込んで殺害した。

 翌日警察の手で遺体が引き上げられ解剖されたが肺の中に水があり、氷の河に投げ込まれた時に未だ呼吸があったことが証明された。まさに不死身の肉体と特殊な才能、話術の巧みさは群を抜いた天才だったらしい。まさに怪物。

 まったく余計な話だが、后妃、宮廷女官、貴族の娘、女信者を驚喜させた巨大な男根は切り取られホルマリン漬けにし、厳重に保管されていて、時には展示するらしく写真も現物も存在するらしい。

 ニコライ朝の失政、皇室への反感、皇帝への信頼は失墜等が重なり皇帝は孤立するだけだった。

 こうした状況下で、アレクサドル・ケレンスキーが指導する二月革命が起こり3月8日にはペトログラードで暴動が起こり、内閣は総辞職、軍も皇帝を支持しなくなった。追い詰められた皇帝ニコライ2世は皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドルビッチ大公に皇位を譲ろうとした。

 ところがミハイル大公は即位を拒否したため、300年の歴史を持つロマノフ王朝は崩壊してしまった。

 ロマノフ家は一市民となったが、ケレンスキー臨時政府はロマノフ一族を逮捕、監禁し、シベリア西部のトボリスクへ一家、ニコライ2世、妻、5人の子供は流刑となった。

 ロマノフ一家は革命直後、身の危険を感じて従兄弟であるイギリス王室のジョージ五世に亡命を打診したのだが、ロシア革命が起きた頃、イギリス国内も労働運動が盛んになり、イギリス国民もロシア革命に賛同したり同情したりで社会主義運動が盛り上がっており、そのような社会的風潮の中でロシア皇帝一家を迎え入れることを躊躇した。一方、同じく従兄弟であるドイツ皇帝ヴィルヘルム5世は積極的に亡命を勧めた。ところが第一次世界大戦中でロシアとドイツは交戦中という事情があり、后妃は母国であるから子供達の安全のためにもドイツへ還りたがったがロマノフ2世は亡命を躊躇っていた。

 その僅かな時間の間に逮捕監禁されてしまった。

 ボリシェヴィキによる十月革命で臨時政府が崩壊すると、一家は更にウラル地方のエカテリンブルクへ移され完全に幽閉状態になった。

 ここで思いがけないことが起きた、チェコ軍団の決起によって白軍(白衛軍、反革命軍)がエカテリンブルク近づくと、元皇帝一家が白軍に奪われる懸念に焦ったソビエト権力は、1918年7月17日、ウラジミール・レーニンがロマノフ一族全員の殺害命令を出し、元皇帝一家7人、専属医師、お付きの女官、専属料理人、従僕等全ての関係者を銃殺した。

 ただし発表はニコライ2世のみを銃殺刑にしたと発表、これは皇后がドイツ出身であり、ドイツ皇帝、フランス、イギリス王室とも縁戚関係にあるので対欧州各国との関係悪化を懸念してのことらしい。

 更に処刑したのは正規の軍隊ではなく、寄せ集めの革命軍が臨時編成した処刑隊でユダヤ人、ハンガリー人、ラトビア人等で構成されており、白軍が迫る中での処刑だったから、処刑の詳細は報告されないままに闇に消してしまった。

 従って義経伝説と同じく、ニコライ2世一家の誰かは逃げ延び、どこかに身を潜めて居るという噂がヨーロッパに広がった。何しろロマノフ王朝の遺産がイングランド銀行に預けてある資産だけでも数千万ポンドの価値と見積もられ時価数百億円以上であるから、正当な相続人が現れるのを興味深く待っていた。

 特に末娘アナスターシャは処刑時、后妃が子供達の前に立ちふさがり、銃弾を一身に受け、3人の姉達に囲まれた小さなアナスターシャは死体の下になって助かり、親切な兵士が助け出したのだという噂話があって、末娘アナスターシャだけは生きていると信じられていた。

 最近になって判明したことだが、噂話の通りアナスターシャは無傷で生き残り、死体の下になっていたが、兵士が死亡確認のために死体を足で蹴っ飛ばしたところ、下にいたアナスターシャが悲鳴を上げたため、銃尻で頭を殴り撲殺してしまったことが判明した。

(映画)

 この事実が判明する前に欧米では大きな話題があった。これはハリウッドで2度も映画化され大ヒットしたから記憶にある方も多いと思う。 まさにミステリーだが、事実は小説より奇なり、まだ氷が浮いているベルリン市内の運河の畔の暗がりに一人の若い女が佇んでいた。保護された女は精神的な障害と軽い記憶喪失、精神錯乱の状態にあり、病院に収容され手厚く看護された。

 やがて落ち着きを取り戻したとき、医師立ち会いで警官の取り調べがあったが、その時仰天するようなことを告白した。それは私こそニコライ2世の末娘アナスターシャ本人であると告げたのだ。

 それまでも私こそアナスターシャだと名乗る若い女性が複数現れていたが、ロマノフ王朝に使えていた多くの女官達が革命後亡命してきており、その人達に面通しさせると即座に偽物だと化けの皮が剥がされていたから、今度もまた偽物だろうと元女官複数を呼び病室で面通ししたら、なんと複数の女官が「皇女様」と叫んで跪いてしまったから大騒ぎになってしまった。

 さらに驚きは宮廷内での出来事を克明に覚えており、女官達との会話もスムースなので周囲も完全に皇女であることを信じてしまった。

 そこで取り巻きが出来、ロマノフ王朝ただ一人の生き残りであり、莫大な遺産相続権ありと思われ、相続権確認を裁判所に訴えた。

 裁判所も困ったらしい、はっきりした証拠があるわけではない、当時の医学ではDNA鑑定の技術はなく、似ているという証言だけでは証拠にはならない。

 裁判は、認定はできないと却下したが、次々と新証拠を提出、裁判は何度も繰り返されたが、アナスターシャは本当の皇女と信奉していた人達が手厚い保護と同情で生活の面倒をみていた。長い歳月が経ってしまいアナスターシャと自称した女性は1984年84歳で世を去った。おそらく自分は本当のアナスターシャだと信じたままこの世を去ったのだろう。

 私はこのとき紐育で働いていたが、夕刊に大きく報道された記事を会社からの帰宅途中の地下鉄の車中で読んだことを克明に覚えているが、その時は唯一の相続人が死んでしまったら莫大なロマノフ王朝の遺産はどうするのだろうと余計な心配をしていた。

 ところが1991年、ニコライ2世一家が殺害され、遺体が捨てられ埋められている場所を知っているという人物が現れ、その人物は地質学者のアヴドーニン博士とその同僚達で、様々な資料を元に研究して埋めた場所を突き止め遺骨は既に回収してあるという。

 では何故公表しなかったというと当時はソビエト連邦時代で共産党独裁の時代であって、KGBが証拠隠滅に躍起になっていたから、もし公表したら間違いなく逮捕される虞があった。

 ペレストロイカの風が吹き出したのでやっと公表したのが1991年で、早速遺骨のDNE鑑定が行われ、我が国からは大津事件でニコライ皇太子時代我が国を訪問した際、琵琶湖周遊から京都へ向かう途中、警備の警察官津田三造がサーベルで切りつけた事件(大津事件、1891年(明治24年)5月11日)があったが、その際、出血したのをハンカチで押さえたのが‘血染めのハンカチ’として保管してあり、このハンカチの血痕がDNA鑑定の重要参考資料になった。

 現代の医学では遺骨はニコライ2世一家7人全員であることが証明され、末娘アナスターシャもそこで惨殺されたことが明らかとなった。

 では偽アナスターシャは何者だったのか、これも明らかになった。

 1994年、偽アナスターシャの身元調査が行われ、生前病気で手術した際、小腸の一部を標本として病院が保管していた。

 それを元に遺伝子鑑定が行われ身元が割れた。ポーランド人の農夫の娘で本名、フランツィカ・シャンツコフスカと判明、1920年代、ベルリンの兵器工場で働いていた時誤って安全ピンを外してしまい手榴弾が暴発し、隣で働いていた同僚は即死、本人も重傷となり入院したが、体は全快したが精神異常になり、精神病院に収容されたが、そこを脱走、数週間後ベルリン市内の運河に入水自殺しようとしたが、這い上がり暗がりに佇んでいたところを保護されたのが真相のようだ。

 だが、どうして偽アナスターシャを演じて世界中を騙せるようになったのか、壮大な演出が行われた背景は何か。どうして元女官が皇女と見間違うような高貴な顔になっていたのか、工場で働いていた時は、ポーランドから来た田舎娘にしか見えなかったという。

 またどうして宮廷内の様々な出来事を女官達と対等に話せたのか、立ち居振る舞いも皇女そのものだったとの証言からは何とも理解できない話ばかりで、霊が乗り移る現象としか思えないが、本当にそのような現象があったのか、世界中を数十年に渡り騙し続けてこられた根拠はなんだったのか。本人も皇女アナスターシャであると信じていたし、この狂言を演出した人物はいない、騙されたのは観客ばかりの長い長いお芝居で、見破った者はいない見事な演出であった。

 ハリウッド映画:1997年制作のアニメ映画「アナスターシャ」

 1956年「追想」アナスターシャをイングリッド・バークマン、元将軍をユル・ブリンナー、バークマンはアカデミー主演女優賞に輝く。

 映画「追想」ではユル・ブリンナー演じる元将軍が、薄幸の娘、偽アナスターシャを皇女らしく振る舞えるよう徹底的に教え込み、演技させることによって周囲を信じ込ませていたが、勿論これは映画のシナリオであって真実ではない。

 偽アナスターシャ事件は未だわからないことばかりですが、もう一つ気懸かりなのはノマロフ王朝がイングランド銀行に預けていた遺産はうなったのか。d

 こちらも明らかになった。75年の秘守義務期間が経過してからイングランド銀行が公表したことによれば第一次大戦中、戦時費用として全て払い戻しされていたと発表、従って隠し財産は零とのこと、世界中を観客とした壮大なドラマの結末は一夜の虚しい夢と化してしまった。

 しかし、この公表によって、今まで謎とされていたある一面が明らかになった。それはロシア帝国が連合軍の一員として戦争に突入、ドイツとは国境を接していたからドイツ陸軍を中心とした中央同盟軍と激し戦いとなった。

 ドイツ軍は最新式の装備であるのに対しロシア軍は旧式な装備でしかなく、全面的に敗退を続けたが、その責任を総司令官ニコライ・ニコラビッチ大公に押し付け、怪僧ラスプーチンの占いによって、同将軍を罷免、替わってニコライ2世が自ら総司令官として戦線に出た。どうも皇帝を宮廷から遠ざけるための后妃とラスプーチンの策謀らしい。

 その頃、ロシア帝国は断末魔にあり、内閣は総辞職、政府機能が麻痺している時、国家予算も軍事予算も施行出来る訳がなく、それでも戦争を継続していたのだから何処から軍事費を捻出していたのか謎だったが、やっと納得がいった。

 ニコライ2世一家7人が処刑されたのは白衛軍が迫ってきたから、皇帝一家が奪われるのを怖れて処刑を急いだと述べましたが、この部分を説明すると、1917年以降、ロシア革命が起きると広いロシア国内ではあちこちで武装蜂起する団体があった。

 ロシア革命を遂行しようとした革命側の軍事組織を赤衛軍(赤軍)、反革命を標榜して赤軍に対抗したのが白衛軍(白軍)。

 その他、黒軍(アナキストの軍隊)、緑軍(ウクライナ民族主義者の軍隊)、青軍(ポーランド軍)

 白軍は後にロシア全軍連合となる。これらの軍隊が、指揮系統がバラバラで脈絡なくあの広いロシア国内で戦闘になったのだから誠に複雑な戦闘で日本の高校・大学のテキストはこの辺をカットして講義も素通りだから理解していないのが普通な状態なので、一寸寄り道してこの辺を探ってみたい。

 1917年、「二月革命」「十月革命」二度にわたる内乱があったが、実は日露戦争中の1905年以降度々内乱が起きており、その‘トドメ’と言えるのが十月革命で、史上初の社会主義国家が生まれようとしていた。

 1914年18年は第一次世界大戦であったが連合軍側

 日露戦争後のロシアは内政的にゴタゴタ続きで国軍は必ずしも健全では無かった。そのような時、帝政ロシア軍は連合国側として出兵したが、東プロイセンのダンネルベルクの戦いでドイツ軍に大敗し動揺が拡がっていた。

 ロシア皇帝の戦争指導力に対して兵士、民衆共に不満を持ち、皇帝ニコライ2世は積極的に前線を視察したり督戦したりと活発に動いたが、内政面で現状認識が乏しく、皇后アレクサンドラと怪僧ラスプーチンの傍若無人の動きによって宮廷内部から崩壊が始まってしまった。

 民衆の怒りが爆発、抗議デモが連日行われ、1916年、貴族達の手によって怪僧ラスプーチンは暗殺されたが、それでもデモは収まらず、1917年3月、首都ベトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で起こったデモは拡大し、ニコライ2世は退位を決意、身の危険を察知していた皇位継承者は辞退して皇帝を継承する者がおらずロマノフ王朝は崩壊した。

 かくして2月革命により中道派臨時政府が成立した。だが戦線と国内で大混乱が続き、そのうちレーニンが率いる急進的な左翼党派ボリシェヴィキは、こうした混乱を巧みに利用し権力を獲得し勢力を拡大した。

 11月、ボリシェヴィキは武装蜂起しベトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒して(十月革命)ボリシェヴィキ主導のソヴェト(労働者・農民・兵士の意)へと権力が集中し、これに引き続きロシア内戦(1917年〜1922年)に陥り、最終的には1922年に史上初の共産主義国家であるソビエト連邦が誕生した。

 ボリシェヴィキはかねてより暴力による革命を是としていたから、軍事革命委員会を設置して、軍事革命委員会の指揮下に赤衛軍(赤軍)をおいて、武装蜂起により臨時政府を打倒、政府機関を軍事革命委員会が掌握した。

 しかし、ロシア国内には様々な勢力があり赤衛軍、白衛軍、黒軍、青軍、緑軍が入り交じっての戦いで整理するのが面倒なくらいややこしい事態になったのがロシア内戦で、それに付随して起きたチェコ軍救出のためのシベリア出兵やポーランド孤児救出等ロシア内戦の実態が理解できないと混乱してしまう。

 この中でチェコ軍救出とポーランド孤児救出に絞ってその背景を探ってみる。

 チェコスロバキア軍がシベリアの大地を右往左往して7ヵ月もの間戦闘を繰り返すという奇妙な事件があった。それを救出するためという目的で世界が軍隊を派遣する騒ぎになり、我が国は何と7万3000もの兵士を派遣した。これが有名なシベリア出兵だが、何のための出兵なのか未だに謎なのである。

 まずこの謎はヨーロッパの中央に位置するチェコスロバキアの軍隊が遠く離れた全く関係ないシベリアの大地にいたのかが不可解であるが、歴史は時には悪戯をするもので、第一次世界大戦を考察しなければならない。

 1914年〜1918年、欧州を中心とした戦場で連合国軍(フランス、イギリス、ロシア、イタリア、アメリカ、日本)対中央同盟軍(ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマントルコ、ブルガリア)による第一次世界大戦があった。

 中央同盟軍の中にオーストリア=ハンガリー帝国というかつて欧州の中央に位置した帝国があった。

 オーストリアはハップスブルク家の君主が統治し、ハンガリーをも統治していたが、ハンガリーの住民はマジャル人で、元はウラル山脈の中南部の平原で遊牧民であったが、9世紀頃ヨーロッパへ移動を始め、ハンガリー平原に住んだ。

 ハンガリー王国は多民族国家であるが、主はマジャル人で、フン族、匈奴と言われモンゴル系と言われているから、ヨーロッパの中でアジア系が存在する。

 このハンガリー帝国とオーストリア帝国とが統合し、オーストリア・ハップスブルク家の君主が統治した中東欧の多民族国家帝国で、ハンガリー帝国には周辺のチェコやスロバキャが含まれていた。

 ハップスブルク家は周辺国家を統合し支配下に置こうとした、特にバルカンには多民族であり、多宗教、多言語であるから統一は困難で、統一は困難を極め、その反抗から皇位継承者フランツ・フェルディント大公と妻ゾフィーと共にセルビアの青年に射殺された。

 怒ったオーストリア政府はセルビア政府に最後通牒を突きつけセルビアと戦争状態となった。最初は一地域の小競り合い程度であったが、ドイツがオーストリア側に荷担し、ロシアがセルビアに荷担して宣戦布告したから、三国同盟にあったイギリス、フランスが加わり、アメリカ、イタリア、日本までもが連合軍側に加わり、ドイツ側の中央同盟軍にはオスマン、ブルガリアが加わり、全く意味のない戦争であったが第一次世界大戦に拡大して、欧州全土が戦場になってしまった。

 日本軍の出動したところは、ドイツが三国干渉で得た山東半島の青島に大要塞を築いていたので、陸軍はこれを攻撃、占領した。また海軍は地中海方面に駆逐艦隊を派遣、対潜水艦攻撃や船団護衛に活躍した。

 ロシアについて述べれば、ドイツに対し宣戦布告したが、最初の予想ではロシア軍優性とされていたが、実際はロシア軍の士気は低く、厭戦気分が漲っていた。

 これは帝政に対する不満、軍指導者に対する不満、皇后、怪僧ラスプーチンが牛耳る悪政への不満、あらゆる不満が渦巻き、1917年3月、首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で起きたデモが一気に拡大し、国内各地でデモが頻発、ニコライ2世は統治に自信をなくし、弟に皇位を継承させようとしたが断られ、皇太子アレックスは幼く、病弱なため、悩んだ末に廃帝を決意、ロマノフ王朝は崩壊した。

 その結果、中道派臨時政府を樹立(2月革命)、だが国外では中央同盟軍と戦争状態にあり、国内ではデモの頻発で混乱の極みだから、この混乱を利用して立ち上がったのがウラジミール・レーニン率いる急進的な左翼集団ボリシェヴィキで、1917年10月、ペトログラードで武装蜂起、要所を制圧して中道派臨時政府を打倒してしまった(十月革命)

 政権を打ち立てたボリシェヴィキ政府は、早速中央同盟軍との休戦交渉を始めた。喜んだのが最前線で戦っていた帝政ロシアの兵士達で一挙にボリシェヴィキ政権支持を表明した。

 和平交渉はボリシェヴィキ政権を代表して外相レフ・トロッキー(ボリシェヴィキ政権樹立の功労者、後指導権争いに敗れ、スターリンの刺客によってメキシコで射殺された)、ドイツ側はマックス・ホフマン(ドイツ軍参謀長)、ボリシェヴィキ政権は「平和に関する布告」として「即時、無併合、無賠償、民族自決」を基本とする和平交渉を求めたが、ドイツ側は拒否、さらにポーランドとバルト海沿岸諸国の割譲を求めたため交渉は決裂した。

 ドイツは休戦協定を破棄して戦闘を開始し、バルト海沿岸とウクライナを攻撃してこれらを占領してしまった。

 さらにウクライナ義勇軍を結成してボリシェヴィキ政権の赤軍と戦おうとしたら1918年3月3日、政権としては屈辱的なブレスト=リトフスク条約に調印して、どうにか休戦に持ち込めた。

 この条約の内容は、ポーランド・バルト海沿岸地方、フィンランド、ウクライナの広大な地域の放棄、ドイツに対して賠償金を支払うことを約束、まさに屈辱的条約の内容であったが、第一次世界大戦でドイツが敗戦国になってしまったため条約の施行は無効になってしまった。

 ここでシベリアで立ち往生したチェコ軍の謎を解き明かす。

 チェコ軍というのは第一世界大戦中にロシア軍の捕虜となったチェコスロバキア軍の兵士が結成した部隊の総称。

 オーストリア帝国=ハンガリー帝国の二重帝国があり、ハップスブルク家の当主が君主となり、周辺を領土として権勢を誇っていた。チェコとスロバキアもその権勢下にあって、圧政に苦しんでいた。

(チェコとスロバキアは別の国であったが、第二次大戦後一つになりチェコスロバキア国として独立したが人種、文化、その他諸々が異なり、1993年、チェコ共和国、スロバキア共和国に分離独立した)

 ロシアとの戦争(第一次世界大戦)が始まると、チェコスロバキアの兵士は中央同盟軍としてオーストリア国軍の一員として動員され戦線に出動した。

 ロシアとの戦闘に従軍していたが、士気は低くロシア軍の捕虜となる兵士が多かった、というよりはむしろ積極的に投降しロシア軍の一員として中央同盟軍を破れば、ハプスブルルク家が崩壊し、そうすれば自分たちの国は独立出来るかもしれない、という希望が湧いてきた。

 しかもチェコ人、スロバキア人はロシア人と同じスラブ系民族だから親しみを持っている、かくして投降した兵士は5万人以上となり、強力な軍団を組織し、同盟軍の一員として戦闘に参加していたチェコ軍が、今度は連合軍側の兵団としてドイツ軍と直接戦う東部戦線に配備しようとした。

 ところが、とんでもない誤算が生じてしまった。それはドイツとロシアが単独で休戦協定ブレスト・リトフスク条約を締結して休戦してしまった。

 ここで宙に浮いてしまったのがチェコ軍団で、ドイツ側へ戻れば裏切り行為として極刑にされる、といって内戦のような混乱中のロシア国内に留まるわけにはいかない。

 パリにあったチェコ亡命政府からの指示は、フランス軍の指揮下に入り西部戦線で中央同盟軍との戦闘に参加せよ、という命令を受領した。

 ここで困ったのは、フランス軍が布陣する西部戦線へどうやって移動するかである。当時、飛行機輸送はなく、陸路か海路だが、どちらも中央同盟軍の布陣地帯を横断しなければならず、とてもそのような中央突破など不可能だ。

 そこで5万人の兵士で構成されたチェコ軍が執った輸送ルートは、シベリア大陸をシベリア鉄道で横断、ウラジオストクから船で日本へ行き、更に航洋の大型船に乗り換え太平洋横断、アメリカ西岸着、大陸横断鉄道で東岸へ、そこから大西洋を越えてフランスへという世界一周の大移動を5万人の規模で実行しようとしたのだから凄い発想だ。

 チェコ軍団はモスクワ近郊のベンザという町に集結、ここからシベリア鉄道に乗ってシベリア横断を試みたが、各駅停車のノロノロと進行、その途中オーストリア=ハンガリー正規軍の捕虜と遭遇、かつては同盟軍、今は敵対する連合軍ということで両軍は殴り合いの大喧嘩になり、さらには戦闘にまでになってしまった。(チェリァビンスク事件)

 そうなると続く列車も単線だから各地で立ち往生となり、チェコ軍団はシベア各地に孤立状態になり、食料補給もシベリア鉄道の運行も停止してしまった。

 ロシア政府といっても出来たばかりの臨時政府で何の資力も権力もない、したがって武力で押さえつけることも、輸送しなければならない義務もないと野放し状態、そうなるとチェコ軍団は孤立無援、武器を持った夜盗集団になりかねないのでボリシェヴィキの赤軍が鎮圧しようとしたが、こちらも白衛軍と戦闘しておりロシア国内は各勢力が武装蜂起して戦う、まさに戦国時代の様相。

 困ったのがパリにあったチェコの臨時政府で、連合軍側にシベリアで孤立しているチェコ軍団救出を依頼した。

 しかし、ヨーロッパはまだ戦闘が継続しており、イギリス、フランス軍にはシベリアに救出へ向かう兵士の余裕はない。そこで第一世界大戦に参加はしているが、それはお付き合い程度の少数の兵力しか参加していないアメリカと日本の軍隊がシベリアへ派兵してくれないかとの要請があった。

 そこでアメリカ、日本は同数の各7000人としてシベリア派兵を決めた。

 ところが、実数は日本軍7万3000、アメリカ7950、イギリス1500、カナダ4192、イタリア1400がウラジオストックに集結した。

 シベリア出兵を決めたのは原敬内閣の時で日本軍7000人派兵の約束が7万3000人に増えてしまったのは、尼港事件や邦人保護の問題等の難題が続出したことにもよるが、本音は第一次世界大戦最中にロシア革命によりロマノフ王朝が崩壊し、ボリシェヴィキ政権が樹立、世界初の社会主義国家が誕生、この勢いに各国の労働者、労働組合が騒ぎ出し、社会が不穏な情勢となってしまっていたから各国政府は政体維持のためボリシェヴィキ政権を潰してしまえという気運になるのも不思議ではない。特に日本の場合は隣接するシベリアで内乱状態に陥り、何時国内に波及するかもしれない恐怖から、この際ロシア革命政府軍(赤軍)を壊滅させ、ボリシェヴィキ政権を潰してしまえとの思惑があった。

 シベリア出兵の意図について、更に詳しく視るとチェコ軍救出の名目で東部戦線を強化しようとの意図が連合軍側にあった。

 第一次世界大戦中、連合軍側であったロシア帝国はロマノフ王朝が崩壊し、ロシア軍は敗走、経済的にも困窮、戦線を維持できなくなってボリビキシイは単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を締結して戦争から離脱してしまった。(この為チェコ軍団が孤立してしまうことになった)

 そうするとドイツ軍は東部戦線にいた軍団を西部戦線に回すことが出来たので、イギリス・フランスの連合軍は苦戦に陥入った。

 そこで何とかもう一度東部戦線を作り、ドイツの兵力を分散させたと願い、チェコ軍救出を名目にアメリカ、日本のシベリア出兵を要請した。

 しかし、各国の思惑が揃わず、予定より遅れて派兵したため、1918年11月、ドイツ帝国で革命が起き皇帝は追放され、停戦となりドイツは降伏した。

 したがって本来の目的は完全に消滅してしまったが、日本政府にはロシア革命政府軍(赤軍)を壊滅させ、ボリシェヴィキ政権崩壊に追い込む意図があった。

 ボリシェヴィキ政権が樹立、世界初の社会主義国家が誕生、この勢いに各国の労働者、労働組合が騒ぎ出し、社会が不穏な情勢となったから各国政府は政体維持のためボリシェヴィキ政権を潰してしまえという気運になるのも不思議ではない

 このため日本軍はシベリア奥地まで侵入し、約5千人が戦死、巨額の戦費約9億円(当時の金額)を消費、4年間という歳月を費やし、更に世界からは猛烈な非難を浴び、加藤内閣になってからやっと、シベリア出兵は失敗の烙印を押されて撤兵した。

 このシベリア出兵で、思わぬ出来事があった。それはポーランド人孤児救出という予定外の軍事行動であった。これが現在でも続く日本・ポーランドが厚い親交の絆で結ばれるきっかけとなった。次章でその詳細を記述する。

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第39章 ポーランド孤児救済・保護 北方四島問題(2)

 ドイツは人的資源の枯渇、経済的、社会的混乱は頂点に達していて、反戦運動の頻発、軍全体にも厭戦気分が漲った。

 政治的にも混迷を極め、更に隣国ロシアでの革命騒ぎ、帝政の崩壊、社会主義を標榜する政権の出現に、帝政であるドイツ国民も動揺し、議会は先手を打って帝政の廃止を決め、帝政ドイツは消え、ワイマール共和国に変身してしまった。

 ドイツ帝国は崩壊し、ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命してしまった。

 戦争を継続する意味を失ったドイツは1918年11月11日、パリ郊外のコンビエーニュの森に置かれた食堂車2419Dの車中において、ドイツは連合国との休戦協定に署名し第一次世界大戦は終結した。

 それから22年後の1940年6月22日、第二次世界大戦の初期には破竹の勢いでナチスドイツ軍が快進撃し、パリが陥落、第一世界大戦でのフランスの英雄ペタン元帥が今度は敗軍の将として降伏調印したのが第一次大戦の時と同じコンビエーニュの森で、同じ食堂車2419Dを運んできて、得意満面のヒットラー総統と敗者としてのペタン元帥の間で休戦協定が調印された。

 第一次世界大戦が終結し、ヨーロッパの社会が大きく変貌を遂げた。それは中世から続いてきた社会秩序の崩壊で、ドイツ帝国、オーストリア帝国=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国が崩壊、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家、ロマノフ家は断絶し、多くの王侯貴族が追放され、ロマノフ家のように一家が全員銃殺されるという悲劇もあった。

 またこの戦争の副産物のようにして起きたロシア革命の結果、全く新しい社会体制である社会主義を標榜するボリシェービキ政権が出現したことにより世界秩序を乱すことになりはしないか世界に懸念は広まった。

 1919年1月18日、第一次世界大戦における講和会議がパリで開かれ、世界各国の首脳が集まり、アメリカ・ウィルソン大統領、イギリス・ロイドジョージ首相、フランス・クレマンソー首相、我が国からは西園寺公望元首相等の世界主要国首脳による会議となった。

 会議はフランス外務省内で行われ、最後の調印だけをベルサイユ宮殿で行われたため、後年はベルサイユ条約と呼ばれるようになった。

 この条約により多くの戦後処理が行われ、ベルサイユ体勢と呼ばれ上手くゆくはずであったが、敗戦国への過酷すぎるような条約で、特にドイツに対し戦時賠償金が膨大すぎ、多くの首脳はかえって危険だと懸念したが、フランスが強行に主張し、戦時賠償金の支払いを条約に盛り込んだ。

 この為支払いに苦しんだドイツ国内は社会主義思想が蔓延し、国内治安は不穏になってきた。この風潮を捉えた反対勢力であるナチス党が勢力を伸ばし、党首ヒットラーが政権を握り、やがてベルサイユ条約破棄、第二次世界大戦に突入してしまったから、第一次世界大戦の後始末として、後年絶対に戦争が起きないようにと世界新秩序としてベルサイユ条約が締結されたはずが、実は戦勝国の驕りに充ちた条約で、その恨みがドイツ国民を憤激させ、その反動がナチスを支持するようになり再び第二次世界大戦に突入してしまったのは歴史が示す通りだ。

 これに懲りたせいで第二次大戦の戦後処理では交戦国の戦時賠償はなかった。

 この休戦協定が結ばれ第一次世界大戦は終結したが、シベリアでは未だ戦争が続いていた。

 前章で述べた1918年5月、シベリア鉄道で東へ向かっていたチェコ軍団とドイツ・オーストリア軍の捕虜集団がウラル地方のチェリャビンスク駅頭で鉢合わせした。かつては同盟軍として共に戦った同士が、今は敵味方であったから感情的な縺れから喧嘩が始まり、さらには武器を持ちだしての戦闘になってしまったから管理・保護していた赤衛軍を交えての戦いに発展したため、連合国側はチェコ軍救出が急務となった。

 また、チェコ亡命政府も連合国側へ強く要望した。そこで動いたのがアメリカ・ウィルソン大統領で、シベリアへアメリカ陸軍を派兵しチェコ軍救出を決めた。

 更に地理的に近い日本に対してシベリア派兵を打診してきた。

 原敬内閣の時代で、日露戦争後もロシア帝国とは小競り合いがあった。そこへロシア革命でロマノフ王朝が崩壊し、替わって社会主義を標榜するボリシェービキ政権が誕生したから不安視しており国内的には大正デモクラシーと第一次世界大戦により、ヨーロッパが戦場となり軍事産業以外の民需産業が生産中止、その分新興工業国になった日本に注文が殺到し、空前の好景気に沸いたが、停戦と共に輸出はたちまち衰え、その反動で猛烈な不景気が到来した。

 そういった社会情勢の中、ロシア革命の影響をうけた社会主義思想が蔓延してきたから、不安になった政府は社会主義者弾圧に転じ、さらにはアカ狩りと称して思想までも取り締まりの対象とし社会不安は一層強まってきた。

 そこへシベリア派兵の依頼がアメリカ大統領から届いたから、好機到来とばかり、シベリア派遣軍中最大の陸軍兵士を送り込んだ。

 シベリア出兵:チェコ軍救出を提唱したのがウィルソン、アメリカ大統領、それに同調したのが日本政府で、日米同数の各7000名の兵士を派遣することを決め、1918年8月2日、共同宣言を発表した。

 8月12日に日本軍、同19日にはアメリカ軍がウラジオストクに上陸、その後、イギリス軍、フランス軍、カナダ軍、イタリア軍が続いた。

 実は日本軍は1918年4月には邦人保護の名目で陸戦隊を上陸させており、干渉戦争の準備を整えていた。

 さらに日米協定を無視、シベリア派遣軍を増強し遂には7万の兵士を送り込んだ、アメリカ政府はさかんに抗議したがこれを無視、さらにシベリア奥地のバイカル湖付近まで進出した。

 1918年11月11日、第一次世界大戦はドイツの降伏で終結し、チェコ軍団も救出されたので、他の派遣軍は目的を達して帰国したが、日本軍だけがシベリア大陸に留まりパルチザンとの戦いが継続された。

 パルチザンとは、占領軍や外国の植民地になり圧政に苦しむ地域住民が支配軍に抵抗した非軍事組織の抵抗運動(レジスタンス)をパルチザンと総称する。

 この時のパルチザンはボリシェービキ政権の軍事組織は赤衛軍(赤軍)であったが、赤軍とは別に地域の農民や労働者が武装した組織があり、各地で蜂起したため内乱が激化した。

 赤軍と白軍(旧体制軍)、パルチザン、外国軍が入り乱れて戦っておりその中へ日本軍も突入にてしまい、引くに引けない状態になってしまった。

 このような情勢の中で尼港事件にみられるような悲惨な事件がおきた。

 1920年3月から5月にかけてアムール川の河口の港町、ニコラエフスク(尼港)市をバルチザン部数4300名で編成された部隊(ロシア人3000名、朝鮮人1000名、中国人300名)が同市を襲い占領、略奪・処刑をほしいままにして老若男女数千名を虐殺、その前に駐留日本軍守備隊、日本領事、日本人居留民が殲滅されてしまっていた。(日本人の犠牲者総数は731名)

 この事件がシベリア出兵の長引く一因になったことは確かだ。

 このシベリア出兵は国際的な非難を浴びながらも73000人の派兵、当時の金で9億円という膨大な戦時費を使い、戦死者5千人

 この間、広大なシベリア各地でパルチザンと戦い、相手が正規の軍隊ではないので地域住民との区別が付かず、村ごと焼いてしまったりとの日本軍の悪行として世界に発信されたり、散々な出兵であったが1922年10月加藤友三郎首相が撤兵を決めた。

 ポーランド人孤児救済・保護・送還シベリア出兵という軍事作戦があった。前述したような経過を辿り、国内の評価も国際的な評価もあまり芳しくなかったが、ただ一つ評価すべきことは軍事作戦とは全く関係なかったが、シベリアの大地を彷徨っていたポーランド人の孤児達を多数保護し、日本に連れ帰り、2年間保護し健康になってからポーランド本国に送り届けていたという快挙があった。

 100年近く経過した現在でも世界でも最高の親日国であるポーランド人の感情はこの時芽生えたものと理解して貰いたい。近年、皇室のご訪問や海上自衛隊練習艦隊の親善訪問の際は國を挙げての大歓迎をして頂いた。是非そのエピソードは知って欲しい。

 先ず疑問が浮かぶのは、何故遠く離れたポーランド人の孤児が極寒のシベリア大地を彷徨っていたのか不思議に思われて当然だが、歴史とは不可解、残酷な事象の連続で、特に陸続きのヨーロッパの歴史は複雑怪奇に満ちている。

 ヨーロッパの歴史はローマ帝国の侵略、ゲルマン民族の大移動、バイキング、十字軍やらと数限りない他国へ、他民族への侵略、征服が歴史となる。

 島国である我が国は、NHKの大河ドラマ的な国内の歴史を紐解けばそれだけで済んでしまう歴史観があるが、世界の歴史を知ってから日本史を学ぶべきで、そこから歴史観が生まれることになる。だからこそ反省を込めて世界の歴史を学ぶことに意義がある。

 ヨーロッパの中央に位置するポーランドは、北はバルト海、北東ではロシアの飛び地であるカリーニングラード州とリトアニア、東ではベラルーシとウクライナ、南ではチェコとスロバキア、西ではドイツと接する。首都はワルシャワ。

 平原地帯なるが故に先史時代から人の往来があり、東西の文化が出会う場所であり、文化の融合する所でもあった。

 故に民族の移動や、異民族の闘争とか、王朝が出来ては崩壊の存亡が繰り返されてきた。

 四面海に囲まれて平穏に暮らしてきた水田耕作の農耕民としての我が国の歴史とは全く異なった悲惨な歴史を辿ってきた。

 ショパンやキューリィ夫人を生んだ知的水準の高い民族であったが、数え切れないくらいの民族の悲劇は続いた。

 このような地形、環境が回廊国家と呼ばれ、たびたび侵略、征服の被害に遭い「回廊国家の悲劇」と呼ばれるように悲劇の連続であった。

 平原地帯なるが故に先史時代から人の往来があり、東西の文化が出会う場所であり、文化の融合する所でもあった。

 ポーランド国の歴史は、まさに苦難と悲劇の連続が国史となる。それはロシアとドイツに挟まれた回廊国家と言われる國の悲劇だ。

 特に海への出口がない帝政ロシアにとってはロシア帝国の支配下にある港の確保は絶対的使命となる。  ロシアの地図を見れば良く判るが海への出口である港がない。あるのは北海に臨む僅かな地域に港は存在するが、残念ながら冬期間は凍結してしまい港としての機能は全くなくなってしまう。

 しかもその凍結期間は長い。ならば不凍港を求めて南下政策が国是となった。

 その結果、バルト海に面したポーランド国への侵略、黒海から地中海へ出るには狭いボスポラス海峡を通過しなければならない。ならばトルコを侵略して海峡を支配下に置こうという理不尽さが当然というような侵略が行われてきたのが歴史となる。

 遠く離れた極東の小国、日本国もまた帝政ロシアの南下政策に悩まされ、遠く離れた沿海州や遼東半島に魔手は延び、次は朝鮮半島、そして日本との懸念があった。

 その結果、日露戦争になって、帝政ロシアの南下政策に悩まされていた各国は日本を支援した。外貨のない日本が調達の外貨の国債を発行したが、これを大量に引き受けてくれたのがロシアに恨みをもつユダヤ系金融機関やイギリス政府であらゆる面で日本を支援した。

 我が国が帝政ロシアを破ったことが、間接的だがトルコを助けてことになりトルコは熱狂し、小国日本に感謝した。その結果が、ポーランドと並んでトルコも大の親日国家となっている。

 その恩返しとも言うべき出来事がイラン・イラク戦争に際し、1985年3月17日、48時間の猶予期間以降イラン上空を飛ぶ航空機は無差別に攻撃する、とイラク・サダムフセイン大統領が突如宣言した。イラン領内いる在留外国人は各国の航空機が救助に飛来し、自国民を乗せて飛び立った。日本人も石油の合弁事業があり、日本人二百数十人が取り残された多数存在していた。政府は日本航空にチャーター救助を要請、イランに飛び立つ予定であったが、日航の地上組合いがこれを戦場に向かうのは反対と整備を拒否、出発することが出来なかった。

 航空自衛隊の輸送機の派遣は当時強かった社会党が絶対反対、日本人の救助を日本人が拒絶するという前代未聞の出来事に、48時間というタイムリミットのなか、話し合いや懇願は出来るわけがなく、日本航空は飛ばないとだけ現地に報じられ在留邦人は絶望の淵に沈んだ。

 この時、伊藤忠商事のイスタンブール支店の支店長だった森永堯氏が旧知のトルコ・オザル首相(後大統領に就任)に日本人救助を懇願、オザル首相は即座に特別便2機を飛ばすことを決定。

 3月19日午後8時30分のタイムリミット。空襲警報の鳴り響くテヘラン・メヘラバード空港を1番機が飛び立ったのは午後5時10分、続いて2番機が飛び立ったのは午後7時30分、撃墜予告まで後1時間、その間にイラン国境を越えなければならない。そこでトルコへは遠距離になるが北上して国境を越える航空路を選び、タイムリミットギリギリで国境を越え、脱出に成功した。

 一方、イランにいたトルコ人は救援機を日本人に譲り、500余名のトルコ人は陸路車を連ねて脱出した。

 自分達が乗るはずだった航空機を政府が日本人救出に振り向けたことに不満を述べた人は皆無だったという。

 自国民を救助することを拒絶した日本航空労働組合と対比しトルコ国民の寛容さに感謝したい。

 トルコ政府とトルコ国民のあまりの寛容さに驚愕したが、トルコ駐日大使が短くコメントした。「トルコ国民のエルトゥールル号の借りを返しただけ」

 エルトゥールル号とは、1890年(明治23年)9月16日、トルコの軍艦・エルトゥールル号が、和歌山県大島樫野先付近で台風の大時化で座礁、機関が爆発して約500名が死亡、残りは沿岸住民が決死の救助活動、治療、看護し、後イスタンブールまで送り届けた。

 この史実はトルコの小学校の教科書に記載されており、トルコ国民は誰もが知っている。それと日露戦争でトルコが助けられたことを全国民が認識しており親日感情はそこから生まれたものである。

 ポーランド人孤児の話に戻る。かつてポーランドは回廊国家と呼ばれ、悲劇の国家であった。1795年からの以降を見てみよう。この年、ポーランドはロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア帝国による第三次ポーランド分割が行われ、1918年、第一次世界大戦でドイツ帝国、オーストリア帝国が崩壊、ロシアは革命によって帝政が崩壊することによって解放され、その後ヴエルサイユ条約による民族自決の原則によってポーランド共和国が誕生した。

 1795から1918年の123年間は、外国に支配され、政治的に差別されていたが、黙って甘受していたわけではない。

 この間数々の抵抗運動、蜂起、「社会発展運動」(有機的労働運動)、「ポーランド実証主義運動」と呼ばれる数々の運動を通じて独立運動を試みてきた。

 また多くの若い有能な人達が外国に遁れ、その地で勉学に励み、社会的地位を得てから祖国の窮状を訴え、祖国ポーランドの実情を訴えた。

 ポーランド国土の多くを支配していた帝政ロシアは抵抗運動に厳しい態度で臨み、多くの人達を政治犯として捉え、本人ばかりではなく家族全員をシベリアへ放逐した。

 1863年から翌年にかけての大規模な「1月蜂起」には猛烈な弾圧により8万人が捉えられ、そのまま全員がシベリア流刑囚になったが、家族も一諸に流刑囚になるので20万以上の人々がシベリア流刑となって、祖国へ帰ることはなかった。

 シベリアに送られた流刑囚は刑務所に収容される訳ではなく、強制労働に従亊するが、食料は個々に調達する自活が基本であって、極寒のシベリアでは死と隣り合わせの過酷な毎日だった。 家族とともに流刑囚となってシベリアに来てから祖国を知らない子供達が増えてきた。

 絶望的な日々を送るポーランド人の集団は死に至る前の最後の勇気を振り絞って武器を調達しての反抗運動をやったが、圧倒的な赤軍に蹴散らされ、子供達だけが残された。

 第一次世界大戦後のロシア革命で帝政ロシアは崩壊、皇帝一族は流刑、後銃殺刑。この間、シベリアでは赤軍、白軍、パルチザンが入り乱れて闘っていたが、第一次世界大戦が始まると、チェコ・スロバキヤ軍は中央同盟軍としてオーストリア国軍(君主ハップスブルク家)の命令を受け、ロシア戦線に動員された。

 ところがハップスブルク家に対する忠誠心はなく、それよりも帝政ロシア軍と組んで中央同盟軍と闘い、ハップスブルク家を倒せばチェコは独立国になれると確信し、チェコ軍は積極的にロシア軍に投降し、その数5万人以上の兵士が捕虜となった。

 ところが、とんでもない誤算が生じた。それはドイツとロシアが単独での休戦協定ブレスト・リトフスク条約を締結し休戦してしまった。

 そこで宙に浮いてしまったのが5万人のチェコ軍で、そこへパリにあったチェコ亡命政府からの指令として、「フランス軍の指揮下に入り西部戦線に参加せよ」しかし、そのためには敵であるドイツの占領地を横断しなければならず、とても不可能と判断し、執った策はシベリア鉄道でウラジオストクへ行き、そこから汽船で同盟国日本へ渡り、汽船でヨーロッパへ向かうという遠大な計画であったが、シベリア横断中、今度はロシア革命で内乱状態、シベリアも赤軍、白軍、パルチザンが入り乱れての戦場になってしまった。このため5万人のチェコ部隊がまたもや立ち往生、シベリアの大地に孤立してしまった。

 これを救助しようとアメリカ大統領が提唱し、連合軍がチェコ軍救出を名目として、シベリア出兵となった。

 1918年8月12日に日本軍、同19日にはアメリカ軍がウラジオストクに上陸、その後、イギリス軍、フランス軍、カナダ軍、イタリア軍が続いた。

 実は日本軍は1918年4月には邦人保護の名目で陸戦隊を上陸させており、干渉戦争の準備を整えていた。当時の首相は田中義一陸軍大将だった。

 1918年11月11日、第一次世界大戦はドイツの降伏で終結し、チェコ軍団も救出されたので、他の派遣軍は目的を達して帰国したが、日本軍だけがシベリア大陸に留まりパルチザンとの戦いが継続されていた。

 パルチザンとは、占領軍や外国の植民地になり圧政に苦しむ地域住民が支配、軍に抵抗した非軍事組織の抵抗運動(レジスタンス)をパルチザンと総称する。

 この時のパルチザンはボリシェービキ政権の軍事組織は赤衛軍(赤軍)であったが、赤軍とは別に地域の農民や労働者が武装した組織があり、各地で蜂起したため内乱が激化した。

 赤軍と白軍(旧体制軍)、パルチザン、外国軍が入り乱れて戦っておりその中へ日本軍も突入にてしまい、引くに引けない状態になってしまった。

 このような情勢の中で尼港事件にみられるような悲惨な事件がおきた。

 1920年3月から5月にかけてアムール川の河口の港町、ニコラエフスク(尼港)市をバルチザン部隊4300名で編成された部隊(ロシア人3000名、朝鮮人1000名、中国人300名)が同市を襲い占領、略奪・処刑をほしいままにして老若男女数千名を虐殺、その前に駐留日本軍守備隊、日本領事、日本人居留民が殲滅されてしまっていた。(日本人の犠牲者総数は731名)

 この間に起きたのが、ポーランド孤児救出作戦で、シベリアに流刑されたポーランド人達はこの内乱で、逃げ惑う中、両親が殺されたり、家族とはぐれてしまったりと多くのポーランド人孤児が、極寒のシベリアの大地を彷徨うことになった。

 そこでせめても子供達だけは祖国ポーランドへ返してあげたいと言う運動が持ち上がり、ウラジオストク在住のポーランド人組織、「ポーランド救済委員会」を通じて世界に救済を呼びかけた。

 この救済委員会の委員長であるアンナ・ビエルキエヴィッチ女史はアメリカ、ヨーロッパを訪ね救出をお願いしたが、同情はするものの救済に乗りだそうとする国はなかった。更に帰路、中国・上海にある中国国際赤十字社に訪れ同じく救済をお願いしたが断られ、ウラジオストクに戻り絶望的結末を報告した。

 この報告中、委員の一人が小国ではあるが日露戦争に勝利した日本に依頼してはどうかと発言した。それに対して女性の委員が昔、宣教師を磔にしたような野蛮な国が救助に協力してくれる訳がないと反対、確かに敬虔なキリスト教徒であるポーランド人からみれば江戸時代、外国人宣教師を磔の刑に処した蛮行は絶対に許しがたい非道と思われても仕方がない。

 そうすると若い医師が立ち上がり、日露戦争で多くのポーランド兵が日本軍の捕虜になったが、捕虜収容所での待遇は素晴らしく、戦後、元気に祖国に還ってきたと聞いたことがあると発言したので、最後の望みとして日本国に依頼してみることを決め、藁にも縋る思いでいで初めての日本にやってきた。

 1920年6月、訪日、外務省でポーランド孤児の惨状を訴え、救出を願い出た。

 外務省の動きは素早く即座に日本赤十字社に連絡し、更に陸軍省に連絡して僅か17日後にはポーランド孤児救出委員会が結成され、活動が始まった。

 独立間もないポーランドと我が国とは国交がなく、勿論、外交官の交換もなかった時点でのこの動きであるから驚嘆すべいき善意の発露であった。

 1918年シベリア各地ではパルチザンの蜂起あり、白軍、赤軍入り乱れての戦闘が各地で広げられており、チェコ軍団救出の名目で日本軍が出動していたことから、民間人ではとても出来ない捜索活動をシベリア出兵中の帝国陸軍兵士が担当することを、陸軍省を通じて下命があった。

 戦場ともいうべきシベリア各地に少人数ずつ隠れ住むポーランド孤児達や母子を探し出すのだから「ポーランド救済委員会」のポーランド人が先導役となり日本軍兵士の小隊が護衛と探索をかねて行動を共にして探し回った。

 その効果は素晴らしく活動開始後、僅か2週間後には56名の孤児を収容した。

 ウラジオストクに収容された孤児達は、早速陸軍の輸送船で敦賀へ送られ、日本赤十字社の手で東京へ迎えられ、手厚い保護を施された。

 続いて翌1922年7月までに5回にわたり孤児375名が日本へ送られ、さらに第二次捜索として1922年夏以降捜索が大々的に実施された。これは冬季に入ってしまうとシベリアの厳寒に耐えられず凍死してしまう怖れが予想されるので、この機会が最後だと死力を尽くしての捜索となった。

 その結果、390人の孤児が収容され、3回に分けて来日した。

 東京には3才から16才の子供達375人、大阪には1才から15才の子供達390人がそれぞれ収容され、それと共に「ポーランド救済委員会」から付き添いとしてポーランド人女性65人が来日した。

 それから2年間、東京、大阪で過ごすことになるが、栄養失調、栄養障害、皮膚病、百日咳、腸チフスその他何らかの病に冒されている子供が多く、直ちに病院に収容され手厚い看護が施された。

 また、孤児来日の新聞報道がされると全国から見舞金や見舞品が届き、ボランティア活動として無料での医療、歯の治療、散髪、音楽会、慰安会の招待等の申し出が殺到、孤児達にとっては夢のような国と写ったようだ。

 貞明皇后(大正天皇、皇后陛下)が日赤病院に入院していた孤児達をお見舞いに訪れ、親しく接見し、病床にあった最年少であった3才の女の子の髪を何度も撫でながら健やかに育つよう祈られ、最後に抱きしめられた女の子は悦びで号泣したという。

 記録によると東京では渋谷区広尾にあった日赤本社に隣接していた福田会育児所に収容、運動場や庭園もあって設備の整った建物だった。

 大阪では阿倍野区旭町、大阪市立大学医学部付属病院の大阪市公民病院付属看護婦宿舎として建築中だった建物を急遽宿舎に転用し収容した。

 [参考:2003年(平成15年)12月29日放送、関西テレビ制作、「ワルシャワの秋」大阪日赤看護婦竹内結子、後年岸惠子、看護婦山本未来、婦長いしだあゆみ、その他の皆さんと、孤児役の皆さんが素晴らしく、感激して観た〕

 2年後、すっかり元気になった子供達は祖国ポーランドに還ることになったが、子供達の多くは幼少で連れてこられたか、シベリアで生まれたので過酷な環境しか記憶になく、祖国の概念はなかった。

 従って夢のような国日本に居続けることを願い、優しく接してくれた看護婦さんや保母さんにしがみついて別れを嫌がった。

 第一陣は横浜出港の日本郵船、諏訪丸、香取丸、伏見丸の豪華客船でサンフランシスコへ、大陸横断鉄道、東海岸から大西洋横断、祖国ポーランドへ還った。

 大阪からは神戸港から大阪商船・香取丸でインド洋、スエズ運河経由で直接ポーランドへ還った。

 横浜、神戸の港では大勢の関係者に見送られ、涙、涙の別れで、覚えた日本語で「アリガトウ」「サヨウナラ」、最後は「君が代」の大合唱だったという。

 祖国に帰った孤児達は身寄りがないか、身元不明なのでバルト海沿岸にあるヴェィヘローヴォ孤児園に引き取られ保護された。

 ここでの生活は子供達が自発的に日本での生活を踏襲し、朝「日の丸」掲揚、「君が代」齋唱から始まり、規則正しい生活を自分達で決め実行した。

 この孤児達もやがて成人して社会の有能な中堅になった人が多い。その中にイエジ・ストシャウコスキという少年がいたが、やがて成人し、苦労して最高学府ワルシャワ大学を卒業、その後シベリア孤児の組織を作ることを提唱、ポーランド・日本との親睦を図る「極東青年会」を組織し会長になった。

 イエジ青年の生い立ちは凄く、父は高名な政治学者だったが、政治犯として逮捕され、母親と5人の子供達一家はシベリア流刑となり、父親はシベリアでロシア兵に殺害され、逃げ惑ううちに母親と5人の子供達はバラバラになってしまい、イエジ少年は一人シベリア大地を長期間彷徨した後に捜索中の日本兵に保護された。

 極東青年会結成、その会長に選ばれたイエジ青年がとった行動は、青年会を代表して在ワルシャワ日本公使館に表敬訪問することであった。

 そこで再び偶然が起きた。日本領事公使として接見したのが渡辺理恵代理公使で、この人は在ウラジオストク日本公使館駐在公使として、保護されたポーランド孤児を日本政府代表として全ての面倒を見て、日本向け客船乗船まで親身になって世話してくれた人で、その恩義を十二分に感じていたイエジ青年が目に前に再び現れた渡辺公使に挨拶抜きで抱きつき、後は涙だけの再会の悦びであった。

 その後は極東青年会と日本公使館全職員との交流があり、公使館からの資金援助もあった。

(リロさん同一人です)

 平成7年、阪神淡路大震災の時、孤児になってしまった子供達をポーランドが招待したことをご存じでしょうか、1996年夏、被災孤児30名が2回にわたりポーランドに招ねかれ各家庭で3週間ホームステイした。国を挙げての歓迎だったらしい。

 孤児が帰国するお別れパーティーの会場に4人の元シベリア孤児が招かれ、既に高齢で家族に付き添われ車椅子で出席であったが、子供達一人一人にバラの花を手渡し、75年前の自分を彷彿しながら抱きしめ涙を流したという。

 平成14年、天皇、皇后両陛下が国賓としてポーランドをご訪問された際に、既に85才になっていたシベリア孤児の一人アントニーナ・リロさんが招待され、感激の余り美智子妃殿下の手を握りしめ離さなかったと伝えられている。

 リロさんは90才で天寿を全うしたが、最後の言葉は「日本は天国のような国だった」との言葉を残したそうだ。

(ポーランド人孤児は東京と大阪に別れて保護されたが、この女性は大阪で保護された人で、高齢ながら家族に付き添われお礼の挨拶をされた)

 第一原発事故でも多くの福島の子らがポーランドに招かれホームステイで楽しい一時を過ごさせて頂いた。絆は続いており、ヨーロッパ随一の親日国家であることは間違いない事実だ。

 海上自衛隊練習艦隊「かしま」「しらゆき」の練習艦と護衛艦「いそゆき」の3艦が'13年8月7〜10日、ポーランド・グディニャ港を初訪問したが、国を挙げての大歓迎を受け、両国の絆の深さが再認識された。

 (写真は海上自衛隊練習艦隊が接岸したグディニア港岸壁での歓迎式典での和太鼓の演舞。)

 『もう一つ加えたい。第一原発事故で、富岡町に広島県岩国市から多額の見舞金が送られてきた。日頃全く関係ない市からなので、どうしてだろうと首をひねった。

 戊辰戦争で、官軍東上軍は會津攻めが主力であったが、官軍の岩国藩を主力とする部隊が、磐城平藩、相馬藩を征服するため浜通りを北上した。

 相馬藩は楢葉町の金山トンネル上の台地に第一線の陣を構え、闘ったが敗走し、第二線として深谷の台地に陣を構え激戦となったがまたも敗走した。

 その戦闘で岩国藩将兵に犠牲者がでて19名が斃れた。そこで官軍幹部は宿泊していた富岡町亀屋旅館の女将に埋葬を依頼し、女将は亡骸を龍台寺に埋葬し、墓をつくった。龍台寺の山門をくぐり、参道を行くと右側に煉瓦塀で囲まれた一角が官軍の墓で、亀屋旅館は永らく墓守をしており、私自身は子供であったがお盆とお彼岸の前になると必ずお墓の草むしりをさせられ、墓前にお線香、花、菓子が供えられたが、その菓子を払い下げ、頂くのが最高の楽しみだった。

 このお線香代は、岩国の遺族からお盆になると先祖の供養代として必ず幾ばくかのお金が送られてきていた。その絆が今回の見舞金となった。』

 帰国後のポーランド人孤児

 ポーランド人孤児の話題はこれで終わった訳ではない。

 青年に成長した孤児達は、日本に対しての郷愁は強く、孤児達の会が結集されて日本大使館を通じて密接な交流が続いた。

 だがポーランドという回廊国家の宿命か、孤児達が青年に達した頃、再び国家的危機がやって来た。

 この時、日本に対する恩返しとばかり立ち上がったポーランド人孤児がいた。もしかしたら第二次大戦に日本は参加しなかったかも知れない。またもっと早く戦争を終結したかも知れないような極秘情報を伝えてきたのが、秘密地下組織を結成し、その中心人物がイエジ青年で日本國として誠に貴重な情報をもたらしてくれた。この貴重な情報を尊重してくれる日本國情報機関はなかったのが誠に残念というほかない。

 エイジ青年は「極東青年会」を結成、その会長に選ばれた。

 その直後、在ワルシャワ日本公使館を表敬訪問したところ、そこに居たのは在ウラジオストク日本公使館駐在公使代理の渡辺理恵氏との奇跡的偶然の出会いは、感激を倍増した。(渡辺理恵氏は男性です)

 それからは「極東青年会」と日本公使館の全職員との交流があり、極東青年会への資金援助もあった。

 1938年、日本赤十字社三島通陽名誉総裁がポーランドを表敬訪問した時は、酒井秀一大使の公邸で歓迎パーティーがあって極東青年会全員が出席し、三島名誉総裁に対し最大限の謝辞を述べるとともに感激の余り胴上げまでしてしまった。

 しかし、その後再び試練がやってきた。前述したように、1939年9月、ポーランドは再び独ソによって侵略されてしまった。

 「極東青年会」としては祖国ポーランドを解放するために立ち上がり、イエジ会長が極秘に会の幹部を招集し、祖国ポーランドを解放するレジスタン運動に参加することを決議、「特別蜂起部隊イエジキ」、愛称「イエジキ部隊」を結成し、部隊長は勿論イエジ会長が就任した。

 1940年6月22日、独ソ戦勃発、ナチスドイツ軍がソビエト連邦軍を駆逐、

 ポーランド全土がドイツの占領地となった。従ってレジスタンス運動の対象はナチス占領軍であった。

 イエジキ部隊の規模は、最初は極東青年会が中心であったが、極東青年会は自分達の体験から、帰国後成人してから積極的に国内の孤児達の面倒をみてきた。

 更に、独ソの侵略によって多くの人が犠牲になったため多くの孤児達が放浪することになってしまったが、その孤児達の面倒を積極的にみたのが極東青年会で、その中心は的確に活動するイエジ会長であった。

 従ってイエジ会長の信望は厚く、こぞって部隊に参加、また一般の人達も入隊を希望、やがて総数1万数千人の規模にまで拡大した。

 そして、ポーランド全土の司令官にはチューマ将軍が就任した。

 このチューマ司令官とは、前の項で一寸触れたが、政治犯としてシベリアへ流刑となったポーランド人を組織して武装蜂起を指導した時の司令官がチューマ将軍で、シベリアの極東地区で反革命軍のコルチャッ軍と共同で赤軍と戦った戦士で、悪戦苦闘しながらも戦い抜いたが、やがて優勢な赤軍に追い詰められ約2000人のポーランド人部隊はウラジオストク付近まで追い詰められ、反撃したくとも武器弾薬が枯渇、絶望的になった時、シベリア出兵中の日本軍に助け出されて、安全な満州経由の鉄道路線で大連まで運ばれ、そこから船で祖国ポーランドへ帰還した。これらの世話・手配はポーランド孤児の時と同じく日本赤十字社であったが背後には日本政府の保障があった。

 不思議な縁で結ばれたポーランド、レジスタンス運動も極秘運動が前提であったが、ナチスドイツ軍に嗅ぎ付けられ、手入れが行われたことがあったが日本公使館員が駆けつけ親日団体であるがレジスタンスではないと証言し、ナチスの手入れ部隊を追い払ったことがある。

 日本に対して恩義を感じているイエジ隊長と極東青年会のメンバーは、なんとか日本に対し報恩したいと考え、日独伊三国同盟に走り出した日本に対してナチスドイツの凶暴性・危険性を日本側に発信して、何とか思いとどまらせよう、第二次世界大戦には絶対に参戦するな、それが日本を救うことになる確信しており、かつ情報入手も容易である立場にあった。

 何しろナチスの占領下にあり、その凶暴性は日常的に体得出来ることであり、ナチスドイツ軍の動向も入手できた。

 それは占領下にあったポーランド青年を徴兵してドイツ軍の兵士として最前線に配置していたし、ソビエト連邦軍にも連行され兵士に仕立てられたポーランド青年がいた。従って敵対する両軍の兵士にレジスタンスが加わっていたのだから生の最新情報が入手出来た。

 当然、ドイツやソ連に忠誠を誓うわけがなく、忠誠は祖国ポーランドだけであり、出来れば独ソ両国が共倒れになればよいと内心思っている兵士達だから見聞したことをあらゆる方法で逐一祖国のレジスタンスへ伝えたのである。

 その情報がイエジ隊長に届いたが問題はそれをどうやって日本政府へ伝えるかである。

 ここで小野寺信陸軍大佐(終戦時中将)が登場する:略歴、岩手県遠野生まれ、陸幼、陸士、陸大(40期)の陸軍キャリア、語学の才能がかわれ佐官任官と同時に情報将校となり、最初の赴任はラトビア駐在武官、次にエストニア・リトアニア公使館付武官を兼任、おおいに語学を研修した。

 その後、中支派遣軍司令部付として上海に陸軍特務機関として小野寺機関を開設、その機関長となった。

 その活動は国民政府・蒋介石総統と連絡を取ることであって、何とか和平の方法を見出そうと模索することにあった。

 あらゆる方法を試み何とか連絡が付きそうになった時、別の特務機関であった影佐機関がこれを潰してしまった。

 何故ならこの影佐禎昭特務機関も和平の方策を探っていたが、中国の地下組織、青幇(チンパン)、紅幇(ホンパン)と連携しに上海に秘密組織を作り、秘密工作をしていた。

 それが蒋介石総統と対立していた中国国民党で比較的親日派であった汪兆銘に協力して汪政権を樹立し、国民政府を潰してしまおうという構想で活動していたから、小野寺機関の行動は許しがたく、板垣征四郎大将の後押しもあって小野寺機関を崩壊させ、小野寺中佐も左遷されてしまった。

 このとき国民政府、蒋介石総統と連絡が付いていたならば、シナ事変は初期の段階で沈静化していたかもしれない。

(余談だが影佐禎昭氏の孫が自民党幹事長の谷垣禎一氏で禎の字を頂いた)

 小野寺信中佐は左遷され、内地にいたが大佐に進級すると同時に風雲急を告げるヨーロッパへの赴任を打診され、中立国スウェーデン公使館付武官に任命された、が、もしこの赴任が1年早かったら、歴史は替わっていたと確信する。

 何故なら1年早く赴任していれば日独伊三国同盟締結以前であり、日ソ不可侵条約締結まであれば、ヨーロッパ情勢の複雑さ、ナチスの凶暴性をより的確に報告できたと考えるからである。

 小野寺武官の情報将校としての才能はその素晴らしい語学力にある。英語はもちろんだがドイツ語、ロシア語、更にスウェーデン語が堪能で、全く通訳が不要で、あらゆる人と直接接触できた。

 さらにイエジキ会を通じて的確な情報を入手出来たようにヨーロッパ全土に反ナチスの地下組織があり、中立国を表明していたヨーロッパ諸国でも地下では反ナチス活動が活発であった。

 日露戦争中、ヨーロッパで活躍し反ロマノフ王朝運動を焚き付け、ロシア国内を混乱に導いた明石元三郎大佐(後大将)と共通するモノは特異な語学の才能の持ち主で、日露戦争時、ヨーロッパ各地で活躍し、反ロマノフ王朝の地下組織の幹部と接触し、多額の軍資金を支援、また予算不足の明治政府も明石武官を信用し、多額の資金を注ぎ込んだ。

 その結果は日露戦争を陰で支えた諜報活動が勝利に結びつき、ロシア革命でも陰で支え革命を成就させた。晩年は第七代台湾総督になった政治家でもあった。

 ところが日本の運命を左右する貴重な小野寺情報を全て無視した昭和軍閥と明治政府首脳とは何処が違うのか。明治維新の修羅場をくぐり抜けてきた、現場を知り尽くしている明治政府首脳と幼年学校、士官学校、陸大とひたすら秀才軍人の道を歩んできた昭和軍閥の違いだろうか。同じことは今回の事故でもキャアーとして高位高官になった人達についてもいえることだろう。

 小野寺武官の活躍を述べる。小野寺武官がスウェーデン・ストックホルムに赴任すると共に情報網を作ることに専念し、短期間で確立した。

 これは俗称ベータ・イワノフという男との出会いがある。諜報機関で働く人間が本名、身分を明かすわけがない。

 戦後明らかになったが、本名ミハール・リビコフスキー、リトアニア出身、ポーランド陸軍参謀本部勤務の情報将校、ドイツ軍侵攻により捕虜となり、収容所に送られたが、そこを脱出し、敵地ベルリンに現れ、ここで満州国のパスポートを取得した。多分駐ドイツ日本領事館が絡んでいると思われるが詳細は判らない。満州国は公認されなかったが、ドイツでは通用した。

 この人物とは以前にも日本とは縁があってポーランド在住のユダヤ人がナチスによって捕縛され強制収容所に送られ、その後ガス室で大量殺戮されたのは有名だが、その寸前、事前に察知したイワノフ(ミハール)とその部下達はユダヤ人に早くリトアニアのカウナスにある日本領事館へ行け、そこに居る杉原千畝という外交官が日本経由のビザを発給してくれるかも知れない、ともかく急げとイワノフとその部下達が告げ周り、これによってポーランド在住のユダヤ人達はリトアニアへ急ぎ、ソビエト占領によって日本領事館が閉鎖される寸前にたどり着いた人々に杉原氏が必死で手書きのビザを発給し続け、列車で離任するホームに発車寸前までユダヤ人が押しかけ発給し続けた結果、2千通以上のビザにより家族併せて六千人以上のポーランド系ユダヤ人の命が救われた。

 しかし戦後においても日本外務省は杉原千畝氏の功績は否定的で退官させた。

 杉原氏は病死したが、後年、杉原未亡人を外務省に呼び、謝罪したのが鈴木宗男代議士が外務次官に就任したときである。

 この小野寺武官、イワノフ氏、イエジ青年の活躍により日本にとって最重要な情報を掴み、参謀本部に打電し続けたが、その情報を活用することはなかった。

 松岡洋右外務大臣は日独伊の三国同盟を構想しており、ナチスドイツを盟友とし、ドイツがイギリスと戦端を開くことにより、イギリスはアジアから戦力を引き上げざるを得なくなると見込みのもと日ソ中立条約を結び、更には日ソ同盟も夢見て、後顧の憂いをなくして日米開戦に踏み切る、というのが三国同盟を締結した外相松岡洋右の構想であり、シナ事変早期解決の途として陸軍首脳もこの方針に飛びついてきた。陸軍は自分達が勝手に盧溝橋事件をでっち上げ、日華事変を引き起こし、戦火を交えてしまったが、戦線は拡大してしまい出先の駐屯軍ではもう手には負えない状態になっていた。

 そこでヨーロッパで新たに台頭してきたナチスの勢いに便乗してシナ事変を解決しようと謀った。ナチス・ヒットラーは日本を信用していたわけではない。ナチスは陸、空軍は充実したが、海軍力はほとんど無い状態で、あるのはUボートのみという貧弱なものに過ぎなかった。従って世界第三位にあった帝国海軍を利用することであった。またこの下心を連合艦隊司令長官山本五十六元帥を中心とする一派のみが気づいており、三国同盟締結は断固反対した。

 陸軍を中心とした政界は三国締結に傾き、かつ世界で孤立していた我が国は、国際連盟で“ノー”を宣言し脱退、世界の本当の孤児となってしまった。

 (第一次世界大戦で敗戦国になったドイツは連盟には未加入であった)

 小野寺武官、イワノフ氏、イエジ青年、極東青年会のメンバーが必死なって集めた情報も日本政府としては全てを無視したことになってしまった。

 これにはそれなりの理由があり、駐独日本大使大島浩陸軍中将がナチス党幹部リッペントロップと親交があり、その副官と呼ばれるほどナチス贔屓で、ヒットラーをアレクサンドル3世に次ぐ大天才と終生崇めていたらしい。

 この大島大使は三国同盟を推進し、バルバロッサ作戦開始後はナチスドイツ軍の快進撃ばかりを打電し、まもなくモスクワ陥落まで打電していたから、参謀本部もそれを信じていたらしい。従って真実の情報である小野寺電を無視してしまった。

 それからもう一つの秘話は大島電の全てがアメリカ諜報機関によって傍受解読されており、それらの情報から日本が開戦に踏み切る時期を既に掴んでいたらしい。(諜報に関しては欧米の方が数段上だ)

 さらに後刻、第二次大戦末期、ヤルタ会談でソ連が対日攻撃に踏み切ることを米英に約束したことをいち早くキャッチし、この情報を打電し、早期講話を打診したが参謀本部の一参謀によって握りつぶされ、一方、政府首脳はソ連参戦の情報は無く、近衛特使をモスクワに派遣し連合軍との和平交渉をスターリン首相の仲介により斡旋して貰おうと画策し駐ソ佐藤尚武大使に事前交渉を打電したが、対日侵攻を決めているソ連政府が応ずる訳がない。

 佐藤大使もポッダム宣言早期受諾を打電したが、悲惨な満州における殺戮、原子爆弾投下。小野寺情報を正確に把握していたならば・・と悔やまれるばかりだ。

 国際政治の暗黒部に翻弄され続けてきたシベリア孤児達のその後の安否が気懸かりだが、詳細は判らないが男性はイエジキ部隊に参加した人が多く、前途ある青年が犠牲になられたと聞く、女性の方は生き抜いた人が多かったらしい。

 追記として、回廊国家であるポーランドの過酷な運命を述べる。

 カティンの森の大虐殺:1939年9月、ナチスドイツ軍とソビエト連邦軍がポーランドの東西両面から侵略し、全土を2分割して占領してしまった。

 ポーランド政府は辛うじて脱出し、パリにお亡命政府を樹立したが、ここもドイツ軍が迫ってきて、アンジェへ脱出したが、さらにロンドンへ脱出してポーランド臨時政府を樹立、連合軍の一員としてのポーランド軍を結成した。

 一方、ポーランド国内では、全面降伏したポーランド陸軍と少数の空軍は武装解除され、海軍の艦船は脱出して連合軍側に合流した。

 ソビエト連邦軍占領地区で武装解除された将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られ強制労働に従事したとソ連軍機関紙『赤い星』と共にその人数を発表した。

 ところがその数字を見た亡命政府は、ポーランド軍将校1万人以上を含む将兵及び民間人の数が合わず25万人の行方が不明だと発表し、ソ連政府へ何度も問い合わせたが返答はのらりくらりはぐらかす程度の返答しかなかった。

 目撃情報としては、モスクワからミンクス経由ワルシャワへの鉄道路線があるが、モスクワ・ミンクス間の中間点にスモレンスクという都市があるが、その近郊にグニェズドウ村があり、ここを中心として1万人以上のポーランド人将兵が列車で運ばれてきて銃殺されたとの噂があったが、ソ連領土内なので村人達のヒソヒソ話程度で広がりはなかった。

 ところが1941年6月22日、ヒットラーは作戦名「バルバロッサ」を発令、独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連邦攻撃に踏み切って、この地にもドイツ軍が攻め込み、占領地としてこの噂話を聞き込み、本格的な捜査に取りかかった。

 1943年2月2日、ドイツ軍の中央軍集団の捜索隊の将校がカティンの森近くの俗称「山羊ヶ丘」でポーランド軍将校の服装をした遺体が埋められていたのを発見、その付近を掘削すると七つの穴があり、そこにポーランド軍将校の遺体が幾層にも重ねられて埋められており、ドイツ軍発表では1万2千体と発表した。

 この事実は中央軍参謀ゲルスドルフは「世界的な大事件」として喧伝出来ると判断し、グニェズドウでは覚えが難しいので、国際的に通用しやすい名前として近郊の集落の名であるカティンを借用し「カティンの森の虐殺」としてベルリンへ報告した。

 宣伝相であったゲッペルスは対ソ宣伝戦に活用し、世界へ向かってソ連の暴虐を宣伝した。

 ソ連政府も黙ってはいない。実際に虐殺したのはナチスドイツだと逆宣伝、国際赤十字社も調査に乗り出そうとしたが、戦時中であり危険だからという理由で赤十字の調査を拒否した。

 第二次大戦が終わり、ニュールンベルク裁判でも無視、戦後ポーランド政府は共産党政権で東側諸国の一員となったため、ソ連共産党政府に遠慮して追求することはしなかった。

 結局、明らかになったのは1992年、ソ連邦崩壊後にロシア政府は秘密文書を公開したが、その中に虐殺に関する指令書に内務人民委員部長官ベリヤの指令、スターリン首相の同意、その他人民委員の署名があったと発表・公開した。

 虐殺指令はこればかりではなく「メゾノエ」「ビャチハキ」での虐殺の跡が見つかり、ポーランド軍将兵及び民間人の遺体が多数発掘された。

 また、ポーランドは関わりないが、世紀の大虐殺といわれている「ヴィーンヌィツャ虐殺」も明るみに出た。これは1937年〜1938年のスターリン圧制下の大粛清時代、ウクライナのヴィーンヌィツャの共同墓地で発見されたモノで、大半はウクライナの人達であったが、ポーランド人も含まれていたと発表した。

 大粛清とは「ソビエト連邦と人民の敵とみなされた者」を告発、これを担当したのが治安と秘密警察権限を有していたのが「NKVD」で、裁判もなく粛清していた。このNKVDは内務人民委員の下部組織でその委員会の長がベリヤであった。

 これらが明るみに出たのは半世紀以上も経たプーチン大統領になってからで

 2010年4月7日、プーチン大統領とポーランド、トゥスク首相と共にスモレンスク郊外にある慰霊碑に揃って跪き、慰霊したが謝罪はしなかった。

 更に奇妙な事件があった。4月10日、ポーランド主催の追悼式典が予定され、ポーランドのレフ・カチンスキ大統領夫妻、政府高官多数が搭乗していた政府専用機がスモレンスク空港に着陸態勢に入ったところで空港付近の森林地帯に謎の墜落をして搭乗していた全員が死亡した。

 祟りなのか、陰謀なのか、単なる事故なのか、謎を秘めたまま闇に消えた。

 歴史は掘り起こせば数限りない史実が掘り起こせるし、その史実は一つ一つ繋がりがあり、無数の糸が複雑に絡まっている。

 シベリア出兵、ポーランド人孤児、救出、保護、送還、極東青年会の地下組織、イエジ青年、小野寺機関、我が国の運命を左右しかねなかった貴重な情報、ポーランド國との親好、神戸大地震、東日本大震災で孤児になった人達をポーランドに招待し歓待してくれたこと、全てが繋がっている。

 もう一つの繋がりを述べれば、小野寺武官がスウェーデン・ストックホルムに赴任すると共に情報網を作ることに専念し、短期間で確立した。これを可能にしたのがある男との出会いである。 謎の男、俗称ベータ・イワノフという男との不思議な出会いから始まった。諜報機関員らしいことは同じ諜報機関員である小野寺氏は肌で感じていたが諜報機関で働く人間が本名、身分を明かすわけがない。

 第二次大戦も終わり、戦後二十年も過ぎてから身分が明らかにされた。本名ミハイール・リビコフスキー、リトアニア出身、ポーランド陸軍参謀本部勤務の情報将校、ドイツ軍侵攻により捕虜となり、収容所に送られたが、そこを脱出し、敵地ベルリンに現れ、ここで満州国のパスポートを取得した。多分駐ドイツ日本領事館が絡んでいると思われるが詳細は判らないが、ともかく所得した。ただし当時国際的には満州国は承認されていなかったからどのくらい通用したのかは不明だが、日独伊三国同盟のお陰でドイツでは通用したらしい。

 この時以前にも日本とは縁があってポーランド在住のユダヤ人がナチスによって捕縛され強制収容所に送られ、その後ガス室で大量殺戮されたのは有名だが、その寸前、事前に察知したイワノフ(ミハール)とその部下達はユダヤ人に早くリトアニアのカウナスにある日本領事館へ行け、そこに居る杉原千畝という外交官が日本経由のビザを発給してくれるかも知れない、ともかく急げとイワノフとその部下達が告げ周り、これによってポーランド在住のユダヤ人達はリトアニアへ急ぎ、ソビエト占領によって日本領事館が閉鎖される寸前にたどり着き杉原氏が必死で手書きのビザを発給し続け、列車で離任するホームに発車寸前までユダヤ人が押しかけ発給し続けた結果、2千通以上のビザにより家族併せて六千人以上のポーランド系ユダヤ人の命が救われた。

 但し、杉原氏とイワノフ氏の親交は全くなかったらしい。あくまでもイワノフ氏の独自の感が働いたとしか思えない。

 また杉原氏もある朝大勢のユダヤ人が日本領事館に押しかけてきて日本経由ケーマン諸島(カリブ海キューバの南側にある小島、全ての人にビザを認めた唯一の国)の入国ビザの交付を懇願してきた。突然のことに驚いたらしいが、即座に状況は察した。ナチスのユダヤ人狩りがドイツ国内で行われており、まもなくポーランド国内でもユダヤ人が大勢住んでおり、やがて自分達も同じ運命だと思っていた。逃げ出すのは今しかない。しかし国外への途は空路はなく、船か汽車しかない。港は全てドイツが抑えており、汽船はない。残された途はシベリア鉄道でウラジオストクまで行き、更に日本の汽船で日本に上陸し、そこから日本かアメリカの汽船で太平洋を横断しよう。当時はそのルートしかなかった。

 そのためには日本通過ビザとパスポートがあればポーランド脱出できる。だがポーランド国内にあった日本領事館は全て閉鎖、唯一残っていたのが、隣国リトアニアのカウナスにある日本領事館のみが辛うじて閉鎖していなかったが、ナチスの要請で明日閉鎖が決まっていた。杉原公使も転勤の辞令があった。

 さらに駐独大使である大島浩陸軍中将の名でユダヤ人のビザ発効を厳しく禁じており、外務省も通達を出していた。

 それらを承知の上で杉原千畝公使は発効に踏み切り、日本経由ケーマン諸島入国のビザを出した。ケーマン諸島とは余程の地図好きでも判らないだろう。カリブ海のキューバ国の南側に小さな島で、なんの取り柄もない島が浮かんでいるが、一応独立国で小さな政府が存在している。

 あまりにも貧弱な島なので植民地にしようとはどの國も思わなかったらしく、いわば放置された島国で、現在でもタックスヘブンの名義貸しに利用されている。

 従って行く先はケーマン諸島としたのは名目だけで、実は日本経由でアメリカ本土に上陸できれば亡命できた。

 朝からビザ発効業務を始めたが、当時は全て手書きであったから直ぐに出来るわけがない、庭には大勢のユダヤ人が詰めかけている。もしビザが入手出来れば一家は助かる。なければ一家は強制収容所、ガス室で消されてしまう過酷な運命に陥ることになる。まさに「命のビザ」であった。

 このビザの発効は赴任のため汽車が出発する間際まで行われ、2千余のビザが発効され、家族を含めて約6千人のユダヤ人がアメリカに亡命することが出来て命を存えた。

 一方、杉原氏は戦後帰国したが、ビザを発効したことの責任を問われ外務省を追われた。その理由は外務省令を無視したことにあるらしい。

 退職後、杉原氏は得意の語学力を活かして商社に入って活躍したが、まもなく病死した。

 後年、鈴木宗男代議士が外務政務次官に就任したとき、杉原未亡人を外務省に呼び謝罪した。

 参考:上記写真TVドラマの1シーン、ドラマ:「日本のシンドラ杉原千畝物語・六千人の命のビザ」2005年TVドラマ出演、反町隆史、飯島直子、吹石一恵、伊東四朗、)原作「六千人の命のビザ」杉原幸子著、その他「決断」「真相」等多数出版

 イワノフ氏の続報、この人物は神出鬼没で、イワノフ氏はラトビアのリガにあった日本武官室に潜り込んだ。ところがそこもソビエトによるバルト三国併合により閉鎖されたため、スウェーデンのストックホルムに移り、そこで小野寺武官に出会った。

 ここからが小野寺武官、イワノフ氏、イエジ青年、極東青年会等の奇妙な結び付きによって凄く貴重な情報を日本へ打電することができた。

 イワノフ氏はロンドンにあった亡命ポーランド政府の参謀本部とも連絡があったというが、実は参謀本部の正式な諜報員だったようだ。

 ともかくその活躍は素晴らしくナチスの親衛隊長であったヒムラーが「世界で最も危険な密偵」と驚嘆させ、ナチスの諜報機関が全力で追いかけ回し、何度も危うい目に遭ったが、その都度匿ったのが小野寺武官で、ドイツ敗戦時まで何度もあったらしい。戦後、命を存えたのは小野寺武官のお陰だと感謝した。

 ただし、第二次世界大戦後、死力を尽くして祖国ポーランド開放に働いたが、ソ連邦の一衛星国家として共産主義国家になってしまったことに絶望し、アメリカに亡命、その後カナダに移住した。

 激動の時代をくぐり抜けて、25年後の昭和45年、大阪万博の時、来日し小野寺氏と再会し旧交を温めた。その時はカナダ国籍で、一般市民になった初老の人だったという。

 参考資料:「日米開戦不可ナリ、ストックホルム・小野寺大佐至急電」1985年12月8日、NHK特集放映

 何故、小野寺機関による数々の貴重な情報が打電、入手しながら日本政府や陸軍はこれらの情報を無視してしまっただろうか。(我が国には独立した情報機関がない)

 松岡洋右外務大臣構想に追随し、大日本帝国中枢は、正しい情報把握を失っていた。ドイツがイギリスと戦端を開くことにより、イギリスはアジアから戦力を引き上げざるを得なくなると見込みのもと日蘇中立条約を結び、後顧の憂いをなくして日米開戦に踏み切る、というのが三国同盟を締結した外相松岡洋右の考えであり、陸軍首脳の発想であって、このようなシナリオが出来てしまうと、これが我が国基本方針になってしまい、その方針に背くような情報を受け付けなかった。

 しかし、頼みのナチスドイツはさっさと独ソ不可侵条約を踏みにじりバルバロッサ作戦発動、ソ連邦を侵略し始めた。

 従って松岡構想は最初から躓き、しかもドイツはソ連侵攻後、最初の冬将軍到来に準備のなかったドイツ軍は全線進撃が鈍り、初めての敗北を味わった。

 この時1941年11月、ナチドイツ軍の全面的敗北でこの時から守勢に入った。日本海軍のハワイ真珠湾攻撃が12月8日、日本政府はドイツ軍の敗北は識らなかった。そのような時、正確な情報を把握していた小野寺武官は。日米開戦不可ナリの至急電を30数通打電したが握りつぶされ、日本は太平洋戦争に突入してしまった。まともな軍人や為政者なら絶対に犯さない愚行の連続であった。

 さらに大戦末期、ヤルタ会談でソ連が対日攻撃に踏み切ることを米英に約束したことをいち早くキャッチし、この情報を打電し、早期講話を打診した、が参謀本部の一参謀によって握りつぶされ、悲惨な満州における殺戮、原子爆弾投下、小野寺情報を正確に把握していたならば」・・・というのがあらすじ。

 小野寺武官は日本帝国のヨーロッパにおける最大の情報機関を短期間に築き上げたと怖れられていたが、日本側はその貴重な情報を全く無視していたから評価の違いが勝敗を決めた。

 参謀本部及び東条首相はルーズベルト大統領が天皇陛下宛の親電までも握り潰してしまったのだから日本帝国を地獄へ突き落とした罪を重いが、戦後一人として責任を執ったり、懺悔したりした者はいない。

 ◎この小野寺信氏の家族に触れたい。百合子夫人はスウェーデン語の翻訳が多く、また夫信氏が必死になって戦争阻止の活躍を描いた多数の著書がある。

 お馴染みの「ムーミン」はこの人の紹介で翻訳を全て手がけた。長男・駿一氏は元運輸省港湾局長

 次男・龍二氏は元駐オーストラリア大使

 次女・節子さんは元駐オランダ大使大鷹正氏夫人、兄大鷹弘氏夫人は元李香蘭、女優であり参議院議員であった大鷹(山口)淑子さん。

 この貴重な情報の出所はポーランド亡命政権、陸軍参謀本部所属諜報員イワノフからの情報が多いが、「極東青年会」イエジ隊長からの情報も得ていた。

 こちらはドイツ軍兵士として徴兵されたポーランド人兵士からの情報なのでかなり正確な情報であった。

 一方、ナチス情報省が発表する戦時情報は、ナチスのプロパガンダで、この情報を駐ドイツ日本大使大島浩(陸軍中将)は連日ナチスドイツ機動部隊の快進撃を打電し、参謀本部も大島電だけを信じ、全く正反対の内容だった小野寺電は比較することもなく無視した。

 1941年6月22日、ヒットラーは「バルバロッサ作戦」発動を命じた。(偶然なのかナポレオンが1812年ロシア侵攻を始めた日

 最新鋭ドイツ機甲師団を中心とする北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団が三方からロシアへ侵攻した。動員総数約300万、一戦場に集中した軍団としては史上最大となる。

 機動力に優れた機甲部隊は快進撃を続けた。それはドイツからポーランドを経てソ連国境付近までは道路が完備、整備されており地図も正確であっから、戦車をはじめ付随したトラックも快調に走行できた。

 一方、ソ連赤軍はスターリンの血の粛清が続き、多くの将軍が粛清され、その粛清の範囲が大佐クラスまで及ぶと部隊の直接の指揮官が突如消えてしまうのだから指揮、命令系統に乱れが出るのは当然で、弱体化していた赤軍は敗退を重ね、中央軍集団はミンスク、スモレンスク等でソ連赤軍の大軍を包囲殲滅し、首都モスクワを目指した。

 ところが、余りにも見事な快進撃に気をよくしたヒットラーは大きなミスを犯してしまった。それは中央軍集団から第二装甲集団を引き抜いて南方軍集団に回し油田地帯確保を目指したことによる。

 虎の子の第二装甲集団を抽出したことはモスクワを目指す中央軍集団の動きを鈍らせることになった。さらなる誤算はソ連領内に奥深く入ってみるとロシア革命以来ほとんど手が付けられていない荒れ地がそこにあった。ドイツ軍参謀が作成した作戦計画には予想もしなかった悪路の連続なのだ。その道さえ舗装は勿論されてなく僅かな砂利道があるだけ。それさえもない曠野が続き、そうするとキャタピラである戦車、装甲車は進撃出来たが、輸送を担当するトラックが進めなくなってしまった。

 しかも地図が全く出鱈目で地図上には道路があるはずのところが、荒れ地や沼地だったり原生林だったり、ロシア西側は沼地や湿地帯が多いから機甲部隊にとっては最悪の地帯であることは確かで、事前に調査していなかったドイツ参謀本部のミスで、常識が通用しないのが戦場、事前に現地調査をしておくのが当然だがそれを怠たっていたのは参謀本部の慢心だろうし、ヒットラーの野望が接急すぎて作戦計画が追いつけなかったのかも知れない。

 ともかく中央軍集団が悪戦苦闘しながらも進撃を続けたが、突如秋雨前線がやってきて大地は泥濘と化した。キャタピラでも走行困難、トラック輸送は不可、タンクローリーが動けなければ給油が出来ない、機甲部隊は燃料不足で進撃停止、秋も深まり秋雨前線は去った。やれやれと思いきやそれよりも強烈な予想もしなかった気候の変化があった。それは11月の初旬突然寒波が襲い、大地はカチカチに凍り付いた。だから泥濘で動けなかったトラックが走行できると喜んだのが束の間、不凍液の準備のなかったドイツ軍の車両はエンジンが作動しなくなってしまった。

 兵士は冬支度はしていなくて防寒着など全くなかったから凍えてしまい、こうしてドイツ軍の動きが停止している間に、厳寒には慣れている赤軍が着々と反攻準備をしおり、その後は映画「大祖国戦争」に観られるような反撃が始まった。

参考:「大祖国戦争戦」:戦後、ソ連政府は宣伝映画として赤軍の素晴らしさの宣伝として、ソ連軍の反撃を壮大なスケールで描いた映画を作成、世界中で放映した。

 ドイツ軍の快進撃が躓いた頃、イエジ部隊長の元には、ドイツ軍がものすごく多くの棺が戦線に送られている、多くの戦死者が出ている模様だ、不凍液の調達に狂奔している、貨車輸送が急増したが、それらが線路上で止まったままだ、路線が破壊された、輸送が停滞した等の最新情報が次々と入手でき、ドイツ軍の進撃が怪しくなってきている情報は夥しいものになってきており、これがバルト海をへだてた隣国であり、中立国であるスウェーデン・ストックホルムへ伝えられ、暗号に組まれ至急電として日本へ発信された。それを可能にしたのは王室が反ナチであったから、国を挙げて至急電の発信に協力した。

 第二次大戦に突入する前の12月初旬の情報としてドイツ軍の苦戦、躓きの情報は秘密情報として日本に伝えられていた。

 戦後、小野寺武官は帰国し命がけで発信した至急電がどのくらい活用されていたのか検証したが、全く顧みられていなかったことを知り、愕然とした。

 日本側から考察するとバルバロッサ作戦発動が1941年6月22日、快進撃がやがて悪路に阻まれ、動きが鈍り、更に秋雨前線によって泥濘化したのが9月の下旬から10月にかけて、大寒波に襲われたのが11月となる。

 そうすると日本は南下政策を決めたのは争に突入した1941年12月8日(アメリカ時間では12月7日、日曜日)ドイツ軍の快進撃にだけ惑わされていた陸軍が今こそチャンス到来と考えたとしても不思議ではないが、そのドイツ軍が立ち往生しているようだとの情報はなかったのか、疑問に思うだろうが、小野寺情報として参謀本部には届いていた。

 最前線で立ち往生してしまった中央軍集団の中には多くのポーランド人兵士がおり、戦場から発信する生の情報が「極東青年会」イエジ部隊長に伝えられ、小野寺情報機関を通じて緊急電として参謀本部に届いていた。

 これらの情報を総合して冷静に判断できる陸海軍中枢、政治家がいたら、歴史に「モシ・if」は禁句だが、どうして「モシ」かしたらと考えてしまう。

 「モシ・if」をもう一つ付け加えると、ドイツ軍からみて「モシ」ドイツ軍に有能な参謀がいてキャタピラの輸送車を準備していたら作戦予定冬将軍が来る前にモスクワを陥落していたかも知れない。

 それからもう一つ「モシ」を加えると12月8日、開戦と決めていたが、もし情報を正視、あるいは天皇陛下宛アメリカ大統領の親電を宮内庁長官経由、東条首相まで届いたが開封せず握り潰してしまった。

 天皇を崇拝し、絶対的な忠臣であることを誇りにしていた東条首相をしてこの行為であるから、開戦が近い頃の軍人中枢は緊張の余り正常な状態では居られなかったのかどうか。

 「モシ」奏上していたら、12月8日の開戦日がずれていたら、ハワイ真珠湾攻撃はなかったらと「モシ」は続く。

 何故なら奇襲攻撃を前提としていたから日曜日の早朝攻撃開始、すなわち将兵の休日を選んでいた。

 一方、連合艦隊機動部隊は千島単冠湾に集結し北方偽装航路で奇襲を目論んでいたが、航空母艦を中心とした護衛艦隊の艦艇は遠洋航海に適さない艦があり、途中で給油の必要があり、油槽タンカーが同航し、途中の海上で給油の予定であったが12月半ば過ぎると北緯50度以上の北太平洋は季節風が強まり、大時化となるためホースラインによる洋上補給は困難になることが判っていたから、12月8日がギリギリの最終日であった。

 もし12月初旬に開戦を躊躇する決定がなされていたら、その後は初春になるまで待たねばならない。そうすれば明らかなドイツ敗北の情報が正確に伝わり、我が国は太平洋戦争に突入しなかっただろうと思われる。また南方作戦開始だけで小競り合い程度で講和に持ち込めたかも知れない。

 ではどうして判断できなかったのか謎だが、答えは簡単、緊急電が一部参謀将校によって握り潰されていたのだ。従って政治的判断をする中枢の人達は全く情報に接していなかったことになる。

 参謀本部の組織をみると、参謀総長、参謀次長がいてその下に第一部作戦課、第二部情報課、第三部通信・運輸に分かれおり、第一部作戦課は作戦班、編成動員班に分かれ、第二部情報課は、ロシア、欧米、支那、謀略の班に分かれていた。

 そうすると小野寺情報の緊急電は参謀本部第二部情報部欧米班に届き、ここで課長決済後、第一部作戦課に届けられ、そこから参謀総長の決済後、政府要人に届けられる、ことになっていたが、残念ながら作戦課の佐官クラスの作戦参謀が握り潰してしまった。

 このようなことは日常的に行われており、参謀肩章を吊った作戦課の参謀は日本を動かしているという意識が強く、かつて石原莞爾参謀が夢見た世界最終戦争を夢見ていたのか、酔っていたのか、凄まじいばかりの思い上がりがあったことは事実だ。戦後、これら等エリート参謀はその責任を追及されることはなかった。

 この最大の愚行は小野寺機関が掴んだヤルタ会談での日本降伏へのプロセス、条件、ソ連軍の対日参戦を3ヶ月も早く掴み、これを緊急電として送信し、いち早い講和こそ日本を救う途だと説き、スウェーデン国王が仲介の労を執ることを承知しているとまで報告しており、事実国王の内諾まで得ていた。

 もしヤルタ会談の内容を把握していたなら、近衛元首相をモスクワへ派遣してスターリン首相の仲介で米英と講和の話し合いをしたいと目論み、事実註ソ佐藤尚武大使に訓令を打電している。

 海軍はレイテ沖海戦で生き残った戦艦伊勢をソ連に売却して、石油を分けてもらう下工作までしていた。ヤルタ会談の内容を全く知らなかったから大真面目にやっていたがソ連から観たら噴飯ものだったろう。

 この貴重な小野寺情報が陸軍参謀本部に届いていながら無視された理由が信じられないくらいバカげたことで、かつて陸大卒のキャリア将校が統制派と皇道派に別れ悉く対立していたことがあるが、二、二六事件の首謀者が皇道派だったことから皇道派と思われる将校は悉く中央から追われてしまった。

 もう一つ、白昼の陸軍省内で永田鉄山軍務局長が日本刀で斬殺された事件があったが、永田少将は統制派の中心人物、犯人の相沢三郎中佐は皇道派だったためその対立は更に激しくなった。 皇道派には真崎淳三郎大将、山下奉文少将(後大将)等であったが、陸軍の要職を追われ前線の指揮官に転出するか海外勤務に配置換えになった。

 後年、昭和11年2月26日、2.26事件の決起青年将校は皇道派の影響を強く受けていた。

 小野寺大佐も関係は直接的な影響はなかったが、皇道派に属していたのではないかと思われていた。

 この頃参謀本部作戦課にいた30歳代のエリート佐官クラスの中堅参謀将校は全て統制派で占められており、緊急電を最初に閲覧するのはこれら参謀将校で、自分達の作戦方針に不都合な情報として握り潰したが、その理由として皇道派の武官からの情報は信用できないと無視したらしい。

 もう一つ理由がある。駐独大島浩大使特電:大島浩陸軍中将は生粋の軍人で、父親は大島健一陸軍大臣を務めたことのある軍人でその長男として生まれ、父親の方針で幼少から在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語とドイツ流の躾を受けた。

 陸幼、陸士、陸大のキャリアであったが、実務である部隊配属は20才代だけで、ドイツ語を生かした外国駐在武官補として各国に駐在した。

 特にドイツの駐在武官は長く、ナチス党結成時から党幹部とは親交があり、リッペントロップとは盟友といえる仲だったらしい。

 そのうちに日独が同盟を組めば世界制覇も夢ではない、少なくともシナ事変を有利な条件で終結させるためには、国民政府を後押しし軍事援助をしている英米を追い払うにはドイツと組んで駆逐するのが最良と判断し、日独同盟を推進しようとした。(日独伊三国になるのは後から)

 駐在武官では政治的な働きは出来ない、そこで陸軍中枢を動かし、外務省に圧力をかけ東郷茂徳駐独大使(終戦時の外務大臣)を追い払う工作をして、大島本人が駐在武官から一挙に駐独大使になってしまった。

 これにはナチス党が側面から後押しをしたことが大きい。この人事に危機感を抱いたのが吉田茂駐英大使(戦後首相)で、日本は絶対にドイツとは組むべきではないとロンドンで大論争をやったが、時の外務大臣は松岡洋右でソ連、ドイツと組んでアメリカを脅かそうという誇大妄想狂的な思想の持ち主で、結局日独伊三国同盟へ走り出してしまった。

 この中心人物が大島浩で、陸軍は大喜びで日独伊三国同盟推進派、海軍はヒットラーの危険性を「わが闘争」から汲み取っていたし、ヒットラー総統の狙いはナチスにはない世界三大海軍力であった聯合艦隊を利用したいだけだと山本長官は喝破し公言していた。

 海軍は絶対反対を唱えたと巷間言われているが、実は絶対反対は米内光政海相、山本五十六次官、井上成美局長のラインだけで、米英支蘭(ABCDライン)の経済封鎖による石油資源確保対策に頭を痛めていた海軍幹部の大半は三国同盟賛成に傾いていたし、蘭領インドネシア、ボルネオの油田地帯確保を夢見ていた。(蘭:オランダ、漢字で阿蘭陀、蘭印:インドネシア)

 この焦りが海軍部内に陸戦隊として落下傘部隊を新設し、訓練に励んでいた。(陸軍落下傘部隊とは全く別組織)。開戦と同時に行動を起こしボルネオ島のパリックパパンの油田地帯に海軍落下傘部隊が降下し素早く占領したが、これは陸軍落下傘部隊がジャワ島パレンバン油田地帯に降下したより早い時期だ。

 ところが陸軍落下傘部隊賛歌として「空を征く神兵」が大いに歌われたが、海軍落下傘部隊の活躍は報道されなかった。複雑な陸海軍の先陣争いがあったらしい。

 山本次官が連合艦隊司令長官として転出すると、海軍省、軍令部の人事は三国同盟賛成派が一齋に要職に就いたことからも良く判る。

 三国同盟には絶対反対、対米戦争は絶対阻止を主張していた山本長官に対米戦争突入の引き金を引かせる全責任を負わせたのだから運命とはいえ非情だ。

 もう一人責任重大な人物が松岡洋介外務大臣で、国際連盟脱退、三国同盟、日ソ中立条約を半ば強引に調印して日本を翻弄したのはこの人の力が大きい。

 戦後の岸信介、佐藤栄作兄弟宰相の叔父佐藤松介は松岡洋右の妹、藤枝と結婚し、その長女寛子が佐藤栄作の妻、その次男信二(元通産相、運輸相)

 実兄の岸信介元総理は佐藤秀才3兄弟の次兄だが、長男市郎は海軍きっての秀才と言われた海軍中将だが任期中病死、次兄信介は岸家に入り、長女洋子が阿部晋太郎(毎日新聞記者、衆議院議員、元外相、総裁候補に出馬)と結婚、その子、そして信介の孫になるのが阿部晋三総理で現在の日本を牽引しておりアベノミクスが成功することを願うだけだ。

 この家系を遡れば、曾祖父佐藤信ェ、長州藩主(後島根県令)、祖父佐藤信彦(漢学者、県議)で、親類縁者には長州志士から明治の元勲が輩出。

 戦前、戦後、現在と日本を引っ張る重責を担っていたことは確かだ。

 松岡洋右外務大臣については日本人には珍しい独断専行型の政治家で陸軍軍人からは絶対的な人気があったし、国民からも英雄視されていた。

 1933年2月24日、当時ジュネーブにあった国際連盟の理事国であったが、満州国に関するリットン報告書を採択するかどうかで激論になったが、怒った松岡代表は脱会を宣言、退場をしてしまった。

 1940年9月27日、日独伊三国同盟締結、1941年4月13日、日ソ中立条約締結、次なる行動は日独伊ソの四カ国同盟でこれを持って英米との二局対決で交渉をはじめようとするのが松岡構想であっようだが、このような重要案件を日本政府とは協議なしで単独で締結、後から批准、追認の事務手続きをしているから、陸軍の後押しによる独走でしかなかった、がマスコミ受けも好く国民も多くは喝采し、時代の寵児ともて囃したが、その後、独ソ開戦が松岡構想を根底から覆してしまったし、近衛首相は独走する松岡外相をもて余し、自から内閣を解散し、松岡外相を追い出した経緯がある(その後再度近衛内閣を組閣した)

 12月8日早朝、ラジオの臨時ニュースでハワイ真珠湾攻撃の報を聴いたとき、己の構想で敷いてしまった政情が太平洋戦争突入という最悪の途になってしまったことに責任を感じ号泣したという。

 何故なら、松岡構想は日独伊ソの四カ国同盟が成立してこそはじめて米英の連合側と対等に交渉できるのであって、独ソ戦が始まり、ソ連が連合国側に付いてしまえば枢軸が負けるだろうことは明らかだったからだ。従って自ら敷いた路線が翻弄され、確実に敗戦国になる運命に陥ってしまったことを承知していたからだ。

 戦後は東京裁判でA戦犯になったが裁判中重い結核になり、免訴されたがまもなく病没した。

 更にもう一人、三国同盟締結で重要な働きで日本を誤らせてしまった大島浩がいる。外務省内に強力な松岡外相、大島駐独大使のラインができ、大島大使は生粋のエリート陸軍軍人で陸軍中将であるから陸軍との信頼関係は当然ながら強固で、さらにナチス党幹部とも親交があり、特にリッペントロップスの副官と揶揄されるくらい親交があり、ヒットラー総統とも面識があったからナチス党内部に深く食い込んだおり、情報網など組織しなくともナチス党から直接最新情報がふんだんに入手できたからこれらの情報を参謀本部に報告し続けていた。この情報を入手した作戦課の参謀達はナチスの快進撃だけに眼を奪われ、「バスに乗り遅れるな」を合い言葉に南方作戦発動の時期だと判断したのもある面では頷けてしまう。

 従ってこのような雰囲気の中、参謀本部では大島報告を信用し真逆の小野寺情報を無視するのが当然とする雰囲気であった。

 どうも真相は、ナチス中枢は意識的に大島大使に対し最新極秘情報をリークし、日本政府を操っていたようで、単にナチスのプロパガンダに踊らされていたようで、大島大使は世界情勢の大きなうねりの中でピエロを演じていただけのようだ。

 戦後、大島大使の責任は追求され、東京裁判でA級戦犯として起訴され、裁判中、親しく付き合っていたリッペントロップスとは一度も逢ったこともないという嘘の証言を繰り返し、辛うじて絞首刑を免れ、終身刑の判決で巣鴨刑務所で服役したが1965年仮釈放されてから茅ヶ崎に隠遁、1975年病歿した。

 ヤルタ会談:1945年2月4日〜11日、黒海のクリミア半島にある保養地ヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦の参加国の首脳が集まり第二次世界大戦が終末が近づき、戦後処理を話し合う会議がもたれた、出席はアメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン書記長の三人で、議題の最重要項目は対日戦にソ連の参戦を促すこと、ポーランド問題、ドイツ問題、国際連合設立問題等数々の議題があったが、ソ連対日参戦はスターリンが本来望んでいたことであるから、米英から参戦を促されたことは非常に喜ばしいことであって即座に決まった。

 問題はポーランド問題がこの会談の半分以上費やした難題であった。

 1939年、独ソが両側からポーランドを侵攻し2分割して占領したが、その後ドイツがソ連を攻撃したため、ポーランド全土がドイツの占領地となった。

 その後、独ソ不可侵条約を破棄してソ連国内に侵攻し、モスクワ近郊まで進撃したが、冬将軍に阻まれ持久戦となったが補給が続かなかったドイツ軍はやがて配送を続け、赤軍はポーランドの半分を占領した。

 ドイツ軍はここまでは敗走したが、ここで踏みとどまり反撃の態勢を執った。

 進撃を続けてきた赤軍もポーランドの国土東半分を占領した時点で進撃を止め、東部の中心都市であるルブリン市に共産党政権(ポーランド国民解放委員会、ルブリン政権)をモスクワ指導の傀儡政権を樹立した。

 一方、ポーランド国にはロンドンに亡命政府があり、連合国軍として対独戦に参加しており、ノルマンディー上陸作戦にもポーランド軍として参加した。

 ソ連政府とポーランド亡命政府とは連合国軍側として正式な国交があった。

 ところが前に述べた「カティンの森の大虐殺事件」が明るみ出たことによりソ連政府の態度に不審を抱き、対立状態にあったが、ソ連政府は傀儡政権樹立と共にポーランド亡命政府とは外交関係を断絶してしまった。

 ソ連政府としてはこのルブリン政権をポーランド国全土を支配する政権にしたい野望があったが、そこで障害になるのはポーランド全土に散開する愛国主義者で組織する強大なレジスタンス部隊の存在と亡命政府の国内軍の存在だ。

 何とかこのレジスタンス部隊と国内軍を壊滅させたいと策略を巡らすが、さすがに悪知恵の働くクレムリン首脳部は一石二鳥の妙案を思い付く。

 1944年7月30日、ソ連軍は首都ワルシャワ市街から約10kmの地点まで侵攻、ワルシャワ陥落も時間の問題となった時点でポーランド国内軍に赤軍との共同攻撃を提案、それに伴いワルシャワ市内に居住するレジスタンス部隊の蜂起を促した。

 7月29日からはワルシャワ蜂起開始を呼びかける宣伝放送がモスクワから放送され、亡命政府と赤軍との間には蜂起の密約があった。

 8月1日、夕方(午後5時)約5万人の国内軍とレジスタンス部隊が蜂起、ドイツ軍の兵舎、補給所、駅、橋等の拠点を襲撃、防衛のドイツ軍は手薄だったため、やや後退した。が、国内軍やレジスタンス部隊には満足な火器は持たなかったが果敢に戦った。ドイツ軍はヒットラー総統から直接反撃の命令が出され、付近に展開していたドイツ軍を転用したため、ワルシャワ市街は至る所で戦闘が繰り返されると装備にまさるドイツ軍が優性になると共にワルシャワ市街破壊に転じ、市街地の80%は破壊されてしまった。

 ヴィスワラ川河畔を占領していたソ連赤軍は容易に渡河し、蜂起軍を手助けできる位置にありながら、対岸の見物だけで動こうとせず、壊滅するのを待っていた。さらには赤軍は連合軍側から兵器や物資の補給をも認めず輸送を阻止、亡命政府が派遣したポーランド第一軍団の兵士は燃え上がる祖国の首都ワルシャワ市街が燃えさかるのを対岸から涙を流しながら見詰めるだけの悔しさを味わった。

 ワルシャワ市内ではドイツ軍による蜂起参加者狩りが行われテロリストとして即座に銃殺された。レジスタンス・市民の死者は18万〜25万人。

 10月2日、国内軍はドイツ軍に降伏し、兵士は武装解除され捕虜として収容所へ送られ、市民70万人は市外へ追放となった。

 この時、エイジ青年の地下組織も壊滅したのかも知れない。時代の波に翻弄され続けたポーランド人孤児の成人後の一部の姿だったのだろうか。

 だからこそこのような過酷な運命の中で、親身になって助けてくれえた日本人の暖かさに感激したのだろう。ポーランド国民との交流は今後も続けていきたい。

 ワルシャワが廃墟になった1945年1月12日、赤軍はようやく進撃を開始、1月17日にはワルシャワ全市を占領し、更にレジスタンの生き残り幹部を逮捕、処刑することによって自由主義政権の誕生の芽を摘み取ってからクレムリンに絶対忠誠を誓う共産党政権を樹立した。

 かくしてポーランドを赤軍の大集結地としてドイツ国内侵攻の準備を進め、ここまで来ればベルリンは指呼の先にあり、西から進撃してくる連合軍より早くベルリンを占領せよとのスターリンからの命令に基づき猛烈な快進撃になった。

 1945年4月30日、結婚したばかりの妻エヴァ・ブラウンと地下壕でピストルで自決、妻は劇薬シアン化合物での自決、遺体はガソリンをかけて焼却したが、ソ連軍に回収され歯形の鑑定が行われた。

 5月2日、ソ連赤軍、ベルリンを完全占領

 5月8日、デーニッツのフレンスブルク政府、連合国に降伏

 6月5日、ベルリン宣言、分割して占領、その後西ドイツ、東ドイツとなる。ポーランド国は共産党政権となり、共産主義陣営の一衛星国家として長らく苦難の道を歩んだ。何処までも続いたポーランド、回廊国家の悲劇であった。

(写真は映画:2004年制作ドイツ・オーストリア「ヒットラー最後の12日間」)

 さて、この激動の中、ポーランド國の運命、そしてポーランド人孤児達の運命はどうであったのだろうか。

 ポーランド國は、戦時下でドイツとソ連に分割され、國は消滅したが、1945年ヤルタ会談で復活する。戦時中の犠牲者は人口の22%、約600万人が亡くなった。

 1948年、共産党支配体制が成立、国名もポーランド人民共和国となり、ソ連の一衛星国家となり、ソ連の支配は続いた。

 独立を勝ち得たのは、1980年、労働者のストに端を発した「連帯」を核とする民主化が大きなうねりとなって広がり、その中心人物がワレサ連帯議長であった。

v ワレサ氏は後に大統領となり、民主国家を創りあげた。

 ワレサ氏は1983年、ノーベル平和賞を受賞、国賓として訪日した際は「ポーランドを第二の日本したい」とその抱負を述べた。

 ポーランド人孤児達の消息であるが、戦時下で命をおとした人が多かったらしい。

 イエジ青年はどうであっただろうか、激しい地下運動で遂にはソ連官警に捕らえられ、再びシベリア流刑となったが、ここでも生き抜いた。

(イエジ・ストチャウコフスキ氏と
上田日赤社長(当時))

 1983年、76才になったイエジ氏は懐かしの日本を訪れた。

 自分達孤児を保護してくれた施設や、看護婦さん達を探し求めたが、大半の人達は既に亡くなっていたが、それでも地下組織で活動していた頃、連絡したワルシャワ日本大使館の駐在武官上田昌男当時中佐とは再会できた。

 ポーランド人孤児救出など、心温まる美談を数多く残してくれた先人に感謝し、現在失いかけている、人々を敬い感謝する心、日本人としての誇り、武士道精神などが、國全体に芽生え、明るく希望に満ちた、誇りある日本に育てたい。

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第40章 第二次大戦への突入と終結 北方四島問題(3)

 ポーランド・シベリア孤児が無事救出され祖国へ帰り着いたことを前章で述べましたが、悪夢が再び祖国を襲い、ポーランド全土が独ソの侵略によって分割され泥炭の苦しみを味わっていた頃のことですが、再び日本との接触が起きたのです。

 第一次世界大戦が終焉し、やっと平和が戻ってきたが、ベルサイユ条約で過酷な戦時賠償をドイツ国民に課したため国民はハイパーインフレに悩まされ、絶望的な生活を余儀なくされていた。

 この恨みは過大な賠償を決めた戦勝国側に向けられ、特に高額の賠償を決めたフランスに向けられた。

 インフレに痛めつけられたドイツ国内は混乱し共産主義運動が勢いを広げてきた。そうするとそれに反動するように国家社会主義的な極右運動も勢いを増してミュンヘンに本部をおいた極右集団が急速に拡大してきた。

 演説が巧みで獅子吠えする若き党首の魅力に嵌まり、誇り高きドイツ国民の絶望感を巧みに捉えて癒やしてくれる党の運動に自分達の運命を託してみようとする心理が働きかけ、党の勢力は見る間に拡大した。

 国家社会主義ドイツ労働者党、これが最初の党名、若者の閉塞感がこの党の活動に刺激され瞬く間に全国規模に拡大し大躍進を遂げた。

 1933年1月30日、反ユダヤ主義を掲げるナチス党首アドルフ・ヒットラーがドイツ国大統領バウル・フォン・ヒンデンブルクからドイツ国首相に任命され、ドイツ支配の第一歩であった。

 党が掲げる政策の基本は「アーリア人至上主義」「反ユダヤ主義」「反共」「指導者による独裁」を掲げ、ヒットラー著「わが闘争」が党の聖典とされた。

 ここで一寸疑問に思うのはアーリア人て何だ?ドイツ人はゲルマン民族ではなかったのか。疑問はすぐ解かないと論は進まない。

 「アーリア人至上主義」、アーリア人のルーツを探ると、元々中央アジアからイラン高原に住んでいた遊牧民で、その一部がインド方面に移住した人達で、主にイランに住んでいたから‘イラン’の国名は「アーリア人の土地」という意味だ。

 18世紀にインド・サンスクリット語がヨーロッパに伝わり、ギリシャ・ラテン語と共通するモノがあるという学説が生まれ、インド・ヨーロッパ語族と分類された。

 19世紀後半、マックス・ミュラーはドイツ生まれだが、イギリスに帰化したインドに関する学者で特にサンスクリット(梵語)に関しては造形が深かった。

 マックスはインド・ヨーロッパ語を話す民族こそがアーリア人だとの学説を唱え広く支持された。

 ちなみに父親が詩人で有名なヴィルヘルム・ミュラーでシューベルトが曲を付けた「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」は我が国でも良く知られている。

 更に強力な影響力があったのは音楽家のワーグナーで、ドイツ人を構成するゲルマン民族こそ最も優秀なアーリア人だと主張。この思想を受け継いだのが熱烈なワグネリアンであったヒットラーで、この思想に飛びつき、更にアーリア人を美化して定義し、形質的な特徴として身長、長頭、髪がブロンド等として、これらの定義に当てはまる者を正当なドイツ人とした。

 従って、この規定に当て嵌まらないユダヤ人は民族浄化の妨げになると排除する政策を執り始めた。

 但し、ヒットラーが主張したようなアーリア人種は歴史上でも存在しないから、ヒットラーが遂行しようとした政策の方便に利用されたにすぎない。

(日本のお寺や地図の
マークは左卍)

 ハーケンクロイツ(逆鉤十字)(右マンジ、逆マンジ)1935年ドイツ国旗に採用されたが、古来よりヒンズー教や仏教では幸運のシンボルとして使われた。

 この逆マンジを採用した理由は、ドイツの考古学者、ハインリッヒ・シュリーマンがトロイの遺跡の中から「逆マンジ」を見つけ出し、古代のインド・ヨーロッパ語族に共通な宗教的シンボルとして見なしてアーリア人優越性の象徴とした。

 古代ペルシアを起源とする善悪二元論的な宗教でアヴェスターを根本経典とするゾロアスター教(拝火教)の炎のシンボルを図案化したハーケンクロイツだとする説もある。

 これには一理あり、近代以降、イラン本国のゾロアスター教徒がイスラム教徒との軋轢により集団でドイツへ移民したことがあり、ドイツ本国でもその教義を広め信者を増やしたことがあるので、その影響力をナチスが利用したのかも知れない。

 ナチ党の赤地の中央に白円の中央にハーゲンクロツを黒で描いた。ヒットラーは、赤は社会的理念、白は国家理想主義理念、ハーゲンクロツはアーリア人種の優越性のために戦う象徴と規定した。

 「反ユダヤ主義」、ヒットラーが勢いを増してきた頃のドイツ国内は多くのユダヤ人が住んでおり、ドイツ国内のハイパーインフレの時でも商才に長けたユダヤ人は比較的裕福な生活をしていた。

 古来より金融業に携わる人が多く裕福であった。これには理由がありキリスト教の教義で利子を取ることを禁じていたために、金融業は成り立たず、ユダヤ教徒のユダヤ人が独占的に金融業を営んでいた。従ってキリスト教徒からは経済活動を支配する異教徒として恨まれていた。

 そうするとユダヤ人排斥運動を行うと多くの国民が同調し支持すれば党拡大に繋がるとヒットラーは読んだ。

 手始めは彼らが持つ旅券、ビザのチェック、それを度々繰り返し、多くの在ドイツのユダヤ人はポーランド国のビザで入国して移住していることに眼を付け、ポーランドへ帰国するよう促せとポーランド政府に圧力をかけた。

 ところがポーランド政府はユダヤ人の帰国を嫌がり、1933年10月6日、全てのポーランド旅券につき検査済みの認印が必要であるとする新しい旅券法を公布した。これによりドイツ在住のユダヤ人全員が無国籍者になってしまった。

 この騒動の中、ポーランド系ユダヤ人でドイツ在住のセンデル・グリュンシュバン一家の主がパリに住む息子に窮状を訴え、フランスへの亡命を謀ったが、息子のヘルシェル(17才)はパリにあるドイツ大使館に赴き、対応に出た三等書記官エルンストン・フォム・ラートにピストル二発を打ち込み瀕死の重傷を負わせた。

 この報を受けたヒットラーは自らの侍医であったカール・ブラント博士をパリに派遣し治療に当たらせたが死去(11月7日)した。この報は詳細に報道され反ユダヤ運動を盛り上げるのに使われた。

 そうすると即座に11月9日から10日にかけて反ユダヤの暴動がドイツ各地で起き、ユダヤ人の商店が襲われ、ショーウインドーが割られ、散らばったガラス片が道路に散乱して、街灯に照らされてキラキラと輝いたため、俗にクリスタルナイト(水晶の夜)と呼ばれたが俗称とは異なり悲惨なユダヤ商店襲撃事件であり、この後はゲシュタポ(保安警察、長官ラインハルト・ハイドリッヒ親衛隊中将)による逮捕、強制収容所送り、最終段階はガス釜による大量殺戮となったが、この時期は多くのユダヤ人を逮捕し、列車でポーランドへ送還しようとしたが、ポーランド政府は入国を拒否、このため多くのユダヤ人は国境付近の無人地帯に放置され、多くの人々が餓死、病死が相次いだ。

 この報に驚いたアメリカのユダヤ人協会は基金を集め、シベリア鉄道の運賃を全額負担するからシベリア鉄道の列車で運んでくれとソ連政府に嘆願した。

 ドイツ政府、ポーランド政府は厄介払いになるとシベリア鉄道に乗ることを黙認、シベリア鉄道に乗車できたユダヤ人達は東へ向かう列車で出発した。

 予定としては終着、ウラジオストック、そこから船で日本へ、太平洋横断客船でアメリカへ、更にカリブ海のケイマン諸島(イギリス領)へ向かうというのがアメリカ在住のユダヤ人協会の筋書きであった。実はアメリカ政府がユダヤ人の入国を禁止していたから、奇策としてカリブ海にあるケイマン諸島と小アンチールの最先端で南米ベネゼエラの沖合にオランダ領アンチール諸島という島々があり、世界でこの二つだけはユダヤ人の入国ビザを発行してくれて、これらの手続きはユダヤ人協会が代行してくれた。

 当時はオランダ領小アンチールとケイマン諸島ビザを発行した理由は人道主義に元付いた訳では無く、砂糖黍とラム酒しか生産できない貧しい島に入国を希望する人は無く、観光地としても全く魅力が無かったからビザを制限する必要は無かったからに過ぎない。従ってノービザでもOKだった。

 一寸寄り道すると、このオランダ領小アンチールはキュラソー島にあるウィレムスタット市が首都で、この街はリットル・アムステルダムと言われるようなオランダの街そっくりな綺麗な街で、佐世保市にあるハウステンボスがカリブ海に移転したような錯覚するほどの街だ。(3度ほど寄港したことがある)

 更にもう一つ、WBC予選で福岡から東京に移り3月10日、侍ジャパン対強豪オランダが対戦し、打線が爆発した侍ジャパン16対4、7回コールド勝ちした。

 だが油断は禁物、予選では韓国、台湾、キューバをも下した強豪なのだ。なんと言ってもその主力選手は大半がこのオランダ領小アンチールの出身、キューバをはじめカリブ海にある各国は野球が盛んで、アメリカの大リーグや日本のプロ野球にも多くの助っ人がやってきてプレーしているから皆さんご存じの選手も数多くいるはず、今回のWBCでも大リーグや日本のプロ野球で活躍中の現役の選手がオランダ代表として参加しているから歴史を知れば更に面白くなるはずだ。

 メジャーリーグ最大の選手は10年間ゴールドグラブ賞を受賞した好守の外野手アンドリュー・ジョーンズはキュラソー島出身、打撃でも活躍し最多本塁打、最多二塁打の二冠王にも輝いたから凄い。(楽天でも活躍した)

 3月12日、WBC決勝戦、同じくオランダと対決、侍ジャパン10対6オランダ。共にアメリカ、サンフランシスコでの世界一を目指す戦いに出発した。

 アメリカでの予選はドミニカ共和国とプエリカルトが代表となり、本場アメリカは敗退した。まさにカリブ海リーグに日本が参加したような形のWBCになった。

 ウラディミル・バレンティン(ヤクルト外野手)キュラソー島、ヘンスリー・ミューレンス(ヤクルト外野手)キュラソー島、3月18日、WBCサンフランシスコ、準決勝戦侍ジャパン1-3プエルトリコ。

 さて無事シベリア鉄道に乗車できたが何しろ2万人単位のユダヤ人を輸送するのだから1回の列車に詰め込んでも千人単位で、しかも1日1列車の運行のみだから日数を費やした。さらに世界一長い路線を走るのだから当時3週間を要したという。

 ところがソ連政府は乗車中のユダヤ人を逮捕してドイツとポーランドへ送り返すと言い出した。これはドイツ政府、ポーランド政府への駆け引き、嫌がらせの類いだが、取引材料に薄幸のユダヤ人を利用する狡猾さに文字と通り神も仏もないものか、博愛精神が売り物のキリスト教徒はどう動くのか、政治の世界では宗教観は全く作動しないようで信仰とは何なのか、考え込んでしまう数々の所業だ。

 危険を感じた乗車中のユダヤ人はシベリア鉄道のバイカル湖を過ぎてチタの駅からしばらく走るとカルムスコエ駅という小さな駅があり、ここから本線はハバロスクから終点ウラジオストックへ向かう。

 この分岐点では支線が満州方面へ向かい国境を越えると満州里で満州鉄道に連絡してハルピンへ行ける。

 そこでユダヤ人達は日本に助けを求め、ここで乗り換え蘇満国境目指した。

 ところが蘇満国境で満州国外交部は入国を拒否、ブリヤード共和国の国境の小さな町オトホール駅で強制下車させられた。真冬のシベリアで食料も寝るところもない、全くの立ち往生状態に陥った。(オトホール事件)

 この当時、満州帝国という傀儡政権が満州国を樹立していたが、事実上は関東軍が支配しており、世界は国家として認めていなかった。このため我が国は国際連盟を脱退するハメになったが、リットン報告書を国際連盟総会が採用したことによる。

 この報は直ちに関東軍にも知らされ、ハルピン特務機関長樋口季一郎少将に連絡があった。

 特務機関長は部下を伴い蘇満国境に向かい、ブリヤード共和国と交渉し、全員満州国が引き取ることで了解させ、特別列車の運行を満鉄に依頼して無事全員を満州国内に入国させた。このとき引き取ったのは約1万人位と言われている。

 一方、ケイマン諸島(イギリス領・カリブ海)のビザを持っていた人達は乗り換えないでウラジオストックに到着したが、日本との定期連絡船は、冬場は運航停止しているのでここでも足止めを食ってしまった。

 この情報はアメリカのユダヤ人協会に連絡がされ、ここから東京に本社のある日本交通公社(現JTB)に連絡があり、経費はユダヤ人協会が振り込むので助けて欲しいと願い、また日本政府はケイマン諸島へのビザがあるならば通過ビザを発行すると保障した。

 連絡があった交通公社が独自に汽船をチャーターして季節風で大時化の日本海を渡りウラジオから敦賀まで何度も往復して全員が日本に運び無事上陸した。

 このとき責任者として活躍したのが交通公社職員の大迫辰雄さん(当時34才)、ウラジオストックにあるソ連代表部との難しい交渉や嫌がらせに対応し無事やり遂げた。(JTBの記録によると約6000人のユダヤ人を救済したと記されている)

 敦賀に上陸、そこからは列車で神戸へ移動し太平洋横断の汽船を待ったが、こちらも便数が少なく月に1回くらいしか就航がなく、神戸市内で待機したが神戸市民の団体や有志の人達が献身的にお世話したらしい。

 これは日独伊三国同盟があり、ドイツとの同盟関係があった我が国政府が直接介入できず、といってABCD経済封鎖が始まる前だからアメリカのご機嫌を損じるようなことはしたくない、それで1民間企業である日本交通公社が営業の一つとして勝手にやったことだとして視て視ぬ振りの頬被りを決め込んだ。

 ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっていたが、我が国は未だ参戦していなかったので何度かに分けて、全員が神戸出港アメリカへの客船に乗船できた。

 ではその後ケイマン諸島へ向かったのかというとユダヤ人協会の奔走によりアメリカ入国が許され、同胞が多数居るアメリカ国内の生活に溶け込んだようだ。

 一方、満州に入国したユダヤ人はどうなったのか、こちらの大半が何国のビザも持たず、より貧しい層の人達だったらしい。

 樋口機関長は部下の安江大佐、河村少佐を直接の世話係に任命し、食料、衣類等を調達し、安息の場所を提供して一時的な収容という難事業を短時間でやり遂げた。

 それからは何とかビザが得られた人達は日本に送り出し、ウラジオストックからの人達に合流させ、日本交通公社の業務に任せた。

 この一連の行為を激怒したのがヒットラーで厳重な抗議が外務省にあり陸軍省に転送され、さらには関東軍に届いた。

 その抗議文の内容は特務機関長樋口少将の罷免要求であった。

 この時の関東軍参謀長は東条英機中将であったが、この抗議文を一読して握り潰し、樋口機関長を呼んでユダヤ人保護を継続してやることを命じた。

 この頃は未だナチスに関しては余り興味がなかったらしい。また首相になってからも「日本のヒットラー」と取り巻きがお世辞を言ったとき、「アンナ成り上がり者と一緒にするな」と激怒したことがあると伝えられており、三国同盟を締結していたが日本側の首脳が直接会ったことは全くない無意味な同盟国であった。

 連合軍国側は首脳が度々会合、意見交換をしていたし国民政府の蒋介石総統もカイロ会談時には招待され、その他でも電話で意見を述べていた。

 この事件より遙か前のことだが、ナチスが政権を執り出した頃、ユダヤ人弾圧の兆候があり、危険を察知したユダヤ人がシベリア鉄道を利用して脱出しはじめ、満州にたどり着いた大勢のユダヤ人が居た。

 そのとき満州にはもう一つ「河豚計画」という壮大な計画があった。これは1934年(昭和9年)満州重工業総裁鮎川義介氏によって提唱されたものだが、満州財界も乗り気になり、後は関東軍指導部がどう判断するかであった。

 満州の地はハルピンを中心として多くの白系ロシアの人々が住んでいた。元々満州はロシア皇帝の所有地とされていたが、ロシア革命でロマノフ王朝に連なる貴族や軍人、上流階級であった白系露人が祖国を追われ多数移り住んでいた。

 1898年、ロシア帝国は満州を横断する中東鉄道建設に着手したため、その中心となるハルピン市には多くのロシア人が住むようになった。

 さらにはロシア革命により上流階級の白系ロシア人も増えたが、政権が替わっていたからパスポートを所持しない無国籍者になってしまったがロシア人租界を造り生活していた。

 そこへ欧州各地からユダヤ系の人々がシベリア鉄道経由で満州に難民としてやってきたから、この人達が一緒になって自治区を創ってはどうかという提唱があった。

 この計画には無国籍者であったロシア人、ユダヤ人ともに大賛成で、自分達の自治区、あるいは自治領の建設を夢見た。

 1938年、五相会議で政府の方針として定められ、実務面では陸軍が安江仙弘大佐、海軍が犬塚惟重大佐が任命され陸海協同作戦となった。

 この「河豚計画」の基本方針は、ユダヤ人の経済力、政治力を評価し、ヨーロッパ諸国で迫害を受けているのみならず、1935年にはニュールンベルク法が制定されドイツ国内ではユダヤ人は市民権を剥奪され公職追放されるなど深刻な状況にあり、そこで5万人位のユダヤ人を満州に移住を勧め、その経済力と才能を満州国建設に役立てもらおうとする計画であった(当時は未だ日独伊三国同盟締結以前であり、ナチスドイツも強制収容所は未だ無く、国外追放だけであった)

 そうすればユダヤ人が持つ世界中のネットワーク、特にアメリカ社会に強力な力を持つユダヤ人に好意を持って貰えば日米の外交的対立も緩和出来るのではないかとの思惑があった。

 この「河豚計画」命名の由来は、日本にとって非常に役立つかも知れないという期待と、もし失敗すると国際的な非難を浴びること必定とする二面性を持つ計画であったから、美味と猛毒の二面性のある河豚に擬えて犬塚大佐が命名した。

 残念ながら内閣は次々と替わり五相会議決定事項にもかかわらず、

 真剣に取り組もうとする担当大臣が居らず先送りされ、さらに関東軍幹部にも消極的な将星がいて実現されないまま、シナ事変、ノモハン事変、太平洋戦争と続くうちに計画は立ち消えとなってしまった。

 ただし、ユダヤ人救出の活動は続き、樋口少将、安江大佐、河村少佐、海軍の犬塚大佐の活動は終戦時まで続行された。これはナチスドイツのポーランド侵攻による英仏との開戦、独ソ不可侵条約を踏みにじっての独ソ開戦、太平洋戦争開戦と続いて、満州で収容していた約2万人が行く先を全て閉ざされ、孤立してしまった。

 そこでビザが必要としなかった上海租界へ送り込み、ユダヤ人ゲットーを創り、海軍シナ方面艦隊司令部付犬塚機関として引き続き犬塚大佐を指揮官とする海軍陸戦隊の一部が管理・保護した。

 食糧難の時、2万人の食糧調達や治安維持に苦労したという、それでも餓死者はなく、病没と終戦間際アメリカ空軍の爆撃に遭い十数人が爆死しただけで終戦を迎え第二次大戦後大勢のユダヤ人は無事祖国へ戻ることが出来た。

 戦後しばらくして樋口季一郎、安江仙弘、犬塚惟重の三氏にユダヤ人協会からイスラエル国民が三氏から受けた恩義に対してその顕著を同族としてゴールデンブックに記録し、顕著したいと招請があった。

 安江氏は既に病没しており、犬塚氏は上海のゲットーでアメリカ軍の空爆によって十数人が爆死させてしまったことを自己の責任と自分を責め続けており、申し出を丁重に断った。

 後日、イスラエルから表彰状と記念品が贈られてきた。

 結局、樋口氏一人だけがエレサレムで行われた式典に出席し、金襴簿(ゴールデンブック)に樋口、安江、犬塚の三氏が記載された(イスラエル国最高の顕著)

 樋口氏が出席したのは理由があって、イスラエル国民に直接お礼を言いたいとのことでした。

 それは、返還問題で揺れる北方四島で、8月15日終戦でしたが、9月初旬まで激しい戦闘があり、その時の日本守備隊を指揮したのは北部軍管区司令官樋口中将(少将から昇格)司令部(札幌)。ハルピン特務機関長から転任していた。

 突如、ソ連は日ソ不可侵条約を踏みにじり8月8日対日宣戦布告、蘇満国境を越えて満州になだれ込み、防衛するはずであった関東軍の大半は既にフィリッピンや沖縄に転出されており、無敵関東軍とは名ばかりのもぬけの殻だけにすぎなかった。

 このため取り残された開拓民の数々の悲劇が満州の野に繰り広げられた。

 8月15日終戦の宣言をしたのにも拘わらず、ソ連軍は攻撃の手を休めず樺太、千島列島を襲い、できる限りの占領地確保の実績を得る為に戦闘を継続した。

 9月になってから北方四島に武力上陸をして守備の日本軍が、終戦宣言がなされていると告げたのを無視、攻撃してきたので防御したが、停戦になってからスターリン首相は終戦宣言されているもかかわらず樋口司令官が攻撃を命じたのはけしからんと難癖を付け、戦犯として引き渡しを要求してきた。

 当時日本は連合軍が占領していたが進駐軍総司令官の同意がなければソ連単独では逮捕できない。

 この情報を聴いたアメリカ在住のユダヤ人協会が立ち上がり、樋口氏の恩義に報いるのはこの時とばかり猛烈なロビー活動で、ついにはトルーマン大統領を通じて極東軍総司令官マッカーサァー元帥のもとに大統領命令として樋口氏の保護を命じる通達があった。

 第二次大戦での日本軍人、特に上層部の軍人の行動に関しマイナスイメージが強く印象付けられているが、立派に職責をはたし功績があった軍人も数多くいたはずで、これからも数多く掘り起こしたい。

 もう一つユダヤ関連のこと、日露戦争に関し貧乏国日本が世界最大の陸軍を持つロシアと戦うのですから戦費は幾らあっても足りなので外国に金を借りることにしてアメリカやヨーロッパに特使を派遣し戦時国債を発行しようとしたが、極東の小国が巨大な熊に勝てるわけがないと戦時国債を誰も買わなかった。ところがロシア在住のユダヤ人を苦しめているロマノフ王朝を苦々しく思っていたイギリスやアメリカ在住のユダヤ人達はこの際ロマノフ王朝を崩壊させる手段として日本を支援しようとユダヤ人のシフ家が所有していたクーン・ローブ商会が中心となって戦時国債を引き受けてくれた。この時調達出来た金額は日露戦争戦費の約四割あたるというから日露戦争勝利の原動力はこの戦時外債にあったと言われているくらいだ。

 また「河豚計画」の目玉は、この時のシフ氏の孫にあたる銀行家ジェイコブ・シフ氏がもう一度満州に投資してくれることを願って鮎川義介氏が練った案だと言われている。

 更に歴史は繋がりシフ商会の末裔がリーマン商会で、この商会が無理な投資に失敗し多額の負債を残して倒産したために世界は経済的な大打撃を受け‘リーマンショック’といわれ、我が国も大打撃を受け、経済的に麻痺状態になり、長い期間経済的低迷に苦しんできたが、最近になってやっとアベノミクスで何とか株価がリーマンショック前の株価に上昇した。

 もう一例を紹介する。この度は第一次世界大戦後における我が国とドイツの関係において心温まる話です。

 ヨーロッパで戦火がおこり、第一次大戦が始まると、イギリスは日英同盟のよしみをもって、日本の参戦を促し、このドイツ青島要塞とドイツ東洋艦隊撃滅を要請してきた。

 その他、南太平洋のグァム島(アメリカ領、海底ケーブルの中継基地)を除くマリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、パラオ諸島、更にはその名の通りのビスマルク諸島、もう一つ現在中国が占有して国際問題になっている南シナ海のナンシャー(南沙)諸島も全てドイツの植民地だった。

 これは十七、八世紀ヨーロッパの列強は植民地獲得に狂奔し、アフリカ、アジア、南北アメリカ大陸を蚕食、広大な植民地を獲得していた。

 ところがドイツ(プロシア)は、国内の内紛が絶えず、植民地獲得競争には参加できなく、やっと統一がなり、植民地獲得競争に参加しようにも時期を逸し、仕方なく列強が取りこぼした南太平洋の小島を獲得するのがやっとだった。

 参戦を要請された我国では、軍部は外地への派遣によって本土防衛に支障をきたすと参戦には消極的であり、かつ日露戦争による膨大な戦費の外債返却に苦しんでいるときだけに更なる戦費の負担に堪えられないという本心もあり、その反面、臥薪嘗胆を晴らす絶好の機会でもあるといった複雑な心境であった。これは日清戦争でやっと獲得した遼東半島を三国(露、仏、独)の干渉によって返還したが、これが三国のマジックでこの三国は清朝から各種の権益を巻き上げてしまったが、我が国は未だ力なく反撃のしようがなく泣き寝入りであった。このとき臥薪嘗胆という言葉がはやった。従ってドイツに反撃する絶好の機会だと捉えて、大隈重信首相は御前会議にもかけず、議会の承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後に参戦を決定、最後通牒となり、8月23日日本はドイツ帝国へ宣戦布告した。

 日本陸海軍は青島攻略(1914年10月31日〜11月7日)から開始、ところがドイツ東洋艦隊は港湾の封鎖を怖れて、宣戦布告と同時にドイツ本国を目指して脱出しており、地球を半周しての航海だが、南米のドレーク海峡回りだから出口であるイギリス領フォークランドを根拠地として、戦艦「カパス」「カナボン」を主力とするイギリス艦隊と日本の第一南派遣支隊がアルゼンチン南東沖で待ち伏せ、12月8日脱出してきたシャルンホスト(重巡洋艦11600t)、グナイゼナウ(重巡洋艦11600t)、ニュールンベル(軽巡洋艦3470)の3隻を撃沈、軽巡洋艦ドレスデン(3666t)のみが逃走に成功し、反転して太平洋側に逃げたが、チリ沖ファン・フェルナンデス諸島沖でイギリス海軍巡洋艦に捕捉され、自沈し、ここにドイツ東洋艦隊は壊滅した。

 一方、遠洋航海が不可能な駆逐艦(タークー)と水雷艇が残留し、この水雷艇の攻撃により防護巡洋艦高千穂(3、709t)が撃沈され、初の海没の犠牲を払った。

 この戦争では我が国として初めて飛行機が戦闘に参加し、陸軍はモ式二型を偵察と爆撃機として投入、海軍は世界初めての試みとして水上母艦(水上母艦若宮舷側に着水、デリックで釣り上げる)若宮に4機モリス・ファルマン水上機を甲板上に積載し、デリックで海面に降ろすという方法で参戦した。

 この試みは1963年(昭和38年)東宝映画「青島要塞爆撃命令」のタイトルで映画化されて、古沢憲吾監督、加山雄三、夏木陽介、佐藤允がパイロトに扮して大活躍するのだが、実際は下駄履(フロート)水上機だから速力、旋回性能は著しく劣り、ドイツ軍のルンブラー・タウベ機に迎撃され、戦闘性能はタウベ機の方が優秀でしたから、空中戦では翻弄されたようだ。

 水上母艦若宮は、元イギリス籍香港所属の貨物船でしたが、日露戦争中帝政ロシアにチャーターされ、香港からウラジオストックへ向け航行中、対馬海峡付近でわが海軍の臨検を受け、これを拿捕、海軍の輸送船として使用していたが、青島攻撃向けに水上母艦に改造、艦名を若宮(排水量・常備5895t、速力10kt)として出撃した。

 陸軍では23、000人の兵士が動員され、青島要塞守備兵3625名その他計4、300と戦い、堅固な要塞に護られたドイツ軍が有利でしたが、11月6日夜半、第二中央左翼部隊が中央堡塁に夜襲をかけ、激戦の末、翌7日の午前1時にこれを占拠し、その他の堡塁も次々と陥落させ、ドイツ軍は砲台を自爆して、06時30分頃白旗を掲げた軍使が派遣され、遂に青島要塞は陥落した。

 11月16日には青島入場式と招魂祭を行い、ここに青島要塞攻略戦は完全に終結した。

 南洋にあるドイツ領の島々は、第一、第二南遣艦隊が出動し、ドイツ軍根拠地であったヤルート島を艦砲射撃で制圧、陸戦隊が上陸して占領し、その他の島々は殆どが無防備であったため無血占領した。

 また開戦前からホノルルに入港していたドイツ砲艦「ガイエル」を港外で待受けていた日本艦隊が武装解除をした。

 さて、青島要塞や其の周辺で降伏した4、715名のドイツ兵士は徳島県の板東俘虜収容所、千葉県習志野俘虜収容所、広島県似島俘虜収容所、その他に送られ収容された。

 このうち板東俘虜収容所は鳴門市の近く板東町にあり、約1、000名の俘虜が1917年から1920年までの2年半ほど収容されていた。

 この当時までは未だ武士道の精神が残っており、俘虜を紳士として取り扱い、地元住民とも交流があり、‘ドイツさん’と呼んで親しんでいた。

 これには前例があり、日露戦争当時多数のロシア軍兵士の俘虜が松山収容所やその他各地に収容されたが、特に松山収容所が有名で投降の際‘マツヤマ’と叫びながら投降してきたという話がある。

 これは本当の話で、ロシア兵士の中にはロシア帝国に武力でもって併合されたポーランドや周辺国家から強制的に徴兵され最前線に送られてきた兵士がおり、これらの兵士には故国の反露地下組織から‘マツヤマ'と叫んで投降を奨める運動が伝わっており、そのバックにいたのがヨーロッパ各地での反露地下組織を援助して活躍した密偵明石元三郎陸軍大佐(後に大将、台湾総督)が指示していた。

 一方、日本政府も我が国は未開国でないと証明する外交上の必要性もあって、戦時国際法を尊法しロシア兵士俘虜をとびきりの優遇を施した。

 その流れもあって、収容所長であった陸軍中佐松江豊寿はドイツ兵士が「世界にこれほど素晴らしい俘虜収容所の所長がいるだろうか」と言わしめた程の人徳者で、その様子は東宝映画「バルトの楽園」(2006年)で描かれている。

 松江所長は会津藩士の子弟に生まれ、嘗ての戊辰戦争で戦ったが会津藩は敗れ、賊軍の汚名をきせられ、差別され、悲哀を味わった体験のなかで磨かれた人徳なのだろうか、後に陸軍少将で退官、故郷に帰って第九代会津若松市長に就任した。

 年末恒例のベートベン交響曲第九は全国各地で演奏されるが、日本で初めて演奏したのは、この板東俘虜収容所のドイツ兵士がオーケストラ・合唱団を編成しての演奏でした。

 他の収容所では、名古屋収容所の元パン職人のドイツ兵が盛田善兵氏にパン造りを伝授、敷島パン(現パスコ)を創業、現在業界第二位のパンメーカーに成長している。

 青島市でドイツ菓子店を営んでいたカール・ユーハイム氏と妻エリーゼは青島陥落後ドイツ人であったため俘虜として日本へ連行され、似島収容所に収容された。

 広島県が主催した俘虜製品作品展示会を広島県商品陳列所(現在の原爆ドーム)で開催、その際カール・ユーハイムが得意のバウムクーヘンを焼いて「ピラミットケーキ」の名で実演販売したところ、これが大評判となり、この販売が行われたのが1919年(大正8年)3月4日だったので、現在でも3月4日は「バウムクーヘンの日」と定められ、大売り出しが行われている。

 なおカール・ユーハイム夫妻は第一次大戦終了後も帰国せず、横浜で菓子店を開業したが関東大震災で焼失、避難船で神戸に来て再びドイツ菓子の店を開業、ユーハイムが誕生、現在に至る盛業の始まりであった。(ユーハイム社史参照)

 その他終戦後も故国に帰らず日本で活躍した元捕虜のドイツ人は数多く居ます。

 現在、鳴門市にはドイツ館という記念館があり、その他ドイツ関連のモニュメントが市内の至る所にある。ドイツ・リューネブルク市と姉妹都市ですが、同市出身の元捕虜が帰国後ハンブルク・バンドウ会を結成し、その本部をこの市に置き、その活動が現在も続いており数々のイベントが催されている。

 ベートベン、第九合唱の日本初の公演を記念して、6月1日を「第九の日」と決めて毎年盛大な「第九シンフォニー」の演奏会を開催している。

 (JR高徳線、板野駅下車)

 板野俘虜収容所所長、松江豊寿陸軍中佐、1876年7月11日、会津藩士、松江久平の長男として生まれ、12才の時、会津戦争(戊辰戦争)を体験、1889年陸軍幼年学校、陸軍士官学校、22才で陸軍少尉任官、賊軍である会津藩出身なので出世は遅かったらしい。1917年4月、中佐の時に板東俘虜収容所所長を任命され、かつて敗軍の苦渋を充分に味わっていたため、俘虜にはできる限り温かく接し自由な生活が出来るよう計らい、付近の人達とも交流を許し、養鶏、養豚、野菜栽培、パンの焼き方、ハム、ソウセイジの作り方などドイツの進んだ技術を伝授された。

 松江氏は陸軍少将で退官、故郷に帰り、会津若松市長を務めた。

 1945年1月、ポーランドを占領したソ連赤軍はベルリンを目指し快調に進撃していた。西からはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫る情勢のもと、もう第二次大戦のうちドイツの敗戦は時間の問題だった。

 後は、大戦終了後にヨーロッパの複雑な各国の利害関係を如何に処理するか。連合軍側の首脳が話し合っておく必要があった。

 その後は太平洋における戦いだが日本はまだまだ手を上げる素振りはなく、この時点では後1年、あるいは1年半程度を見込んでいた。

 1945年2月4日〜11日、アメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン首相の三人だけ、その他の国の参加は勿論、オブザーバーをも許さない秘密会談だった。

 場所は黒海のクリミア半島(現ウクライナ領、当時はソ連領)にあるヤルタ近郊にあるリヴァディア宮殿(1911年ニコライ2世の保養の宮殿として建てた。現在はヤルタ会談記念博物館として一般公開されている)

 クリミア半島について考察すると、1475年オスマン帝国に征服され、オスマン帝国の属領、クリミア・ハン国となり、

 1853〜1856年、クリミア戦争、フランス、オスマントルコ、イギリスを中心とした同盟軍とサルデーニャ(イタリアにあった王国)とロシアとが組んで戦争をした。戦場はクリミア半島ばかりではなく、ウィーン体制が崩壊し始めたことにより民族、宗教等利害関係が複雑に絡み合い多くの民族、異教との戦いとなり広範囲の地域で戦われた。イギリス人の看護婦ナイチンゲールはイギリス軍の従軍看護婦を志願し、戦場で負傷者の看護にあったが、敵味方なく傷病兵の看護に当たり、「クリミアの天使」と呼ばれたが、後に「白衣の天使」と呼ばれ世界的に定着した言葉になった。

 1877〜1878年露土戦争:ロシア帝国(露西亜)とオスマン帝国トルコ(土耳古)

 バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラブ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱を起こし、それを支援するかたちでロシアが介入して戦争になったが、ロシアが勝利した。表面はスラブ系諸民族の支援としたがロシア帝国の本音は、地中海への通路の確保であり、不凍港獲得の南下政策の一貫であるから勝利と同時にクリミア半島を含むこの地域全てを支配地にしてしまった。

 黒海に突き出たクリミア半島は地中海性気候に包まれた温暖な地であり、極寒のロシア大地からみれば最高の保養地となる。そのため20世紀にはロシア貴族や政府高官はこの地に保養のための宮殿や別荘を持った。

 このような地を選んで会談の地としたスターリン首相の意図は何だったのか。戦争を重ねることによって奪い取ったクルミアで会談を持つことは、第二次大戦でも大いに領土を拡張するぞとの宣言だったのか、あるいは単に保養地として選んだのかは不明だが、結果的にはスターリンの一方的な支配地獲得になってしまった。

 特にこの会談に臨んだアメリカ・ルーズベルト大統領は1912年、ポリオに罹り、その後遺症により下半身が麻痺し日常生活は車椅子の生活であった。(近年の研究ではギラン・バレー症候群の症状と整合性が高いと発表された)

 ヤルタ会談から帰国後僅か3ヶ月後の1945年4月12日、ホワイトハウス大統領執務室で午前中に脳卒中で倒れ、死去した。

 ルーズベルト大統領の急死に関し、戦後しばらくして真偽のほどは定かではないが、ある風評があった。それはスターリンが故意に操作した姿なき殺人ではなかったのか、というミステリー小説のような筋書きだが、宮殿で会議が終わると迎賓館での歓迎晩餐会と称して、遙かに遠く離れた迎賓館に招待し、病弱な大統領は悪路を長時間車に揺られるという難儀をさせ、晩餐会ではロシア式乾杯を何度も繰り返し、しかも度の強いウオッカなので、大統領は相当参っていたようで、それを連日続けたのだから身体的負担は相当なものだった、と側近が洩らした。

 勿論、急死との因果関係があるかどうかは不明だが、何らかの遠因になっているだろうし、

 気付いていながら止めなかった大統領側近の責任でもある。

 この時の声明として、ヒットラー総統は「ルーズベルトは今次の大戦を第二次世界大戦に拡大させた扇動者であり、更に最大の対立者であるソ連を強固にした大統領として史上最悪の戦争犯罪者として歴史に残るだろう」という声明を出した。

 そのヒットラーは僅か18日後にソ連軍の砲撃下の地下壕で自決した。

 確かに第二次世界大戦終結時に関してはスターリン首相一人に引っかき回されてしまった。副大統領から突如昇格したトルーマン大統領としては荷が重すぎ、チャーチル首相との呼吸もあわず、スターリン首相の独走となった。

 我が国では鈴木貫太郎首相は敵国であったにも拘わらず、戦争終結を模索している立場であり「今日の戦争においてアメリカ優性であるのは、ルーズベルト大統領の指導力が極めて優れていたからです。その偉大なる大統領を失った国民に深い哀悼の意を送るものであります」と同盟通信の短波放送で、ルーズベルト大統領の死を悼む内容の声明を送信した。

 1945年4月中旬は沖縄で激しい戦いが続き4月7日、海上特攻として菊水作戦で戦艦大和が出撃、坊ノ岬沖で航空機の攻撃により沈没、以後海軍艦艇の出撃は燃料が皆無で動けなくなり、後は絶望的な特攻機の突入だけとなった。

 そのような時期にこれだけの声明を放送することは相当な勇気がいることだし、短波放送による送信だから、陸軍は当然この弔意の放送を傍受していたはずだが、首相に抗議したのかどうか、記録ないので何とも申し上げられないが、当然猛烈な抗議があったのだろうと推測する。ちなみに鈴木貫太郎総理は元海軍大将。

 ルーズベルト大統領の死去に関して朝日新聞は「伊勢神宮を爆撃した者への神罰」と全くのピンボケの論調で記事にしている。

 ヤルタ会談を述べたが、連合軍側の首脳会談で会談の取り決めがあったが、それは相互の要望を確認し合ったとするのが妥当であって、これは首脳同志の個人的な会合であって、その話し合いは文書にして調印した条約ではない。

 従って法的根拠はないと解釈するのが、ルーズベルト大統領死去に伴い、副大統領のハリー・S・トルーマンが自動的に昇格して第27第大統領に就任、まさに激動の最中の昇格で混乱するのは当然であった。

 ルーズベルト大統領は既に12年に及ぶ長期政権で数々の業績を残しており、世界の指導者としても評価を得ており信頼は厚かった。

 この偉大すぎた大統領の陰では副大統領の存在はお飾りに過ぎず大統領側近との付き合いも少なかった。

 それが突如大統領に昇格では戸惑うのが当然だろうが、時期が第二次世界大戦の終焉近く、連合国側の最高指揮官としてドイツと日本の降伏を導き出し、世界の指導者として終戦後の世界的混乱を沈静化させ、世界の平和と秩序を回復するプログラムの推進者であるはずの新アメリカ大統領が、ヤルタ会談も原爆開発のマンハッタン計画の存在さえ知らされていなかった。どうもこれは事実だったらしい。

 従って強力な指導力を発揮できず、スターリン首相の手玉にとられてしまった。

 チャーチル首相に関しては、1945年5月、ドイツが無条件降伏してからイギリス政界は挙国一致内閣の必要性がなくなった、と労働党が主張して議会を解散、7月に総選挙をしたが、保守党は惨敗し、チャーチルも一野党議員になったが保守党の党首は確保した。

 総選挙は労働党が勝利し、革新系の労働党政権となり、すなわちヤルタ会談の主役二人が短期間で消えてしまった。残ったのはスターリン首相ただ一人になって第二次大戦後の世界政治をソ連有利な方向へ持っていったのは当然だ。

 イギリスは労働党大勝利でアトリー労働党党首が組閣、アトリー内閣が誕生した。

 このアトリー内閣は革新系であるからソ連共産党政権に対しては友好的であった。チャーチルとスターリンはしばしば対立したことがあるが、アトリー首相は従順な態度を終始した。

 労働党は公約通り重要産業の国有化、銀行までも国有化し、「ゆりかごから墓場まで」をモットゥーに社会保障を充実、国民の喝采を得たし、世界から羨ましがられたが、これも束の間、原資の保障もないにも拘わらずバラ撒き行政の見本のような政策が続き、結局は理想倒れになってしまい、国有化も大半が失敗に終わり、これを救ったのは「鉄の女」保守党のサッチャー首相になってからだ。

 さてヤルタ会談の内容だが、連合軍側の最高首脳三人が集まり、1週間もの

 長時間秘密会談を行ったのだから、戦後処理の大半はこのときの会談で決まったといえる。

 そのうち最も長時間にわたり議論されたのはポーランド問題であるが、この時の取り決めは実行段階で全てスターリンによって破棄された、これは当事者であったルーズベルト大統領は死去、チャーチル首相は総選挙に敗れ、首相の座を降りてしまったから秘密会議での取り決めでもあり、スターリンの独壇場で勝手に取り仕切ってしまった。

 終戦後、ポーランド亡命政府は帰還したが、ソ連軍は亡命政府指導者全員を逮捕、監禁した。そして共産党系のルブリン政権を正当として社会主義国家として樹立、衛星国家の一つになった。

 約束が違うとチャーチルは激怒したが、首相の在になかったから単に個人的な激怒でしかなかった。

 後にトルーマン大統領も激怒したが、既に米ソ対立の枠組みが出来上がっており、「鉄のカーテン」と言われ、東西陣営の対立、‘冷戦’が長い期間続き、何度も第三次世界大戦勃発の危機があった。

 結果としてヤルタ会談はスターリンの一人勝ちになってしまった。

 ソ連軍はポーランド全土を占領、ドイツは東西に分割され、首都ベルリンの封鎖、空輸作戦の実施、ベルリンの壁というようなスターリン首相の強硬な政策が推し進められ、連合国側はその対策に振り回させられた。

 1955年、ワルシャワ条約に基づきソビェット社会主義共和国連邦を盟主とした

 東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟「ワルシャワ相互防衛援助条約機構」が出来、

 北大西洋条約機構と完全な対立構図が出来上がってしまった。

 1989年、冷戦終結に伴い東欧革命が始まり、1991年3月、軍事機構を廃し、正式解散となった、1991年12月25日、ソビェット連邦は崩壊した。

 その間最大のモノは、1962年10月14日から28日での14日間、キューバ危機ではアメリカ・ケネディー大統領とソ連・フルシチョフ首相の息詰まるような交渉が続き、両軍とも臨戦態勢に入り核ミサイル発射準備をしながらの交渉で第三次世界大戦は必至と世界中が固唾を呑んで見守った事件があった。

 WBCで強豪キューバはオランダに破れ姿を消したが、世界が平和だからこそ出来るイベントで、平和の尊さを充分に実感できた。

 ヤルタ会談における日本に関する取り決めとして、極東密約というスターリン首相の提唱で出来た密約がある。

 対日戦にソ連参戦の要請、これはルーズベルト大統領からの要請として、ドイツ敗戦後三ヶ月以内に参戦して欲しいと要望、これは南方に点在する島々の日本軍守備隊が猛烈な反撃で玉砕するまで戦い抜く不屈の精神に驚愕、特にサイパン島、ペリュリュー島の攻防戦の犠牲者の多さに、さらにはヤルタ会談中にあった硫黄島の攻防戦では玉砕した日本軍の戦死者数より米軍の犠牲者の方が多かったくらいの大損害を被り、作戦通り日本上陸した場合は100万人位の犠牲者がでると予想された。

 さらには満州には精鋭関東軍が存在しこれを駆逐するには更に大きな代償を払わなければならないと大統領は頭を痛めていた。

 ‘玉砕’というキリスト教徒には全く理解できない価値観の軍隊と戦う不気味さで犠牲者を少しでも減らす方策としてソ連赤軍の参戦を要請した。

 この時点ではマンハッタン計画で原爆の完成予想の見通しは立たず、従来通りの正攻法しか念頭になかった。また関東軍が南方戦線に転出され、精鋭関東軍の面影は全く失われていたという情報は無かったらしい。

 ルーズベルト大統領としてはだいぶ弱気になっていたようだが、太平洋の島々では日本軍の絶望的反撃にあって多くのアメリカ軍兵士が戦死しており、家族にとってはたまらない痛恨事だが、この痛みをどこかにブッツケたい、これが最高司令官である大統領に向かえば、当然まもなく行われる次の選挙に影響する。その怖れは充分にあり、ましてまもなく行われる日本本土上陸作戦では、どう計算しても100万人の戦死者が出ると国防省は計算しており、何とかアメリカ軍兵士の損害を少なくして日本を屈服させるにはどうすればよいか、日夜悩んだ末出した結論は対日戦にソ連を引き込むことであった。

 この参戦要請はこの時が最初ではない、日米開戦の翌日1941年12月8日(アメリカ時間)、駐米ソ連大使マクシム・リトヴィノフにルーズベルト大統領、ハル国務長官の対日参戦要請書を正式に交付、モスクワに届けられた。

 この時の回答書はモロトフ外相からあり、ソ連赤軍はナチスドイツ軍と激戦中で、赤軍を二方面に分けて戦う余裕はない、と回答した。

 日本が開戦した時期では精鋭関東軍が健在で、特に関特演で動員した内地部隊も在満していたので約70万の兵士が関東軍にいたことになる、そのときシベリア極東軍はヨーロッパ戦線に大量に転用していたから手薄になっており、極東軍の名将でスターリンの最大のお気に入りのジューコフ元帥も西部戦線の総司令官に転任されていたからスターリンとしては絶対に受け入れられない要請であった。

 しかし、スターリンの回答は、裏事情は隠しておき、日ソ中立条約があり国際条約を遵奉するから参戦は出来ないとした訓令がソ連大使館に送られた。

 しかし、その10日後の18日にはイーデン・イギリス外相に対して、将来日本に対する戦争に参加するだろうと約束したが、期日は明言しなかった。

 明言したのは1943年10月、モスクワでの連合軍側の外相会議でアメリカ・ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利の後、対日戦に参加する」と確約した。

 その下地があったからヤルタ会談ではルーズベルト大統領からスターリン首相に対日戦参戦要請が申し込まれ、その回答はドイツ降伏後3ヶ月以内参戦と具体的な回答があった。

 この時期日本が完全に弱体化している情報を入手しており楽に勝てると自信を持ってから参戦を承諾し、その見返りは満州全土の占領、樺太南部、千島列島の領有を要求した。それに対しルーズベルト大統領は対日戦でのアメリカ兵士の犠牲を何とか少なくすることで悩んでいた大統領は、スターリンの要求を全て呑んだ。さらには武器援助、資金援助までをも確約させた。

 ルーズベルト大統領は日本軍の実力を過大評価し、ドイツが降伏しても日本が降伏するまでには日本本土を完全に占領しなければ降伏しないだろう。作戦として沖縄戦終了後日本本土上陸を10月頃と予定し、最初誘導作戦として九州八代海沿岸に上陸、続いて本隊が相模湾と九十九里浜の二方面に上陸、首都圏制圧を目論んだ。

 しかし、本作戦遂行には全滅するまで戦う日本軍の執念に肝を潰し100万位の犠牲者が出ると予想され、そうすると一般市民から反戦運動があるだろうし、自身の大統領選挙にも悪影響があるだろうことが予想され、出来れば避けたかった。

 これは日本側も同じ発想で、全滅するまで戦い抜いて一人でも多くのアメリカ兵を殺傷すれば、民主主義の国アメリカではもうたくさんだ早く戦争を止めろ、との市民運動が起きるだろう。民選である大統領も選挙のことを考えれば早く戦争を止めたいだろう。そうすれば停戦を呼びかけてくるかも知れない。もしかしたら有利な条件で降伏を導き出せるかも知れないと淡い期待があったことは事実で、特に陸軍は、降伏は絶対しないが、自軍の面子さえ立てば停戦に応じることも善しとする狡さがあった。

 しかし、大統領はソ連赤軍を頼り、ソ連赤軍の力を借りなければとても日本を屈服させるのは困難と考えていたが、スターリンは満州の各地、各機関に潜り込ませていたスパイ網により、関東軍は南方に転用され、満州は既に蛻の空という正確な情報を把握していたが、ルーズベルト大統領に対しては精鋭関東軍と戦うには猛烈な苦戦が予想され、充分な準備が必要だとして過大な武器弾薬の補給を要求し、軍資金として多額のドルをも要求した。そして密約の実行を確認した。

 この密約が後世に禍をもたらし、1956年、アイゼンハワー大統領はソ連による北方領土占有問題はルーズベルト大統領とスターリン首相の密約であって個人の文書であり、アメリカ政府の公式の文書ではないから効力はない、と声明を出した。

 朝鮮半島に関しては当面の間、連合軍の信託統治とすると決めていたが、米ソの対立が深刻となるとその代理戦争として朝鮮戦争が勃発、38度線で休戦協定が出来たが、終戦ではなく、現在に至るも休戦状態で、戦争は継続していることになる。

 3月、米韓合同演習に反発した北朝鮮は臨戦態勢に入ったと発表したが、単なる口先だけの脅しだろうが、何度も繰り返しているので脅しの効き目は無くなった。

 しかし、このヤルタ会談の後遺症は半世紀以上経ってしまった現在でも、世界中の至る所でその綻びが散在し未だ解決に至らない困難な問題ばかりだ。

 このヤルタ会談に基づきソ連赤軍が動き出したのは1945年8月9日未明、蘇満国境を越えて赤軍の大部隊約150万の兵士が一済に動き出し満州と樺太になだれ込んできた。防御すべき関東軍はフィリッピン方面と沖縄方面に転出しており関東軍とは名ばかりの張り子の虎と化していた。

 話は前後するが、ドイツ降伏の頃、日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにしてソ連政府に連合国側との外交交渉を働きかけ、絶対無条件降伏では無く国体保護や国土保衛を条件とする有条件降伏に何とか持ち込もうとしていた。

 実際に近衛公が全権として訪ソすることを駐ソ佐藤尚武大使に打診したが、参戦を決めているソ連がOKを出すわけがない。

 もう一つはスイスのベルンで海軍軍令部の要請で駐在海軍武官藤村中佐が亡命ドイツ人でOSSの工作員であったフリードリヒ・ハック氏の仲介によりアメリカ側のOSS(CIAの前身)のアレン・ダレス氏と接触していたことがある。

 (ダレス氏は戦後CIA長官に就任し辣腕を振るった。参照、映画:日本・スイス合弁「アナザーウェイD機関情報」)(戦後来日したダレス特使とは兄弟)

 更に、同じくスイスにある国際決済銀行理事ベル・ヤコブソン氏と出向していた横浜正金銀行の北村孝治カ氏の仲介により岡本駐在陸軍武官と加瀬俊一公使のルートで終戦工作が行われたが、いずれも日本側の腰が定まらず失敗した。

 しかしなんと言っても大失策は、ヤルタ会談の内容を充分把握して打電した在スウェーデン小野寺武官発至急電で「3ヶ月以内にソ連参戦」という最重要情報を無視したことにある。

 第24部で小野寺武官の情報網について述べたが、小野寺武官に協力したのがポーランド亡命政権(在ロンドン)陸軍参謀本部所属諜報員イワノフ氏でヤルタ会談での秘密条項を全て入手し、ドイツ敗戦から3ヶ月以内にソ連が対日戦に参戦するという貴重な情報を入手し、30数回にわたり参謀本部宛緊急電を発信続けた。

 その中には中立国スウェーデン国王が停戦のための仲介の労を執りたいとの申し出までもが含まれていたが、全てを握り潰したのが参謀本部作戦課の佐官クラスの担当参謀で作戦課の課長や部長までに達していないのだから、組織は腐敗していたのか、単なる思い上がりなのか、冷静さを失っていたのかは判らないが、国の運命を狂わせたことだけは確かだ。

 ソ連参戦が判っていればもっと早く停戦の意思を固めただろうし、沖縄戦終了時くらいに停戦交渉を始めていたならば、少なくとも原爆投下は避けられたし、満州での開拓民大量虐殺のような悲惨な事件、さらには50万の日本将兵が極寒のシベリア抑留による強制労働はなかった。勿論北方四島問題もない。

 また朝鮮半島の南北二分割の悲劇も無かった。

 更に北方四島問題に触れる。ベルリン陥落後、ソ連赤軍はスターリンの命令によって極東へと大移動を開始した。世界一長いシベリア鉄道で百万以上の兵士と戦車、野砲等膨大な貨物が移動するのであるから最短でも約3ヶ月と見積もられ、必死になって運送した。何故ならスターリンの野望は戦争に参加し、断末魔に喘ぐ日本からできる限り多くの戦利品を掠め取ろうとしていたからで、参戦する前に日本が手を上げてしまっては困るからだ。

 1945年8月8日午後11時(モスクワ時間)ソ連政府は駐ソ佐藤尚武日本大使に宣戦布告文を手渡し、8月9日未明、一斉に進撃開始した。

 ところが8月6日午前8時15分、広島原爆投下、8月9日午前11時02分、長崎原爆投下。スターリンは予想もしていなかった原爆投下で日本は降伏の兆しが見えてきた。これはポツダム宣言受諾の会議中だとの連絡があったからだ。ところがスターリンは作戦予定として満州全土、朝鮮半島、樺太全土、千島全島、出来れば北海道を掌中に納めたい。

 8月15日、正午、ポツダム宣言受諾に伴い、天皇陛下の終戦に関する「玉音放送」が放送され、第二次世界大戦は終わった。

 アメリカ軍は即座に全軍に対し戦闘中止を発令、一方、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は樺太南部、千島列島の占領のために戦闘継続を発令した。

 樺太は境界線であった北緯50度線を越えたばかり、千島列島には未だ上陸もしていなかった。

 南樺太での最大の悲劇は北海道へ避難しようと多くの邦人が真岡港で船待ちをしていたところへ終戦の日から5日もたった8月20日、上陸してきたソ連軍が襲撃、機関銃や自動小銃で至近距離から乱射を浴びせ無抵抗の婦女子約千人以上の殺戮を平然とやった。

 真岡電話局では交換手の乙女9人が最後まで職場を護り「ソ連軍が近づいてきます。足音が聞こえます。稚内の皆さん、さようなら。これが最後です。内地の皆さん、さようなら、さようなら」9人の乙女は青酸カリで自決した。

 宗谷岬の先端にある「乙女に碑」が乙女達の冥福を祈っています。

 “樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる”

 “からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる”

 昭和43年に訪れられた昭和天皇、香淳皇后の御製の歌です。

 千島列島の終戦日(8月15日)以後の戦闘について述べる。

 千島列島、8月18日、シュムシュ島の攻撃から始まった。このとき日本守備隊は大命により武装解除の準備をしていたところへ、突如ソ連艦艇から猛烈な艦砲射撃の援護の下、上陸部隊の奇襲があった。守備軍では直ちに軍使を派遣したが、殺害され攻撃は続行された。

 驚いた日本守備隊は再武装し猛烈な反撃に転じた。このとき守備に就いていたのは第五方面軍(札幌)軍司令官樋口季一郎中将、前に述べたユダヤ人救済に活躍した関東軍の樋口少将(当時)と同一人物)隷下の第九十一師団が幌延島に司令部を置き、総兵力2万3千名、そのうち占守島(シュムシュ)の守備隊は歩兵第73旅団約8千名が守備についており、キスカ島無血撤退、ノモハン、ガタルカナルの激戦地での生き残り、つまり負け戦を秘匿するために内地には帰還させなかった歴戦の勇士を配置させていたため士気は頗る旺盛で、果敢な反撃で多大な損害を与え日本帝国陸軍最後の勝利と言われるような戦闘があった。

 この占守島の位置を述べればカムチャッカ半島(ソ連領)の先端にあるパトロカ岬と狭い海峡を挟んで占守島があって、パトロカ岬にはソ連軍の要塞が築かれており、この備砲からの弾丸が着弾する距離に占守島が有った。

 戦闘の詳細を述べれば、終戦の詔勅が下り、大本営から「一切の戦闘行為を停止す、但し、ヤムを得ない自衛行動を妨げず、その完全徹底の時期を8月18日16時とする」旨の命令があったので第91師団長堤中将も武装解除の準備中に、17日深夜、対岸のパトロカ岬砲台から猛烈な砲撃があり、18日午前2時、深夜に多数のソ連軍艦艇が表れ、艦砲射撃に続き強襲上陸部隊が竹田浜を襲ってきた。

 旅団司令部に問い合わせの電報を発したが、返答は無く守備隊長村上少佐は自衛のためヤムを得ないと判断し反撃を命じ果敢に戦った。

 その後、樋口軍司令官から「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」との指令が第91師団長に届き、激戦となったが竹田浜の守備隊は約600名、ソ連軍の攻撃部隊は約2万名の大部隊で、やがて竹田浜は全滅し、内陸部へ侵攻してきた。

 この侵攻してきたソ連軍を迎え撃ったのが戦車第十一聯隊(通称‘士魂部隊’これは十一を士とした)聯隊長池田大佐、武装解除の命令により戦車の燃料を抜き、砲弾を下ろしていたが、急遽再武装で出動した聯隊とはいえ可動戦車27両、

 出撃に当たり全部隊員は終戦の事実を知っており、敢えて再び戦闘に参加せよとの命令は出来ず、「諸士、ついに起つときがきた、この危機にあたり決然として起った白虎隊になるか、赤穂浪士のように隠忍自重し、後日に再起を期すか。白虎隊士たらんとするモノは挙手せよ」と、暗闇の中全員が挙手した。

 午前5時、白鉢巻きの戦車部隊員、乗車、出撃、「聯隊はこれより敵中に突撃せんとす、祖国の弥栄と平和を祈る」と打電後、ソ連大軍の中に突入し、ソ連軍は大混乱となり海岸線まで後退したが、聯隊の戦車27両は対戦車砲により擱座・炎上全員が戦死した。

 続いて歩兵聯隊が突撃、この戦いでソ連軍司令官は戦死、指揮命令系統が麻痺していたため海岸線まで後退した。驚いたソ連側から停戦を申し出、ここに改めて勝っていた日本軍が武装解除を受けた。

 ソ連側は武装解除した日本兵士を内地に帰還させると偽って船に乗せ、そのままシベリアに連行し強制労働に従事させたが、戦闘があったのは8月末で、未だ軽装での戦闘だったので、そのままシベリアに連行されたため、極寒の中、餓死、凍死、病死大半はシベリアの土と化した。

 8月22日の時点で、占守島での戦闘がやっと終了、しかし他の島は手つかず状態、モシ武力で制圧しようとすれば占守島のような反撃を受けることは必定、そこでソ連軍は日本守備隊に武装解除を受け入れるよう勧告して回った

 かくしてウルップ島(得撫島)まで解除したが、択捉島と国後島には来なかった。これは択捉海峡から根室海峡までの島々は日本古来の領土であることを知っていたから、敢えて来なかった。

 しかし、これらの島々に未だアメリカ軍が進駐していないと知ると豹変して8月28日、択捉島上陸、9月1日、国後島上陸して、9月4日に完全占領、降伏文書に調印した。従ってソ連軍大勝利の日は9月4日であって、8月15日ではない。

 更に歯舞、色丹を占領したのは調印の2日後の6日になってからだ。

 スターリンの野望は北海道全土の占領であったが、辛うじてこれだけは避けることが出来た。もしこのことを許していたら、確実に分断国家になっており、どれほどの苦渋を舐めさせられたか計り知れない。

 この後、スターリンのとった行動は、終戦になっても戦闘を止めなかったのは軍司令官である樋口季一郎中将が戦闘継続を命じたからだと、言いがかりを付け戦争犯罪者だとしてソ連側に引き渡すよう連合国側に申し入れてきた。

 終戦後に戦争を仕掛けたのはソ連側であるが、そのようなことは一切口を噤んでのこの卑劣きわまりない行動である。それを知ったアメリカのユダヤ人協会がロビー活動で、トルーマン大統領に直訴した事実は前に述べた。

 その恩を感じた樋口氏はイスラエルを訪問し、厚くお礼を述べた。

 ポツダム宣言:1945年7月17日から8月2日にかけて、ベルリン郊外のポツダムにおいてアメリカ・トルーマン大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン首相が会合し、第二次大戦の終戦後の処理を話し合う会合がもたれた。

 そのときトルーマン大統領、チャーチル首相と蒋介石総統(無線による連絡)による大日本帝国に対して無条件降伏を求めた13箇条からなる共同宣言を7月26日発表した。

 無条件降伏を求める声明は「ポツダム宣言」として7月27日から8月4日まで14回にわたり日本側に通達されたが、5月9日に徹底抗戦を閣議決定しており、この申し出を無視した。

 ところが原爆投下、ソ連参戦で弱気になり、8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側へ伝達して、15日正午陛下による玉音放送となった。

 ヤルタ会談でルーズベルト大統領はソ連の力を借りて日本を屈服させようとしたが、トルーマン大統領はスターリン首相を全く信用しておらず、そこに原爆完成の報があったので、ソ連の力を借りずにアメリカ単独でも日本を屈服させる自信が付き、ポツダム宣言を急遽纏め、ソ連参戦前にと日本側の無条件降伏を求めてきた。

 これを知ったスターリン首相は対日宣戦布告を急ぎ、9日に侵攻を開始したが、まだ侵攻半ばで終戦になってしまい、焦ったスターリンは予定通り占領するまで戦闘の継続を命じた。

 日本政府が僅か10日程度の躊躇いが原爆投下、ソ連参戦の惨劇を招いてしまった。

 第二次大戦末期、昭和20年(1945年)8月9日未明、ソ連極東軍は日ソ中立条約を破棄、戦車の大軍を先頭にして蘇満国境を突破、満州の原野に傾れ込んできた。

 防衛すべき無敵関東軍は大半を南方戦線へ転出してしまい、もぬけのから状態、僅か開拓民を臨時徴収して守備にあたっていた程度であったから、一挙に突破され関東軍の本拠地へと迫った。ところが8月15日のポツダム宣言受託があっても、スターリン首相は戦争を終結せず、満州全土を攻撃、占拠、8月16日、南樺太を攻撃、8月18日、千島列島全島を全て占拠するまで戦争を継続した。

 日本軍守備隊は8月15日、ポツダム宣言受諾の天皇陛下のご下命があり、武装解除の準備をしていたところをソ連軍から容赦ない砲火をあびせられ戸惑った。

 そこでやむを得ず応戦したが、後にソ連側はポツダム宣言受託をしておきながら応戦したのはけしからんと言い掛かりを付け、地区司令官樋口中将の戦犯容疑で引き渡せと日本政府に要求してきたことは先に述べた。

 さらに捕虜としたソ連が占拠した全土に配備されていた日本軍人を捕虜として取り扱い、強制労働に従事させた。(ジュネーブ協定で禁止されている)

 最初の労働は満州や樺太にあった日本が設置した工場、満鉄の施設、その他、全ての財産、資産を撤去してソ連圏に移送することであり、根こそぎ持ち去った。

 その後はロシア、シベリア各地、モンゴル、ウズベキスタン、グルジアその他ソ連圏各地に送り込まれ重労働を課せられた。

 その数は不明で70万説、200万説があり定かではないが、抑留中の死亡者数は30万人位と数えられている。

 抑留で最長は11年間で、比較的早く帰還した人達は現地で洗脳教育を受け、帰国後ソ連のためにスパイ活動をする、破壊活動をする等の任務を帯びて帰国した。

 日ソ関係は誠にドロドロした関係が続き、日ソ平和条約が締結される日が何時になるのかは全く判らない暗闇の彼方にある。

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第41章 北方四島問題(4)

 北方四島問題に関しては終戦日直前にソ連極東軍が満州・樺太になだれ込み、大半の軍事力を南方戦線に転出しており手薄になっていた関東軍は一瞬にして崩壊してしまった。

 千島列島は終戦日以後に攻撃が開始され、九月に入って千島列島を占拠してから終戦協定が成立した経緯がある(9月5日)。

 それから現在まで六十数年、ソ連、ロシアの実効支配が続き、歴代内閣が何度も返還交渉を繰り返したが、返還交渉は動かないまま現在に至っており、一筋縄では行かない手強さを感じていたが、安倍内閣になってから急に風向きが変わり、そよ風にもならない微風だが森元総理が特使として訪ソ、何かを掴んだらしい。

 次は安倍総理の公式訪ロで何が飛び出すか、過大な期待は禁物だが少しでも手応えが感じられれば突破口を見出せるかも知れない。

 戦後の交渉はソ連時代、鳩山一郎内閣当時、鳩山総理がモスクワを訪れたのが最初でそれから現在まで息の長い交渉が続いてきた。

 つい最近の2011年11月、メドベージェフ前大統領(現首相)が突如、北方四島の1つである国後島を訪問した。

 これは国後島、択捉島のインフラ整備に力を注いでおり、地熱発電所を建設したり、港湾・道路の整備をしたりと、その成果を視察するという名目であったが、しかし、これまで歴代首相、大統領が北方領土を訪問したことはなく、韓国の歴代大統領がしなかった竹島上陸を朴明博前大統領が突如上陸したのと同じように日本に対する揺さぶりなのか、明らかなメッセージを感じとっていた。

 不法に実行支配を続けている島に、大統領が公式に訪問したことは自国の領土であることを内外にアピールすることであって、竹島同様日本政府にとっては許しがたい暴挙だと受け止めた。

 当時の菅直人総理は即座に不快感を表明し「許しがたい暴挙」だと非難し、ロシア政府に厳重な抗議を申し入れた。

 ところがその答えは2012年7月、メドベージェフ首相は再び、国後島を訪問、この時は「クリール諸島(千島列島と北方領土)の島々は、サハリン州の重要な一部だ」、「一寸たりとも領土は渡さない」と強調した。

 従って、メドベージェフ氏の二度に渡る国後島訪問と声明により、日ロ関係は戦後最悪の状態に陥ってしまった。

 我が国が古来からの領土だと主張強いる根拠は、1855年(安政元年)、江戸幕府と帝政ロシアで「日魯通好条約」が結ばれた。その際、日魯の国境線が定められ、択捉島とウルップ島の間にある海峡の中間線を国境とした。

 1875年(明治5年)樺太・千島交換条約により千島列島の全島が日本領、樺太全島がロシア領になった。

 1905年(明治38年)日露戦争によるポーツマス条約によって樺太の北緯50度より南側を日本領土になった。

 1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約により、樺太北緯50度以南と千島列島ウルップ島以東を放棄した。

 従って北方四島はサンフランシスコ講和条約によって日本領土であることが明記されているのですが、肝心のソ連政府はこの講和条約に参加せず、条約に調印していませんからサンフランシスコ講和条約には拘束されない、と言う立場を貫き現在に至るも実効支配を続けてきている。

 サンフランシスコ講和条約が締結された頃には、既に米ソ対立が始まり、世界は西側・東側の二極化によって鋭く対立した時代になってしまったため、日ソの交渉は出来ず、平和条約も結んでいない異常状態のまま現在にいたってしまった。

 1953年にソ連の独裁者、スターリン首相が死去、1955年からロンドンにある在英ソ連大使館で日ソ国交正常化交渉の下準備の交渉が始まり、紆余曲折の末やっと鳩山総理の訪ソが決まり、1956年(昭和31年)、鳩山一郎総理が病身をおしてソ連訪問、フルシチョフ第一書記と会談、「日ソ共同宣言」が出され、日本とソ連は国交が回復した。しかし国交の回復のみで「平和条約締結」には至っていない。

 このときの会談では北方四島に関する交渉は全く噛み合わず次回に持ち越された。

 またこの会談に先立ち同年8月、アメリカのダレス国務長官と重光葵外務大臣との会談で、択捉島と国後島を含む四島一括返還でなければ絶対に妥協するな、でなければ沖縄返還もあり得ないと対ソ交渉に強硬な圧力を懸けてきた。

 このアメリカの圧力に関する情報はソ連側では掴んでいなかったらしく、この時の交渉で将来平和条約を締結したら、色丹・歯舞の二島返還には応じても善い、という約束の言質を得た。

 ところが1960年(昭和35年)日本とアメリカとの間で「新日米安全保障条約」を締結したため、日本とアメリカが軍事的に一体となってソ連に対する敵対行為であると態度を硬化し、色丹島と歯舞群島二島返還案を引っ込め「領土問題は解決済み」としてしまった。

 この時以来、ソ連側の態度は、領土問題は解決済みとして日本側の交渉提案には一際応じることなく17年間「領土問題は解決済み」を繰り返してきた。

 1972年(昭和47年)田中角栄内閣発足

 同年9月、日米首脳会談、その後、中華人民共和国を訪問、北京で周恩来首相、毛沢東国家主席と会談、共同声明により日中国交正常化が実現、日華平和条約を締結、同日、中華民国(台湾政府)が対日国交断絶を発表。

 1973年10月7日、田中角栄首相が、鳩山首相に次いで二人目の首相としてモスクワを訪れた。その間17年もの歳月が流れていた。

 田中首相、大平外務大臣のコンビは田中内閣発足と同時に懸案だった中国との国交回復に乗り出し、日中国交回復を終えて帰国した直後の記者会見で、最大の懸案事項で残っているのは日ソの領土問題で四島の一括返還が日ソ平和条約締結の最大のポイントだと語り、外務省が下交渉に入っていることを明かした。

 10月8日、クレムリン内のエカテリーナ広場で首脳会談が行われ、ソ連側はブレジネフ書記長、コスイギン首相、グロムイコ外相、バイバコフ議長の最高指導者が出席、田中・大平の日本側首脳と会談をした。

 ソ連側はシベリア開発に日本側の手を貸して欲しいとの要望に終始したが、田中首相は粘り強く北方四島返還問題を迫り、ソ連側は経済協力してくれたなら二島返還に応ずる、日本側は四島返還を約束すれば経済協力に応ずるとの平行線で埒があかず、田中首相の一貫した主張は「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決し、平和条約を締結することが、両国間の真の善隣友好関係に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題についての交渉は1974年の適当な時期に両国で平和条約に関する交渉に入ることに合意した。ただし交渉内容の中に領土問題が含まれていることを確認したい。さらにそれは四島であることを確認したい。それを協同声明に盛り込みたい」と主張した。

 四回に渡る会談で、予定の時間が過ぎようとした最後の会談で、共同声明で四島返還問題の文面が入らなければ、交渉を打ち切り帰国すると、最後通告のような言辞を述べ、ソ連側の決断を迫った

 従来ソ連側が「領土問題は解決済み」としていたのを、日ソ間には領土問題が未解決のまま存在することをソ連側に改めて認識させ、領土問題解決への交渉を継続させるという最高首脳レベルでの合意を取り付けるのがやっとだった。と言っても交渉の会談中は外部からは窺い知れぬので、どの程度のやりとりがあったかは不明、結局1973年10月10日の共同声明には領土問題の継続交渉の文言はなく、帰国の時間が迫っていたために手直す時間的余裕がなく、声明の調印後に訂正することを約束してから調印して帰国したがソ連側がわざと欠落させたのか日本側としては痛恨のミスであった。

 ただブレジネフ書記長が、領土問題が存在するに同意するかどうかの田中首相の問いかけに「ダー」(Yes)と大きく頷いたことが収穫だったとし、領土問題が存在することに関しソ連側が認識したと、帰国後発表した。

 だが、1992年出版されたパノフ大使の著書「不信から信頼へ−北方領土交渉の内幕」によれば、ブレジネフは田中首相が日本の立場を強調する余り、机を叩いて喋る態度に立腹し、未解決の諸問題の中に領土問題が含まれているとの日本側代表の共通認識に対して、ソ連側は「領土問題は解決済み」として、日本側の要求を断固として拒否した、と記載されている。

 その後の日ソ関係は冷え込み領土問題解決への具体的な動きはなく、15年もの長い期間を無為に過ごしてしまった。これには理由があって、1978年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻、アフガニスタンの反政府勢力やイスラム系の義勇兵と激しい戦闘になった。ソ連軍は当初2、3ヶ月で鎮圧できると思っていたらしいが、険しい山岳地帯に阻まれ機動部隊の動きが制約され、ヘリコプターの活躍も西側から供給された携帯用対空ミサイルであるアメリカ製のFIM-92スティンガーが密かに供給されると戦況は一変して、ソ連軍のヘリコプターや輸送機が餌食になり、この最新兵器によって制空権が怪しくなってしまった。

 だが完全撤退までに約10年もの長期間、西側陣営との対立が続き、さらに従軍していたソ連軍兵士にも厭戦気分が蔓延、ケシの栽培が世界一のこの地で麻薬に手を出す兵士が増え、さらに厭戦気分が蔓延してしまって、アフガン侵攻は完全に失政であったことが明らかになり、更にはソ連邦崩壊の下地になったことは確かだ。1980年、モスクワオリンピックはアメリカ・カーター大統領が西側諸国に不参加を呼びかけ、50ヵ国近くが不参加を表明、我が国も不参加を表明、一方、イギリス、フランス、オランダ、スペイン等のヨーロッパ諸国は国としての派遣は中止、オリンピック委員会が独自で選手を派遣、入場式には国旗だけの入場となった。

 西側諸国のボイコットにより金メダル総数204個のうち東側諸国が161個と79%の効率で圧勝したと自画自賛した。

 東・西の争いはこの他にも激発し、そのとばっちりで日ソ間も冷却状態になってしまった。

 1982年、田中首相との交渉相手だったブレジネフ書記長が死去、その後のソ連はアンドロボフ、チェネルコンと高齢で病身の書記長が続き、ソ連邦は混迷を深めていた。

 そのような状況下にあって1985年3月、ミハイル・ゴルバチョフが書記長に選任され、久々の若さと有能さを誇り、改革に乗り出した。

 フルシチョフの失脚以来封印されてきたソ連型社会主義の範囲中での自由化、民主化に着手(ペレストロイカ)した。それまでは秘密のベールに包まれていたソ連共産党中央委員会にテレビカメラが入り、会議の模様を全国ネットで中継するなど、情報公開(グラスノチ)を積極的に推進した。

 ところが、1986年4月、世界最大となったチェリノブイリ原発事故を西側に隠蔽したため、改革の不透明さを糾弾された。

 その後は更にペレストロイカに力を入れ、その成果として外交面で二つの新機軸を打ち出した。

 一つが冷戦による緊張緩和する新思考外交、そしてもう一つが東ヨーロッパの衛星国家に対してのソ連邦、ソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。

 緊張緩和の第一は1986年、ソビエト連邦軍はアフガニスタンから完全撤退を表明、翌1987年、アメリカ・レーガン大統領との直接会談(レイキャビック会談)を実現させ、SDI計画で米ソが対立していたが、この会談で歩み寄った。

 第二に関しては東側衛星国家の取り扱いについて、全世界向かって衛星国家に対しての指導制を放棄したことを宣言した。

 こうした動きにいち早く連動したポーランドやハンガリーでは自由選挙が行われ、旧政権は追放され、ベルリンの壁は壊され東西自由に往来できるようになり、東欧各国の共産党国家は次々と崩壊し、自由選挙による多党制国家に変貌した。

 そして一斉に西側ヨーロッパ諸国と国交を回復、経済的にも結び付くことになり、やがてEU統合への気運が生まれたのはこの時からだ。

 1988年(昭和63年7月)中曽根首相の訪ソ、ゴルバチョフ書記長との会談で領土問題が存在することを認める発言をし、交渉が再び始まり、この後、外務次官クラスによって平和条約作業部会が常設されて、協議が進められた。

 この時の成果は、1991年(平成3年)4月にゴルバチョフ書記長来日、発表された日ソ共同声明で、北方領土が平和条約において解決されるべき領土問題であることが文書として明記され、確認されたことは一歩前進であった。

 ところが、帰国後すぐに政局が混乱しだし12月、ゴルバチョフ書記長失脚、ソ連邦崩壊という世界的大事件が発生、振り出しに戻った。

 1991年12月25日、ソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦は崩壊してしまった。

 スターリン時代から世界の二大強国として、東側陣営のリーダーであった強国ソ連邦が戦争で負けたわけでもないのにかくも無残な崩壊を遂げてしまった原因は何なのか?ゴルバチョフ書記長が壊したわけではない。

 しかし、ゴルバチョフ氏のロシア国内での風当たりは悪く、崩壊の原因を一身に集めてしまった観がある。

 だが世界的には評価が高く、ノーベル平和賞に選ばれた。では崩壊の原因は何なのか。あらゆる要因の複合作用であるが、長年計画経済がうまくいってない内部要因を承知しながら自分達が理想として創り挙げた社会主義が間違った方向へ進んでいるのではないかと気付いていながら、「計画経済では駄目だ」と言えず口を噤んでいた官僚組織。

 社会主義諸国の計画経済理論は、計画を作成する中央当局が、経済全体に関する完全な情報を収集、処理、合理的な経済的意思決定を行うことができ、計画指標体系によって経済を意識的に制御出来るという理論を前提としていた。

 従って下部組織は中央から指示されたノルマ達成だけが努力目標で、数字だけが一人歩きする「指令経済」で、そこには発展する要因はない。

 これは経済の分野だけの観点だが、「党・国家官僚制」とでも言うべき権力複合体が形成され、それが政治的意思決定権を独占する。

 従って、党・官僚が法の上に立ち、恣意的に法を侵犯しながら、民衆には厳格な法の遵守を求めると言う矛盾を敢えてやっている。

 この政治システムが「命令的・行政システム」と呼ばれるモノで経済運営もこれによって行われ、多様に変化する消費事情に対応が出来ない。難しい理論をいくら述べても実態は掴みにくいが、具体的な一例を挙げれば、西ドイツではベンツを生産し、東ドイツではトラバントを1958年から1990年のベルリンの壁崩壊まで32年間古色蒼然たる乗用車を生産し続け、しかも予約してから入手するまで何年も待たされるという経済構造を続けてきたのだから破綻するのは当然だ。

 全く関係ないが日本の例を挙げると、戦前我が国は資本主義経済システムであったが、軍人が政治を牛耳る軍国主義で、目の覚めるような世界最高の戦艦や航空母艦を有する連合艦隊を保持していた。

 ところが一般民衆の生活でのトイレは汲み取り式が一般的で、水洗トイレが当たり前の欧米人にはその差が奇妙なモノとして受け取られていたらしい。

 ところが、現在我が国のトイレは清潔さとハイテクに度肝を抜かれる位、進化を遂げ世界一は間違いない。初めて日本を訪れた外国人は一様にホテルのトイレの清潔さとウォシュレットに仰天し、出来ればお土産に持って帰りたいと本気で思うほどだという。これぞ経済が民衆と共に進化してきたことを示すモノで、決して上から与えられたモノではない。

 ソ連邦が崩壊し、新生ロシアは資本主義経済に移行したが直ぐに効果が出る訳ではない。体制が180度回転するのだから全く未知の世界になったのだから混乱するのが当然で、経済の危機、窮乏する国民生活、民族主義の台頭、エリツィン大統領の迷走、チェチェン戦争、グルジアとの戦争等国難とも言える様々な難局を乗り越え、今なお大国の一つとして存続しており、GDPでいえば世界6位にある。

 崩壊後の経済的混乱を救ったのは、豊富な地下資源の存在で、世界最大の石油生産国はロシアであり、更には天然ガスに関しても生産量、埋蔵量とも世界一のシベリア地方を有しており、しかも近年石油、天然ガス共に生産コストとは関係なく高騰しているからロシア経済にとって神風ともいうべき強烈な追い風になった。

 崩壊後の経済的混乱の中で石油業の関係者だけ勝ち組となり、若き新興財閥が台頭してきたが、新たな火種が生じてきたのも事実だ。

 石油・ガスの高騰は世界中の投資マネーが株式市場から商品市場へシフトしてきていることが主な要因としてその対象が石油・ガスであった。更に我が国が原発事故に驚き、50基もの原発を稼働停止にしてしまい、その分、火力発電に切り替えたため大量のLNG輸入拡大、貿易収支大幅赤字になっているのもロシア経済にとってはプラス思考だ。

 しかも広大なシベリア大地は極寒の地であり、未知の大地の凍層の下にはどれほどの地下資源が眠っているのか計り知れない。何しろ神話では、資源を持った女神が何処に埋めようかと地球の上空を飛んでいたところ、シベリア上空にさしかかった時、余りの寒さに持っていた手が凍え、思わず手を離し落としてしまった。と言うくらい資源が豊富な大平原なのだ。

 この石油が折からの価格高騰に乗って生産し売りまくった結果、膨大な現金収入があって新興財閥を生んだわけだが、同時に闇社会も台頭した。

 国家としての制度が崩れてしまったのだから、社会主義制度では裕福ではなかったが、最低の生活の保障は国家体制として保障されてきたが、その国家体制が崩壊したのだから社会的弱者は更に貧しく転落し、資本主義的経済が浸透してきたから、新興財閥が急速に増大、特に地下資源が豊富なロシア国内ではいち早く地下資源開発に乗り出した開発者が経済的な覇者になった。

 その結果が少数の強者と絶対多数の弱者に二極分解し、社会は暗く不安な世相に陥ってしまった。

 表向きは資本主義経済と言っても実際はマフィア的な裏社会が跋扈することになり、そこに元KGBで有能な職員であったプーチン大統領の出番となり、マフィアとの戦い、新興財閥との戦いになるが、これらの営業権を取り上げ半国営企業のガスプロム社の独占企業体制(国内総生産の90%)にしてしまった。

 しかもガスプロム社の会長は2008年より新大統領になったメドベージェフ氏だから半国営といわれ2007年度の決算では純利益が約2兆7千億円であった。

 もう一つ我が国関連の石油開発に関して、「サハリン2プロジェクト」の開発中止問題が2006年にあった。これはロシア政府から突如開発中止命令があった。

 その名目は「パイプライン建設に伴う環境破壊問題」ということであった、が実はガスプロムもサハリン2プロジェクトの経営に参加させろ、との信号であった。このプロジェクトにはシェル、三井物産、三菱商事も資本参加しており大分衝撃を受けたが、結局2006年12月、ガスプロム社が74億5000万ドルでサハリンエナジー社の株50%超を買収し、経営権を握った。

 このような強引な手法は、従来からの資本主義社会では絶対に通用しないことだが、ロシアは未だ未だ社会主義・治外法権主義的な色彩が濃く、全面的に信用すると大火傷の危険性がある。

 1993年(平成5年)1955年の結党以来38年間続いて自民党政権が第40回衆議院議員総選挙で単独過半数を得られず野党に転落、5つの各政党が連立政権を獲得し、日本新等の党首で元熊本県知事であった細川護煕氏が第79代内閣総理大臣に就任した。

 1993年10月13日、日本を訪問したエリツィン大統領は細川護煕首相と会談し、「東京宣言」「経済宣言」に調印したが、内容は苦しいロシア財政について、貿易を拡大したい、領土問題を早期に解決して平和条約を出来るだけ速く締結したい。天皇陛下との会見ではシベリア抑留者問題で深々と頭を下げ謝罪した。これは反スターリン派であって、スターリンのやった悪行を批判していた人だから批判的な行動でしょうが公式訪問中の謝罪だから、公式な謝罪と理解すべきなのか、単にパフォーマンスなのか意見が分かれた。

 1997年11月、ロシア訪問した橋本龍太郎総理とエリツィン大統領がクラスノヤルスクで会談したため「クラスノヤルスク会談・合意」と言われている。

 (1) 2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす。

 (2) 両国間の経済協力促進のよりどころとして「橋本・エリツィンプラン」を作成。

 (3) ロシアのAPECへの参加を日本は支持する。

 「2000年までには日露間で平和条約を締結するよう全力を尽くす」ということが合意された。初めて2000年までという期限が明記されたことで、従来交わされてきた合意よりは一歩前進と受け取られ期待された。

 しかし、平和条約締結を謳いながら領土問題に関してロシア側は「領土問題済み」の基本姿勢は崩さず、経済の協力合意だけが重要であったようだ。

 ロシア議会において領土問題では強硬で「日本との関係が深まることを望み平和条約を締結することも賛成だが、それと領土との一体性を失ってはならない」「日本側が島を諦めない限り、我々は決して条約を批准しない」のような意見が多数を占め、エリツィン大統領の考えとズレがあった。

 1998年4月、エリツィン大統領が再び訪日、川奈で橋本首相とゴルフを楽しみながら会談に臨み、橋本総理は従来からの四島一括返還の方針をやめ、「国境線画定」という新提案を提示した。これは確定していない国境線を明確にすることで、四島の主権は日本にあることを認めさせるだけにして、具体的な返還はその後にしよう、とした提案であったが、この時酔っていたエリツィン大統領はOKを出そうとしたが、側近が慌てて止めたというエピソードが伝えられた。

 参院選挙の敗北の責任を執って橋本総理が退陣してしまった。

 1998年11月、小渕総理が訪露、この会談では「国境線画定」に対するエリツィン大統領の解答を期待しての会談となったが、1億ドルの支援等の経済協力が中心となって、肝心の「国境線画定」は委員会を創りそこで審議する、とロシア側は遁れてしまった。これは川奈合意とは明らかに反するモノであるが、ロシア側の国内事情もあり、先送りにしてしまったが、エリツィン大統領は改めて次の提案をした。

 (1) 平和条約に「領土問題を決着させる」と明記する

 (2) 実際の国境線引きなどは別の条約に定める。

 これは東京宣言とは大分後退したもので、問題の棚上げと先送りだけになってしまった。

 1999年8月、エリツィン大統領は元KGBも在籍していた予備役大佐のプーチン氏を首相代行に任命、同時に大統領継承者に任命した。

 この頃ロシア国内は混乱を極め9月9日モスクワ市内のアパート爆破事件、続いてテロ事件が相次ぎ国内は騒然となっていた頃なので適任の人選と思われた。

 9月23日、チェチェン共和国の空爆開始、侵攻作戦開始。

 12月31日、エリツィン大統領辞任、大統領代行にプーチン首相を任命

 2000年3月26日、大統領選でプーチン氏が大統領に当選、正式な大統領になった。

 ロシア国内は大混乱、周辺国家との軋轢の頻発、このような情勢の時は強権と柔軟さを持って対処できる指導者が必要だが、プーチン大統領は縦横矛盾の活躍をみせ、ロシアは再び世界の大国の一つに並んだ。

 経済面を見れば社会主義計画経済から、突如資本主義自由経済に変換しても即座に転換出来るモノではない。

 1991年のソ連崩壊後、ロシアは市場経済を発展させ着実な経済成長を心がけ、エリツィン政権が執った政策は市場重視の抜本的な経済界改革を行うと宣言した。

 結果的には悉く失敗しロシア経済を破綻させ、貧困層の増大、官僚の汚職の蔓延、社会では犯罪が増加するという事態に陥入ってしまった。

 この原因はソ連解体により、ロシア本国の人口は解体時の約半分になったが、ソ連邦時代の法人格をそのまま承継したために外貨負債も肩代わりしなければならないはめになってしまったからその財政負担は大きかった。

 更にはソ連時代の価格統制を撤廃したためにハイパーインフレションが起こり、1998年にはロシア財政危機と呼ばれた経済危機に陥った。

 また1995年、政府が行った「株式融資担保」により多くの国営企業が株式を担保に銀行から融資を受けたが、この国営企業が発行した株は、ノーメンクラトゥーラのメンバー、若しくは犯罪組織のボス、マフィアの手に渡り、暴力的犯罪組織が暗殺、恐喝などの手法で邪魔者を排除し、国営企業乗っ取りが横行、汚職役人と組んでの横領、禁酒法時代のアメリカよりもはるかに混乱したロシアの世相であった。

 一方、豊富な地下資源開発に目を付け、石油、天然ガスを採掘・販売し折からの石油・天然ガスの価格高騰時代とマッチし多くの新興財閥が誕生した。

 これがオリガルヒ(Oligarkhi)であり、寡頭制(Oligarchy)の意味がある。

 違法な手段で入手した財で形成されたロシアの新興財閥が、資本主義化の過程で政治的な影響力を有する寡頭政治家の台頭である。

 こうして成立した新興財閥は連邦レベル、地方レベルに至る政治家、官僚機構との癒着し、この過程で影響力を更に増大するために新聞、テレビを中心としたマスメディアを支配、次いでの作戦はエリツィン大統領の側近に潜り込むことで政治を動かそうと謀った。

 こうした政治と新興財閥との癒着は腐敗の温床となり、一般民衆から観れば「泥棒集団」だと嘆き、政権支持が低下するのは当然の帰結であり、新興財閥に対しては批判的な一般世論が形成された。

 一方、新興財閥のうち多数を占めるエネルギーや資源関連の産業は、構造上、産業分野の独占的傾向が強く、競争原理が働かなければ経営の不健全化を招き、不透明性が問題となった。また政権との癒着から税金を滞納、脱税が問題となり、政府との癒着に深刻な亀裂を生じてきた。

 このような時に、エリツィン大統領からプーチン大統領にバトンタッチされた。マスメディアを保有し政治的影響を行使して自らの力を宣伝してきた新興勢力を押さえ込もうとしたプーチン大統領の政策の最初はマスメディアを政権側に取り込むことで有り、その次はロシア検察局当局を使って、新興財閥の詐欺、脱税容疑で根こそぎ逮捕、拘禁し、その筆頭はウラジーミル・グシンスキー(モストグループ)ボリス・ベレゾフスキー(ロゴバスグループ)がいた。

 さすが元KGBの手腕は凄いとロシア国内ばかりではなく世界が驚いた。

 KGB:ソ連国家保安員会、1954年から1991年、ソ連崩壊までの間、ソビエト社会主義共和国連邦の情報機関、秘密警察、軍の監視、国境警備を担当する機関。

 KGBの採用は、自分から志願した者は絶対に採用しないという鉄則がある。

 KGB側が各一流大学に在学中の学生に目を付け、学力、体力、思想、出自その他の基準が合格に達していれば、それから初めてリクルートが開始される。

 こうして選ばれた人材の中でもプーチン氏は最優秀なスタッフだったらしい。

 プーチン大統領の政策の第一は強いロシアの再興であり、そのための方策として中央集権化を謀り「垂直統治機構」と呼ばれるシステムを確立した。

 エリツィン大統領時代、国有企業であり資産を大統領側近として取り入り、資本主義化の過程の中で廉価で手に入れたオリガルヒが新興財閥として絶対的な勢力となって政治さえも我が物にしようとした。

 オリガルヒは莫大な資産を所有した上、国有財産を私物化するようになり、エリツィン政権と癒着によって政治的影響力を強めていって、こうした癒着が腐敗を生み、オリガルヒの納税回避、脱税が常態化すれば当然国家財政の危機に陥り、国軍は弱体化し、金融危機に見舞われ、国債の乱発を引き起こした。

 こうした政情に危機感を持ったエリツィン大統領は自ら引退し、大統領自身が選んでおいたプーチン氏に後を託した。

 こうして選ばれたプーチン大統領代行の初仕事は、大統領経験者とその一族の生活を保障するという大統領令に署名することであり、エリツィン前大統領に不逮捕、不起訴特権を与え、エリツィン一族による汚職の数々やマネーロンダリングによる追求を禁じ、引退後の安全を保障した。

 エリツィン一族の安全を確保してからは、政権に癒着していたオリガルヒに対する容赦しない弾圧で、新興財閥の狙い撃ちで逮捕、拘禁して資産を取り上げ再び国有化、恭順を誓った新興財閥とは手を結び、マスメディアを支配させ政権の情報機関とした。また納税を確りと見張り完納させることによって国家財政を立て直した。

 こうして強引な手法ではあったが、破綻寸前であったロシア国家財政を立て直したことは事実だ。

 だが暗殺や誘拐等秘密警察的手法による浄化作戦には行き過ぎがあるのは当然で、その後遺症が未だ存在している。

 2013年3月23日、ロンドン近郊の私宅で遺体が見つかったロシアの政商・ベレゾフスキー氏の変わり果てた姿で発見されたが、自殺、他殺かは判らない

 末期のエリツィン政権を操り、プーチン大統領誕生にも大きく拘わった稀代の怪物的政商で、旧ソ連崩壊の混乱で巨万の富を築いた「オリガルヒ」と呼ばれた政商の代表的存在であったが、国と富と政治を私物化したとして国民からは忌み嫌われた。

 ベレゾフスキー氏が政界でフィクサーとして頭角を現したのは1996年の大統領選で、配下のメディアを総動員して人気が全くなかったエリツィン氏を力ずくで当選させた。更にはエリツィン大統領の最側近として、これまた全く無名であったプーチン氏を大統領に仕立て上げた。

 いずれも自身の利権や身の安全を守るための方策であったが、余りにも政治に深く関与してくることに警戒感を強めたプーチン大統領が大統領権限でオリガルヒの多くを追放・放逐あるいは政権に屈服させる等の措置を執った。

 その結果、ベレゾフスキー氏はロンドンに亡命、石油王ミハイル・ホドルコフスキー氏は脱税容疑で逮捕、現在獄中にある。元メディア王、ウラジーミル・グシンスキー氏は逮捕後、国外逃亡・亡命した。

 今までも二重スパイ容疑者、亡命者等の不可解な死があったが、何故かロンドン周辺での事件が多いのは、イギリスが一番安全だと判断していたのかどうかは判らないが、しかし謎の死が多いのは事実だ。

 対日政策で、戦後の歴代ソ連邦書記長、ロシア大統領、首相のうち一番柔軟なのがプーチン大統領かと思われる。と言っても、日本の北方領土返還要求に対しては、北方領土問題を解決して日露平和条約を締結することに意欲的な姿勢を示しているが、基本的には日ソ共同宣言を根拠にして二島返還の立場を執っている。

 2001年、シベリアのイルクーツクで国際会議があり、出席した森喜朗総理(当時)とプーチン大統領との会談があり、その時「イルクーツク声明」を出し、同宣言が北方領土返還の交渉の出発点であることを確認した。

 しかし、2005年ロシア国内でのテレビ番組に出演し「北方領土の主権が現在はロシア側にあることは国際法上からも明らかであり、第二次世界大戦での結果であるから、その点での交渉には応じない」と発言、強硬な姿勢を示した。

 来日時でも二島返還には応じてもよい、あるいは二島返還以上のことには応じないと強硬な主張を繰り返し、四島返還を求める日本側を、日ソ共同宣言を履行しない日本側に非があるとした。一方では、戦略的にはシベリアの天然資源の開発、輸出先として日本市場を重視、シベリアへの投資、輸出拡大に意欲を示した。

 ロシアで初めて行われるソチ冬季オリンピックは大過なく終了した。

 夏のオリンピック、モスクワ大会はソ連軍のアフガニスタン侵攻作戦と重なり、アメリカ・カーター大統領が侵攻作戦に抗議してモスクワ大会への出場ボイコットすることを呼びかけ、西側諸国はこれに応じてオリンピック参加をボイコットした。我が国もボイコットの一員となった。

 このような前例があるので今度こそは意地でも成功させたいという心情だろう。プーチン大統領の熱意は大変なものでオリンピック史上最高額の約4兆5,000億円の巨費を投資し、11ヶ所の会場を新たに建設、これ等はすべてゼロからつくるという壮大なもので、ソチの中心部や空港から会場へ向かうための高速道路に、新たな鉄道路線やロシア最大の駅舎を建設する意気込み様は何を目指すのか。まさに世界に開放されたロシアの現状を示すことにあり、見事に成功させたのだからプーチン大統領は喜色満面であった。

 さて世界に対して開かれたロシアを見せたいロシアが、日本に対してはどう変わろうとしているのか、気になるところだが、安倍政権に変わってから、ロシア側も変わり始めた。安倍政権が発足し直ぐに「自民党から平和条約締結への重要なシグナルが送られてきた」とプーチン大統領が記者会見で述べたことがあった。

 これに対し「建設的な対話を行う用意がある」と受けて立つことを明言した。

 歴代首相は取り組んだが全く動かすことは出来なかった北方領土問題、もし安倍総理が動かすことが出来たら名宰相として後世に名を残すかも知れない。

 メドベージェフ大統領が国家元首として初めて北方四島の一つに公式訪問したときは、当時の菅総理は「許しがたい暴挙」と非難したが、これに対してラブロフ外相は外交の舞台で使う言葉ではない、と強い不快感を示した。

 2012年5月、プーチン大統領が再登板してくると雰囲気がガラッと変わってきて、大統領選挙直前には「日本との領土問題を最終的に解決したい」と意欲を見せたが、現在までは具体的な進展は未だないが、森元総理のロシア派遣は何らかのシグナルを受けたからの行動だろし、プーチン大統領と森元総理は旧知の間柄であるから何かを意図した行動だろうことは推測がつく。

 ではプーチン大統領の思惑は何なのか、考えられるのは「極東開発」の大問題で、ロシアは極東開発を国家のプロジェクトと位置付け、東シベリアと日本海の港を結ぶパイプラインが開通、また極東向けのガスラインの建設に着手した。

 すなわち売り込み先は日本なのだ。プーチン大統領は「外国のパートナーと共に将来の技術に向けて作業したい」と述べているが、外国のパートナーとは日本を指していることは明らかだ。東シベリア開発には、永久凍土に下に眠る資源を掘り出すことは技術と共に膨大な資本を必要とする。一説によると100兆円規模だと言われている。

 2012年12月28日、安倍総理、プーチン大統領との電話会談で平和条約加速の方向で一致した。それが北方四島返還に結びつくかは安倍総理の才腕に架かっている。

 またプーチン大統領には焦りがあるのかも知れない。それはアメリカで頁岩からの採油が可能になれば、石油の自給自足が可能になり、当然中東への依存度が少なくなる可能性がある。

 そうすると石油価格の暴落を招くかも知れない。この不安は現実のものとなって石油の国際価格は暴落し、一時的には半額となってしまった。

 また、我が国周辺海域の海底からメタンハイドレードの採掘のメドが付けばシベリアの資源に頼らなくとも我が国エネルギー源は確保できることになり、シベリア開発への投資熱は冷めることになる。だからこそ1日でも速く平和条約交渉を始め、締結することによってシベリア開発に協力して欲しいということが本音かも知れない。その為には北方四島が重要なターニングポイントになる可能性がある。

 現在、ロシアがウクライナのクリミア半島を一方的に併合してから本日2015年3月18日で1年になる。

 1年前、ウクライナからの「独立」を宣言したシンフェロポリのクリミア議会は、いまはロシアの地方議会に変わってしまった。

 この同じ時期に、ロシア・プーチン大統領が併合過程で核戦力を臨戦態勢に置く可能性のあったことを明言した。

 即ち1年前のクリミア併合にはロシア軍の介入は全くないと明言していたプーチン大統領が、一転して実際は介入していたことを自ら認め、更には攻撃の準備として核戦力も視野に入れた準備をしていたことを明らかにした。

 単なる脅しなのか、ロシアの存在感を誇示するためなのか、真意は判らないが、NATO諸国は一歩退いたような沈黙状態になったことは確かだ。

 アメリカは猛烈に噛みついた。もし米ロの対立が激化したまま、東部ウクライナの戦闘が再び激化すれば、戦線が拡大し欧州が戦場になりかねない情勢にあり、それを読んだプーチン大統領の威嚇とも思える。

 昨年3月18日にロシアがクリミア併合を宣言し、ウクライナ軍は半島に展開したロシア軍に対してほとんど抵抗できないまま1週間で撤退、クリミア返還に向けた展望が開けない背景には、その後始まった東部での親ロシア派との武力闘争の深刻さがある。

 では何故これほどにクリミアに拘るのか、これはウクライナ、クリミア半島の位置にある。ロシア王朝時代からロシア革命、ソ連邦、新生ロシアと長い歴史の中で、如何にその領有権、支配権の争奪に血みどろの闘いを続けてきたかは歴史を紐解けば判る。

 ロシアは海への出口が僅かではあるが港はある。だが冬季は凍ってしまい長い期間使用できない。国是として不凍港を求めての南下策が近隣諸国との紛争の歴史となった。

 東へと突き進んだのも不凍港を求めたものであり、沿海州まで達し、シベリア鉄道とウラジオストック港を造りあげた。これも容易に出来たわけではない、数限りない紛争を経ての港建設だ。クリミア半島の地政学上の重要性は黒海に突き出した半島であり、ボスポラス海峡を経て地中海に出られるという絶対に他にはない重要性がここにある。

 ロシアの最大の目的は、ロシア黒海艦隊の母港セバストポリの確保にある。

 もう一つの難問は、ボスポラス海峡はトルコ領内の地峡とも言うべき海峡であり、その重要性は言うまでもない。ハリウッド映画、「ナバロンの要塞」は第二次大戦中のドイツ軍がこの海峡を支配し、要塞を築いてこの海峡を通過しようとする連合軍の艦船の通過を阻止しようとした攻防を描いた映画だ。

 ボスポラス海峡を通過し地中海にでるには、トルコ政府が認めなければ通過できない。そこで様々な圧力がトルコ政府に課せられた。

 歴史上の一時期、その圧力を撥ね除けてくれたのが日本で、日露戦争の勝利が間接的にトルコ政府を助けたことになった。トルコ政府、国民は驚喜し、極東の小国、日本に感謝した。

 この感謝の気持ちが1世紀近くたっても変わらず友好国となっている。

 しかし、相変わらず不気味な振動がクリミア半島、ウクライナ国で揺れ動いている。今後どう進展していくのか、100何十年続く紛争が一挙に片が付くような妥協点はない、世界の眼はここに集中し、息を殺して見守るしか方法はないのか。

 同じように我が国の首筋に匕首を突き付けたような形にある北方四島の平和的解決はあるのか、先が読めない隣国ロシアとの付き合いは気苦労が多いことだ。

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