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高31回 志賀 泉さん「名門・双葉高校野球部と原発」週刊朝日記事拡大版

名門・双葉高校野球部と原発 【前編】

名門・双葉高校野球部と原発 【中編】

名門・双葉高校野球部と原発 【後編】

名門・双葉高校野球部と原発 【前編】


 野球の神様とは

「野球の神様」というものがいるらしい。

 双葉高校野球部の面々に「信じるのか」と尋ねたら「信じます」と、みんな堂々と答えた。奇跡のようなプレーを見た時、あるいは自分がした時に神さまを「感じる」という。

 うん、その感覚は僕にもわかる。自分の力が自分の限界を超えて発揮された瞬間の、あの鳥肌立つ感覚は、スポーツに限らず全身全霊で何かに打ち込んだことのある者なら、誰でも経験あるはずだ。

 ところで、こんなふうに答えた部員もいる。

「ばらばらになっても、最後には集まって野球ができた時に感じた」

 そう、双葉高校野球部は、福島第一原子力発電所の事故のために部員がばらばらに避難し、ほとんどが野球をあきらめていた時期がある。それでも、お互いに連絡を取り合うことから始めて、集まって野球をやろうと約束し、実際、公式戦に出場し勝つことができた。それはやはり、「野球の神様」がもたらした奇跡だったに違いない。

 奇跡は幸運とは違う。幸運は寝てたって落ちてくるが、奇跡は運命に逆らう者の前にしか現れない。幸運はむざむざと使い捨てられる場合もあるが、奇跡は違う。その人の人生を変える。彼らが「野球の神様」から受け取った最高の贈り物は、ひと言で言えば「あきらめない心」だった。これは、一生を貫く贈り物だ。

「復興をあきらめない」言葉だけなら、保身しか頭にない政治家にだって言える。3年生の部員と話をして感心したのは、一人ひとりがそれぞれの仕方で故郷と母校を復興させるために具体的な目標を持ち、進路を決めたことだ。

「放射線技師になり、将来増えてくるかもしれない甲状腺がんの子どもを治療したい。また、放射能の知識を一般に広めたい」

「関西大学の社会安全学部で行政法を学び、傷ついた街を立て直したい」

「マスコミに進み、双葉高校を自分で取材したい。双葉高校を広くアピールしたい」

「今までは、公務員になって大熊町の役場で働ければいいやと漠然と考えていたけど、震災があって目標が大きくなった。社会の役に立ちたい。町の復興のために尽くしたい」

 また、エースの田仲元貴はこんなふうに答えている。

「教師。双葉高校で野球を教える」

 楽天的な希望に、私は驚いた。

「双葉高校の復興に二十年かかるとしても、希望は変わらない?」私は尋ねた。

「はい。(定年までに)間に合いますから」

 たくましい笑顔で即答した。


 双葉高校は逆境から生まれた

 福島県立双葉高校。福島県浜通り地方のほぼ中央、双葉町にある。

 創立は1923年(大正12)。逆境の中から双葉高校は生まれたと言われてきた。「逆境に強い」が双葉高校の校風だった。

 どういうことか。

 当時の双葉地方は典型的な貧農地帯だった。加えて、戦後恐慌の時代でもあった。町会議員でさえ税金を滞納するほど町は困窮していた。そのような町に(旧制)中学校を設立しようというのは無謀そのもの、「噴火山上に舞踏するようなもの」だと酷評された。

 無理もない。町の年間予算が二万円だった時代に、中学校設立の負担金は二十四万円だったのだ。よほど腹をくくらねば背負える借金ではない。

 しかし逆に言えば、貧農地帯だからこそ中学校を必要とした。貧困を克服するための人材育成。それはもちろんだ。しかしそれ以上に、町の「誇り」となるものを人々は欲していたのではなかったか。中学校という「文化」。そして、人材を輩出し国家に貢献するという「自尊心」。

 双葉地方の人々のこうした心情は、原子力発電所の受け入れと奇妙につながる。少なくとも私はそう感じる。

 原子力発電所は地方財政を潤し、地元住民に農業では望めなかった高収入を与えた。それは正しいが、こうした理解は物事の一面でしかない。双葉地方の人々が原子力発電所に期待したのは、経済的な豊かさと共に、他に誇れる「文化」だったことは間違いない。

「原子力」という高度な科学技術のイメージ。「東京電力」という洗練された企業のイメージ。そのイメージが、文字通りイメージでしかなかったことは後々証明されていくことになるのだが。

 原発の建設が進む1967年(昭和42)の「双葉同窓会報」に掲載された双葉高校校長の「御挨拶」を読めば、当時の双葉高校関係者がどういう期待を原発に託していたかがうかがえる。

(抜粋)「隣町大熊町と双葉町にまたがる東京電力福島原子力発電所の建設も進捗し、米国GE社の子弟は九月、ガスキン先生とともに本校を来訪されました。(中略)かようにして双葉の母校と東京支部、双葉町と東京が種々の因子から緊密度(国鉄、電話の利便化がますます促進する)を一層高めつつあります。福島県一の健康地は、いまや日本一の健康地として、その声価を高めつつあるといわなければなりますまい。」(校長 安田松雄)

 奇しくもこの年は、双葉高校校舎全面改築の年でもあった。

 ところが、その7年後の1974(昭和49)年には、同じ「双葉同窓会報」に、卒業生の言葉として原発に懐疑的な意見が寄せられている。

(抜粋)「原子力に対する期待は大きいだろう、メリットはたしかに大きい。しかし取り返しのつかないデメリットがあるのではないだろうか。政府も県も安全だと言っている。その言葉を私達は信じて良いのだろうか。(中略)今当町の羽鳥地区の人参から放射能が検出されたと言う、四六万KWの原発が働いてまだ数年と言うのに。」(高10 藤田博司)

 予言に聞こえるだろうか。いや、予言でも何でもない。原発に事故が多いことは早くから知れ渡っていた。しかし、そう悪いことは起こらないだろうと信じてもいた。まさか爆発を起こすとは、誰に想像できただろう。

 双葉高校が創立した1923年は関東大震災の年だった。その八十八年後、東日本大震災がもたらした原発事故の影響で存亡の危機に立たされるとは、どういう皮肉か。

 しかし、双葉高校が逆境から生まれたこと、「逆境に強い」を校風にしていたことは、今だからこそ、思い出すべきだろう。


 甲子園は東電のPRの場だった

 双葉高校は原発から約3・5キロ。原発からいちばん近い高校だ。もちろん、警戒区域にある。校舎は現在閉鎖中で、いつ再開できるのか、先のことは誰にもわからない。

 私は双葉高校を卒業している。1979年(昭和54)。三十数年も前の話だ。

 第一原発の建設が始まった昭和40年代から双葉町が原発の恩恵を受けてきたように、双葉高校も原発の恩恵を受けてきた。親が原発で働いている生徒は多い。卒業して原発関連の企業に就職する生徒も多かった。だから原発に対する思いは複雑だ。加害者・被害者の単純な図式では割り切れない。いや、被害者でありながら、加害者の一部と見られることだってあるのだ。

「わたくしは浪江町の人間だ。浪江町は原発の恩恵を受けていないのに迷惑を被った」

 事故後、郡山市の駅前でこんな街頭演説を耳にしたことがある。浪江町は双葉町の北隣で、警戒区域にある。浪江町のそのまた北隣に旧小高町(現南相馬市小高区)がある。私は旧小高町で生まれた。そこも警戒区域になり、私も実家に帰れない。

 浪江町と旧小高町には、かつて東北電力の原発建設計画があり、強力な反対運動で建設を阻止した実績がある。それだけに原発への恨みは大きい。

 避難中の幼なじみが「双葉や大熊の人は自業自得だがおれらは違う」息巻くのを聞いた時は辛かった。

 私は、旧小高町が故郷であるのと同等の重みで、双葉町を青春の故郷と感じているからだ。ボランティアでいわき市の避難所を回っていた時は、「わたしらだって被災しているのに、どうして原発の恩恵を受けてきた人たちの世話をしなけりゃならないのよ」と地元住民の怒りを聞いた。悲しかった。何も言い返せなかった。

 双葉町が、双葉高校が原発の恩恵を受けてきたのなら、そこの生徒だった私も恩恵を受けたことになるのだから。

 双葉高校に入学してすぐの、新入生恒例の原発への遠足を思い出した。

 PR館で原発の仕組みや安全性についてのレクチャーを受けた後、映画を見せられた。「大熊町は貧しい町でした」とナレーションが入ると、我々は大熊町から通う生徒を振り向き大笑いした。そしてその後には「しかし原発のおかげで豊かな町になりました」と続くのだ。

 弁当を食べた後で、原子炉建屋を見下ろす駐車場で円陣を組みバレーボールをして遊んだ。女子のスカートがひらめくたびに我ら男子は大いに喜び、冷やかしたものだ。

「洗脳」と人は呼ぶだろうか。しかし、いいも悪いもない。間違いなく、あれは我々の青春の一部だった。物心ついた時にはそこにあった物を、どうして否定することができるだろう。あの時バレーボールをした同級生の多くは今、家を失い避難生活を送っている。それを思うと悔しい。涙が込み上げるほど悔しい。

 双葉高校野球部は1973年、80年、94年の3回、夏の甲子園に出場している。相双地区(相馬郡+双葉郡)では唯一の出場校。古豪と呼ばれるゆえんだ。

 野球部が甲子園に出場すれば、応援席は東京電力のPRの場にもなった。「アトム打線」は双葉高校野球部のキャッチフレーズであり、見事な墨跡の幟が応援席に立った。鉄腕アトムではない。アトム(原子)が核分裂するように打球が四方八方に飛んでいく強力打線の意味だ。応援席には東電の団扇が配られた。その模様は全国中継され、翌日の地方紙には「アトム打線炸裂」などの見出しが踊った。そして大会が終われば、校内には寄付金(もちろん東電ばかりではない)の残りによって新たな施設が増えるといった具合だ。

(当時の地方紙を開くと、夏の高校野球地区予選大会特集に、東京電力は東北電力と連名で、応援メッセージ入りの一面広告を掲載している。このことだけでも、電力会社がいかに高校野球を重視していたかがわかる)


 学校の存続をかけて戦う

 こうした過去を批判することは簡単だ。交付金漬けの自治体を一部は「シャブ漬け」という言葉まで使って酷評する。

 しかし、運動部員は大会出場のたびに遠征費用を自力で稼いできた時代もあったのだ。資金集めの映画上映会を頻繁に催し脱税の疑いをかけられたこともあったし、柔道部は便所の汲み取りのアルバイトだってした。応援団は河原にキャンプをはって自炊をするのが当たり前だったのだ。

 原発のおかげで町ぐるみ豊かになった事実は消せない。事故を起こしたからといって、そうやすやすと原発批判に回れるだろうか。この複雑な心境をよその誰に理解できるというのか。

 私は双葉高校の生徒会長だった。夏の高校野球福島大会には応援団に加わり、精一杯声を枯らした。あの暑い夏は忘れられない。その記憶があるから、今年(2011年)の夏、震災を乗り越えて15人の野球部員が福島大会に出場すると聞き、球場に向かったのだった。他人は笑うだろうが、今でも私は「生徒会長」なのだ。

 夏空に掲げられた応援旗を見上げるのはやっぱり気分がよかった。校名どおりの双葉をあしらった校章は何だか、再生の象徴みたいに見えた。ドンドンドンと応援の太鼓が響く。三十数年前の鼓動の高鳴りが胸によみがえる。

 しかし、その応援席で私は「双葉高校が消える」という噂も聞いたのだった。

 母校が消える? 寝耳に水だった。何と言えばいいのか、自分の影がすっと薄くなるような、そんな気がした。

 双葉高校は、(1)校舎がない、(2)生徒数が減った、(3)入学希望者が少ない、という理由で自然消滅への道を否応なしに歩んでいる。

 野球部は双葉高校を救う意味でも戦っていた。

「おれたちが頑張れば注目度も高まる。双葉高校を世の中にアピールできる。双葉高校に入りたいって思わせるような野球をしようぜ。そのためにも勝ち進もうぜ」と。

 惜しくも福島大会2戦目で敗退したが、彼らの願いは後輩に引き継がれた。野球部員は1、2年生を足して6人に減ったが、原町高校・相馬農業高校と連合を組み、「相双福島」として秋季地区予選も戦った。

 球場の応援席ではいつも、現役を引退した3年生が太鼓を叩き、後輩にエールを送っていた。そして、その後ろには私。ルールもろくに知らないのに大声を出している私がいた。「自分にできること」「非力な自分でも母校の役に立つこと」を探していた。

 相双福島は地区予選を勝ち進み、県大会に出場した。1回戦で敗れたものの、未来への可能性を感じさせる負け方だった。

 そう、もう一度思い出そう。我々の双葉高校は、生まれた時から「逆境に強い」高校なのだ。

【中編】へ続く

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名門・双葉高校野球部と原発 【中編】

 私は、双葉高校のサテライト校(震災で校舎を失った高校の生徒の受け入れ先)の一つ、いわき市の磐城高校に通い、野球部員への取材を重ねた。彼らは百年記念館という合宿所兼会議所で授業を受けている。取材対象は3年生7人、1年生1人、女子マネージャー1人。震災から始まる彼らの体験を聞いた。以下に、名前、ポジション、学年を記しておく。

 田仲元貴(投手 3年)

 青田瑞貴(捕手 3年)

 末永大地(一塁手 3年)

 渡辺郁也(二塁手 3年)

 大河原敦(中堅手 3年)

 岩田智久(捕手 3年 主将)

 川見 健(投手 3年)

 猪狩 駿(投手 1年)

 水野谷瀬里(マネージャー 3年)


 野球部員の3月11日

 双葉高校野球部には「海練」の伝統がある。文字どおり海での練習だ。双葉海岸まで3キロの道を走り、砂浜でトレーニングをする。それはいわば、海に近い高校ならではの特権だ。

 渡辺郁也は語る。

「砂浜ダッシュ、手押し車。砂を詰めたバケツを両手に提げて走ったり、あと、砂浜ノックをしたり。これは、風に流されるフライを捕る練習です。最後はシャトルラン。砂浜に置いたボールを拾いながらダッシュで往復するんです。競争で勝った者からグラウンドに帰って休めますが、ビリは罰としてヒンズースクワット。走って帰って、休む暇もなくグラウンド練習です」

 |でも、海での練習はいい気分転換になったんじゃないかな。

 私の質問に、渡辺は苦笑いを浮かべた。

「いえ、海練はきついです。海を楽しんでいる余裕なんてありません。あ、でもドッジボールは楽しかったかな。これも足腰を鍛えるためですけど」

 震災のあった3月11日は、海練を予定していた。

 |予定のまま海に行ってたら、どうなってたんだろうね?

「そうですね、やばかったかも。でもたぶん、津波が来る前に走って逃げましたよ」

 春休みだが、この日は午前中に特別授業があり、どの部も午後から活動を始めていた。

 東北の3月はまだまだ寒い。霜柱が溶けるとグラウンドはぐちゃぐちゃになる。そのために考えていた海練だったが、予想していたよりコンディションは悪くなかった。

「これならできます」主将の岩田智久が監督に報告した。

 明日は会津学法との練習試合がある。来年度を占う意味で大事な試合だ。海練で疲れたくはなかった。

 地震が来る直前、部員達は三ヵ所に分かれバッティング練習をしていた。

 午後2時46分。水野谷瀬里の携帯電話がピーピーと鳴った。見れば、緊急地震速報。「来るな」と思った。2日前に震度5の強い地震があったばかりだ。彼女は語る。

「最初は微かな揺れだったのが、どんどん大きくなって、立っていられないくらいになって。部員はマウンドに固まってしゃがんでいました。こっち来いって手招きされて、私も行ったんです。すごかった。映画を見ているみたいでした」

 照明灯の鉄柱が激しく揺れた。ガラスの割れる音や女子の悲鳴が聞こえた。街の方から家屋の倒壊する音が雷のように重く轟いた。

 青田瑞貴はバッティングネットを支えて意地で立ちながら、校舎が「プリンのように」揺れる様を見ていた。移動用のバスが揺さぶられて動き、部室に衝突して元に戻った。

 校舎や体育館から生徒達が校庭に出てくる。にわかに空が暗くなり、ざっと吹雪いた。液状化現象なのか、校庭の一角から黒い水が噴き出していた。

 揺れが収まると校舎に戻った。椅子も机もことごとく倒れ、床は靴についた泥でぐちゃぐちゃに汚れていた。

「女子の中には、泣いている子もいれば、テキパキと物を運んでいる子もいて両極端でした。町の人が高校に避難してきていたので部活動の毛布をあげていたんです」と水野谷は語る。

 岩田智久と田仲元貴は車椅子を押すなどして、お年寄り達を校舎へ案内した。

 青田瑞貴は監督の指示で、自転車に乗り街を見回った。人がいたら高校に集まるよう呼びかけた。道路はあちこち陥没し、ブロック塀が倒れ、木造の家が崩れていた。電柱が倒れて押し潰された家があった。中でお婆さんが「こんなになっちゃって」と途方に暮れて笑っていた。「津波が来ますよ」と声をかけた。

 津波警報を聞いて、避難所は双葉高校から高台の双葉南小学校に移った。さらに原発が危ないと聞き、山寄りの双葉中学校へと移動した。

「一人で帰るな。親の迎えを待て」と教師は指示を出した。

 水野谷は語る。

「でも原発は大丈夫だと思っていました。双葉中学校では、先生に『外に出るな』と言われました。放射能を気にしたんだと思います。野球部は集まってトランプをしてました。ええ、暇つぶしで。笑ってましたね。けっこう余裕でした。私は先生の目を盗んで、友達とこっそり夜の散歩に出ました。いえ、停電はしてなかったです。道路が波打った形でひび割れていました。鉄橋が落ちているのを目にして、『これはだめだ』と引き返したんです」

 地震や津波のニュースはワンセグで見た。小名浜が津波に襲われたことも知ったが、双葉は大丈夫だろうと思っていた。原発が危ういという情報も流れた。しかしこの時点ではまだ楽観していた。

 川見健は、渡辺郁也の母親が車で迎えに来たので、大熊町の自宅まで乗せていってもらった。自宅には誰もいなかった。家の中は家具やら何やらがことごとく倒れ、ガラスも割れ、中に入れる状態ではなかった。携帯電話もつながらない。家の外でぼう然と家族を待っていた。現実とはとても思えず、夢でも見ている感じだった。

 川見の母親は息子を迎えに行き、すれ違いになっていたのだった。その夜は、大熊中学校の近くにある祖母の家に泊まった。

 翌朝、町にサイレンが流れ、川見は目を覚ました。アナウンスもあったが雑音がひどくて聴き取れない。外に出ると、何十台もの観光バスが連なって目の前を走り過ぎて行った。びっくりした。


 生活の中心が消えて心に空洞が生まれた

「でも、集団で避難するのかなって、普通に考えてました。原発のことはあんまり。日頃から安全だって聞かされてたし。まさか、ですよ。自宅に戻って、必要最小限の物だけを持って、集合場所の大熊中学校に行きました。そこでも、どうして避難するのか具体的なことは教えられませんでした。役場の職員かな、そんな感じの人が『原発は大丈夫だ』って言っていたのを聞きました」

 行き先も知らされないままバスは出発した。避難所へ、そこが満員なら次の避難所へと、バスは山間部を奥へ奥へ入っていく。

 野球部は県内外へ、ばらばらに散っていった。誰もが3日か一週間で戻れると信じていたが、その後、二度と会えなくなった部員もいた。

 川見健は、父が単身赴任をしている千葉県成田市のアパートに避難した。毎日、ぼうぜんとしていた。避難生活がいつまで続くかわからない。新学期が始まろうとしているのに自分は何も始まらない。何も手につかなかった。

「朝、コンビニに入って、地元の高校生とかを見るじゃないですか。ウワーって落ち込みました。どうしようもなく無気力になって」

 外の世界には普通の生活がある。それが不思議だった。世の中の流れから自分が置いていかれるようで、たまらなく不安だった。

 末永大地は、川内村、二本松市、仙台市、新潟市、湯沢市と目まぐるしく親類の家や避難所を転々とした。十日目くらいに、やっと東京に落ち着いた。母方の叔母の知り合いが経営するマンションに入れてもらえたのだ。

 まるで漂流のようだった避難生活に疲れた。毎日、テレビを見てごろごろ過ごした。テレビは悪いニュースばかり流した。

「双葉には戻れそうにないし、野球も無理かなって思いました。だったら東京の高校に転校しようと頭を切りかえて、近くに避難している友達に連絡して遊んでました。原宿とか。はい、修学旅行みたいな、そんな感じです」

 田仲元貴は、野球道具を家に置いてきた。一週間以内に戻れると思っていた。だから柴犬とミニチュア・ピンシャーの2匹のペットも鎖に繋いだまま置いてきた。宮城県の兄の家を頼ったが、そこも断水と停電の被害を受けていた。毎日、川で水汲みをしていた。スーパーでおにぎりを買うのに3時間も並んだ。他には特にすることもなかった。一時帰宅をした近所のおばさんにペットの話を聞いた。ミニチュア・ピンシャーは死んでいたが、柴犬は生きていたので鎖を外して放してやったそうだ。申し訳ない気持ちで一杯になった。

「テレビで原発事故のニュースを見て、『はだしのゲン』を思い出したんです。あんなふうにたくさん人が死ぬんじゃないか。日本がチェルノブイリみたいになるんじゃないかって、不安で一杯でした」

 大河原敦は、水戸市の親類の家にいた。放射能が怖いから外に出るなと言われ、テレビで春の甲子園大会の中継を見ていた。

「野球をしている人達がうらやましかったです。でも、いつかは野球をできる日が来るだろうと思って、家の中で筋トレをしていました」

 彼らは、子どもの頃から野球を生活の中心にしていた。その中心が消えてしまうと、自分の中にぽっかり空洞が開いたようだった。

「野球をやりたい」。誰もが強くそう願った。

【後編】へ続く

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名門・双葉高校野球部と原発 【後編】


 「また野球をしよう」主将からのメール

 青田瑞貴は、新潟県三条市の体育館に避難していた。野球をあきらめて、新潟県の高校へ転校しようと考えていた。双葉高校が駄目なら野球をしないと決めていた。

 しかし、三条市の人々の温かい心が、彼に野球を続けさせることになった。

「避難所にいたら、三条市のボランティアの方が僕の坊主頭を見て『君、野球をしてるの?』と話しかけてくれました。その方に少年野球チームを紹介されたんです。それで、小学生に野球のコーチをすることになりました。その後で、今度は野球塾というのを紹介されました。小学生から大学生まで集まって野球をしているんです。そこで本格的に練習を始めることができました。本当は五千円の月謝がかかるんですが、受け取ってくれませんでした。僕は免除されたんです」

 田中巨人監督は部員の安否確認に懸命だった。携帯電話の電池切れ等で連絡のとれない、行方がわからない部員も少なくなかった。

 部員の中で最初に動いたのは、当時の副主将である鎌田尚行だ。女子マネージャー水野谷瀬里と頻繁に連絡を取り合い、行方のわからない部員の所在を調べていった。彼女は、いわき市の山寄りに自宅がある。放射能を怖れて一時的に避難したが、一週間くらいで自宅に戻っていた。そのため、彼女が田中監督と部員とを繋ぐ役目をになった。

 ある日、主将の岩田智久からメールが届いた。「また野球をしようよ」と。そのメッセージに勇気づけられた。私もやってみようと、部員達にメールを送り始めた。

 水野谷は語る。

「私は野球部依存症だったんです。でも、ずっと会えない日が続いて、いい意味で独立できました。選手を頼りにしているマネージャーだったんですが、前より大人になれたかもしれない」

 希望が見えてきたのは、4月に入って福島県教育委員会がサテライト方式を定めてからだ。田中監督はメールで部員達に約束した。

「大会には必ず出られるようにする。だから今は自分に出来ることを精一杯やれ」

 岩田智久は千葉県松戸市の親類の家に避難していた。「みんなで集まって野球をやろう」、「また甲子園を目指そうぜ」と、メールで部員に呼びかけていった。

 その呼びかけに、避難先でぼう然としていた部員達が動き出した。

 渡辺郁也は会津若松市にある東山温泉の旅館に避難していた。「やれると思うからがんばろう」と主将からメールが届き、みんなを信じて自主トレを始めた。

「温泉地なので街から離れているんです。街まで4、5キロの道を走って、バッティングセンターに通っていました。あと、坂の多い街なので石段を上り下りして足腰を鍛えました。絶対に双葉高校のメンバーと野球をするんだと思ってました」

 田仲元貴は、宮城県の兄の家から千葉県松戸市の親戚の家に移っていた。野球道具は何も持たずに避難してしまったが、救援物資でグローブをいただいた。しかしそれも、規格の関係で公式戦には使えない物だった。

 3月末の誕生日、父親が「こんな状態だから何もしてやれないが」と詫びながら、スポーツ用品店に連れて行ってくれた。そこでバットを買ってもらった。胸が高鳴った。

「二年間、双葉高校で下積みの練習をしてきたんです。今さら他の高校で(野球を)やれるかって思いますよ」

 新入生の猪狩駿は迷った。入学予定だった八人のうち六人が辞退しているのだ。彼は中学時代に主将として県大会で優勝した実績があり、他校から誘いの声がかかっていた。

「でも、監督に『野球はできるから』って言われて双葉高校に決めました。緑色のユニフォームがカッコイイので憧れていました。監督も厳しくて、自分の性に合っています」

 渡辺郁也はこう語る。

「双葉高校の野球は、なんていうか、泥臭い。高校野球らしい野球なんです」

 がむしゃらに、気迫で押していくのが双葉野球だ。波に乗ればガンガン攻めまくり、ピンチになれば粘り強く食らいつく。今時はやらないかもしれないが、この青春っぽさが昔からの双葉カラーだ。


 「全員野球」でスタートを切る

 4月29日。震災から49日目にして、やっとのことで全体練習に漕ぎつけた。この日、部員が初めて集合し練習をするのだ。13人いた三年生は3人が抜けた。14人の二年生は11人が転校し3人。一年生は2人。15人での再スタートとなった。

 練習場は葵高校グラウンド。葵高校はサテライト校のひとつで、会津若松市にある。サテライト校の中では最も福島県の奥にある学校だ。部員達は、それぞれの避難先から父兄の車に乗せられて集まってきた。

 田仲元貴は焦っていた。午前4時前に起床し千葉県流山市を出発したが、会津はあまりにも遠すぎた。家財道具でいっぱいになった車の中で小さくなりながら、ずっとやきもきしていた。

 ある父兄は、元貴を待つ部員達の様子をこう振り返る。

「せっかく集まったのになかなか練習を始めないんです。どうしたのって聞いたら、元貴君を待ってるんだって。記念すべき再出発だから全員そろってスタートを切るんだって」

 結局、元貴は到着に6時間もかかった。約1時間の遅刻だ。車から下りる時、照れくさかった。自然と笑みがこぼれた。「久し振り」と言い合った。本当に、久し振りの仲間だ。顔を見合わせ、ほっとした。震災後、初めて心の底からほっとした。

 全員野球。これから双葉高校が掲げていくことになる「全員野球」のモットーを象徴するスタートとなった。

 北国の春は遅い。桜が満開のグラウンドで白球を追い、大声をかけ合った。うれしい。楽しい。甲子園という目標がまた見えてきた。

「残ってくれてありがとう。お前らとやる野球は楽しい」監督の言葉が胸に染みた。

 大手メディアの取材にも驚いた。自分達が注目されていることを知った。「俺達が頑張れば双葉高校をアピールできる。野球部と双葉高校を守る力になれるんだ」と信じた。

 双葉高校は、県内五ヵ所のサテライト校に分かれ、5月になってようやく新学期をスタートさせた。

 岩田智久はみんなに呼びかけた。「磐城サテライト校に集まらないか?」

 三年生の7人が、いわき市にある磐城高校のサテライト校に集まった。震災後、一生懸命みんなを束ねてくれた鎌田尚行が、親の都合で仕方なく埼玉県に転校していったのは寂しかった。転校先で野球を続けるという彼と、「甲子園で会おう」と誓い合った。

 二年生はほとんどが転校していった。状況を考えれば仕方がなかったのかなと思う。けれど心のどこかには許せない気持がわだかまっている。心は複雑だった。黙って去っていった後輩には、相談くらいしろよと言いたかった。

 田仲元貴は、二年生が離れていったのは学校の対応が遅れたためだと言う。

 福島県の教育委員会がサテライト制度の説明会を開いたのは4月9日。4月いっぱいは休校状態で、サテライト校での授業が始まったのは5月9日のことだ。

 三年生なら、残り一年足らずを双葉高生で通そうと考えるだろう。しかし二年生は先が長い。不安を抱えて授業再開を待つより、転校しようと考えるのはむしろ当然なのだ。

 野球部に関して言えば、先が見えない双葉高校の野球部にこだわるべきか、早めに転校してレギュラーを目指すべきかの選択だ。二年生が後者を選んだからといって、誰が咎められるだろう。

 主力選手の何人かは去ったが、それで戦力が落ちたとは言われたくはない。震災を言い訳にしたくなかった。

 平日は各サテライト先の野球部に混じって練習し(磐城サテライト校では平商業高校と)、全体練習は週末の土日のみ。しかも、そのつど練習場を探さないといけない。状況は厳しかったが、保護者会が監督と連絡をとりながら強力にバックアップした。

 全体練習の場所を確保するのは大変だった。ほうぼうに電話をかけて空いているグラウンドを探した。練習場が決まれば、どんなに遠くても部員を車に乗せて運んだ。片道一時間以上かかるのはざらだった。雨天のため他のチームが練習を中止しても、小雨であり安全と判断できたら練習に踏み切った。せっかくの機会を無駄にしたくなかった。

 子供に野球をさせたい、希望を与えたい一心だった。それはつまり、多くのものを失いながら避難している父兄達の、心の支えでもあった。

 保護者会の渡辺会長(渡辺郁也の父親)は語る。「被災地の現状を見ると、野球のことを口にするのは不謹慎かと心苦しく思いながら、野球で元気を取り戻したいと校長先生に訴えてきました。町の人の双葉高校に対する思い入れは強い。野球部の活躍が被災者の励みになることを子供達は自覚しています」

 田仲元貴は、OB会に新しいグローブを買ってもらったが、手に馴染むのに時間がかかるので困っていた。夏の県大会は目前に迫っている。そんな時、父が一時帰宅でグローブを持ってきてくれた。使い込んだグローブは手にしっくり馴染んだ。自分の一部を取り戻したみたいだ。ぎりぎりで間に合ったのだ。


 この校歌を残そうと、大切に歌った

 夏の高校野球福島県大会。双葉高校は7月15日に初戦を迎えた。相手は好間高校。

 その応援席に私はいた。試合開始前から、応援席は異様な熱気に包まれていた。

 震災後、サテライト校に散っていた生徒がこの日、初めて集結したのだ。生徒はみんな元気で、明るいだけにどこか痛々しかった。「お久し振り」あちこちで再会を喜び合う声が聞こえた。一年生は、始めて顔を合わす同級生もいる。先輩達の気迫に圧されておどおどしている彼らに、「胸に刻んでおけ、これが双葉魂だ」と言ってやりたかった。

 私のすぐ横で、女子生徒が中年の婦人に肩を抱かれて泣いていた。「どうしたのよ、なぜ泣いてるの?」と、婦人のやさしい声に言葉も出ない。友達の母親なのか、近所のおばさんだったのか、顔を見た途端、ほっとして感情が溢れてきたのだろう。迷い子が母親を見つけて泣き出すように。避難生活で、彼女がどれだけ多くのものを失ってきたのか、どれだけの哀しみを胸に溜め込み、押し隠してきたのか、震える背中が語っていた。

 ここに集まった生徒の一人一人が、かけがえのない物語を秘めている。野球部に送る彼らの声援は、そのまま自分への声援だった。頑張れ頑張れと自分を励まし続けていた。

 試合は、双葉高校の一方的なリードで進んだ。初回、投手の田仲元貴が左越えの3点本塁打を放ち試合の流れを決めた。田仲はこの本塁打に「野球の神様」を感じた。怪我ばかりして、なかなか試合に出られず下積みが長かったのだ。それだけに、この一発は田仲にとって「神がかり」だったのだ。

 いったん火がつくと止まらなくなるのが双葉高の持ち味だ。打線がつながり、まさに全員野球。14対0の五回コールド勝ちは、誰も予想しない大勝利だった。

 夏空に校歌が流れた。

 岩田智久は、「支えて下さったすべての人達、監督に感謝しながら歌った」

 渡辺郁也は、「この歌を残さなくてはと大事に歌った」

 7月21日、二戦目の白河旭高戦は、一転して双方無得点が続く緊迫した投手戦となったが、八回に本塁打を打たれ、これが決勝打となり、1対0で双葉高校は敗れた。

 試合後、厳しいことで評判の監督が男泣きに泣いた。泣きながら「ありがとう」と感謝の言葉を口にした。

 悔いはない。けれど勝ちたかった。もっともっと勝ち進んで、野球部と双葉高校を守る力になりたかった。


 復興とは生きる歓びを取り戻すこと

 私は思うのだが、野球にせよ他の競技にせよ、闘うことに意味づけなんて必要ないのではないだろうか。何々のために闘うとか、何々を背負って闘うとかいうのは、本当は違う。ではどうして闘うのかというと、闘うこと自体の歓びのためではないか。何々のため、というのは結果として付いてくるものだ。

 あらゆる雑念を削ぎ落とし、闘志の純度を高めてこそ死力を尽くすことができる。観衆は選手のそうした姿に共感し、何かを得る。選手もまた、勝とうが負けようがそこから何かを獲得し成長していく。

 人生も同じだ。本当は、生きることに意味なんて必要ないのかもしれない。生きる歓びがあればいいのかもしれない。そして生きる歓びとは、より良く生きようとする意志によってしか得られないものなのだ。

 復興とは、そう、生きる歓びを取り戻すことに他ならないはずだ。

 三年生が引退した夏以降、双葉高校は原町高校と相馬農業高校と連合チーム「相双福島」を作り闘い続けた。彼らの成長がまさにそうだった。秋季地区予選の初戦では、中学生の草野球みたいな、ちぐはぐでもたついた試合をしていた彼ら(仕方がない。数日前まで顔も知らなかった者同士の集まりだ)が、試合を重ねるごとに結束力が増し、体の動きも冴え、試合のグレードを高めていった。それは本当に、短期間での劇的な変化だったのだ。

 県大会出場を決めた試合で、異なるユニフォームを着た選手が次々とホームインをしては雄叫びをあげて空中ハイタッチを交わした。あの歓喜に充ちた顔は忘れられない。純粋に、自分の歓びのために闘う。それが結果として我々をとても勇気づけるのだ。


 僕らの町を差別しないでほしい

 ところで、相双福島の試合を観戦した帰りのことだ。父兄の車に私も同乗させてもらったのだが、車が福島駅に近づいた時のこと、ダンボール紙にマジックで「反原発」と書いた看板を掲げた右翼の街宣車が、大音響でアジテーションをしながら近づいてきた。

 後部座席で参考書を開き問題を出し合っていた三年生の表情が変わった。「うっせえんだよ」と、口々に憎悪を剥き出したのだ。

 私も、世論に便乗するだけの頭の空っぽな連中は嫌いだが、彼らの怒りには驚いた。まるで天敵が現れたみたいだったのだ。

 後日、その時の一人にどうして怒ったのか話を聞いてみた。

「僕らの町を批判されたみたいで頭にきたんです」彼は答えた。

 彼の故郷は原発のある大熊町だ。ちなみに両親は東電や原発と何の関係もない。それでも、原発を批難されると自分の故郷まで非難されたように心が傷つくのだ。

「大熊町の人を差別しないでください。町の人に罪はないのですから」彼は訴えた。

 福島第一原発は大熊町と双葉町の両方にまたがる。大熊町と同様、双葉町も原発の恩恵を受けてきた。双葉町にある双葉高校も恩恵とは無縁でなかった。恩恵を受けた原発のおかげで母校が消えようとしている。このまま入学希望者が減っていけば、近い将来に間違いなく消える。これは運命なのだろうか。

 来年度からはサテライト校をいわき明星大学に一本化し、生徒の宿舎も用意する予定だが、間借りであることに変わりはない。「これが母校」と呼べる校舎はないのだ。

 磐城サテライト校のS先生は、双葉高校は閉校したほうがよいのではないかと考える。

 間借り教室では設備が不十分で、生徒らがのびのび高校生活を送れる環境ではない。部活動も満足にはできないのだ。生徒の能力を存分に伸ばすことができないなら、双葉高校の生徒であることのメリットは少ないのではないか。

 確かに、正論だ。現実を直視すれば、どうしても悲観論に傾く。生徒ひとりひとりを案じているからこそ、S先生は楽観論を許さない。しかし、悲観論で生徒をどこへ導いていけるのか。希望がなければ人は育たない。しかし客観的事実として、その材料はあまりにも乏しい。いらだたしさ、もどかしさに苛まれながら生徒と向き合わざるを得ない。そこに、サテライト校の教師の苦しみがある。ちなみにS先生は双葉高校出身者で、私のふたつ下の後輩だ。

 双葉高校の存続が本当に正しい道なのかどうか、実のところ私にもわからない。わからないまま、多くの矛盾を抱えながら、それでも、双葉高校の存続に一縷の望みがあるなら、それに賭けたい。

 なぜなら、悔しいからだ。運命に屈服するのが悔しいのだ。双葉高校の消滅が運命であるなら、なおのこと運命に抵抗したい。抵抗することで、初めて見えてくる現実があるはずだ。

 双葉高校とは何だったのかを考えていきたい。田舎の公立高校の命運など些末な問題だと人は思うだろうか。いや違う。なぜならこの問いは、原発とは何だったのかという問いに、必然的に繋がっていくはずなのだ。

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