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高31回 志賀 泉さんの写真エッセイ

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2012/10/17

 三年生になった。華の三年生だ。

 新入生の歓迎会がある。生徒会長の挨拶をして、次に部活動の勧誘スピーチをして、それが終わると待ちに待った校歌練習。やっほぅ。おずおずと歌い出す新入生を「オラァオラァ!」と縮み上がらせる役が我々に回ってきたのだ。

 女子で覚えているのは武隈。ドスの効いた声に私がビビって(死語?)しまった。スカートの丈もいつもより長かった気がする。私はというと気合いが入りすぎてアニマル浜口ばりに「ファイトファイト!」と連呼し、「部活じゃないんだから」と後で山崎に笑われた。山崎も今では浪江町の町議会議員である。

 生徒会室は文化部の部室の並びにあり、たしか左隣が新聞部室で右隣が史学部室だった。新聞を作っていないときの新聞部員が何をしていたかというと部室でスリッパ卓球をしていた。史学部室には発掘した土器や石器を見せてもらいに出入りしていた。

 私が会長になってから生徒会室は散らかり放題になり、異臭がすると思ったら書類の山の下から腐りかけのパンが出てきたりする始末だった。もう自分の家みたいなものだ。

 窓の下には昇降口の平屋根があり、たまに窓から抜け出して平屋根に下り立ち、下校する生徒を眺めていた。部活動もせず三時になると帰宅する人々を「3時のあなた」と呼んでいた。当時のワイドショー番組のオープニング曲を「さんじぃのあぁなぁたぁ」と頭の中で歌った。わからなかった。そんなに早く家に帰って何をするというのか。

 私は学校が面白くて仕方がなかった。やりたいことは山ほどあった。もし許されるなら学校に寝泊まりしたいくらいだった。

 生徒会長になって、名前より「会長さん」と呼ばれることが多くなり、最初のうちはこそばゆかったがじきに慣れて、波瀾万丈の一年が幕を開ける、と、たまにはドラマチックに締めくくろう。

双葉高校正門



  夢に狂う 放課後の王国 風光る






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2012/08/30

 お盆休み、小高町に帰省する。警戒区域指定が解除になって初めてのお盆だ。小高町に入ったことはあったが、家の中まで入るのは僕にとってこれが初めてだった。

 僕の家には築百年くらいの土蔵があり、家の不要品を放り込んでいたが、震災で破損したのを機に解体することに決まり、収蔵品(といっても大したものはない)はいっさいがっさい裏の畑に野積みされ、ゴミの山となって処分を待っていたのだった。

 とうぜんそこには僕の持ち物もあるのだが、本人の了解もなくいっしょくたにゴミの山にしてしまうのだから、親の独断は津波と同じくらい非情だ。

 とにかくまあ、スモーキーマウンテンを漁るフィリピンの子供のようにゴミの山をほじくりかえしていたら、中学時代に愛読していた「詩とメルヘン」という雑誌が数冊と、いまではレア物となった双葉高校のペナント(正確には同じ双高生だった兄の持ち物)と、「生徒会長ごくろうさん」という意味の文面の表彰状が出てきたのでこれを保護した。思いがけなく表彰状に再会し、「僕が生徒会長だったのは歴史的事実だったんだなあ」と認識を新たにした。べつに、自分の記憶を疑っていたわけじゃないけど。

 そういえば僕は自分が生徒会長になったことを、しばらく親に黙っていたのだった。なぜ黙っていたかというと、なんだか悪いことをしているような気がしたからで、なぜそんな気がしたかというと、「生徒会長としていかにバカをやるか」しか僕は考えていなかったからだ。

 先日、ジブリアニメの『コクリコ坂から』のDVDをレンタル店で借りて観た。1950年代の高校生群像みたいな物語だが、そこに登場する生徒会長がクールでハンサムでインテリという紋切り型で、当然グルーピー(死語?)の女の子もいたりして、羨ましいことしきり。相似点といえば、学校の方針に対抗して演説をぶつところくらいか。僕もまあ、職権を乱用して学校批判はよくやった。

 それにしても、生徒会長ともなれば少しは女の子にモテるかと思ったが、まるでモテなかった。一度だけ、下級生の女子から手紙をもらったことがあったが、学校批判や教育批判が大真面目に書き連ねてあり、これをラブレターとして受け止めてよいかどうか困惑したあげく僕が出した返事は、「地球最後の日でも笑っていたらいいね」という意味不明の一行にイラストを添えたものだった。

 モテませんよ、こういう男は。

 彼女の手紙も他の手紙といっしょに土蔵のどこかにしまっていたはずで、当然ゴミの山のどこかに埋もれていたはずだが、見つけ出せないまま捜索は打ち切られた。

 そういえば彼女はどうしているのだろう。

ゴミの山から発掘したペナント



  夏の果て遠い記憶のありどころ



  たたずめば記憶抜き去る蝉しぐれ






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2012/07/31

 現実の季節は猛暑というのに、この連載はなかなか春にたどりつけない。

 1977年の冬は剣道部にとっても冬の時代だった。もともと二年生の男子3人女子2人、一年生の男子3人に女子0人という小所帯だったのが、主将だった三瓶と僕が対立をしてしまったおかげで一年生が稽古に出なくなり、二年生までやる気がなくなり部活動が成り立たなくなった。これが家族なら「一家離散の危機」といったところだが、そもそも三瓶と僕がなぜ対立したかというと、簡単に言えば「性格の不一致」とでも言うべきもので、夫婦じゃあるまいし阿呆かと誰もが思うだろうし僕も思うが、ままならないのが人の心だ。

 放課後に道場へ行っても誰もいないので、仕方なしに独りで海まで走った。「海に出て木枯かえるところなし」という俳句があるが、そんな心境で寒風吹きすさぶ中、やけくそで筋トレなどしていた。僕がたびたびエッセイに書く「双葉海岸の突堤を先端まで歩くと原発の建物が見えてくる」という発見をしたのも、この頃だった。

 走って高校に戻り道場をのぞくと、吉田(二年女子)が独りで鏡に向かい黙々と素振りをしていた。もともと気の強い彼女の、さらに憤怒を溜めた表情に僕は怯み、そのまま家に帰ってしまったこともある。情けない僕だ。

 その後、三瓶と僕は和解して部の立て直しを始めたが、その年の春合宿は桃内駅に近い大悲山道場で、二年生男子3人のみで行った。なんとも寂しい合宿だが稽古だけはした。稽古をすると腹が空く。しかし飯は自分たちで作らねばならん。当然ろくな飯など作れるはずがない。自業自得。

 しかし「災い転じて福と成す」という言葉もある。当時の僕の憧れの人であるJが近所だったのをいいことに、僕は電話で強引にJを呼び出し親子丼を作ってもらったのだ。Jにとっては大迷惑だったろうが、おかげで僕らは幸福だった。中でも僕は、他の二人の二倍は幸福だったと思う。

 Jのおかげというわけではぜんぜんないが、年度が変わると剣道部は大躍進を遂げることになる。じゃじゃん。

双葉海岸の荒波



  木枯らしの尻尾つかんで波がしら



  海に出て霧の原発指させり



  青豆も春の兆しや親子丼






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2012/06/20「特別編」

 前回の続きで、HR特別授業の話をしよう。今回は、化学の川上先生の講演。

 過激な毒舌家で知られた川上先生だが、生徒の信頼は篤かった。根は人情肌、教え方がうまい、というのが信頼された理由だが、それ以上に、とても叶わなかったというのが本音だろう。

 だいたい毒舌家は基本的に捨て身でくる。捨て身は強い。自分を守ろうという意思がさらさらない。従って表裏がない。表裏のない人に「バカ」と言われたら「バカ」を認めるしかないではないか。認めてしまえば後腐れがない。傷つく人がいるというなら傷つくほうが悪いのだ。

 川上先生は捨て身の人だった。教育者としてのよけいな理念など持たず、「いい点数を取らせる」というシンプルな情熱だけがあった。我々は最初から圧倒された。圧倒され、敬服した。「クソ製造器」と罵られても不思議と屈辱感はなく、なるほどそういう見方もあるのかと逆に感心していた。(確かに、言い得て妙だ)

 誰にでもできる芸ではない。捨て身だからこそできた芸なのだ。僕には無理だ。あなたにもたぶん無理だろう。人はそうそう簡単に捨て身にはなれない。捨て身と破れかぶれは違う。それは持って生まれた気質であり、経験で磨き上げた技でもあるのだ。

 そういうわけで高校二年の年度末、僕ら2年B組は川上先生に講演を依頼した。この特異な人間性をもっと理解したかった、というのは嘘で、授業を離れたら何か面白い話を聞かせてくれるんじゃないかとわくわくしていたのだ。

 川上先生が我々に話したのは、彼が人生のターニングポイントで経験したエピソードだった。つまり「運命」についての話だ。

 川上先生の大学生活は終戦直後の混乱期とほぼ重なる。ある日、友人たちとほんのしゃれのつもりで路傍の占い師に運命を観てもらった。占い師のおばさんが言うには「あんたは兵隊になる」だった。川上先生は笑った。

「おばさん、日本は武装解除して兵隊なんてもういないんだよ」

 その時代にはまだ自衛隊はなかったのだ。おばさんの鑑定は世間知らずのたわ言にしか聞こえなかった。

 さて、時代はいまだ占領下で不景気に喘いでいたから、大学卒でも就職は厳しかった。「大学は出たけれど」の時代だ。川上先生も卒業を控えて就職先が決まらずにいた。そんな折に警察予備隊(自衛隊の前身)は創設された。1950年、思いもよらず、日本は再軍備を始めたのだった。

 警察予備隊が医務系の職員(このへんは記憶が曖昧)を募集していると知り、心が動いたが、どうも乗り気にはなれなかった。しかし背に腹は替えられないので、履歴書を送ってみることにした。乗り気じゃないので、履歴書に貼る写真もいい加減だった。何年も前に仲間と撮ったスナップ写真から自分の顔を切り抜いて使った。書類審査で落ちるだろうと思っていたが、通ってしまった。

 それで本試験を受けることになったのだが、なにせ乗り気ではないので試験当日に遅刻してしまった。会場の門が閉まっていたので「しょうがないや」と道を引き返していたら、警察予備隊のジープが砂煙を立ててやってきた。駅までの道は遠い。乗せてもらおうと横着し、手を上げた。

「何をしている?」と質問され、「試験に遅刻したので引き返している」と答えた。

 するとジープに乗っていた隊員が「それなら私がなんとかしてやろう」と言いだし、川上先生を乗せて会場に引き返し、試験を受けられるよう掛け合ってくれた。

 まあ、そういう経緯があって川上先生はぜんぜん乗り気じゃなかった警察予備隊に医務系の職員として入隊してしまった。警察予備隊というと聞こえはいいが要は軍隊だ。思い出すのは占い師のおばさんが言った「あんたは兵隊になる」という予言(?)だ。

「不思議なもんだよなあ」と川上先生はこの話を締めくくった。

 僕はこの話に感銘を受けてしまった。別に、「占いは信じるに足るものだ」とか「人間には持って生まれた定めがあるらしい」とか、オカルトめいた意味で感銘を受けたのではない。川上先生もそんなつもりで話したのではないはずだ。

 僕はただただ、「運命というものの不思議さ」に感じ入ってしまったのだった。

 誰にだって、何かに導かれるように自分の人生がひとつの方向へ動いていくと感じる時があるだろう。迷いのただ中から、ぐっと運命が動き出す時だ。僕も何度か体験した。僕はそのたびに得体の知れない力を感じた。力の正体はわからない。それを「神」と呼ぶ人もいるかもしれないし、「前世の因縁」と呼ぶ人もいるだろうし、「ただの偶然」で済ます人もいるだろう。わからない。わからないことは考えてもわからないので考えないことにしているが、力の存在だけは認めている。

 「動き出したな」と感じたら逆らわずにシフトする。それで悪いようになった例しはない。人生とは思いがけないことの連続で、迷うことも多いのだけれど、何らかの力が働いてふっと迷いから抜け出した時は、いつも川上先生のあの講演を思い出す。

 そして「不思議なもんだよなあ」と思うのだ。

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2012/05/30「特別編」

 季節はもう初夏だけど、これから書こうとしているのは2年生の年度末のこと。とにかく書きたいことはいろいろ詰まっていて、なかなか3年生に進級できない。

 さて、誰が言い出したのかは忘れたが、僕のいた2年B組では年度末のイベントとしてホームルームの時間に好きな先生を招き、二週連続で講演をしてもらうことに決めた。教科書を離れて面白い話を聞こう、というわけだ。

 白羽の矢を立てた「大好きな先生」は、地学の白瀬先生と化学の川上先生。ふたりともサイエンス系なのは偶然だが、つまりサイエンス系の教師には変わり種が多いということだろう(小・中学校時代を思い返してもサイエンス系教師には変人が多かった)。

 白瀬先生は人柄のよさで人気があり、川上先生は逆に人柄のわるさで人気があった(生徒を「クソ袋」または「クソ製造器」呼ばわりした、あの人である)。

 この時の講演は三十年以上たったいまも忘れない。ふたつの講演は僕のその後の人生に少なからず影響を与えているはずだ。思うに、通常の授業ではせいぜい知識の上澄みを掬うのに精一杯で、「ものの見方・考え方」の基本まで下りていくことはなかなかできないものだ。けれど、学問をする面白さというのは本当は、新しい知識に触れることで「ものの見方・考え方」が見事にひっくり返るところにあるはずなのだ。

 そういうわけで、白瀬先生と川上先生へ感謝の意を込めて(川上先生は残念ながら鬼籍に入られたのだけれど)、お二人の講義内容を二回に分けて、ここに取り上げてみたい。

 では、一回目は白瀬先生の講義。

「やあやあ、どうもどうもどうも」と言ったかどうかは忘れた。でもそんな雰囲気。白瀬先生はにこやかな人である。

 地学の先生が何を語り出すのか興味津々で待っていると、意外や意外、先生は『古事記』の、しかも「ヤマタノオロチ」の伝説を話題に取り上げたのだった。なにゆえヤマタノオロチ? 先生は「最近読んだ面白い本」に書かれてたひとつの仮説として語り出したのだったが、根も葉もない伝説という認識しかなかった『古事記』を、歴史的背景に基づいて読み解くという方法にも驚いたし、ヤマタノオロチがちゃんと地学に結びついたのにも驚いた。

「まずヤマタノオロチの『チ』という音ですが、世界中の言語には『ファイヤー』がそうであるように、火を表す言葉に『チ』『ヒ』『フィ』という音を用いる例が多いんです。ですから『オロチ』も実は火に関係した言葉である可能性が高いわけです」

 いまならこの理論の矛盾を簡単に指摘できるのだけれど、なにしろ当時は高校生だったのでただただ「へええ」と思いながら聞いていた。

 続けて先生が話すには、『古事記』によればヤマタノオロチは「身ひとつに八頭八尾、その長さは八つの谷八つの丘を渡り、真っ赤な目をし、お腹は常に血でただれ」という姿で書かれているが、先の「オロチ=火」説と合わせると、これは溶岩流の表現のようにも読める。つまりヤマタノオロチとは、火山が噴火するたびに流れ出して古代人の集落を襲った溶岩流の象徴ではなかったか。

「おおおお」と教室がどよめいたわけではないが、少なくとも僕の目から鱗がぽろりと落ちた。

 スサノオはオロチ退治のために酒を盛った器を八つ用意したというが、これは溶岩流を止めるために古代人が掘った穴のことかもしれない。また、スサノオがオロチの尾を切ると中から霊妙な剣(草薙剣)が出てきたというのは、溶岩に含まれる鉄鉱石を製鉄して剣を作っていた事実が伝説化したものではないだろうか。事実、現地調査によれば伝説の舞台となった出雲地方で溶岩の溜まりが発見されているし、古代には鉄器文化が栄えた土地でもある。

 ね、ヤマタノオロチの伝説がちゃんと地学に結びついた。

 まあ、いまでいう「トンデモ科学」の類ではあるのだが、信憑性はともかくとして、高校生だった僕がどうして目から鱗を落としたかといえば、「学問て自由なんだ」というひと言に尽きる。「何をどんなふうに考えようと基本的に自由だ」。これは衝撃的だった。

 『古事記』を読むのに国語学・言語学・考古学・地質学と、学問の敷居を跳び越えていく自由な発想法も、通常の授業では教わらなかった。国語は国語であり、歴史は歴史であり、科学は科学。でも考えてみれば世の中の物事はそんなに整然と分かれてはいない。敷居を跳び越えたところに新しい発見がある。

 いわゆる「学際的研究」というものだが、小説もいわば「知識のごった煮」から生まれてくるものなので、この日僕が白瀬先生から教わったのは、つまり小説の書き方でもあったのだ。

 白瀬先生に感謝。次回は川上先生の講演を取り上げます。

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2012/05/07

 今年の大河ドラマでは若き平清盛公が「おもしろうもなき世をおもしろく生きるんじゃ」としきりに吠えているが、生徒会長の座についた僕が考えていたのも「おもしろいことをしたい」ということであって、以降、生徒会はなんだかよくわからないものになっていく。なぜそうなったかというと、生徒会長の最初の仕事は役員選びだが、ふつうなら前年度の経験者を引き抜いて脇を固めていくものを、「おもしろそう」という基準で選んだ結果、自然に「小高閥」というものができてしまった。会長の僕が生徒会のなんたるかを知らないし、役員も知らない。国が乱れるわけである。しかし、多少は乱さないと世の中がおもしろくならないのも事実である。

 話はそれるが、生徒会長になったら女の子にもてると思ったがまるでもてなかった。

 話はさらにそれるが、予算折衝で「薬品に金がかかるんだ」と言い張って予算を大目にぶんどっていった写真部。いまだに思い出すと腹が立つ。くそう。

 それはともかく、生徒会長になって僕が最初にした仕事は「双葉ヒマ人倶楽部」というミニコミ誌を創刊したことだ。

 「双葉ヒマ人倶楽部」。名前からしてふざけている。ちなみに「ヒマ人倶楽部」というのは泉谷しげるの同名の歌のタイトルから借りた。

 ガリ版の時代は終わり、原紙にボールペンで字を書き輪転機で印刷するというふうに技術は進化していた。(コピー機という夢のハイテク機械は当時の双葉町では役場に一台あるきりだった)。まあ、書いたことはいまとなっては愚にもつかないことばかりで、現物も残っていない。でも当時は一人前に教育批判とかしていたつもりだった。その他に詩やら超短編小説を書いたり、好き放題だったな。

 放課後に印刷室に勝手に入って無断で輪転機をカタカタ回して、出てくるわら半紙の、インクの匂いがやたら新鮮だった。「双葉ヒマ人倶楽部」は購買部に置かせてもらった。けっこう評判はよかったと覚えている。三つ子の魂百まで。私のもの書き人生の第一歩といえる。




  輪転機まわせば地球もまわるなり



  ホチキスの音にときめく放課後よ






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2012/02/10

 今でこそサッカーはメジャーなスポーツだが、Jリーグ発足以前のサッカーは、どちらかといえばマイナーなスポーツだった。

 双葉高校のサッカー部もしかり。校庭の大半を使うのは硬式と軟式の両野球部。北サイドと東サイドを陸上競技部が使用し、サッカー部の使用スペースは悲しいかな、ごくごく限られたものだった。

 それゆえ、悪天候になれば逆にサッカー部の天下。校庭いっぱいを使えるとあって、ザアザア降りの中を思う存分に走り回る、転げ回る。事情を知らない人が見たら、この人たちは泥だらけになるのが目的なのかと勘違いしそうなくらい、彼らは雨が降ると日ごろの練習態度が嘘のように熱中するのだった。

 雪の日も事情は同じだ。

 どうしてそういうことになったのか。ある日、校庭にたんまり雪が積もった日のこと。サッカー部対剣柔道部連合で試合をすることになった。まあ、それ自体は別に珍しくもないだろうが、問題は敗者に課せられた罰ゲーム。誰が思いついたのか、雪の上を裸足でうさぎ跳びしながらフィールドを往復するというものだった。

 それが何の役に立つかというと、何の役にも立たない。『巨人の星』が流行らせたうさぎ跳びは膝を痛めるだけというのはすでに常識中の常識。しかも雪の上を裸足で…。なにゆえ、と誰もが疑問に思うだろう。しかし理由は簡単で、「ばかみたい」だからだ。「ばかみたい」なのは「おもしろそう」なので、やってみたくなる。運動部とはそういう連中の集まりなのだ。

 で、やってみたら全然おもしろくなかった。つまり試合に負けたわけだが、試合内容はすっかり忘れて、記憶はいきなりうさぎ跳びの場面に飛ぶ。おもしろいわけねえべ!

 いやあ、サッカーのフィールドをあんなに広く感じたのは初めてだったな。しゃがんで見るゴールポストの遠いこと。三途の川の向こう岸くらい遠い。しかも校庭の雪は我々に蹴散らされてぐちゃぐちゃ。シャーベット状の水たまりを避けて跳ぶ余裕もない。足の裏があまりに冷たくちぎれそうで、手にはめていた軍手を足にはめてみたりしたが、役に立つか、こんなもん! すぐ脱げるし。

「誰が決めたんだよ、こんな罰ゲーム」とぶつぶつ文句を言い、膝も腰も悲鳴をあげながら、それでも一人の脱落者もださずに全員成し遂げたのは、やっぱり若さだろうな。

ばかだったよなあ、と雪が積もるたびにあの日を思い出し、では感想は、と聞かれれば、やっぱり「おもしろかった」と答えてしまうのだった。




  降る雪の重さをまつ毛で量るかな



  雪を踏む素足に血潮駆けめぐる






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2012/01/03

 この世のどこに、50を過ぎて「私は今でも生徒会長だ」と胸を張る馬鹿がいるのかと思いきや、私がそうなのだった。

 避難所を回って「小さな音楽会」を開いていた時に、挨拶の中でそう話したのだった。なかばギャグだったが、笑いをとったことは一度もなかった。みんな真面目に聞いてしまうので、いつしか自分も真顔で口にするようになった。そう、私は今でも生徒会長なのだ。

 しかし、つらつら思い返してみるに、私は積極的に生徒会長になりたくてなったわけではい。生徒会長選挙が告示されても立候補する者がいない。一回目の告示がお流れとなり、二回目の告示も同様にお流れとなり、三回目の告示になっても立候補者が出る気配がなく、生徒会顧問の松延先生はイラつき「生徒会予算が組めないと部活動費も下りない」と脅しにかけ、ここに至って「ああ、やべえな」と手を挙げたのがこの私なのだった。しかし正直、生徒会長って何をするんだかまるでわかっていなかった。

 対立候補はいないが選挙はある。まあ、落選の心配は皆無に等しかったので選挙演説は強気だった。こんな調子だ。

「この中さは、俺より生徒会長にふさわしい人間はいっぺえいっと思うだ。んでも、誰も出ねえがら俺が出た。誰も出ねがった以上、おめらには俺を落選させる権利はねえ! だから・・・・ん、・・・・俺に入れろ」(会場爆笑)

 抜粋でも誇張でもなく、一言一句この通りだ。

 応援演説は剣道部の先輩の浅倉先輩と同級生のJに頼んだ。Jに頼むところに下心がちらつく。

 浅倉先輩の応援演説。「みなさん。志賀君は馬鹿です」(会場爆笑)「しかし、馬鹿にしかできないことがあるのではないでしょうか」

 Jの応援演説。「志賀さんの家はお米屋さんです。お向かいもお米屋さんという変な環境です」(会場爆笑)

 これほど爆笑に満ちた選挙演説会は空前絶後ではないだろうか。

 しかし私はこの演説で、得票率100パーセントという独裁国家の大統領選挙みたいな当選を果たし歴史に名を残すのではないかと自信満々でいた。蓋を開けてみたら3、40人ほどが私を否定した。ま、そりゃそうだろうな。

 ところで、どうして私が自分の演説を完璧に記憶していたかというと、その年の、三年生を送る演芸会で私の選挙演説をそっくり再現した者がいたからで、客観的な立場で見ると、「ああ、馬鹿まるだしだ・・・・」と私は愕然とした。というわけで、他人が真似た私の姿が脳細胞に強烈に刻み込まれたのだった。

双葉高校校庭の片隅で



  十月の馬鹿壇上に吠ゆるかな



  秋天や会長といえど愚か者






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2011/12/05

一か月近く、雑誌の仕事にかかりきりになってしまい、このコラムに手が回りませんませんでした。申し訳ありません。

 しかしおかげさまで、12月6日、13日発売の週刊朝日「ドキュメント劇場」に記事を掲載することができました。わが双葉高校野球部が震災をいかに乗り越えていったかを描いたノンフィクションです。ぜひご覧になってください。

 さて、それはともかくコラムである(急に文体が変わる)。

 高校二年の秋はいろいろあった。修学旅行とか生徒会長選挙とか恋に落ちたりとか。

 だいたい私はお調子者なので、「志賀君は小説家になれると思う」や、それに近いニュアンスの言葉、あるいは言った本人に全然そんな意図はないのだけれど聞きようによってはそう取れる発言をした(してしまった)女性に惚れた。

 中学時代からその傾向はあり、40過ぎてから出会った今の嫁さんに惚れたきっかけというのも、そんなようなものだった。本人はほんのリップサービスのつもりで言った言葉も、私には「私という存在の全肯定」に聞こえてしまうのだから、うっかり口にしたが最後、しつこく私につきまとわれる結果となる。気の毒である。書いていて気づいたのだが、典型的なストーカーのタイプだな、これは。

 何を書いているかというとJのことである。Jというと私のクラスメイトの大半は「ははあん、あのJだな」と想像がつく、そう、あのJである。Jがこのコラムを読まないことを心から祈りながら書くのだが、なぜ私がJに惚れたかというと、私が授業中、ノートにちょこちょこと書いた冗談みたいな詩とマンガを読んでJがくすくす笑い「面白い」と言ったからで、それで私は恋に落ちた。簡単である。

 さて、ほどなく修学旅行となったのだが、別に修学旅行中に告白したとか、そういう話ではない。バスの中でJが「与作」を歌った。「与作は木を伐るぅ〜」というあれである。それは心に沁みた。北島三郎が歌い大ヒットする以前、無名の人が作った無名の歌だった頃の話である。私はたいそう惚れこみ、それ以後、機会あるごとに「『与作』を歌え」とJに迫ったのだが、Jは北島三郎の歌であることを理由に終ぞ歌ってくれなかった。そんな。サブちゃんに失礼ではないか。なんか、卒業してからも「歌え」と迫っていた気がする。ほんと迷惑な話だ。

 まあ、話はそれるが修学旅行といえばバスであり、バスといえば歌である。出発前、みんなで合唱できるように歌詞集みたいなものを作れと先生に言われ作ったのだが、私はそんな健全な真似が嫌いなので、フォークや歌謡曲の間に春歌・猥歌の歌詞をこっそり忍ばせて発行した。それはそのまま配布された。

 たとえばこんな歌詞だ。「(軍艦マーチの後半)チOポどこいく青筋立てて、生まれ故郷へ種まきに」

 なぜか、おとがめはなかった。まあ、こんなことをやらかす男が女子に好かれるわけはないのだ。




  信濃路も「与作」も春歌も夢路かな






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2011/10/20

 高校二年の秋、クラス担任の遠藤弘毅先生が子供を産んだ。いや違った。遠藤先生の奥さんが子供を産んだのだった。

 遠藤先生は美術部の顧問でもあった。奥さんは元美術部員で、先生に見染められて結婚したという。つまり遠藤先生は教え子に手をつけたことになる。なんだか学園ドラマのような人だ。

 そう、当時は中村雅俊主演の学園ドラマ全盛の時代だった。入学早々、我々を美術室に集め、欧州旅行(新婚旅行ではない)で購入した高額のクラシック・ギターを自慢し「禁じられた遊び」を演奏してみせた。学園ドラマを地で行くような授業に、「これが高校か」と我々は素直に感動したものだ。しかし我々が素直だったのはせいぜい一年の前半までのことだ。その後我がB組は次第に不良の巣窟の本領を発揮していくのだが、その話はいずれ書く。

 遠藤先生は美術家というより職人肌の人だった。美術の時間にマンガみたいな絵を描いていた生徒の頭を「ふざけるな」とひっぱたいたり、女子生徒が「ギャー」と叫ぶのもかまわず、ピンク系で染め上げた絵に無理やりダーク系の絵具を塗りつけたり。なんたる横暴な。あ然としたね、私は。

 「自分の作品をためらわず壊せ」と遠藤先生は言った。「せっかく作ったのにもったいないなどと思うな」と。この言葉をいまも私は座右の銘にしている。自分の作品に非情になれ。「壊す」覚悟のない者にいい作品は生み出せない。私がまがいなりにも創作の世界に身を置いていられるのは、この言葉のおかげといってもよい。ただし、他人の作品にも思い切り非情になれるので嫌われることも多々ある。

 ところで、遠藤先生に子供が生まれた話だ。井戸川俊二という生徒が学級日誌に「僕の名前の俊二と先生の名前の弘毅を合わせて『弘俊』はどうだろう」と書いた。本人は軽いジョークのつもりだったのに、先生は感激して本当に我が子を「弘俊」と名付けたのだった。やっぱり学園ドラマを地で行く人だ。

 別の日、とある女子生徒は学級日誌に「先生に子供ができたって。きもちワルー」と書いていた。女子高生って・・・。

 聞いた話では、遠藤先生は数年前に鬼籍に入られたそうだ。ご冥福を祈る。弘俊君は30歳を過ぎたはず。元気でいるだろうか。

2011横浜トリエンナーレにて

今回の俳句は趣向を変えて、自由律(季語や語数の制約がない俳句)で



  教室は永遠の放課後 せめて月光濃く満たせ



  イーゼルは誰の墓標か 蝶の死骸を足元に






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2011/09/23

 私が学帽をかぶって通学していたのは高校二年の秋までだった。

 ある日のこと、同学年で学帽をかぶっている者が少数派になっていることにふと気がつき、「ひょっとして俺、真面目?」と不安にかられ、かぶるのを止めた。まあ、真面目であって悪いかというと、そういうことはまるでなかったのだが。

考えてみると、衣類と呼ばれるもののなかで最も不条理な運命を担わされていたのは学帽ではないだろうか。

購入された直後から、なるべく新品に見えないよう、揉みくちゃにされたり踏んづけられたり、故意に傷つけられ、ひどい場合はフライパンで焼かれ、いい加減にくたびれ、頭に馴染んでやっと存在が許される。ただし許されるだけで愛されはしない。せいぜい「ま、かぶってやってもいいか」程度の消極的な愛情だ。他の衣類と違って学帽だけはなぜか、新品然としていると嫌がられる。学帽自体になんら落ち度はないというのに、不憫としか言いようがない。

私は学帽を「うっとおしい」と思いながらも、比較的長くかぶっていた方ではないか。あの学帽はどうしただろう。捨てた覚えはないが、いつの間にか私の身辺から姿を消した。世を儚んで旅に出たのだろうか。ひょっとすると象の墓場みたいに、この世のどこかには家出した学帽たちが最後に行き着く秘密の場所があるのかもしれない。

学帽ってつくづく不憫だ。




  朝の駅 学帽ひとつ失踪す



  学生帽 行方も知れず今朝の秋






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2011/08/23

 かき氷が食べたくなって、「氷」の旗が下がる喫茶店に入ってみても、急に気が変わって別のものを頼んだりするのは、つまり、冷房が利きすぎているからだ。

 かき氷っていうのはさあ、やっぱりこう、開けっ広げのガラス戸から往来を眺めながら、土間に置いたテーブルをカタカタ言わせて、汗をかきかき食うのが一番ではないのかな。

「ああ、お岩さんのかき氷が食べたいなあ」今でも思い出す。お岩さんの、あのゴージャスなかき氷。

 お岩さんというのは、四谷怪談のお岩さんのことではもちろんない。かつて双葉町の商店街にあった店の名だ。古い木造の店だったように覚えているが、本業はソバ屋だったろうか。そもそも「お岩さん」という表記で正しいのだろうか。うろ覚えで申しわけない。

 でも、お岩さんのゴージャスなかき氷は忘れられない。と言うか、かき氷以外に食べた記憶がないのだけど。

 ごっついハンドル式の氷掻き機にぶ厚い氷の板を噛ませ、ぐるんぐるん回すとシャキシャキいいながらガラスの器へ、淡雪のような氷が降りそそぐ。しかも店主は、一度シロップをかけ山盛りにしたものを手のひらでギュウギュウ押し固め、その上へさらに氷を山盛りにしシロップをぶっかけるという、タイタニックが衝突したらいっぺんで沈没しそうなくらい豪快な氷の山にしてくれたのだ。

 どこから手をつけていいものか、誰もが途方に暮れる。ひとかけらも零さずに食べきるのは至難の技だ。そうして一人残らず、キィィィンと痛む眉間に指を当てるのだ。

 夏休みの部活の帰りに、よく食べたっけ。

 都会で食べるかき氷はみなガリガリジャリジャリしていて、むかし田舎で食べたかき氷のようなしっとりした舌触りがない。どこが違うのだろう。やっぱり、ぶ厚い氷の板を手動でシャキシャキ削るのでなければ、あの淡雪のような氷は出せないのだろうか。




  蝉しぐれ かき氷の峰 積乱雲



  白玉の肌も愛しや氷菓子



  氷屋の氷の肌も濡れており






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2011/07/24

 科学の先生はなぜかエキセントリックな人が多かった。

 毎年5月、球技大会が開催される。種目はバレーボールとサッカー。新入生には不利な大会だった。上級生がやりたい放題で、反則はまかり通る、得点まで誤魔化されるで、全然フェアではなかった。

 高校ばかりでなく、中学時代から思い出してもそうなのだから、これは全体的な傾向かもしれない。

 口が汚かったり、体罰がきつかったり。でも不思議と生徒に好かれるのも科学の先生の特徴だった。

 川上先生のことを書こう。

 いつだったかな。校庭で体育の授業をしていて、ふと校舎を見たら、ある教室のベランダに十数人の生徒が出ていた。みんな手に手に教科書を持って、窓から授業を受けているのだ。

「川上先生の授業だ」

 あははは。僕らは笑った。こんなとんでもない授業をするのは川上先生しかいない。

 川上先生は化学の先生だ。元素周期表を生徒に丸暗記させようとして、無茶をやった。原子番号や元素記号等、先生の質問に即答できなければ直ちに教室の外に追い出され、窓から授業を受けさせられる羽目になった。それも、ちょっとでも考えたら失格。電光石火の反射神経が求められた。

 ところが僕らの暗記法ときたら、参考書に載っていた「すい(H)へい(He)り(Li)べつ(Be)ぼ(B)く(C)の(N,O)ふ(F)ね(Ne)」方式だったから、頭の中で転換する時間がかかる。とても対応できない。水兵さんが船に乗り込む間もなくアウトである。あえなく僕の船は港を離別していく。

 口が悪いのでも有名だった。中でも忘れられないのは「糞袋」だ。カフカは人間を「血の詰まった袋」と言ったが、川上先生は出来の悪い生徒を「糞袋」と罵った。「おまえは糞袋だ。畑に肥料を提供するのが関の山だ」。僕らは唖然として、傷つくどころではなかった。実は心はあったかい、なんて生易しいものではない。先生は本気なのだ。ま、これで傷つくなら人間の器が小さいということだけど。

 試験も徹底していた。追試追試で、合格点が取れるまで何度も追試を受けさせられた。僕はとうとう一人になり、放課後の教室にぽつんと残っていたが、なかなか先生が来ないので職員室へ行ったら「あ、忘れてた。いいよ、オマケしてやる」で合格点をいただいた。さすがに面倒くさくなったのだろう。

 期末試験などの本試験でも、赤点を取った者には「男前だからプラス15点」などと適当な理由をつけて救済していた。

 強烈な個性の持ち主だった。いま思い返すとかわいい人で、機嫌がいい時は廊下をスキップしていた。

 今の時代、生徒を「糞袋」呼ばわりしたら社会問題になりかねないけどね。




  夏空に 飛び去るままに化学式



  夏雲や 離別する船ぼくの船



  夏教室 白衣の人は汗もなく






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2011/06/13

 高校一、二年と僕はB組だった。二年間を通じ、女子の間ではバレーボールが盛んだった。一般に女子というものはバレーボールが好きだが、彼女らの熱の入れようは尋常じゃなかった。放課後に双葉町の体育館を借りて練習していたくらいだ。なぜか? たぶん、一年生の時の球技大会にその発端があったのではないかと思う。

 毎年5月、球技大会が開催される。種目はバレーボールとサッカー。新入生には不利な大会だった。上級生がやりたい放題で、反則はまかり通る、得点まで誤魔化されるで、全然フェアではなかった。

 忘れようにも忘れられない。女子バレーボールは二年生との対戦だった。一方的に押されていたのが、際どいところで反撃に転じ、波に乗ってポイントを重ね、逆転勝利をつかんだのだ。さっさと敗退し女子の応援に回っていた男子は沸きに沸いた。僕は感動のあまり演説を初め、「演説男」と呼ばれた。

 ああ、あの頃は若かったよなあ。そう思ったのは50歳を過ぎた今ではない。あれから一年後には、そう思っていた。

 二年生の時の球技大会は男子女子共に、まったくいいところがなかった。記憶に何も残っていないのだから、たぶんそうなのだろう。つまり感動する要素がなかったのだ。世はしらけ時代。TVでは小松政夫の「しらけ鳥音頭」(『みごろ! たべごろ!笑いごろ』)が流行していた。

 さて、それからひと月後に事件は起こった。ある日突然、教室から女子がひとり残らず消えたのだ。

 何時間目だったか、授業を始めようとして、先生が虚を衝かれた顔をした。

「おい、女子はどうした?」

 え? 男子は教室を見回した。あれ? あれ? 初めて気づいた。女子がいない。ものの見事にいないのだ。なぜ? 男子は互いに目を見合わせた。誰も理由を知らない。どこに行ったかも知らない。あまりのことに唖然として、あはは、と気の抜けた笑いを浮かべるしかなかった。あははだよ本当。先生が事を荒立てなかったからよかったものを。空席ばかりの教室で僕ら男子は、背筋の寒くなる思いで授業を受けていたのだ。

 事の真相はこうだ。その日は球技大会の地区大会(他校との合同行事)の日だった。上位入賞したチームは出場でき、クラスで応援にも行ける。一回戦で敗退したB組女子バレーボールチームに当然その資格はない。女子たちはそれが気に入らなかったのだ。少しでも意地を見せたかったのか。大人げないといえば大人げない。しかし愉快といえば愉快。

 何食わぬ顔して教室に戻ってきた女子に話を聞けば、首謀者がいたわけでもなく、誰からともなく授業をエスケープしようと言いだし、なんとなく一致団結して教室を抜け出し、そこらをぶらぶらしていたそうだ。

 止める者は誰もいなかったのか。おそるべし、B組女子!




  行き行きて 夏野に放て 女子の意地



  女子出奔、レジスタンスに初夏の風






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2011/05/07

 少々季節がずれてしまったが、高校二年の春合宿の話をしよう。

 剣道部の春合宿はなぜか、福島市にある自衛隊の駐屯地で行っていた。どういう人脈があったのだろう。自衛隊剣道部との合同練習だ。

 福島駅からバスに乗って二、三十分は揺られただろうか。遠くに安達太良山だか吾妻山だか、雪化粧をした山並みが見えた。

 部員の宿泊所は土蔵。男子は一階の板の間で、女子は二階の畳のある部屋だ。茶色い毛布を寝具にしたが、それは山で遭難した遺体を包むのにも使われている毛布で、なんと昨年は、錆びた釘が刺さったままの毛布があったらしい。そう、使用済みの毛布だったのだ。

 こんなふうに書くと辛いようだが、楽しい思い出しかない。

 もちろん稽古は厳しかった。けれど、普通の合宿なら稽古は朝昼夜の三回なのに、この時は夜の稽古がないぶん楽だった。夜が長いので二階に上がって女子部員とおしゃべりをしたり。(女子の先輩は毎晩きりきりと歯ぎしりし、「いたいよおいたいよお」と寝言を言っていたそうだ。どんな夢を見ていたんだか)

 一度、稽古が休みになったことがある。福島市内で爆弾が発見されたと連絡があり、その撤去に自衛隊員が出動したのだ。過激派による爆弾事件が相次いだ頃だ。

 防護壁が付いたロボットアームのような機械を自衛隊員が庭に出して練習する様子を僕たちは剣道場の窓から見ていた。結局、練習中に「いたずら」と判明したのだけれど。




  野に寝れば若き疲労の土に染む



  空は青し春の爆弾不発にて






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2011/04/11

 死者28人を出した宮城県沖地震は1978年6月12日のこと。僕は高校三年生で、生徒会長だった。

 このコラムは原則として、入学時から順を追って回想していく形式をとっているが、今回は震災で心が乱れている。あの日の思い出なら書けそうなので、前倒しをして書くことにする。

 あの日の放課後、僕は生徒会室にいた。体育部長(正式な役職名は忘れたが、要するに体育関係の行事を仕切る役だ)の佐々木と一緒だった。

 生徒会長といっても、僕はアバウトな人間だからロクなことはしなかった。独断と偏見で生徒会を運営し、たまに暴走した。

 放課後、生徒会室にいると役員に限らず誰か入ってくるので、そいつとおしゃべりをして過ごすのが常だった。

 そして、その日は佐々木がいた。

 激しい揺れに肝を冷やした。しかし佐々木が見ている手前うろたえたりしたら恥をかく。僕は豪胆を装い、へらへら笑いながら窓を開けた。

 驚愕した。見渡すかぎりの屋根屋根の上、テレビアンテナが一本残らずガタガタ震えていた。それより驚いたのは空の色だ。舞い上がった土埃のせいで空が薄茶色に染まっていた。あの空の色は忘れられない。

 近所の若い奥さんが蒲団をかぶって縁側に飛び出し、こわごわと空屋根を見上げていた。

 失礼にも、僕と佐々木は指を差して笑った。いつの世も若い者は失礼と決まっているが、中でも僕と佐々木は失礼なやつだった。

 揺れがおさまって振り返ると、生徒会室の壁になんと、一筋の亀裂。それでも僕と佐々木は「やべえやべえ」と笑っていた。

 しかし、いまになって思うのだが、人間は恐怖がきわまると逆に笑い出すものなのだ。佐々木も内心ではおびえていたのではないか。そうだろう、佐々木?

(理科室ではそうとう悲惨だったらしい。ホルマリン漬けの標本が次々とガラス戸棚から飛び出して床に砕け散った。骸骨の標本がひとりでにカタカタ回り、一回転して正面に向き直ったそうだ)

 常磐線がストップし、駅では足止めをくった生徒らがたむろしていた。浪江町の山間に家のある佐々木も帰れない。僕は佐々木を家に泊めることにし、自動車で迎えに来てくれるよう親に電話した。

 その夜は佐々木と遅くまで話し込んだ。三角関係にもつれこんだ色恋沙汰の話だったが、その三角関係の一角にいたのは僕の幼馴染の平田だった。

 佐々木は平田の卑劣な手口を切々と僕に訴え、「あいつ、いいやつだと思うか?」と尋ねた。

 返答に困った。あらためて考えてみると、平田はまったくいいやつではなかった。

 「友達だとは思ってるよ」苦し紛れに僕は答えた。

 「そうだな。志賀はそういうやつだ。仲良くしてやれよ」

 佐々木はしんみりとした声で言い、蒲団をかぶった。なぜだか、そんなことまで覚えている。

(川崎にて震災の故郷を想う)




  目を閉じよ 無人の町の花盛り



  哀しみは天(そら)から降るや花曇り



  カタクリは重たい春を肩にのせ






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2011/03/16 「僕の故郷は原発だった」

 みなさん大変な思いをしていることと思います。

ひとりひとり知恵を出し合って、故郷の復興を支援していきましょう。

僕は以下の文章をいそぎ作成し、配信しております。



僕の故郷は原発だった

志賀 泉

 僕は福島県南相馬市小高区(旧小高町)で生まれ育った。今回の地震と津波で壊滅的な被害を受けた、あの土地だ。

 高校は双葉高校。福島原発のお膝元にあり、十キロと離れていない。

 双葉町は原発でもっているような小さな町だ。高校も東京電力から寄付金等の恩恵を受けてきた。

 硬式野球部のキャッチフレーズは「アトム打線」。核分裂した原子のように四方八方に打球が飛んでいく、の意。甲子園に出場すれば(過去二回出場)多額の寄付金が舞い込む。応援は東電のPRも兼ねていた。そして試合後には校内に新しい施設が増えるといった具合だ。

 毎年、入学したての春の遠足は原発見学というのがお決まりだ。広報センターで原子炉の模型や映画を見せられ、発電の仕組みや安全性を吹き込まれる。映画の終わり、「大熊町(原発のある町)はさびれた町でした」のナレーションが入ると僕らは、大熊町から通っている同級生を振り向いて大笑いした。もちろんその後には「原発のおかげで活気ある町となりました云々」が続くのだ。

 芝生の公園で弁当を食べた後、みんなで円陣を組みバレーボールをした。女子が飛んだり跳ねたりするとスカートがひらめくのを、僕ら男子は大いに喜び、ひやかしたものだ。

 見晴台からは、遠くに青い水平線と、目と鼻の先に原発の建物が見えた。

 僕らは何の疑問も抱いていなかったわけではない。危険性を認識しながら頼らざるを得ない、弱者の論理は僕らのものでもあった。

「安全だ」と言われればそれを信じるしかないではないか。せいぜい、苦笑で応えることくらいしか僕らにはできなかったのだ。

 公園でバレーボールをした、あのみんなは無事なのだろうか。海のそばに家のある者もいた。原発に勤めていた者もいるはずだ。それを考えると心がつぶれそうになる。今、これを書いている間も涙が出てくる。

 とにかく支援が必要だ。この場を借りて僕からもお願いします。お金とは限りません。さまざまな手段があるはずです。どうかお力をお貸し下さい。

(写真は南相馬市の冬の田園風景。この一帯が一面、泥をかぶっている)

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2011/02/09

 村上龍が『限りなく透明に近いブルー』でデビューしたのは、私が高校一年生の冬だった。

 新聞広告をいまだに覚えている。裸体が無限に繁殖しているようなグロテスクでサイケデリックなイラスト。「ペニス」や「アナル」などの語句が頻出する文章。

 衝撃的だった。もちろん、それまでにも、週刊誌連載のエロ小説を親に隠れて読んだりしたことはあったのだが、『限りなく―』はそれらとは決定的に違った。ほんの短い抜粋なのに、異文化との出会いと言ってもいいくらいのカルチャーショックを受けた。

 学校でも話題になった。読書好きもそうでない者も、「あれはなんだ?」と話し合った。興味本位だけではない。妙なものが現れた、という戸惑いのほうが強かったと思う。

 さっそく購入して読んだのは言うまでもない。私にとって、現代文学を現代文学として自覚的に読んだ、最初の読書体験だった。その頃、私はぼちぼち小説らしきものを書き始めていたのだけれど、『限りなく―』は私の文学観を一気に広げた。どこがどう、と説明していくと長くなるので割愛するが、『限りなく―』の影響のもとに書いた小説は後に、高校生対象のちょっとしたコンクールで佳作入選した。

 作家になれると確信した。それまでぼんやりした夢に過ぎなかったものが、初めて具体的な形をとった。

 そういう意味でも、『限りなく―』は忘れがたい小説だ。


 ちなみに、『限りなく透明に近いブルー』は福生市の横田基地周辺を舞台にしている。

 大学進学で上京したが、私が福生市を訪れたのはしばらくしてからだ。今回、写真を撮影するために久しぶりで横田基地の周囲をめぐってみた。

 米軍ハウスは数が減ったもののまだあちらこちらに残っていた。

 基地周辺の風景は変わらない。フェンスの内側にアメリカ(居住区はひとつの街だ)があり、外側に日本があり、その両方がひとつの視野に入るのは、やっぱり不思議な風景だった。




  福生にて 鋼(はがね)の悲哀 蒼空(そら)に浮く



  爆撃機 冬空の傷なめて飛ぶ



  基地の外 誰も殺さぬ我がいる



  荒淫の街に死人の影ばかり






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2011/01/11

 ブタマン、と呼ばれた男がいた。

 なんというか、あまりにも身も蓋もないあだ名だ。たしかにまあ、「ブタマン」的な顔立ちだったのでなおさら。

 いくらなんでも失礼ではないか。私も初めはそう思った。

 しかし、当の本人がすっかり慣れてしまってヘラヘラしているので、いつしか私も彼を「ブタマン」と呼ぶようになった。

 私だけではない。クラスのほとんど(女子もふくめて)は、彼を本名で呼ばなかったのではないか。

 誤解しないでほしい。彼は決して卑屈な男ではなかった。

 プライドは高く、反骨精神にあふれていた。だから私も、「ブタマン」と呼びながら彼に敬意を払っていた。

 親愛なるブタマン。

 いつだったか、遠く離れた土地(たしか広島県ではなかったか)で復元したゼロ戦の公開飛行をすると聞きおよび、学校をざぼって観にいき、それをそのまま作文に書いて先生に叱られていたブタマン。夏休みに原チャリで北海道をツーリングしていたブタマン。

 松本零士の大ファンで、宇宙ロケット開発の夢を抱き東海大の理工学部を目指していたブタマン。君は今なにしてる?

 1977年は映画版「宇宙戦艦ヤマト」の年だった。そして松本零士ブーム幕開けの年でもあった。

 ブタマンの影響を受けたのか、私も松本零士にかぶれた一人だ。

 松本零士を通じて、私は「死の美学」を知ったような気がする。

 自分の信念を貫いて滅びの道を進むのが男であり、そんな男の愚かさを「死」というベールでやさしく包み込むのが女である、というような。

 松本零士にとって宇宙は、まさしく「死」にいざなう女性そのものだった。

 「キャプテン・ハーロック」にも「銀河鉄道999」にも、その他のSF短編にも一貫してこの美学は流れている。

 ところで、松本零士作品の中で私がいちばん好きだったのは、SFではなく実は「男おいどん」だ。

 これは、プライドが高すぎて失敗を繰り返す、定時制高校中退の青年の四畳半生活を描いた青春物だ。

 この漫画を愛読していた私は、いつか東京に出て、四畳半のアパートでド貧乏生活を送ろうと夢見ていた。

 その夢がかなったのは大学を卒業してからだが、貧乏生活は想像していた以上に辛く、みじめで、精神をすり減らした。


六本木、東京ミッドタウンにて撮影




  凍てる夜に 星の微塵となりにゆく



  冬銀河 醒めない夢の捨てどころ






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2010/12/28

 夏もつらいが、冬もまた、剣道にはつらい季節だ。

 道着は昼休みに、一年生が部室棟前の物干し竿に干す決まりになっているのだが、冬の陽射しは弱く、乾ききらない。

 昨日の汗で重く湿り、しかも冷え切った道着に袖を通すときの、あのひやりとする感触。鳥肌が立つ。

 剣道場の床板も冷たく、大袈裟ではなしに、まるで氷の板。足の裏が、冷たい、を通り越して感覚麻痺。

 なんというか、自分の足なのに棒杭みたいで、ドンと床を踏み鳴らしても感触が鈍い。変な感じだ。

 もちろん暖房なんてないから、とにかく自家発電で暖まるしかない。稽古の前にひたすら体を動かす。剣道場を走り回る。

 そのうち体がぬくまり、冷たい剣道着が肌になじんでくる。足の裏に血が通ってくる。

 4月には10人ほどいた一年生も、その頃には半分に減っていた。男3人と、女2人。それに、なぜか女子マネージャー。

 強いから続く、というわけでは必ずしもない。少なくとも僕は弱い方だった。ただ、何につけやり始めると意地になる性格なのだ。

 僕は体力がないので、毎日欠かさず、というわけではないが、昼休みに柔道部の備品を借り、道場でひとり筋トレをしていた。

 100sのディスクを付けてベンチプレスを試したら、バーベルが重すぎてどうにもこうにも持ち上がらず、スリーブ(鉄の横棒)が胸をぐいぐい圧迫してきたことがある。

 え? え? え? と思ってる間にも肋骨にスリーブが食い込んでくる。

 助けを呼ぼうにも人はいない。いや、それ以前に声が出ない。

 死ぬのか、と思った。いや、本気で。

 どうにか、バーベルを少しずつ横にずらして脱出したけれど。 


小高町陸橋から村上の浜方面を望む




  道場の床踏む足に冬来たる



  寒の朝 凍える素足もいのちなり



  鉄アレイ 道場の隅の冬ひなた






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2011/11/28

 干し藁の匂いをかぐと今でも、怪しい気分になる。お化け屋敷の記憶がよみがえるのだ。高校文化祭のお化け屋敷の匂い。

 干し藁の匂いとお化け屋敷の闇は、どうやら私の脳内でセットになっているらしい。

 高校の文化祭の目玉といえば、お化け屋敷。お化け屋敷といえば、教室の机を積み上げた壁に藁束を縛り付けて通路を作るのが決まりだった。

 双高の文化祭もしかり。そしてお化け屋敷を担当するのは運動部。血の気の多い連中だ。入場者を驚かすのは二の次、連中の目当ては女の子にあった。

 お化け屋敷の入口には長蛇の列(男は中学生以上入場禁止)。出口からは「胸をさわられた」「スカートをのぞかれた」とか、女の子がぶつぶつ文句を言いながら出てくる。

 おどかし役は先輩たちの特権で、一年生の私は話に聞くしかなかったのだが、つわ者で知られた柔道部の某先輩など、ペンライト片手に、ずっと仰向けに寝ていたそうだ。

 お化け屋敷が半ば公然と痴漢屋敷化していたわけで、考えてみればトンデモナイ話だが、当時はみんな何となく「だってそういうものだろ」と許容していた。

 不良が不良らしかった。いい時代だったな、と思う。いろんな意味で。

 文化祭で私は何をしていたかというと、的当てゲームの的になっていた。子供が投げるボールに当たり「ガオー」と吠えるのだ。あまりに下らなかったのでそれはどうでもいい。

 ところで、文化祭の興奮さめやらぬ帰り道、双葉駅の駅舎の前で、同じクラスの女の子が三年生の男どもに囲まれ、ちやほやされているのを見かけた。

「いやあ、この子の占い、当たるんだよ」とか言われている。どこかで占い喫茶でもやっていたのだろう。

 三年生「俺が失恋したばっかりだって、ずばり当てたもんなあ」。「手相のどこに書いてあったんだよ」

 彼女「あ、いえ、手相が読めるわけじゃなくて、顔を見てなんとなく」

 三年生「あ、そうか顔かあ(笑)」。「なるほど、顔見てわかったか」

 「ああ、そうだろうよ。俺はどうせ女にふられる顔だよ」

 彼女「あ、いえ、そういう意味じゃなくて」

 彼女にまったく悪気はないのだ。あわてふためく彼女にみんなが爆笑した。

 その時はただ何となく「面白い子だな」と思っただけで横を通り過ぎたのだが、二年生に上がると私はその子に猛烈な恋をすることになる。しかしそれはまだ先の話だ。


(八王子市 片倉城跡公園にて撮影)




  藁束に 埋もれ狂うや外道の恋



  冬の日や 君に見て欲し手相あり






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2010/10/14

 名前は忘れたので仮にH君とする。

 H君は無口だった。引っ込み思案とか、人見知りとか、そういう消極的無口ではなく、なんというか、意思的に無口だった。

 そして熱烈なビートルズ信者だった。熱烈なビートルズ信者と無口な性格がひとつの人格にどう同居しているのかはわからない。

 何を考えているのか、内面がまったく見えない人だが、ビートルズに関するとなると人が変わったように延々と語った。

 だから私はH君を「ビートルズが好きで無口な人」としか記憶していなくて、その他のことはまるで印象に残っていない。残っていないことを今これを書いていて気づいた。

 私が高校一年の時にベイ・シテイ・ローラーズが来日し「第2のビートルズ」などと騒がれていたが、H君は「まったくお笑い草である」と怒りを込めて学級日誌(!)に書いていた。 

 ある日、現代国語の授業中のこと、細かい事情は忘れたが、H君が教師(鎌田先生)に指されながら返事をせず、理由を訊かれて「喋らないと決めたからです」と答えた。

 教師は怒り、「君がそのつもりなら、君が喋るまで私も喋らない」と言いだし、本当に教師が黙りこんでしまったため、授業は中断した。

 私の記憶では、H君はずっと突っ立ったまま、表情も変えなかった。教師に反抗しているわけでも、意地になっているわけでもなさそうで、やっぱりただ喋りたくないから喋らないんだろうなあと、当時の私は深く考えもせずそう思った。

 一種の問題性格だし、このままでは社会不適応者になりかねないが、私は根が単純なので、教師に屈せず沈黙を貫いているH君を「えらいなあ」と感心し、その頑なさゆえに、H君に好感を抱いた。

 教室はしんとして妙な緊張感に包まれ、私はあまりに退屈だったのでノートに落書きなどして過ごし、我ながら上出来だったので前の席の生徒の背中を突いて見せてやったが呆れられ、私はがっかりし、ふと窓の外を見たら無人の校庭を野良猫が一匹歩いていた。あの猫が「にゃあ」でなく「がおぉぉっ」とドスの利いた声で吠えたら面白いだろうなあと思った。


自宅ベランダより、望遠鏡を使用して撮影




  きりきりと 沈黙尖る友の眉



  秋風や 友の沈黙 犀(サイ)に似て



  天高し 野良猫 校庭(にわ)をほしいまま




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2010/09/21

 川崎市多摩区の生田緑地という公園に、蒸気機関車D51と並んで昔の客車が展示してある。

 私が電車通学していたころに使われていた客車だ。ドアは手動式(走行中でも開く)。天井には扇風機が並ぶ。

 懐かしいというより、不思議だった。私の記憶の中ではまだ現役で走り続けている列車が、過去の遺産として保存展示の対象になっていたなんて。

 遠い過去になったんだなあ。

 国鉄はJRに変わってしまったし。

 イメージとして、JRが「スピード」と「効率」なら、国鉄は「力」と「重さ」であり、それは平成と昭和の違いを象徴しているようにも思える。


 部活動を終えて、双葉高校から駅へ向かう坂道をひた走った。ひと電車乗り遅れれば、次の電車まで一時間近く待たされるからだ。

 当時、双葉駅の駅員に柔道部のOBがいて、走ってくる運動部の生徒のために発車ベルを長々と押してくれた。

 逆に、軟派な生徒がだらだらしている場合には、発車ベルを一瞬で終わらせさっさと改札口を閉じた。生徒が抗議しても理不尽な一喝で黙らせていた。

 イージーな時代だったよなあ。

 イージーといえば、列車がホームの反対側にあり、絶望的に間に合わないという時には、その駅員は非常手段で最短ルートを指示した。

 なんと、ホームから線路に飛び降り、列車の反対側のドアを開けて乗れと命じたのだ。そんな無茶な。しかし私は実行した。

 ドアが手動式だったからこそ可能だったのだが、それを差し引いても、自由な時代だった。


 今、思い返せば、国鉄は無駄にエネルギーを労費していた。

 十両編成くらいで走っても、一両に客は四、五人。集めれば二両くらいで足りたのではないか。しかもその一両が、現在と比べてはるかに重い。

 発車する時、連結器が同時に引っ張られて、がしゃんと重量感のある音を立てる。力強い響きが乗客を揺する。あの原始的な響きは今も私の体内に残っており、ノスタルジーに誘う。

 座席の下には、前の客が残していった弁当のゴミが捨てられていて、食べ残しを狙ったねずみが、足元からひょいと顔をのぞかせたりした。

 ある日、不良の先輩達がどやどやと通路をやって来て、「あっちだ」「こっちだと」騒ぎ出した。何事が起ったのかと思ったら、ネズミを追い立てているのだった。

 追い立ててどうする?

 目を丸くしている私の横を、ネズミが一目散に走り過ぎて行った。


川崎市 生田緑地にて撮影




  どぶねずみ 秋夜の列車をひた走る



  列車発つ 月夜に連結器のがしゃん




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2010/08/20

 剣道部に入ったものの、初めの二、三カ月は稽古に体がついていかなかった。

 初めて血尿が出た時は病気と勘違いして病院へ行った。(実は脱水によるただの濃縮尿)。小手を打たれ過ぎて、右手首が内出血でパンパンに腫れたこともある。

 もともと体は弱かったが、夏合宿に入る頃には、どうにか体力がついてきた。

 剣道部の合宿は毎年、小高町にある大悲山道場で行う。

 真夏の剣道はつらい。面をかぶった次の瞬間から汗が噴き出る。汗が目に沁みる。痛くても痒くても指でぬぐえない。自力で風を起こそうと、下唇を突き出して息を顔面に送ったりもするが、それを涼しいと感じるくらい暑いのだ。

 夜は、女子は畳のある宿泊所で寝るが、男子は道場に畳を敷いて寝る。山の中の道場だから、どこからか蛾が舞い込んでくる。こちらは草臥れきっているのに、先輩の話し声がうるさくて眠れず、思わず「早く寝ろ!」と怒鳴ってしまったこともあった。

 風呂は女子が先に入り、後から男子が入る。もちろん先輩の順だ。

 ある夜、風呂から上がった先輩が血相変えて道場に駆け込んできた。

「見ろ」と、お湯を湛えた洗面器を後輩の前に差し出す。「風呂に浮いてた。女子の毛だ」

 もちろん髪の毛で大騒ぎはしない。男のものより繊細なちぢれ毛が一本、しおらしくお湯に浮いている。

「おお!」我々は感動の声を上げた。

 今みたいにヘアヌードがオープンな時代ではない。洗面器の陰毛は、それこそ奇跡のお宝に見えたのだ。

 しかし、すぐに感動は冷めた。見れば見るほど、毛は毛でしかない。一本の毛を有り難がっている自分がばからしくなり、先輩もなんだか白けた顔になって、洗面器を手に風呂場へ戻った。

 なぜ私は、こんなことを克明に覚えているのだろう。




  女陰(ほと)の毛の 浮かぶ湯舟につかるなり

  蛾は舞う舞う 夜伽(よとぎ)話のその上に



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2010/07/23 「番外編」

 故郷は相馬野馬追いの季節ですね。私の場合、相馬野馬追いと聞いて真っ先によみがえるのは法螺貝の響と馬糞の匂いです。

 馬糞は、元が干し藁ですからかぐわしい匂いがするものです。

 ところで皆さんは、俳句界で「野馬追い」が夏の季語になっているのをご存知ですか?

 名だたる大家が名句を残しているのですよ。この場を借りて紹介させていただきます。


   野馬追も少年の日も杳(はる)かなる

                    加藤楸邨

   野馬追やことに凛々しき相馬公

                    角川源義

   野馬追の陣貝雲を輝かす   

                    上村占魚

   みちのくは雲湧きやすし野馬祭

                    古賀まり子

       「現代俳句歳時記 夏」角川春樹事務所 より



  そこで私も、地元出身ならではの句を。



  騎馬武者は去って夕陽に馬糞の香

               志賀 泉



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2010/07/07

 高校一年前半のクライマックスは、なんといっても夏休みにクラスの仲間と行ったキャンプだ。

 二泊三日。場所は小高町の塚原海岸。プレハブ小屋の「海の家」を宿泊所として町が貸していたのを利用した。

 参加者の顔ぶれを思い出せるかぎり思い出しただけでも、女子が六人、男子が九人。プラス担任の先生。忘れた顔が二、三人はいるだろうから計十七、八人。クラスの四割近くが参加したわけで、なんとなく誰かが言い出して始めたイベントにしては、驚くべき数字ではないだろうか。

 僕は午前中に剣道部の稽古があったので、海の家から双高に通った。ついでに家に寄って(僕の家は小高にある)ギターを持ってきた。僕はフォーク少年だったのだ。

 日中は海で遊ぶとかあまりせずに「海の家」でだらだら過ごし、日暮れると元気になって外で遊びまわったのは、今思うと変なような気もするし、フツウのような気もする。なにしろ十五、六歳だから全員が全員、男女いっしょに夜を過ごすのは初めてだったのだ。

 ひとつ屋根の下で男女が雑魚寝をした。朝、目覚めたら目の前で女の子がすやすや眠っていて、僕に背中を向けて寝ていたのだが、彼女の腰のくびれを僕は不思議なもののように眺めた。性欲のようなものはなかった。ただただ、不思議だった。

 外に出て顔を洗った。砂浜にはキャンプファイヤーの消し炭が冷たくなっていて、昨夜、彼女が砂の上で膝をかかえ、ビートルズの「イエスタディ」を英語で歌っていたのを思い出していた。彼女はビートルズのファンで、英語が得意で、歌もうまかった。小鳥がさえずるような声で歌った。彼女の歌声が耳に残っていた。三十年以上たった今も、耳に残っている。

茨城県ひたちなか市阿字ヶ浦にて撮影


  踝(くるぶし)を砂に埋めて夏怒涛


  飯盒(はんごう)の米とぐ指や海に月


  波まくら寝息に耳を澄ましけり


  朝曇り ゆうべの夢を海に捨つ

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2010/06/14

 「ゆとり教育」で授業数が減った今も、週に一度のホームルームの授業はあるのだろうか。

 あれはたしか生徒による自主運営の授業で、何をするか年度初めに生徒が自分で年間計画を立てていた。私がいた一年B組では、誰が言い出したのか「散歩」というのがあった。「散歩」というのは文字通り散歩するのである。小学生の遠足みたいにみんなでぞろぞろ高校を出て、その辺の野道を歩くのである。

 音楽室でギターを借りて、高校の裏を流れる前田川の土手でフォークソングを歌ったのは、たぶんあの頃はやった青春ドラマ(『われら青春』とか)の影響で、思い出すたび赤面するのだけれど、当時は羞恥心のかけらもなく、高校生っていったら土手でしょ、歌でしょ、ていうくらいにごく当たり前で、照れもなく大声で歌っていた。

 それ以外は、ただなんとなく歩くのである。歩いてどうなるわけではないが歩くのである。

 当然、他のクラスも似たようなことをしていると思っていたが、話をしてみると我がB組しかしていないらしい。「ホームルームって言っても授業の一環なんだからさあ」と他のクラスの男に怪訝な顔をされて、へえと思った。

 散歩を授業にしてしまう「ユルさ」が、担任の先生をはじめとしてB組にはあったのだ。

 コースはというと、双葉南小なんかがある野山の辺りを一周して前田川沿いに帰ってきたように記憶している。

 野道を歩いていて、草むらに荒縄の切れ端が落ちているのを見つけて悪戯心が湧き、「ヘビだ!」とひと声、女の子の足元に投げてやったら彼女は「きゃ!」と飛び上がった。

 私は得意だったが、それを見ていた男が「○○さんはわざと驚いていた」と水をさすようなことを言ったので、私はたいそうしらけてしまった。

 どうでもいいことだが、なぜか覚えている。



  荒縄を 放れば夏野の蛇と化す


  歩け歩け 少女は踵で蛇を踏み

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2010/05/20

 同級生に「キリン」と呼ばれた男がいた。

いや、そう呼んでいたのは僕だけだったか。

 背は高くない。優雅に走るわけでもない。ただ、まつ毛がキリン並みに長かった。瞬くたびに風が起こりそうなくらい。異様に長いまつ毛のおかげで、ただでさえたれ気味の目が、いっそう気弱で、情けなさそうに見えた。

 キリンはいつも、へらへらしていた。本人は真顔のつもりでも、顔のつくりそのものが、へらへらなのだ。体育は苦手だった。へなへなの体にへらへら顔で、昔の人ならトーヘンボクと呼んだかもしれない。

 一年生の教室は一階にあった。真上は二年生の教室だ。

 天気の良い日の昼休み、教室の外に出て弁当を食べるのが、高校生活の醍醐味だった。

 ただしこの快楽にはリスクがともなっていた。二階からいろんな物が降ってくるのだ。丸めた紙屑とか、牛乳瓶とかが、「教室に引っ込んでろ」という二年生の怒声と共に。

最初はびっくりした。しかし、お互いに顔が見えないのだから、あまり威嚇にはならない。そのうち慣れて無視するようになった。

 ある日、上履きが片っぽ、降ってきたのだった。かかとを踏みつぶした汚い上履きだ。同時に「拾え!」と二階から怒鳴り声。関わりたくないので放っていたら、上履きの主は狂犬のごとく喚きだした。確かに、このままでは引っ込みがつかない。自分で拾いに降りたらそれこそ間抜けだ。

 どうしようか困っていたら、意外にもキリンが腰を上げ、へらへら顔で上履きを拾い、「拾ってくださいと言ってください」と、二階に投げ返した。

 たちまち上履きの主が教室に怒鳴りこみ、キリンを二階へ連れ去っていった。はらはらして僕らは待った。やがて戻ってきたキリンを囲み「なんかされたか?」と尋ねたが、彼は「いや、別に」と平然と答えた。しかし目は涙目だった。僕は彼が好きになった。

 後で知ったことだが、キリンは町の道場で空手を習っていた。手足が細く、ひょろっとして、ちっとも強そうには見えなかったので、意外だった。

 キリンの実力は長いこと謎に包まれていた。しかし三年になったある日のこと、些細なきっかけで札付きの不良と喧嘩になり、なめてかかった不良をぼこぼこにしたのだった。やっぱり、涙目だった。

 僕はますますキリンを好きになった。



  飛ぶ蠅も はたき落とせよ 長睫毛


  葉桜や 苦虫、奥歯でしかと噛み

東京都新宿区、四谷で撮影

(追記)

1970年代後半の高校生活を、思い出すままに書いています。バンカラで鳴らした双葉高校が次第に軟化していく、その移行期に僕らの高校生活はありました。

もしも、各世代ごとに高校生活の回想記を書いていったら、面白いと思いませんか。写真や俳句は僕の趣味なので、形式は自由ということで。

 どなたか、お待ちしてます。(志賀)

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2010/05/03

 高校を卒業して三十一年がたつ。三十一年。ちょっとした歴史を感じさせる年月だ。 振り返れば高校時代はいつも、ほんの一歩で戻れる距離にあった。 だから、「三十一年」と改めて考えると、その長さに唖然としてしまう。

 記憶はいつだって生々しい。 入学式で初めて体育館に入った時の、真新しい上履きのゴムの匂いだって鼻によみがえる。 入学式の後、椅子をすべて片付けて始まった校歌・応援歌練習。初めて聞いた歌を大声で歌えるはずがなく、口ごもらせているとすぐさま、応援団が竹刀で床を叩きながら新入生の間を回り怒号を飛ばした。 あれは怖かった。震え上がった。理不尽といえば理不尽だが、どんな世界でも通過儀礼とは理不尽なものだ。 あの当時、大人になるとは野蛮になることだった。校歌・応援歌練習は見方を変えれば、野蛮さの洗礼だった。

 思春期から青春期に移行する過程で、人は自分の肉体に野性を発見する。 肉体そのものが野性なのだと知る。 高校生活とはある意味で、自分の野性をいかに生きるかを学ぶ場だった。 今にして思えば、あの校歌・応援歌練習は、その最初の体験だったのだ。



  春猛り 空咆哮す 我も修羅


  校庭(そと)に出よ 走れとばかり 白き線

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2010/04/11

 高校に入学してすぐ剣道部に入った。

 東京電力の団地がある丘陵には急な坂や階段があり、放課後には運動部がトレーニングによく利用していた。

 剣道部は、ランニングのことを「リクリエーション」と呼んでいた。「今日はリクリエーションにする」と言えば、外を走ることを意味していた。

 一種の気晴らし、気分転換だが、あくまでもトレーニングなので決して楽ではない。それでも、道場での稽古に比べれば顔に風を感じるだけましだった。

 当時はもう、「うさぎ跳びは逆効果」というのは常識だったが、それでも、うさぎ跳びで団地の長い階段を上らされた。シゴキとも違う。階段を上りきった時の達成感だけを求めていた気がする。

 青春期のナルシシズムは、汗の臭いすら、かぐわしいものに感じる。

 今ではもう、どんなに自分の体をいじめても、あんな爽やかな汗はかけない。

4月9日(金) 川崎市多摩区 寺尾台団地で撮影



  匂い立つ わが身の汗よ 春の坂


  桜坂 我が吐く息を 追い駆けて

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2010/04/01

 かたくりの花を知ったのは高校二年生の時。自習時間の雑然とした教室で、どういう話の流れかは忘れたが、隣の席にいた女の子が「わたしはカタクリの花が好き」と僕に言った。

 その頃の僕には特定の花を好きになるという感性がまるでなかったので、彼女の言葉は新鮮に聞こえた。カタクリの花がどういうものかも知らなかった。カタクリの根が片栗粉の原料になることも、彼女が教えてくれるまでは知らなかったくらいだ。

 学年でいちばん長く髪を伸ばしていた子だった。(これは僕の偏見だが、髪の長い女の子は一見おとなしそうでいて我が強い)。女の子にしては珍しく一浪していた。そのせいか同級生の女の子とうまく馴染めず、クラスで浮いた存在だった。ひとつ上の先輩と付き合っていた。もしかすると、彼女が一浪してまで双高を選んだ理由はそこにあったのかもしれない。

 僕が実際にカタクリの花を見たのは上京してからだ。目黒にある庭園美術館のかたすみ。どれだけ咲いても、決して華やかにはなれない花がある。カタクリはそういう花だった。

3月28日(日) かたくりの花 国分寺市 殿ヶ谷戸公園にて撮影



  かたくりは うつむきながら 凛として


  かたくりや 冷たい春に 色冴えて


  群れながら かたくりはみな 孤々に咲く

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