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コラム

「ふたば創生」片寄 洋一(高6回)

 あの大惨事から4年が経過した。避難生活は未だ続き、何時になったら避難指令解除になるのか誰も判らない闇の中にある。また避難指示解除の令がでても、以前と同じような生活が戻ってくる保証は全く無い。それどころか新たな苦難の始まりになりかねない。

 ふる里の人々は苦しみ、悩み、絶望の淵にいる。このような時に安閑として傍観している場合ではない。ふる里の惨状を救済したい、手助けの方法は何かないか、恩返しをしたい。双高OBとして思いは同じ、東京栴檀会として何か出来ないか。ここに各種の資料を提供し、OB諸兄姉の叡智と行動を期待したい。

高6回 片寄 洋一

 まえがき 【第四編 我が国の電力事情】
【第一編 東日本大震災】   第25章 我が国の電力事情
  第01章 福島第一原発事故再考   第26章 只見川総合開発
  第02章 大熊町全町民避難   第27章 原子力発電への途
  第03章 双葉町全町民避難   第28章 原発と福島県
  第04章 浪江町全町民避難   第29章 地元誘致の動き
  第05章 富岡町・川内村避難   第30章 磐城飛行場
  第06章 楢葉町・広野町・葛尾村   第31章 福島第一原発建設開始
  第07章 双葉病院の悲劇   第32章 原発建設の必要性
  第08章 福島第二原発   第33章 中東情勢と原発
  第09章 第一原発吉田所長の活躍   第34章 中東の複雑さ
  第10章 外国での反響・協力   第35章 中東からの輸送路確保
  第11章 核の恐怖   第36章 海洋資源
  第12章 数々の隠蔽工作   第37章 海の国境線
  第13章 福島県知事の叛旗   第38章 ロシア革命
【第二編 事故後の混乱】   第39章 ポーランド孤児救済・保護
  第14章 原発事故後の混乱   第40章 第二次大戦への突入終結
  第15章 SPEEDI情報   第41章 北方四島問題
  第16章 その他の情報があった 【第五編 栴檀のふたば】
  第17章 事故は防げたのか   第42章 五年目の春
  第18章 国会最終報告書   第43章 残留放射線(能)汚染再考
  第19章 顧みて   第44章 ふる里は聖地
【第三編 核の知識】   第45章 双葉地方の農業
  第20章 原子力発電所の仕組   第46章 これからの農業形態
  第21章 放射線量(能)の知識   第47章 双葉地方の工業化
  第22章 除染作業   第48章 太平洋に挑む
  第23章 中間貯蔵施設   第49章 人工島の活用
  第24章 もう福島には住めないのか   第50章 被災地再興の原動力は教育にあり

まえがき

 平成23年3月11日の東日本大震災から既に4年の歳月が経過した。だが避難指示20km圏内から避難した約5万4千人のうち僅かな避難指示解除により戻った地域があるが、大半は未だ仮設住宅、借り上げ住宅、その他に居住し、望郷の念に駆られながら不自由な生活に耐えている。その中には多くの双高卒業生や関係者がいることだろうと推測する。

 何よりも苦しいのは何時になったら戻れるのか、あるいは戻れないのか。自分自身、家族、同郷の人達の将来が全く見えてこない苛立ち、個人の努力には限界があり、国、県等の行政機関、東電の思惑は如何なのか。これからどうなるのか。あるいはどうすれば良いのか。4年も経過したのだから、除染が完了すれば避難指示解除になるとの見通しだけでは納得できない。また就労の場がなければ今後の生活を維持していく方策がない。

 1次から3次まで全ての職業が消滅してしまったふる里に戻ってどうやって就労し、生活を維持していけるのか。だからこそ帰還できることを夢見ながら、戻ることに戸惑いを覚えるという矛盾した葛藤に悩まされることになる。過半数が戻らないと苦渋の選択をせざるを得ない状態にあるのは除染ばかりが問題ではない。

 また就労の機会がないばかりが問題ではない。4年の歳月が流れれば自然界の力は怖ろしい。無人の地は雑草の大地、動物たちの天国と化し、特に鼠の大繁殖、家は建っていても内部は食い荒らされ、腐食は進み、もう住める限界を超え、全てを新替えしなければ町の再興はあり得ない。

 このような状況を直視すれば、戻ることに躊躇いを感ずるのは当然であり、復興庁が毎年施行しているアンケート調査で明らかになったが、戻らないことを選択した人が過半数を超えたことも頷ける。

 復興庁が平成26年12月23日、「福島県12市町村の将来像に関する有識者検討会」を立ち上げた。

 東電福島第一原発の事故で避難指示が出ている福島県の自治体などを広域的に復興させる目的で、今夏に提言を纏めるとしている。

住民の帰還の見通が立たず、単独での生き残りは難しいとの判断が背景にある。

 検討会の復興の対象は、国の指示で計約8万人が避難している10市町村と、4月に避難解除になった田村市、国の指示は出なかったが、町の指示で全町民が避難した広野町。23日の検討会は福島市であり、6町村長を招いて、それぞれが作成してきた復興計画などを聞き取った。

 今後半年をかけて、東京五輪のある2020年迄の「当面の将来像」と、第一原発の廃炉作業が終盤に差し掛かるとみられる「30〜40年後の将来像」を纏める。

 政府は昨年纏めた福島の復興加速化指針で、原発事故で避難した全員の帰還を断念、避難先などでの新生活を支援する「移住政策」を取り入れた。

 これにより避難自治体の人口減少は避けられなくなり、早期帰還を目指す地元首長からは、ふる里再生に不安の声が上がった。

 もしこの「移住政策」が促進されればふる里再生は不安どころか確実に消滅することになる。

 其の兆候は既に避難解除になった広野町、川内村に表れており楢葉町も同様なことになる。即ちある程度の人は戻ったが、それは年配者が多く、子育て世代、更に若い世代は戻らない。

 このような時に増田レポートが発表された。日本創成会議人口減少問題検討会が纏めたものであるが、少子化、人口減を直視しその内容は2010年から2040年の30年間に20才から39才の女性人口が5割以下に減少する市町村が全国の自治体の約5割に達するとのデータを示し、数多くの自治体消滅の可能性を示唆した。

 現在避難をしている双葉郡の各町村において戻らないことを決意した人々は過半数に達している。ふる里は戻ることを切望しているのは年配者が大半であり、子育中の年代層は戻らないし、まして若い層は都会地を目指すことになる。

 就労の機会のない処に若い層が戻ることはない。時間をかければ徐々に戻ってくるかも知れないという淡い期待もあるが、長い時間をかければ反対に戻って来た人達も、医療機関の不備、福祉施設はない、生活の最低線を守るべき商店もないとなれば、再びふる里を離れることになりかねない。若い女性のいない町は時間の経過とともに確実に消滅する運命にある。

 いくら 除染やふる里再興を叫んでも、根本的な問題を解決しなければふる里再興はあり得ない。

 このまま推移すれば「ふる里ふたば」は確実に消滅の危機にある。

 もう4年も経過してしまった現在、町村単位で再興、再建に取り組んでも不可能なことは明らかだ。

 これまでに避難解除になっても僅かな人達しか戻らない。まして今後避難解除になった町では更に多くの人々が戻らないことは明らかだ。

 若い人達は移住政策にのって拡散していくだろう。問題は移住したくとも出来ない年配者が取り残されることで更なる悲劇が待ち構えていることになる。

 やむなくふる里に戻っても侘しい生活でしかない。更に悲劇は戻りたくても戻れず仮設住宅に取り残されることになる人々の救済をどうしようとしているのか。

 除染が完了して避難指示解除が新たな苦難の始まりでは茨の道は果てしなく続くことになる。

 第47回衆議院選挙が行われ、安倍総理の第一声は相馬市の原釜漁港近くで行われ「福島の復興なくして日本の再生なし」と、被災地での第一声となった。

 結果は自民党圧勝、是非とも「福島の復興」に全力を傾注して欲しい。

 公約実行促進を被災地・地元が声を大にして叫ばなければ、喉元過ぎれば有耶無耶にされかねない。それには政府の施策を待つのではなく、被災地から再興計画実行の要請を掲げよう。

 根本的には安倍内閣が掲げる「ふる里創生」の発想に共鳴することであり、全く新しいふる里創生に全力を尽くすことにある。

 それには町の再興、再建を全面的に放棄し、全く新しい生活居住環境を創生するとともに就業の機会も創造、新たな企業の創生、誘致する事を基本とする大計画にある。

 それには町村別の発想や計画では不可能であり、双葉郡全域、浜通り全域を対象とした発想・計画でなければならない。

 横断的な双葉郡全町村の結集が必要となり同志的結合こそが必要不可欠であり、その中心となるのは各界に人材を輩出している地元双高OBこそが相応しい。

 国の施策や東電の思惑を待っているだけでは埒はあかない。現地の声を張り上げ、国を動かす力が必要だ。それには全面的に政府に縋ることではなく、地元ばかりではなく将来的には政府、県、東電の利益にも繋がる企画、計画が必要だ。

 極端な言い方をすれば政官財界が投資に価する計画だと賛同してくれそうな企画を提供することにあるが、「打ち出の小槌」から飛び出すような名案がある訳はない。

 本論で提起するのはあくまでも私案であって、絶対的なものではない。ただこのような発想もあるということであって、これを叩き台としてより良き計画を提供して欲しい。

 ともかく双葉地方関係者の共感を得なければ達成出来ない大事業であり、各方面の協賛、協力を得なければ不可能な大事業になる。

 それにはこれからの双葉を創る若い人が中心となって行動しなければ山は動かない。栴檀会が中心になるとしても、まずOBでも若い層に参加して貰わなければならない。現在のような高年齢層だけの集合では覚束ない、近未来を念頭に置いたふる里創生であるから次世代を背負う若い世代が中心になって若い力の結集こそ肝要であり、若いOBの参加、結集によって若いパワーによって推進したい。

 それには共通の予備知識があればさらに発想を飛躍させることが出来る。これまで書き溜めてきた資料を開示し、参考にして欲しい。

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第一章 福島第一原発事故再考

平成23年 3月11日

 2011年(平成23年)3月11日、14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源とする地震規模マグニチュード9.0、日本周辺地震としては観測史上最大規模の地震が発生した。

 推定、北緯38.1度、東経142.9度、深さ24km、Mw9.0。震源は岩手県沖から茨城県沖までの約500km、幅東西約200km、おおよそ10万平方kmという広範囲に及んだ。

◎双葉郡は震度6強を観測

 気象庁の震度階級は震度0から震度4、震度5弱、震度5強、震度6弱、震度6強、震度7の10階級となっており、双葉地方の震度6強は最大に次ぐ震度になる。

 震度6強

  (1) 這わないと動くことが出来ない、飛ばされることがある。

  (2) 固定していない家具のほとんどが倒れるか、移動する。

  (3) 耐震性の低い木造家屋は傾くか、崩壊する。

  (4) 大きな地割れや大規模の地滑りや山体が崩壊することもある。

◎マグニチュード(M)と震度の違い(混同しないでください)

 マグニチュード(M)とは、地震の大きさ(規模)の尺度のことですが、この基準は種類があって、実体波マグニチュード(mb)、表面波マグニチュード(Ms)、モーメントマグニチュード(Mw)、気象庁マグニチュード(Mj)などがあるが、区別する必要がない場合は単にマグニチュード(M)で表す。

 解かり易く尺度を説明すると、光源を震源に譬えると光源(震源)から距離が近ければ明るさ(輝度)は大きく、同様に震源が近ければ震度は大きくなり、距離が遠くなるほど明るさは少なくなり暗くなる。震度も距離が離れるほど小さくなる。従って輝度も震度もある場所では一定の価になる。

  ワット数(w)=マグニチュード(M)

  巨大地震 8≦M(M9.0は観測史上最大規模)

  大地震  7≦M

  中地震  5≦M<7

  小地震  3≦M<5

 マグニチュードは震源から放射される地震波の総エネルギーに関係付けられる。

 マグニチュードが0.2大きくなるとエネルギーは2倍になる。従って1大きくなるエネルギーは約32倍増になる。

 M6からM7になるとM6の約32倍増のエネルギーとなりM6とM8を比較すると約1000倍増のエネルギーを有することになる。

◎震度とは

 ある地震に対するある場所での地面の揺れの強さを表す尺度のことです。

 震度は、ある場所での地震度の強さの程度を、人体感覚や周囲の物体・構造物、さらには自然界への影響等を勘案して階級を付けており発表している。

 我が国では気象庁が震度観測を担当していて、観測員が体感から震度を測定していたが、バラツキがあって必ずしも正確とは言い難かったので、1996年(平成8年)4月から震度計に測定に切り替え、体感は全て廃止した。

  東日本大震災では宮城県栗原町が震度7を記録

  宮城県、福島県の大半は6強から6弱(双葉郡は6強)

  阪神淡路大地震神戸市内は震度7を記録

◎福島第一原子力発電所

 福島県双葉郡大熊町ならびに双葉町にまたがっている。

 敷地面積 約350平方キロメートル(約100万坪)

原子炉ユニット 出力 営業運転開始日 メーカー 場所
1号機 46.0万kw 1971年3月 GE 大熊町
2号機 78.4万kw 1974年7月 GE・東芝 大熊町
3号機 78.4万kw 1976年3月 東芝 大熊町
4号機 78.4万kw 1978年10月 日立 大熊町
5号機 78.4万kw 1978年4月 東芝 双葉町
6号機 110.0万kw 1979年10月 GE・東芝 双葉町

 出力合計 469.6万kw

◎東日本大地震発生

 2011年3月11日14時46分、震度6強の地震発生。(福島第一原発)

 福島第一原発、各原子炉建屋基礎盤上に設置された観測点における観測記録

 1号機〜6号機 最大加速度値ガル

 南北方向 460〜281、 東西 548〜319、 上下 302〜200

 想定値基準値振動Ssに対する最大応答加速度値(ガル)

 1号機〜6号機

 南北方向 487〜441  東西 489〜441  上下 429〜412

 宮城県女川原発における最大加速度値は607ガル(南北方向)

 福島第二原発では305ガル(上下方向)

 東海第二原発では225ガル(東西方向)

過去最大規模の観測地は2007年7月、中越沖地震時の柏崎刈羽原発における680ガルが最大。

☆ガル(Gal):CGS単位における加速度の単位、1ガルは1秒(s)に1センチメートル毎秒(cm/s)の加速度の大きさを表すと定義されている。

 重力加速度を表し地震に係わる震度加速度の計量に限定してガル(Gal)、及び1000分の1をミリガル(mGal)の使用を認めている。

 震度6弱 250〜300ガル

 震度6強 300〜400ガル

 震度7  400ガル以上

 世界最大の地震による加速度は2008年6月14日の岩手・宮城内陸地震で岩手県一関市巌美町祭畤で観測した4022ガルが世界観測史上最大

3月11日 14時46分 大地震発生

 地震発生時には、福島第一原発では1〜3号機は通常運転中、4〜6号機は定期点検中であった。原子力発電所では通常運転中は自所が発電した電力で諸設備を運転している。

 地震発生とほぼ同時にスクラム(制御棒挿入による緊急停止)処置が行われ核分裂反応が停止される(自動停止)と、原発は発電機能が停止するから諸設備を運転するために外部電源に切り替わる。運転員は直ちに電源を外部電源に切り替え作業を行った。

 ところが外部電源である高圧線鉄塔が地震により倒壊、1系統しかない外部電力は遮断してしまった。

 本来は複数、多重化・多様化すべきであって出来れば地下ケーブルにすべきであったが後の祭り、第二原発は2系統有り、1系統が生き残ったために全電源喪失を免れ、安全に冷温停止することができた。

 第一原発は外部電源喪失、その為、非常用電源DGが自動的に稼働、非常用電源であるディーゼルエンジンは出力約8100KVA(2〜4号機)あり、これは50,000トンクラスの貨物船が搭載している補機(発電機)に匹敵する優秀な非常用発電機である。

 1号機〜5号機全電源喪失(6号機空冷非常用発電機のみが生き残る)

 外部電源は高圧線鉄塔が崩壊、地震発生と同時に喪失

 14時46分:1号機原子炉自動停止

 14時47分:2〜3号機原子炉自動停止

 14時49分:気象庁、大津波警報発令

 15時27分:大津波第一波到達

 15時35分:大津波第二波到達

 15時37分:1号機全電源喪失

 15時38分:3号機全電源喪失

 15時41分:2号機全電源喪失

 大津波は波高11.5mから15.5mで、想定では最高6.1mで千年に一度程度と想定し非常用ディーゼル発電機と燃料タンクは海抜僅か4mの地点に設置してあり、当然ながら一瞬にして波に呑まれ、非常用ディーゼル発電機12台全てが冠水、燃料タンクは流出。

 バッテリー電源設備はタービン建屋地下にあった為、水没により一瞬により電源が喪失した。

 このため非常灯電源を失い、中央制御室での原子炉温度、圧力、水位などの最重要パラメータの把握が不可能になり、また緊急炉心冷却システムの操作が不能になった。タービン建屋の搬入口が開いていた。(地震の震動で開いたのかも知れない)

 唯一生き残った6号機の原子炉空冷非常用電源を活用して5号機との電源融通で残留熱を除去する冷却系の海水ポンプが起動して5号機、6号機の原子炉低温停止に成功した。

11日14時50分 富岡町災害対策本部設置、大津波警報発令により防災無線及び巡回パトロールにより沿岸住民避難誘導

 福島第一原発と全く同じ条件で被害を受けながら、奇跡的に無事であった第二原発について考察すると、外部電源は新福島変電所からから導入しており50万Vの「富岡線1号、2号線」、6.6万Vの「岩井戸線1号、2号線」2系統4回線があり、幸いにもこのうち富岡線1号線だけが奇跡的に活きており、この線を活用して翌日には外部電源を全て回復した。非常用電源は1号機、2号機用計6台全て喪失、3号機は1台、4号機は1台喪失、3号機2台、4号機1台が生き残った。

◎外部電源1回線、非常用電源3台が第二原発を救う原動力となり安全に冷温停止がなされた。

 3月11日17時00分:1号機炉心露出

 17時12分:発電所所長消防車による原子炉への注水を指示

 17時46分:福島県、自衛隊出動要請

 19時03分:原子力緊急事態宣言発令、原子力災害対策本部設置

 19時50分:福島県知事、半径2km以内大熊町、双葉町避難指示

 21時12分:SPEEDIによる第1回目の予測図を作成(保安院)

 21時23分:内閣総理大臣より福島県知事、大熊町、双葉町に対しの指示により福島第一原発から半径10km圏内に対する避難指示

 21時37分:大熊町、双葉町の住民避難開始

 23時49分:福島県原子力センターがSPEEDIのメールを受信

 23時55分:大熊町、半径3kmの住民避難完了

原発事故対応三大原則

「止める」「冷やす」「閉じ込める」

◎福島第一原発事故の原因は第一に全電源喪失がある。

(1) 事故の直接原因は、長期9日間に渡る電源喪失による

 11日15時37分〜 20日15時46分

3月11日14時46分 震度6強の地震発生

1〜3号機は通常運転中、4〜6号機は定期点検中

地震発生直後直ちにスクラムが自動的に行われ1〜3号機は自動停止した。

この操作は原子炉内に自動的に制御棒が挿入され緊急停止する。

そうすると原子力発電所内の電源は所内発電を電源としているから、緊急停止すると所内電源から外部電源に切り替わる。

ところが地震発生と同時に外部電源である高圧線鉄塔が崩壊したため外部電源は遮断してしまった。

これにより非常用ディーゼル発電機(D/G)起動、スクラム後の起動は順調に進行した。

14時50分 2号機はスクラムにより給水ポンプ停止、RCIC(原子炉隔離時冷却器)2〜4号機に設置された高圧系炉心冷却システムを遠隔操作で起動した。

1分後、RCICは1分後原子炉の水位が高くなったことを検知して自動停止、その11分後運転員が注意しながら遠隔操作に成功。

14時52分 (1号機IC自動起動)、1号機のみが非常用復水器(IC)を使用、非常時に原子炉が主冷却系から隔離された場合の代替冷却システムとして使用、原子炉が高圧状態でも作動し、また動力が必要とせず自然循環で冷却する。

復水タンクに給水できれば長時間の運転が可能になる。

15時03分 復水器が自動起動してから僅か11分後、1号機の運転員が手動によって止めてしまった。1号機の原子炉圧力低下の速度が速すぎる、保安規定が守られない、つまりひえすぎるのが速すぎると判断し、手動で止めてしまったらしかった。

15時05分 (3号機RCIC手動起動)、しかし15時25分頃原子炉水位が高くなりRCICは自動停止、この頃既に2、3号機では、圧力容器圧力が高くなりすぎていたためSR弁の逃し弁機能が働き、圧力容器内の蒸気をS/Cに吹き出す動作を始めた。S/C(Suppression Chamber)サプレッションチャンバー、D/W(ドライウェル)とベント管で繋がっている格納容器全体の圧力上昇を抑える圧力抑制装置、格納容器下部にあるドーナツ型の容器、圧力装置内の蒸気をS/Cに吹き出す動作を始めていた。

15時27分 大津波第一波が到来したが、その波高は低く(約4m)多少の被害はあったが、全電源喪失までには至らなかった。

15時35分 大津波第二波襲来、1〜4機敷地内の津波浸水の波高は11.5〜15m

場所によっては17mを超えた部分もあった。

 海岸に近い標高4mに設置されていた非常用冷却系及び非常用ディーゼル発電機用の冷却海水系ポンプ、燃料タンク全てが津波に呑まれ全損してしまった。原子炉建屋、タービン建屋のある主要部分は標高10mだったので、それらの施設は最大波高7mの津波が襲ったことになり、扉や空気取り入れ口を破って勢いよく建屋内に流れ込んだ。津波警報で作業員が避難する際に普段は放射能漏れを防ぐため片方だけを開ける二重扉を全開にしたまま避難したらしい。

タービン建屋の地下1階に設置されていたのは非常用発電機、非常用交流配電盤等の電源系。

 コントロール建屋の地下1階には直流電源系(1、2、4号機)

 原子炉建屋地下1階にはRCIC(原子炉隔離時冷却器)やHPCI(高圧注水系)等多くの非常用冷却ポンプ等が設置されていた。

 地下室での冠水であり、排水ポンプも動力源喪失で作動せず、全電源が喪失、過酷事故(シビアアクシデント)の始まりであった。

 免震棟にある電源対策本部では外の様子がわかる窓がなく、監視カメラも作動停止状態なので津波の襲来による全電源喪失の状態がしばらくの間、把握できなかったらしい。

15時37分〜42分(全交流電源喪失)その時原発の各号機をコントロールする3つの中央制御室があり、1、2号機、3、4号機、5、6号機を制御していた。6号機を除いて電源ランプが明滅し始め、やがて消え、警報音も聞こえなくなり、非常用電源も止まった。

 6号機の空冷式ディーゼル(D/G)発電機を除き、全交流電源を喪失、直流電源では1、2号機で喪失、3号機では直流電源設備が中地下階にあったため、被水はしたが機能を失うほどの浸水はなかったので、その後しばらくの間RCICやHPCIが作動したが、充電ができなのでやがてダウンした。

15時37分頃 1号機IC(非常用復水器)隔離弁、フェールセーフで‘閉’に、1号機では直流を含む全電源を喪失、中央制御室は真っ暗になり、直流電源の喪失により、各計器も全て表示しなくなったため、最重要なパラメータである原子炉の水位、圧力も不明となった。

 ICは、それまで運転員によってOn/Offを繰り返しながら順調に機能していたが、全電源喪失と同時にフェールセーフ機能が働き、4つあるバルブ全てに‘閉’の信号が送られ閉じてしまった。

 このためICは冷やされる原子炉の高温蒸気が復水器に循環しなくなり、冷却機能を失ってしまった。

 2〜3号機以降のRCIC(原子炉隔離時冷却器)では、隔離弁は直流電源喪失でもそのままの状態を保てる様に設計されていた。

15時38分(3号機全交流電源喪失)津波による浸水のため、直流を除く全交流電源を喪失した。そして2号機と共用の部屋にある中央制御室は暗闇となった。3号機では直流電源盤やバッテリー等がタービン建屋の中地下階にあったため喪失を免れ、圧力容器や水位など主要パラメータを監視でき、RCICは電源喪失前の15時25分原子炉水位高により自動停止した。

 想像を絶する過酷事故が発生したことが判り、発電所長は法令に基づき全交流電源喪失の報告を官庁等に通報した。

15時41分(2号機全電源喪失)直流電源を含む全電源を喪失、中央制御室は暗闇となり、全計器は読み取り不能。最も重要な原子炉のパラメータである原子炉の水位、圧力共に不明となった。

(2)原子炉の冷却機能・ベント機能喪失

15時42分 (ECCS緊急炉心冷却システム機能不全)1〜4号機の非常用D/Gは、各号機ごとに2台、全部で8台であったが、その後、安全強化のために増設され、2号機の1台(B系)と4号機の1台(B系)は離れたところにある共用プール(建屋・敷地/海抜10m)の1階部分に設置されていた。他の6台はタービン建屋の地下1階に設置されていた。

 共用プールに設置されていた2台は地上階であったため被水したが、水没はせず活き残った。しかもこのD/Gは空冷式であったから、海岸近くにあった全滅した海水ポンプの影響を受けなかったので稼働可能であった。

 しかし、致命的な問題はD/G自体の機能喪失ではなく、配電盤が地下1階に設置されていたためほぼ全てが浸水による故障で、他の6台と同様に機能を失うことになり、1〜4号機の交流電源は全てを喪失したことになった。

 従って、地震と同時に外部電源の鉄塔が倒れ、外部電源は遮断されたわけだが、もしも倒壊せずにあったとしても津波で配電盤が機能喪失であるから、外部電源が無事で原発の開閉所まで送電できても配電盤が遮断されていてはどうにもならない。従って外部電源や交流電源の喪失が全電源の喪失と伝えられているが実は配電盤の喪失が最大の原因であり、もし仮に予備の配電盤を少し高いところに耐震性で設置してあったならばあれほどの過酷事故には陥らなかったと考える。

素人が後で悔やむことなど愚かなことだと思うが、でも矢張り悔やんでしまう。

(3)原子炉水位の低下

16時42分 中央制御室では、原因不明ではあるが広帯域水位計(原子炉水位計)がダウンスケールに気付き、急速な水位低下が報告されこのまま推移すればTAF(原子炉内燃料最上部)到達まで1時間と推定した。

 しかし、混乱した中ではIC(非常用復水器)の機能停止に気付かなかった。

16時50分 ベント本格的準備開始、注水手段を失ったまま圧力容器圧力が上昇を続けていることから、ベント用A/O大弁(空気駆動弁)

17時00分頃 1号機燃料棒露出したらしい、運転員は未だ気付かない。

17時12分 (消防車による注水を検討し始める)

 全電源喪失下で取り得る対策、AM(アクシデントマネージメント)策として準備されるのは代替え注水手段であるがIC以外ではD/DFP(ディーゼルエンジン駆動の消火用ポンプ)とする水系しかない。この場合の水源は「濾過タンク」しかない。しかし濾過タンク2基(8000トン貯蔵)は500m以上も陸側に入った位置にあり、タンクから原子炉建屋に至る配管が地震により損傷している可能性があった。

 そこで消防自動車による注水を検討した。所内には3台の消防自動車が配備されていたが、1台は津波で損傷、もう1台は6号機付近に駐車していたが、地震や津波で通路が分断されており走行不能状態、結局1台だけが使用可能の状態であったが、消防車による代替注水など、AMの策には全く想定しておらず、実施担当者も決まっていなかったので、アイデアだけで翌12日未明まで実施されることはなかった。(12日以降は消防車による注水が主流となった)

17時30分頃 中央制御室の運転員はICの動作が怪しいのに気付き、代替注水に備えD/DFPの起動確認し事態の変化に備えた。

 この頃協力企業から6Vバッテリー4個が届き、更に大型バスから取り外した12V 2個が調達でき、中央制御盤端子に接続、1、2号機の水位の数値を知った。

17時50分(最初の放射線異常量に気付く)

この時点で燃料の一部が冷却水面上に露出している可能性を感じた。

18時18分(IC‘閉’に気付く)

 バッテリー接続により「IC閉」の点灯があり、運転員はフェールセーフが働いてICバルブが‘閉’になったのかも知れないと思ったが、そうではなく誤表示とも考え、2A、3A弁の開操作(遠隔操作)を行い、免震棟の対策本部に2つの弁を開けたことを報告した。 (しかし、交流電源が喪失状態で遠隔操作は不可能であるから錯覚だと考える)

18時25分 ICからの水蒸気発生が少ない状況から、ICの機能に異変が起きたと判断した運転員は復水器の冷却水が減少し、そのため蒸気が発生しなくなっており、「このままICを運転し続けるとIC配管が破損する可能性有り」と判断し、3A弁の閉操作をした。

19時00分頃 1号機で水素発生始まる

19時03分 政府、原子力緊急事態宣言発令

19時45分 官房長官、緊急事態宣言を説明(記者会見)

20時00分 1号機、炉心溶融始まる

20時07分(圧力容器圧力判明)

20時49分(1、2号機仮設照明点灯、状況は不明)

1、2号機中央制御室に仮設照明が点灯した。しかし水位や注水状況は不明、対策本部は事態の悪化に備え住民への避難要請の準備などに入った。

20時50分 福島県知事、半径2km圏内(大熊町、双葉町)住民避難指示

21時15分(状況判断として最悪を覚悟)

 発電所対策本部はRCIC原子炉隔離時冷却系の作動状態が不明なことから、TAF(原子炉内燃料最上部)到達を21時40分、炉心損傷開始22時50分、圧力容器損傷23時50分頃と予想した。2号機は水位のパラメータが全く判らず悲観的な予想をした。

21時19分 (水位計の誤作動の始まり)

 水位を計測「TAF+450mm」を示した。だがこの頃TAFを上回っていたとは思えないので水位計の誤作動が始まっていたと思われる。その後、水位計は誤った数値を表示続けた。(「TAF+450mm」原子炉内燃料最上部から水位が45cmを示すが実際には最上部は露出し始めていたと思われる)

21時23分 政府、3km圏内の避難、3〜10km屋内避難指示

21時30分 (IC再び「‘開’操作」)

 3A弁の「閉」のランプが消えかかっていることに気付き、バッテリーが切れると再起動出来なくなるので再び3A弁を開にした。

21時37分 3km圏内、大熊町(279人)、双葉町(857人)避難開始

21時51分 (線量の上昇が顕著になる)

 線量が上昇したため、原子炉建屋への入室を禁止。

22時00分 (誤った水位情報)

「TFA+550mm」という数値が報告された。水位が低下しているのに反対に上昇を示しているから明らかに誤作動しておりそれも大幅に誤作動を示す。

22時30分 (放射線量の大幅な上昇)

運転員が原子炉建屋の二重扉前でポケット線量計が約10秒間で0.8mSvを示し慌てて引き返す。この数値は時間当たりに換算すると300mSvにもなる高い数値、一般人が一生に被爆しても安全とされる基準値は1/3の100mSvであるから如何に高い数値化が判る。

23時49分 福島県原子力センター、SPEEDIによる予測図をメール受信

23時50分 (ICの異常さにやっと気が付く)

 小型発電機を中央制御室に持ち込み、D/W(ドライウェル)圧力を測定したところ、0.60MPaという極めて高い値を示した。この報告によりICが正常に機能していないのではないか、圧力容器から漏洩した水蒸気によって格納容器の力が異常上昇していると判断し、このD/W上昇の原因は、圧力容器かS/C(圧力抑制室)へ放出された気体のうち、水に凝縮しない水素や希ガスがD/Wに流入したと影響と考えられると判断した。

23時55分 大熊町、半径3km圏内の住民避難完了

 暗闇の中で次々と変わっていく異常な数値、それさえも制御盤の必死に吉田所長以下現場で苦闘した人達こそ国民栄誉賞をあげるべきだ。(福島50)

シビアアクシデントと暗闘している過酷事故

バックアップすべき東電本店や原子力安全・保安院の関係者誰もがICの異常に気付かず適切なアドバイスが出来なかったのは、事故の直接の原因は全電源喪失

あらゆる種類のプラントの電源は動力源としての命綱であり、その為にも各種のバックアップ装置を施してある。従って如何なる突発事故が起きてもカバーできるとしていたが、今回の事故は想像を絶するシビアクシデント(過酷事故)だと東電、国は申し開きしているが、果たしてそうなのか。

(1) 地震・津波により、唯一6号機空冷発電設備1基が生き残り他は非常用電源・外部電源・非常用バッテリー電源の全電源を喪失

(2) 非常用電源は津波によりディーゼル発電機12台が全て冠水、燃料タンク流失、全配電盤冠水

(3) 唯一活きていた6号機空冷非常用電源を5.6号機電源融通により在留熱を除去する冷却系の海水ポンプを起動させ5.6号機の原子炉の低温停止に成功

(4) 外部電源は現場付近で架線鉄塔崩壊と遮断機など変電設備の損傷で「新いわき閉所」から「新福島変電所」を経て供給されていたが、1系統しかなくこれが喪失、ただし、活き残っていたとしても所内の配電盤が冠水してしまったから復旧までは時間がかかったはずだ。(外部電得源復旧には9日間を要した)

(5) バッテリー電源設備はタービン建屋地下に設置されていたため、水没、非常灯電源を失い、中央制御室での原子炉温度、水位、圧力等のパラメータ測定が不可能になった。炉心冷却システムの操作も不可能になった。

東電、国は想像を絶するシビアアクシデント(過酷事故)であったから不可抗力であった、と説明しているが、果たしてそうか。

根源的な事故原因は地震・津波ではなく技術力の軽視と事故後の初動の躓き突発事故に対処する訓練の不十分さが露呈、全電源の喪失が最大の原因

(1)外部電源の供給が1系統だけであった。本来なら複数の多重化・多様化が基本であり、現に第二原発は2系統4回線があり、そのうち1回線が活き残ったため、全電源喪失を免れ、無事冷温停止に成功した。

 1995年の阪神淡路大震災では送電鉄塔設備が破壊され送電網の脆さが指摘され、研究機関により地震による原発の炉心損傷を伴う起きる可能性が指摘され、原因のうち16%が外部電源によると指摘された。

 原子力委員会は耐震指針に関する改訂作業を提案したが、東電側は外部電源が喪失しても1時間30分程度で冷温停止出来ると反論し、盛り込まれることはなかった。

 旧原子力委員会が原発の安全性向上のため、送電線網全体を強化する大規模な改造の必要性を指摘したが、一切無視、何ら対策を執ることはなかった。委員会や研究所からは津波の危険性は指摘されていないが、女川原発では設計されていたモノよりも現場サイドの判断で1段高い場所に非常電源設備を設置していたために、震源地がより近いにも拘わらず津波の被害を免れた。

 第一原発も現場サイドでは津波の危険性を指摘してきたが、東電本店では無視を続けてきた。

技術的な備えが不十分で原発としての安全対策が不十分で突発事故に対する対策耐え得る状態ではなかった。非常用発電設備の設置場所移転・送電網全体強化の見送り、設備の改善・改良がなされず、40年間放置されてきた。

(2) 国が定めた安全指針が全て崩壊した。長期間の全電源喪失は考慮する必要がないなどとは、電源がプラントにとって命綱であることを電力会社でありながら全く理解していなかったと言う致命的な欠陥があった。それは現場技術者にあるのではなく電力会社首脳が私企業並みの利益追求型で占められ、現場を理解する感覚がなかったことにある。

(3) 事故後の初動作、過酷事故に備えての日頃の訓練は「安全神話」に阻まれ十分なされていなかった、初期対応の不十分さが被害をより大きくした。

(4) 炉心溶融メルトダウンについての認識不足と原子炉格納容器の安全性についての過信があった。

安全神話

 シビアアクシデント(過酷事故)に備えて加圧式重水炉ノン建屋の屋上がプールになっていてDOWSING TANKと呼ばれる原子炉冷却水喪失にそなえて貯水槽が設けられており、非常時にはこのタンクから冷却水が流れ落ちる設計になっている。燃料棒が露出されることがないメルトダウンを避ける。

 カナダの原発では格納容器内の圧力を下げる非常用ベント弁が電源の喪失で開かない場合のケースに備え電源に頼らない油圧や空気圧によるバックアップ装置を備えている。またこれらのバックアップ装置に加えて、原子炉建屋内の圧力がある値を超えるとバルブを頼らず、自動的に幕の様な仕切りが内圧で破れフィルターを透して内部のガスを放出する。

 原発を有する国外の専門家は最大の関心を持って衛星写真を解析しており、この時点で絶望的状態に陥っていると分析して、炉心が溶け落ちるメルトダウン(炉心溶融)に至ることを懸念していたようで、各国のメディアも探知して新聞にもその懸念を論じていた。

11日20時50分 福島県知事が原発半径2km圏内の住民避難を指示

21時23分 菅首相、福島県知事を通じて、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町各町長に住民への避難指示を通達。

●其の内容「1号機から半径3km圏以内の住民は避難、半径10`圏内の住民は屋内待避。現地の対策本部長から新たな指示が出された場合は、その指示に従うことを区域内居住者周知されたい」(電話が不通、指示は不徹底、爾後の行動は町長独自の判断によることが多かった)

12日0時6分 格納容器内部の圧力が上限の1.5倍に上昇を確認、ベント開放を指示、準備。

●ただし、ベント実施は、首相、経済産業大臣、原子力安全・保安院に申し入れ、了解を得なければならない、(付近住民の避難完了後が条件)

大熊町の一部住民が避難していない情報があり、避難完了後を確認してからとする。ベント弁開放は放射性物質の放出が懸念されるからだ。

12日00時30分 対象住民の避難措置完了と報告される。

12日 電源が動かないのではなく、完全に流失して存在しないことが海外では監視衛星の映像で掌握しており、その点に触れない政府発表を信用しなくなってきた。

12日05時44分 菅総理から福島県知事に富岡町、大熊町、双葉町、浪江町各町長に対して避難指示

12日08時頃 1号機燃料の大部分が圧力容器の底に溶け落ちる。

12日10時17分 ベント開け作業開始 空気圧縮機の空気不十分で作業難航

●其の内容「半径10km圏内の住民は圏外へ避難」該当住民約5万1000人。この指示により早朝より防災無線が全町民避難を呼びかけ、川内村への避難を指示、避難指示の内容は「東京電力技術者による福島第一原発の原子炉停止に伴う問題発生の報告を受けたので、その予防措置」と伝えられた。

 大地震に続く大津波、余りにも甚大な被害に呆然としていた翌早朝防災無線を通じて突然耳を疑うような内容の放送があった。

 富岡町民1万5600人は町長の決断により町民全員で川内村へ避難することにし、自家用車のある人は家族と共に川内村へ、その他の人は町が用意した10台の公共・民間のバスが曲がりくねった道を川内村へ、そしてまたUターンして何度かの往復、最後のバスが富岡の地を出たのが午後2時頃、但し十数人の町当局者は全員酸素吸入の付いた放射線防護服を身につけ最後の整理をしていた。

 避難した町民は全員川内中学校に集結し、校庭には数百台の車が並んだ。

 其の危機の重大性には、町としても掌握しておらず、まして町民は誰しもが2、3日で戻れるとの認識で貴重品や生活必需品等を家においたまま避難してしまった。全町民が一斉に避難するなど前代未聞の事象に当然ながら一度の訓練も無く、シミュレーションも無かったのに、町長をはじめとする全職員が一丸となって奮闘し避難任務を遂行できたことは見事だった。

 避難対象圏は拡大した3km圏、5km圏、10km圏、15km圏、20km圏、30km圏。

12日05時46分 消火系配管から淡水を備え付けの消防車で注水、9時間で約80トンを注入、14時56分に海水注入に切替える。

12日 地上波テレビ17時のニュースで最初の映像が流れる。

12日15時36分 1号機原子炉建屋水素爆発で現場退避、怪我人の救助、搬送を実施、(東電3人、協力企業2人)ホウ酸水注入ポンプは爆発による飛散物により敷設したケーブルが損傷、高圧電源車は自動停止。準備していた海水注入のためのホースが損傷して使用不能、作業中断。

12日16時 放射線量500μSv/h(マイクロシーベルト)を超えたことで、原子力災害対策特別措置法15条通報

12日18時 首相から県知事を通じて、富岡、大熊、双葉、浪江の各町長に避難指示、其の内容「半径20`は避難」

● 従って新にいわき市の一部(久ノ浜)、広野町、楢葉町、川内村、葛尾村、南相馬市が対象となり、既に10`圏で避難していた町民も更に避難地を換えなければならなかった。

川内村に避難していた富岡町民は三春市を目指して避難し、川内村の村民も同行することになった。該当住民合計は約17万7500人

12日20時 1号機に消火系ラインを通じて海水の注入を開始

13日05時 3号機にECCS注水不能状態で15条通報

13日08時 3号機 燃料露出始まる。

放射線量500μSv/hを越えたため15条通報

13日08時41分 3号機ベント開始、以降複数回実施

13日09時08分 3号機原子炉減圧

13日10時頃 3号機炉心損傷が始まり水素発生

13日09時 3号機にベント開放処置中の空気を放出

13日13時 3号機に対して海水注入開始(防火水槽の淡水は枯渇)

13日13時13分 3号機で爆発、建屋が吹き飛ぶ、現場避難

爆発により消防車及びホース破損、使用不可能になる。

14日 応援の消防車が付近まで到着したが、悪路と瓦礫で現場付近に近づけない。

14日13時18分 原子炉水位の低下傾向を確認、格納容器ベントの後に海水注入を決定

14日16時頃 圧力抑制室に蒸気を逃す「逃がし安全弁」による原子炉の減圧を優先。

14日18時頃 原子炉の減圧を開始

14日18時22分 2号機の原子炉水位がマイナス3700mmに達して燃料棒が全露出

14日20時22分 炉心が溶融する可能性

14日22時22分 原子炉格納容器損傷の可能性

14日夜 この頃、非公式だが東電本社から官邸へ「福島第一原発から社員を撤退させたい」との意向があると伝わり、総理は「東電は電力会社としての役割を放棄するのか、社長を呼べ」と声をあらげた。

15日05時30分 首相自から東電・内幸町本社に乗り込み、会議室に居並ぶ東電幹部を前に「撤退などありえない、覚悟を決めて下さい。撤退を決めたら東電は100%潰れます」政府と東電を統合した事故対策本部を東電本社に設置することを決めた。

●その頃2号機では白煙が発生し、圧力抑制室に損傷の疑いが出始めた。

 この頃になると、事故発生時現場で働いていた地元下請会社の作業員が避難者に加わり、非常電源装置が全て流失してしまっていることを目撃していたため、この情報が瞬く間に避難民の間で広がり不安が増幅していった。

15日06時 4号機爆発音がして壁に穴が空く

3号機から発煙

2号機圧力抑制プール付近で爆発音して内圧低下。

15日07時 4号機建屋が変形・破壊される。

15日08時30分 2号建屋から白煙

15日09時30分 4号機で火災確認、消防隊に通報

15日10時 4号機の火災について、経産省より米軍に応援要請

15日 原発敷地内の正門〜西門前に設置された放射能測定装置、急上昇

12,000μSV/h、アメリカの衛星が撮影した福島第一原発の惨状が公表される。

軍事衛星の画像偵察衛星が撮影したと思われますが、合成開口レーダを搭載しており映像は3次元に解析でき、精度は1m以下の物体の解析ができるが、しかし、軍事機密事項だから公表するのはこの程度まで。

15日11時 菅首相が「20〜30km圏内の住民は屋内避難」を指示

空は半径30kmの上空は飛行禁止、屋内避難とは、避難する行き先がない、避難の手段がない、弱者だけが取り残される結果となる。

15日 防衛省、北沢防衛大臣と陸自幹部、東電幹部の会談が行われ、ヘリによる放水作戦の是非が話し合われた。

 燃料プールが空の所へ水をかけたら水蒸気爆発がおきないか、しかし早急に水を入れないと溶解を起こすことは必定、決行を決める。

16日 富岡町民川内村へ避難したが午前中、川内村から郡山市へ移動。ビックパレットへ、他分散し三春へ、一部埼玉県へ向かう。

16日16時 水嚢をぶら下げたヘリ2機が原発上空に達したが、予想以上の強い放射線に阻まれ、その日は断念し撤退。

17日08時 作戦を練り直し、3号機上空の対空時間は40分内と決め2機のヘリが09時48分開始。計約30トンを投下した。

17日19時 警視庁第一機動隊、デモ鎮圧用の高圧放水、車が地上放水の先陣をきって、3号機に約10分間で44トンを放水。陸上自衛隊の消防車5台参加

18日 東京消防庁消防救助部隊(ハイパーレスキュー)が、3号機への放水計13時間30分にわたり2400トン以上の海水をかけた。

その後、航空自衛隊航空基地配属の大型消防車、横浜消防局、川崎消防局等の応援が続いた。

●福島県産の原乳、野菜、茨城県産の野菜等食品衛生法上の暫定基準を超える

放射能濃度が検出されたと発表、出荷停止

水道水から、乳児の基準値を超える放射性ヨウ素を検出

24日 3号機の建屋内で、作業員が高濃度の汚染水により足に被爆、1、2号機建屋でも高濃度の汚染水が見付かる。作業員は3日後退院

29日 東電 清水社長入院

30日 東電 勝俣会長「1〜4号機は廃止せざるを得ない」と発表

4月

2日 2号機の取水口付近の亀裂から放射能汚染水が海に流れ出ているのを確認

4日 原発内に貯蔵してある低濃度放射の汚染水を海に放出、高濃度の放射能汚染水の保管場所とする。

7日 水素爆発を防ぐため原子炉格納容器へ窒素ガスを注入

11日 東電清水社長、福島県事故対策本部を訪問、県知事面会拒否

11日 あの大震災から1ヶ月目の11日午後5時16分地震発生

●浜通りを震源とするM7.0と推定される地震発生、いわき市で震度6弱、いわき市田人で家屋3棟が崩壊、土砂崩れで16才の少女含む3人が死亡

地震の影響で福島第一原発1、2号機の外部電源が途絶え、1〜3機の仮設ポンプが停止、原子炉への注水作業が中断したと発表、まもなく電源が回復し「50分原発注水中断」安全性には問題ないと発表。

東日本大震災から余震が連続し、この1ヶ月間で震度6弱以上を観測したのが3回目、震度5強以上が6回発生している。この日も午後5時17分にM6.0、26分M5.6が連続して発生、午後8時42分には茨城県北部を震源とする最大で震度5弱があり、浜通りや茨城県北部を震源とする震度4〜1の地震は20回以上発生している。

 自衛隊出動

 自衛隊法をみてみます。先の阪神・淡路大震災時には、災害救助に自衛隊派遣が大幅に遅れてしまい、大きな非難が巻き起こりました。これは当時災害派遣要請がない限り出動出来ない規定に成っており、地方自治体からは出動要請なし、村山内閣、当時は危機管理室がなく、バラバラに入ってくる情報に混乱し、全く対策を執らず他の案件を審議していたという大失態を演じ、徹底的に批判されたのを契機として自衛隊法が改正され災害派遣が大幅に出動し易くなりました。

 災害派遣:地震、水害等の大規模な天変地異や、大量の死傷者の発生を伴う規模の事故等の各種災害に対して救助や予防活動などの対応に対し限界を超えた場合、陸海空の自衛隊部隊を派遣し、その組織を以て救援活動を行う、のが災害派遣です。

○近傍派遣(自衛隊法第83条3項)

部隊や自衛隊施設の近傍で災害が発生した場合、部隊の長が部隊を派遣してすることは、都道府県知事の出動要請の必要はなく、部隊の長の命令だけでよい。

○地震・災害派遣(自衛隊法第83条の2)

地震に関する警戒宣言が出され際に地震災害警戒本部長から要請された場合に出動する。この条文での出動の実績は未だない。

今回の原発事故に出動したのは北沢防衛大臣、陸自幹部、東電幹部との協議によるヘリコプター部隊の出動、消防車の出動となった。

○原子力災害派遣(自衛隊法第83条の3)

原子力緊急事態宣言が出された際、原子力災害対策本長の要請により部隊が派遣される。

 東海JCO臨界事故を受けて1999年(平成11年)に制定さえた原子力災害対策特別措置法に関連して追加された。福島第一原発では原子力災害対策特別措置法に基づき派遣された。派遣部隊は「陸上自衛隊中央特殊武器防護隊」。2008年創設、埼玉県大宮駐屯地内にある部隊で、約200名の隊員で構成される特殊部隊です。

 特殊とあるのは扱う武器が特殊だと言う意味で、「特殊武器」とは、核兵器、生物兵器、化学兵器等を指し、その兵器で攻撃された際には、汚染された地域があれば「防護」、つまり汚染除去に活躍する部隊です。原発事故では初めて80名の隊員が出動して、最も危険な個所に入って活躍していますが、その報道はなし、マスコミは無視したようです。

 自衛隊法上のその任務においては、首相や防衛大臣などの指示命令が必要とされ、行動が厳しく制限されております。

 災害派遣だけは例外として、災害派遣の要請は都道府県の知事の他、海上保安庁長官、管区海上保安本部長、空港事務所長、現地警察署長が要請できます。

 また、有線通信が途絶え、現地が混乱していて関係機関に連絡できない場合は、直接自衛隊に派遣要請、若しくは自衛隊が独自に判断して出動するのが自主派遣で、後に都道府県知事の要請を受ければ良いとされた。

 自主派遣は、駐屯地司令である二佐(旧軍中佐相当)以上の自衛官の判断で、出動を命ずることが出来るようになった。

今回の東日本大震災では、東北各地に駐屯している自衛隊では、各駐屯地とも、地震発生15分後には出動準備下令、30分後には出動している。

 陸自ヘリによる冷却水投下作戦

 目的は3号建屋にある「使用済み核燃料一時貯蔵プール」への冷却水循環が停止し、崩壊熱で水が蒸発してしまった、その冷却水補給としての放水投下、地上からの放水作戦で、続いて他の建屋にも放水した。

 出動命令を受けた、陸上自衛隊・第一ヘリコプター団(千葉県木更津基地)ヘリ2機が参加予定されたが、その前に偵察として、16日午後、事故現場上空の放射線の測定を実施したが、放水投下予定の90m上空が877mSv/hの高濃度で、乗務員の被曝が懸念され、その日は中止。

 翌17日、ホバリングしてから狙いを定め投下の予定が、モリタリングの結果、飛行を続けながら投下し、直ぐ避難する飛行ルートを設定した。

 現場上空の滞空時間は計40分が限度、2機が交互に計4回放水投下として午前9時48分、3号機のプールに向かって放水投下、計4回投下して午前10時終了。

「蝉の小便」作戦と外国メディアは嘲笑的に報じたが、せっぱ詰まった状況下で他に方法がなく、高濃度の放射線量に汚染されている上空へ飛び込んでいかなければ放水投下できない苦渋の決断であり、それによってやっと小康を得たのだから、外国のメディアが報じると、それに便乗して早速、国内でも報じた、無責任な野次馬は何処にでも居るのだ。(蝉の小便、とは、欧米では何の役にもたたない、という意味があるらしい。)

 消防車による放水

 続いて、陸上から警視庁機動隊、デモ鎮圧用の高圧放水車、自衛隊の消防車が放水を開始した。しかし高圧放水車はデモ用なので、上方へ向けての放水には適さなかった。

 18日 三自衛隊 消防車計6台、計40トン放水、米軍消防車貸与操縦は関電工職員2トン放水した。

 3号機の「使用済み核燃料一時貯蔵プール」は建屋のなかにあり、原子炉とは別にある施設で建屋の上部にある。

 燃料棒は原子炉の中で核反応分裂により熱エネルギーを放出し続け、約3年で使用済みとなり、新しい燃料棒と交換する。そうして取り出した燃料棒が「使用済み核燃料」だが、崩壊熱を出しつ続けているから、これを冷却しなければならず、「使用済み核燃料一時貯蔵プール」に入れて冷却水を循環させ崩壊熱を冷却しなければならず、これが長期間で約3年かかる。

 その間冷却水の循環が必要で、今回の事故のように冷却水の循環が停止すれば、崩壊熱によりプールの水は蒸発してしまい、燃料棒は露出し、最悪メルトダウンの可能性があり、必至になって外部放水を継続した。

 使用済み核燃料の詳細

 東電発表によると、3号機 514本。 4号機 1,331本。 5号機 946本。 6号機 876本。 共用プール 6,375本と発表した。

放水は電源が回復し冷却水循環システムの再稼働まで続けた。

3月19日 この日から外部消防隊が揃い本格的な放水作戦が開始

 東京消防庁ハイパーレスキュー隊(消防救助機動部隊)139名、屈折放水塔車、特殊災害対策車、大型化学車、ハシゴ車、作業車等計30台参加、屈折放水塔車へ2台で水を補給する中継車を連結で連続毎分3.8トン放水可

 放水作業は、使用済み核燃料一時貯蔵プールへの冷却水循環システムが再稼働するまで継続し、融解を防ぐことに成功しました。

3月19日 午前0時半、東京消防庁ハイパーレスキュー隊3号機への放水開始、20分の放水で中止。3号機周辺1時間当り3,181マイクロシーベルト観測(単位に注意、マイクロ、μSv/h) 午前4時22分、5号機の核燃料保管プールの冷却水循環機能が復活

午後2時5分、ハイパーレスキュー隊3号へ放水再開、連続7時間予定。20日午前3時40分まで13時間放水し続けた

午後7時、1、2号機への配電盤兼変圧器と外部からの送電線と接続作業完了

午後10時、6号機の核燃料保管プールの冷却機能回復

午後11時、3号機付近、1時間当たり2828マイクロシーベルト(μSv/h)

3月20日 午前8時20分、陸海空自衛隊消防車11台による4号機への放水開始

午後4時 送電線が外部と繋がった2号機の電力設備で通電を確認

午後6時半、自衛隊消防車地上から4号機へ放水開始、連続6時間予定

午後9時半、緊急消防援助隊(東京消防庁)3号機へ連続6時間放水予定

21日午前4時3号機への放水終了

3月21日 午前6時40分、自衛隊による地上から4号機へ放水開始

午前8時40分、4号機への放水終了

午前11時半、5号機の配電盤まで受電、6号機にも電気が流せる状態になる

午後6時20分頃、2号原子炉建屋から白煙上がる。

3月22日 午前8時、電源復旧作業開始

午後3時10分、緊急消防援助隊3号機へ放水開始、午後4時終了

午後5時17分、東電は生コン圧送機(中国から輸入)を使い4号機保管プールへ放水

午後10時43分、3号機の中央制御室に外部電源が供給され、照明点灯

3月23日 午前10時、東電生コン圧送機で4号機の保管プールへ放水

午後4時20分頃、3号機から黒煙が上がり、3、4号作業員退避

3月19日〜22日   東京消防庁     参加人員 139名

3月19日〜22日   大阪市消防局      〃  53

3月22日〜24日   横浜市消防局      〃  67

3月24日〜26日   川崎市消防局      〃  36

3月26日〜28日   名古屋消防局      〃  34

3月29日〜30日   京都市消防局      〃  40

3月17日〜4月まで陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊の消防車

放水作戦終了

 使用済み核燃料一時貯蔵プールへの冷却水循環システムが回復して、正常に冷却が出来るようになった。(3月20日外部電源と繋がったが、その後内部電路修復が必要だった)

 今回の東日本大震災では、東北各地に駐屯している自衛隊では、各駐屯地とも、地震発生15分後には出動準備下令、30分後には出動している。

●原発を有する国外の専門家は最大の関心を持って衛星写真を解析しており、この時点で絶望的状態に陥っていると分析して、炉心が溶け落ちるメルトダウン(炉心溶融)に至ることを懸念していたようで、各国のメディアも探知して新聞にもその懸念を論じていた。

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第二章 大熊町全町民避難

 あの日いったい何がおきたのだろうか、避難しろとの突然の下命に、直ぐに還れる、一時的な避難と思い込み、着の身着のまま避難してからもう4年になる。

 福島第一原発事故は、想定を超す大地震と大津波に襲われ、システムを作動させる主、補助全ての電源を失ってしまい、非常用炉心冷却システムを動かすポンプまでが作動せず、部分的に炉心溶融が起きてしまって、レベル7の大事故になってしまった。

 あの日から3度目の3月11日を迎えるが、還れる日の見通しは全くなく、それどころか中間貯蔵施設に変貌してしまった。

 大地震、大津波、第一原発事故 2011年(平成23年)3月11日、14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源とする地震規模マグニチュード9.0、日本周辺地震としては観測史上最大規模の地震が発生した。

 推定、北緯38.1度、東経142.9度、深さ24km、Mw9.0。震源は岩手県沖から茨城県沖までの約500km、幅東西約200km、おおよそ10万平方kmという広範囲に及んだ。

 双葉郡内の震度6強、家屋の全壊、半壊が一部あった。

福島第一原発 地震、津波被害、事故発生

◎東京電力福島第一原子力発電所(大熊町・双葉町)

(1)運転状況

1号機(46万kW)(自動停止)

2号機(78万4千kW)(自動停止)

3号機(78万4千kW)(自動停止)

4号機(78万4千kW)(定検により停止中)

5号機(78万4千kW)(定検により停止中)

6号機(110万kW)(定検により停止中)

 第一原発は外部電源喪失、その為、非常用電源DGが自動的に稼働、非常用電源であるディーゼルエンジンは出力約8100KVA(2〜4号機)あり、これは50,000トンクラスの貨物船が搭載している補機(発電機)に匹敵する優秀な非常用発電機である。

1号機〜5号機全電源喪失、(6号機空冷非常用発電機のみが生き残る)

外部電源は高圧線鉄塔が崩壊、地震発生と同時に喪失

14時46分:1号機原子炉自動停止

14時47分:2〜3号機原子炉自動停止

14時49分:気象庁、大津波警報発令

15時27分:大津波第一波到達

15時35分:大津波第二波到達

15時37分:1号機全電源喪失

15時38分:3号機全電源喪失

15時41分:2号機全電源喪失

 大津波は第二波、波高11.5mから15.5mで、想定では最高6.1mで千年に一度程度と想定し、非常用ディーゼル発電機と燃料タンクは海抜僅か4mの地点に設置してあり、当然ながら一瞬にして波に呑まれ、非常用ディーゼル発電機12台全てが冠水、燃料タンクは流出、バッテリー電源設備はタービン建屋地下にあった為、水没により一瞬にして電源を喪失した。

 このため非常灯電源を失い、中央制御室での原子炉温度、圧力、水位などの最重要パラメータの把握が不可能になり、また緊急炉心冷却システムの操作が不能になってしまった。タービン建屋の搬入口は常時閉まっていたが、津波来襲時には開いていたらしい。(地震の震動で開いたのか、脱出時に後続のため開けておいたのか)唯一生き残った6号機の原子炉空冷非常用電源を活用して5号機との電源融通で残留熱を除去する冷却系の海水ポンプが起動して5号機.6号機の原子炉低温停止に成功した。

 第一原発の中央制御室では照明、計器の表示は消え、運転員は懐中電灯で照らしながら自動車のバッテリーを外して計器に繋ぎデータを読みとろうと必死だった。

 原発に常駐していた保安院職員は、離れた場所にある「オフサイトセンター」へ向かって走り、原子力災害時にはそこが現地対策本部になると指定されていた。

 そこには原発の状況が常時監視できるモニタ−が設置されているが、停電と通信回線が途絶えているため、肝心のデータが見られなくなっていた。

◎福島第一原発事故の原因は第一に全電源喪失。

(1)事故の直接原因は、長期9日間に渡る電源喪失による

11日15時37分〜 20日15時46分

3月11日14時46分 震度6強の地震発生(現地の震度)

 1〜3号機は通常運転中、4〜6号機は定期点検中

 地震発生直後直ちにスクラムが自動的に行われ1〜3号機は自動停止した。

 この操作は原子炉内に自動的に制御棒が挿入され緊急停止する。

 そうすると原子力発電所内の電源は所内発電を電源としているから、緊急停止すると所内電源から外部電源に切り替わる。

 ところが地震発生と同時に外部電源である高圧線鉄塔が崩壊したため外部電源は遮断してしまった。

 これにより非常用ディーゼル発電機(D/G)起動、スクラム後の起動は順調に進行した。

15時27分

大津波第一波が到来したが、その波高は低く(約4m)多少の被害はあったが、全電源喪失までには至らなかった。

15時35分

大津波第二波襲来、1〜4機敷地内の津波浸水の波高は11.5〜15m。場所によっては17mを超えた部分もあった。

海岸に近い標高4mに設置されていた非常用冷却系及び非常用ディーゼル発電機用の冷却海水系ポンプ、燃料タンク全てが津波に呑まれ全損してしまった。

原子炉建屋、タービン建屋のある主要部分は標高10mだったので、それらの施設は最大波高7mの津波が襲ったことになり、扉や空気取り入れ口を破って勢いよく建屋内に流れ込んだ。津波警報で作業員が避難する際に普段は放射能漏れを防ぐため片方だけを開ける二重扉を全開にしたまま避難したらしい。

 タービン建屋の地下1階に設置されていたのは非常用発電機、非常用交流配電盤等の電源系。

 コントロール建屋の地下1階には直流電源系(1、2、4号機)

原子炉建屋地下1階にはRCIC(原子炉隔離時冷却器)やHPCI(高圧注水系)等多くの非常用冷却ポンプ等が設置されていた。

 地下室での冠水であり、排水ポンプも動力源喪失で作動せず、全電源が喪失、過酷事故(シビアアクシデント)の始まりであった。

 免震棟にある電源対策本部では外の様子がわかる窓がなく、監視カメラも作動停止状態なので津波の襲来による全電源喪失の状態がしばらくの間、把握できなかったらしい。

15時37分〜42分(全交流電源喪失)

その時原発の各号機をコントロールする3つの中央制御室があり、1、2号機、3、4号機、5、6号機を制御していた。6号機を除いて電源ランプが明滅し始め、やがて消え、警報音も聞こえなくなり、非常用電源も止まった。

6号機の空冷式ディーゼル(D/G)発電機を除き、全交流電源を喪失、直流電源では1、2号機で喪失、3号機では直流電源設備が中地下階にあったため、被水はしたが機能を失うほどの浸水はなかったので、その後しばらくの間、RCICやHPCIが作動したが充電ができなのでやがてダウンした。

15時37分頃

1号機IC(非常用復水器)隔離弁、フェールセーフで‘閉’に、1号機では直流を含む全電源を喪失、中央制御室は真っ暗になり、直流電源の喪失により、各計器も全て表示しなくなったため、最重要なパラメータである原子炉の水位、圧力も不明となった。

ICは、それまで運転員によってOn/Offを繰り返しながら順調に機能していたが、全電源喪失と同時にフェールセーフ機能が働き、4つあるバルブ全てに‘閉’の信号が送られ閉じてしまった。

このためICは冷やされる原子炉の高温蒸気が復水器に循環しなくなり、冷却機能を失ってしまった。

2〜3号機以降のRCIC(原子炉隔離時冷却器)では、隔離弁は直流電源喪失でもそのままの状態を保てる様に設計されていた。

15時38分(3号機全交流電源喪失)

津波による浸水のため、直流を除く全交流電源を喪失した。そして2号機と共用の部屋にある中央制御室は暗闇となった。3号機では直流電源盤やバッテリー等がタービン建屋の中地下階にあったため喪失を免れ、圧力容器や水位など主要パラメータを監視でき、RCICは電源喪失前の15時25分原子炉水位高により自動停止した。

想像を絶する過酷事故が発生したことが判り、発電所長は法令に基づき全交流電源喪失の報告を官庁等に通報した。

15時41分(2号機全電源喪失)

直流電源を含む全電源を喪失、中央制御室は暗闇となり、全計器は読み取り不能。最も重要な原子炉のパラメータである原子炉の水位、圧力共に不明となった。

(2)原子炉の冷却機能・ベント機能喪失

15時42分(ECCS緊急炉心冷却システム機能不全)

 1〜4号機の非常用D/Gは、各号機ごとに2台、全部で8台であったが、その後安全強化のために増設され、2号機の1台(B系)と4号機の1台(B系)は離れたところにある共用プール(建屋・敷地/海抜10m)の1階部分に設置されていた。他の6台はタービン建屋の地下1階に設置されていた。

 共用プールに設置されていた2台は地上階であったため被水したが、水没はせず活き残った。しかもこのD/Gは空冷式であったから、海岸近くにあって全滅した海水ポンプの影響を受けなかったので稼働可能であった。

 しかし、致命的な問題はD/G自体の機能喪失ではなく、配電盤が地下1階に設置されていたためほぼ全てが浸水による故障で、他の6台と同様に機能を失うことになり、1〜4号機の交流電源は全てを喪失したことになった。

 従って、地震と同時に外部電源の鉄塔が倒れ、外部電源は遮断されたわけだが、もしも倒壊せずにあったとしても津波で配電盤が機能喪失であるから、外部電源が無事で原発の開閉所まで送電できても配電盤が遮断されていてはどうにもならない。従って外部電源や交流電源の喪失が全電源の喪失と伝えられているが実は配電盤の喪失が最大の原因であり、もし仮に予備の配電盤を少し高いところに耐震性で設置してあったならばあれほどの過酷事故には陥らなかったと考える。

 素人が後で悔やむことなど愚かなことだと思うが、でも矢張り悔やんでしまう。

15時14分 政府・緊急災害対策本部設置

 東京・内幸町にある東電本社では、清水社長は関西へ、勝俣会長は中国へ出張中で不在、「電源が無ければ原子炉は冷やせない」判っていても幹部役員はどうすることも出来ない。

 官邸への報告は11日15時「1〜5号機が全交流電源喪失」「1〜2機注水不能」続いて東電より「原子炉の冷却ができなくとも、8時間までは問題がない」と報告、これは非常用バッテリーの使用可能時間、その間に冷却機能が復旧できると判断したらしい。

 しかし、8時間を過ぎた翌06時になっても官邸には連絡無し、官邸から東電へ連絡すると要領を得ない返答しかないことに怒った総理は、自ら陸上自衛隊のヘリを用意させ07時すぎには、福島第一原発へ到着している。

 非常災害対策本部のある免震重要棟の会議室で怒り爆発し、第一原発の吉田昌郎所長に官邸へ直接連絡するようにと、東電本社とは距離を置いた。

 福島県は知事を中心として災害対策本部を設置、「国や東電からの連絡を待っていられない」と、11日20時50分には原発から半径2km(双葉町・大熊町)の住民に避難を呼びかけた。

第一原発の所在地大熊町の避難・脱出

 福島第一原発(1F)と第二原発(2F)の周辺に設定されたていた重点地域(EPZ)として6町(大熊・双葉・浪江・富岡・楢葉)が指定されていた。

 第一原発の所在地大熊町、2011年3月11日〜12日、情報伝達と避難の状況に関して福島第一原発事故を巡っては原発周辺の自治体に対する国や東電及び県からの情報伝達不足が問題となった。

 また今回の原発事故は、複合災害として発生したもので、大地震、大津波が立て続けに発生し、その対応に忙殺されていたために原発の状況が良く伝わらなかったらしい。但し、大熊町、双葉町役場には第一原発の広報課員が直接派遣され、状況説明を伝達したらしいが、どの程度の状況説明だったかは不明。

 更に大熊町には第一原発から約5kmの地点、JR大野駅近く、県立病院に隣接したところに通産省・原子力安全・保安院の福島県原子力災害対策センター・オフサイトセンター(OFC)があり、このセンターには大熊町役場吏員が常駐し、かつ大熊役場にも近いので、国や県の情報はいち早く入手することができた。

 このオフサイトセンターとは、原子力災害発生時にここを拠点として国、自治体、原子力事業者による事故拡大防止のための応急対策、住民の安全確保策などさまざまな緊急対策が必要となるため、2004年4月、原子力災害対策特別措置法において全国19カ所に設置された。

 オフサイトセンターを拠点に、国、自治体(県、地元6自治体)、事業者、専門家等が一体となって「原子力災害合同対策会議」を設置し、迅速に有効な手を打つことになっていた。

 ところが大地震によりオフサイトセンターの一部に損傷が発生、停電、電話は繋り難い状況に陥っていたが、県や保安院職員、自治体代表等100人以上が集まり、現地対策本部長に任命されていた池田元久経産副大臣は、東京から現地に向かったが大渋滞に巻き込まれたため、自衛隊ヘリで田村市に飛び、車で大熊町オフサイトセンターに着いた。

 停電は12日午前3時に復旧、ところが室内は1時間あたり10マイクロシーベルト、建物の外は800マイクロシーベルト、外に2時間いるだけで、一般の人の年間許容量1ミリシーベルトを超える猛烈な線量に達していた。

 更に建物はコンクリート製である程度放射線量を遮蔽できたが、放射性物質の侵入を防ぐ高性能フィルターがエアコンに装着されていなかったため、空気の入れ換に伴って放射性物質も入り込み、室内の総量は上昇するばかりであった。

 外部との連絡は12日昼以降、衛星携帯電話が2回線とファクス兼用のテレビ会議システムが使えるようになったが、回線がパンク状態で通信手段の貧弱さは致命的であった。

 食料の備蓄はなし、ガソリンも補給できず、放射線モニタリングカーの走行も出来ず、設備、運営の全て関して保安院の想定が甘すぎたため、14日夜、現地対策本部であるオフサイトセンターから福島県庁へ移ることを決め、15日午前11時センターは閉鎖された。

 事故対策本部になるはずの設備が、事故が起きなければその欠陥が判らないという設備を長い間気付かずにいた不思議さ、アメリカのNRCと比較すると保安院の余りにも杜撰な取り組み方に唖然とする。

 大熊町役場にはどの程度の情報が入手出来たかは不明だが、1Fから東電職員が情報伝達のため派遣され、かつオフサイトセンターにいる役場吏員からも情報を入手出来たし、ファクス回線が恢復してからは国からオフサイトセンターに届いたファクス情報をいち早く知ることが出来たから、他の市町村よりは多くの情報を得ていたようだ。

 電話は非常に繋がりにくい状態ではあったが、ファクスは一時停止していたが、11日19時頃から動き出し、1Fから直接の連絡が出来たし、富岡警察署からも情報があった。

 更に11日夕には国交省からの避難用バス派遣に関わる連絡は入っているから本省も11日夕には原発が危険状態にあることを把握していたことになる。

 EPZの6町では一番情報が得易く、東電からの10条通報が11日の16時30分には役場企画調整課に入っている。

 大熊町役場が比較的順調に業務を遂行できた最大のことは、全町停電であったが役場内には非常電源用にジィーゼル発電機が設備されており、電気が使えたのが大いに役立っている。

 電話も10回線が入っていたが、2回線が活用出来たし、ファクスも19時7分には使えるようになり1Fから連絡が入った。原発1F、2Fとは何か起きた場合はファクスで連絡し合う取り決めになっていたが、1Fからの連絡は企画調整課に入ることになっており、12日午前3時にはベントに関する情報が入ってきた。

 以後は1F緊急対策室と大熊役場企画部調整課の間で緊密な連絡が執れた。携帯電話は各社全て不通、衛星電話も設置されていたが、電源が入っても使用できなかったらしい。また大熊町役場内では町全体の防災に関する業務は生活環境課が担当し、1Fとの間にはホットラインが設置されていたが、残念ながら繋がらない状態にあった。このため1Fの職員が直接やって来て必要事項を伝達した。

 県との防災行政無線は、不足の場合に備えて、地上系と衛星系のルートが二重に設置されていた。大熊町役場では防災担当課である生活環境課に機器が設置されていたが、回線のサーバーが地震で壊れ使用不能、衛星系は何故か使用不能で、インターネットも使えなかった。

 県との緊急連絡網は、福島県庁の原子力安全対策課とOFC、EPZ6町を結ぶシステムで、電話、FAX、テレビ会議が行える設備が完備していたが、肝心な時には全く使用不能状態になっていた。

 幸いであったことは非常用電源が確保されていたためにテレビによる情報が最低限入手可能であった。しかしこれではハイテクの近代国家だとは言い難い脆さ弱さを露呈してしまった。

 さらにテレビ情報といっても大地震、大津波の情報が主題であり、原発事故のニュースは限られたものでしかなかった。これは故意にした訳ではなく、原発事故の発生地が辺地であり、道路が寸断され、鉄路は不通、上空の飛行は禁止、従って取材に駆け付けることも出来ず、その後は立ち入り禁止となり、東電、国の発表も少なく、報道しようにも肝心のニュースが少なすぎた。

 11日夜遅くNHKの取材記者2人が大熊町役場を訪れ、当時の生活環境課長が大熊町の窮状を訴える映像が流れた。

 この大熊町には企画調整課と生活環境課があり、生活環境課が町全体の防災や避難等に関する中核的な部局になる。ところが1Fや保安院等との連絡は企画調査課であって、1Fとのホットラインも企画調整課にあり、1Fとの電話連絡、FAXも全て企画調整課経由となっていた。

 もし原発災害が発生した場合、企画調整課が1Fからの情報を確りと把握し、その情報を防災の中心である生活環境課に適切に伝達すれば、原子力災害を上手く対応できると考えられていた。

 さらにOFCと連絡を密にし、かつEPZの6町とも連絡を密にして対処すれば全てが上手く行くはずであった。

 しかし、肝心のOFCは全く機能せず、EPZとの連絡もその手段がなく、主な情報は1Fの職員が派遣されて口頭での伝達がやっとでは、情報量は極端に少なかったし、企画部調整課と生活環境課との連絡も情報がなければどうしようもない。

 更には1Fから派遣されてきた職員はその情報を企画調整課に伝達したが、当然情報は生活環境課との共有で、両課において適切に理解しなければならなかったが、肝心の原子力そのものの専門知識のない吏員がどの程度理解していたのか、対策本部や役場全体に情報を伝達すべきが、満足には伝わらなかったらしい。

 大地震、大津波、原発事故と複合災害のシミュレーションはなく、ぶっつけ本番では適切な行動を執れといっても無理なことだ。

 それぞれの職務が多忙で、災害対策本部会議にも出席できない職員も続出した。

 そのような中でも企画調整課と生活環境課は情報の共有に互いに声を掛け合い少しでも情報を得ようと必死だった。

 しかし、1Fの派遣職員からの情報が唯一となれば、1F内で進行中の危機的状況の情報までは把握できなかった。

 原子炉水位計のダウンスケールが急速に進んでおり、中央制御室では、原因不明ではあるが広帯域水位計(原子炉水位計)がダウンスケールに気付き、急速な水位低下が報告されこのまま推移すればTAF(原子炉内燃料最上部)到達まで1時間と推定した。

19時00分頃 1号機で水素発生始まる。

19時03分 政府、原子力緊急事態宣言発令

19時45分 官房長官、緊急事態宣言を説明(記者会見)

20時00分 1号機、炉心溶融始まる。

20時49分(1、2号機仮設照明点灯、状況は不明)

1、2号機中央制御室に仮設照明が点灯した。しかし水位や注水状況は不明、対策本部は事態の悪化に備え住民への避難要請の準備などに入った。

20時50分 福島県知事、半径2km圏内(大熊町、双葉町)住民避難指示

21時15分(状況判断として最悪を覚悟)

 発電所対策本部はRCIC原子炉隔離時冷却系の作動状態が不明なことから、TAF(原子炉内燃料最上部)到達を21時40分、炉心損傷開始22時50分、圧力容器損傷23時50分頃と予想した。2号機は水位のパラメータが全く判らず悲観的な予想をした。

21時23分 政府、3km圏内の避難、3〜10km屋内避難指示

21時37分 3km圏内、大熊町(279人)、双葉町(857人)避難開始

23時49分 福島県原子力センター、SPEEDIによる予測図をメール受信

23時55分 大熊町、半径3km圏内の住民避難完了

3月12日 00時06分 1号機について、発電所長ベントの準備指示

00時08分 大熊町、双葉町安定ヨウ素剤準備完了

00時30分 東電、半径3km圏内の住民避難要請

01時12分 SPEEDIによる2回目の予測図を作成(保安院)

01時49分 1号機格納容器圧力設計圧超過

03時30分 菅首相ベント実施了解

05時14分 発電所内の線量上昇で放射線物質漏出判断、国に報告

05時32分 内閣総理大臣の指令により福島第一原発から半径10km圏内の住民に対し避難指示(対象4町4万8272人)総理大臣、福島県知事、第一原発の径10km圏内避難指示は大熊町の大半が該当するので全町民避難指示となった。

福島第二原発から半径3kmの住民に対する避難指示

福島第二原発から半径10km圏内住民屋内待避指示

 11日20時50分、福島県独自に出した1F(第一原発)2km範囲内避難指示、21時23分、国が出した1F3km範囲内の避難、3〜10km屋内避難指示。

 大熊町は県や国の避難指示3km以内避難指示、3〜10km以内屋内避難の指示は大熊町の大半が該当するにも拘わらず、事故の深刻さを認識できず直接的な行動はなく、12日午前5時32分に国が出した10km以内居住者に対する避難指示によって、初めて役場を含めた全町が避難することを決めたが、今度は町民に対する避難伝達が困難で、防災行政無線は地震で崩壊したものが多く、消防団、広報車で各地を巡っての人の力が最大限に活用された。

 更に困ったのは避難するために国が用意した他県のバス70台(茨城ナンバー)が地理不案内で、しかも道路が寸断され、地図も役に立たない、携帯電話が不通で誘導も出来ない、そこで職員が道路に飛び出しバスを探し回り、住民を何とかバスに乗せるまでは出来たが、渡辺利綱町長の指揮で町民1万1千余人が避難するという大難事になり、しかも避難すべき場所も引き受けてくれる自治体もない状況で、ともかく危険は迫っており一刻も早くこの地を離れ、少しでも遠くへ避難しなければならない。考えられる唯一の道は都路街道を走り、山間部に入れば放射線は防げる安全圏に入れるのではないか、少しでも第一原発から離れようと走った。

◎3月12日15時36分、第一原発 1号機 白煙を伴う水素爆発、都路街道の終点である田村郡船引町に辿り着き、とりあえず田村市総合体育館に多くの町民が収容され、その他の町民は近在の施設に収容された。

◎3月14日11時1分、プルサーマルを用いている第一原発3号機黒煙を伴う爆発が発生

4月3日以降、会津若松市の会津若松市役所追手町第二庁舎に大熊町役場を移転し、町民も会津若松市内の施設に移転収容された。

4月中旬、会津若松市内に小学校、中学校、幼稚園を開校、開園した。

 原発事故を受けて、町役場、住民は大熊町への立ち入りは全面禁止となる警戒区域に指定された。

 2012年12月10日午前0時を期して「帰宅困難区域」(住民の立ち入り禁止、一時帰宅禁止)大熊町全体の96%が該当)、「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」(日中の時間帯のみ、町からの許可を得ることを前提に立ち入り、一時帰宅できるが宿泊は不可)大熊町全体の僅か4%に再編された。

 菅総理から福島県知事に富岡町、大熊町、双葉町、浪江町各町長に対して避難指示、其の内容「半径10km圏内の住民は圏外へ避難」該当住民約5万1000人。

 この指示により早朝より防災無線が全町民避難を呼びかけ、富岡町では川内村への避難を指示、避難指示の内容は「東京電力技術者による福島第一原発の原子炉停止に伴う問題発生の報告を受けたので、その予防措置」と伝えられた。大地震に続く大津波、余りにも甚大な被害に呆然としていた翌早朝防災無線を通じて突然耳を疑うような内容の放送があった。各地区は町長の指令により避難開始、但し詳しい情報は誰も知らず、闇雲に第一原発より離れることだけで、山の方へ向かって避難を開始した。

 其の危機の重大性には、町としても掌握しておらず、まして町民は誰しもが2、3日で戻れるとの認識で貴重品や生活必需品等を家においたまま出発していた。全町民が一斉に避難するなど前代未聞の事象に当然ながら一度の訓練も無く、シュミレ−ションも無かったのに、町長をはじめとする全職員が一丸となって奮闘し避難任務を遂行できたことは見事というほかない。

 大熊町避難には全面的に茨城交通のバスがいち早く手配され救出に大活躍をした。それも46台の大型バスが手配されたのだから驚きだが、更に驚くのは原発がおかしくなる3時間も前に茨城交通の本社から北へ向かって出発しろとの要請があった。勿論大熊町や県が要請したわけではない。

 さらに大地震によって常磐高速道、6号国道は至る所で亀裂や陥没があったが、未だ交通止めになる前で辛うじて通り抜け、大熊町に辿り着いたが、地理不案内で立ち往生しているのを役場の職員が探し回り、誘導して避難町民を拾い集めた。

 また避難先は決まって居らず、茨城交通の運転手さんには、ともかく西へ走ってくれとの要請だったと言う。こうして5000人が避難できた。

 これほど早くバスの手配が出来たのは、何故か、県や町が救助を求めた訳ではないことは明らかだ。

 「産業再生機構」という組織がある。冨山和彦氏という日本の経営コンサルタント、経営の凄腕の人がおり、株式会社経営共創基盤代表取締役CEOに就任した。

 企業のコンサルティング、企業再生を取り扱う会社で、当時合計41社の支援を行っていた。その中に関東自動車(栃木県)、茨城交通、福島交通、岩手県北自動車等のバス会社が含まれていた。

 これらの会社の実質的な経営者と見るべきだろう。その富山代表取締役に国土交通省の幹部から1本の電話が入った。東日本大震災での大地震、大津波で原発が危ない、避難用のバスを出してくれとの要請であった。

 11日の夕には中央官庁では危険の兆候を感じていたのだろう。かくして茨城交通に伝達され、多数のバスが大熊町に駆け付けた。

 更に言えば多数の大型バスを長距離運行するのであるから大量の燃料を必要とする。ところが現地は車での避難脱出だから、各ガソリンスタンドに殺到し、たちまちシナ不足となってしまった。しかも東日本大震災であるから東北地方全てでシナ不足になったが、道路は亀裂や陥没その他で不通、JR各線は駅舎が流されたり、線路が破壊され、鉄橋が損傷したりで全線が不通、輸送の道は途絶えていた。

 更には石油コンビナートの損傷、貯蔵タンクの炎上、全てが負の連鎖で事実上燃料の補給は一時的には不可能になっていた。

 そのよう状況下での燃料の大量調達であるからまさに不可能に近かった。ところが国交省、経産省という中央官庁が動き、直接大手石油会社に調達を要請、それから石油運送会社に連絡が届き、大型タンクローリー車が困難を排して現地に燃料を届けた。まさに中央官庁だから出来た離れ業であり、避難は無事完了した。

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第三章 双葉町全町民避難

 双葉町避難

 双葉町、人口6932人、東電第一福島原子力発電所の第1号機から4号機までは大熊町に立地し、5号機6号機が双葉町に設置されている。3月11日、大地震、大津波の被害に関して、震度6強を記録、津波による被害は死者53名、行方不明1名と人的被害があった。

 町民の多くは大地震発生、続いて大津波来襲に驚いたが、予め決められていた手順に従い近くの小中学校、公共施設に避難した。

 役場職員は業務を行いながら、役場内に待機、夕方には東電広報部職員2名が派遣され役場に詰めて、ホットラインでF1や東京本社と直接連絡をし、夜通しF1関連の情報のやりとりを行うことができた。

 大熊町には福島県原子力災害対策センター(オフサイトセンター)があるが、残念ながら被災により全く機能せず閉鎖になってしまったが、東電職員が派遣されてきたことにより、F1関連の情報は他町よりは豊富に入手出来た。

 20時50分、福島県対策本部は第一原発1号機の半径2km以内の住民に避難指令が出た。

 21時23分、内閣総理大臣から福島県知事、双葉町町長、大熊町町長宛てF1の半径3km以内の住民の避難指示、及び半径3〜10km以内の住民は屋内待避指令がでた。

 双葉町役場は地震、津波の被害はなし、庁舎内の停電もなし、一部の機器類が被害を受けたが、住民情報システムは健在で、それらの情報システム担当者は1人で全ての管理運用をおこなっていたため、情報システムがスムースに運用し、サーバー設備が町内の学校、公共施設等を結ぶネットワークの光コンバーターランプが一部消えていたが、何とか運用はできた。インターネットも2時間位不通になったが再開できた。

 このため町内各地にある公共施設や連絡先とは連絡が執ることが出来たことは、他の町よりはスムースにいったことになる。

 11日に夜には避難指示、屋内指示が発令され、住民、役場機能は川俣町に避難することを決め、直ちに脱出の準備にかかった。

 12日早朝から川俣町へ全町民が移動開始、とりあえず川俣町を目指した。

 国から派遣された5台の茨城ナンバーバスは双葉厚生病院と老人施設へと誘導したが全員を収容するにはすくなすぎた。

 情報システム担当職員はバックアップ用のテープをセットしてから川俣町へ移動した。

 川俣町への移動は浪江町から福島市へ通じる国道114号線を利用するが、川俣町山木屋地区では山道で峠を超えて福島盆地にはいる市へ達する。その山間に浪江町津島地区、葛尾村があり、下津島地区で道は二つに分かれ、左は川俣町を経由して福島市へ、右は飯舘村に通じている。

 後刻判明したことは、F1の水素爆発により放射性物質が風に乗ってこの方面に流され、折からの雨と雪で降下し、この付近一帯を最大の汚染地区にしてしまった。

 そのようなことは夢知らず、浪江町民は津島地区へ、双葉町民は川俣町への避難を決めてからの移動であるから114号線は大渋滞になってしまった。

 普段であれば30分程度である道程を5時間以上かけてやっと川俣町は辿り着いた。

 3月12日から19日にかけて役場職員は川俣町内に11カ所の避難所を開設し、避難者名簿、食料、毛布等の配布をしていたが、やっと落ち着いた頃、川俣町が汚染されていることが判明、再度移転先として埼玉県さいたま市のスーパーアリーナに決まり全町民が再び移動を開始した。

 結果的には3月12日から19日まで汚染地区に滞在していたことになった。

 この川俣町を避難地として撰んだことに関して、翌年7月10日、参院予算委員会に参考人として招致された井戸川克髓ャ長(当時)は、声を詰まらせながら、「情報があれば逃げる方向を変えていた。情報隠しは納得できない」と証言した。

 3月19日、バス40台を連ね、その他各自の乗用車でさいたま市へ向かった。

 さいたまアリーナには新潟県刈羽村役場からプリンターとパソコン10台が届けられており、早速避難者の名簿作りを始めた。

 埼玉県は黒電話を手配してくれて、20日にはNTTの好意によりホームページも立ち上げた。

 しかしここも長居できず、3月31日埼玉県加須市にある旧騎西高校(平成20年廃校)の空き校舎が割り当てられ移転した。双葉町役場も移転した。

 4月には自衛隊の支援を受けて各課から1名が選ばれ双葉町役場に戻り、各課毎に業務に必要な機器やデータを持ち出したが、作業時間が僅か2時間しか許されておらず、サーバー室内のラックに入っているサーバーは持ち出せなかった。

 それでも財務サーバー、住民情報システム、戸籍システム等のバックアップデータが持ち出せて業務がスムースに行われるようになった。

 さいたまアリーナから旧騎西高校校舎に移動した時の双葉町民は1432人であった。

○2014年2月3日現在

 福島県内に避難している人 3,944人 福島県外に避難している人 3,051人 (埼玉県948人)

 2013年6月、町役場はいわき市に再移転し、避難者もいわき市へ移住する人が多かった。しかし移住したくとも出来ない高齢者や病人、頼れる身内はなしの一人暮らし、様々な事情を抱えた平均年齢68才、107人が旧騎西高校の校舎に残ってしまい、役場機構の一部が残り面倒見ていたが、避難所閉鎖の方針なので2013年10月1日、旧騎西高校校舎内に置いた役場機構を近くの加須市役所騎西総合支所に移動し、旧騎西高校校舎の避難所を閉鎖する方針を示した。

 避難している人達も市内の借り上げアパートや施設に移ってもらい、同年12月27日、最後の4世帯5人が移住して避難所は閉鎖になった。

 双葉町の大半は帰還困難区域に指定され、更に中間貯蔵施設となれば、事実上還れる見込みはない、約6400人の町民は全国各地に散ってしまった。

 加須市に滞在していた期間には数々の出来事があった。

 まず筆頭は、ドキュメンタリー映画『原発の町を追われて―避難民・双葉町の記録』原発事故で避難している双葉町民の本音を伝える「棄民として扱われていることを知って欲しい」を制作したこと。

 東電福島第一原発事故によって埼玉県加須市に避難してきた双葉町民の姿を追ったドキュメンタリー映画『原発の町を追われて―避難民・双葉町の記録』

 制作したのはさいたま市の給食調理員堀切さとみさん。避難所である旧騎西高校校舎に1年以上通い続けて纏めた作品で、この作品は各地で上映され、新聞、テレビデも取り上げられたため全国的に知れ渡った。

 映画に登場した双葉町民も参加して上映とトークイベントが各地で開催された。

『フタバから遠く離れて』

 2011年3月11日の東日本大震災の被害に遭い、福島第一原発がある故郷から町ごと脱出、埼玉県で避難生活を始めた双葉町民の皆さんの避難生活を取材したドュメンタリー。放射能の影響で故郷にも近づけこともできず、将来の生活も見えずに埼玉県加須市の避難所での暮らしに入って、原発依存の生活だったことや原発政策の問題点などをあぶり出した映画になっている。

 監督は『ビック・リバー』『谷中暮色』など国際的にも評価の高い舩橋淳監督、音楽鈴木治行、エンディングテーマ曲坂本龍一、上映時間96分。

 あらすじは、第一原発の水素爆発という取り返しの付かない大事故に巻き込まれた福島県双葉町の人々が埼玉県加須市に遁れ、1,000人以上の人々が不自由な協同生活をしなければならなかった。原発推進派であった町長が猛烈な反対論者に変わっていく姿、一時帰宅が許されたが、僅かな時間だけの許された時間、慌ただしく戻らなければ口惜しさ、生活の諸々を描いている。

 埼玉県加須市旧騎西高校校舎に開設してある双葉町役場では町議会と町長が対立、2012年12月20日、町議会は原発事故後の一連の対応を巡る町長の行動に反発、復興の妨げになると、井戸川町長の不信任決議案を全会一致で可決、12月26日、町長は議会解散を命じた。

 公職選挙法により40日以内に町議会選挙が行われるが、定員は8名、解散時の議員8名がそのまま立候補表明、他に立候補する人はなく、そのまま8名が再選された。 井戸川町長は辞任し、2013年3月10日、町長選挙が行われ、新人伊澤史朗氏(元町議、獣医師)が当選した。

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第四章 浪江町全町民避難

3月11日

 14:46 震度6強の地震発生

 15:33 津波第一波到達

 16:36 原子炉非常用冷却装 置注水不能

 19:03 原子力緊急事態宣言、政府

3月12日

 05:44 テレビ記者会見により半径10km圏内住民避難指示

 13:00 浪江町役場津島支所へ移転決定〜夕刻移動開始

 15:36 福島第一原発1号機爆発音到達

 18:25 テレビ会見、半径20km圏内住民避難指示

3月14日

 11:01 3号機 水素爆発

3月15日

 05:30 町災害対策会議で二本松市方面への避難方針決定

 10:00 二本松市へ住民異動開始

 夕刻  二本松市東和支所に役場機能移転完了

4月22日

     第一原発から半径20km圏内を警戒区域

     20km〜30km圏内を計画的避難区域、緊急時避難準備区域に設定

5月23日

     福島県男女共生センター(二本松市)へ役場機能移転

 避難対象者全町民:21,434人

 人的被害:死者182名(内特例死亡33名)、震災関連死259名

 家屋被害:全壊644戸(流失586戸。地震58戸)

 魔の11日、地震による災害、続いて大津波の来襲、請戸地区は壊滅的な被害を受け、茫然自失状態にあるとき、午後七時には原子力緊急事態宣言が出たが、停電ではテレビによる情報伝達は不能、固定電話も断線、携帯電話も大半が使用不能、情報が皆無の不安な一夜となった。

 翌早朝10km圏内避難指示、但しどの程度距離を離れれば良いのか、どの方面が良いのか、国や県からの情報や指示は全くなし。

 浪江町災害対策本部会議が開かれたが、情報が全くに状態では手っ取り早く避難できるのは同じ町内であるが25km離れた津島地区なら大丈夫と考えるのが当然で、しかも津島地区には支所があり、小学校、中学校があり、収容可能と判断し、全会一致で津島地区への避難を決めた。

 国の避難指示がF1から半径10km圏に拡大3月12日午前5時44分、浪江町災害対策本部に伝えられた。浪江町の中心地は10km圏に入るので直ちに避難しなければならなかったが町長以下幹部職員の協議では、同じ浪江町だが北西方向に奥まったところにある津島地区は1Fからは25〜30kmも離れているから安全圏だと判断した。しかも津島地区であれば役場支所、津島小学校、津島中学校がある。

 津島地区人口は1,400人、同じ浪江町民であるから多少の無理も聴いてもらえるだろうと町長以下幹部職員の決議は一致、津島地区避難を決め、災害対策本部も津島地区に移転することにした。

 12日09時50分:浪江町民10km圏外、津島地区目指し避難開始。

 町中央から津島地区へ繋がる国道114号線は避難する町民で大渋滞となり、普段なら20分位で着くのに4時間以上掛かって着いた。

(津島小学校)

 町民も災害対策本部が津島地区に移ったため、安心して津島地区に避難してきた。その数8,000人、1,400人が暮らす地区にこの数だから小中学校や体育館、講堂等に収容されたが、3月とはいえ山間部では真冬の寒さで布団もない毛布もない最悪の住環境での避難であり、その住にも外れた人は車中泊となった。

 さらに津島地区は上下水道の設備はなく、井戸と湧き水、トイレは畑に穴を掘って手作りのトイレを急造して我慢し、食事は協同で炊き出し、おにぎりを配った。

 津島地区は1Fから29kmあり、しかも山間部であるから大丈夫だろうと思っていた。人間誰しも良い方へ、明るい方へと考えたい、ましてとんでもない災害に曝されているのだから直ぐにでも解除になり、我が家に帰れるものと思いたい。

 ところが事態は更に悪化の一途を辿った。

○12日15時36分 1号機原子炉建屋水素爆発、爆発で現場退避、怪我人の救助、搬送を実施、(東電3人、協力企業2人)ホウ酸水注入ポンプは爆発による飛散物により敷設したケーブルが損傷、高圧電源車は自動停止。準備していた海水注入のためのホースが損傷して使用不能、作業中断。

 12日夕刻、この集落に1台のワゴン車が現れ中には目慣れぬ防護服とガスマスクを着用した二人がいて「ここは放射性物質が拡散している。危険だから直ぐ避難してくれ」と真剣な表情で訴えた。しかしその時は10km圏内だけが、2、3日だけ避難との通達だったので、30km以上離れている津島地区が危険だとは露程の疑いもなかったから仰天して直ぐに報告した。一方防護服の二人は浪江町幹部には何も伝えず福島市方面へ走り去ってしまった。

 更に12日18時、国から半円20km圏避難指令が出た。

 隣接する葛尾村では全村避難を決めて、防災無線で村民に避難を呼びかけているとの情報が伝えられ、避難している浪江町民の間で動揺が走った。

○14日午前11時1分、第一原発3号機の爆発で避難住民の不安は渦を巻いていた。続いて2号機4号機も小規模の爆発があり放射能は放出、拡散した。

 3月14日、午後断続的に災害対策本部会議が開かれ、再避難すべきかどうか討議が続いた。しかし外部からの放射能情報は全くなし、お隣の葛尾村は全村避難を決議しており、津島地区も危険であることは本能的に悟っており、即刻の再避難を決議した。14日、15日は雨と雪が降り、大気中に漂っていた放射性物質は地上に降り、そのまっただ中に避難していたことになる。

 だが、津島地区には何の情報も伝えられず、ただ一つの情報源は断片的なテレビ情報であり、それもニュースソースは政府発表だけだから、危機的な様相は全く伝えられなかった。

 さらに東電の下請けの人が線量計を持参してきて、この辺は高濃度汚染地区だから直ぐに再避難した方が良いと役場吏員に告げて立ち去った。

 断片的に入ってくる情報によると、相当に危険状態の区域なのだと自覚しだし、そのため14日午後から災害対策本部の会議が続き、再避難すべきかどうかを協議し「一刻も早く再避難すべし」の意見が飛び交った。

 しかし、放射線量に関する正式な情報は全くなし、それでも住民は再避難を訴え、避難の必要性を訴え、災害対策本部を動かし、馬場町長に迫った。

 これはテレビによる断片的な情報があり、隣接する葛尾村の全村避難の情報を知れば自分達も当然危険に曝されていることを感じていた。

 14日夕刻にはヨーソ剤1箱が届けられ、配布したが服用するのは各自の判断に任せるとした。この頃になると避難している住民も不安が募り再避難を求めだした。

○3月15日午前6時4号機爆発、2号機損傷

 馬場町長は必死で次の受け入れ先を探し、受け入れ要請・嘆願し、やっと二本松市の了承を得て、15日早朝5時30分、区長、住民代表を集め、二本松市へ再避難することを告げた。

 15日早朝から住民に二本松市へ再移動することを告げ、各自移動準備、午前10時、移動開始、一斉に二本松市向け移動開始、町のバスは老齢者を乗せ二本松市へ、その他、会津地方や県内外の親戚、知人を頼ってそれぞれの地へ散っていった。

 15日夕刻には二本松市役所東和支所に浪江町仮役場を開設した。

 津島地区が危険であることが判明したのだから津島地区住民も共に避難しなければならなかったが、純農村地帯である津島地区は牧畜が盛んで多くの家畜を飼育していた。このため強制避難だと言われても、家畜の世話を放棄してまで避難しなければならない理由が何処にあるのか、絶対に避難はしない、このまま家畜の世話を続けるとして多くの住民が居座った。このため役場の吏員が残留して説得にあたった。しかし、悪魔の手は津島地区を襲っていた。14日の爆発時の風は津島地区方面に向かって吹いていた。このため避難指示半径20km圏は何の意味もなく、津島地区、隣村の葛尾村、更に奥地にある飯舘村、川俣町の一部が濃度の高い汚染地区になってしまった。

 14日の記録はない、これは役場には放射線量測定器を常備していたが、直ぐ還れるとの思い込みから持参してこなかった。

 3月15日午後、津島地区は濃い放射能霧に襲われ、雪と雨が降っていために、放射能は地表に落ち、高い放射能はこの地表に居座った。

 15日夜、文部科学省から派遣されたモニタリングカーが津島地区各地で測定したが、計器はなんと毎時270〜330マイクロシーベルトを指した。

 16日の津島地区の測定値毎時58.5マイクロシーベルトの放射線量が測定され、4月22日に計画的避難地区に設定された。

 再脱出した3月15日、午前10時に協議の上、二本松市へ移動することとし、昼頃悪天候の中、二本松市やその他の縁者へ向けて出発したが、その時既に上空には放射性霧が襲っており、雨や雪と共に地表に落ちてきていた。

 最悪の中での再脱出となったが、少しは救いになるのは放射性霧の来襲と再脱出が同時刻であったことで、もし1日でも先延ばしていれば被曝の怖れがあった。

 15日17時50分、最終脱出出発と津島中学校の黒板に板書きが残されていた。

 事実、後刻の調査では津島地区、赤宇木地区の汚染度は最高値を示している。

 局地的に高濃度の汚染地区が見付かった。7月26日時点での調査で赤宇木地区最大毎時26.3マイクロシーベルト、南津島地区最大毎時40.1マイクロシーベルト、避難の目安となる年間積算線量20ミリシーベルトを短期間で上回る線量が計測された。

 津島地区に避難していた浪江町民は14日、15日、16日の間、避難の目安となる年間積算量を大幅に上回る汚染地区に滞在していたことになってしまった。

 更には津島地区の住民は家業である家畜を捨ててまで避難するのをためらい、大半の住民は居残ってしまった。そのため役場吏員が残り説得することになった。

 津島地区を避難場所に指定した馬場町長はじめ災害対策本部の人達は、避難した住民から突き上げられることになった。しかしこれは結果論で、全く情報のない時点では真っ当な選択だったといえる。

 従って、「町職員は誰一人、津島地区の放射線量を把握していなかった」苦情の対応には、このことしか言えなかった。

 放射性プルーム(放射性雲)という現象がある、気体状(ガラス状あるいは粒子状)の放射性物質が大気と共に煙のように流れる状態を放射性プルームという。

 放射性プルームには放射性希ガス、放射性ヨウ素、ウラン、プルトニウムなどが含まれ、外部被曝、内部被曝の原因になる。

 この放射性プルームが風に乗ってF1から浪江町方面に流れ、請戸川に沿った山に囲まれた低地を這うように流れたと推測される。

 放射性プルームが上空通過中、雨や雪が降るとこの粒子に結びついて地表面に降ってくることになる。15日朝から雨と雪が降っていたので地表面が汚染されてしまった。

 その結果、浪江町や飯村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯村では避難対象にもなっていなかった。

 2012年7月10日、参院予算員会で野田佳彦首相(当時)は、東電福島第一原発事故で被害を受けた福島県浪江町に、米国から提供を受けた放射線測定結果などを伝えなかったことに関して「関係機関の連携、情報共有が不十分であり、住民の命を守るために適切に情報を公開する姿勢が希薄であったことは大きな教訓であり、浪江町の皆様にご迷惑をお掛けしましたことをお詫びしたい」と陳謝した。

 この日(7/10日)参考人として出席していた浪江町議会吉田数博議長は「町民は無用の被曝をした人災そのものだ。無念さと同時に憤りを感じている」と証言。

 同時に招致されていた双葉町井戸川克髓ャ長も、声を詰まらせながら「情報があれば逃げる方向を変えていた。情報隠しは納得できない」と証言した。

 被曝の事実は証明できないが、内部被曝検査として警戒区域と緊急避難準備区域、計画避難区域、特定避難奨励区域住民で4才以上を対象に同年6月から開始、3才以下は行動を共にした保護者を対象に検査を行い、浪江町は2618人が受けた。

 その後、甲状腺検査は10月から始まり3月11日時点で18才以下だった全県民が対象として検査が行われることになった。

 これも結果論だが、国が定めた地図上にコンパスで円を描いて避難地区を決めた超原始的なやり方も全く意味をなさない愚行となった。

◎浪江町被災状況(2013年3月31日現在)

 避難対象者:全町民21,434人

 避難先:

   福島県内14,562人(68.8%)

   県外6,606人(31.2%)

   2013年3月31日現在、福島市3,663人、二本松市2,551人、いわき市2,245人、

             郡山市1,663人、南相馬市1,080人、本宮市758人

 では国は放射能の流れを把握できなかったのか、本当に政府首脳は情報を得ることが出来なかったのか。まさにミステリーの世界、謎は闇の中にある。

 真相はどうだったのか。後刻判明したことは、情報はあったと断言できる。

 最初に把握したのは当然ながら第一原発で、原発敷地内には放射線量を測定するモニタリングが複数設置してあり、2号機が12日午後3時36分の20分前から北西側のポストから測定を開始、2分毎に測定し、翌13日の午前9時までに限っても548回を測定している。

 このうち最高値は3月13日午前8時33分、毎時1204マイクロシーベルトを記録したが公表はしなかった。

 しかも風向・風速のデータがあり、どの方向に流れているかも把握しているから、当然浪江町、津島地区、葛尾村、飯舘村方面だと承知していたはず、では何故報せなかったのか、大熊町、双葉町、富岡町には東電職員が派遣されて直接情報を伝達しているが、浪江町は対象外だったのか判らないが、危険な地域に避難しているのを承知していながら報せなかったのは事実で、東電の不誠実な対応は断罪される。

 東電は非公表の理由として、公表の判断基準が不明確であったことや広報部にデータが届いていなかったのを理由として公表が出来なかったとしている。

 しかし、正確なデータの提供を求めているわけではない。危険の有無、流れの方向だけでも報せるのを何故ためらうのか、また浪江町と東電は1988年に原発トラブルの際に通報連絡を徹底する協定を結んでいたが、全く機能しないままであった。

 国、福島県、東京電力は放射能汚染情報を明らかにせず、浪江町民を放射性物質が風に乗って大量に流れた地域に避難していたことになる。

 では何故公表しない、注意喚起しない、故意に隠すべき理由は全くない。

 せめて津島地区に避難した浪江町民に連絡すべきであったし、町の最高責任者である馬場町長には連絡すべきであったが、何故無視したのか理解に苦しむ。

 「公表基準がないから確立していなかった」「情報の信頼性が不十分だった」との弁解をしているが、正確なデータを求めているわけではない、津島地区が危険なのかどうか、再脱出が必要なのか、大凡の見当でもいいはずで、ともかく情報が欲しかった。だが沈黙したままだったのは何だったのか、上からの強い力が沈黙を強請したのか、何のためになのか、是非ともその真相を知りたいが闇の中のままだ。

 もう一つ強力な情報があった。最新技術で放射性物質の拡散を予測する緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)も国と福島県の不手際で公表しなかったとしているが、本当に不手際だけなのか、更に真相が隠されているのか。

 SPEEDIを運用する財団法人原子力安全技術センター(東京)文部科学省管轄、地震発生の数時間後には、放射性物質拡散予想の観測、解析を開始、浪江町津島地区、飯舘村、川俣町方面へ拡散していることを把握していた。

 解析結果は3月12日午前3時から1時間おきに福島県庁へメールで送信、ところが受信した県災害対策本部は着信したメールの存在に気付かなかったとしているが、1時間おきに送信したメールの着信が気付かないはずがない、メールの意味が理解できなかったのか、SPEEDIの放射性物質拡散予想観測の意味が理解できなかったのか。

 県対策本部は13日の朝になって、国が前日に避難指示を半径20kmの同心円状に広げた根拠を知るために、これまでの防災訓練では拡散予想を基に避難場所を決めるのにSPEEDIによる解析結果を分析していたのを思いだしFAXで拡散予報図を取りよせた。従ってこの時点で県でも津島地区が汚染されているのに気付くが、データが古く、放射線量の濃度も不明だとして公表しなかった。危険性があるから情報を知らせようとの発想はなかったのか。

 SPEEDIの解析結果が公表されたのは10日以上も経った3月23日になってからで、何故これほど遅れたのかは判らない。

 後刻、SPEEDI情報がありながら情報を公表しなかった事実を知り、馬場町長は「時機を逸した情報ではなんの役にも立たない。これは明らかな人災だ」口惜しさをあらわにして怒りをぶちまけた。

 2011年3月11日、事故発生、11日夜以来原子力安全・保安院が、12日朝からは文部科学省が多数試算した。

 21時12分:SPEEDIによる第1回目の予測図を作成(保安院)

 23時49分、福島県原子力センター、SPEEDIによる予測図をファクス受信

 12日01時12分:SPEEDIによる2回目の予測図を作成(保安院)

 この試算では、第一原発のプラントデータを配信する緊急対策支援システム(ERSS)のデータが使用不能になっていたため、放射性物質放出量の条件について仮想事故データ等の仮定を入れて計算し、実際の風向きなどで20km〜100km四方程度の地域について一定時間後の各地の大気中濃度、地表蓄積量などをSPEEDIによって算出し、事故後5,000枚以上の試算表を作っていたらしい。

 風向・風速は、気象庁にアメダス(AMeDAS)という無人観測施設である「地域気象観測システム」があり、全国に約1300カ所に設置されており、観測データは10分の毎にISDN回線等を通じて気象庁内の地域気象観測センターで集信され、気象予報の観測データとして活用される。

 このAMeDASとSPEEDIは連動しており、爆発時の風向・風速は観測しているのだから、北西方向に流れたことも観測しているはず、従って事故後の試算表を見れば一目瞭然であるはずの試算表がどこかのセクションで埋没してしまった。

 当然3月14日の段階で日本政府機関はSPEEDIの詳細な予想図を把握していた。ところが何故か公表していない。

 国民の安全とは遊離した集団、組織、指揮命令系統がはっきりしないと動こうとしないわが国独自の理論が存在したらしい。

 官庁間に蔓延する「上がらない」「回らない」「判らない」そのままに、最重要であるはずの情報が官邸には届いていたのか、なかったのか、それさえ不明。

 文部科学省と保安院がSPEEDIによる最新情報を掌握していた。従ってその省庁トップである大臣に報告するのが当然と思うが、その担当大臣がいる官邸には届いていなかったのはどうゆうことなのか理解に苦しむ。だからこそ官邸では地図上にコンパスで半円を描き、3km、5km、10km、20km圏と小刻みに避難地域を広げ行った超原始的な方法しか採れなかった。

 この貴重な情報は共有されることも公表されることもなく、関係各県にさえも知らせていない。(非公式にはSPEEDIの情報が流されていた)

 受信側もなんだか判らず放置していた。福島県庁も最初はSPEEDIの解析情報はなかったとしていたが、メールで送られてきていたのに気付かなかった、ファックスでも受信していたが何故か公表はしなかった。何故なんだ、その答えは「試算なので国民に無用な混乱を招くだけだと判断したからだ」弁明していたが、国民どころか官邸にも報せないのは理解できない。

 このような弁明が通用する不思議さ、被災者の存在など無視し、責任感は全くないお役人の回答はこれだ。

 情報が無いために浪江町の津島地区の汚染地域に留まっていたり、飯舘村のように汚染警戒区域にも指定されないままに長期間放置されてしまうような危機管理以前の醜態をさらけだしてしまった。

 この点に関して国会でも追及され、同年6月17日の参議院東日本大震災復興特別委員会で、議員の質問に対して、文部科学大臣はSPEEDIの情報を何故公表しなかった理由を「現地情報がなかったので計算できなかった」と答弁し、更に追求されると「計算していたことを知らなかった」と答弁、遂には「一般には公表できない内容だった」と無責任な答弁を繰り返した。

 真相:原子力安全技術センター(東京)は震災直後から1時間ごとの「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」の試算を開始、12日中には津島地区への放射性物質飛散を示すデータも掌握していた。

 後日公表されたデータによると、住民が避難した津島地区は茶褐色の線で囲まれた危険地帯であることが12日の時点で高線量であることが示されていた。

 菅総理はデータに関する情報は全くなかったと証言しているが、信じがたい話で、十分承知していたと考えるのが自然だ。だからこそ白装束の怪人やデータ観測の車がやって来たのも暗に再避難を促すための苦肉の策なのだろうか。

 福島県も13日にはSPEEDIの試算結果のデータを32枚、国からファクスで受け取っていながら津島地区に避難している浪江町役場には報せなかった。

 また、県独自の調査も行われ町内の酒井、高瀬地区では高い線量が検出された。13日には国の調査が行われ、津島地区から10kmほどの室原地区では、線量計は毎時30マイクロシーベルトを振り切った。

 勘ぐれば白装束の人達はこの実測を担当していた人達なのだろう。では何故身分を明かさなかったのか、SPEEDI情報は国の試算が不正確だったので、誤解や混乱を招く怖れがあったからだと後刻発表したが、実測していたことはなぜか公表していない。実測が不正確であったからとでも言い訳するのか。ともかく実測のことは触れようとしない。

 町役場には線量計2台所有していたが、直ぐに還れるとの思い込みから持って来なかった。もし線量計があれば、13日中には高線量の危険地域であることは気付き、再避難の行動は素早く出来たはずだと悔まれる。

 7月10日、参院予算委員会に参考人として招致された双葉町井戸川町長(当時)が原発事故直後にアメリカ政府が提供してくれた「汚染地図」それにともなう観測分析資料を政府は公表しなかった問題で「情報がスムースに出ていれば逃げる方向も変えていた。なんのための情報隠しなのか納得いかない」と声を震わせた。

 この井戸川町長が証言したアメリカ政府の「汚染マップ」についても申し述べたい。

 福島第一原発事故直後の2011年3月17〜19日、アメリカ・エネルギー省は放射線量測定の専門家を派遣、在日米軍横田基地を拠点にして、空中測定システム(AMS)を米軍機2機に搭載し第一原発から半径約45km内を計40時間以上飛行し、綿密な測定を行った。

 これにより地上の放射線量を電子地図に表示でき、この資料を基に作成された汚染マップは、在日米大使館を通じて外務省に電子メールで計2回送られた。

 外務省は担当省庁である経済産業省原子力安全・保安院と、線量測定の実務を担当する文部科学省に転送した。

 ところが文部科学省科学技術・学術政策局に入ったこの貴重なデータはこの局で埋没してしまう。即ち肝心の官邸、原子力委員会には報告されなかった。

 同じく経産省原子力安全・保安局に入った情報もこの局で握りつぶされた。まさか故意でやった訳ではないだろうが、ことの重要性を認識していない、あるいは出来ない担当幹部が放置してしまったのだろうと推測する。

 専門家でない官僚が定期的に人事異動を繰り返す官僚システムの弊害で、たまたまその役職にあった官僚にとって何をどうしていいのか全く解らないままに不作為こそ自己保身と判断したのか。その結果、浪江町や飯村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯村では避難対象にもなっていなかった。

 ところが不思議なことが起きた。浪江町赤宇木地区に避難していた人達の前に白装束の怪人が現れ、ここは危険だから早く逃げろと指示、風の様に去っていたらしい、所属も名前も何もなのらず去ってしまったが、役場の吏員でも県庁の職員でもないらしい、と噂していた。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 ともかく官邸にはSPEEDI所管の文部科学大臣、アメリカ政府から提供された「汚染マップ」とSPEEDIが計算した放射性物質拡散予想図の両方を受け取っていたはずの経産大臣と原子力安全・保安院長官、更には原子力委員長までが詰めているにも拘わらず、官邸には全く報告が上がってこない、そのことに疑問も持たなかったのか。省庁の長とは単にお飾りに過ぎなかったのだろうか。 

 危機管理センターは何故これらの貴重な情報を把握できなかったのか、あるいは把握しようとしなかったのか。日頃シミュレーションを繰り返していれば必然事項として行動していたはずだが、残念ながら責務は果たしたとはいえない。

 また官邸もデータがないままに、3km圏、5km圏、10km圏、20km圏、30km圏と同心円状を描いて避難地区を決めたが、危機管理センターはこれらの決定には参加しない枠外の存在だったのか。

 汚染状況に応じて避難圏を決めるべきだが、資料に基づいて避難圏を決めるべきだと意見具申をした官僚も専門家もいなかったことになる。菅総理は裸の王様にすぎなかったのだろうか。

 官邸は危機管理センターやその他の専門機関を全く無視していたのか。

 このような重大事件にも拘わらず相互不信に陥っていたのだろうか。

 米軍からの資料は黙殺され、放置されその存在さえも明らかにしなかったが、1年3ヶ月後の6月18日、朝日新聞朝刊1面でスッパ抜かれた。

 アメリカ・エネルギー省提供の「放射能汚染地図」を、駐日米大使館を通じて外務省に送付し、これを受けた外務省は担当省庁である文部科学省と経済産業省に転送した。が、この貴重な資料が住民避難に生かされることなく、無視または放置されたいたことを1年3ヶ月後に朝日新聞によってスクープされた。慌てた経産省保安院の担当者が18日午後3時から記者会見を行い、言い訳か、弁解なのか、保安院・首席統括安全審査官の記者会見があった。

 審査官はアメリカ側から提供された「汚染地図」が計7枚あったことは認めた。が、しかし、その「汚染地図」がどう扱われたかは「記録にない」と繰り返すに留まった。

 アメリカ・エネルギー省の航空機モニタリングのデータが外務省を通じて3度にわたり保安院の国際室に電子メールが届いた。またデータが、保安院に設けられた緊急対応センターの「放射線班」に伝わったことも認めた。

 しかし、何故その貴重なデータが同センター内にある住民避難対策担当である「住民安全班」に渡らなかったのか、という肝心な点については「解らない」を繰り返すだけ、しかし、「汚染地図」は同センター内のホワイトボードにA2判に拡大されて掲示されていたとのこと、従って同じ室で作業する「住民安全班」の係官が目にしても不思議ではない。

 しかし、正式に受領しなければ全く関心を示さない、与えられた業務は懸命に取り組むが、テリトリーの範囲以外は無関心、まして外国のデータ等は無視が当然、同じ日、文部科学省も「情報は共有すべきだったかも知れないが、陸上でのモニタリングを収集することが文部科学省の担当」であることを強調、従って海外からの「汚染地図」の取り扱いについては当時者である認識はない。

 「汚染地図」の取り扱いは保安院が担当するものとの認識を表明し、文部科学省にはなんら落ち度はないことを強調した。

 それならば文部科学省が担当しているSPEEDIによるデータがありながら公表しなかったのは何故か、正確でなかったから公表しなかった。と弁明しているが、危険が迫っている地域を認識していたはず、であればせめて現場責任のある福島県庁の担当者に連絡すべきだと考える。

 なんら情報がないまま汚染地域に避難してきた人々は被曝してしまった。ところがこの地区に避難していた人々のところに、突如白装束(防護衣服)が現れ、名をなのらず「ここは危険だから直ぐに避難して下さい」とだけ告げて風のように去って行った謎の1行がいたらしい。

 県や市町村の係員ではないとのこと、「汚染地図」を掌握していた人々の直接行動なのか、現在でもその正体は不明。

 では何故これほど混乱してしまったのか、原子力規制組織として経済産業省、原子力安全・保安院、独立行政法人・原子力安全基盤機構。内閣府、原子力安全委員会。文部科学省、放射線モニタリング部門、全てが縦割り行政。

 所属する省庁が異なる組織が原発事故という1つの災害に対処した場合、事前に綿密な打ち合わせと、組織全体を横断的に統括する本部及び司令官がいなければ、それぞれがバラバラに行動することになる。

 まさに今回悪しき例をさらけ出してしまった。

 経産省と文部科学省が同じ室内で作業していながら「汚染地図」を共有、活用することはなかった。

 また、総司令官であるべき菅総理は情報が集まらないまま、現場に介入したり、東電本店に怒鳴り込んだりと動き回ったが、総司令官としての自覚があまりないのか総司令部を留守にして現場を電撃訪問、介入して混乱させるなど危機管理体制が全く整っていないことを自身の行動で露呈してしまった。

 第一原発事故で担当する保安院は事故直後に情報を集めきれず、あっても活用できず組織としてきちんと機能できなかった。

 また 事故以前にも地震・津波・地盤等、過酷事故の警報を認識していながらも、電力会社への周知徹底を怠っており、更には検査の手抜きに手を貸したりと電力会社に擦り寄っていたことが次々と明らかになり原子力ムラの様相を呈した。

 SPEEDIを管轄する文部科学省もデータを掌握しながらも公表せず、公表の義務はない、落ち度はない、全て適切に行動した、と強弁を繰り返した。

 さすがに国としてはこの制度の欠陥を認め、経済産業省の原子力安全・保安局。内閣府の原子力安全委員会を廃止。いくつかの省庁にあった原子力安全に関する部局を廃止し、1つに統合することになった。

 有識者5人による「原子力規制委員会」と言う独立した組織を、9月発足をメドにして委員任命者を選考中。

 独立性の高い委員会として、技術的・専門的な事項の判断は委員会に委ね、その範囲外の判断は首相がする、ということになった。

 保安院が行ってきた業務等は、新たに環境省の組織の一部として「規制庁」を設置し、約1千人体制の官庁になるらしい。

 大飯原発は野田政権が仮の基準を作って安全を判断し、再稼働を認めたが、それに続く他の原発の再稼働は、新しく出来る「原子力規制委員会」が安全性を確かめて判断することになる。だが、どのような基準になるのかはこれからの問題だ。

 ここで問題は、「SPEEDI」「緊急時迅速放射能影響予測システム」の予測結果の取り扱いが問題になった。

 この「SPEEDI」は文部科学省が所管し、同省の原子力安全技術センターは3月11日、オフサイトセンター機構が機能しないため、福島第一原発から毎時1Bqの放射性物質が放出されたと仮定した拡散予測の計算結果を出した。

 結果は、原子力災害の広報一般を担当する保安院に渡り、保安院はそれを官邸に送った。ところが、このとき仮定の放出源情報に基づく計算結果であるから「信頼性が低い」と記載して、補足資料も併せて送った。この情報は官邸地下にあるセンターで受け取った内閣官房職員は「あくまで参考に過ぎない」と判断し、5階にある官邸首脳には報告せず、単なる報告書として処理してしまった。

 官邸の5階には原子力の専門家である班目委員長や核の専門家が詰めていたのだからその人達に手渡し判断を仰ぐのが当然と思うが、単なる報告書として処理してしまうとはどうゆう心積もりなのか理解に苦しむことだ。

 SPEEDIの機能は放射線量ばかりではなく、気象庁からの資料により風向、風速を測定し放射性物質の流れを測定するモノであるから、放射線量の資料はなくとも、アメダスの測定値やその他気象庁からの資料は正確であるから、どの方角が危険であるかは掌握できるはず、ところが仮定の資料では住民が混乱するから発表は差し控えた。と後日発表していた。が、とんでもないこれほど住民を馬鹿にしている発表はない。

 浪江町周辺の住民は避難しろとの指示を受け、避難したが、どこへ避難しろとの指示はなく、要は原発から離れれば良いだろうとの判断で浪江町の山間である赤宇木地区へ避難した。原発周辺に次ぐ最も危険な地区だとは誰も気付かない。勿論情報も無く、大勢の人がここに滞在した。

 ところが、避難した翌日の夕、防護服を着用した謎の人物が車で現れ、「ここは危険だから直ぐに避難して下さい」と告げ、更にガイガーカウンターの数値を示し、危険性を強調して去って行った、という。この謎の人物、車は東電でも、県職員でもないらしい、民間の会社でもなければ、残るは周辺の市町村の職員がパトロールしていたのかも知れない。未だ謎のままだ。

 この赤宇木地区に居た皆さんは、相当量の被曝があったモノと推定される。

 赤宇木は浪江町から阿武隈山中に分け入る富岡街道があり、津島、川俣町、保原町と中通りへ抜ける街道であるから、山間へ避難すれば大丈夫だろと判断して避難地に選んだのでしょう。更にこの地区は20kmの避難指定区域の外側で数km以上離れているからと安心して避難していたようですが、浪江町町内に居たよりも遙かに高い放射線量を浴びたことになってしまった。

 更に遠い山間の飯村の人々は全く関係ないと信じ込んでいたし、何の情報もなかった。そこへ汚染の調査にきた調査チームにより、高い汚染度が判り村は大騒ぎとなったが、その後しばらくしての4月22日避難計画的地区に指定されたが、その間避難を巡る話し合いが延々と行われ、その間危険だから即刻避難しろとの指令はどこからもなかった。もしSPEEDIの放射能拡散予想図が、正確でなくとも危険であることは確かなので、即座に活用していたらもっと早く避難しただろうし、被曝量も少なくて済んだはずだ。

◎SPEEDI情報:11日、23時49分、福島県庁に第一報は着信していた。

 浪江町や飯村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 アメリカ・エネルギー省の航空機モニタリングのデータが外務省を通じて3度にわたり保安院の国際室に電子メールが届いた。またデータが、保安院に設けられた緊急対応センターの「放射線班」に伝わったことも認めた。

 第一原発事故のあと直ぐにアメリカ側から航空機による実測で放射線量の詳細な「汚染地図」が提供されていたにも拘わらず住民避難指示に活用せず、この貴重なデータを放置していた問題で、その存在すら認めようとしなかった政府がやっとその存在を認め、経済産業省原子力・保安院の平岡英治次長が12年6月26日、大熊、富岡、浪江の仮役場を訪れ謝罪した。その後、県内12市町村を訪れ謝罪する予定になっていた。

 特に二本松市にある浪江町仮役場では情報が遅れたが故に高放射線量の地域に多くの避難者が留まっていたため被曝してしまったかも知れない問題では、馬場町長と非公式ながら長時間の会談が行われたという。

 しかし、この問題で事故後1年3ヶ月も経たなければ正式な謝罪も何もないこの国の行政はどうなっているのか。SPEEDI問題では文部科学省が完全に沈黙したままだが、平岡達夫復興相が地元に謝罪どころか、何の説明もないのは意外だ、と批判している。教育行政の中央官庁がこの態度だ。

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第五章 富岡町・川内村避難

◎平成23年3月11日午後2時46分 地震発生 マグニチュード9.0

 震源地、三陸沖(北緯38度、東経142.9度) 深さ10q

 富岡町の震度:震度6強  家屋の全壊、半壊があったようですが目撃情報だけで翌早朝避難命令が出てしまい調査はしておりませんので正確な地震による被害は不明です。 ただし、地震による崩壊はありましたが、それに伴う火災発生は無かったようです。

震度6強の解説: 震度には「震度0〜4」「震度5弱」「震度5強」「震度6弱」「震度6強」「震度7」の10段階があります。

具体的な「震度6強」

(1)這わないと動くことが出来ない、掴まっていないと飛ばされることがある。

(2)固定してない家具は倒れるか、移動する。

(3)耐震性の低い木造家屋は傾くか、倒れる。

(4)大きな地割れが生じたり、大規模な地滑り、山の崩壊が発生したりする。

◎大津波 地震発生から約40分後の15時27分第一波の津波がやってきた。富岡沿岸での波高推定15m以上(最初14mと発表されたが4月9日原発の作業員が携帯電話で撮影した映像を解析して15m超に訂正)最初の激震から次々と震源地が広がり長時間揺れていたため、揺れが収まってから津波来襲までの時間が短くなってしまった。猛烈な引きがあって、第一波が押し寄せ、第二波、第三波と続き、更にあちこちで余震が連続したため、津波も連続して襲ってきた。

 上記の被害地図は役場の職員の方からの聞き取りと衛星写真を参考にして私が作成しましたので正確でないかも知れません。もし目撃された方の情報を頂ければ修正しますのでこちらのアドレス「katayose@aaa-plaza.net」までメールをお願いします。その他の情報も含めてお報せ下さい。

○死者19名、 行方不明7名、(7月10日付け新聞報道)

 津波は川がある低地ほど勢いよく遡上し、最上点は富岡町役場に通る道路の橋を超えた地点まで達しています。(今村病院付近まで)

 斜線部分は津波により流失、破壊された地域仏浜、毛萱、駅前、浜畑、小浜の一部、小良ヶ浜。

 遠藤町長ご自宅、富岡港施設等、上記の地区で海岸線に沿って建設された391号線沿いにあった住宅、集落は流出、(小良ヶ浜地区の被害は詳細不明)

 富岡駅は破壊(跨線橋は壊れたが残る)、線路も部分的に破壊される。大東館(ホテル)は1階部分破壊、他の駅前木造家屋は流出若しくは崩壊、藤沢製材所、平山商店被災。

 常磐線内側の造成地・新築家屋も被害を受けている。

 波は第一中学校の敷地まで浸入したが、大きな被害は受けなかったようです。

 富岡公園の下まで浸入し道路沿いの家屋が被害を受けております。

 富岡港は津波に呑まれ壊滅、新しく出来た391号線の富岡川に架かる橋は残りましたが、相当な被害を受け、道路は壊滅的な破壊、小浜第一公民館前の橋は流失、常磐線鉄橋は残ったが部分的損壊は受けている。国道六号線に架かる橋は無事、それより上流の橋は被害なし、ただし、富岡川を遡上した津波は堤防を超えたため両岸にあった家屋、田畑は大きな被害を被っており、他の川も同じ様な状況で被害を受けております。

福島第二原発(富岡地区)敷地内に流れ込んだ津波の奔流

○福島第一、第二原発 地震、津波被害、事故発生

 避難指示がでるまでと、その後を時間の経過と共に追っていきます。(第一原発)

11日14時42分、大地震発生、自動停止装置が作動して、運用中の原子炉が緊急停止

15時27分 第一波の津波、続いて第二波、第三波が襲って、海側に設置されていたポンプやバックアップ用電源が全て流失して、冷却手段を完全に失った。

福島第一原発全景(事故前)

経済産業省 原子力安全・保安院 3月12日発表の地震被害情報(新聞)に基づきます。

◎東京電力福島第一原子力発電所(大熊町・双葉町)

(1)運転状況

1号機 46万kW 自動停止
2号機 78万4千kW 自動停止
3号機 78万4千kW 自動停止
4号機 78万4千kW 定検により停止中
5号機 78万4千kW 定検により停止中
6号機 110万kW 定検により停止中

(2)モニタリングの状況

 周辺監視区域境界近傍の放射性物質測定を行ったところ数値の上昇を確認

 59.1μSV/h(3月12日20時26分観測最高数値)

◎東京電力福島第二原子力発電所(富岡町・楢葉町)

(1)運転状況

(2)モニタリングの状況

 3月12日22時現在 モニタリングポストの指示値に変化無し

1号機 110万kW 自動停止
2号機 110万kW 自動停止
3号機 110万kW、12日12時15分冷温停止 自動停止
4号機 110万kW 自動停止

◎富岡全町民避難

 原子力災害対策特別措置法15条により、原子力緊急事態発生を認め、内閣総理大臣は原子力緊急事態宣言をして、区域内の居住者、滞在者その他の者の避難を団体の長(町長)に命じた。(3月10日現在、富岡町民1万5996人)

○12日05時44分 菅総理から福島県知事に富岡町、大熊町、双葉町、浪江町各町長に対して「半径10km圏外へ」避難指示を発令。

 しかし、避難先、運送手段の指示はなく、圏外への脱出だけが命じられ、あとは各町村長の裁断だけに任せた無責任な要請、命令でしかない。

 其の内容「半径10km圏内の住民は圏外へ避難」該当住民約5万1000人。

 この指示により早朝より防災無線が全町民避難を呼びかけ、富岡町では川内村への避難を指示、避難指示の内容は「東京電力技術者による福島第一原発の原子炉停止に伴う問題発生の報告を受けたので、その予防措置」と伝えられた。

 原発は絶対に安全だ、絶対に事故は起きないという安全神話が行き届いており、避難訓練やその予行演習、シミュレーションもないぶっつけ本番に戸惑うのが当たり前、ましてや大地震に続く大津波、全く経験どころか聴いたこともない大災害、甚大な被害に呆然としていた町民に翌早朝に「即刻避難しろ」との防災無線を通じて突然耳を疑うような内容の放送があった。

 例えは大袈裟過ぎるかも知れないが、モーゼの十戒の様な苦難の民族大移動、前代未聞、富岡町民1万5000人強は町長の決断で町民全員が川内村へ避難することにし、自家用車のある人は家族と共に川内村へ、その他の人は町が用意した10台の公共・民間のバスが曲がりくねった道を川内村へ、そしてまたUターンして何度かの往復、最後のバスが富岡の地を出たのが午後2時頃、但し十数人の町当局者は全員酸素吸入の付いた放射線防護服を身につけ最後の整理をしていた。

 避難した町民は全員川内中学校に集結し、校庭には数百台の車が並んだ。其の危機の重大性には、町としても掌握しておらず、まして町民は誰しもが2、3日で戻れるとの認識で貴重品や生活必需品等を家においたまま出発してしまった。

(避難指示、川内村への大移動、途中大渋滞で都路への迂回を指示、誘導する警官)

 しかし、川内村に避難終了し、やれやれと思っていた同じ頃の15時36分 第一原発の1号機の建屋で爆発、建屋上部が吹っ飛び巨大な噴煙が中空に舞い上がった。

 悪夢の始まりであったが、到着したばかりで、てんやわんやの最中だった町民は誰も其の重大さに気付かなかった。

 この川内村への避難の報に素早く行動したのが富岡町と姉妹都市関係を結んだばかりの埼玉県杉戸町の皆さんで、富岡町民を慰問することを決め「富岡救援隊」を組織し杉戸名物カッパ汁をご馳走しようと衆議一決、地区センターの調理室を借り、暮らしの会の皆さんの協力を得て、食材を切り刻み1,000人分を準備、12日の夕刻に仕込み終了、翌朝8時杉戸町を出発、ところが東北道は通行止め、支援車両であれば通行できるとの報に加須警察署に出頭し支援車両の申請をしたが、なかなか許可が下りず、やっと下りて東北道に入ったのが正午すぎ、途中地震による地割れや陥没を迂回しながらの走行、午後5時やっと川内村に到着、早速炊き出しセットの準備を開始、イベントで使い慣れているメンバーは大鍋2つで持参した材料を煮込んで1,000食分のカッパ汁を作り上げ、暖かいご飯とアッアッのカッパ汁に舌鼓、塞ぎがちの富岡町民を腹も気持ちも奮い立たせて戴きました。

 そしてその日の午後10時には帰途に就き、杉戸町に着いたのは翌朝の4時だそうです。杉戸町の有志の皆さん本当に有り難うございました。

 ところがこれで済んだのではなく、更にお世話になることになりました。

 内閣総理大臣は指定区域内からの避難は命じても、具体的な方策を準備した訳ではなく、全ては現場町長の判断に委ねたわけで、混乱するのが当然ですが、それでも第一次避難として川内村にやっと避難集結が完了した。

 ○12日18時、首相から県知事を通じて、富岡、大熊、双葉、浪江の各町長に避難指示

 其の内容「半径20km圏は避難」

 半径20km圏外への避難命令があっても受け入れ先は見付からず、車があっても燃料がない、この頃になるとガソリンスタンドの備蓄が底を尽き、道路が寸断され移動手段も無い状況下で、遠藤町長の苦悩は極限にあり、最後の手段は再び杉戸町に縋り付くことになり、16日午前8時半頃、役場の就業開始を見計らって杉戸町の古谷松雄町長電話し「助けて欲しい、郡山迄移動するにもバスがなく、どうすることもできない、バスを用意できませんか」と哀願、古谷町長は出来ることは全てやると決意し、町内の大型バス4台、中型バス3台の計7台を調達し、16日の午後には役場職員4人を同行させて、川内村へ向かって出発。

 17日早朝から郡山市、三春市、田村市等の避難所にピストン輸送、全員をそれぞれの避難所へ送った。

 郡山市の‘ビックパレットふくしま’を中心とした数カ所の避難に入りましたが、原発から少しでも離れた所を希望する人々がおり、遠藤町長を通じて交渉の結果、埼玉県杉戸町古谷町長が引き受けを快諾、その日のうちに輸送することになり、帰途につく7台のバスに便乗して、「最終目標は富岡に帰り、町を再建すること、それまでみんなで頑張りましょう」との遠藤町長の励ましの言葉におくられて杉戸町へ向かいました。

 杉戸町だけでは収容しきれず、近隣の幸手市、宮代町にもお願いして、最終的な避難希望者192名をバスに乗せ17日の夜に杉戸町に到着、杉戸町89名、幸手市76名、宮代町27名が無事収容出来ました。

 杉戸町の皆さん本当に有り難うございました。また幸手市、宮代町の皆さん何卒宜敷お願いいたします。


深夜にもかかわらず杉戸町役場職員の方々が暖かく迎えていただきました。

◎富岡町民避難、「ビックパレットふくしま」郡山市

流浪の末 やっと落着いたのが郡山市にある「ビックパレットふくしま」

財団福島県産業振興センターが運営する多目的展示ホールで、ホール面積5,495u

大小様々な会議室を有する巨大な建物、ここに富岡町民、川内村民が収容され、仮富岡役場と仮川内役場が設置され、難民生活が始まった。

(4月21日13時30分 菅総理が避難所を訪れた。)

 三春地区、田村地区、大玉村その他の地区へ分散避難、個人の伝を頼っての避難と富岡町民はバラバラになってしまいました。

 しかし、思いは同じ、必ず富岡へ帰るぞ、との信念です。

 避難当時は未だ極寒の日々、そして今、酷暑の日々、苦痛の日々は続く。

(同級生は元気でした)

◎絆(埼玉県杉戸町)

 埼玉県の東部にあり、東隣は千葉県野田市になる人口4万7千人の町、江戸時代は日光街道の宿場町、また中川、江戸川等の水運の町として江戸への物資輸送に重要な役目をしてきた町です。

 その町とソフトテニスの全国大会を契機として知り合い、様々な民間団体との交流や町商工会議所との交流、さらに学校交流事業として両町の小学校の交流として代表が交互にホームスティを毎年行ってきました。

 YOSAKOI祭りには、杉戸町チームも参加して頂き、機は熟し2010年11月3日 杉戸町産業祭で、友好都市協定書及び合意書に古谷町長、遠藤町長が調印し、杉戸町と富岡町の友好都市関係が新に発足しました。

(杉戸町チームの演技) (避難の富岡町民への婦人会の炊き出し)

 この度の富岡町民の窮状に救いの手を差し伸べて頂き、避難所の提供、炊き出し、名物蕎麦屋さんへのご招待、お世話になっており感謝にたえません。

○個人的に避難して役場等に連絡しないままでいる人、家族その他いらっしゃいませんか。

または連絡しようにも何処へ連絡していいか判らない。

避難所を転々としており、住所が定まっていない。

富岡町民避難、大玉村仮設住宅完成

 必ず蘇るぞ故郷

ありし日の仏ヶ浜の夕暮れ
波間に消えた富岡港

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第六章 楢葉町・広野町・葛尾村

楢葉町

 原発事故時点での楢葉町人口7,565名、震度6強の大地震、続いて大津波10.5m、津波による人的被害、死者13名、行方不明2名、重傷2名。住宅被害125戸。

 楢葉町の大半が20km圏内に入り強制避難区域になった。

 12日、町長がいわき市長に避難者受け入れを要請、午前8時、町長の判断で全町民避難を指示、いわき市に向かった。

 いわき市立中央台南小学校に町災害対策本部を設置、会津美里町と姉妹都市及び災害時相互応援協定を締結していた関係で最初195名の町民を避難させ、その後、7回にわたり約1,000名が避難、美里町内に楢葉町美里出張所を開設した。また避難町民へ1世帯当たり1万円の見舞金を支給した。

 その後、楢葉町災害対策本部いわき出張所を明星大学会館内に開設した。

 町民の多くはいわき市内に避難(2014年1月現在5,313人)

 2012年8月10日、警戒区域解除され、避難指示準備区域となった。これによりJヴィレッジ前にあった検問が撤去され、昼間は自由に入れるようになった。

 役場機能を2014年4月を目標に楢葉町本庁に帰還させたい意向を示し、避難指示解除を役場機構移転終了以降になる見込み。

 町民は帰還していないが、町内には既に多数の作業員は居住している。

 楢葉町天神スポーツ公園駐車場には復旧・復興のための作業員宿舎があり、一般住民は、昼の時間帯の帰宅は許されているが宿泊は出来ないが作業員は特例として宿泊できる。

 2014年5月末、旧役場前の駐車場に複数の飲食店などが入居する仮設のプレハブ住宅を建設し、共同店舗を設けた。立地の好い6号線上にあり、第一原発廃炉作業や除染の作業員が一日に数千人往来するから小規模とはいえ商店街は必需で、このことはまた町が帰還する先魁となるとしている。

 汚染で出た汚染廃棄物を保管する中間貯蔵施設建設を巡り、候補地の1つとなった第二原発に隣接する楢葉町波倉地区の約3平方kmの土地に中間貯蔵施設を建設する計画を国は福島県に申し入れた。

 楢葉町長は2014年1月28日、県知事と会い、1km当たり10万ベクレルを超える高濃度の汚染廃棄物は受け入れられないとして、施設配置の再検討を国に求めるよう要望した。

 この申し入れは、国の現行計画素案での建設を事実上拒否したもので、町の全域が避難指示解除準備区域の楢葉町としては、施設建設が決まれば「帰町宣言」をしても放射線量に不安を感じ戻ってこない町民がでてくる。特に若い世代は戻ってこない怖れがあるとして、帰還を妨げる中間貯蔵施設建設を拒絶した。

 楢葉町は、平成24年(2014年)4月に策定した第一次町復興計画を見直す第二次復興計画の中間素案を本年2月25日、町議会全員協議会に示した。

 中間素案では国直轄除染が25年度末に終了する予定のため「帰町の判断」を26年春に行い、放射線量の低減やインフラ整備の進捗状況を総合的に判断し早ければ27年春を「帰町目標」として復旧から復興へ本格的なシフトするとしている。

 中間素案には「帰町の判断」には町政懇談会などを通じて町民の意見を充分に反映させることを盛り込んだ。議員からは復興計画が賠償全般に影響するとして慎重な判断を求める声などが挙がった。

 中間素案は町復興推進委員会が取り纏めており、4月には第二次復興計画を策定する方針を決めている。

 避難者総数7,526人、平成24年8月、同区域が避難指示解除準備区域に見直され、帰還準備に入っているが、初の特例宿泊として、3年振り自宅での正月を迎えるために昨年末28日から新年1月4日までの1週間を自宅で過ごすことができた。

 日中は帰宅が自由となり、掃除や周辺の手入れのために帰宅する住民が多くなり、また第一原発の作業員や除染作業員の昼間人口は多く、セブンイレブン楢葉下小塙仮設店舗が開店し午前7時から午後8時まで営業するようになり、これに続いて昼間だけ営業する店舗の進出がある。全面的な帰還宣言の日も近い。

 2014年2月28日の発表、復興庁、県、楢葉町合同の住民意識調査では、町に直ぐ戻る8.0%、条件が整えば戻る32.2%、今は未だ判断が出来ない34.7%、町には戻らない24.2%、無回答0.9%。

 高齢者は町に戻りたいと回答、若い人ほど戻らないと回答。なお、JRは広野駅までは開通しているが、楢葉町の指示解除になれば、即着工して再開に備えることになっている。

 なお広野〜竜田間では大津波の直接的な被害はなかったから、工事は短期間で終了する見込み。(JR竜田駅まで運行開始)

 楢葉町2,729世帯、7,510人の早期解除として、町は本年5月に住民の帰還時期を判断することにしている。

 2015年初春、楢葉町で少数の住民が自宅で正月を迎えることが出来た。勿論、国と町の了解を得て、昨年12月から役場職幹部職員数人が楢葉町にある自宅に戻り生活をはじめた。

 町は生活圏除染が済み、電気、ガス、上下水道も使える。役場近くは地震の被害や鼠の被害は少ないらしい。但し夜中には猪の出没が懸念される程度だという。

 町の幹部職員であるから、いわき市にある楢葉町仮役場に通勤することになる。

 楢葉町の戻った楢葉町放射線対策課長の木洋さんは奥さんのひろみさんと自宅に戻り元役場で働いている。一部の機能は元役場に戻り、約20名の職員が昼だけ働き、夜は避難地の家族の元に帰る。

 楢葉町の人口は約7,500人、放射線量が比較的低く、早期の避難指示解除が見込める。町は帰還解除の目標を早ければ今春以降としている。

 このため役場職員が率先して自宅に戻り、気運を高めるべきだとの意見が多く、松本幸英町長も近日自宅へ戻る予定だという。

 2015年1月28日、約3年10ヵ月ぶりに町内の元の議場で議会が開かれた。

 午前10時半、町役場内にある議場に議員12人と松本町長と町幹部が集まり、町内での工事契約案件など2件を審議した。

 避難自治体のうちでは空間放射線量が比較的低く、町は住民帰還の目標日時を「今春以降」と決めた。

 2015年1月30日、24時間営業のコンビニが開業した。「ファミリーマート楢葉町上繁岡店」で国道6号線沿にあり、ミニスーパーの規模がある。

 JR常磐線は竜田駅〜原ノ町駅(46km)が不通だが、2015年1月30日、JR東日本の代行バスが運行を始めた。原発事故以来、公共交通機関のバスが運行するのは初めて、1日2往復。

広野町

 第一原発から南へ約25kmのところにある広野町はJR広野駅を含め町の中心部商店街は津波の被害を免れた。

 半径20kmの圏外に位置し、30km圏内の緊急避難準備区域に指定されたが同年9月30日解除された。

 従って避難の必要性はなかったが、町民5,418人のうち約4,000人は隣接するいわき市に避難した。これは山田基星町長がいち早くいわき市に連絡し、承諾を得ており、いわき市に避難した。

 役場機能は、3月15日、田村郡小野町にある小野町民体育館に移し、1ヵ月後の4月15日、いわき市にあるFDKモジュルシステムテクノロジーいわき工場内の社屋に再移転したが、町民の帰宅を促すために2013年11月に役場機能の全てを元の広野町役場に戻し、広野小学校、広野中学校は24年度2学期から元の校舎で再開した。

 緊急避難準備区域指定は事故発生後半年の9月に解除され、自由に出入りはできるし、町内の空間放射線量は毎時約0.1〜0.6マイクロシーベルト。

 第一原発から北西へ約60km離れた福島市の中心部より遙かに低い価であった。

 だが、避難した町民の大半は南隣のいわき市に居続け広野町には戻ろうとしない。本年2月現在、約3,900人が避難したままの状態にある。

 指定期間中は東電から1人あたり月10万円の慰謝料が支払われていたが、2012年8月で打ち切られたが、現在広野町民は僅か1,353人が戻ってきただけだ。

 その間、町長選があり現職だった山田町長は再選を果たせず、元町議の新人遠藤智町長に代わった。

 行政としては1日も早く町民が戻ってくることを願っているが、町に帰還できるかどうかは「医療や福祉、買物のなど日常的なサービスが元通りなった時」を挙げるが、商売をする側にしてみれば、お客がいない状態で再開する気はない。住民が先か、商店が先か、探り合い状態にある。

 町民が戻ってこない現象の中、中高一貫校構想が本決まりになった。今まで高校のなかった広野町に双葉郡初県立中高一貫校設立が決まり、一貫校に通う中高校生は町内に住めるよう宿舎を町内に建設する予定になっている。

 確かに朗報ではあるが、これをもって町民を呼び戻す起爆剤になるかどうか。

 町民が求めているものは、第一原発事故以前の町民の人口5千余人が暮らす、活気ある町の再来を望みながら、一斉に戻ってくることはあり得ない。

 避難生活が長期化すれば、いわき市を中心とした現在の生活の方が望ましいものであり、子供にとっては現在通学している学校を選ぶことになる。

 高校がなかった広野町の中学生は、いわき市の高校に通学するのは当然としてきたし、親の多くもいわき市内に通勤していたのであれば、広野町へ戻らなければならない理由はない。

 既に4年を経過、避難地に定着するか、将来を見詰め他所に移転したか、若い世代が戻らない町に未来はない。

 一方、広野町の最北部にあるJヴィレッジは、第一原発の工事関係者、自衛隊、警察等の前線基地となり、現在は全国から集められた作業員の宿舎となって、住民票を持たない約2,600人が居住しており、住民票を持つ広野町町民約5,200人のうち、町に戻ってきた人は約1,350人。

(広野町役場再開式)

 双葉郡内で唯一避難解除されている広野町は、復興関連の拠点の最前線となり、関連の企業が80社余、東電の原発関連、広野火力発電が30社、そして警備、リース、道路作業関連企業が32社等数多くの企業体が広野町に集まっている。

 それらの企業で働く作業員は全国から集まってきて約3,000人以上に膨らむ、今後更に増える見込み。

 最初の宿舎はJヴィレッジの施設内に作られ、2012年6月で約1,000人、翌2013年10月では2,500人と急増、事故対応作業員宿舎となっており関係者以外は立ち入り禁止、その周辺にも作業員宿舎が建ち並んだ。

 更に14年中に町北部の2ヵ所で宿舎建設を予定している。従って町はさらに原発や除染関連事業者の事務所誘致する構想を打ち出している。

 宿舎の近くにコンビニがあり、「ファミリーマートJヴィレッジ前店」第一原発から20km少々、国道六号線沿いにあり、行政区は広野町に属している。

 事故後避難のため閉店したが、11年9月、指示解除に合わせ9月に店を再開した。再開以来お客の大半は原発関係作業員で、午前5時から午後10時まで、店の売り上げは食料品、お茶、清涼飲料水、アルコール類で、震災前から開店しているが、売り上げは現在の方が遙かに大きいらしい。

 作業員の宿舎は幾らあっても足りないくらいで、隣町の楢葉町は未だ避難解除はされていないが、作業員宿舎は設けられ、多数の作業員が居住している。

 それでも未だ足らず、いわき市内及び近隣の民宿、ホテル、その他宿泊設備を借り上げられ、通勤片道2時間もかけて通っている。勿論JRは不通であるからマイクロバスでの移動だ。このため国道六号線は連日、朝夕大渋滞らしい。

 これは双葉郡全体で言えることだが、今後何十年間は各種の工事が継続される。産業もない、雇用を生む企業もない双葉郡内に第一原発の廃炉だけでも今後40年以上続くともいわれ、巨大な労働者市場が形成されることは確実だ。これを我町復活のための千載一隅のチャンスと捉えることが出来るか。

 少なくとも1万人以上になるであろう作業員を如何に取り込むか。作業員用宿舎を都市計画に基づきオリンピックの宿舎のような恒久的な建築で迎え入れ、更に付帯設備を充実できるか。

 そうすれば1万人以上の作業員の消費を支えられる商店街をはじめとする関連機関は確実に戻ってくることになる。即ち町再興の起爆剤として利用できる。

 今後解除域は拡大し、楢葉町、富岡町の為政者が町造りにどう応用するか。1万人以上の作業員、関連会社をどう取り込むか。作業員の街を造る意欲があるか、宝の山と判断するか、必要悪と斬り捨てるか。為政者の判断を見守りたい。

広野火力発電所 新設工事

葛尾村

 葛尾村は山間にある小さな村で人口僅1,567人、世帯数477、面積は約84ku、そのうち約8割を森林が占める小さな農村地帯である。

 東日本大震災での被害は、地盤が固かった故に役場の地震計が震度5.4(5強)を記録していたが、被害は一部で屋根の瓦が落ちた程度、道路に亀裂、部分的ではあったが土砂崩れがあった。

 ただ残念なことには役場内には地震計は装備されていたが放射線量測定器は装備されていなかったが故に放射線量の異常には気付かなかった。第一原発から30kmも離れており、まさかとの思いが強かったのだろう。

 12日になると浪江町や沿岸部から葛尾村の親戚を頼って避難してきた人々が増え、その数約200人に達してきたから、これはただならぬ大事故だとの思いを強くなってきたが、しかし、山間部の盆地だから山が遮ってくれるだろうとの思いも強かったし、県からの指令は何もなく、役場から県庁への問い合わせにも明快な応答はなかった。

 やがて20km圏内避難の指示が出た。葛尾村も一部だが20km圏内に入る部分があり、該当する地区の住民27世帯96人を村の公民館に避難させた。

 しかし、これも国からも県からも何ら連絡も指令もなかった。あくまでも村が独自に判断した行為であった。

 福島県の非常用防災情報システムは地震により機能停止、国、県からの情報は途絶え、ただ一つ機能していたのはテレビ放送による情報が唯一であり、さらに東電関連の企業や消防関係者からの個人的繋がりから得た情報のみ、2基の原子炉が爆発したらしいとの情報が警察から入手し、14日昼、サイレンを鳴らして屋内避難を呼びかけた。事実、後の調査では葛尾村の一部では100マイクロシーベルトにたっした処もあったらしい。

 3月12日 午後3時36分、第一原発

 3月14日 午前11時01分、3号機水素爆発

 3月15日 午前6時、4号機爆発

 村長は必死になって県に避難の必要性と情報の入手を懇願したが、20km圏内だけが避難指示であって、20km圏外では避難指示は出来ないし、避難場所の紹介もしないとの県の回答であったので、温厚な村長も怒り心頭に達し、その後は県に幾度電話しても繋がらず、県からの電話連絡も途絶えた。

 やっと繋がったのは南相馬市にある双相の現地対策本部、ここには何ら決定権はなく、ただ県に申し伝えるだけ、その後の連絡は全くなし、この連絡事務所もその日のうちに避難してしまったのだから連絡のしようもなかった。

 NTTの富岡局が駄目になって地上回線は全て機能しなくなってしまった。従って衛星回線だけが連絡手段となり、大熊町にあったオフサイトセンターが14日夜、避難を決め、消えてしまった。

 この情報は消防無線で傍受したので信頼性があり、こうなると刻々と危機が迫っていることが明らかであり、国や県の指示を待っていたのでは手遅れになると判断し、村長の自主判断に任されて最後の決断として14日午後9時15分、村長がみずらマイクを握り、村外避難指示を放送した。

 避難先を確保していたわけではない。とりあえず駐車場を確保する為に福島市の「あずま総合運動公園」を目指した。その時の心境としては2〜3日で解除になり戻れるものとの思い込みが強く、駐車場で車中泊の積もりでの避難であった。

 大半が自家用車での避難であったが、保護者のいない高齢者や自家用車のない家族は村営バス5台、村民の36%高齢者、家族が全くいない独立歩行が困難な高齢者5名には職員2人が各々付き添った。

 この避難指示が全村の住宅にもれなく連絡がいき届いたのは葛尾村情報通信基盤を活用したからで、これはNTTの電話回線とは別の設備で、役場から光ファバーケーブルで高台の受信アンテナを繋ぎ、そこから全村にたいして放送すると同時に各家庭にある光変換装置、IP音声告知放送受信機が装置されていたため緊急連絡は全村各家庭にいきわたった。

 放送から1時間後の22時15分にはあずま運動公園を目指して大車列は出発した。幸いあずま運動公園にある体育館が空いており、全員収容することが出来た。

 その際、他地区から葛尾村に避難していた人々も全て行動を共にし避難した。

 だがここは避難場所には不適で、更に受け入れ地を求めて会津板下町に移動し、ここに仮役場を設けたが、村民の多くは三春町に移動した。

 後のことであるが政府は事故発生から1年間の積算線量が20ミリシーベルトの達すると見込まれる地域を「計画的避難地域」と指定し、葛尾村全域が指定されており、村長の英断が効を奏したことになる。

 3ヶ月後村民の大半は三春町に集結し、三春町と県の協力により9カ所に仮設住宅440戸を建設、入居希望者の全世帯を入居可能となった。

 残念ながら除染作業は遅々として進まずふる里へ帰れる見通しは立たない。

 帰還困難区域や子育て世帯を優先して入居させる復興公営住宅を平成26年度に造成地着工、27年度中に入居可能となっている。

 葛尾村

 県内避難者 1,399人  県外避難者 95人  合計 1,494人

 三春町  845人

 郡山市  283人

 田村市  139人

 いわき市 34人

 福島市  24人          死亡 83人 転出 76人

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