東京栴檀会 コラム    

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コラム

「ふたば創生」片寄 洋一さん(高6回)

 あの大惨事から4年が経過した。避難生活は未だ続き、何時になったら避難指令解除になるのか誰も判らない闇の中にある。また避難指示解除の令がでても、以前と同じような生活が戻ってくる保証は全く無い。それどころか新たな苦難の始まりになりかねない。

 ふる里の人々は苦しみ、悩み、絶望の淵にいる。このような時に安閑として傍観している場合ではない。ふる里の惨状を救済したい、手助けの方法は何かないか、恩返しをしたい。双高OBとして思いは同じ、東京栴檀会として何か出来ないか。ここに各種の資料を提供し、OB諸兄姉の叡智と行動を期待したい。

高6回 片寄 洋一

 まえがき 【第四編 我が国の電力事情】
【第一編 東日本大震災】   第25章 我が国の電力事情
  第01章 福島第一原発事故再考   第26章 只見川総合開発
  第02章 大熊町全町民避難   第27章 原子力発電への途
  第03章 双葉町全町民避難   第28章 原発と福島県
  第04章 浪江町全町民避難   第29章 地元誘致の動き
  第05章 富岡町・川内村避難   第30章 磐城飛行場
  第06章 楢葉町・広野町・葛尾村   第31章 福島第一原発建設開始
  第07章 双葉病院の悲劇   第32章 原発建設の必要性
  第08章 福島第二原発   第33章 中東情勢と原発
  第09章 第一原発吉田所長の活躍   第34章 中東の複雑さ
  第10章 外国での反響・協力   第35章 中東からの輸送路確保
  第11章 核の恐怖   第36章 海洋資源
  第12章 数々の隠蔽工作   第37章 海の国境線
  第13章 福島県知事の叛旗   第38章 ロシア革命
【第二編 事故後の混乱】   第39章 ポーランド孤児救済・保護
  第14章 原発事故後の混乱   第40章 第二次大戦への突入終結
  第15章 SPEEDI情報   第41章 北方四島問題
  第16章 その他の情報があった 【第五編 栴檀のふたば】
  第17章 事故は防げたのか   第42章 五年目の春
  第18章 国会最終報告書   第43章 残留放射線(能)汚染再考
  第19章 顧みて   第44章 ふる里は聖地
【第三編 核の知識】   第45章 双葉地方の農業
  第20章 原子力発電所の仕組   第46章 これからの農業形態
  第21章 放射線量(能)の知識   第47章 双葉地方の工業化
  第22章 除染作業   第48章 太平洋に挑む
  第23章 中間貯蔵施設   第49章 人工島の活用
  第24章 もう福島には住めないのか   第50章 被災地再興の原動力は教育にあり

第七章 双葉病院の悲劇

 東電・福島第一原発から約4.5kmの地点に医療法人博文会双葉病院がある。

 双葉地方にとって中核をなす大病院で、内科、精神科、神経科があり許可病床数350床、認知症、痴呆、寝たきりのお年寄り患者340人が入院していた。

 住所は大熊町熊、JR大野駅から南へ徒歩約15分、常磐線の海側で線路際にある。

 地震発生時には計340人の患者が入院、さらに近隣にある傍系の介護保健施設である「ドーヴィル双葉」には98人が入居していた。

 双葉病院の医師らはドーヴィル双葉の入所者の診察も担当し、入院の必要があると診断すれば双葉病院で引き取るという提携関係にあった。他にもグループ・ホームも運営しており、こちらは27人が利用していた。

2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災、大地震での被害は、家屋損傷はなかったが、屋上に貯水タンクがあり、天井裏に配管されていたが、これが破損して病院内が水浸しになり、水道が使えなくなった。また暖房用のお湯も漏れてもうもうと湯気が立ちこめ視界も悪くなる位であった。

 停電になって明かりは全て消えてしまい、非常用発電機も故障で駆動せず、3月とはいえ日暮れは早い、5時には暗くなり、僅かにバッテリーによる非常灯が灯るだけ、それもバッテリーがなくなるのは時間の問題、電気がないということは明かりばかりではなく、テレビによる情報集収もできず、電気を使う医療機器も使えなくなった。

 電話は固定電話が11日夜までは通じたが、それ以後は不通、携帯電話もソフトバンクだけが使えたが、やがてそれも不通になってしまい、充電も出来なくなってしまった。

 そのような状況下でも全職員は暗闇の中、懐中電灯とロウソクの明かりを頼りに患者を必死で看回った。しかし顔色は判別できない。

 最も深刻だったのは重症患者が入院している東病棟で、日頃から点滴で栄養を補給し、酸素吸入で命を繋いでいる患者が多い。精神疾患の他に合併症を持つ患者が多く肺炎や気管支炎等の呼吸器疾患、膀胱炎、腸閉塞、肝炎、癌の患者もいた。

  従って寝たきりであって動かすことすら危険な状態にあった。

 不安な一夜が明けた翌12日午前5時44分、政府は第一原発から半径10km圏内の避難指示を出した。4.5kmしかない病院は避難圏内にはいった。

 大熊町の防災無線が全町民の避難を呼びかけ「大熊町は全町民避難しますので、最寄りの集会所に集まってください。自家用車は使わないでください」と放送した。

 双葉病院としては、避難するとしても認知症あるいは寝たきりの患者ばかりで、病院独自では何も出来ない。そこで病院の統括課長が、災害対策本部長である大熊町町長に避難支援を申し出たが、町としても早朝から全町民避難を指示しており、午前中はてんやわんやの最中であったが、午後2時過ぎ、やっと観光バス5台がやって来た。

 しかしベッドに寝たきりの患者や車椅子では乗ることが出来ない、それで自立歩行が可能な患者209人と医師3人・看護師が各車両に配置され、バス5台と病院の車6台に分乗して、午後二時避難第一陣が出発した。

 受け入れ先が無い状態での出発であり、最初は田村市の常磐中学、次は別の小学校、田村市総合体育館と次々と断られ、最終的には三春町の要田中学校が受け入れを承諾してくれ、やっと受け入れてもらえるまで約5時間を要し、辺りはもう暗くなっていた。翌日、いわき市の開成病院へと搬送された。

 更に茨城、東京、神奈川、埼玉、山梨の各病院から患者を引き取ると申し出があり、そのうち茨城と山梨の病院からはバスをチャーターして迎えに来てくれた。

 この第一次の避難患者からは幸い死者は出なかった。

 第一次避難者が出発した後、入院患者130人、ドーヴィル双葉には98人の入居者がおり、病院長、ドーヴィルの施設長、総務課長以下スタッフが現地に残り、次の救助隊が続いて直ぐ来るものと信じて、片時も目を離せない重症患者を抱え、酸素吸入をしているICU患者など寝たきり患者だけが残った。だからこそ直ぐに来ることを信じて患者の看護をしながら待機していた。

 第一次の救助隊が出発した2時間後の午後には1号機が爆発。

 その日来るはずの第二回目の救助隊は来なかったが、夜遅く自衛隊員がきて「明日には車を手配できる」と告げた。

 しかし、翌13日にも救助隊は来なかった。電話、携帯電話は不通、そこで鈴木院長は再度手配を願いたく大熊町役場に行ったが、既に役場には人の気配はなく全員避難した後だった。

 その後の調査報告書によると、大熊町の担当者が確認を怠り、避難は1度のバス手配で全員が避難できたものとの思い込みがあったらしいと指摘された。

 患者の大半は重度の認知症や寝たきり患者であって、病院内は停電で水道も止まっており、院長以下スタッフ全員は点滴、オムツの交換、簡易トイレ、水洗トイレは使えない。夜間はロウソクの明かりだけが頼りの看護だった。

 次の救助隊がいつ来るのか、手配はどうなっているのか、警戒中の警察官や自衛隊員に訊ねても誰も判らない。院長は通信連絡手段を求めて町に飛び出したが、パトカーにであい「早く助けてくれ、このままでは患者は死んでしまう」と怒鳴った。警官は警察無線で基地局に連絡してくれたが車手配の確約は出来なかった。

 その間最初の犠牲者である82才の女性患者が亡くなり、4人が救助待機中に命をおとした。

 夜になってから双葉警察署長がやって来て、車の手配ができない。今日の救出は難しいと告げられた。

 14日早朝6時半、自衛隊車両が到着、双葉病院入院患者34人、老健ドーヴィル双葉の入居者98人を救出したが、寝たきり患者を車両に乗せるのだから、病室では医師や病院スタッフがストレッチャーに乗せ、警官は玄関まで運び、玄関から車両へは自衛隊員が運び、132人を車両に乗せた。

 その作業は長時間を要してしまったが、病院スタッフが病院内で作業中に、自衛隊側は患者を乗せ終えたので、病院側に連絡することなく出発してしまった。

 従って車両にはケアの出来る病院スタッフは付き添っていなかった。連絡ミスなのか、組織が異なり指揮命令系統が異なると、しばしば起きる錯誤だろうか。

 病院スタッフとしてはまさか置いて行かれるとは露思ってもいなかった。

 しかも行く先は定かではない。車両の隊列は30km離れた相双保健所にあるスクーリングに着いた。ここは20km圏内から脱出した人々がここで検査を受けることになっていたからだ。

 そこで指示されたのは、いわき市にあるいわき光洋高校が避難場所であった。

 しかし、午前11時1分、3号機水素爆発、浪江町から楢葉町までの国道6号線は封鎖されため、直線であれば30kmであるいわき市への移送が、福島市、郡山市という大迂回路で230kmの大移動で、10時間以上を要し、移送中3人が死亡、到着後の高校体育館で11人が亡くなり、計24人が死亡した。

 14日午前中に第二陣を送り出した後、直ぐまた第三陣が来るはずであったが、残留していた患者95人を必死になって看護にあたったが、救助隊は来なかった。そこで自衛隊の隊長が自衛隊の動向を確かめるため、近くのオフサイトセンターに連絡に行くといって出かけ、戻ってはこなかった。

 どうもオフサイトセンターに人がおらず、命令を受領するために本隊まで戻ってしまったらしい。

 病院側は自衛隊の輸送指揮官が次の輸送隊を手配するものだと待っていたが、またもや待ちぼうけとなってしまった。

 14日夜半に双葉警察署副署長が病院にやって来て、緊急避難だ。東電は撤退を検討していると告げた。そのためにも自衛隊による救助を急がせなければならない。「自衛隊が来るから割山峠(川内村)で合流しろ、これは上からの通達だ」と告げられ、警察車両で割山峠に連れ出された。

 15日、院長は早朝より病院に戻ろうとして警察と自衛隊にかけ合ったが上からの命令だと取り合わなかった。

 15日、午前6時、2、4号機が爆発、午前10時、別なルートを通って自衛隊車両は双葉病院に到着、残っていた93人の患者を救出、二本松市にあったスクーリングを受け、福島市や会津若松市の病院、老人保健施設に避難した。

 しかし、最終的に避難が完了したのは16日になってからだった。

 11日、12日は死亡零、13日、救助待機中に4人が亡くなり、避難搬送中に衰弱で2人が亡くなった。15日に93人が搬送されたが24人が死亡した。

 避難した先の体育館や施設で医療設備がないまま痰が喉に絡んでの呼吸困難等で20人が死亡、1月30日までに計50人もの多くの高齢者が亡くなった。

 更に判明したことは、認知症で入院していた患者(女性、当時88才)が、避難指示が出た後、明かりのない院内で14日までは生存が確認されていたが、16日最後の救出時には姿がなく、その後の捜索でも見付からず、13年9月に失踪宣告が認められた。

 困難を極めたが、やっと避難が完了し、院長以下病院スタッフはホット一息していた頃、3月17日、午後4時、福島県災害対策本部より配布されたプレスリリース(報道発表文)から悪夢は始まった。

 その内容は、「施設には、結果的には自力では歩けない、重篤患者だけが残された」「自衛隊が到着したとき双葉病院には医師も職員もいなかった」「病院関係者が誰もいなかったので、患者の状態に関しては一切判らないまま救出した」とされていた。このことは自衛隊側から連絡があったことに基づくらしいが、その情報を確認することなく一方的に発表してしまったのが騒動の始まりであった。

 またマスコミ側も裏をとることなく、テレビニュースはその日の夕から、新聞は翌朝の3月18日朝刊から、全国紙に報じられ、その見出しは、

◎医師ら付き添わず、21人死亡の双葉病院

◎福島避難の高齢者14人死亡 救助時、患者のみ82人

◎医師、職員らは不在、

◎福島 双葉病院、患者だけ残された

◎院内に高齢者126人、医師ら置き去り、避難指示の双葉病院

 この報道の波紋は大きく「見殺し」「置き去り」「放置」「逃亡」など医師としての倫理は勿論人間としても許容出来ない悪徳医師扱いの罵詈雑言が病院関係者に浴びせられることになった。

 17日夕、県発表の後、テレビュー福島から病院にこの県発表の事実を問い合わせがあって院長は初めて知って、県に対して猛烈な抗議をした。

 しかし、一度公表されてしまった風評は取り消せるものではない。全国的な双葉病院パッシングが始まり、特に鈴木院長への風当たりは強く、患者の家族や遺族からの抗議は猛烈だった。

 福島県は誤りを認め、5ヶ月後の8月31日、福島県双葉病院「患者置き去り」に関し、報道発表にはミスがあったと謝罪した。

 しかしマスコミ各社は、確認しないまま公表した福島県の責任だとして、小さな訂正記事を載せるか、無視するかであって、裏をとらずに報道したことに関しては謝罪することはなかった。

 更に単純な疑問を呈すると、何故このようなことを県が率先してプレスリリースしなければならない必要があったのか、隠された何かがあるのだろうか。

 後日、双葉病院は県に対し謝罪を求める訴訟を福島地裁に起こした。

 確かに想定外の大災害で、対応が後手に回ったり、状況判断にミスや誤解があったり、指揮、命令系統が錯綜したり、現場が混乱するのもやむを得ないかも知れないが、それにしても酷すぎる県の発表であった。

 更にもう一件事故があった。認知症で入院していた女性患者(事故当時88才)が、避難指示が出た12日から14日までは停電になっていた病院内で生存していたことは確認されていたが、16日の最終救助の際には姿がなく、病院内と周辺をくまなく捜索したが見付からなかった。

 家族が申した失踪宣告が13年9月に認められ、法律上の死亡が確定した。

 家族7人が「事故と失踪には因果関係がある」として、原子力損害賠償法に基づく慰謝料などの支払いを求めている。

 政府事故調査・検証委員会や病院側の調査によると、事故後、院内で4人、搬送中に15人が死亡、その後の避難に伴う病状悪化により11年3月中に更に21人が亡くなった。

 避難中や避難後に亡くなった人の遺族が賠償を求めて東電を提訴している。

 国は、原発事故情報を発信せず、避難指令を発しただけで、避難先も、避難手段もなにもかも現地任せ、更に現地での対策本部になるはずであったオフサイトセンターは、原子力災害時に応急対策のための拠点になると国が定めたものであり、経済産業省・原子力保安院、福島県、東京電力、大熊町が中心となり、緊急時には警察、自衛隊が参加することになっていたはずの組織が、肝心の緊急事態発生時には何の働きもしなかった、あるいは出来なかったのは何故なのか。

危機管理センターの存在

 阪神淡路大震災時、情報が内閣に挙がって来るのが遅れ、救助活動の発令が大幅に遅れてしまったことを反省し、新しい官邸の地下1階にオペレーションルームを設け、ここを首相官邸危機管理センターとした(但し、組織名ではない)

 ここを主に運用しているのは内閣情報調査室集約センター。24時間体制(5班20人)で重大事故、災害、テロ等に備え警察庁、警視庁、消防庁、海上保安庁など危機管理に関係する省庁とホットラインで結ばれている。

 管理しているのは「内閣危機管理監」(官ではなく『監』)歴代の内閣危機管理監は大物警察官僚OBが就任している。(警視総監経験者)

 有事の場合は総合幕僚長、各自衛隊(陸海空)幕僚長が参謀として入る。

 設備は素晴らしい機器が設置されているのだろうけども今回もまた司令部としての働きはしていない。

 但し、首相とその側近は上階の首相執務室で指揮を執っていたらしく、危機管理センターを活用したのかどうかは判らない。

 まさか承知の上で「だんまり」を決め込んだとは思えないが、これらの貴重な資料がある点で握りつぶされてしまったのは事実らしい。もしこの危機管理センターが完全に機能していたら、SPEEDIの存在も承知しているはずだから情報が上がってこないことに不審を感じなかったのか、ホットラインで繋がっていながら各省庁に問い合わせもしなかったのか。

 内閣危機管理センターは存在していたが、安全神話を信じてシミュレーションを怠っていたのだろうか。

福島オフサイトセンター

 原子力災害対策特別措置法第16条では原子力緊急事態宣言をした際には、当該原子力緊急事態に係わる緊急事態応急対策を推進するために閣議にかけて、臨時に内閣府に原子力災害対策本部を設置するものと規定されている。

 大熊町には第一原発から約5kmの地点、JR大野駅近く、県立病院に隣接したところに通産省・原子力安全・保安院の福島県原子力災害対策センター・オフサイトセンター(OFC)があり、このセンターには大熊町役場吏員が常駐し、かつ大熊役場にも近いので、国や県の情報はいち早く入手することができた。

 このオフサイトセンターとは、原子力災害発生時にここを拠点として国、自治体、原子力事業者による事故拡大防止のための応急対策、住民の安全確保策などさまざまな緊急対策が必要となるため、2004年4月、原子力災害対策特別措置法において全国19カ所に設置された。

 オフサイトセンターを拠点に、国、自治体(県、地元6自治体)、事業者、専門家等が一体となって「原子力災害合同対策会議」を設置し、迅速に有効な手を打つことになっていた。

平成21年次の訓練

 ところが大地震によりオフサイトセンターの一部に損害が発生、停電、電話は繋り難い状況に陥っていたが、県や保安院職員、自治体代表等100人以上が集まり、現地対策本部長に任命されていた池田元久経産副大臣は、東京から現地に向かったが大渋滞に巻き込まれたため、自衛隊ヘリで田村市に飛び、車で大熊町オフサイトセンターに着いた。

 停電は12日午前3時に復旧、ところが室内は1時間あたり10マイクロシーベルト、建物の外は800マイクロシーベルト、外に2時間いるだけで、一般の人の年間許容量1ミリシーベルトを超える猛烈な線量に達していた。

 更に建物はコンクリート製である程度放射線量を遮蔽できたが、放射性物質の侵入を防ぐ高性能フィルターがエアコンに装着されていなかったため、空気の入れ換に伴って放射性物質も入り込み、室内の総量は上昇するばかりであった。

 外部との連絡は12日昼以降、衛星携帯電話が2回線とファクス兼用のテレビ会議システムが使えるようになったが、回線がパンク状態で通信手段の貧弱さは致命的であった。

 食料の備蓄はなし、ガソリンも補給できず、放射線モニタリングカーの走行も出来ず、設備、運営の全てに関して保安院の想定が甘すぎたため、14日夜、現地対策本部であるオフサイトセンターから福島県庁へ移ることを決め、15日午前11時センターは閉鎖された。

 原子力非常事態時に対処するために設けられたオフサイトセンターが真っ先に機能不能に陥るとは一体何を基準として設計されたのか。

 公式には3月15日に閉鎖、郡山市に移転、更に福島県庁内に移転したことになっているが、14日に双葉病院にいた自衛隊隊長が連絡のため近くのオフサイトセンターへでかけたが既に誰もいなかったらしい。このため命令受領のため本部まで戻ってしまうというアクシデントがあり、双葉病院側は自衛隊の救援隊が直ぐ来るものと信じて待機していたが、この間最初の死者が出てしまった。

 現地対策本部は、国、東電、県、町、警察、自衛隊の連絡、連携すべき各機関で構成されているが、何もしない、あるいは出来ないまま、福島県庁内に移転してしまった。

 未だ双葉病院には残留患者がいたし、鈴木院長は必死になって助けを求め、連絡手段を求めて駆け回っていたときには既に撤退していたことになる。現地の悲鳴や状況を把握できないまま、現地対策本部は消えた。

 避難だけを命じた官邸は救助の手段も、搬送先も指定せず、動かせない重症患者を何とか搬送する手段を求めて奔走していた病院長以下のスタッフをマスコミは「医師は逃亡した」と報じた。

 大混乱の中、誤報は付きものかも知れないが、この誤報は酷すぎた。

 ここにも安全神話が先行し、緊急時のシミュレーションをはじめとする安全対策が全くなされていなかった悲劇が存在する。

 全てがぶっつけ本番の大混乱だったのだ。安全神話を盲信していたが故の混乱だったのだろうか。

先輩、鈴木市郎院長 高5回卒業。薬科大学、北里大学医学部卒

鈴木院長は双高在学中野球部主将として活躍、その戦績。

  第34回全国高校野球選手権福島県大会 昭和27年福島県予選大会

  2回戦  双葉 8ー 1川俣

  3回戦  双葉 5ー0 喜多方

  4回戦  双葉 4ー2 平商

  準決勝戦 双葉 3ー2 福島商

  決勝戦  安積 7ー1 双葉

 安積高校には当時福島県一の剛速球投手であった野田投手(後明大野球部で活躍)がおり、決勝戦で惜敗した。

 当時の甲子園出場は高校の数により、1県1校と2県で1校が選ばれる制度で、福島県と山形県の2県で1校となっていた。

 県大会で優勝校と準優勝校の2チームが代表となり、山形県の2チームで争われた。

 福島県代表、安積高校、双葉高校。山形県代表、山形東高、山形南校。

第34回 全国高校野球選手権東北大会

 1回戦 山形東高 6ー5 双葉高  延長11回  (甲子園出場校は山形南高)

  投手 飯田 3年 広畑 2年

  捕手 大井 2年 石井 2年

  一塁 鈴木(康)2年

  二塁 岩野 2年

  三塁 白岩 3年

  遊撃 鈴木(市)3年 主将

  左翼 遠藤 3年

  中堅 松本 2年

  右翼 永井 2年

双葉高校 甲子園出場の記録

 1973年第55回全国大会

   1回戦 双葉高校 0対12 広島商業

 1980年第62回全国大会

   1回戦 双葉高校 3対1 川内実業

   2回戦 双葉高校 5対7 札幌商業

 1994年第76回全国大会

   2回戦 双葉高校 1対0 市和歌山商業

   3回戦 双葉高校 1対4 樟南高校

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第八章 福島第二原発(F2)

 平成23年3月11日午後2時46分 地震発生 マグニチュード9.0

 震源地、三陸沖(北緯38度、東経142.9度)深さ10q

 富岡町の震度:震度6強家屋の全壊、半壊があったようですが目撃情報だけで翌早朝避難命令が出てしまい調査はしておりませんので正確な地震による被害は不明です。ただし、地震による崩壊はありましたが、それに伴う火災発生は無かったようです。

 震度6強の解説:震度には「震度0〜4」「震度5弱」「震度5強」「震度6弱」「震度6強」「震度7」の10段階があります。

 具体的な「震度6強」

(1)はわないと動くことが出来ない、掴まっていないと飛ばされることがある。

(2)固定してない家具は倒れるか、移動する。

(3)耐震性の低い木造家屋は傾くか、倒れる。

(4)大きな地割れが生じたり、大規模な地滑り、山の崩壊が発生したりする。

◎大津波 地震発生から約40分後の15時27分第一波の津波がやってきた。富岡沿岸での波高推定15b以上(最初14mと発表されたが4月9日原発の作業員が携帯電話で撮影した映像を解析して15m超に訂正)最初の激震から次々と震源地が広がり長時間揺れていたため、揺れが収まってから津波来襲までの時間が短くなってしまった。猛烈な引きがあって、第一波が押し寄せ、第二波、第三波と続き、更にあちこちで余震が連続したため、津波も連続して襲ってきた。

 下記の被害地図は役場の職員の方からの聞き取りと衛星写真を参考にして私が作成しましたので正確でないかも知れません。もし目撃された方の情報を頂ければ修正します。こちら(katayose@aaa-plaza.net)までメールをお待ちしております。その他の情報を含めてお報せ下さい。

○死者19名、行方不明7名(7月10日付け新聞報道)

 津波は川がある低地ほど勢いよく遡上し、最上点は富岡町役場に通る道路の橋を超えた地点まで達しています。(今村病院付近まで)

斜線部分は津波により流失、破壊された地域

仏浜、毛萱、駅前、浜畑、小浜の一部、小良ヶ浜

 遠藤町長ご自宅、富岡港施設等、上記の地区で海岸線に沿って建設された391号線沿いにあった住宅、集落は流出、(小良ヶ浜地区の被害は詳細不明)富岡駅は破壊(跨線橋は壊れたが残る)、線路も部分的に破壊される。大東館(ホテル)は1階部分破壊、他の駅前木造家屋は流出若しくは崩壊、藤沢製材所、平山商店被災、破壊。

 常磐線内側の造成地・新築家屋も被害を受けていた。

 津波は第一中学校の敷地まで浸入したが、大きな被害は受けなかったようです。

 富岡公園の下まで浸入し道路沿いの家屋が被害を受けております。

 富岡港は津波に呑まれ壊滅、新しく出来た391号線の富岡川に架かる橋は残りましたが、相当な被害を受け、道路は壊滅的な破壊、小浜第一公民館前の橋は流失、常磐線鉄橋は残ったが部分的損壊は受けている。国道六号線に架かる橋は無事、それより上流の橋は被害なし、ただし、富岡川を遡上した津波は堤防を超えたため両岸にあった家屋、田畑は大きな被害を被っており、他の川も同じ様な状況で被害を受けております。

◎東京電力福島第二原子力発電所(富岡町・楢葉町)

(1)運転状況

 1号機(110万kW)(自動停止)

 2号機(110万kW)(自動停止)

 3号機(110万kW)(自動停止、12日12時15分冷温停止)

 4号機(110万kW)(自動停止)

 第二原発は出力110万kWの沸騰型軽水炉(BWR)が4基ある。2011年3月11日は4基とも定格運転中であった。

 午後2時46分、地震発生直後、大きな揺れを感知し全号機で原子炉は自動停止(スクラム)した。第二の増田所長は津波の来襲を予感し、部下に高台で津波の見張りを命じた。その時撮影した写真が次頁の写真。

 3月11日午後3時27分、大津波の第1波がやって来た。

 第二原発の構造は南から北へ1〜4号機が並んでいるが、南側の通路を襲ってきたのが、この写真(次頁上)で被害は少なかった。

 第1波の8分後の午後3時35分、第二波が推定波高15.5m、1号機南側の通路の一部は海抜15.9mであったが、軽く超えて駆け上がり、1号機裏手(内陸部)にある廃棄物処理建屋や免震重要棟を襲った。また1〜4号機建屋にも裏から回り込んで到達した。

 想定していた津波の高さは5.2m(建設時には3.7m)で、防波堤その他の設備も5.2mでの想定で建設されていたのだから、3倍以上の大津波で為す術もなくやられてしまった。

 1号機原子炉建屋は、地下に置いた非常用ディーゼル発電機の吸気口が地上階の壁面に開いていたため、ここから浸水して、始動したばかりのディーゼル発電機が3台とも水をかぶって停止してしまった。非常用の電源盤も被水したため機能を失った。

  
(増田所長は大津波の来襲を予想し、防御の措置を各所に伝達した。同時に部下の一人に津波の来襲を記録するためカメラを構えて待機するよう命じて、この二葉の貴重な記録となった。この他にも数多くの写真がある。)

 また岸壁にあった各号機に2つずつ海水熱交換器建屋(全8棟)があり、復旧班40人が8棟の海水熱交換器建屋を点検したところが、1、2,4号機ともA、B系共に破損していたが、3号機の南側の建屋だけは津波によっても扉が破壊されず、1階にあったモーターやポンプ、配電盤が健在で、何故ここだけ助かったのかは不明。

 3号機の南側建屋を除き、全て扉が破壊され海水が傾れ込んだ。

 海水熱交換器建屋は、原子炉が緊急停止した際に熱を海に逃がす働きをする設備で、炉心冷却水⇒中間の冷却水⇒海水というリレーで熱を海に逃す方式。

 海水熱交換建屋は2番目のバトンゾーンにあたり、中間の冷却水から海水に熱を受け渡す設備(熱交換器やボンプ等)が置いてある。そこが機能を失ったため、1、2、4号機炉心の熱を逃す機能を失った。 

 原子炉のスクラム直後に、原子力の蒸気タービン発電機に送る主蒸気配管の弁が閉じ、タービン発電機を原子炉から切り離した。原子炉で異常が生じてもタービンに影響が及ぶのを防ぐ為だ。ただこれにより高温の水蒸気を水にして原子炉に再び戻す通常のループが切れる。

 本来なら残留熱除去系(RHR)システムが動き出し、原子炉を冷やし核燃料の崩壊熱を除くことになっているのだが、海水熱交換器建屋の浸水によって3号機を除いて、RHR機能を失っていた。ともかく冷却系統の修理が先決で、吉田第二保全部長の指揮下で40人のスタッフが瓦礫と浸水の建屋に入り、各号機に2系統ずつある残留熱除去建屋を調べた結果B系が比較的損傷が少ないのが判明し、修理可能と判断した。

 交換が必要なモーターやケーブル等を発注し、協力会社は全力で対応し、かつそれぞれの技術者を派遣してくれ、配電設備復旧工事を中心として昼夜兼行での作業が始まった。

 11日午後6時、増田所長は1、2、4号機に関し「原子炉除熱機能喪失」事態に当たると判断し、「原子力災害特別措置法の10条」に基づく通報をした。

 この間非番であった運転員が寸断された道路を踏破し午後8時までには全員集合し、10人編成で5班が結成でき、ブラントの運転指揮を三嶋部長が執った。

 第二原発は外部から4回線を受電しているが、被災当日、1回線である岩井戸1号線は定期検査のため送電を止めていた。そこへ地震で7km離れた場所にある福島変電所が被災し、もう1回線(富岡線2号)が停止、さらに地震後の点検で富岡線1号の損傷が確認されて停止。残るは1回線(岩井戸2号)だけが生き残った。

 この時、東電本社は「震災で太平洋側の発電所が全て止まって電力送電系統が不安定になっているため、生きのこった岩井戸線2号を止めろ」と命じてきた。

 もし止めれば第一原発と全く同じ状態になってしまう、当然増田所長はテレビ会議で本社に対し止めるのを阻止する訴えを繰り返した。

 この一回線が生きていたために中央制御室の電源が確保でき、原子炉の温度や圧力その他のデータを把握でき、各種配管のバルブ開閉も遠隔操作ができた。この点において全ての電源を失ってしまった第一原発との明暗は1回線でも生き残っていたことが第二原発事故を最小限に留めた幸運がここにある。

 ともかく冷却系統の修理が先決で、吉田第二保全部長の指揮下で40人のスタッフが瓦礫と浸水の建屋に入り、各号機に2系統ずつある残留熱除去建屋を調べた結果B系が比較的損傷が少ないのが判明し、修理可能と判断した。

 交換が必要なモーターやケーブル等を発注し、12日には急送されてきた。増田所長は外部電源が来ている廃棄物処理建屋の電源盤から1、2号機の熱交換器建屋までケーブルを引くことを決め、このプランに従い、14日丸1日をかけて東電と協力会社社員200人が重量のあるケーブルを手作業で約900mにわたって引いた。また到着した電源車2台を現場近くに配置し、移動用変圧器を介し、各号機の熱交換器建屋に電気を供給する体制を造り、生き残った3号機の電源をも活用した。

 このプランに従い、作業員は全力で対応し、かつそれぞれの技術者を派遣してくれ、配電設備復旧工事を中心として昼夜兼行での作業が始まった。モーターは三重県にある東芝の工場から自衛隊のヘリで急送した。

増田尚宏第二所長 三嶋隆樹第二運転管理部長 吉田嘉明第二保全部長

 しかし12日早朝には1、2、4号機で圧力抑制室の温度が100℃を超えた。同室で水蒸気が水に変わって減圧するメカニズムは働かない。格納容器破壊の危機は迫ってくる。ここで増田所長は「圧力抑制機能喪失」に該当すると判断して、原子力災害特別措置法15条通報をせざるを得なかった。

 これを受け政府は12日午前7時45分、福島第二原発周囲3km圏内からの住民にも避難を指示した。

 格納容器の破壊を避けるためには内部の水蒸気を抜くベントしか方法はない。増田所長はベントの準備を命じた。

 2、4機は遠隔操作でベントラインを準備出来たが、1号機は1つの弁が作動しなかったため係員が現場に急行、電源の配線を換えて、いつでもベント出来るように準備した。

 既にメルトダウンしていた第一原発に比べ、第二は辛うじて注水を継続していたので、大量の放射性物質が拡散する危険性は少ないと判断していた。

 しかし、第一に続いて第二もベントを実施したとなれば国内外に与える衝撃は凄いものがあっただろうと思われる。ベントのメドは格納容器がその最高使用設計圧力(約3気圧)に達した時点とした。

 係員は冷却水の入れ方をドライウェルスプレー(格納容器上部からの散水」を試み、少しでも圧力上昇を食い止めようと試みた。

 最初は核燃料の崩壊熱が大きい2号機の圧力上昇が速かったが、そのうち格納容器の小さい1号機の上がりが急になった。

 復旧班の作業によって、1号機残留熱除去系(RHR)B系による冷却が可能になったのは14日午前1時過ぎ、1号機RHRが稼働、続いて2,4号機が復旧して原子炉の除熱が可能になった。

 あと2時間でベントせざるを得ないと判断していたが。まさに紙一重で辛うじて間に合った。

 14日午前11時1分、第一原発の3号機爆発、ほどなくして第二原発でも空間放射線量が高まり、全員が免震棟に避難し、外部での作業が中断された。原発事故の基本は「止める」「冷やす」「閉じ込める」が原則で、最初の「止める」は自動停止で、完全に停止した。次の段階は「冷やす」作業だが、3号機を除き除熱機能が喪失、海水熱交換器建屋に海水が入り、機能がダウンしていた。

 技術者が調べた結果、各号機に2系統ある残留熱除去系のうちB系が比較的損傷が少なく、修理可能と報告され、集中的に作業を開始した結果、14日には冷却機能が回復することができた。

 この間、原子炉では高圧注水可能な隔離時冷却系(RCIC)が何らかの原因で止まることを想定して、低圧での代替え注水の準備を始めた。

 圧力容器の逃がし安全弁を開いて炉心の水蒸気を格納容器下部の圧力抑制室に排出し、圧力容器の圧力を下げた。11日深夜から12日未明までで完了し、1、2、4機でRCICから低圧の復水補給系(MUWC)に注水を切り替えた。このMUWCは通常は炉心の冷却には使うことはなく、あくまでも緊急時の対応だ。

 従って、この方法も時間稼ぎでしかなく、圧力容器から排出された水蒸気で格納容器の圧力も温度も次第に上昇していくことになる。

 12日早朝には1、2、4号機で圧力抑制室の温度が100℃を超えた。同室で水蒸気が水に変わって減圧するメカニズムが働かない。格納容器破壊の危機が迫ってくる。

 増田所長は「圧力抑制機能喪失」に該当する判断して原災法15条の通報はこの時点で判断した。

 この通報により福島第二原発周囲3km圏内の住民に対し避難命令が発令された(12日午前7時45分)。

 格納容器の破壊を避けるためには内部の水蒸気を抜くベントしかない。

 復旧班によって、1号機で残留熱除去系(RHR)のB系による冷却系が可能になったのは14日午前1時過ぎ、後2時間遅れていたらベントせざるを得なかったギリギリの線で間に合った。

 更に難題は冷却水の確保だ。復水貯蔵タンクの水は4日分位しかない(外部から調達した工業用水を貯めている)。濾過水タンクをバックアップに使おうとしたが、地震で漏水したのかタンクの水位が下がっており使えない。

 「冷やす」には絶対的に水が必要で、その確保が必需となる。そこで東京本社に冷却水用に水4千トンを発注した。

 これを受けた本社は飲料水と勘違いして飲料水4千リットルの給水車を派遣してきた。

 東京本社があてに出来なければ自分達で何とかしようと、思い付いたのは木戸川の活用で、これは30年前第二原発工事の際、木戸川から取水していたが、若き増田技官も建設作業に携わっており、木戸川取水を思い立ち、調べたところ6kmの取水ラインが放置されたままになっており、腐食による小さな穴が開いていたり、地震で一部破壊されたりしていたが、修理可能と判断し、地元業者に委託した。

 この際地元業者は奇妙な申し出があった。それは住民が避難した後、残された自転車を利用したいので、後で住民が戻ってきたとき損害賠償を求められた場合、賠償に応じてくれるかという事であった。増田所長は意味が良く理解できなかったが冷却水が確保できるなら、如何なる損害賠償にも応ずると答えた。

 地元業者は即座に仕事にかかり、細かな穴は、自転車のパンク修理の要領で次々と塞ぎ、土木工事も順調に推移し、17日には導水できたから、現場に精通した職人芸があったからこそ出来た作業で、日本の強さは一人一人の職人芸が光っているから出来た作業成果だ。

 この強さは全ての面で発揮され、「FUKUSHIMA50」として世界に喧伝されたが、実際は第二だけでも数百人の作業員が頑張っており、第一の現場と併せると4千人位の人達が頑張ってういたことになる。

 大半が地元の人達で、家族を避難させ、自分の意志で第一、二の現場に留まり、身を呈して第二原発を護り通そうとした信念の人達だ。外国のマスコミが共通して感心していたのは、何時爆発するか判らない原発の修復作業に自発的に参加したことにある。

 戦時中の例を度々引き合いに出してきたが、我が旧軍の強さは下士官、兵が優秀だったことに由来する。かつ個々の兵士が自分の分担する役目を充分に心得、献身的に役割を果たそうとして努力したことにある。この点に関しては敵として戦ったアメリカ軍が舌を巻いている位優秀だったと褒め称えたが、同時に意味するものは階級が上に行くほど愚者になることを意味していたらしい。

 今回の事故もアメリカ側から視ても現場の頑張りには感心したらしいが、東電本社、官邸に対する評価は最低の酷評だ。

 第一と第二を比較した場合、全電源が喪失してしまった第一と1回線だけでも辛うじて生きていた第二の幸運は計り知れない。第一は全てが暗闇の中にあったが、第二は中央制御室で原子炉の状態を示す各種計器の数値が読めたこと、所内でケーブルを引いて冷却システムが復旧できたことは大きい。

 さらに第二の原子炉4基は、いずれも原発初期の運転経験を活かして国産沸騰水型軽水炉(BWR)5型と呼ばれるタイプであった。

 第一は1〜5機で採用されていたのはフラスコ型格納容器とドーナツ型の圧力抑制室の組み合わせではなく、円錐型、釣り鐘型と呼ばれる、大きく一体化された格納容器であった。第一の1号機は短時間のうちに炉心溶融をおこし水素爆発を招いてしまった亊を考えれば安全対策に問題があったのではないか、原子炉の設計段階から安全対策に余裕がなかったのか、旧式の原子炉であったことは確かだ。

 第一、第二とも事故が起きたが、何とか食い止めることが出来たのは、設備を熟知した運転員、保守員、その他大勢の責任感旺盛な現場作業員が配置され、献身的な働きがあってこそ成し遂げられた偉業だ。大半は地元双葉郡の人達だと思う。その活躍に感謝し、故吉田第一所長、増田第二所長をはじめとする現場で頑張ってくれた人達を顕彰する方法はないものだろうか。

 もし第二も爆発事故を起こしていたら福島県内の大事故に収まらず関東地方にも及ぼす大惨事になっていたことだろう。この献身的な働きがあったからこそ、世界的な被災は免れることができたのだという感謝の気持ちは国外の方が強く、大変な賛美の嵐とも言うべき反響があった。

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第九章 第一原発吉田所長の活躍

 国家が死の淵へ追い込まれよとした「チェルノブイリ原発事故の約10倍」規模の大惨事に至る事態をぎりぎりで回避できたのは吉田所長をはじめとする現場スタッフの献身的な活躍があってこそ防げた偉業であったと感謝したい。

 現場最高指揮官として暴走しようとする原子炉と闘い、過剰介入を繰り返す官邸と闘い、お公家集団の東電本社首脳とも闘い、また自分自身の肉体の酷使、国家の「死の淵」に立っての究極の重圧であるストレスとの闘いの連続500日を戦い抜いた男、吉田昌郎氏。

 福島第一原発事故は大惨事であったが、もしあそこで被害の拡大を防げなかったら、原子炉は暴走しチェリノブイリ原発事故の10倍規模に拡大していたことは専門家が一様に認めることで、まさに日本国存亡の危機に瀕していたことを物語るものである。

 それをなんとか食い止めたのは吉田所長とその部下達で、海水注入のラインを構築し、1号機の原子炉格納容器爆発を避けるための「ベント」(格納容器の弁を開けて放射性物質を含む上記を排出する緊急措置)を指揮、空気ボンベを背負いエアマスクを付け、炎の中に飛び込む耐火服を身に付けての決死の「ベント作業」に従事した部下達、この人達が口々に語るのは「吉田所長となら一緒に死のうと思った」「所長が吉田さんでなかったら、事故の拡大は防げなかっただろうと思う」自分の決死の行為が、心が通じ合っていない上司の命令であれば決して受諾できるものではない。

 吉田所長がテレビ会議で本店[本社]に噛みつき一歩も引かない毅然たる所長の姿を間近に見て部下達は尚一つ層所長を敬愛したという。

 確かに海水注入の中止命令に断固反対し、それでも執拗に官邸、東電本社から海水注入中止命令が出され、遂には官邸に出向していた東電の武黒一郎フェローからの強硬な中止命令があったが、海水注入を止めなかった。

 その後は自衛隊、消防本部に消防車の出動要請、海水ラインの構築、吉田所長の機転・活躍により原子炉冷却の唯一の手段であった海水での冷却が効を奏し、なんとか食い止めることが出来た。

 原子炉の暴走を食い止めるには海水の注入しか手段はなかった。

 3月15日早朝、いよいよ2号機の格納容器の圧力は上昇して最大の危機を迎えたとき所長として海水注入の決死行を命じなければならないが、この時思い浮かんだのは、同じ年代で復旧班長で、高卒で東電に入社、こつこつと現場で働いてきた人で所長として絶対的な信用してきた人物らしい。

 この人なら一緒に死んでくれる人だと判断し、全てを任せた。このように最後まで行動を共にしてくれた人達こそが世界が絶賛した「フクシマ50」の存在だ。実際に吉田所長と行動を共にしたのは69人であった。

 この人達の働きによって、福島県は完全壊滅、東日本の大半壊滅に近く、日本全体が3分割しなければならない程の大災害を辛うじて食い止めた。

 では何故、官邸や本社首脳が海水使用を頑強に阻止しようとしたのか、その背景は何か。特に菅総理(当時)、日本国の最高司令官としての自覚があるのか、ないのか異常な行動の連続であった。

東電本社首脳陣の無能ぶり、官邸に出向中の武黒フェローの独断・命令、これらとの闘いもあったのだから吉田所長の心労は大変なものであったろう。

そのストレスが体内をむしばみ12年2月、食道癌の手術を受け、回復するかにみえたが、7月26日、今度は脳内出血で倒れ、二度の開頭手術とカテーテル手術を受けた。

しかし、がん細胞は肝臓へと移転し、最後には肺にも移転し、太腿に肉腫もでき、肝臓の腫瘍はこぶし大になった。

13年7月9日午前11時32分、都内慶応大学医学部信濃町病院で巨星は偉大なる功績を残して天国に召された。58才の若さだったからまさに戦死といえるだろう。

【ご冥福をお祈り申しあげます】

 それと同時に吉田所長の指揮下で敢然と闘った東電職員の皆様、地元浜通り出身の無名の戦士達に感謝の意を表する方法はないものだろうか。日本崩壊を寸前で食い止めてくれた吉田昌郎所長以下、手足となって頑張って頂いた戦士の皆様、本当に有り難うございました。

 昭和30年大阪府生まれ、東京工業大学工学部卒業、東京工業大学大学院、原子核工学、昭和54年修了、東京電力入社、原子力の技術畑を歩み、福島第一、第二発電所の保守課、ユニット課を経て平成19年に本店(本社)の原子力設備管理部長に就任しましたが、直後に新潟県中越地震で柏崎刈羽原子力発電所が損傷し、その収束作業の責任者になり、現場で奮闘、その後、平成22年6月、福島第一原発所長として還ってきた。その職歴を見るように徹底して現場主義で培われた技術者魂でしょう。

 身長180cmの大柄な体格で学生時代はボ−ト部で活躍、豪快、部下には慕われる親分肌、申し分のない現場の長のようです。

 官僚主義に徹していた本社幹部からは、「自信過剰」「本社に楯突く困った奴」と言うのが評価だったようで、本社のお公家さん達と領地を支配する地侍のような関係だったのか。

 私見の連想ですが、第二次大戦中悲惨な戦場となった‘インパ−ル作戦’における第31師団(烈)は最前線でイギリス軍と戦っていたが、補給が全くなく、弾薬、食量が尽き、独自の判断で撤退を始めたため、師団長佐藤幸徳中将は第15軍司令官牟田口廉也中将によって抗命罪を問われ、親補職であるにもかかわらず解職して軍事裁判にかけようとした。(軍司令官にそのような権限はない)

 31師団は師団長を欠いたまま、撤退作戦となったが、其の殿(しんがり)を31師団・歩兵旅団長であった宮崎繁三郎少将(当時、後中将)が引き受け、旅団が一丸となって見事な作戦で戦死者、餓死者もださず、あの理不尽がまかり通った日本陸軍において、将軍から一兵卒まで一致団結して見事作戦を遂行できたのは宮崎旅団長の才能、人徳にあり、部下はこの人のためなら何時でも死ねる、と思っていたほどの統率力があったからこそ全員が生還できた、ということでした。

 戦後、第15軍司令朱田口中将は生還し、老衰で死去したが、その墓石は度々ひっくり返される事があったようだ。生還した元兵士達は、戦友会で牟田口中将が話題になれば居並ぶ全員が烈火の如く怒り出し、宮崎旅団長の事が話題になると途端に全員が和やかになった、とのこと。

 全くの蛇足ですが、宮崎将軍に関して、帰還された将軍は都内下北沢で小さな商店を開業された。現在のような瀟洒な商店街ではなく、戦後の闇市のような入り組んだ露地のような狭い道路を挟んで小さな個人商店が軒を連ね、その一角にあった小さな店と小柄な初老の店主が店番をしており、店の前を行ったり来たりを繰り返し覗かせてもらった。偶然行ったのではなく、情報を得てから電車を乗り継いで小田急線の下北沢に出かけ、偉大なる将軍とはこのような方なのかと密かに満足し、我が人生の仰ぎ見る師はこの人と決めたことを現在でも鮮明に思い出す。

 吉田所長、宮崎将軍、時代も職務も全く異なるが、何故か重ねて考えてしまう。

 この吉田所長の人徳と統率力をもって絶対に収束すると確信していたが、本社との軋轢なのか、病気が原因なのか真相はわからないが静かに退職、引退し、そして病没してしまった。

 当然日本人として日本政府として、名もなき英雄に感謝し、国民栄誉賞を授与するものと想っていたが、喉元過ぎれば・・・の譬え通り、完全に忘却の彼方へと消えてしまった。これも国民性らしい。

 菅総理、野田総理が現職の時に授賞させるべきであったが、余りにも多くのことで対立を繰り返してきた政権としては表彰をしたくなかったのか。

 数ある国会議員の中でも提唱したのは悲しいかな、辻本清美議員唯一人。

 自民党に政権が代わっても安倍総理は別な人を国民栄誉賞に選んでしまった。

朝日新聞2014年5月20日朝刊1面

 東京電力第一原発事故を巡り、政府の事故調査・検証委員会に事情聴取された吉田元所長の「吉田調書」がいよいよ公開される運びになったが、吉田調書を独自に入手した朝日新聞と産経新聞が、全く相反する内容の報道を発表した。

 朝日新聞 「原発・命令違反し9割撤退」

 震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員の9割に当たる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10km南にある第二原発に撤退していた。と1面トップの大見出しで報じた。この報道は国内外に大きな衝撃をもって伝えられた。それまでは吉田所長を先頭にして孤軍奮闘していたものと信じていたし、外国からは「フクシマ50」として絶賛のあらしであったから、この報道には国内外ともに衝撃が走った。

 特に隣国韓国で船長が真っ先に逃げ出した「セウォル号沈没事件」が起きたばかりで、「日本版セウォル号事件」として海外では報じられた。

 ところが産経新聞では同じ吉田調書を入手し、8月18日、聴取担当者から吉田証言として「東電本店から全員逃げろとか、そう言う類いの語質は全くない」と明快に回答があったことを報じ、朝日新聞の報道とは全く異なる調書内容を報じた。吉田氏は「伝言ゲーム」による指示の混乱については語ったものの、命令に背いて所員らが撤退したとの認識は示していない・・・・と産経新聞は断言し、以後朝日の捏ち上げ報道を追求するキャンペーンを張った。

 では何故、同じ調書から全く相反する見解が生まれたのか、朝日新聞は、吉田元所長と現場作業員との内部分裂を主眼とし、危機的状況に対処できなかった東電本社を批判し、野次馬的見地から悪意に満ちた批判をしている。

 この報道に激怒したのは吉田所長の命令に背いて撤退してしまったと報じられた第一原発職員達であるが、では真相はどうであったのか。

 20011年3月15日午前6時42分、吉田所長が想定していたのは、「第二原発への撤退」ではなく、「高線量の場所から一時退避し、直ぐに現場に戻れる第一原発内での待機」を社内のテレビ会議で命令した。

 「構内の線量の低いエリアで退避すること…その後異常がないことが確認出来たならば戻って貰う」

 待機場所は、「南側でも北側でも線量の落ち着いているところ」と調書にははっきりと記載されている。

 ところが吉田所長の証言によると、所員の一人が免震重要棟の前に用意してあったバスの運転士に対し「第二原発へ行け」と命じたらしい。勿論吉田所長の要請によるものではない。この点は明確に否定して、伝言ゲームのような伝わり方をしたとしている。

 この事実を朝日新聞は「所長命令に違反」と捉え、「原発・命令違反し9割撤退」の大見出しで、英語版「90%of TEPCO workers defied orders、fled Fukushima plant」直訳すれば「東電の所員9割が命令を無視して、フクシマ原発から逃げた」となる。特に「defy」の過去形を使ったのは公然と反抗して逃げたことなる。

 この悪意に満ちたスクープ記事は全世界に発信され、各国の紙面を飾った。

 従って「フクシマ50」として報じられてきた賞賛の記事は、偽りだったとこれまでの評価は地に墜ちた。

産経新聞の反論

 外部には詳しい経緯はわからないが、その後の第三者委員会で朝日新聞は誤報を認めたのだから、誤報だったのだろう。

朝日新聞社長誤報を認め謝罪「吉田調書」「慰安婦報道」

 日韓の外交問題として突き刺さる「慰安婦強制連行」問題は、朝日新聞の誤報であった。

◎追記、もう一つの吉田調書、朝日新聞誤報の連続

 吉田清治1913年(大正2年)5月15日〜2000年(平成12年)7月30日福岡県出身の自称文筆家。

 1980年代に、太平洋戦争中、軍令で朝鮮人女性を強制連行(慰安婦狩り)した事実を目撃した、と証言し、またこの証言を自筆の本に纏めて出版した。

 これに飛びついた朝日新聞は大々的に報道、長らくこの報道を事実として流布し、日本政府攻撃の材料としてきた。その結果として韓国政府は日本政府攻撃の最高の攻撃弾として活用、朴政権は諸外国に日本政府の態度を詰り、歴史認識を質すという外交問題として訴える攻撃を繰り返してきた。日韓両国民の対韓、対日の感情は最悪の状態となり、国際問題にもなりかねない最悪の外交関係にある。

 その原因は朝日新聞の報道にあるのだが、この報道が誤りであることが判明した後でも、訂正することなく放置されてきたが、原発の撤退問題が究明され、吉田調書が発表されることによって、朝日新聞の記事が勇み足であったことを認め、朝日新聞は1面全面で謝罪文と訂正文を載せた。

 同時に慰安婦問題の吉田調書も記載し、朝日新聞社長の謝罪文と写真を報道した。

 では何故このような謎が多すぎる吉田清治なる人物の証言を朝日新聞が鵜呑みにしてしまったのか。

 吉田清治なる人物は、如何なる人物か。出自や経歴は全て嘘で塗り固められていた。本籍地山口県としていたが、実は福岡県らしい。吉田は本姓らしいが、清治は自称、「吉田雄兎」の名が、卒業したと称する門司商業学校の卒業名簿にあるが、大分前に死亡とされていた。

 自著には法政大学卒とあったが、法政大の調べでは在籍した痕跡は全くない、全く出鱈目な経歴詐称であったことが判明。

 1937年(昭和12年)、満州に渡り、一旗揚げようとしていたことは事実らしい。当時は新天地満州へ多くの人達が進出していった。

 満州や朝鮮半島で動き回り、阿片密輸、軍事物資横領罪で軍法会議にかけられ、有罪となったと自称していたが、軍人、軍属でない民間人が軍法会議にかけられるはずはなく、上記の写真では元軍人となっているが、これも自称であって軍人であった事実はない。

 軍法会議で有罪判決であれば服役は衛戍監獄であるから、他の何らかの罪で刑務所に入っていたことは事実らしく、戦後諫早刑務所を出所した。

 出所後は朝鮮動乱の好景気であったが故に、下関市で肥料会社を興し、一時期には羽振りも良かったらしい。

 しかし長続きせず十数年後に倒産、その後は生活が苦しくなり、文筆業で身を立てようと週刊誌への投稿から始まった。

 1963年、週刊朝日で公募された手記「私の8月15日」で金5,000円を得た。

 1977年、新人物往来社刊「朝鮮人慰安婦と日本人」を出版、この本では慰安婦の強制連行の記述はなく、朝鮮人地区の女性が慰安婦を中継ぎする話になっている。

 慰安婦狩りの話に発展するのは1982年以降で、吉田証言は、戦時中韓国・済州島でアフリカの奴隷狩りのように若い女性を軍命令で捕縛、拉致・強制連行した、と自著や新聞発表、講演などで暴露し尽くした。

 しかし、当然このような事実はなく、疑問に感じた人は大勢いたが、大朝日新聞が報じているが故に、沈黙してしまった。

 地元済州島新聞も調査したが、娘さんが拉致されたという家族は全く居らず、全くの事実無根だと報じた。

 しかし、吉田は韓国国内でもアメリカ本土でも講演を繰り返し慰安婦強制連行は事実だと訴え、韓国国内では勇気ある歴史の証言者として歓迎された。

 1983年以降、朝日新聞は吉田証言を16回にわたり事実として記事にしてきたが、2014年8月5日、やっと吉田証言が全くの虚偽であり、吉田本人の創作に過ぎないことを認め、やっと全ての記事を取り消した。

 共同通信も7回にわたり吉田証言を記事にしていたが、1992年頃から識者の間では信憑性に疑問を感じられており、この時から記事を差し止めた。

 北海道新聞は社告でお詫びの訂正記事を載せた。

 最終的に朝日新聞が全面的に非を認め、朝日新聞社長が訂正、お詫びの社告を出した。

 従って日本国内では慰安婦強制連行は捏ち上げだったとの事で収まったが、1992年、韓国政府による「日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書」、韓国国内では吉田証言を史実として認め、韓国の憲法裁判所は「日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関する具体的解決の努力をしないことは憲法違反」と判決した。

 韓国政府は国連にも訴え、アメリカ政府にも訴え、事実だと認定された。

 現政権・朴大統領はことある毎に慰安婦強制連行を題材とし、日本政府に噛みつき、関係ない諸外国でも必ず題材とし、日本政府を詰り、歴史認識を迫ってきた。

 この慰安婦強制連行の史実は吉田清治の悪意の捏造であったことが明らかになったが、しかしこれらは日本国内で問題であり、韓国政府が認めたわけではない。

 むしろ日本政府の悪意ある作為であると断定し、さらに日本政府攻撃の矛は鋭さを増してきた。

 誤報であったことが明らかになったとはいえ、これは国内問題であって、韓国政府や国連が認めたわけではない。否むしろ日本政府が卑怯にも誤報だと捏ち上げたもので、安倍内閣の謀略だとしている。

 今後ますます日韓関係は難しくなり、極東の政治不安は増すことになる。一個人の悪意ある証言が政治不安を巻き起こしてしまった。だが、しかし吉田証言が実に不確かな事象に基づいた証言であったかは検証すれば直ぐ判ったはずなのに、疑問に思いながらも検証を怠ったのには、何かの力が働いたのか。謎ばかりの吉田証言であった。

 一方、国内では一部教科書で「従軍慰安婦」、「強制連行」を削除することを決めたが、韓国政府は反発し「歴史の真実は修正することも削除することもできない」などと批判し、「日本政府がこのような愚を繰り返す場合、韓日関係改善に深刻な障害をもたらすだろう」と警告した。

 一方国内では、慰安婦問題の記事をかいた元朝日新聞記者が、慰安婦問題が吉田清治の個人的な捏造であったことが判明してから、「元朝鮮人従軍慰安婦、戦後半世紀重い口を開く」「帰らぬ青春、恨みの半生」などの見出しで掲載されたが、これが捏造であり事実誤認も甚だしいと週刊誌が書きたてたが、これに対して元記者は名誉を傷付けられたとして週刊文春の発行元・文芸春秋社を訴えた。

 済州島に住んでいた若い韓国人女性を強制的に連れ去り、慰安婦にしたと言うのが日韓の間に突き刺さった大きな政治問題であるが、その目撃証言というのが、故吉田清治氏が書いた1冊の本であり、それをスクープとして朝日新聞が大きく報道し、その後も数々の報道をし、単行本も出版された。

 では、この目撃証言が真実であったのか。裏付けは全くない。この怪しげな筆者、吉田氏が主張する肩書きや前歴も大半は捏造であり、またこの本の記述に関し真偽について追求されたとき、生活のために書いたと告白し、実際は何も見ていない、全てが捏造だとした。

 従ってこの慰安婦強制連行は架空の話であることは明らかであったが、朝日新聞は一度掲載した記事は訂正することなく、我が国のオピニィオンリーダーを自負する朝日としては訂正することは恥だと判断したのか、だが内部では訂正、謝罪の主張もあったらしいが、何故か引き延ばししてきた。

 日韓関係は最悪の状態に墜ち込んでしまった。朴大統領の執拗な攻撃、韓国国民の反日運動に、我が国国内では反韓運動、負の連鎖は果てしなく広がってしまった。

 このような時、李明博前大統領の回顧録が出版された。全文自画自賛、素晴らしい業績の数々のオンパレードだが、その中で日韓首脳会談で当時の野田総理と李明博大統領の間で慰安婦問題が討議され、野田総理が各人に直接手紙で謝罪するという具体的な話し合いが行われ、妥結寸前まで入ったが、李大統領が竹島上陸したため、急速に日韓関係は悪化、その結果、慰安婦問題は流れてしまった。

 その全ての責任は野田総理にあるとした記述がある。

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第十章 外国での反響・救助活動

◎オペレーション‘トモダチ’

 東日本大震災の災害救援の主役になったのは、自衛隊と米軍で、過去に例のない規模で協同作戦を展開している。

 地震、津波、放射能汚染が加わるなかでの災害救援となると自己完結型組織に託さなければならず、まして道路や鉄路が寸断されてしまった災害では、いち早く駆けつけられるのは海と空を利用できる装備のある自衛隊や米軍しかいない。

 自衛隊は陸・海・空の三自衛隊、総計10万6350人(総数22万9千人)交代要員含めて22万9千人自衛隊員全てが動員され、かつ救援装備の全てが出動したと云っても過言ではない。

 神戸明石大震災の時は、自衛隊法により地方自治体の長の出動要請がない限り出動できなく、しかも神戸市、兵庫県とも出動要請をしなかったので、肝心の初期救助に参加出来なかったが、法で縛られていたことを知らない一般市民からは出動が遅すぎたと糾弾された。

 政府も法の不備にやっと気付き、法改正により駐屯地司令の判断で出動出来るように改正された。お陰で三自衛隊とも地震発生後15分で出動命令、準備、30分で出動しています。自衛隊の活躍は連日報道されているので、後日纏めます。

○オバマ大統領声明

 オバマ大統領は3月17日、ワシントン市内の在米日本大使館を急遽弔問し、日本国民向けのメッセージに署名した。

「米国は偉大なる同盟国が困難に直面したとき、いつでそばにいることを覚えていて欲しい」同日夕、ホワイトハウスで東日本大震災に関する声明を発表、「大きな試練と悲しみの中でにあっても日本国民は孤独ではない。太平洋を越え、米国は支援の手を差し伸べていく」と語り、さらに「日本国民の強靱さと精神があれば、日本は復興、再建していくと確信する」と強調した。

「出来ることは全てやる」と宣言した。

 菅総理とも3回の電話会談があり、できる限り何でもやるからと励ましています。

大統領署名と宣言文

「有言実行」その通り米軍の救援は最大規模で行われ、米軍は海軍と海兵隊が中心となって動員されたのは、

 ○三陸沖:空母ロナルド・レーガン、巡洋艦、駆逐艦

 ○三陸沿岸、: 強襲揚陸艦エセックス、LST、揚陸支援艇

 ○第一原発:海兵隊放射能対策専門部隊

  支援参加航空機140機

  救援活動動員数:艦艇19隻、参加兵士1万8千人

 ○その他:米原子力規制委員会、米エネルギー省から多数の専門家が来日し活躍中

  宮城県沿岸:海上自衛隊艦艇 ひゅうが、おおすみ等

 これだけの組織を動かしているのは、米軍横田基地内に新設した300人規模の「統合支援部隊」(JSF):東日本大震災による被災者救援と福島第一原発事故の全体的対応を仕切っている。

 米太平洋軍の前線司令部の役割を担うJSFが我国に置かれるのは初めてで、陸海空と海兵隊の四軍の各戦力を一元的に統括・指揮、連携して作戦行動にあたる。

 JSFの総司令官は太平洋軍から、ウォルシュ米太平洋艦隊司令官(海軍大将)が派遣されJSF総司令官に3月24日就任した。

 また、自衛隊からはイラク派遣の陸上自衛隊第一次隊の指揮官を務めた番匠幸一郎陸将補(旧陸軍少将相当)・陸上幕僚幹部防衛部長をトップとしてスタッフ10名を派遣、JSF内での調整を任務とする。

 東京・市ヶ谷にある防衛省、仙台市にある自衛隊現地司令部に「日米共同運用調整所」(BCAT)でも日米間の任務を割り振り、調整するために、将官級幹部を相互に派遣している。

 ○米軍統合支援部隊(横田)(JSF): 米軍300名、自衛隊連絡チーム10名

  防衛省統合幕僚監部(市ヶ谷): 自衛隊陸将補ら20名、海兵隊准将等15名

  日米共同調整所(仙台):自衛隊1陸佐ら約45名、海兵隊大佐ら約50名

  自衛隊支援部隊現地総指揮: 第六師団、第九師団を統合した東北方面隊

       東北方面総監 君塚陸将就任(三自衛隊の総指揮官)

 組織が確立していると、緊急に対して即座に対応し、指揮・命令系統を確立すれば、その上意下達の組織は円滑に活動し、その持てる力を十二分に発揮できる。

 地震と津波で橋、道路は陥没、崖崩れ、土手崩れ、膨大な瓦礫が路を塞ぎ、鉄道も同様に寸断され、陸路での救助隊、救援物資の運搬手段が塞がれた時、残された手段は空と海しかし、港は破壊され、接岸できない、空港も使用不能、そこで大活躍したのが、強襲揚陸艦エセックスを中心としたLST、揚陸支援艇、砂浜へ直接乗り上げ、救援物資、救援資財、支援兵士、トラック、土木作業特種車両・機材まで揚陸した。

 陸路が全て閉ざされた三陸沿岸の各町村、各港へ海と空から救援物資を届けた空母ロナルド・レーガンの広い飛行甲板からは米軍ヘリ、自衛隊ヘリが飛び立ち被災地へ救援物資を運んだ。

 瓦礫に埋まった仙台空港へLSTで海兵隊専門部隊が上陸、自衛隊と協同で作業にあたり、アットいう間にC130輸送機が離着陸できる滑走路を確保し、輸送機での物資輸送の途を開いた。戦線で滑走路を建設する目的で鍛えられている部隊の実力を見せた。

 4月13日 民間航空路再開、  東北新幹線 東京〜福島間開通

 北沢防衛大臣は、4月4日 三陸沖に展開する空母ロナルド・レーガンを訪れ、謝辞を述べるとともに、菅総理のメッセージを読み上げ「陸・海・空、海兵隊が異例の規模で尽力して繰れた、これは日米の絆の証だ」と述べたが、同行したルース駐日米大使は「如何なる時、場所でも日本の力になる」と応じた。

 後で述べますが、82年前関東大震災で当時のクーリッジ大統が日本救援に全力を尽し、大統領の意をうけ、尽力したウッズ駐日大使がそのとき云った言葉と、今回ルース大使が述べた言葉が全く同じ言葉なので感銘を受けた。

強襲揚陸艦艦内が浮きドックのように強襲揚陸艦艦内が浮きドックのようにっており上陸支援艇に物資、機材、兵士を乗せたまま、艦を離れ、陸地へ向かう。 艦尾から母艦を離れ陸地へ向い砂浜へ乗り上げ、前扉が開いて揚陸作業に入る。

 東北地方が道路、鉄道、港湾、飛行場等の交通網が完全に寸断され救援の方法を巡り混乱を極めたとき、日本政府が最初に出動をお願いしたのが、強襲揚陸艦‘エセックス’4万0.236トン 艦尾から上陸支援艇を出動させ、砂浜に直接乗上げ補給できるのですから災害救助にはこんな便利な艦艇はありません。かつて東京直下型地震の訓練に参加し、葛西沖に待機し、避難民救助訓練を行った実績があり、宮城沖に出動をお願いしたのです。

その他揚陸艦4隻が派遣された。

空母‘ロナルド・レーガン’10万1.429トン 三陸沖で空輸に従事
米海軍と海上自衛隊のヘリが活躍した。
海上自衛隊 ‘おおすみ’ 8.900トン
 ホバークラフト2隻を艦内に搭載でき、三陸沖近くからホバークラフトが砂浜に乗上げ、物資を補給した。

 右記は3月18日の朝刊です。

 新聞報道によると、東日本大震災に伴う福島第一原発の事故発生からまもなく、米政府が非公式に、原子炉冷却を含む原発の制御に全面的に協力すると日本政府に申し入れた。

 津波が去った後の原発及び周辺を監視衛星の写真で分析しており、水素爆発して建屋の屋根が吹っ飛び、内部が表われた時点で、無人偵察機の映像でより正確な内部分析をした情報を握っていたアメリカ政府は、日本政府と東京電力の初期対応に対する不信から、原発事故の封じ込めを米側主導で行う意志を表明した。

 1、4号機に続き3号機も損傷の怖れが出てきた3月15日、複数の米政府関係者が、原子炉の冷却と事故後の福島第一原発の被害管理に関する全面的な支援を非公式に日本側に申し入れた。

 更に外交ルートを通じて日本政府に伝えたが、官邸から米政府への返事はなかった。その背景について専門家は「原発事故管理の主導権がアメリカ側に握られるのではないか、との警戒感が働いた」と分析している。

 現在はアメリカ政府に全面的な協力を要請

 原子力専門の技術者、原子力管理専門部隊が来日して活躍している。

 フランス政府からも資財が届けられた。

 オペレーション‘トモダチ’は一部継続しているが、大半は帰途についた。

 日米関係に暗雲が立ちこめていた時、これだけの支援をしてくれるとは、アメリカの偉大さに感謝、絶大なるご支援有り難うございました。

◎自衛隊東日本大震災救助活動

 東日本大震災にあたり、陸海空三自衛隊は「史上最大の作戦」を発動。

 3月11日、菅政権は災害出動を発令、自衛隊の動員規模は5万人、それだけでも阪神淡路大震災時の1万9千人よりは遥かに上廻る規模、しかも法令により出動要請がなければ出動できなかった当時と違い、法が改正され、駐屯地司令の判断によって出動できるようになり、東日本大震災に際しては、地震発生と同時に警戒・情報収集のヘリが飛び立ち、出動準備発令、出動したのが30分後ですから迅速な行動でした。

 しかし、被害の規模が明らかになった翌12日には、菅首相から直接北沢防衛相に動員規模を倍の10万体勢にすることを要請、北沢防衛相は13日三軍の長を集めた防衛省対策会議で「救助に活動できるのは即応態勢の整っている自衛隊しかない。全軍を視野に入れて十万人規模の態勢を構築して欲しい。」と指示。

 従来の災害出動は陸海空がそれぞれの指揮系統で活動していたが、大規模かつ広範囲に及ぶ今回の災害を鑑みて、指揮系統の一元化を謀り、陸自東北総監君塚陸将を総指揮官として任命、海・空も指揮下に入った。三軍が共に学ぶ防衛大学校の善さが滲み出た措置だ。

 さらに、3月14日には即応予備自衛官と予備自衛官にも召集令を出すことを決定、  3月23日、予備自衛官160人が陸自多賀城駐屯地で編成完結式が行われ、それぞれの被災地に出動、救援に従事した。予備自衛官の召集は制度が出来て今回が初出動となった。

 こうして動員された自衛隊の規模は3月26日の出動が最多で10万6350人、3月現在の自衛隊員総数22万9千人であるから半数が出動したことになる。

 部隊は「災統合任務部隊」(JTF-TH)と名付け、編成された動員部隊の機動力、車両は数量多数、ヘリ約200機、固定翼機約300機、艦艇約50隻に達する。

 緊急災害対策会議本部の会議で被災地への食料、水などの支援物資輸送に関して、地域ごとに陸自駐屯地、空自基地に物資集積場を決め、輸送、配送を自衛隊が一元的に管理、運営する方法を執ったため、非常にスムースにいった。

 これは交通網、通信網その他のインフラが寸断され、孤立状態に陥っており、特殊な機動力、通信設備をもった自衛隊以外に救助に赴くことが出来なかった。

 また孤立した、若しくは崩壊してしまった被災地自治体の行政機能の一部を自衛隊が肩代わりをして任務遂行に従事した。

 大震災から3ヶ月余がたち、行方不明者の大がかりな捜索などには区切りを付け、6月末現在で東北地方の部隊を中心として3自衛隊の計4万3千人が活動中、給水や入浴等の生活支援を続けることにしている。

 この3ヶ月半、自衛隊員みなさんの献身的な活動にただ頭がさがる思いで、世論から評価され、特に被災地では大変な感謝の念で一杯のようです。

 阪神淡路大震災の教訓を生かし、円滑に部隊運用ができるよう法改正が行われ、自治体との情報共有や訓練を協同で行ってきた成果が表われてきたのでしょう。

 災害時の自衛隊のあり方を政府や地方自治体、民間が一緒になって、「頼れる自衛隊」を見直し育成してきたき嬉しい結果です。

 ただ反省すべき点として、初動で陸自隊員を被災地に投入する手段として、全面的に米海軍の揚陸艦に頼れざるを得なかった。更にはオーストラリア空軍の輸送機で輸送してもらった。問題は自衛隊にあるのではなく、装備をケチッテいる為政者にあるのです。

 また原発事故問題でも米空軍の無人偵察機が空中撮影し、我国では民間の地図作製会社の小型リモコン機をやっと借り受ける程度のことしかできない情けなさ、今回の大震災を教訓に反省すべき点は、中身を公表して国民全体で見直すべきです。

 外国の報道(参考)

 外国紙がどのように報じているのか、興味があったのでニューヨーク・タイムズ、ワシントンポスト、フランスの夕刊専門紙、中道左派で辛辣な記事で有名なル・モンド各紙の購入を申し込み郵送してもらったが、連日もの凄い量の東日本大震災と福島第一原発事故の記事が紙面を飾り、写真や絵が満載です。

 特にル・モンドに関して、フランス軍はリビアの内乱ではNATO軍の主力となってカダヒィ大佐の政府軍と戦っており、アフリカのコートジボアール(旧フランス領植民地)大統領選を巡る内乱で、大統領選挙ではフランス政府が監視、暴動・内乱にはフランス軍が出動している。

 従ってフランスの新聞の最大の取り扱い記事になると思いきや、連日 東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故のニュースが大半を占めている。

 アメリカの各紙も連日、東日本大震災、福島第一原発事故のニュースばかりで、しかもin Japanはなし、いきなりFukushimaの地名で報じており、Fukushimaの地名は今や全世界的な知名度になってしまった。

 大震災の直後頃は凄まじい大津波が襲いくる映像が長時間に渡り放映され、家や車が流され、屋上で助けを求める人達の映像がリアルタイムで流されたため、息をのむような場面の連続に驚愕し、次には猛烈な同情でした。

 そして次に予想したのが、世界中で起きた過去の例からみて、当然起こるであろう窃盗、強奪、内乱等の暴発と思ったが、東京発の通信社や特派員からの情報には予想に反して全くなし、それどころか避難した人々は取り乱すこともなく整然と避難所に集まり、助け合い食事を分けあう姿を驚嘆の眼をもって報じています。

 さらに外国人記者の理解を超えたのは、避難所に居た人々のインタビューで、人々の声は、周りの人々が犠牲になり、自分だけが助かってしまったという戸惑い、申し訳がない、或いは罪悪感みたいな感情は外国人には理解しがたいことで、キリスト教の博愛、犠牲的精神とは違った宗教的な精神の裏付けがあるのか、特に在日特派員は日頃、日本人の無宗教性或いは宗教に頓着しない行為に呆れていたのですから尚更理解できないことでした。

 また諸外国から派遣された国際救助隊の活動が始まると、自国の救助隊が如何に素晴らしい活躍をしたか、被災民から如何に感謝されたか、の報道に集中し、原発事故が発生し放射線被害の怖れがあるとして、救助隊がいち早く避難してしまった、或は帰国してしまった等のことはニュースにはなりませんでした。

 初期のニュースは被災民、日本人絶賛の記事で埋め尽くされたのですが、それは一時的、福島第一原発事故が明るみにでると、一変して日本叩きになりました。

 特に原発先進国であるフランス政府は、原発事故に対し即座に専門家と救援隊の派遣を日本政府に申し出たところ、外務省がもたつき、菅総理までこの申し出が上がったのかどうか判りませんが「派遣を断ってきた」とル・モンド紙の論調は厳しくなり、東電の対応のまずさを詰り、日本には原子力の専門家はいない、とまで断言しています。

 サルコジ大統領がわざわざ日本に迄やって来たのはお見舞いや親善のためではない、アメリカも派遣申し込みに対して断ってきたと書いています。その後協力をお願いしたようですが、初動の躓きは凝りとしてのこるでしょう。

 4月17日にはアメリカ・クリントン国務長官が専用機で来日、僅か5時間の滞在で慌ただしく帰っていった。世界一の原発国アメリカ、第二位のフランスとしては日本の事故は絶対に収束させなければならない重大な問題であり、福島原発事故は日本国内での事故ではなく、地球規模での危機であるとの認識が強い、事実ドイツでは選挙期間中に原発事故が発生し、反原発の政党が勝利し、反対派の候補が当選した。

 オバマ大統領も菅総理と3回電話会談をしているので原子力関連チームの派遣を打診されている筈で、現在は両国から援助を受けていますから、最初のもたつきが悔やまれる。

 日本人共通の悪癖は初動の遅さ、小出しの対応、状況の推移を見守る、全てがボトムアップ、根回しの社会では決定まで時間が掛かりすぎ、更には決定してもあやふやなぼかした表現、誰が責任者なのか判らない。権力絶大な大統領制の国から見るとイライラすることでしょう。

 特に原発事故では特派員が直接現場での取材が出来ないので、政府発表だけがニュースソースなのですが、保安院の発表は日本国民が聴いても要領得ない言葉の羅列、枝野官房長官の記者会見は何故か手話通訳はいても外国語の同時通訳なし、ところが外国での関心は、地震と津波の映像に驚いたが、その後は原発事故に集中、ところがさっぱり要領得ない発表しかない一方、水素爆発で建屋が吹っ飛んだ鮮明な衛星写真が放映されているのですから、最悪の事態が発生しており、日本政府が意図的に隠しているとみなされても仕方がない状態でした。

 全世界のニュースになったのですから、日本に支社や特派員がいない国のマスコミ各社は配信されてくる写真や映像を勝手に解釈し、原発事故と原爆を混同したり、市原のコンビナート火災や気仙沼の火災の夜間の映像はこの世の地獄を思わせましたが、‘第二のヒロシマ’になったと解説しております。

 3月の花粉症の季節で大勢の人々がマスクをしていた写真が、放射線防護のために全員が防護マスクをしないと外出できない、等の解説ですが確かにマスクをする習慣のない国の人々がみると成程と納得してしまった様です。

 残念ながら誤報、曲報が世界を駆けめぐったことは事実です。

 それともう一つ、大地震、大津波、原発事故と重なり、地震も津波も経験がない国の国民は理解の範疇を超え、想像出来るのは、2009年11月、ハリウッド映画「2012」が上映され、作り物とはいえ、その凄まじい映像に驚きましたが、それと全く同様な、或いはそれ以上の現実の映像が流れたので、‘2012’である‘地球の終末論’が1年早くきてしまったという怯えがあったことも事実です。

 1973年、東宝制作「日本沈没」小松左京原作のSF小説、映画とも空前の大ヒットでしたが、今回の東日本大震災と「日本沈没」を引っかけて報道し、ネットでは日本に対する誹謗中傷が相次いでいるようです。

 我国のマスコミは、世界中が日本の大災害に同情し、被災しながらも取り乱すこともなく、秩序ある行動に対し賞賛している、と報道しておりますが、必ずしもそればかりではなく、非難したり、天罰、天誅的な記事も報じられております。

 日本政府に対しては辛辣な記事が多く、政府の無為無策を詰る記事が多くあり、世界の眼はきびしものがあると同時に世界中が日本を注視しているのです。

 フランス、ル・モンド紙3月12日版、一面が東日本大震災と大津波の記事で全面に溢れるような記事で埋め尽くされ、政治面、社会面も全てが東日本大震災に関する記事で満載、地震も津波も全く縁のないフランス国民にとって、余りにも衝撃的な情報に唖然としたようです。

 日本との時差が8時間ですから朝7時のニュースは日本で大地震があったようだと速報し、8時には津波の第一報が入り、それからは1日中衛星中継によるリアルタイムの映像を放映し、国民はまさにテレビに釘付けになったようです。

 あまりにも凄まじい映像に仰天した人々は、被災者に対し同情、日本を助けたいという声がフランス中に湧き起こり、日本に向かう国際救助隊には拍手をもって送り出しました。

 更に原発事故が起き、原子力に関しては世界一を自認しているフランス政府は全面的に協力、援助したいと日本政府に申し入れたようです。

 ところが官邸には東電からの情報は少なく、判断に迷い、経産省、外務省とも判断できずモタツキます。

 この時点でアメリカとフランスは監視衛星で非常用電源流失を知っており、アレヴァ社の技術陣の分析によりメルトダウンは必至と予測、或は既にメルトダウンしていると判断、早急に対応しなければ第二のチェリノブィリになると断じてアレヴァ社の技術者の派遣を打診したのですが、日本側からは返答が無く、次にリモコン操縦のブルドーザー、パワーシャベルのロボット、測定機器の設置、試料の採取、ビデオ撮影等の各種ロボット提供を申し出たがこれまた必要ありません、との断りが入り、この辺からル・モンド紙の猛烈な日本政府と東電批判がはじまります。

 フランスの原子力大手アレヴァ社は世界最高の技術を有するとの評価を得ており、その自負もあり、日本政府は辞を低くして依頼するもと思っていたところが、その救助申し出さえも断ってきたのですから、メルトダウンの実状が判っていないのか、日本には原子力の専門家はいないのか、との論調が激しくなってきました。

 サルコジ大統領が訪日したり、3月末にはアレヴァ社の最高経営責任者(CEO)アンヌ・ロベルジョン氏が来日し海江田経産相に膝詰めで、事故処理に参加する用意があることを告げており、現在は汚水処理にはアレヴァ社の技術と設備、その他全面的に頼っております。

 後日談を申し上げると、6月16日仏首相府は突然CEOアンヌ・ロベルジョン氏の更迭を発表、後任はNo,2であったリュック・ウルセル氏を昇格させた。

 勿論東電の事故とは無関係であるが、サルコジ大統領とは以前から不仲だったようだ。

 世界第三位の原発大国である我国は原発事故に対して何の備えも、対策もなかったことに驚き、一位、二位の米仏の技術に全面的に頼らざるを得なかったことに驚かされたが、当初我国の技術で収束することが出来る、我国には世界最高の技術があるのだ、とTVで解説していた原子力科学者達の自信に満ちた報道はなんだったのか。

 また世界のロボット大国と自称していた我国に原子力災害に活用できるロボットが無かったことに驚きだった。これは安全管理に万全を尽している我国で原子力災害が起きるわけがなく、従ってその対策は無用という発想からなのでしょうか。

 余りにも驕った考えが蔓延っていたことは事実でしょう。

 東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故は、厳冬のあの日から、猛暑が続く今日まで、まもなく4ヶ月目を迎えるが、日本社会を大きく揺さぶり続けて収まりの目途もついていないのが現状だ。

 関東大震災や阪神淡路大震災の復興対策に比べ、余りにも遅すぎる対策、やっと担当相が決まり、やれやれと思いきや、就任最初の被災地視察で問題発言続出、被災地は諦めムードが漂いはじめてしまった。(7月5日松本担当相辞任、平野副大臣昇格を決めた。)

 関東大震災の復興対策で大活躍した被災地地元岩手県出身の後藤新平翁は天国で切歯扼腕しながら見下ろしているでしょう、誠に残念な政情です。

 一方、避難を強いられている皆さんは、一日でも早く故郷富岡へ還り、我が家で手足を伸してゆっくりと休みたい、願望はその一点に尽きることでしょう。

 だからこそ、その見通しを政府が責任をもってはっきりと宣言してほしい、と願っており、政府も当然するべきなのに、それをしない。

 それは原発事故が収束しておらず、その見通しもたっていないからとしていますが、現時点で放射能汚染はこうなっていると政府の責任で放射能汚染マップの公開は出来るはず、 現在各種の汚染マップが報じられていますが、マスコミ各社や研究機関が作成したものであって、政府が責任を持って公表したものではありません。

 更に原発自体の状態や、工程表等に示された事故収束向けた見通しは次々と修正され続け、先送りの状態、放射能汚染はどうなっているのか、外部被曝、内部被曝、累積100ミリシーベルト以下の低線量被曝のリスクについても知見の不確実さが高く、これまた諸説入り乱れ基準となるものはない。これは驚きで、ヒロシマ、ナガサキの被爆、戦後も第五福竜丸の被曝、東海村JCO臨界事故等被曝治療に専念してきた医療陣はさぞ豊富なデータを揃え世界をリードする水準にあると信じてきたが、実は確固たる基準値は無く、これからの問題であることが明らかになった。

 反原発系の研究者や技術者が長年指摘してきたことが正しかったことが事故で明らかになった点が多数あり、3月11日以前、「正しい」と信じてきた諸説が根底から覆され、どれが「正しい」といえるのか、これからの研究となるのでしょうが、時間はかかる。

 同じように地震専門家・地球物理学者は、地震は関東大震災M7.9が最大、もしかしてM8が起きるかも知れない、津波は数m、これが「正しい」知識、3月11日、全ての「正しい知識」が根底から覆され、関東大震災の約45倍の大地震、波高15m超の大津波が三陸から外房までの東日本太平洋岸を襲い、あり得ないことが現実となったのだから、信頼を裏付ける筈の知識や情報の「正しさ」そのものが揺れ続けている。

 「正確な知識や情報に基づいて正しく恐れましょう」という呼び掛が、喧伝されていますが、何が「正しい」のかが流動的で、3月11日以前はある面の片側を見つめていて「正しい」と言っていたことが明らかになったが、では全体をみて「正しい」ものを見つけ出そうと、言は易しい、しかしどの知識・情報も多かれ少なかれ不確実性やバイアスを含み、誤っているリスクを含んでいることを覚悟しておかなければならないことです。

Fukushima 50

◎「フクシマ・フィフティ」

 A:「フクシマ・フィフティ」を直訳すれば、「福島の50人」の意味ですが、福島第一原発事故発生の後も現場に残って事故の拡大を食止めようと必死になって働いている人々、約50人の作業員に欧米のメディアが与えた呼称で、多分に尊敬の念が含まれている。

  欧米のメディアは、現場に残って作業を続けた無名の作業員の勇気をヒーローと讃え、“Fukushima 50”と紹介、世界中に知れ渡った。

 ○フランス「Japan's Faceless Heroes」(日本の顔が知れない英雄達)。

 ○イギリス「Other nuclear power employees, as well as the wider population, can only look on in admiration.」

 (他の原子力発電所に従事している者達は、他の多くの人々と同様に、強い賞賛を持ってみていることしかできない。)

 ○ドイツでは、なんと忠臣蔵の“四十七士”にたとえて、その献身振りを絶賛した。

 ○アメリカ、ウォールストリート・ジャーナルは「フクシマ50」こそ“地上の星”と讃えた。

 ○中国語のニュースサイトは彼等を“福島50死士”と名付けた。(最高の誉め言葉)

 ○この英雄的行為に、2011年9月7日、スペイン皇太子賞(アストゥリアス皇太子賞)授賞を決めた。

 福島第一原発事故の安全宣言がでれば、ノーベル賞(平和賞)の選考有力候補に挙がることは確実と、私的見解ですが確信しております。そのくらい世界中が注目し、絶賛しているのです。(欧米での評価)

 本年度のノーベル平和賞有力候補に、チェニジヤで革命の切っ掛けとなった無名の人達による抗議デモ、いわゆる「アラブの春」で、不特定多数の人達が対象でした。

 その後、エジプト、リビアと飛び火して独裁政権を倒していますから、「アラブの春」が世界に大きな影響を与えてことは確かです。(10月20日リビア・カダフィ大佐死亡確認)

 本年度のノーベル平和賞は、リベリア大統領エレン・サーリーフ女史、同じリベリアの女性活動家リーマ・ボウイーさん。イエメンの女性活動家タワックル・カルマンさん。

 10月7日ノルウェーのノーベル賞委員会は3人の女性に授与することを発表した。

 授賞理由は「女性の安全のため、平和構築に参加する権利のために、非暴力で闘った」と讃えた。

 まだ収束はしておりませんが、「フクシマ・フィフティ」世界を放射能汚染から救い、世界に勇気をあたえた無名の戦士達であることは確かで、世界が絶賛しており、来年のノーベル平和賞の有力候補だと、これは欧米での下馬評ですが、国内での反応はなし。

 国内的には最悪に成りそうな放射性物質汚染からなんとか国民を護り続けているのは、現場で頑張っている勇士の皆さん達ですが、あまり感謝の言葉がない、取材で現場入りが出来ないせいかマスコミも殆ど取り上げないのが、非常に残念です。

 追記:「逆境の中で勇気や使命感を世界に示した」として、スペイン王室の財団が主宰する平和関係の賞を「フクシマの英雄」を代表する形で、事故現場で活躍した自衛隊、消防、警察の現場責任者5人が代表に選ばれ、10月21日にスペイン・オビエドで開かれた授賞式に出席、福島県警本部からは渡辺正巳警視が表彰を受けた。

 陸上自衛隊岩熊真司一佐、加藤憲司二佐、警視庁大井川典次警視、福島県警渡辺正巳警視、東京消防庁富岡豊彦消防司令。

 福島県警渡辺正巳警視談、「現場で避難誘導中津波に呑まれて殉職した警官こそ、表彰されるべきだ」とその胸のうちを語った。

 当時、パトカーに乗務していたのは双葉署の増子洋一警視(二階級特進)当時41才、佐藤雄太警部補(二階級特進)当時24才。

 2人は富岡海岸仏浜地区周辺で住民に避難を呼びかけ、誘導中であったが、パトカーごと津波に呑まれ、増子警視は沖合で発見されたが、佐藤警部補は未だ行方不明。  パトカーは現地に残されていたが、県立博物館などで組織する「ふくしま震災遺産保全プロジェクト実行委員会」と地元有志、双葉署員等が発起人となって保存を決めた。

 パトカーの放射線量を測定し、基準値を大幅に下回ることを確かめてから、作業にかかり、押しつぶされた車体に入り込んだ土砂を排除してから、トラックで自動車整備工場に運び、さび止めや塗装を仕直してから、保存地に運ぶ予定。

◎Q:「フクシマ・フィフティ」を率いるリーダーはどのような人物なのでしょうか?

 A:福島第一原発の事故現場では、2011年10月20日現在、事故収束作業として連日約2,700人達が働いております。

 中心は東電社員ですが、その他関連機器メーカー、東芝、日立、IHI、関連企業の関電工、東電環境エンジニアリング、東京電力協力企業、各電力会社、その他、からの派遣、支援の人達です。

 その人達を束ねているのが、吉田昌郎福島第一原子力発電所所長(56歳)です。

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第十一章 核の恐怖

◎原子爆弾への歩み

 世界で最初に今日の原子構造を提唱したのは江戸時代に生まれ、明治時代の偉大なる学者であった長岡半太郎博士で、その9年後、ボーア博士が長岡博士の説が正しかったことを証明した。

 以降、彦根忠義博士、仁科芳雄博士、荒勝文策博士、湯川秀樹博士(ノーベル賞受賞)、朝永振一郎博士(ノーベル賞受賞)という世界をリードする研究者が続き、理論物理学の世界では最先端を走っていた、といっても過言ではない。

 1934年東北大学理学部教授彦根忠義博士が「陽子と中性子が原子核内ではっきりと別れ、しかもその間に宇宙最大のエネルギーが潜んでいる。だから人類はそれを悪用せずに制御しなければならない。」とする核兵器誕生を予測するような世界初の論文を発表した。

 日本の学会では全く理解されず、認めようとはしなかった。

 そこで米国の物理専門誌「フィジカル・レビュー」に「原子核エネルギー新法(利用)」のタイトルの論文を発表した。

 アインシュタイン、オッペンハイマー、ボーア等の世界的な超一流の科学者が未だ予期していなかった原子物理学理論を提唱したので、欧米の学者は一斉に反発し、またアジアの科学者に何が判るのかと嘲笑的な言葉を投げつけてきた。

 ところが実際は、陰では自分たちの理論にすり替えていたのだ。

○ナチス・ドイツの原子爆弾研究

 原子爆弾から原子力発電にいたる核分裂による膨大なエネルギーを利用し、実用化の端緒を造ったのは、1938年1月、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの論文により、ウラニウムの核分裂が発見され、ウラン235に衝撃を与えて分裂させることに成功したことに始まる。

 時にナチス政権下で、1939年9月末からドイツ国防軍兵器局のもとで原爆開発のための実験が始まった。これは第二次世界大戦にはいる寸前であり、原爆開発に成功すれば世界制覇も夢ではなくなり、ドイツ、アメリカ、日本が研究開発に着手していた。

 先頭を走るドイツは、既に核分裂の理論は完成しており、濃縮ウランの連鎖反応を利用することが通常の方法であったが、ウラン235の分離法についての技術開発が困難であった。そこで、自然界に存在する天然ウランを利用した連鎖反応の可能性を研究した。

 このため天然ウランの中に僅か0.7%しか含まれていないウラン235の核分裂によって発生した中性子のスピードを重水素によって減速し、天然ウランに99.3%を飲み込ませないようにして、残りの0.7%のウラン235に減速した中性子を集中させて、確実に連鎖反応を起させる理論であった。

 このため重水が必要になり、ナチス・ドイツの科学者達の要請により、ノルウェーのヴェルモルクにある世界最大の重水製造工場を占拠するためのノルウェー侵攻作戦を行い、この工場を占拠した。

 かくして重水を獲得したナチスは、この重水をドイツ本国へ運び込む作戦を行った。

 原爆製造の情報を得ていたアメリカ、イギリスの情報部はこれを阻止する作戦を行った。

 ノルウェー人の反ナチスの勇士9人を実戦兵士として、イギリス、アメリカの情報部が支援する作戦で、ノルウェーの雪に覆われた山岳地帯での攻防戦、フェリーでバルト海を搬送中にフェリーを爆破して作戦成功となるが、実話に基づく映画が(テレマークの英雄)邦題は‘テレマーク作戦’1965年のハリゥッドで制作され、実話を忠実に再現したそうで手に汗を握りながら観賞した覚えがある。

 更に1943年2月23日ノルウェー人の決死隊がノルスク・ヒドロ会社の重水工場を爆破した。

 もう一つの要因は、ナチス首脳は余り科学的な知識がなく、特にヒットラーは「ユダヤ的物理学」として関心を示さなかったので、予算を回さず、一部の科学者と一部の軍人達の野望に留まった。しかし、その時点でも原発開発に関してアメリカより遥かに進んでおり、また誇り高きドイツ人科学者達は自国の科学的水準は世界最高であり、連合国側が原爆開発を急いでいることを考えもしなかった。

 一方、連合軍側はノルマンデー上陸作戦に成功し、ヨーロッパ大陸に拠点を占めると、バッシュ中佐を指揮官とするアルソン部隊という軍人と原子物理学者や技術者で編成する特殊部隊が、原発開発の中心地であったシュトラスブルクに侵攻、病院の一角にあった原子物理研究所を急襲して、数名の物理学者や施設を押収、原子爆弾開発の重要人物であったカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー博士を捕虜にし、開発の記録や資料を多数押収、直ちにアメリカへ送った。

 この時点で連合軍側より遥かに進んでいた原爆開発は打ち切られ、東西から追いつめられたナチスはついに首都ベルリンにソ連軍が侵攻、ヒットラー総統は砲撃下の地下壕で結婚式を挙げたばかりの新妻エバ・ブラウンとピストル自決をとげ、ナチスは崩壊した。

 原爆は理論的に可能としながらも、製造までには至らず、幻に終わった。

 その後,東西ドイツに分割占領され、独立後も東西ドイツの二国に分かれた。東西対立、冷戦、ベルリン封鎖、ベルリンの壁等、苦難の道を歩んだが、着実に復興の道を歩み、合併後ヨーロッパ一の経済大国になっても核兵器を持たず、先進国最初の原発を持たない国を目指している。

○日本における原子爆弾の研究開発

 昭和初期、我国の理論物理学は世界的水準にあった。

 東北大の彦根教授の理論を実際に試してみようとすることから始まった。

 別項で紹介した磐城無線電信局原ノ町送信所の送信機に関して、もう一度振り返ってみる。昭和6年原ノ町無線局の廃局が決まり、それまで我国最大の送信機として活躍してきたが、当時の送信機は電弧式であったから強烈な磁場を作るので、これを活用してサイクロトロンに改造(強力な磁場を作って荷電粒子に円形の軌道を描かせ加速する装置)され研究機材として活用することになった。

 当時最大最高の研究機関だった理化学研究所の仁科研究室に贈られた。

 原子物理学の泰斗であった仁科芳雄博士は、日頃、原子物理学には大型のサイクロトロンが必要だと主張していたが、小型ながら最初のサイクロトロンの設置となった。

 この装置は初期より稼動しており、発生させた中性子にウランを照射して、その核反応を調べる研究に使用されていた。

 その後1937年に総重量23トンという大型のコックロフトとサイクロトロン装置が完成、核物理学、放射性生物学、放射性同位元素等をトレサーする応用研究に使用された。

 この頃、マッチ箱位の大きさの特殊爆弾で戦艦1隻を葬ることができる、という軍人にとっては夢のような兵器の開発が可能だとする報告書が提出された。

 1938年からウラン鉱山の開発が積極的に行われ、1940年には陸軍航空技術研究所で「ウラン爆弾」の研究開発に着手、この研究開発には、理化学研究所、東京帝国大学、大阪帝国大学、東北帝国大学の研究者が参加した。

 1941年4月、陸軍航空本部は理化学研究所に原子爆弾の研究開発を正式に委託、この時点では未だ太平洋戦争は開始していない。(ハワイ真珠湾攻撃は1941年12月8日)

 その後準備期間があり、正式に研究に着手したのは1943年1月。仁科博士を中心として“二号研究”が開始された。(秘密保持のため二号研究と名付けられた。二は仁科博士)

 この時 アメリカでは1年も前から原爆開発の“マンハッタン計画”が開始されていた。

我国の計画では天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、1944年3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が開始された。

 他方、海軍のF研究も(Fは、核分裂を意味するFissionの頭文字)1941年5月に京都帝国大学理学部教授荒勝文策博士に原子核反応による爆弾の開発を依頼、その後1942年に核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と協同で原子爆弾開発の可能性を探り、こちらは遠心分離による濃縮を目指した。

 問題は天然ウランを入手することで、軍部は、国内は勿論、朝鮮半島、満州、モンゴル、新疆の各地でウラン鉱山の探索を行ったが、はかばかしい成果はなかった。

 1944年12月、福島県石川郡石川町に僅かにウランを含む岩石を見付け、近くにあった旧制私立石川中学校(現、学法石川高校)の生徒を勤労奉仕として総動員し、採掘にあたらせた。しかし、閃ウラン鉱・燐灰ウラン石・サマルスキー石等はごく僅かでウラン含有率は少なく結局使いモノにならなかった。

 この当時、島根県と岡山県の県境の山岳地帯にある人形峠にウラン鉱の鉱脈があるのを発見したのは戦後のことで、もし最初に発見していればまた違った歴史があたかも知れない。一方、海軍は中国の上海にあった自由市場という闇市場で130kgの二酸化ウランを購入し内地へ急送した。

 また、チェコのウラン鉱山がナチス・ドイツの支配下にあったので、ナチス・ドイツの潜水艦U-234に入手した560kgの二酸化ウランを積み込み、キール軍港を出て一路南下、アフリカ喜望峰をまわって、インド洋横断、シンガポールを目指すコースであった。

 しかも連合軍側の制空権下であるから大半は潜航、夜間だけ洋上航海という過酷な航海でしたが、U-234には乗組員の他、ドイツ空軍カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー 大将、海軍士官4名、技術者2名が乗艦し、さらに連絡士官としてドイツに派遣されていた庄司技術中佐(41歳)、友永技術中佐(36歳)の2名が帰国するため同乗していた。

 ところが1945年5月6日、ナチス・ドイツは連合軍に降伏、アフリカ沖を南下中のU-234にも降伏するよう命令が打電され、南大西洋を遊弋中の米海軍駆逐艦に降伏を指示された。

 此処で問題になるのは同乗している2人の日本人海軍士官であり、「生きて虜囚の辱めを受けず」の信念をもつ士官をどう処遇するかでドイツ側が頭を悩ましていると、翌7日朝、 室に迎えに行くと2名の日本海軍士官は制服と短剣を着用して自決していた。

ドイツ側は海軍葬で水葬に付した。

(U-234が米海軍の駆逐艦に降伏。その時、米駆逐艦艦橋から撮影)

 さまざまなドラマを秘めながら原爆開発は進んだが、喩え 560keの二酸化ウランが到達しても、濃縮すると3.5kgになってしまい、原爆1個を造るには最低50kgが必要であり、その他に入手する手段がなかったのだから、結局は幻だった。

(戦後、友永中佐のご遺族の書いた本)

 仁科研究所の熱拡散塔は5月15日東京空襲の余波を受け爆弾の直撃により崩壊、研究施設も爆撃を受けたため、研究開発のメドは付かないまま休止状態になり、やがて8月6日、広島、8月9日長崎に原爆が投下され、仁科博士は陸軍の飛行機で広島へ派遣され、原子爆弾に間違いないことを報告した。

 戦後、進駐軍命令により全ての研究機材、施設は破壊させ、サイラトロンその他は東京湾に投棄され、全ての研究は禁止された。

○昭和天皇と原子爆弾

 生物学者でもあった昭和天皇は、軍が核爆弾の研究開発を進めていることを訊き、原子爆弾は人類滅亡に繋がり、自然破壊以外なにものでもないと考え「人類滅亡の原因が、我が大和民族であってはならない」と原子爆弾の研究中止を通告した。しかし、軍部は密かに研究を続け、これを知った天皇は再度研究中止が通告された。その後、研究は中止されたが、日本は広島、長崎と原子爆弾が投下された。

 我国はポツダム宣言を受諾したが、昭和天皇玉音放送の中で「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頗ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムニ至レル所以ナリ」と原爆使用に激しい抗議を行ったが、勝者の驕りで連合軍側は全く無視の態度をとった。

○マンハッタン計画

 アメリカの原爆開発に着手したのは、ドイツや日本の枢軸国より大部遅れていた。

 ヒットラーの率いるナチスが政権を握り、人種的偏見としてユダヤ人を迫害し始め、「水晶の夜」のような暴力的迫害発展すると、身の危険を感じた多くのユダヤ人がアメリカへ亡命した。

 やがてナチスの凶暴さはエスカレートして、ユダヤ人を逮捕、強制収容所送り、ホロコースト、戦後判明したところでは数百万人の犠牲者があった。

 ユダヤ民族として、民族の危機にあった時、民族を救う手だてはヒットラーのナチスを倒す以外に方法はない、と判断し、それには原爆を開発し、軍事的にナチスを葬るしかないとの結論だった。

 しかも、ドイツは既に原爆開発に着手しており、物理学者として協力させられていたユダヤ系の人達もおり、亡命ユダヤ人の物理学者レオ・シラードらが、同じユダヤ人で著名な物理学者アインシュタイン博士の同意書入りで、ルーズベルト大統領へ信書を送り、核開発を急ぐべきだと進言し、枢軸側の開発は相当に進んでいることを示唆し、もし先をこされると核の攻撃を受ける懸念を示した。

 当初ルーズベルト大統領は余り関心を示さず検討委員会を設ける程度であったが、1941年、イギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルの書いた核兵器応用のアイデアが伝えられ、チャーチル首相からも進言があって、1942年6月、ルーズベルト大統領は国家プロジェクトとして研究開発着手を決意し、プロジェクトの実施にあたり「陸軍マンハッタン工兵管区」を組織し、最高責任者レズリー・リチャード・グローヴス准将を任命した。

 この計画に参加する科学者のリーダーに選ばれたのが、物理学者ロバート・オッペンハイマー博士で、父はドイツからの移民、母は東欧系ユダヤ人

 子供の頃から大変な秀才で、ハーバード大学を最優秀成績で卒業、次いでイギリスのケンブリッチ大学に留学、博士号を取得し、キャヴェンディッッシュ研究所で著名な物理学者ニースル・ボーア博士の指導を受けた。

 アメリカへ戻り、1936年カリフォルニア大学物理学教授に就任。

 1942年9月 「マンハッタン計画」が正式に発足、オッペンハイマーの提案で研究所をニューメキシコ州ロスアラモスに開設した。(後のロスアラモス国立研究所、秘密保持のため偽名を使った)

 この研究開発に参集した著名な科学者は、ニースル・ボーア博士をイギリスから呼び寄せ、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テーラー、スタニスワフ・ウラムなどの著名な学者を総動員し、かつハーバード大学やMITの学生が数多く集められた。これは未だコンピュータが出現したばかりで性能が悪く、計算はもっぱら手算で行われていたので、膨大な計算をする要員として、数学、計算が得意な学生が集められた。

 また、デュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリック社等の民間の大企業も参加した。

 さらにシカゴ大学冶金研究所、加州大バークレー校の施設がマンハッタン計画に参加、研究開発はロスアラモス国立研究所ばかりではなく、ウラニウムの分離施設と計画の司令部はテネシー州のオークリッジに置かれ、プルトニュウムの抽出はワシントン州リッチランドにあり、国外協力としてカナダのモントリオール大学も参加した。

 これだけ大がかりなプロジェクトであったが、秘密保持は徹底的に行われ、情報の隔離はされ、別の部署の研究内容はお互いに全く伝えず、箇々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは総監督たるオッペンハイマーとその側近の学者だけであった。

 従って、これだけの大がかりな国家的プロジェクトであったが、機密保持はしっかりと護られ、枢軸側の情報機関は全く何も掴んでいなかったようだ。

 このマンハッタン計画の遂行に費やした資金は当時の金額で額面19億ドルを投入

 1945年7月16日、世界初の原爆実験 ニューメキシコ州の砂漠ソコロにおいてトリニティ(Trinity)(キリスト教の三位一体の意)実験を行い、成功した。

 既にドイツは降伏しており、残るは日本だけだが、もう既に継戦能力ゼロ、敗戦は時間の問題、それでも開発したばかりの原爆をテニアン島基地に運び入れ、B29爆撃機エノラゲイが飛び立ち、8月6日広島に投下(リトルボーイ)、8月9日長崎に投下(ファットマン)、8月15日無条件降伏


○広島、長崎の悲劇

 核兵器開発に携わったのは、優秀な物理学者であり、特にユダヤ系学者は、ナチスの残虐なホロコーストから同胞を救い出す唯一方策は、1日でも早く核兵器を開発し、憎きナチスを倒さなければならない、という使命感だった。

 ところが、開発に成功したときは、既にナチスは崩壊し、強制収容所で生き残っていたユダヤ民族は全て連合軍によって開放された後だった。

 そして投下されたのは、広島、長崎で、しかももうすぐ降伏する国の息の根を止めるだけの手段として使用された。

 戦後、広島、長崎に原爆の効果を調査に来た調査団の科学者達が衝撃を受けたのは、まったく予期していなかった原爆症という怖ろしい被災の症状だった。

 原爆症

 ・ 熱線、爆風による創傷や熱傷(爆傷)

 ・ 放射線被曝による急性放射線障害

 ・ 放射線被曝による晩発性障害(白血病、白内障、瘢痕性萎縮による機能障害等)

 発症は被爆直後の場合が多いが、10年後、20年後に経ってから発症することも少なくない。また、直接被曝していなくとも、原爆投下直後、救援のため被災地に入ったり、投下後しばらくして放射性降下物を含んだ「黒い雨」を浴びたり、さらに母胎内で被曝し生まれた新生児にも発症がみられた。

 広島、長崎である程度距離があったり、防空壕や建物の中にいて閃光、熱線、爆風等の直接的な被害を受けてなく、健康そうに見えても突如容態が悪化し、死に至るケースが数多く確認された。

 多くの場合、体にダルさを感じ、節々に痛みを感じ、やがて目が見えなくなったりして死亡した。

 医療関係者も放射線障害に関する知識は無く、治療法もなかった。

 人々はその恐怖を「ピカの毒にやられた」と表現し、原子爆弾の中に毒ガスを発生するメカがあり、その毒ガスが原因で発症するのだと思った。

 占領軍であるアメリカ軍は、広島、長崎の両市に原爆の効果を調査する調査団を派遣した。そこで見たものは瀕死の被爆者が治療も満足に受けられず、ただ横たわっているだけの無数の被爆者、焼け爛れボロボロの衣服で彷徨う人々の光景を目にして,その時点では原爆症という残酷な症状に対する医学的な知識はアメリカ側にも無かった。

 この悲惨な光景をまのあたりにしたアメリカ軍関係者の行動は、この想像を絶する悲惨さを世界に知られたくない。この写真は長崎市、原爆投下後に全身熱傷を負った14才の少女を撮影されたモノだが、戦後進駐してきたアメリカ軍の行動はマスコミを完全に閉め出すことで,絶対に広島や長崎の現状を報道することを禁止し、写真の流出を防ぎ,特にアメリカ国民にはこの惨状を報せなかった。したがって長い間広島、長崎に関する報道はなかった。

 正義のために闘ってきたアメリカ軍の威信のためにも、この悲惨な事実は隠すべきモノとの判断がなされ、1945年9月19日、情報や報道を規制するプレスコードを指令、なかでも原爆に関する報道が特に厳しくコントロールされ、外国人の記者が広島、長崎を入ることを禁止した。

 マンハッタン計画の責任者は「広島、長崎での被災者は投下の際、そこにいた人々が犠牲になっただけで、その後(翌月9月の時点)原爆放射能のため苦しんでいる人は一人もいない」との声明を発表した。

 その一方で、アリカ大統領の命令で「原爆障害調査委員会」(ABCC)が組織され、原爆症の調査、研究機関を設けて調査を開始したが、患者の診療や治療は一切行わず、広島赤十字病院や国立予防衛生研究所を下請けにして、症状や血液のサンプルを集めるだけ、モルモットがわりの扱いでしかなかった。

 これらの資料はアメリカ本国に送られ、日本側の治療に役立つことはなかった。

 このため、アメリカ国内では原爆の悲惨さは全く報道されることなく、戦争の終結を早め、戦争犠牲者を少なく食止めた「神の火」であると喧伝された。

 毎年夏 広島と長崎での慰霊祭には外国からの参列者は少なく、アメリカ政府関係者が参列するようになったのは60数年経った、2,3年前からにすぎない。

 ダイナマイトが土木工事に使用するため開発されてが、このダイナマイトがそれまでの戦争の形態をより悲惨なモノに一変させた。

 驚いた発明者であるノーベルは私財を投じてノーベル賞を設けたが、戦争形態はさらに悲惨なモノになっていった。

 同じように核兵器開発に携わった科学者達は、あまりにも悲惨な結果に呆然となり、特にマンハッタン計画の総責任者であったロスアラモス国立研究所所長であったロバート・オッペンハイマー博士は、これ以上の核兵器開発に反対し、特に水爆実験には絶対反対、核兵器を国際的な管理下におくことを提案している。

 ところが冷戦が始まり、ソ連との対立が激しくなると、アメリカ国内では「赤狩り」と称するマッカシィー旋風が巻おこり、博士は赤のレッテルを貼られ、機密安全保持疑惑という汚名を着せられて公職追放にあい、全ての役職から追放された。

 後年は、古代インドの聖典に救いを求めたという。

 核兵器は人類に悲惨さを及ぼすもの、即廃絶すべきもの、国際管理にすべきもの、いうのは少数派で、国家の威信を保つためにも核兵器を保有すべし、或は国家が独立を保つには核兵器が必要、為政者、軍人ばかりではなく国民さえも核兵器を持つべし、の気運が高まり、先進国、強国と自称する国々は開発に狂奔した。

 特にアメリカと対立しているソ連としては、スターリン首相が核兵器開発を最重要課題とし、国の威信をかけて取り組んだ。それには核兵器の機密をアメリカから頂戴するのが最も早く、確実なモノとばかり、国を挙げてのスパイ合戦となった。

 その一例を「ローゼンバーグ事件」で考察する。

 1950年 ドイツ出身の核科学者クラウス・フックスがスパイ容疑でFBIに逮捕されたのを切っ掛けとして発覚した、ソ連の陰謀による大がかりなスパイ網の摘発であった。

 アメリカの市民権を有するユダヤ系の夫妻であったジュリアス・ローゼンバークとエセル・グリーングラス・ローゼンバークは、エセルの実弟で、オッペンハマー博士が指導する核開発のロスアラモス国立研究所で働いていたソ連のスパイ、デイヴィッド・グリーングラスは、この研究所から原爆に関する情報を盗み出し、この情報を受け取った夫妻はソ連のスパイ機関に売り渡した容疑でFBIに逮捕された。

 逮捕当時、公式には証拠は何も無く、グリーングラスの自白のみだったので、ローゼンバーク夫妻は裁判で終始無実を主張、FBIの陰謀だとしたが、1951年4月5日死刑判決を受けた。

 夫妻に同情した支援者による世界的な助命運動がおこり、この判決を「不当なもの」とする西側諸国のマスコミを中心としてアメリカ政府を糾弾するプロパガンダ・キャンペーンが行われた。

 1953年6月19日 ニューヨーク州シンシン刑務所で電気椅子による刑が執行され、この時の刑の執行が全世界に中継され、固唾を呑んで執行を見守った。これは司法側から「供述すれば死刑執行はしない」との司法取引をもちかけられたが、夫妻は供述を拒否続け、その間、司法長官室と死刑執行の刑務所との間にホットラインが設置され、執行直前には供述するだろうと全世界が注目し興奮に沸いたが、供述を拒否続け、刑が執行された。

 冷戦が崩壊する1990年代前半までは、この事件は「マッカーシズムと反ユダヤ主義を背景にしたでっち上げた事件である」として、ソ連や左翼系文化人やマスコミによって喧伝され、「冷戦下のアメリカにおける人権蹂躙の象徴」として世界から非難が集中した。

 ところが、1995年に行われた旧ソ連の暗号を解読する「ベノナ作戦」の機密解除によりローゼンバーグ夫妻はスパイであったことが明らかになり、裁判中には明らかでなかった事実も明るみに出た。特に夫のジュリアスについては実際にソ連スパイで、数多くの情報をソ連に流していたことが判明した。ただ妻のエセルは夫がソ連のスパイであったことは承知していたが、どの程度手伝ったのか不明で、死刑に相当する重罪だったのか疑問が残る、と司法関係者の証言もあり、また裁判の進め方も疑問が残るとしていた。

 ではローゼンバーク夫妻が自らの命をかけてソ連に売り渡した情報はどの位の価値があったのか、現在の研究ではそれほどの価値はなく、ロスアラモス国立研究所の中枢にいたユダヤ系物理学者クラウス・フックスが盗んでソ連に渡した資料の方がより重要だった。

 しかし、KGBエージェントによるスパイ事件は「ベノナ作戦」以来数多く明るみに出ていたが、スパイ罪で死刑になったのはローゼンバーク夫妻だけなのも不思議なのである。

 当時のソ連の指導者であったニキータ・フルシチョフ首相が失脚後書いた回想録によるとローゼンバーク夫妻の情報は役にたったとの記述もあったという。

 また、ソ連や東側のスパイはアメリカを標的にして重要な国家機密を盗み出していたことも近年明らかになってきた。

 第二次大戦中、対戦国であった日、独が全く感知できなかった国家機密を、当時同盟国であったソ連のスパイ網がロスアラモス国立研究所の中枢にまで入りこんでいた事実にスターリン首相のしたたかさに驚かされる。

 かくして流れ出した核兵器開発の機密をもとに各国は核兵器開発に血なまこになって競いあい、核の爆発実験が世界各地で行われ、世界は放射能汚染にまみれ犠牲者も出たが、核実験反対の声は、強国の横暴の前にかき消されてしまった。

◎原爆、水爆の核兵器開発実験が続く(1945年〜)

 原爆実験は1回だけで第二次大戦は終わった。ところが戦後、世界中で核実験が続いた。

 上記の地図は 1946年〜以後に行われた核実験の場所を示す。

 アメリカ:   1945年7月16日 ニューメキシコ州トリニティ実験から,マーシャル諸島

         ネバダ州、コロラド州、ミシシッピ州、

         1992年9月23日 ネバダ州ディバイターが最後の核実験

         実験爆発回数 合計1,122回

 ソビエット連邦:ソ連政府は核実験の事実は無いとして公表していない。

         西側観測機関が観測したもの

         1949年8月29日 セミパラチンスクでソ連初の核実験

         1953年8月12日 ソ連初の強化原爆実験

         1955年11月22日 ソ連初の水爆実験

         1961年10月30日 核出力50Mt。世界最大の核実験

         1965年1月15日 チャガン核実験

         1949年から1990年10月24日の間に主にセミパラチンスク実験場

         ノヴァヤゼムリァの実験場での核実験、爆発回数715回

         ただし、西側観測機関が観測した回数で、実際はもっと多いらしい。

 イギリス:   1953年以降、オーストラリアのエミュー平原やマラリンガ、

         モンテ・ベロ島、キリスィマス島、マルデン島周辺で核実験を行っ

         た。

         オーストラリアはこの当時イギリスを宗主国としていた。

         核実験(原爆)回数 45回

         水爆実験 1回

 フランス:   1960年から1996年にかけて

         アルジェリアの砂漠で核爆発(原爆)17回実験、

         この当時アルジェリアはフランスの植民地だった。

         アルジェリアで独立戦争が起き、フランス軍は撤退

         その後、フランス領ポリネシアの環礁で200回の核実験を続け、

         ファンガタウファ環礁(ポリネシア)でフランス最後の核実験

         水爆を含む核実験回数210回

 中華人民共和国:この国も公表はしていない

         最初の核実験は1964年10月16日原爆爆発実験

         1967年6月17日 水爆爆発実験

         1980年10月16日 最後の大気圏内核実験

         1996年7月29日 最後の地下核実験

         この間、大気圏内23回、地下核実験 22回

         合計 45回 (推定)

 インド:    1974年5月18日 1回の爆発

         1998年5月11日と13日5回の爆発を観測

         合計 6回

 パキスタン:  1998年5月28日と30日 6回の核実験爆発を観測

         合計 6回 (推定)

 北朝鮮:    2006年10月9日 1回の爆発を観測

         2009年5月25日 爆発実験があったらしいが詳細不明

 南アフリカ / イスラエル

         1979年9月22日 インド洋上において閃光と電磁パルスを

         アメリカの早期警戒衛星ヴェラが観測

         南アフリカとイスラエルによる核実験ではないかと推測

         両国とも事実無根だという声明を出した。

  その他、核実験をしなくとも核兵器を所有している国があるかも知れない。

  ソ連崩壊の際、軍部が横流しした可能性もあり、核管理が厳正に行われていたという保証はない。

 1945年7月、アメリカ、二ユーメキシコ州での最初の核爆発実験以来、広島、長崎の投下、その後世界各地で2千数百回にも及ぶ、地上、空中、大気圏、地下等での核実験、その度に核分裂で生じた放射性物質は、上空10km以上の対流にのって地球規模に拡散し、半減期の長いヨウ素131とセシウム137の全放出量(国連の調査報告書)は、福島原発事故で放出された推定放出量(保安院発表)の、ヨウ素131が約5,000倍、セシウム137が約100倍になるという。

 マーシャル群島の住民、甲状腺癌の発病率、通常の地域の約100倍

◎第五福竜丸事件

 原爆、水爆の核爆発実験が盛んに行われていた頃、我国にとって広島、長崎に続く三度目の被曝犠牲者が出てしまった。

 アメリカの核爆発実験はネバダ州の砂漠の核実験場で繰り返し行われてきたが、水上艦艇攻撃に使用した場合の効果についての実験は、南太平洋マーシャル群島、ビキニ環礁とエニウェトク環礁で13年間にわたって66回繰り返された。

 水上艦艇攻撃の実験であるから、本物の軍艦を浮かべて行われ、我が帝国海軍連合艦隊の象徴的存在で、旗艦を務め、お召し艦になったこともある戦艦長門、軽巡洋艦酒匂、ドイツ海軍重巡洋艦ブリンツ・オイゲン、アメリカ海軍戦艦ネバダ、アーカンソー、ニューヨーク、ペンシルベニア、空母サラトガ等大小71隻の軍艦が実験によって沈められた。

 1954年(昭和29年)3月1日、マーシャル群島のビキニ環礁で史上最大15メガトンの水爆実験(キャッスル作戦)が行われた。これは広島型原爆の1000倍以上の威力があると言われる悪魔の核爆弾であった。

 さらには当初、核技術者が爆弾の威力を4〜8Mtと計算しており、其れに基付いて危険区域を設定していたが、爆弾の実際の威力が予想を超えた15Mtであったため、安全区域だったはずの区域も被曝してしまった。

(第五福竜丸)

 危険海域外で操業していた静岡県焼津港所属のマグロ延縄漁船「第五福竜丸」(140トン、木造船)乗組員23名、が揚げ網漁中に突如「黒い雪が降ってきた」と表現したくらいの放射性降下物である「死の降灰」があり、これが数時間続いたという。

 危険を感じて脱出しようとしたのだが、貴重な延縄を揚げてからとしたため、作業中の甲板上には黒い灰が、足跡が付くくらい積もったという。

 敗戦により占領下にあった我国の名称は「オキャパイド・ジャパン」であって空を飛ぶこと、海で漁をすることも禁じられ、12海里の沿岸だけで小型漁船での漁業しかできなかった。

 昭和27年 やっと独立国日本になって、28年から遠洋漁業が許されマーシャル群島付近海域まで出漁できるようになった。

 このためこの付近には多数の日本漁船が操業しており、約2万人の漁業関係者が被曝したといわれている。

 当然ながらマーシャル群島の島々に住む現地住民も多数被曝した。

 3月14日(2週間もかかったのは、船速が5ノット、時速9km/h、自転車より遅い)焼津港に帰ってきた第五福竜丸の乗組員は全員体の不調を訴え、外部、内部被曝していたため顔は黒く焼け爛れ、異常を感じた地元医師は県保健課へ連絡、厚生省、大学医学部が動き、京都大学から医師が派遣された。

 3月16日 静岡大の塩川、山崎の両教授による検査で漁船からも強烈な放射線量が検出され、人家から大部離れた場所に係留され、付近は鉄条網を張り巡らして隔離した。

 乗組員全員即入院、マグロは全て地中に埋める措置が執られた。

 京都大学の研究チームが漁船を調べ、強烈な放射線量が検出され、かつ死の灰が集められ、研究室で分析の結果、水爆の原子構造式が明らかにされたため、あわてたアメリカ側はスパイ行為だとして日本政府に脅しをかけてきた。

 これに対して日本国民は猛烈な反核運動と最初の反米運動が湧き起こり、朝鮮動乱がやっと収まったばかり、米ソ対立の激化で何時、第三次世界大戦がおきてもおかしくない時期であり、最前線基地として利用している日本列島の各地には米軍の基地があった。

 このため、あまり高圧的に日本を抑えることは不利と考えたアメリカ側は1955年200万ドルの見舞金を支払うことで被曝の矮小化を図った。

 しかし、被曝から半年後の9月23日 第五福竜丸通信長であった久保山愛吉さんが血清肝炎で亡くなった。享年40歳。乗組員の最年長であった。

 日本医師団は死因として「放射能症による血清肝炎」と明記、アメリカ側は死因を「サンゴの塵の化学的影響による」と明記した。

 また、この海域付近では第五福竜丸以外の多数の日本漁船が操業していたが、緊急信号を発信した漁船は皆無で、ただひたすら無言で危険海域から脱出を謀っている。

 この当時の漁船乗組員の大半は海軍や陸軍からの帰還兵が多く乗船しており、もし緊急信号を発信したら付近海域で警戒パトロール中のアメリカ海軍の艦艇によって、被曝の事実を隠蔽するために、或はスパイ容疑で砲撃、撃沈される怖れがあると本能的に悟り、沈黙を守ってやっと脱出したという、戦争体験が有ってこその知恵だ。

 久保山さん以外の乗組員は長い入院から何とか健康を取り戻し退院したが、漁船の乗組員に戻れる程の健康は戻らず、家業の手伝い、豆腐屋さん、行商とかの軽作業がやっとの苦しい半生となったようだ。

 第五福竜丸のその後の運命は、文部省がこの船を買い上げ、東京水産大学の品川キャンパスに長期間係留されていたが、放射能除去が行われてから造船所で改造工事がおこなわれて、水産大練習船「はやぶさ」となって学生の実習に使われた。

 水産大の前身である水産講習所時代の卒業生で当時の首相であった鈴木善幸氏が余興として同船を操縦している映像がNHKのニュースで放映されたことがあった。

 1967年 廃船となって夢の島15号埋め立地に放棄されていたのを、東京都職員有志によって夢の島公園に「第五福竜丸展示館」を建設し、よって永久保存、展示となった。

 この第五福竜丸事件は、5年後の1959年、題名は同じで、独立プロの新藤兼人監督、久保山さんを宇野重吉、奥さんを乙羽信子が演じた映画が上映された。

◎東海村 JCO  臨界事故 レベル4

1999年9月30日 被曝事故が起き、2名死亡、1名重症という原子力事故(臨界事故)で、日本国内初の事故被曝による死亡事故である。

 1957年、茨城県那珂郡東海村に我国で最初の日本原子力研究所が設置され、原子炉JRRー1が臨界に達して以来、原子力関連の施設の開設が相次ぎ、13もの施設、企業があった。

 茨城県海岸部にあり、水戸市と日立市の中間にある純農村地帯であったこの村に日本初の原子力施設の開設が相次いだため、昭和45年、村の人口1万8,960人、平成22年人口3万7,430人、住民世帯の7割が原子力産業に従事、村には「地縁」「血縁」「原子力縁」と言いう言葉があるくらい原子力に依存した地域となった。

 この原子力施設の1企業として住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(JCO)があり、その施設内で核燃料を加工中に、ウラン燃料が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名死亡、1名重症の大事故となり、その他667名の被爆者を出した。

◎国際原子力事象評価尺度(INES)レベル4の事故とされた。

 (事業所外では大きなリスクはない)

 9月30日10時35分、転換試験棟で警報音、警報発令

   直ちに、JCOは臨界事故の可能性ありと政府機関(科学技術庁)へ報告

   11時 52分、被曝作業員3名搬送のため救急車の出動要請

   12時30分、東海村役場を通じて住民の屋内退避の呼びかけ広報開始

   12時40分、小渕恵三(当時)首相へ報告があがる。

      その後、事故現場から半径350m以内の住民約40世帯へ避難要請。

      (核燃料加工施設の付近にも民家があった)

      500m以内の住民へは避難勧告

      10km以内の住民約10万世帯(約31万人)は屋内退避

      換気装置使用禁止の呼びかけ。

      現場付近国道6号線、高速常磐道、県道封鎖

      JR常磐線、水戸〜日立、水郡線、水戸〜常陸太田間の運転見合わせ

      陸上自衛隊災害派遣要請(第101化学防護隊、現中央特殊武器防護隊)

   翌10月1日16時30分、解除

事故原因

 本事故の原因は、JCOが行っていた杜撰極まりない作業工程管理にあることが判明した。旧動燃が発注した高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料を加工している際に起きた。

 核燃料を加工するのであるから、国が規定した厳しい管理規定があり、この規定に沿って作業する義務がある。またJCOの管理責任者は規定に従って作業を行わせる義務がある。

 ところが「裏マニュアル」と称する工程を短縮したり、簡素化するマニュアルが存在し、作業員とすれば当然、作業が楽な方を選ぶ、監督責任者も黙認していたという。

 事故時にもこの裏マニュアルでの作業中で、さらに裏マニュアルを改悪した最悪の手順で行われたという。

 原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では正規のマニュアルでは「溶解塔」という装置を使用する手順であったが、裏マニュアルではステンレス製バケツを用いる手順で行われ、具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らないよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使用するところを、作業の効率化を図るため、別の、背丈の低く、内径の広い、冷却水のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していた。

 その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線等が大量に放射された。

 この現象は制御不能に陥った原子炉のようなもので、ステンレス製バケツで溶液を扱っていた作業員は「ウラン溶液を溶解槽に移していとき青い光をみた」と語った。

 事故に驚いたJCOの職員は逃げだし、沈静させる作業は誰もしなかった、という。

 怒った国は強制作業命令を出し、JCO幹部も「当社が起した事故は、当社で処理しなければならない」と同社職員が数回に渡り、交代で内部に入って冷却水を抜き、ホウ酸を投入するなどの作業を行って、連鎖反応を食止めることに成功した。

 中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った翌10月1日6時30分頃であった。

事故被曝者

 この事故で3名の作業員が被曝したが、このうち2名は大量の放射線(中性子線)を浴びており、作業員はヘリコプターで放射線医学総合研究所に搬送され、うち2名は 造血細胞の移植の関係から東大病院へ転院し集中治療された。

 この時浴びた放射線量は作業員大内さん(当時35歳)は、16〜20グレイ・イクイバレント、(推定16〜20シーベルト以上)。短時間のうちに全身に8グレイ以上の放射線を浴びた場合、現在の医学水準では殆ど手の施しようがない、と言われているが、実際は6〜7シーベルトが致死量だそうだ。

 その倍以上の強烈な放射線量を被曝したのだから染色体破壊により新しい細胞が生成できない状態になり、白血球が生成できなくなったため実妹から提供された造血細胞の移植が行われ、移植手術は成功し、白血球も増加の傾向にあったが、時間の経過とともに新細胞の染色体に異常が発見され、白血球が再び減少に転じ、59日後の11月27日心停止、救命処置により蘇生したものの、心肺停止によるダメージで各臓器の機能が著しく低下、最終的に治療手段がなくなり、事故から83日後の12月21日、多臓器不全により死亡。

 作業員篠原さん(当時40歳)6.0〜10グレイ・イクイバレント(推定6〜10シーベルト)大量被曝による染色体破壊されたが、造血細胞の移植が成功し、一時的に警察の調書がとれる程に快復した、が、放射線障害で徐々に容態が悪化し、さらにMRSA感染による肺炎を併発し(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)、事故から211日後の2000年4月27日多臓器不全により死亡。

(事故当時は公表されなかった写真)

 もう一人の被曝者は、死亡した二人の作業員を監督していた現場責任者のC氏(54歳)同じ現場でしたが、少し離れていたので推定1〜4.5グレイ・イクイバレント被曝して、一時は白血球がゼロになったが、放医研の無菌室において骨髄移植を受けて回復し、12月20日、放医研を退院した。

 致死量と言われる6〜7Svの2倍量の被曝であり、治療自体が初めてのことなので毎日のように発生する新しい症状に試行錯誤しながら治療に当たり83日も持たせたのは医学的見地からは賞賛に値するとの欧米医学界の評価だそうだ。

 臨界状態を収束する作業を行ったJCOの職員7名が年間許容線量を超える被曝をした。また、事故の119番通報を受けて出動した地元消防署救急隊員に対してJCO側は、放射線事故であることを知らせず、救助にあたった3名の隊員が二次被曝を受けてしまった。

 このことは後で茨城県側からJCOに対して厳重な抗議があった。

 当事者3名以外での被爆者は、最高被曝線量120mSv、50mSvを超えたのは6名だった。周辺住民の被曝者は207名、最大で25mSv、年間被曝線量限度1mSv以上の被爆者は112名、被爆者総数は667名を認定した。

損害賠償

半径350m圏内 避難要請、半径500m圏内は避難勧告

半径10km圏内 屋内避難要請、対象9市町村 約31万人

賠償請求数 約8,000件 約150億円

原子力損害賠償法が適用された。

会社の刑事責任

 事故から約1年後、2000年10月6日には茨城労働局・水戸労働基準監督署がJCOと同社東海事業所所長を労働安全衛生法違反容疑による書類送検

 翌11月1日、水戸地検が所長の他、同社製造部長、計画グループ長、製造グループ職場長、計画グループ主任、製造部製造グループスペシャルクルー班副長、その他製造グループ副長を業務上過失致死罪、法人としてのJCOと所長を原子炉等規制法違反及び労働安全衛生法違反で起訴。

 2003年3月3日、水戸地裁は被告企業としてのJCOに罰金刑、被告人6人に対して執行猶予付きの有罪判決を下し、地裁判決を受けいれ控訴はしなかった。

 裁判の過程で科学技術庁の安全審査体制、及び発注者である旧動燃の要求の正当性についても強い疑問が提示された。

 被曝した3人の従業員のうちの1人で、死亡した2人の作業監督をしていた製造グループ副長のC氏は現場責任を問われ、別に起訴され有罪判決を受けた。

 JCOは加工事業許可取消処分を受け、ウラン再転換事業の廃止を余儀なくされた。

 この事故を受けて、保安規定の遵守状況の国による確認、定期検査、主務大臣または原子力安全委員会への申告制度が導入された。

◎レベル3以下の事故

 国際原子力事象評価尺度(INES)

  レベル3:重大な異常事故

  レベル2:異常事故

  レベル1:逸脱


国内で起きた原子力関連事故例 年代順

○1973年3月、関西電力美浜原発燃料棒破損事故

 美浜1号炉において核燃料棒が折損する事故が発生したが、関西電力は公表せず秘匿した。事故が明らかになったのは内部告発による。

○1974年9月1日、原子力船「むつ」放射能漏れ

 原子力船「むつ」(8,246トン)は原子力で航行する船舶を開発しようとの国の方針で青森県沖の太平洋を試験航行中、放射能漏れの事故を起した。

 その後も試験航行を繰り返したが、採算点で無理と判り試験は中止され、原子炉を撤去し、通常の内燃機関で航行する海洋地球調査船「みらい」になって活躍している。

○1978年11月2日、東京電力福島第一原発3号機事故、我国最初の臨界事故

 戻り弁の操作ミスで制御棒5本抜け、7時間半臨界が続いたという。

 他の原発でも同じような事故があったが、情報は共有されず、国にも報告なし、事故から29年後の2007年3月22日に発覚した。

○1989年1月1日、レベル2,東京電力福島第二原発3号機事故

 原子炉再循環ポンプ内部が壊れ、炉心に多量の金属粉が流出した。

○1990年9月9日、レベル2,東京電力福島第一原発3号機事故

 主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。

○1991年2月9日、レベル2,関西電力美浜原発2号機事故

 蒸気発生器の伝熱管の1本が破断、非常用炉心冷却装置(ECCS)作動

○1991年4月4日、レベル2,中部電力浜岡原発3号機事故

 誤信号により原子炉給水量が減少し、原子炉が自動停止した。

○1995年12月8日、レベル1,動力炉・核燃料開発事業団高速増殖炉「もんじゅ」ナトリウム漏洩事故

 2次主冷却系の温度計の鞘が折れ、ナトリウムが漏洩し燃焼した。

 この事故により「もんじゅ」は15年間停止、2010年4月再稼働した。

○1997年3月11日、レベル3、動力・核燃料開発事業団東海再処理施設アスファルト固定施設火災爆発事故

 低レベル放射性物質を固化する施設で火災発生、爆発

○1998年2月22日、東京電力福島第一原発4号機

 定期検査中137本の制御棒のうち34本が50分間、全体の25の1抜けた。

○1999年6月18日、レベル1-3、北陸電力志賀原発1号機事故

 定期点検中に沸騰水型原子炉(BWR)の弁操作の誤りで炉内の圧力が上昇し3本の制御棒が抜け、無制御臨界になり、スクラム信号が出た。手動で弁を操作するまで臨界が15分続いた。この事故は所内で隠蔽し、運転日誌記載なし、本社への報告なし、

 原発関連の不祥事故続発に伴う2006年11月、保安院指示による社内総点検中、明るみに出て、2007年3月公表され、国内2番目の臨界事故と認定された。

○2004年8月9日、関西電力美浜原発3号機2次系配管破損事故

 2次冷却系のタービン発電機付近の配管破損により高温高圧の水蒸気が大量に噴出、逃げ遅れた作業員5名が熱傷で死亡。

(破損した蒸気パイプ)

○2007年7月16日、新潟県中越沖地震発生、東京電力柏崎刈羽原発事故

 外部電源用の油冷却式変圧器で火災発生、微量の放射性物質漏洩を検出。

 震災後の高波で敷地内が冠水、使用済み核燃料棒プールの冷却水の一部が流出した。

 柏崎刈羽原発はしばらくの間、全面停止となった。

○2010年6月17日、東京電力福島第一原発2号炉緊急自動停止

 制御板補修工事ミス、常用電源と非常用電源から外部電源に切り替わらず、冷却系ファンが停止し、緊急自動停止した。電源停止により水位が2m低下した。燃料棒露出まで40cmであったが、緊急自動停止から30分後に非常用ディーゼル発電機が2台作動し、原子炉隔離時冷却系が作動し、水位は回復した。

◎外国での原子力関連事故

 1979年3月28日、アメリカ、スリーマイル島原発炉心溶融事故

 1986年4月26日、ウクライナ共和国(当時ソ連)チェルノブイリ原発、爆発、炎上、大量の放射性物質を放出、史上最悪の原発事故

 チェルノブイリ事故に関し、直接の犠牲者は作業員、救助隊員、消防士、兵士等、数十人だけと発表されているが、癌などの疾病を含めると、数万から数十万にのぼるとされている。2005年の世界保健機関(WHO)等の複数組織による国際共同調査結果では、この事故による直接的な死者は最終的には9,000人とした。

 2000年4月26日に行われた14周年追悼式典では、事故処理に従事した作業員85万人のうち、5万5000人が死亡したと発表し、WHOの発表とは大きく食い違っており、この事故を契機として国際的な原子力情報交換の重要性が認識され、世界原子力発電事業者協会(WANO)が結成(1986年)された。

参加国35ヶ国、132原子力事業者が参加

地域センター、パリ、アトランタ、モスクワ、東京の4ヶ所に事務局がある。

外国における代表的な事故例

○1957年9月29日、ウラル核惨事

 ソ連ウラル地方カスリ市に近くに建設された「チェリヤビンスク65」という暗号で呼ばれた秘密都市の中に兵器工場(原子爆弾用のプルトニウムを生産)があって原子炉5基及び再処理施設があるプラントで事故が起きた。

 ソ連政府は全く沈黙しているためいまだに真相は判らないが、大爆発がおきてプルトニウムを含む200万キュリーの放射性物質が飛散したらしい。

 推測だが爆発の原因は、何らかの原因で冷却不能に陥り、大爆発を起したが、当時、ソ連政府は事故を極秘にし、西側でも感知していなかった。

 ソ連の科学者ジョレス・A・メドベージェフ氏が1976年、西側へ亡命し、英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に論文を掲載し、その中で事故が語られていたので明るみにでたが、事故の詳細は不明のまま。

 ※キュリー:放射能の単位 1キュリー(Ci)=3.7×10の10剰ベクレル 致死量は6〜7ベクレル

○1957年10年10日、ウィンズケール火災事故

 世界初の原子炉重大事故。イギリス北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール原子力工場(現セラフィールド)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素)減速材の過熱により火災が発生、16時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出した。当時のマクミラン内閣は避難命令を発せず極秘に処理しようとしたため、地域住民は生涯許容量の10倍以上の放射線を受け、数十人が白血病で死亡した。現在でもこの地域の白血病発病率は全国平均の3倍以上という。

 また火災に対して水をかけると水素爆発の怖れがあり、消火に手間取ってしまったことも被害を大きくしてしまった。

○1961年1月3日、SLー1事故(Stationary Low-Power Reactor Number One)

 アメリカのアイダホフォールズにあった海軍の軍事用試験炉である。運転出力は軍事基地内の暖房としての熱エネルギー400kw、電気出力として200kwの合計600kwのであったが、設計上は3Mwであったという、3人の運転員は死亡したため、原因は分かっていないが、制御棒を運転員が誤って引き抜いたために原子炉が暴走したと推定されている。

 事故が起きたのが午後9時頃で、付近には人が居なくて運転員以外の被曝者はいなかった。事故発生時直ちに救急隊員が駆けつけたが、放射線量が多すぎて現場に近づけず、1時間半後に近づいたが遺体の露出部は汚染度が強すぎ、切断して放射性廃棄物として処理した。搬送した救急車も汚染が酷く、廃棄処分にしたほどである。

○1963年10月、フランスのサン・ローラン・デ・ゾー原子炉で燃料溶融事故

○1966年10月5日、エンリコ・フェルミ1号炉 炉心融解事故

 エンリコ・フェルミ炉はアメリカ、デトロイト郊外にある高速増殖炉試験炉、炉心溶融を起して閉鎖された。原子炉の炉心溶融事故が起きた最初の例。

○1973年11月、バーモントヤンキー原発炉心臨界事故

 アメリカ、バーモント州、検査のため抜いた状態だった制御棒の隣の制御棒を誤って抜いてしまい、炉心の一部が臨界に達した。

○1976年11月、ミルストン原発1号機 臨界事故

 アメリカ、コネティカットの原発で臨界になり炉心スクラムで停止した。

○1987年7月、オスカーシャム原発3号機(スウェーデン)

 制御棒の効果を調べる試験中に制御棒を抜いたところ想定外の臨界状態になったが、運転員が気付くのが遅れ、臨界状態が続いた。

○2008年7月7日、トリカスタン原発事故

 フランス、アヴィニョン北部ボレーヌ市郊外あるトリカスタン原発においてウラン溶液貯蔵タンクのメンテナンス中、誤ってタンクからウラン溶液約3万リットルが溢れ出て流れ出し、職員100人余りが被曝し、かつ付近の河川に74kgのウラニウムが流れでた。原発は一時閉鎖され、水道水の使用や河川の航行、立ち入りが禁止された。

 その他の事故

○1987年9月、ゴイアニア被曝事故

 ブラジル、ゴイアニア市で発生した放射性汚染事故。閉鎖された病院の中に放置されていた放射線療法用の医療機器から放射線源が盗まれ、これを地元のスクラップ業者が買い取り、解体したところで内部にあったセシウム137が露出、暗闇でも青白く光る珍しい物体として販売し、好奇心から自宅に持ち帰って飾って置いたところ、汚染が広がり2ヶ月位経った頃に被曝症状がでて、調査の結果、約250人が被曝していたことが判明した。4人が急性放射線障害で死亡、汚染が酷い家屋7軒が解体、破棄された。

 外国での被曝事故のほんの一部を紹介したに過ぎない。さらに多いのは軍事原子力による事故ですが、軍の威信にかけて軍事機密を楯に公表しないので、判明していないだけで、軍事関連原子力事故が山積していることは推測するが、一私人として出来得る限りの各種文献を探り僅かに入手できた情報だけを綴りますが、氷山の一角に過ぎない。

 第二次大戦後、核爆弾が兵器として利用されてきたが、核分裂によるエネルギーを動力源として利用するにことが注目されるようになり、燃料を補給しないので行動範囲が広がる原子力空母、アメリカ海軍が世界初の原子力空母エンタプライスを建造、同じく燃料補給の必要がなく、かつ潜水したまま長期間行動できる原子力潜水艦をアメリカ海軍が、続いてソ連海軍が就役させ、さらには原子力巡洋艦等が就航するようになった。(第二次大戦後世界で戦艦の建造は零)

 2011年現在、原子力空母はアメリカ海軍の独壇場だが、原子力潜水艦はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インドの六ヵ国が保有、運用している。

 原子力潜水艦が実戦配備されてから半世紀たち、この間実戦に参加したのは、フォークランド紛争でイギリス海軍の原潜がアルゼンチンの巡洋艦を撃沈した。(次頁参照)

 現在でも、原子力潜水艦は衛星でも感知できない行動の秘匿性を利用して世界中の海洋の何処かに潜み活動している。

 第二次大戦(1945年)終了後、初めての本格的な海戦があった。

 1982年3月19日〜6月14日間 約3ヶ月

 イギリスとアルゼンチンの全面戦争。フォークランド紛争(アルゼンチン側はマルビナス戦争)と呼ぶ。

 南米の南端、ホーン岬、フエゴ島があるが、その東側にあるフォークランド諸島がある。

 この諸島をめぐって領有を主張する両国が激突した戦争で、本来はイギリス人、航海者ジョン・デービスが発見し、イギリスの植民地として支配してきたが、第二次大戦後、力を付けてきたアルゼンチン側が領有を主張し、事実上占領していた。

 外交戦では埒が明かず、結果戦争になってしまった。

 この海域は良好な漁場なので、多数の日本漁船が出漁し、この島の唯一のスタンリー港でバンカー、食料、飲料水等の補給に利用し、かつ冷凍船への中積も行っていた。

 イギリス海軍の上陸作戦によって開戦し、海上戦も艦隊同士、航空機はイギリス海軍空母「ハーミーズ」「インヴィンシブル」の2隻から発進、アルゼンチン側は本土基地から発進。イギリス海軍原潜「コンカラー」の魚雷攻撃でアルゼンチン海軍巡洋艦「ヘネラル・ベルグラー」を撃沈。一方、アルゼンチン空軍がイギリス海軍駆逐艦をミサイル攻撃で撃沈。その他多くの犠牲、破壊があった。

 この時の指導者は、イギリス、サッチャー首相。アルゼンチン、ガルティェリ大統領。

(巡洋艦「ヘネラル・ベルグラー」撃沈)

 初期は互角の戦いであったが、首都、ポートスタンレーへの攻撃が開始されると、アルゼンチン側守備隊の足並みが乱れ、守備隊司令官が降オレンジ色の浮体は、艦載救命筏)伏し、その後全面休戦となった。

 それでもアルゼンチン大統領は勝利宣言を出したが、国民は納得せず大統領及び内閣は総辞職、更に大統領は逮捕され、裁判にかけられ、有罪判決。

 一方、イギリス、サッチャー首相は「鉄の女」(誉め言葉)と呼ばれ人気は上昇した。

◎原子力潜水艦の事故例

○1961年7月4日、K-19ソ連海軍初の原子力潜水艦、一次冷却系の圧力低下によって生じた事故で10名死亡。

○1963年4月10日、アメリカ、パーミット級原潜「スレッシャー」、大西洋ニューイングランド沖(アメリカ本土ボストン沖)2500mにて沈没、乗員129名死亡、潜水調査が行われ原子炉残骸からコバルト60が検出された。

○1965年2月、ソ連、原子力砕氷艦「レーニン」の原子炉の冷却水が失われ暴走、多数の死者を出した。原子炉は2年後に北極海に投棄したらしい。

○1965年5月22日、アメリカ、スキップジャック級原潜「スコーピオン」、大西洋3,000mの深海に沈没、原子炉、搭載核兵器2個搭載のまま引き上げ回収不能。死者99名、沈没原因不明。

○1968年3月8日、ハワイ沖でソ連海軍ゴルフ型潜水艦K-129沈没、核ミサイル3発搭載のまま、死者公表なし、回収なし。

○1968年5月、ソ連海軍ノヴェンバー級原子力潜水艦 液体金属冷却剤の硬化。9名死亡、燃料の20%損傷。

○1969年11月15日、ソ連海軍原潜「K-19」、バレンツ海(ノルウェー沖)で、アメリカ海軍スレッシャー級「ガトー」と海中で衝突事故、詳細不明。

○1970年4月11日、ビスケー湾(スペイン)4700mの深海にソ連海軍原潜K-8沈没、58名死亡。

○1970年6月、ソ連海軍エコー2型原潜、アメリカ海軍原潜「トートグ」と衝突、ソ連海軍エコー2型原潜沈没、アメリカ原潜自力帰港。

○1971年3月、ソ連沿岸で米ソ原潜が正面衝突、詳細は不明。

○1972年2月24日、ソ連海軍原潜K-19 ニューファンドランド(カナダ)沖1200kmで火災発生、浮上、28名死亡。

○1974年5月、ソ連沿岸で、米ソ原潜が海中で正面衝突、詳細発表なし。

○1978年1月24日、ソ連、原子炉搭載した海洋偵察衛星「コスモス954」がカナダ北西部に墜落、広範囲に放射能を帯びた破片が飛散し汚染した。

○1979年7月、ソ連海軍太平洋艦隊で重大な冷却水漏れ、詳細発表なし。

○1981年8月、ソ連海軍原潜エコー1型、沖縄沖で火災事故、9名以上死亡、タグで曳航。

○1983年、ソ連海軍チャーリー1型原潜、原子炉内に浸水、16名死亡。

○1985年8月10日、エコー2型K-431原潜、ウラジオストック近郊チャジマ湾の船舶修理工場内で燃料棒交換中に、原子炉の誤操作で炉心の核反応が高まり原子炉が爆発、10名が即死、290名が被曝障害、500万キュリーの放射能を持つ放射性の塵と、200万キュリーの放射能を持つ放射性の希ガス類が発生流出、北西30kmに渡り拡散したらしい。詳細は未発表。

○1985年12月、ウラジオストック近郊で冷却水漏れによるメルトダウン事故発生。

○1986年、ソ連原潜エコーU級 一次冷却回路に別の元素が混入。

○1986年、ソ連、ヴィクター級原潜がメルトダウン事故を起きたもよう、発表なし。

○1986年10月9日、ソ連海軍、ヤンキー級原潜K-219,大西洋真ん中にあるバミューダ諸島沖で火災発生、原因不明、しばらく浮上していたが沈没。この艦には核ミサイルを搭載しており、核弾頭34基が深海に海没。

○1989年4月、ソ連海軍、マイク級原潜K-278「コムソモレッツ」ノルウェー沖で火災発生、沈没、40数名死亡、核兵器2個海没。

◎ソビエット連邦崩壊と原子力潜水艦問題

 米ソ対立が激化し、新冷戦へと逆行し、核開発競争、原子力艦船の建艦競争、そして宇宙戦争と言われた衛星の打ち上げ競争、果ては衛星対衛星の破壊活動、宣戦布告なき闘いが海中で、宇宙で、闘われ、かつアフガニスタンには地上軍を派兵し、いつ終結するのか皆目分からない泥沼のような闘いにのめり込み、膨大な軍事費の負担にソ連政府の財政は破綻にひんし、更にこの時代、コンピュータに象徴される西側諸国での技術革新の進展、経済的な躍進に、経済的弱者になってしまった衛星国たる東欧諸国は動揺、かつ離反の動きが出てきた。

 ソ連政府自体、1982年ブレジネフが死去、その後はユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコと高齢であり、病身の指導者が続く、1985年3月、ソ連共産党書記長に選出されたゴルバチョフは、フルシチョフが失脚以来封印されていたソ連社会主義の範囲での自由化・民主化に再着手した(ペレストロイカ)。情報公開(グラスノスチ)も推進した。しかし、前述した世界最大の原発事故レベル7であったチェルノブイリの爆発事故を、最高責任者である書記長には報告されず、西側諸国からの抗議で初めて知ったということは、ペレストロイカもグラスノスチも全く機能していない旧態然であることが露呈してしまった。

 そこで更に強硬にペレストロイカを押し進め、ゴルバチョフは外交面で2つの新機軸を打ち出し、一つが冷戦による緊張を緩和する新思考外交、もう一つが東欧諸国の衛星国に対してソ連及びソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。

 緊張緩和の第一弾は、1986年ソ連邦軍のアフガニスタンからの撤退を表明。翌1987年アメリカ、レーガン大統領と直接会談(レイキャビィーク)を実現させ、当時の超大国首脳の会談により、歩み寄りを示したことは世界中をホットさせた。

 シナトラ・ドクトリンに関してはゴルバチョフが就任当初から衛星各国共産党へ対して内々に示していたが、1988年の新ベオグラード宣言の中で明文化し、この声明によって世界中が、ソ連が東欧諸国に対し指導制を放棄したことを知った。

 この変化にいち早く行動したのが、衛星国であったハンガリーとポーランドの2ヶ国では民主化運動に乗りだし、自由選挙によって複数政党制が成立、独裁的な人民共和国は崩壊した。

 ベルリンの壁が破壊され東西ドイツは一つになり、この運動を皮切りに、東欧各国の共産党一党独裁は次々と崩壊、自由選挙と多党制を布く民主国家が次々と誕生した。この情勢に対してソ連政府は武力鎮圧という行動は執らず傍観した。これは1989年6月4日中華人民共和国で発生した天安門事件で国際的な非難を浴びたことから、再び西側諸国の非難と外圧を恐れた処置だといわれ、かつ、ゴルバチョフ自身が既に旧態然たる東欧諸国の指導者に見切りを付けていた、という事情もあったらしい。

 しかし、東欧諸国の民主化革命は、ソビエット連邦に対して連邦制の動揺という形で跳ね返ってきた。その最大のものは、第二次大戦直前にナチス・ドイツとの密約によってソ連邦に併合されたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の独立要求である。

 こうした連邦内の動揺に対して、ゴルバチョフはソ連邦の国内革命によって事態を収拾しようと試み、1990年連邦に対して強大な権限を与えた大統領ポストを創設し、自らソビエット連邦初代大統領に就任した。

 1991年7月1日、ソ連邦が主導して設立したワルシャワ条約機構が廃止、ワルシャワ条約機構軍は消滅した。

 1991年8月19日、守旧派の党官僚によるソ連8月クーデターがあり、クリミアにある別荘で避暑中だったゴルバチョフ大統領はそのまま軟禁状態となって、大統領権限が停止、モスクワではクーデター派と市民との間に銃撃戦がおきて、少数派のクーデター派が追いつめられ、やがて逃亡、軟禁状態から救出されたゴルバチョフ大統領はモスクワに戻り、直ちにソ連共産党の活動停止を指示した。

 1898年に「ロシア社会民主労働党」という名称で設立され、世界最初の共産主義政権を打ち立て、全世界の共産主義政党をリードしてきたソ連共産党は、遂に廃止された。

 しかし、ゴルバチョフ大統領の求心力も急速に失墜し、代わって反クーデターを指導し反乱を起した守旧派との銃撃戦を闘ったボリス・エリツィン氏の存在が、大きくクローズアップされ、リーダーにふさわしい人物と評価されていった。

 この後、紆余曲折をへて新生ロシアとなるわけだが、問題はこの混乱の時期にある。

 一党独裁の共産党内部で亀裂を生じ、政治的空白期間が生じれば、全ての政府機関が混乱するのは当然で、中央政府から何の援助も支給も無くなってしまった地方機関が悲鳴を上げ、特に衛星国に駐留していたソ連軍が本国政府からの梯子を外され、衛星国は独立して議会制民主国家になったのだから、ソ連駐留軍に早く撤収してくれというのは当然だが、駐留ソ連軍にしてみれば中央政府からの命令はなし、兵士の給料も未払い、糧秣も支給なしでは兵士が動揺するのは当然で、軍としての統率が崩れだした。

 以上は歴史的にみたソビエット連邦、共産党一党独裁の崩壊過程であるが、そこから派生した重大問題が我国及び周辺国家を悩ませることになった。

 東京から札幌へ行くのと同じ位の距離に日本海を隔てたロシア沿海州には極東軍、太平洋艦隊の基地があるが、ここに退役した原子力潜水艦が多数存在した。

 第二次大戦後、米ソ対立が激化する頃、沿海州のボリショイ・カーメニなどの海軍基地が多数新に建造され、カムチャッカ半島のヴィリュチンスクには原子力潜水艦基地を新設、極東軍総司令部はウラジオストックにあった。

 このウラジオストック基地は広大で、ダリザヴォード造船所、乾ドック、浮きドック、弾薬倉庫、その他の軍事施設が沿岸27kmにも及ぶところに新設、増設され米ソ二大陣営は互いに強化しあった。

 ボリショイ・カーメニにはズヴェズダ艦船修理工場がある。

 米ソ対立が激化するにしたがい互いに軍備拡張に狂奔した。その一例として250隻の原子力潜水艦を建造し、そのうち160隻をムルマンスクを中心としたコラ半島一帯の基地を持つ北洋艦隊に配属され、90隻がウラジオストック周辺やカムチャッカ半島に基地を持つ太平洋艦隊に配属された。

 このウラジオストックの基地から日本海から太平洋に出るルートは津軽海峡経由と対馬から沖縄列島経由のルートがあるが、この2ルートはいくら潜航して通り抜けようとしても日本側の対潜哨戒網に確実に引っかかる。千島列島の各海峡は浅いので浮上して航行しなければ航過できない、そうするとアメリカの監視衛星に捕捉される。

 唯一の安全航路は水深があり、我国の哨戒網が届かない国後水道を潜航したまま航過し太平洋に出ることができる貴重なルートになる。

 北方4島問題でソ連、新生ロシアとも硬くなに返還拒否を繰り返している理由はこの辺にあるかも知れない。

 さて、ソビエット連邦が崩壊し新生ロシアに至る過程を述べたが、最も被害を受けたのが中央政府から遠く離れたところに駐留する軍隊で、給料も必需品も補給がない。連絡も途絶えがちとなれば兵士の間に国家に対する忠誠心も怪しくなり、不穏な動きが出るのは当然で、世界中の武器商人の暗躍、備品の横流し、持ち出し、不正行為が公然と行われたのは事実らしい。

 また反対に維持管理を放棄してしまい大問題を提起したのが、太平洋艦隊の原子力潜水艦が現役を引退して係留されていた76隻のうち46隻の放置されたままとなってしまったことである。

 ソ連政府は原子力潜水艦を建造、配備しアメリカとの戦闘だけを考慮しており、老朽化した原潜の具体的な解体計画は全くなく、そのまま長年に渡り十分な管理もされず、岸壁に係留したままとなっていた。

 原子力潜水艦であるから当然原子炉を備えており、原子炉を停止しても崩壊熱があるから常時冷却水を循環し続けて長期間にわたって冷却しなければならない。

 しかし、動力源である原子炉が停止しているのであるから潜水艦の全ての機関は停止となる。従って冷却水を循環作動させるには、外部からの電源が必要になる。

 ここで大問題発生、中央政府が混乱、衰退し兵士の給料さえ支払うことができない政府が電気代も支払えないということになってしまった。

 電気を供給する側にしてみれば電気代を支払わなければ電気の供給を拒否するのは当然と判断した。

 福島第一原発では電源が全て破壊されてしまったので、死にもの狂いの努力で電源復旧に務めた。もし電気の供給が止まれば結果は最悪の事態に陥る事は明白だ。

 驚いた周辺国、特に我国にとって被害を被ることは確かで、それではと技術,資金を提供して、冷却水循環を継続、更に2000年に極東における退役原潜解体に関するプロジェクト・スタディを開始。2003年に小泉総理(当時)がロシアを訪問した際に採択された「日露行動計画」において、極東ロシアにおける退役原子力潜水艦解体事業をより着実に進めていくことが盛り込まれ、この事業が日露二国間の友情発展にも寄与して欲しいという願いを込めて「希望の星プロジェクト」と命名された。

(放置された原子力潜水艦)

 ただし、原潜の解体作業を日本側が直接請け負ったのではなく、資金を出してロシア側が実際の作業を行い、我国からは造船や原子力の技術者が現場で安全かつ確実に行われるよう指導にあたった。

 こうした作業が行われ、核の不拡散、日本海の環境保全が守られていることを各段階で直接確認を行うことは、原潜の解体を着実に進んでいることを確保する上で重要だ。

原潜を解体するには、原子炉から燃料棒が抜き取られ、使用済み燃料として一時保管、その後、鉄道でロシア国内の貯蔵・処理施設に運ばれる。

(原潜解体作業)

 一方、原子炉区画は、別途保管、発生した液体放射性廃棄物については「すずらん」で処理され、浄化された水は海に放出された。

(放射性廃棄物処理船「すずらん」)

「すずらん」とは、放射性廃棄物処理船として建造され、原潜解体事業に従事していた。「希望の星」プロジェクトの推進に必要な施設として、日本のトーメン社とアメリカ・B&W社が協同で開発、設計した放射性破棄処理施設をロシア・コムソモルスクにあるナ・アムール造船所で日本側の指導で建造した処理施設船で、建造費は当初25億円と見積もられたが、最終的には30億円となり、全額日本側が負担した。

施設の規模

長さ65m、幅23.4m、喫水(最大)3.5m ただし、自走能力はない艀(はしけ)、船の大きさに換算すると約5,000トンになる。

処理能力

(1)最大取り扱い放射能濃度・低レベル液体放射性廃棄物、3.7×10の5乗Bq/l。

(2)放出液体放射性廃棄物処理能力:約7,000立方m/年

「すずらん」を福島第一原発事故の汚染水の処理に使えないのか、日本政府の動きは鈍い。

 この原潜解体事業に日本及びアメリカが積極的に協力したのは、勿論海洋汚染を未然に防ぐという目的があったが、もう一つ係留されている原潜から核物質盗難未遂事件があり、また、旧ソ連邦諸国に駐留していたソ連軍が引き上げる際、核兵器を狙って暗躍する不届き者がおり、また核技術者や核兵器を取り扱う技術士官を高給で引抜くことによって核保有国になろうと足掻いている国々、テロリスト集団、この世の中には核兵器保有こそ勢力拡大や国家としてのステイタスと信じ込んでいる輩はゴマンとおり、それをなんとか未然に阻止しようとして積極的にプロジェクトを推進してきたのだ。

 この様な状況下で、ソ連海軍の空母「ミンスク」「ワリャーク」は解体業者を経て、といっても筋書き通りワンクッションをおいて中国に買い取られ、空母として再生され就航、我国を脅かす存在になることは間違いない。もう1隻の空母「キエフ」は買い取られたがホテルになるらしい。

その後の原潜事故

○1993年 ソ連原潜燃料棒交換時に使用済み核燃料を誤って入れ、被曝した。

○1994年3月30日 フランス海軍リュビ級原潜、トゥーロンから80kmの沖合で蒸気爆発10名死亡。

○2000年8月 ロシア海軍オスカーU級原潜「クルスクK-141」(1万8千トン)が、炉心に約2トンの核燃料を搭載したまま、バレンツ海の110m海底に沈没、乗員118名全員死亡、原因不明。

○2001年2月10日、原子炉の事故ではないが、ハワイ、オフア島沖でアメリカ海軍原潜「グリーンビル」が浮上の際、航行中の宇和島水産高校の練習船を突き上げ、沈没、教員5名、生徒4人が死亡。

○2007年1月8日、ペルシャ湾のホルムズ海峡付近で、川崎汽船「最上川」が原油満載で航行中、左舷船腹にアメリカ海軍原潜が衝突、船底に5m位の凹みを造り、数カ所の穴からバラストタンクへ約4,000トンの海水が入った。

◎ロンドン条約

 以前、放射性廃棄物の海洋投棄は欧米では行われていたらしい。そこで投棄による海洋汚染を防止するために、全ての廃棄物の海洋投棄を国際的に規制する海洋投棄規制条約(ロンドン条約)が1972年採択された。この条約は15ヶ国の批准により、1975年8月に発行した。加盟国は2011年現在で、日本、米国、英国、メキシコ等86ヶ国に及ぶ。

 ただし、北大西洋においてOECD/NEEA協議監視制度の下で英国、フランス、ドイツ等により1967年〜1982年にかけて海洋投棄が実施された。

 しかし、1983年以降は厳しく監視し、不法投棄を取り締まっている。

 ところが、ソ連邦から新生ロシアまでの間に北洋海域及び極東海域において放射性廃棄物の海洋投棄が恒常的に行われていたらしい。

 北洋海域へ投棄した放射性廃棄物は北洋艦隊及びムルマンスク船舶公社の原子力艦隊おもであり、1959年から1992年にかけて、液体廃棄物で879TBq(23.8kCi)、固体廃棄物574TBq(15.5kCi)が投棄された。

 極東海域へ投棄した放射性廃棄物は太平洋艦隊からのものであり、1966年〜1992年にかけて、液体廃棄物で456TBq(12.3kCi)、固体廃棄物252.0TBq(6.8kCi)が投棄された。

 これらは1993年4月に公表した政府白書「ロシア連邦領土に隣接する海洋への放射性廃棄物の投棄に関する事実と問題点」から抜粋した数値。ただし、実際はこれより遥かに多い数値の物を投棄しているという。

 TBq: 1兆ベクレル、1000ギガベクレル、100万メガベクレル

 kCi: キュリー、1Bqの3.7×10の10乗倍=37GBq(Kはその千倍)

 更に驚くべき事実として、旧ソビエット連邦時代、退役原子力潜水艦の原子炉をそのまま北海と日本海に21基まるごと投棄してしまったことが判明した。当然海中で放射能を撒き散らし汚染のしほうだいとなっている。

 放射能汚染水の流出は、福島第一原発の事故でもあり、世界に繋がる海洋故に近隣諸国からは大分非難、抗議が相次いだ。この汚染水流出はチュリノブイリ原発事故とスリーマイル島原発事故にはなかったことだ。

 特に2号機の取り入れ口からは、高濃度の放射性物質を含んだ水が漏れた。東電の推計によると、その総量はヨウ素131とセシウム131、セシウム137を単純に足し合わせて4,700兆ベクレルと発表した。

 その後、3号機の取り入れ口付近でも高濃度の放射性物質を含む水が採取され、水漏れが明らかになったが、流出量は不明としている。

 世界でも過去、高濃度の放射性物質を含んだ水や放射性廃液の廃棄など度々問題になったことがある。

 その中で最大のモノは、イギリス中西部、セラフィード(元ウインズケール)の核燃料再処理工場では長期に渡って流出が続き、過去最悪の事例といわれ1974年から1984年までの約10年間、毎年1,000兆ベクレル以上(セシウム137での換算値)の放射性物質を含んだ汚染水を放出していた。

 福島第一原発の事故での海への推定放出量4,700ベクレルは、セルフィールドでのピーク時の年間放出量に匹敵する。

 セルヒールドでは、問題が発覚し放出量を減らす対策がとられたが、誤って廃液を放出したとして放出が続いたという。

 そのセラヒールド近辺では健康への影響はなかったのか、調査の結果、再処理工場の周辺に住む子供の白血病の高い発症率がみられた。

 1984年7月に発表された調査委員会の報告書では、イギリス平均の10倍という高い発症率であるが、この周辺には僅か2000人しか住んでおらず、少ない例で10倍の発症率だと断言は出来ないとし、計測された放射能レベルと発症との因果関係は不明とした。

 ある研究ではセラフィール再処理工場で働く父親が放射線を被曝し、それが子供の白血病の要因として疑わしいと指摘している。

 原子力のメカニズムを理解しようにも難しい問題で、ただ怖いモノ、怖ろしいモノ、理解できないモノと敬遠していませんか。

 この論でも数々の原子力関連の単語がでてきたが、単に読み飛ばしていますか。

 原子力発電の仕組みをほんの一部だけでも覗いてみましょう。

◎* 原子力発電の全体像
(1) 基本は燃料からですが、原子力発電の燃料はウランです。
ウラン鉱石は世界中にありますが、埋蔵量ではオーストラリア、埋蔵量約168万トン、2位カザフスタン、22万トン、3位ロシア56万トンと続き、我国でも僅かですが推定で約6,600トンの埋蔵量がある。
天然ウランは、99%以上が核分裂させにくいウラン238で、核分裂させやすいウラン235は約0.7%しか含んでいない。
(2) ウラン鉱石を化学的に処理して「イエローケーキ」と呼ばれる黄色の粉末(重ウラン酸塩)に加工される。これはウラン235の割合を高める「濃縮」という作業を行い、濃縮されたウランは、直径と高さが約1cm、重さ約6gの円筒形の塊に成形されて焼き固められる。これが核燃料の本体であり「燃料ペレット」と呼ばれる。
(3) 燃料ペレットは「被覆管」と呼ばれる長さ4m、厚さ約0.8mmの金属の管に350個ほど詰められて「燃料棒」となる。更にこの燃料棒が60〜260本程度の燃料棒が束ねられ「燃料集合体」が造られ、これが原子力発電所へ運ばれる。
原子炉の中で
(4) ウラン燃料は、石油や天然ガスのように「燃える」という燃焼をするわけではない。
ウラン235の原子核は、中性子を吸収すると不安定になり、次に原子核は2個の原子核(核分裂生成物)に分裂、その時膨大な熱を発生する。
ウラン235の核分裂では、中性子も飛び出し、この飛び出した中性子は、他のウラン235に吸収されて次の核分裂を引き起こす。これが「連鎖反応」。
ウラン235の核分裂の際に飛び出す中性子は多くの場合2〜3個なので、それがすべて次の核分裂を誘発すれば、核分裂はねずみ算式に一瞬にして増えるが、逆に、核分裂で生じた中性子のほとんどが、核燃料以外の物質に吸収されるなどして次のウラン235の核分裂をおこせないと、連鎖反応は止まってしまう。即ち調整が可能。
(5) 原子炉内では、炉内の中性子の数を調整して、一つのウラン235の核分裂が、次のウラン235の核分裂一つを引き起こすようにしている。このような核分裂連鎖反応の状態を「臨界」と呼ぶ。
原子力発電:我国では2種類の原子炉が使われている。その一つが「沸騰水型軽水炉」福島原発第一、第二の原子炉はこのタイプ。(他は、加圧水型軽水炉)
(6) 長さ4.5mの燃料集合体は、400〜760体ほど「圧力容器」の中に装填される。この部分を「炉心」という。圧力容器は、厚さ約16cmの高い強度をもつ特殊な鋼鉄で出来ており、そこに300トンの水を入れておき、その水を核分裂の熱で直接沸騰させる。
運転中の圧力容器内は発生した約280度の水蒸気が、約70気圧もの高圧になって、タービンに送られる。
(7) 圧力容器からタービンに送られた水蒸気のエネルギーでタービンを回して発電する。
しかし蒸気には放射性物質を含んでいるため、放射線の管理が必要で、格納容器はさらに厚さ2mほどのコンクリートで覆われ、内部からの放射線が外部に漏れるのを防いでいる。そしてこれらは厚さ1mのコンクリート製の「原子炉建屋」に収められていた。
しかし今回の事故はこれらの密閉性が失われてしまった。
原子炉の出力調整
(8) 原子炉の出力(核燃料の発熱量)を調整するには、核分裂連鎖反応の進み具合を調整すればよい。核燃料内のウラン235の核分裂は、ウラン235が中性子を吸収することによっておきる。そこで、原子炉内の中性子の数を調整してやれば核分裂連鎖反応を促進したり、抑制したりすることができる。
(9) この中性子の量を調節するものが「制御棒」。制御棒は、中性子を吸収する性質を持った物資をステンレスで覆ったもの、この制御棒を炉心に差し込んだり、引抜いたりすることで原子炉内の中性子の量を調節できる。
(10) 強い地震や原子炉内で異常を検知した場合、事故を防ぐため自動的に全ての制御棒が挿入され、核分裂連鎖反応は停止する。
この原子炉の緊急停止を「スクラム」という。
福島第一原発は、地震を検知して緊急停止した。
冷却水
(11) 放射性物質は、放射線を出して、次々とその姿を変えいく、この現象を「放射性崩壊」という。
放射性崩壊が起きるときは、必ず熱(崩壊熱)が発生する。従って、炉心が緊急停止しても崩壊熱が発生し続ける。
福島第一原発の事故で、原子炉が停止しても燃料が引き続き熱を発し続けるのは核分裂ではなく、この崩壊熱が原因。
(12) 原子炉が停止し、核分裂連鎖反応が止まっても、炉内に蓄積されているさまざまな放射性物質の崩壊熱により熱は出し続く、原子炉停止直後の崩壊熱の量は、僅か1秒で一般家庭用の浴槽約10杯分の水(約3トン)を沸騰させる熱量。
(13) もし放射性物質の崩壊熱を冷却する循環水がなければ、そこにある水は蒸発してしまう。そうすると核燃料が水から露出してしい、冷却出来ない状態になると、燃料棒の温度は数分で2,000°C以上になり燃料棒の被覆管(融点は約1,900°C)がとけて大量の放射性物質が圧力容器内に漏れ出すことになる。
また、燃料ペレット自体(融点は2,800°C)が溶け落ちる可能性もある。
「炉心溶融」が起きると、溶け落ちた高温の燃料によって圧力容器が破損してしまう。
(14) 何らかの理由で水の循環ができず、水の蒸発が進んだり、配管が破損して圧力容器の水が急激に減ったりした場合は「非常用炉心冷却系」と呼ばれるシステムが働き、炉心に直接水を注入して炉心を冷やし、溶融を防ぐ。
(15) 原子炉が停止しても、崩壊熱を冷却するために冷却水循環を維持しなければならない。その回路の作動は通常回線、更に補助回線、非常用ディーゼル発電機、非常用蓄電池等がある。これら複数のバックアップ施設を「多重防護」と呼びより安全を期している。
ところが今回の福島第一原発事故は、想定を超す大地震と大津波に襲われ、これらシステムを作動させる主、補助全ての電源を失ってしまい、非常用炉心冷却システムを動かすポンプまでが作動せず、部分的に炉心溶融が起きてしまい、レベル7の大事故になってしまった。
(16) 8月22日、日本原子力研究開発機構発表、東京電力福島第一原子力発電所事故で大気中に放出された放射性物質の総量は57万テラベクレル(テラは1兆倍)とする解析結果をまとめ、原子力安全委員会に報告した。
新たな観測データなどを元に再計算した結果、ヨウ素13万テラベクレル、セシウムがヨウ素換算で44万テラベクレル、従来の見積もりより(63万テラベクレル)1割程度少ないが、「誤差の範囲内」としている。

  浪江町赤宇木    (第一原発より北西31km)    64.21mSv

  飯館村長泥     (北西33km)          34.93mSv

  福島市杉妻町    (北西62km)          2.16mSv

  いわき市三和町差塩 (南西39km)          0.513mSv

  川内村上川内早渡  (西南西22km)         1.217mSv

                 (8月21日 文部・科学省調べ)

   環境中に残る放射性物質の例

   放射性物質       出す放射線          半減期

   セシウム137      ベータ線・ガンマ線      30.1年

   ストロンチュム90   ベータ線           29.1年

   プルトニウム239    アルファ線        2万4100年

   アメリシウム241    アルファ線          433年

    ヨウ素                        8日

  福島放出セシウム137、広島原爆の168倍相当

 経産省原子力安全・保安院は8月26日発表、東京電力福島第一原発事故と、広島に投下された原子爆弾で大気中に放出された放射性物質の種類別の量を纏めた資料を公表した。

 原発事故の放出量(単純計算)

   セシウム137 が原爆の 168.5倍

   ヨウ素131  が原爆の  2.5倍

  半減期が約30年と長いセシウム137で比べると、原発事故が1万5千テラベクレル(テラは1兆倍)、原爆が89テラベクレル。

  放射能汚染がそれだけ長期化する可能性を示している。

  保安院は「原爆は熱線、爆風、中性子線により大きな被害があったから、原発事故との単純な比較はできないが、影響を放出量だけで単純に比較はできない」としている。

◎放射能

 「放射能」とは、放射線を出す能力のことであり、放射能を持つ物質が「放射性物質」である。放射性物質そのものを放射能と呼ぶこともある。

 福島第一原発事故では大量の放射性物質を原子炉外へ放出してしまった大惨事で、推定57万テラベクレルが放出してしまった。

 被曝の怖れがあり、被曝とは、放射線に曝されることである。

 従って、日常生活にどの位影響があるのか、どうすれば防げるのか、外での影響、飲料水、食べ物、大人より影響がより大きい子供達、或は妊娠中の胎児への影響、遺伝、その他、心配事は絶えることはない。

 放射性物質は必ずしも、珍しいものではない。放射性物質は自然界に存在しており、

 宇宙(大気圏)、大地、空気中、食物、水等、いろいろなところに放射性物質は存在し、放射線を出している。

 宇宙から地球には水素の原子核(陽子)などが「宇宙線」として降り注いでおり、大気圏にある物質の原子核に衝突して放射性物質をつくりだしている。また、地面には放射性のウランやトリウムが微量ながら含まれている。

 こうした放射性物質が出す放射線を体の表面に浴びる「外部被曝」を日常生活で繰り返している。

 また、空気中には地面からもれた放射性物質ラドンがあり、食物中には放射性のカリウム40が含まれている。これらは、呼吸や食事で体内に取り込まれる。

放射性物質が出す放射線を体内で浴びる「内部被曝」も、日常的に受けている。

自然の放射線と、原発事故の出た放射線、医療で使われる放射線に本質的な違いはない。

 放射線は高速で飛び出す粒子か、光である電磁波のいずれかである。

 例えば「中性子線」は、文字通り高速で飛び出す「中性子」という粒子である。

 「アルファ線(ヘリウムの原子核)」や「ベータ線(電子)」も、粒子の放射線である。

 一方、レントゲンに使われる「X線」や殺菌に使われる「ガンマ線」は電磁波。

 自然の放射線によって、私達の細胞やその中のDNA(デオキシリボ核酸)は傷ついている。しかし、細胞にはDNAの傷をある程度修復する仕組みがあるために、生物は健康を保つことが出来る。

 ただし、傷が大量に積み重なると、細胞が死んでさまざまな急性症状を起したり、長期的には癌細胞の原因になったりする怖れがある。

 傷は、放射線が持つエネルギーを細胞やDNAが吸収するためにできる。

 吸収するエネルギー量は「グレイ」という単位で表わされる。(1グレイは、物体1kgが1ジュールのエネルギーを吸収すること)

 同じ1グレイでも、組織、臓器の性質や放射線の種類によって、人体への影響の度合いは異なる。それらを考慮して影響を表わした単位が「シーベルト」。

 従って、放射線の影響を絶対に受けない方策はなく、我国では自然放射線による被曝量の合計は、1年間で平均1.5mSv(ミリシーベルト)とされている。

(1シーベルトの1000分の1)

日本での平均被曝量、年間約1.5mSvとされている。その内訳

      空気           0.4mSv

      宇宙(大気圏)      0.4mSv

      食物           0.4mSv

      地面           0.3mSv

      過去の核実験や原子力施設 0.005mSv

◎環境中の放射性物質

 広島、長崎に原爆が投下されたのが1945年以後、アメリカ、旧ソ連、その他の国々が(24〜25頁参照)原爆、水爆の核実験を地上、地下、海上、海中、大気圏で核爆発させ、核実験を繰り返してきた。その回数判明しているだけでも2千数百回、地下や密かに実験を繰り返してきた回数を入れると2倍位になるのではないかと推測される。

 核分裂で生じた放射性物質が、上空10km以上の対流にのって地球規模に拡散した。

 例えば、ヨウ素131とセシウム137の全放出量(国連科学委員会報告書による)は、福島第一原発事故でのヨウ素131とセシウム137の推定放出量の、それぞれ約5,000倍、と約100倍の量になる。半減期が過ぎたといっても、半減であって零になることではない。

 核実験の直接的な被害例として明るみにでたのが、「第五福竜丸」事件(26〜27頁参照)

 1954年、マーシャル群島のビキニ環礁でアメリカが水爆の核実験を行った際、危険海域を定め、この海域への立ち入りを禁じ、パトロール艦艇により厳重に警戒していた。

 ところが爆発威力に計算違いがあり、予定の倍以上の爆発を起してしまい、危険海域の外で操業をしていた焼津港所属のマグロ延縄漁船「第五福竜丸」が放射能を帯びた大量の降灰があり被曝した。

 広島や長崎との違いは、熱線や爆風がなく、まいあがった放射性物質からでた放射線のみの影響を受けた。

 後の調査では、乗組員全員23名は外部被曝量1.7〜6.9グレイと推定された。

(主に影響したガンマ線の場合、1グレイは1シーベルトと換算できる)

 この放射線量は急性症状がでる被曝量にあたり、事実、おう吐、頭痛、皮膚障害、脱毛、白血球の減少などの急性症状があり、帰港後即入院検査、治療となったが、半年後最年長(被曝時39歳、死亡時40歳)だった通信長久保山さんが死亡、その他の乗組員は治療を続け退院したが、健康を取り戻した訳ではなく、後年、肝臓癌や肝硬変で亡くなったが、被曝との因果関係はハッキリしないまま、またプライバシーの問題もあり、ひっそりとこの世を去った。

 一方、マーシャル群島の島々に住む原住民も被曝しており、放射性のヨウ素などによる

子供の甲状腺癌や、大人の甲状腺機能低下が多くみられたという。

 甲状腺の被曝量は、子供で3〜5.2グレイ、成人で1.6〜12グレイと見積もられている。発病率は他の正常な地域に比べて100倍以上だという。

 ただ、残念ながら積極的な調査は行われておらず、また、設備のある医療機関もなく、南洋に浮かぶ島々故に交通手段が少なく世界のマスコミもニュースとしての価値がないのか無視している。

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第十二章 数々の隠蔽工作

 6月16日、野田内閣は関西電力大飯原子力発電所3、4号機再稼働を決めた。

 関電は同日午後2時半から再稼働に向けた作業を開始、7月下旬から8月上旬にかけて3、4号機ともフル稼働する見込み、政府はフル稼働を見極めたうえで、関電管内の節電目標を見直すことにしている。

 関電によると、原発を動かすための配管の洗浄や弁の点検等が必要なため3、4号機ともフル出力で発電するまでに5〜6週間かかる。フル稼働は先に作業に入る3号機が早くて7月8〜13日、後から作業に入る4号機は7月24日〜8月2日の見通し、真夏の最大電力消費期にぎりぎりで間に合う見通しとなった。

 政府は原発が再稼働しない場合、関電管内で8月のピーク時に14.9%の電力不足になるとして、15%の節電(猛暑だった2010年比)を求めていた。

 関電によると3、4号機をフル稼働すえば、その発電量と、その電力で水を汲み上げて行う揚水発電分が計446万kwになり、ピーク時の不足分を何とか補える見通しだという。

 だがこれで電力問題が解決したわけではない。暫定的な安全基準で真夏の電力最大需要期を何とか乗り切ろうと再稼働に踏みきったのであって多くの国民が納得したわけではない。

 原発に絶対の安全はない。原発は出来るだけ早くゼロにすべきだが、ただ電力不足が日常生活を脅かし、産業空洞化、経済活動を阻害するとなれば軟着陸には慎重にならざるを得ない。

 全原発の「仕分け」をどうするのか、福島第一原発の教訓をどう生かしていくのか、教訓を反映させた新たな安全基準を各原発立地条件に基づき、その対策をしっかりと講じ、更には危険性の高い原子炉途判断したならば廃炉を命令する。

 その上で有識の第三者機関が必要最小限の原発を絞り、国民の理解を求める。

 8月に発足する原子力規制委員会とその事務局になる原子力規制庁がどこまで踏み込めるのか。

 新しい組織が抜本的に生まれ替われるのか、規制委員5人の人事が最重要になる。崇高な使命を自覚し、第三者機関として厳正忠実、良心に従って見解を述べられる信頼できる人材を委員として選びたい。

 規制庁は約1千人程度の規模になるらしいが、当初は矢張り保安院や安全委、文部科学省など従来の原子力関連組織からの移籍組だろうが、原子力ムラの意識を換えなければ、より強固な原子力ムラの仲良しクラブになってしまう。

 そのために規制庁は、5年後から全職員に出身官庁への復帰を認めないことにした。この間に職員の意識改革を徹底し、母体の意識を高め、そのためには新規採用の人材を確保し育成に努める必要がある。

 この規制庁が厳正な安全基準を策定し、それに基づいて全ての原発の評価を見直し、ストレステストの結果に於いて廃炉にすべき原発をリストアップし、再稼働可能な原発は期限を決めて稼働に踏み切るべきだ。

 5月5日以降、全国の原発が稼働停止し、やっと大飯原発の再稼働が決まったが、それに続く再稼働は何処になるのか、各電力会社は必至になって政府や地元出身の議員に陳情を繰り返しているが、これは電力不足ばかりではない。原子力規制委員会の設置法案を成立させ、ストレステストを経て1日でも早く再稼働させなければならない切羽詰まった理由がある。

 それは電力会社経営の根幹を支える大問題を抱えているからだ。原発1基が停まり、代わりに火力発電で発電すれば当然燃料としてLPG、石油、石炭等の化石燃料を使わなければならないが、燃料費は1日当たり約2億〜3億円、再稼働しなければ、燃料費に増加分は電力会社全体で年間3兆円の負担増になる。

 原発を持つ電力9社の赤字額は、昨年度決算で計1.5兆円になった。その赤字分を補う為の電気代値上げなかなか認められない。

 銀行からの融資の条件は「電気代値上げと、原発再稼働の道筋を付けること」事故の第一原発以外は正常に稼働していたのを国民世論に押された政府が再稼働をためらっているのだから、銀行側としては再稼働して経営を軌道に乗せるのが条件とするのが当然の成り行きになる。

 一方で廃炉の方針も推し進めなければならないが、これまた困難な事案であって、廃炉に係る費用も膨大であるが、それ以上に原発に依存してきた地元経済をどう救済するのか、かつて石炭産業が戦後の基幹産業として政府の手厚い保護のもと盛業してきたが、エネルギー源がより重宝な石油に替わり、やがて石炭産業は政府によって安楽死したが、長い激しい闘争があった。

 特に私達は地元に常磐炭田があったから、中小炭鉱から1つ、また1つ、ヤマが閉鎖され、炭住の灯が消え、最後に磐城地方のシンボルであった常磐炭鉱が閉鎖された時は覚悟はしていたものの涙がこぼれるほどの寂寥感があった。

 石炭は産出地が特定の地域にあったが、原発は地元に金をばらまき、恐喝的な意味あいを含めて無理に押しつけてきたものであるから、廃炉を決めてもハイサヨウナラとはいかない、しかも廃炉から完全に復旧するまでは40年以上もかかると言われており、その間地元の雇用、財政への支援、さらには使用済み核燃料問題、汚染の固まりである廃炉等々問題は山積しており、どうせ長続きしない内閣ならば汚れ役は御免とばかりに先送りが得策と考えておれば解決にはほど遠い。

 またもや政府の怠慢と言うべきか不祥事なのか、福島第一原発事故直後の2011年3月17〜19日、アメリカ・エネルギー省は放射線量測定の専門家を派遣、在日米軍横田基地を拠点にして、空中測定システム(AMS)を米軍機2機に搭載し第一原発から半径約45km内を計40時間以上飛行し、綿密な測定を行った。

 これにより地上の放射線量を電子地図に表示でき、この資料を基に作成された汚染地図は、在日米大使館を通じて外務省に電子メールで計2回送られた。

 外務省は担当省庁である経済産業省原子力安全・保安院と、線量測定の実務を担当する文部科学省に転送した。

 ところが文部・科学省科学技術・学術政策局に入ったこの貴重なデータはこの局で埋没してしまう。即ち肝心な官邸、原子力委員会には報告されなかった。同じく経産省原子力安全・保安局に入った情報もこの局で握りつぶされた。

 まさか故意でやった訳ではないだろうが、ことの重要性を認識していない、あるいは出来ない担当幹部が放置してしまったのだろう。専門家でない官僚が定期的に人事異動を繰り返す官僚システムの弊害で、たまたまその役職にあった官僚にとって何をどうしていいのか全く解らないままに不作為こそ自己保身と判断したのか。

 その結果、浪江町や飯村を含む第一原発の北西部方向に30km超えの範囲で1時間当たり125マイクロシーベルトを超える地域が拡がっていることを中央官庁は掌握していたにもかかわらず避難情報を出さなかったことが明らかになった。

 この線量は8時間で一般市民の年間被曝線量の限度を超える数値になる。

 この地域にある赤宇木地区やその周辺には大勢の人が避難していたし、飯村では避難対象にもなっていなかった。

 中央官庁はSPEEDIによる測定と米軍が空から広く実測したデータに基づく汚染地図を掌握していながらその資料を伏せたまま避難指示を出さず、全く情報がないまま浪江町は3月12日役場機能を町の北西部の津島地区に移転、双葉町も同日矢張り北西部にある川俣町に移転、高線量の地域に避難してしまった。

 また官邸もデータがないままに、3km圏、5km圏、10km圏、20km圏、30km圏と同心円状を描いて避難地区を決めた。汚染状況に応じて避難圏を決めるべきだが、資料に基づいて避難圏を決めるべきだと意見具申をした官僚も専門家もいなかったことになる。菅総理は裸の王様にすぎなかったのか。

 米軍からの資料は黙殺され、放置されその存在さえも明らかにしなかったが、1年3ヶ月後の6月18日、朝日新聞朝刊1面でスッパ抜かれた。

 アメリカ・エネルギー省提供の「放射能汚染地図」を駐日米大使館を通じて外務省に送付し、これを受けた外務省は担当省庁である文部科学省と経済産業省に転送した。が、この貴重な資料が住民避難に生かされることなく、無視または放置されたいたことを1年3ヶ月後に朝日新聞によってスクープされた、慌てた経産省保安院の担当者が18日午後3時から記者会見を行い、言い訳か、弁解なのか、保安院・首席統括安全審査官の記者会見があった。

 審査官はアメリカ側から提供された「汚染地図」が計7枚あったことは認めた。が、しかし、その「汚染地図」がどう扱われたかは「記録にない」と繰り返すに留まった。

 アメリカ・エネルギー省の航空機モニタリングのデータが外務省を通じて3度にわたり保安院の国際室に電子メールが届いた。またデータが、保安院に設けられた緊急対応センターの「放射線班」に伝わったことも認めた。

 しかし、何故その貴重なデータが同センター内にある住民避難対策担当である「住民安全班」に渡らなかったのか、という肝心な点については「解らない」を繰り返すだけ、しかし、「汚染地図」は同センター内のホワイトボードにA2判に拡大されて掲示されていたとのこと、従って同じ室で作業する「住民安全班」の係官が目にしても不思議ではない。

 しかし、正式に受領しなければ全く関心を示さない、与えられた業務は懸命に取り組むが、テリトリーの範囲以外は無関心、まして外国のデータ等は無視が当然、同じ日、文部科学省も「情報は共有すべきだったかも知れないが、陸上でのモニタリングを収集することが文部科学省の担当」であることを強調、従って海外からの「汚染地図」の取り扱いについては当時者である認識はない。

 「汚染地図」の取り扱いは保安院が担当するモノとの認識を表明し、文部科学省にはなんら落ち度はないことを強調した。

 それならば文部科学省が担当しているSPEEDIによるデータがありながら公表しなかったのは何故か、正確でなかったから公表しなかった、と弁明しているが、危険が迫っている地域を認識していたはず、であればせめて現場責任のある福島県庁の担当者に連絡すべきだと考える。なんら情報がないままこの地に避難してきた人々は被曝してしまった。

 ところがこの地区に避難していた人々のところに、突如白装束(防護衣服)が現れ、名をなのらず「ここは危険だから直ぐに避難して下さい」とだけ告げて風のように去って行った謎の1行がいたらしい。県や市町村の係員ではないとのこと、「汚染地図」を掌握していた人々の直接行動なのか、現在でもその正体は不明。

 では何故これほど混乱してしまったのか、原子力規制組織として経済産業省、原子力安全・保安院、独立行政法人・原子力安全基盤機構。内閣府、原子力安全委員会。文部科学省、放射線モニタリング部門。

 所属する省庁が異なる組織が原発事故という1つの災害に対処した場合、事前に綿密な打ち合わせと、組織全体を横断的に統括する本部及び司令官がいなければ、それぞれがバラバラに行動することになる。まさに今回悪しき例をさらけ出してしまった。

 経産省と文部科学省が同じ室内で作業していながら「汚染地図」を共有、活用することはなかった。

 また、総司令官であるべき菅総理は情報が集まらないまま、現場に介入したり、東電本店に怒鳴り込んだりと動き回ったが、総司令官としての自覚があまりないのか総司令部を留守にして現場を電撃訪問、介入して混乱させるなど危機管理体制が全く整っていないことが露呈してしまった。

 第一原発事故で担当する保安院は事故直後に情報を集めきれず、あっても活用できず組織としてきちんと機能できなかった。また事故以前にも地震・津波・地盤等、過酷事故の警報を認識していながらも、電力会社への周知徹底を怠っており、更には検査の手抜きに手を貸したりと電力会社に擦り寄っていたことが次々と明らかになり原子力ムラの様相を呈した。

 SPEEDIを管轄する文部科学省もデータを掌握しながらも公表せず、公表の義務はない、落ち度はない、全て適切に行動した、と強弁を繰り返した。

 さすがに国としてはこの制度の欠陥を認め、経済産業省の原子力安全・保安局。内閣府の原子力安全委員会を廃止。いくつかの省庁にあった原子力安全に関する部局を廃止し、1つに統合することになった。

 有識者5人による「原子力規制委員会」と言う独立した組織を9月発足をメドにして委員任命者を選考中。

 独立性の高い委員会として、技術的・専門的な事項の判断は委員会に委ね、その範囲外の判断は首相がする、ということになった。

 保安院が行ってきた業務等は、新たに環境省の組織の一部として「規制庁」を設置し、約1千人体制の官庁になるらしい。

 大飯原発は野田政権が仮の基準を作って安全を判断し、再稼働を認めたが、それに続く他の原発の再稼働は、新しく出来る「原子力規制委員会」が安全性を確かめて判断することになる。だが、どのような基準になるのかはこれからの問題だ。

 アメリカ・原子力規制委員会(NRC)は、アメリカ国内の原子力に関連する全ての施設の安全に関する監督業務を担当する。この委員会の委員長は大統領によって選任され、かつ原子力の安全に関する業務を全て委任されている。

 その体制は全米の原子力発電所104カ所とその他の原子力関連施設に原子力規制委員会の検査官が原則2人常駐し、安全が守られているかどうかを厳しくチェックする。

 検査官は「いつでも、どこででも検査が出来る」権限があり、抜き打ち的に検査を行う。毎朝6時半、当日の作業内容が報告される会議には必ず出席して傍聴し、作業内容を掌握し、また前日の運転日誌や作業報告書すべてに目を通す。さらに、タービン建屋や原子炉建屋には足繁く見回る。使用済み燃料プールや中央制御室のような立ち入り禁止区域内にもフリーパスで入室出来るし、係員に直接質問することが出来る。

 わが国の原子力安全・保安院の検査官は、電力会社が作成する検査書類の審査することが主で、現場の検査は疎かになる。

 NRCの場合は、ワシントン郊外にある本部と全米4ヶ所にある地方局の専門職員が文書業務を分担し、不具合があれば直ぐ検査官に連絡する。

 重要な問題が見付かれば記者会見で明らかにされる。2011年の1年間では全米で200件余の不具合が公になった。わが国のように隠蔽工作が慣例のような原子力ムラの体質はない。

 NRCの検査官は原子力工学の修士以上の学位を有する人が多く、検査官としての訓練を7週間、必須は原子炉制御盤のシミュレーターの操作、平時、非常時にどのような操作が必要か徹底的に習得する。全課程が修了すると、さらに現場で1年間訓練を重ね、更に試験に合格して検査官になる。

 従って専門職として「検査官はNRCの目であり、耳となって」業務に邁進することになる。

 わが国も米国のような現場主義に徹しないと、今回の原発事故による右往左往の大混乱を繰り返すことになりかねない、官僚は検査書類を審査するだけでの書類主義を脱し、大幅な官僚制度の改革こそが必要。

 福島第一原発事故の際は、メリーランド州にあるNRCオペレーションセンターにそれぞれの専門家が集結し、情報を収集して約2ヶ月にわたり活動したとのこと、その間、窒素注入の必要性など適切なアドバイスを送り続けたが、「汚染地図」同様、司令塔不在のわが国では活用できなかったらしい。

 このNRC委員長であったグレゴリー・ヤッコ氏が2011年10月4日、アメリカ議会・公聴会で証人として登壇し、福島第一原発事故について証言した。それによると地震、津波は予想されていたことであり、その対策を全く執っていなかったのは怠慢であり無責任な体制によるもので起こるべきして起きた人災である。

 事故後の処理に関してのモタツキは司令塔の不在、国内法の不備、決断の遅さ、責任転嫁、組織の不備等々、猛烈な日本批判を証言した。

 これらは指摘の通りだから反論も出来ないが、事故直後即座に援助申し出、資材の提供などアメリカ側の好意ある申し出を、事故の規模を掌握出来ないままにことごとく断ってしまった日本政府と東電の傲慢な対応に相当立腹していたようだ。

 さらには専門家を本国から派遣して飛行機によって調査・測定して作成した汚染マップも日本政府が無視したことだ。

 ところがNRCの存在は盤石と思いきや、今大きく揺れている、約4千人の職員を統括・指揮するのは5人の委員会があり、そのトップを務めるのが大統領による任命である委員長であるが、そのヤッコ委員長が他の委員と対立し、排斥運動があり、嫌気がさしたのか先月5月に突如辞表を提出し職を去ってしまった。

 福島原発事故の対策に専念したが、その際アメリカ国内の原子力規制に関し、法規制の強化を謀ったり、アメリカ政府の日本に対する対応を強く迫ったり、新規原子炉の新設を30年ぶりに認可したり、核廃棄物処分場建設計画を中止したりとの等の独断専行があって、他の委員との足並みが揃わなかったり、共和党議員と対立したりと四面楚歌の立場になり、任期中であったが自ら辞表を出すはめになったらしい。

 後任の委員長はジョージ・メイソン大学アリソン・マクファーレン准教授が任命され、5月24日オバマ大統領から辞令を受けた。ただし議会の承認を要するので正式の任命は未だらしい。

 氏は核廃棄物の処理に関する専門家で、地質学で学位を授与されたとのこと。

 「安全神話」を信じ「危機管理の意識もない、体制もない」わが国に3.11の東日本大震災、第一原発の事故、未曽有の大災害に襲われ狼狽えるのはやむを得ないかも知れないが、如何に素早く立ち直れるかが問題であるが、残念ながらモタツイテしまった。

 最大の欠陥は縦割り行政で貴重な情報を共有できず、またその重要性を認識できず、情報が活用できなかったのと、絶対的な不備は司令塔が存在しなかったことに行きついてしまう(詳しくは別の論で追求します)

 6月20日、東京電力は福島第一原発の事故調査について最終報告書を公表した。結論から先に言うと、事故の主な原因は想定を超える津波に襲われたことによるものであった。だが、事前の想定が不十分であったことは認めるが、各施設は国の考えに従って整備したモノである、としている。

 報告書は社内に設けた事故調査委員会が纏めたもので、東電役員、発電所の責任者、現場運転員等、のべ600人の聴き取り調査をし、更に社外の有識者からの参考意見も聴取している。

 報告書によると、事故原因は「津波想定について結果的には甘さがあったことを認め、津波に対する備えが不十分であったことが今回の事故の根本原因」としている。

 しかし、事前の対策については機器の故障を想定して複数の非常用冷却設備を設置し「国と一緒に整備を進めた」と強調。主な設備は地震による損傷はなかった。従って事故の直接原因は想定外の津波によるものと強調、事故の直接的な責任はない。としているが、これは当然で、もしも認めてしまうと、(1)国からの支援が受けにくくなる。(2)損害賠償を求める訴訟や役員に対する株主代表訴訟で不利になる。

 この背景には、1961年制定された原子力賠償法によると原子力事故の賠償責任は、過失の有無を問わず一義的には事業者が負うと定められている。

 ただしこの法律制定時には今回のような電力会社の経営が成り立たなくなるような巨大事故は想定していなかった。

 このため、今回の原発事故を受けて昨年8月に成立した原子力損害賠償支援機構法では、一義的な責任は東電が負うとしても、賠償にあたっては政府が支援する、との枠組みができている。

 しかし、この枠組みの範囲が明確に規定されているわけではない、例えば事故を起こした原発の廃炉や除染のための費用が膨大になり、東電だけでは負担しきれない場合は、国の財政支援が必要であるから、東電としては事故の原因について全面的に東電側に責任があるとは認めたくない事情があり、不可避的な自然災害が最大の原因である。と結論付けている。

 福島第一原発事故を検証してみる。爆発の規模としてはチェルノブイリ事故で放出された放射性物質の量の約1割程度であったが、国際社会に与えた衝撃はチェルノブイリ事故よりも遙かに大きな衝撃を与えた。それは、チェリノブイリ事故は1回の爆破であり、しかもその瞬間を世界は関知できず、ソ連政府(当時)の発表もなかったから、その最初は北欧各地の原子力発電所に設置された放射線感知器の警報によるもので、その後の報道はソ連政府が世界のマスコミとの接触を拒否、現場付近への立ち入りも拒否されたので、報道にも限界があったことは確かである。

 ところが福島第一原発事故は、東日本大震災での巨大な津波の凄まじい映像がリアルタイムで世界中に配信され、世界中の人々がテレビの前に釘付けになっていた。更に自国の救援隊が続々と派遣され、自国の救援隊こそ素晴らしい活躍をしてくれるだろうと期待をもってそれぞれの国民は注視していた。

 そこへ第二の衝撃として原子力発電所爆発の映像が流されたので、各国は被曝を怖れ救援隊を引け返させろとの悲鳴を上げた。だから余計に原発事故の過剰反応があったことになる。

 この第一原発事故は劇場型の事故で、世界中が注目する中で事故の進展が展開され、世界中が一喜一憂していったのだから、日本政府、東京電力の対策の屈劣さが余計に目立ち、苛立たせた。

 外国からの取材陣が多数東京にやってきたが、現場には近づくことも出来ない、政府発表である保安院のスポークスマンの会見はシドロモドロ、しかもオドオドと余ほど発表の内容が制限されているのか、上部からの圧力があったのか、しかも同時通訳はなし。取材陣が苛立つのは当然、記事の内容が批判的になるのもこれまた当然だ。

 ところが更に取材を進めると、日本政府の情報公開が著しく不透明であったのは、日本政府が情報を隠ししていたわけではない、日本政府はそもそも情報を把握できていなかったのが真相だ、と断じられ、日本政府の無能ぶりが暴露された。

 国際社会は福島第一原発事故の教訓を学び取り、原発の安全性を高めようと必至だが、その反面教師的な役割をわが国が負ってしまった。

 国際社会が驚く体質として日本政府の組織、東京電力の組織についてだ。

 巨大なエネルギーを発する原子力には、充分な警戒と準備と慎重さが必要であるが、東電にはその感覚が存在しなかった。それは東電の役員には、原子力の専門家はおらず、原子力発電所の現場経験者が一人もいなかった。

 水力、火力は創業時から存在したからその現場経験者は経営陣に含まれていたが、原子力は新参であるから継子扱いなのか、経営陣の中に専門家は居なかった、ただ形式的な原子力担当重役はいたが現場経験はなし、原子力の専門家でもない。従って事故が起きても苛酷事故対策も周知徹底は夢物語りで、なんらの指揮・指導する知識も力もなかった。

 従って東電の会議室に集まった重役陣にとって、現場への事故対策の方策よりも官・政界への対策に腐心するしかなかった。

 一方、政界も政権交代してまもない時期の大試練で、東日本大震災に続く第一原発事故に官邸が慌てるのも無理はない。

 官邸の動きをみると、1号機の水素爆発の予兆があった。東電が原子力災害対策特別措置法15条に基づく特定事象発生を経済産業省に通報した3月12日午前1時20分、それは明らかであった。

 15条事態は、原子炉内に注水出来ず冷却機能を失うことに代表される重大な原子力緊急事態発生の警告である。最速の動きで安全確保の手を打たなければならないにもかかわらず東電はなんの手も打たなかったし、報告を受けた保安院も沈黙したままだった。それは午前7時に菅総理の現地視察が予定されていたかららしい。

 東電は首相が視察を決めると、東電はより一層、首相の動きが優先され東電は硬直してしまった。午前6時過ぎ自衛隊ヘリで現地へ向け出発、午前7時19分、免震棟に入った。

 この時、既に深刻な事態が1号機で起きていた。原子炉内の核燃料が津波到達後わずか4時間でメルトダウンを始め津波到達後の約15時間20分、午前6時50分には大半が溶融し、圧力容器の底に崩れ落ちていた時と、首相の現場視察の時間帯が重なる。首相視察が最優先し何の対策も執らず貴重な時間を無為に過ごしてしまった東電、溶融するだろことは原子力の専門家であれば誰も が知っていることであり、原子力委員会のメンバーが官邸におりながら誰も適切なアドバイスと視察を思いとどまらせようとしなかったか、あるいは“イラカン”の名の通り、怒り心頭に達し聞く耳を持たなかったのか、痛恨の無為の時間帯であった。

 東電の事故に対する見通しは悉く甘く、危機意識欠いたものとしか言いようがないが、同時に政府の対応がより深刻な事態を招いてしまったことも事実だ。

 この事態は、国際原子力機関(IAEA)は、6月20〜21日の非公開事務レベル作業部会で菅政権の政治介入が現場を無用に混乱させ、結果的には最悪の事態を招いてしまった、と指摘した(6月22日朝刊による)

 では首相は最初に何をすべきであったのか、国難とも言うべき非常時に直面した首相には大権が与えられる法律が3種ある。

 第1、安保会議と警察法。第2、自衛隊法第76条による防衛出動。第3、災害対策基本法28条による緊急災害対策本部設置である。

 今回の場合は第3の災害対策基本法による緊急災害対策本部の設置、関係閣僚を召集し、各大臣に属する官僚機構を直接指揮し、原子力安全員会のメンバーを召集して適切な専門的、技術的な見解、意見を纏める。

 それによって被災者の救出、保護に当たり、原発事故対処、対策を纏め、人材、物資、資材、機材を手配し、あらゆる選択肢を専門的知見に基づいて集約し、国家の総力を挙げて取り組む体制を造り、その中心に位置する首相はあらゆる情報を吟味し決断するのが国民から付託されていた首相の責務なのだ。

 菅首相は確か国家の総力を挙げて取り組むと宣言したが、最初の行動は現場介入で混乱させ、東電に対しては怒鳴りつけるだけで萎縮させてしまう等、宰相としての行動としてはお粗末だった。(私企業へ現役の首相が直接怒鳴り込んでいったのは戦時中の東条首相に次いで菅首相だけの珍事)

 確かに緊急災害対策本部は設置されたが即時ではなかった。自衛隊は阪神淡路大震災の際、神戸市や兵庫県からの出動要請がないため、出動が遅れてしまったことを反省し、自衛隊法が改正され、駐屯地司令の判断で出動出来るようにない、現場地近くの駐屯地からは即座に救助に出動した。

 しかし、ハイパーレスキュー隊の出動、警視庁、全国の自衛隊の総力である10万人の出動は3月19日になってしまい事故後8日も経っていた。出動後の活躍は素晴らしいものがあったが、事故直後に出動していたらもっと活躍できたはず、右往左往するだけだった官邸の機能が麻痺してしまった責任は大きい。

 2011年3月28日アメリカ・雑誌「タイム」3月28日号で日本特集を組み、東日本大震災と福島原発事故を詳細に報じている。

「世界で唯一地震予知システムと津波予告システムを構築した」日本で、地震発生時に原発の稼働が自動的に停止し、三つの鉄則である「止める、冷やす、閉じ込める」のうち止めるはできた。しかし想定外の大津波が全てを打ち砕いてしまった。犠牲者の大半は津波による水死、被災を遁れた人々は整然と避難所に集い、少ない食糧を分け合って食いつないでいる、と感動的に綴っていて非常に好意的な記事になっている。

 また、ニューヨーク・タイムズ紙はアメリカ国民が日本から学ぶべきこと、として福島第1原発の事故処理の作業する人々を「無私の精神、克己心と規律」で「不平も言わず、無名の作業員」が、他所に被害が及ぶのを防ぐため命を賭けて試練に立ち向かっている、と絶賛し、同時に東日本大震災の被災者の整然とした避難生活、また原発事故と津波の二重の被災を受けた地域住民が即座に自主的に秩序良く避難したのに感激し、日本人の礼儀を重んじ、無私の精神を賛美する、と書いている。

 その一方で、日本政府の対応は国家としての体をなしていない、日本国最大の危機に際して最初にやるべき安全保障会議、中央防災会議も召集していない。

 司令塔が存在しない日本政府はアメリカ政府からの適切な助言も緊急救援資材急送も受け付けない混乱の極致にあった、と手厳しい。

(追記)前述した第一原発事故のあと直ぐにアメリカ側から航空機による実測で放射線量の詳細な「汚染地図」が提供されていたにも拘わらず住民避難指示に活用せず、この貴重なデータを放置していた問題で、その存在すら認めようとしなかった政府がやっとその存在を認め、経済産業省原子力・保安院の平岡英治次長が6月26日、大熊、富岡、浪江の仮役場を訪れ謝罪した。その後、県内12市町村を訪れ謝罪する予定になっている。

 特に二本松市にある浪江町仮役場では情報が遅れたが故に高放射線量の地域に多くの避難者が留まっていたため被曝してしまったかも知れない問題では、馬場町長と非公式ながら長時間の会談が行われたという。

 しかし、この問題で事故後1年3ヶ月も経たなければ正式な謝罪も何もないこの国の行政はどうなっているのか。SPEEDI問題では文部科学省が完全に沈黙したままだが、平岡達夫復興相が地元に謝罪どころか、何の説明もないのは意外だ。批判している。教育行政の中央官庁がこの態度だ。

 更に原子力保安院の森山善範・原子力災害対策監が6月28日、記者会見を行い、保安院の緊急時対応センターには汚染地図データの資料は残っていなかった、と明らかにし、破棄したのか、紛失したのか、存在しないのは確かだ。

 アメリカ政府は放射線量を実測し、そのデータに基づく汚染地図を、在日米大使館を通じて外務省に送付し、外務省は原子力災害対策本部の事務局を務める保安院等に送付した。

 保安院の職員に聴き取り調査をした結果、保安院の国際室が受け取り、同センターの放射班に届けた。

 その資料はホワイトボードに張ってあったのを複数の職員が目撃していたが、活用した形跡は全くない。

 その資料も放射線班には残っておらず、放射線班以外の部署では資料としては受け取っていないという。従って避難誘導の為の資料として全く活用されないまま放置され、消えてしまった。

 先日事故に関する報告書を発表したのは、東電による内部調査であったが、日本原子力学会が6月22日、福島第一原発事故原因等を分析する調査委員会を設置することを決めた。

 東電や政府が公表したデータを活用して事故の進展や放射性物質の放出過程等を調べ、来年末までに報告書を纏める。

 調査委員長に就任するのは田中知東大教授。学会は事故直後から、既存の専門委員会で事故の経緯や原因を検討しており、事故調の調査を生かすほか、汚染の主因となった2号機からの放射性物質の大量放出過程の解明にも取り組み、更に「原子力ムラ」と言われている原子力関連・業界の閉鎖性、その事故への関与、影響を詳細に検証する、としている。

 発生から1年以上経ってからの発足は、廃炉作業の過程で判明する事実もあり、月日が経ったから俯瞰的に事故の真相に迫れる可能性がある。と説明している。

 また、同学会は、除染作業等の技術支援や市民向けの情報提供等を中心とする「福島特別プロジェクト」の実施を決めた。

 沖縄電力を除く9電力会社の株主総会が6月27日に行われた。

 東京電力は東京・渋谷区、代々木競技場第一体育館で株主4471人が参加した総会が開催され、午前10時に議長である勝俣会長が議長を務め、謝罪の挨拶から総会は始まり、正午過ぎから質疑が始まると、会社擁護、否定、責任追求、謝罪要求等の怒号が飛び交い不穏な空気に包まれながらも、午後3時31分閉会した。5時間31分に及ぶ長時間の総会であった。

 総会では優先株の発行を可能にする定款変更や取締役選任など会社提案の4議案は全て可決した。

 国から1兆円の公的資金の受け入れによる実質的な国有化を株主が正式に承認した。

 東京都の猪瀬副知事が出席して定款の一部変更など株主提案は全て否決された。株主総会に依って新役員人事が承認された。

◎東京電力会長 下河邊和彦

 1947年生まれ、京都大学卒、74年弁護士登録。産業再生機構顧問や日本弁護士連合会副会長を経て、2011年10月から原子力損害賠償支援機構運営委員長を務め、2012年6月、東電会長に就任。

 氏は、これまで数多くの企業再生を手懸けてきた弁護士で、大成火災海上保険等の大型破産企で更正管財人を務め、2003年には産業再生機構の顧問に就任、その業績を買われ、昨年秋に原子力損害賠償支援機構に関係した。

 東電の12年3月期の連結決算は、最終損益が7816億円の赤字、原発停止による火力発電への移行で燃料費が膨らみ、さらに原発廃炉関連の費用、被災者への賠償、補償等課題が山積しており、再生請負人として手腕が問われる。

◎東京電力社長 廣瀬直巳

 1953年生まれ、76年一橋大学卒、東京電力入社、83年イェール大学経営大学院修了、2010年常務就任、11年福島原子力被災者支援対策本部副本部長。12年6月社長就任。

 最も辛い社長就任と言われており、現在でも8千億近い巨額な赤字を抱え、これからも被災者への救済、賠償、廃炉・除染作業等の巨額な出資が予定されており、赤字は増え続け、しかも1兆円の政府出資を受け入れているから議決権の過半数を国が握るから国有化されており、就任前から暗雲が立ちこめ決定権も人事権もない孤立無援の社長の舵取りは多難だ。

 3月27日、東電株主総会で選任された下河辺会長と広瀬社長の最初の業務として28日、福島県庁を訪れ、佐藤雄平知事に対して「言葉で言い尽くせない迷惑と損害を与え続けている」と謝罪した。

 これに対し知事は「事故後、社長交代のたびに誠意ある対応を求めてきたが、肝に銘じているか疑わしい」と批判し、事故の収束、第一原発の廃炉、十分は賠償の3点の確約を求めた要望書を手渡したが、「最善を尽くす。今日の話も受け止めて判断したい」と回答した。

6月28日、総理官邸前

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第十三章 福島県知事の叛旗

 福島県前知事の佐藤栄佐久氏は、1988年から2006年まで18年間、計5期に渡って県知事を務め、特に2期目の選挙では県政史上最高の得票数となる88万票を獲得するなど、長期にわたり県民の 高い支持を続け、しかも中通りは勿論、会津、浜通りからも広く万遍なく支持票を集めていた。

 順風満帆の知事と県政だと思われていたが、2006年、全く身に覚えのない収賄の罪に問われて知事を辞任に追い込まれ、逮捕される事件が起きた。

 東京電力は双葉郡に福島第一、第二原発を建設、運営、新潟県に柏崎刈羽原発を有していた。原発という未知の世界への挑戦であるから、そこには当然様々なトラブルが発生し、試行錯誤を繰り返しながらも前進があるはずであったが、予め安全神話を流布し、絶対安全を信じさせるためには数々のトラブル発生の公表をする訳にはいかず、隠蔽工作に走ってしまったのか真相は判 明しないが、痛ましい第一原発事故でその脆弱さ、設備施工の不備が明るみで、さらにこれまでの隠蔽の事実も数多く発覚し白日の下に曝された。

 今となってしまえば知事の有罪も確定しており、刑も終えた現在、虚しいことかも知れないが、県民の安全を願って、東電、国を相手に孤独な闘いを挑んだ佐藤栄佐久前知事の活躍を確りと見据え、冤罪をでっちあげていった東京地検特捜部の怖ろしさを暴き、前知事の名誉を回復したい。

 1971年3月第一原発1号機運転開始、1979年10月6号機運転開始。1982年4月第二原発1号機運転開始、1987年8月4号機運転開始。

 地元の豊かさを保証してくれる原発の運転開始は、希望の灯であった。

 しかし全てがスムースに運転できる訳がなく、数々のトラブルが発生していた。

 原発における事故やトラブルといった危険な内情は表に出ることなく、地元民は何も知らされず、地方自治体、県知事でさえも原発運営の蚊帳の外に置かれた。

 例えば1988年、第二原発3号機が何らかの異常発生により自動停止、1989年元旦、データ上に異常が確認されたが、東電は原因を究明せず漫然と運転を再開、その1週間後1月7日、警報音が鳴り響き、異常を識らせたが、しばらく無視して運転を継続、6時間後にやっと手動で停止した。

 警報の原因は、冷却水のポンプの座金、ボルトが外れ原子炉内に流入してしまったことが原因と判明、事故の重大性はINSレベル2に相当する重大事故であったことが判明、謝罪のため県庁を訪れた東電幹部4人は知事に対して、今後、小さなトラブルでも発生しないように努力することを誓い、また如何なるトラブルでも報告することを誓ったが、別の会見場では「安全が確認できれば、座金が回収できなくとも運転再開はあり得る」と発言、知事への事故の報告はなし、約束もあっさり破られ、東電からは極めて軽視されていることを悟り激怒した。

 '80年代、'90年代にかけて、第一、第二、柏崎刈羽原発のシュラウドのひび割れをはじめとする数多くの重大な損傷が数多くあったにも拘わらず、点検記録の改竄によって29件もの損傷が隠蔽された。 

注)シュラウド:原子炉圧力容器内で燃料集合体と制御棒が配置された原子炉中心部の周囲を覆っている円筒状ステンレス製の構造物

 2000年6月、内部告発があった、この改竄の事実を原子力安全・保安院に直訴したが、まさに直訴はお家の御法度、保安院は何の調査をしないばかりか、この直訴の事実を東電本社に通報、隠蔽に協力し東電に恩を売った。

 しかし、2年後の2002年8月に隠蔽の事実が明るみに出てしまった。これをきっかけとして東電重役の辞任、原子炉17基の停止となった。

 この時、知事は原発を監視すべき保安院が、原発政策を推進することを基本とする経済産業省に直属していることに触れ、これでは監視の手が緩くなることは当然であり、「保安院ではなく推進院だ」「警察と泥棒が同居しているようなもの」と痛烈は批判を繰り返し、政府の原子力政策の腐敗を追及し、国や経産省の原子力政策の根本的な誤りを指摘した。

 その結果は、東電本社の経営陣の一部を辞任に追い込んだが、東電を犠牲にして本丸である経産省や保安院では何らかの責任を執って処罰を受けた官吏は皆無。

 第一原発事故以降、東電や国の出鱈目さが白日の下に曝されてきたが、事故以前は安全神話が絶対的な力をもって国民一般に対し信ずることを強要してきた。

 そのような中で唯一人、真実を訴えてきた知事の勇気と英断に敬意を表したい。【佐藤栄佐久氏の著書に“福島原発の真実”平凡社新書(平凡社)¥777円】

 過去に福島原発で働く作業員や技術者達から寄せられた数々の内部告発書を纏めたもので、改めて原発現場の保守、管理の杜撰さが浮かび上がってくるものだが、これは現場が弛んでいる亊を意味するものではなく、管理する本社が現場の声に耳を傾けようとしなかった合理化、出費を抑えたいという経営体質にある問題を指摘したい。

「東電の社員が所内の作業を監督していない、このため、東電が知らないところで不正が行われていても知らないことになっている」(2003年10月)

「原子炉圧力容器下部周辺の高い被曝が予想される作業では、線量計を外して、高い線量の数値が出ないようにしていることがあった」(2003年10月)

「1999年6月に福島第一原発3号機で発生した爆発事故についての発表は見られなかった」(2004年8月)

「福島第一原発6号機、3号機、5号機にて点検中に判った湿分分離器の欠陥及び抽気管の欠陥を、何故その後点検を始めた2号機の定期検査で点検しないのか」(2005年5月)

「定期検査終了後、東電の技術グループが100%出力で行う『総合負荷検査』において立ち会い検査前の社内検査で、記録及び計器の不正があった。内容は、社内検査に於いて合格範囲内のデータについて、計器のゼロ点をシフトさせ、規定値に合わせる不正を行い、そのまま国の検査を受けたものである」(2006年5月)

 1989年、東電福島第一原発において技術者が大きな亀裂のあることを発見した。これまでも度々亀裂その他の事故・故障があったが、その都度‘証拠を消せ’‘黙っていろ’‘問題なしのサインを出せ’と上から圧力があり、隠蔽が常態化してきた。

 そんな中、蒸気乾燥機が反対に取り付けられていたことが判明、勿論例によって隠蔽しようとした。ところがアメリカGE社から派遣されていた技術者ケイ・スガオカ氏がGEから解雇されたのを機会に告発に踏み切った。

 その事実を知った佐藤知事は通産省に陳述した。ところが通産省の執った行動は、密告者の実名を東電本社に通報することであった。

 東電、保安院、経産省は一体化していたのだ。この事実に絶望した知事はこの事実をマスコミに報じた。ここからが東電、国側と佐藤知事の闘いが始まった。

 東電側はさすがに隠しきれなくなって社長、幹部の一部は辞任、一部懲戒という処分をした。

 しかし、誰一人として起訴されることもなく、辞任・懲戒といっても代わりのポストに横滑りしただけであった。

 特に勝俣恒久取締役は担当責任者であったが、形上の報告書の改鼠を認め謝罪し、更に責任を執って他の役職に変わったが、この事実がいかに形式的なものであったかは、勝俣氏はやがて社長に就任、原発事故時には東電会長の要職にあったのだから、社会を欺く形式にすぎなかったことを証明している。

 ここから東電の福島県知事に対する復讐劇が始まったと観るべきだろうか。

 県会議員、県庁幹部職員にアンチ知事運動の要請が中央からあった。

「原発政策は国会議員さえタッチできない内閣の専横事項」

「原発政策は、立地している自治体には全く手が出ない問題」

「目の前にある原発に、自治体は全く手が届かない」

 原発とは地方自治体にとっては治外法権の特殊権益の地帯であった。

 その牙城に知事は果敢に抗戦を試み、現代のドンキホーテのような虚しい抵抗であったかも知れないが、知事として持てる力を最大限活用し国の原子力政策を批判し、牙城に風穴を開けることに一部成功したが、その報復は必ずある。

 佐藤栄佐久氏の政界入りからして波乱含みであった。その軌跡を辿る。

 同氏は東大卒業後、社会開発運動や自己啓発活動を行っている組織である日本青年会議所(JC)に入り、1978年日本青年会議所の副会頭に選出された。

 当時の会頭は麻生太郎氏(現副総理)で県内青年会議所では大きな存在であった。

 この青年会議所と地域経済団体の推薦で参議院議員選挙に出馬、地盤、看板なし、あるのは同志的な遷延会議所のメンバーと賛同する青年達の献身的な活動のみ。佐藤氏は有力議員の支援もなく、支持母体もなく、資金力もないまま、あるのは青年会議所の有志の若さと行動力だけで、福島県を駆け回り参議院議員に当選、1期務めた後、1988年、徳川家の血を引く松平勇雄福島県知事が、特段の後継者指名をすることもなく引退してしまった。

 その結果、中央政界は地方に我が勢力の地盤を固めたいためにエゴ丸出しにて、政権与党の自民党内の経世会が動き出した。

 自民党政権副総理、自民党副総裁で経世会のドンであった金丸信氏は、自民党公認として建設省出身の広瀬利雄氏を出馬させた。

 この人は故天野光晴氏(福島県選出)が建設大臣を務めていた当時、建設省技監(省内の技官職の最高峰職)であった広瀬利雄氏(白河市出身)で、当時渡部恒三厚生大臣の強い推薦があった。即ち自民党竹下派が所属する経世会の推薦であるからこれ以上の強力な支援はない。

 この経世会について、アメリカを発震源とする不可思議なロッキード事件が我が国政財界を吹き荒れ、田中角栄元首相が斃れ、権勢を誇った田中派が壊滅、替わって台頭したのが竹下登氏で、竹下内閣は1年余の短命だったが、竹下・金丸両氏を中心とした経世会は自民党第一派閥で、宇野・海部・宮沢内閣を支配した。

 ところが福島県選出の伊東正義、斉藤邦吉両代議士が異議を唱え、福島県政が経世会に乗っ取られてしまうことを怖れた。

 そこで伊東正義氏は所属していた宏池会(故池田勇人氏の派閥会)にいた参議院の1年生議員であった佐藤栄佐久氏を推薦した。

 ここに県下を二分する争いが始まった。公共事業のオイシイ話をちらつかせて県内の土木建築業界を纏めた広瀬候補、青年会議所や組織のない主婦や若人達が推す佐藤候補、この選挙は地方の選挙にも拘わらず中央のマスコミも関心を持ち、自民党の分裂選挙、金権選挙、利益誘導型の是非を問うなど珍しくマスコミもフィーバーした。当時の金権腐敗体質が問題化されており、中央政界の闘争構図がそのまま地方選挙に反映したもので、「金権対庶民」という構図をマスメディアが作りあげ、余りにも露骨な土建屋さん達の張り付きがかえって反感を持たれ、庶民派を印象付けた佐藤候補が圧倒的な差で選挙に勝った。

 それから5期県政を担って活躍するのであるが、中央政界との対立は、この時の選挙時からその予徴はあったのかも知れない。

 福島原発問題ばかりではなく

※ 地方自治に対する強い思い入れがあり地方自治体の合併(市町村合併、県合併)には批判的で、地方主権を掲げ、また分配主義を標榜した。

※ 東京一極集中には批判的で「地方の痛み」を訴え、当時の小泉内閣が推進した「郵政民営化」「プルサーマル計画導入」に反対。

※ 2001年、福島県下の矢祭町が「合併しない宣言」を表明、これに賛同し国の政策方針に逆らった。

※ 首都圏の電力を賄う東電の福島第一、第二原発は知事就任時には既に運転していたが、1998年プルサーマル計画が提出され、知事として最初は了承したが、その後東電のトラブル隠しが発覚し、不信感を持った知事はプルサーマル計画の了承を撤回した。その後は一貫して反対を表明し続けた。

 政府、中央官庁として政策に楯突く知事として、要注意人物となって、排除の対象になるのは当然予想された。

 特に中央省庁の官僚と対立することは2004年1月に佐藤栄佐久氏側近であった出納長の自殺があったが、この一事は中央が仕掛けるトラップが一部姿を表してきたとの要注意の兆候だったのだろう。

 東電・原発・収賄事件・特捜部の捏造事件・検察腐敗が1本の線で繋がれば勿論そのような力は全くない。しかし想像はできる。

 プルサーマル計画に関し、1998年の申請時には計画を了承したが、その後東電の度重なるトラブル隠しが発覚したため、不信感をもった知事は了承したことを撤回、その後は一貫して反対の立場を貫いた。

2001年(平成13年)2月26日、佐藤栄佐久知事は3号機プルサーマル計画について、当面許可しないことを表明。

2002年8月29日、東電、原子力安全・保安院が原子力発電所における点検・補修作業の不適切な取り扱いに関して公表した。

2002年10月25日、東電が1号機の原子炉格納容器漏洩率試験における不正の関する報告書を経産省に提出する。1号機の1年間の運転停止処分を受けた。

2003年4月15日、定期検査時期と重なり東電福島原発全号機が運転停止。

 検察庁の一部門として、特別捜査部があり、特捜部あるいは特捜と呼ばれている。東京、大阪、名古屋の各地方検察庁に設置され、独自の捜査権限を有しおり、検察庁内でも、大規模事件など集中的に取り組む必要がある案件に取り組む機関として存在する。

 一般的な刑事事件は警察によって捜査が行われ被疑者が逮捕されれば検察に送致され、検察が取り調べて起訴するかどうかを決める。

 特捜の捜査は独自に捜査するが、政治家の汚職、大型脱税、経済事件等に集中する。

 この制度は戦後まもなく発足したが、そのきっかけとなったのは隠退蔵物資摘発事件(1947年・昭和22年)で、この時捜査摘発に動いた特別捜査班が特捜部に発展した。

 戦後起きた数々の疑獄事件は特捜部の活躍によって次々と摘発され、我が国の良心と持て囃されてきた。

 私は、第六代特捜部長であった河合信太郎先生の特別講義を法学部教室の片隅で聴講し若き血がたぎったことがあり、これこそが正義だと感激し、法曹の世界を目指したが、軽く門前払いをされてしまった。しかし、恒に巨悪を退治して来たわけではない。最近で有名なのは障害者郵便制度悪用事件として、自称障害者団体である「凛の会」に偽の障害者団体証明書を発行し、不正 に郵便料金を安くダイレクトメールを発送されたとして、厚生労働省社会援護局村木厚子企画課長が虚偽公文書作成、同行使の容疑で2009年6月、大阪地検特捜部によって逮捕され、翌月の7月、大阪地裁に起訴した。

 ところが、同特捜部主任検事の前田恒彦が証拠改竄を行っていたことが朝日新聞にスクープされ、反対に前田検事が証拠隠滅容疑で逮捕され、更に特捜部長の大坪弘道、副部長の佐賀元明が証拠隠滅罪で逮捕された。

 勿論村木氏は無罪、復職、現在は厚生労働省事務次官の要職にある。

 もう一件、同じ大阪地検特捜部の事件であるが、大阪高等検察庁公安部長であった三井環検事が、「検察庁が国民の血税である年間5億円を超える調査活動費の予算を、私的な飲食費やゴルフ、マージャンの裏金にしている」ことを内部告発しようとしたが、事前に察知した上部の策略により収賄罪、公務員職権乱用罪等で捏ち上げ逮捕、起訴され、懲戒免職処分にされてしまった。

 2011年3月14日11時頃、第一原発3号機で爆発があった。

 1号機の時と同様水素爆発で原子炉内は無事であったが爆発の規模は明らかに3号機の方が巨大であったことは、映像を見ただけで明らかだ。

 この3号機は我が国で4機稼働していたプルトニウムを含有するMOX燃料を使用するプルサーマル発電機のうちの1機であり、他の機よりは発電量が大きく、かつ炉心溶融の危険性も高いことが指摘されていた。

 第一原発3号炉のプルサーマル運転を開始したのは僅か4ヵ月半前の2010年10月26日であった。

 このプルサーマル導入を強く反対していたのが佐藤栄佐久知事で、かつ道州制反対を含め、中央政官界の原子力政策推進に対し、全国の知事で唯一敢然と叛旗を翻していたのだから、県民の支持は高かったが、「物言う知事」は狙われ「邪魔者は消せ」の言葉と通り、2006年9月、実弟の経営する会社が水谷建設との間で不正な土地取引があったとして競争入札妨害で逮捕された道義的責任を問われ、辞任に追い込まれ、翌10月には自身も東京地検により収賄容疑で逮捕された。

 2009年10月、東京高裁二審判決では、問題の土地取引に賄賂分の上乗せはない、即ち適正価格であったと認定されたが、懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を受けた。これは東京地検の作文による自白証書に署名したためで、これにいたる検察と本人の攻防があったが、その間、家族や支持者が過酷な取り調べをうけ、精神障害寸前に陥るほどの過酷な取り調べであったらしい。

 こうして追い出しに成功してから、プルサーマル運転が再開した。

 この裁判の不思議さは水谷建設が贈賄側として証言しているのが決め手となっているが、同じ小沢一郎事件でも5,000万円贈賄側の証人に担っている。

 水谷建設

 三重県桑名市に本社置く中堅建設会社で福島県発注工事である木戸ダムの建設に、前田建設工業の下請けとして参加、福島県知事への利益供与として、知事の実弟が経営する会社の土地を相場より高額で買い取り、その差額が利益供与と看做されたが故に東京地検によって逮捕された。しかし東京高裁は2009年10月14日の判決で「本件土地売買代金と時価相当額との差額が幾らであるか」証拠は不明で、「知事に売買代金と時価相当額との差額の利益を得る認識まであったとするのは相当ではない」と判示した。

福島第一、第二原発の不祥事と隠蔽の歴史
1978年11月02日 第一原発3号機で、制御棒の脱落により日本初の臨界事故が発生。2007年3月まで隠し続けた。
1989年01月01日 第二原発3号機で、原子炉再循環ポンプ内が破損し炉心内に多量の金属粉が流入。
1990年09月09日 第一原発3号機で、主蒸気隔離弁を留めるピンが壊れ、原子炉内圧力が上昇して自動停止。
1992年09月29日 第一原発2号機で、原子炉への給水が止まり、ECCS(非常用炉心冷却装)が作動する事故が発生。
1997年12月05日 第二原発1号機で、制御棒1本の動作不良が見付かり原子炉が手動停止された(国際評価尺度レベル1)
2002年08月29日 原子力安全保安院が、東電管内福島第一、第二、柏崎刈羽原発で'80年代後半から'90年代前半における計29件の事故を東電が意図的に改竄した疑いがある。
2005年06月01日 第一原発6号機で、可燃性ガス濃度制御系流量計の入力基準改竄があった事実を認める。
2007年04月06日 第二原発4号機で、制御棒駆動装置の不正交換を偽装した事実を認めた。
2008年01月14日 第二原発3、4号機廃棄物処理建屋の海水ポンプの配管や電動機等が破損。
2010年06月17日 東京電力福島第一原発 2号炉緊急自動停止。
国内におけるレベル3以下の事故
 国際原子力事象評価尺度(INES)
  レベル3:重大な異常事故、レベル2:異常事故、レベル1:逸脱
国内で起きた原子力関連事故例(年代順)
1973年03月 関西電力美浜原発燃料棒破損事故
美浜1号炉において核燃料棒が折損する事故が発生したが、関西電力は公表せず秘匿した。事故が明らかになったのは内部告発による。
1974年09月01日 原子力船「むつ」(8,246トン)は原子力で航行する船舶を開発しようとの国の方針で青森県沖の太平洋を試験航行中、放射能漏れの事故を起した。その後も試験航行を繰り返したが、採算点で無理と判り試験は中止され、原子炉を撤去し、通常の内燃機関で航行する海洋地球調査船「みらい」になって活躍している。
1978年11月02日 東京電力福島第一原発3号機事故
我が国最初の臨界事故。戻り弁の操作ミスで制御棒5本抜け、7時間半臨界が続いたという。
他の原発でも同じような事故があったが、情報は共有されず、国にも報告なし、事故から29年後の2007年3月22日に発覚した。
1989年01月01日 レベル2、東京電力福島第二原発3号機事故
原子炉再循環ポンプ内部が壊れ、炉心に多量の金属粉が流出した。
1990年09月09日 レベル2、東京電力福島第一原発3号機事故
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。
1991年02月09日 レベル2、関西電力美浜原発2号機事故
蒸気発生器の伝熱管の1本が破断、非常用炉心冷却装置(ECCS)作動
1991年04月04日 レベル2、中部電力浜岡原発3号機事故
誤信号により原子炉給水量が減少し、原子炉が自動停止した。
1995年12月08日 レベル1、動力炉・核燃料開発事業団高速増殖炉「もんじゅ」ナトリウム漏洩事故
2次主冷却系の温度計の鞘が折れ、ナトリウムが漏洩し燃焼した。この事故により「もんじゅ」は15年間停止、2010年4月再稼働した。
1997年03月11日 レベル3、動力・核燃料開発事業団東海再処理施設アスファルト固定施設火災爆発事故、低レベル放射性物質を固化する施設で火災発生、爆発。
1998年02月22日 東京電力福島第一原発 4号機、定期検査中137本の制御棒のうち34本が50分間、全体の25の1抜けた。
1999年06月18日 レベル1-3、北陸電力志賀原発1号機事故
定期点検中に沸騰水型原子炉(BWR)の弁操作の誤りで炉内の圧力が上昇し3本の制御棒が抜け、無制御臨界になり、スクラム信号が出た。手動で弁を操作するまで臨界が15分続いた。この事故は所内で隠蔽し、運転日誌記載なし、本社への報告なし、原発関連の不祥事故続発に伴う2006年11月、保安院指示による社内総点検中、明るみに出て、2007年3月公表され、国内2番目の臨界事故と認定された。
2004年08月09日 関西電力美浜原発3号機2次系配管破損事故
2次冷却系のタービン発電機付近の配管破損により高温高圧の水蒸気が大量に噴出、逃げ遅れた作業員5名が熱傷で死亡。
2007年07月16日 新潟県中越沖地震発生、東京電力柏崎刈羽原発事故
外部電源用の油冷却式変圧器で火災発生、微量の放射性物質漏洩を検出。震災後の高波で敷地内が冠水、使用済み核燃料棒プールの冷却水の一部が流出した。柏崎刈羽原発はしばらくの間、全面停止となった。
2010年06月17日 東京電力福島第一原発2号炉緊急自動停止
制御板補修工事ミス、常用電源と非常用電源から外部電源に切り替わらず、冷却系ファンが停止し、緊急自動停止した。電源停止により水位が2m低下した。燃料棒露出まで40cmであったが、緊急自動停止から30分後に非常用ディーゼル発電機が2台作動し、原子炉隔離時冷却系が作動し、水位は回復した。
福島第一原発45年の歩み
1956年(昭和31年)01月01日 原子力三法が施行される。
1957年(昭和32年)02月22日 電力9社が原子力発電計画を決定。
1960年(昭和35年)05月10日 福島県が日本原子力産業会議に加盟。
    〃     11月29日 福島県より東電に対して双葉郡の敷地を原子力発電所建設のため提供することを申し入れた。
1961年(昭和36年)02月08日 原子力委員会が原子力開発利用計画を発表。
    〃     09月19日 大熊町議会にて原子力発電所誘致促進議決。
    〃     10月22日 双葉町議会にて原子力発電所誘致促進議決。
1963年(昭和38年)02月08日 東電が原子力発電所1966年着工、1970年運転開始計画を発表。
1964年(昭和39年)12月01日 東電、大熊町に福島調査所を設置。
1966年(昭和41年)01月05日 公有水面埋立免許許可申請。
    〃     05月11日 東電、1号機にGE社のBWRを採用決定。
    〃     06月01日 1号機、原子炉設置許可申請提出。
    〃     12月01日 1号機、原子炉設置許可取得。
    〃     12月23日 漁業権損失補償協定を周辺10漁協と締結。
1967年(昭和42年)05月31日 2号機用BWRをGE社より購入。
    〃     09月29日 1号機着工。
1968年(昭和43年)03月29日 国が2号機の原子炉設置を許可。
1969年(昭和44年)04月04日 福島県と東電が「原子力発電所の安全確保に関する協定」締結。
    〃     07月01日 3号機の原子炉設置申請提出。
1970年(昭和45年)01月23日 国が3号機の原子炉設置許可。
    〃     01月26日 1号機に最初に装荷する燃料が運び込まれた。
    〃     07月04日 1号機に核燃料を初めて装荷する。
    〃     11月17日 1号機の試運転開始。
1971年(昭和46年)02月22日 5号機の原子炉設置申請提出。
    〃     03月26日 1号機営業運転開始。
    〃     08月05日 4号機原子炉設置許可申請提出。
    〃     09月23日 国が5号機の原子炉設置許可。
    〃     12月21日 6号機原子炉設置局申請提出。
1972年(昭和47年)01月13日 国が4号機の原子炉設置許可。
    〃     12月12日 国が6号機の原子炉設置許可。
1974年(昭和49年)07月18日 2号機営業運転開始。
1976年(昭和51年)03月22日 「原子力発電所周辺地域の安全確保荷関する協定」を「立地4町を加えた三者協定」と改訂。
    〃     03月27日 3号機営業運転開始。
1978年(昭和53年)04月18日 5号機営業運転開始。
    〃     10月12日 4号機運転開始。
1979年(昭和54年)10月24日 6号機運転開始。
2000年(平成12年)01月03日 3号機で実施予定であったMOX燃料装荷について延期する旨を県知事に報告。
2001年(平成13年)02月26日 福島県知事(佐藤栄佐久氏)3号機プルサーマル計画を当面許可しない旨を表明。
2002年(平成14年)08月29日 東電、保安院が原子力発電所における点検・補修作業に不適切な取り扱いを公表。
    〃     10月25日 東電、1号機の原子炉格納容器漏洩率試験における不正に関する報告書を経済産業省に提出、1号機1年間の運転停止処分を受ける。
2003年(平成15年)04月15日 定期検査と事故が重なり第一原発の全号機が運転停止になる。
    〃     07月10日 福島県知事が6号機の運転再開を認める。
2005年(平成17年)07月30日 1号機運転再開を認める。
2006年(平成18年)12月05日 1号機における復水器海水出入り口温度測定データの改竄について報告。
2007年(平成19年)07月24日 新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発が損傷を受け、福島県議団、日本共産党福島県委員会、原発の安全性を求める福島県連合会が連名で東電に対し「福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ書を提出。
2010年(平成22年)02月16日 福島県知事は2月定例県議会で、東電が申し入れていた福島第一原発3号機でのプルサーマル計画実施について条件付きで受け入れを表明。
    〃     06月17日 第一原発2号機、電源喪失・水位低下事故。
    〃     07月20日 免震重要棟開所。
    〃     09月18日 3号機プルサーマル発電、試験運転開始。
    〃     10月26日 プルサーマル発電、営業運転開始

安全神話流布

 「安全神話」は何処にでも存在する。絶対に安全であると納得し信じ込ませるには「安全神話」を流布すること。

 原子力発電所は、どうしても原子爆弾を連想し、特に被曝国民としてはより一層のその懸念が大きかった。

 しかし、かつての我国は経済成長著しく右肩上がりで世界が眼を見張る成長ぶりだった。そうすると電力消費も右肩上がりで上昇し、当然電力不足が懸念され、かつ火力発電は二酸化炭素問題で頭打ち、水力発電も開発地点がない、風力発電、太陽光発電、その他の発電手段はまだ技術的に未知の世界でした。

 そうすると残るは原子力発電、先進国のイギリス、フランスは積極的に原子力発電に取り組み、それに続いてアメリカも取り組みはじめた。

 それでは我国でも原子力発電所の建設を押し進めようとの動きになり、それには二酸化炭素を出さない非常にクリーンであることを強調、しかも経費が非常に安価であることを前面に押し出した。

 そして何重にも安全装置がしてあり絶対に事故はない、と安全であることを強調し出した。

 読売新聞が1955年1月1日、突如、原子力平和利用キャンペーンを始めた。

 「米の原子力平和使節、本社でポプキンス氏招待、日本の民間原子力工業化を促進」この見出しで論説が続いた、昭和30年だからずいぶん早くからキャンペーンが始まったのだと思うが、これは読売新聞社主が正力松太郎氏であることを考えれば納得できる。

 正力松太郎氏は日本で最初に原子力発電所の建設を提唱した人であり、その後は国会議員になり原子力担当国務大臣を務めて、原発建設を推進した。

 これに共鳴して推進派になったのが若き日の中曽根康弘代議士とその同志。

 電力業界も九電力一致して原発推進に協力し、其の中心は東電の木川田社長で、社内に原子力課を新に設置し、強力な宣伝態勢を整えた。

 原発反対を唱えていた朝日新聞が1974年7月から月1回10段の原子力広告を掲載し、朝日新聞が原発賛成派になったのは電力業界による根回しが効を奏したものと思われる。

 その後、毎日新聞も原発反対を止め、賛成派にまわった。これで三大新聞が賛成派になり、大半のマスコミが容認派に転向したことになった。

 三大新聞の広告費は高い、全国版1ページまるごと広告を入れると1回何千万円、年間では地方紙を入れて10億円にもなる。そこで「原発PR予算は、建設費の一部」と会社が認め、豊富な資金をつぎ込んで「原発安全神話」を作っていった。

 電力中央研究所という機関があり、電力関連の研究をするところで、その研究費は電力会社が負担しており、委託研究が殆どだ。だから電力会社に逆らう研究は御法度というのが暗黙の了解事項となる。

 原発事故は絶対にあってはいけない、従って何重にも安全対策をこうじた、だから原発の事故はありえない、原発の安全は絶対である、と言う三段論法が成り立っていた。

 ということで全電源喪失などは万が一にも起こり得ない事項で、その対策など文字通り想定外、だからシミュレーションもしない、勿論マニアルも存在しない。研究も必要ない。従って、アメリカのNRC、フランスのアレヴァ社のような機関は存在しなかった。

 安全神話の発端は、1980〜90年代、「原子力政策研究会」という日本の原子力政策を推進してきた研究者、官僚、電力会社で作る非公式な会合があり、そこで話し合われたことは如何にして国民に原子力の安全性をPR出来るかが中心で、それらは議事録として残っているそうだが、そこでいろいろなPR作戦が練られたという、しかし門外不出で明かにはしない。

 電気事業連合会は、原発のイメージ向上を謀るため多数の著名人を起用して安全のPRを行った。勿論原子力に関してはなんの関係もない著名な人達だ。

 PRを積極的に行い、安全神話を流布するのは当然のことで、悪いことではない。ただ問題は余りにも安全神話が先行してしまい、肝腎の安全対策が疎かになってしまったことにある。

 安全神話を日本全国に染み込ませる、とりわけ重要なことは原発地域住民に安全神話を繰り返し染み込ませていくことで、原発稼動には地域住民の承認を必要とすれば、なおさら安全神話を信じてもらう必要があった。

 東電の原子力担当副社長を辞して、1998年の自民党から出馬、比例代表区で当選した、加納時男参議院議員がいた。氏は次の2004年の選挙でも再選され、自民党での原発推進派の筆頭として活躍した。

 氏の著書「なぜ原発か」の一節で日本の原発の安全性を強調する「安全度抜群の根拠」の章の中での文を紹介する。

 「核に敏感だから安全性が高い、被爆国・日本ならではの反応が、世界に冠たる技術を生んだ。チェルノブイリの事故は、核分裂を止めるのに失敗し、放射能を閉じこめることも失敗した例で、設計自体に問題あり、日本では考えられない。

 スリーマイル島の事故は、冷やすのに失敗した例である。日本ではこれらを教訓に安全確保対策52項目をとりまとめ実施している」と、原発の安全性を強調している。

 加納議員はエネルギー政策基本法を議員立法で成立させるのに狂奔、東電の原子力発電所増強に議員の力を最大限活用して絶大なる国会からの応援団長として活躍した。

 二期で政界を引退、その後はテレビで原子力発電推進派の論客として度々拝見していたが、事故後はなんと発言するか期待していたが姿を見せなくなった。

 安全神話を繰り返しているうちに、安全が当たり前のことになり、なんの疑念も不安も感じなくなってしまったのは、一般民衆よりも先に当事者達で、陶酔してしまったのか、自己暗示なのか、あり得ない想定外の安全対策なんか考える必要はない、安全神話を呪文のように唱えていればそれですむことだ。

 あまり関係ないかも知れないが、二世代前「日本は神国」「神州不滅」「皇国神話」を小学生の頃から刷り込ませ、本気で信じ込んだ結果、世界を相手に戦って完膚なきまでに叩きのめされたことを思い出し、信ずることの怖ろしさを感じる。

 戦前「大東亜共栄圏」「聖戦遂行」等を大新聞が率先して唱えていた。

 この時代、TVは未だ無い、勿論ネットもない。あるのはNHKラジオだけ、そのような時代では新聞の威力は凄く、完全なオピニオンリーダーだったから世論を誘導してしまった。

 福島第一原発事故後の外国人記者会見で、「世界唯一の被爆国である日本が世界第三位の原子力発電所を保有しているのはどうしてですか?」と質問があり、続いて「地震国日本としては安全管理が甘すぎたのではないか?」と質問されたが、納得のゆく答えはなかった。安全神話のPRが浸透し過ぎたからとでも答えるべきだったのかもしれない。

放射性廃棄物

 世界には原発から生じた約260トンのプルトニウムが現存する。使用済み燃料を再処理した結果だ。うち約45トンを日本の電力会社が保有する。核爆弾数千発分に相当し、世界は完全に消滅する数量だ。

 核不拡散上、利用目的のないプルトニウムは持たないことが国際社会での約束事だが、処理しようがないのが現状だ。

 再利用手段だった高速増殖炉計画は破綻し、普通の原子炉で使う途も原発事故で不透明になってしまった。使う当てのないプルトニウムをどう処理するのか、処理手段が見つからないから諦める、ではことが済まされない。

 英国の燃料工場が閉鎖で困っていたドイツが、東電がフランスに保管していたプルトニウムを、ドイツがイギリスに持っていた同量のプルトニウムと交換した。

 今回の交換は帳簿上だけの問題で削減とはいかないし、今後原発は大幅に増える見込みで、当然プルトニウムも大幅増になる。

 処理方法は見つからないままプルトニウムが大幅増になるだけで、新興原発メーカーは、原発増設は請け負うだろうが、後始末までは請け負わない。

 12年1月、「核物質の安全に関する指標」。アメリカの非政府組織「核脅威削減イニシアティブ」が発表した。

 兵器に転用可能な核物質1kg以上を保有する32ヶ国の管理状況等を評価したランクにおいて、各項目を併せた総合の最高点はオーストラリア、2位ハンガリー、日本は23位、日本の下はロシア、最低は北朝鮮。

 先進国中では、全くの後進性を示した最下位にある。何故これほどまでに世界の目は厳しいのだと考えてしまうが、それなりの原因がある。

 それは核管理の甘さ、核物質に接触できる職員の身元調査不十分、セキュリティ対策の不十分、管理する独立した規制組織がない、テロ対策が出来ていない、核物質の保有量が増えすぎている等々、国際社会が危惧する理由は数々あり、ここにも国内だけにしか通用しない安全神話が蔓延っているからなのだ。

核燃料リサイクル

 使用済み核燃料をどうするのか、今後原発は多くの国で建設、運用される。

 従って使用済み核燃料は増えるばかり、核兵器への転用が懸念されるのは勿論、使用済み核燃料処理問題は技術開発が難しすぎるのか、核先進国ではやや消極的になってきているようだ。

 核開発の最先進国であるアメリカはシェールガス開発の目星が立つと、原発から火力発電へのシフトが明らかになってきた。

 フランスのアレヴァも余り元気がなく、三菱重工から発注された30万kw以下の中小原発を造っている。ドイツは脱原発を宣言した。

 日本国内の原発から出た使用済み核燃料は1万9千トン、行き場がないまま原発敷地内で等で保管されている。ゴミとされた使用済み燃料の処理方法はないまま稼働すれば更に増えることになる。

 譬えによく言われていることはトイレのないマンションだと揶揄されながらも続けてきたのは、この問題が一挙に解決される核燃料サイクル計画があったからだが、夢のサイクルとして、「プルサーマル計画」というのがある。

 簡単に言えば、使用済み核燃料には、未だ再利用できる物質(ウラン、プルトニウム)が約95%も残っている。そこでこの使用済み核燃料からプルトニウムを取り出し、ウランと混ぜてリサイクル燃料(MOX燃料)を造り、既存の原発で再利用することをプルサーマルという。

 電力業界では、リサイクル燃料のためウラン資源を1〜2割節約でき、電気料金も1%程度値下げできるとした。更に大きなメリットは高レベル放射性廃棄物の排出量を60%程度低減できるという。

 この「夢のサイクル」が実現できれば小資源国である我が国にとってサイクルの要となる高速増殖炉は、プルトニウムとウランを混ぜて燃やせば、使用前よりも多くのプルトニウムを作り出すことができるというもの、これが確立できれば、理論上では、千年はエネルギー問題に悩まされることはないという夢物語であった。

 この夢物語の実現を目指して世界の先進各国が挑戦したが、計画開始から半世紀が経過、依然として先は見えてこない。

 それどころか息切れしてきたのか、各国ともやや消極的になってきたが、途上国は原発建設に意欲的になってきたから、処理方法がないまま使用済み核燃料ばかりが増え、核のゴミが山積することになる。

プルサーマル計画

 プルサーマルに関して再度解説する:プルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を既存の原発で燃やすこと。原発の使用済み核燃料からプルトニウムを取り出して再利用する核燃料サイクルを国策として進めている。

 世界のプルサーマル計画実験はヨーロッパが早くから着手しており、1963年ベルギー、やや遅れてドイツ、イタリアで開始された。

 オランダ、スウェーデンでも行われたが、現在積極的にプルサーマルを続けようとしているのはフランスだけになってしまった。

 アメリカは1960年代にプルサーマルを始めたが、20年間もの間中断しており、2005年からMOX燃料の試験運転が開始された。更に解体核用のMOX燃料加工場建設が開始された。これとは別に使用済み燃料再処理・MOX加工・廃液ガラス固化・中間貯蔵庫を目的とした複合リサイクル施設建設を目指している。

 我が国でもプルサーマル計画は何度も持ち上がり、実証・実験が行われたが、現在は全てが休止中。

 関西電力と四国電力は、七月に原子力規制委員会に原発再稼働を申請する際、プルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を使う「プルサーマル発電」も認めてもらうよう申請する方針を固めた。

 MOX燃料は原発で使い終わった核燃料から取り出したプルトニウムを使っており、認められれば「核燃料サイクル政策」が再び動き出すことになる。

 規制委が7月に規制基準を定めれば、高浜原発の3、4号機の再稼働を申請する。その高浜3号機は、停止するまでプルサーマル発電を行ってきた実績がある。

 四国電力もプルサーマル発電をしていた伊方原発3号機の再稼働を七月に申請する方針を決めた。

 MOX燃料を燃やすプルサーマル発電は通常のウラン燃料比べ、原子炉内の核分裂反応を抑える制御棒の利きが低下すると指摘する専門家もいる。

 田中委員長は6月12日の記者会見で「今までに許可が出ていることを踏まえて安全上の評価が技術的にきちんと判断する」と述べた。

 13年6月27日、原発の使用済み核燃料を再処理して作られたプルトニウム・ウラン混合物(MOX)燃料を載せた輸送船が、フランスから関西電力高浜原発(福井県)に到着した。

 国内への輸送は原発事故後初めて、関電は、原子力規制委員会から再稼働が認められれば、MOX燃料を使うプルサーマル発電を再開する方針だと発表した。

バックエンド・サイクル

 原子力発電所から発生する使用済み核燃料には「燃えないウラン」である非核分裂性のウラン238、ウランから生成されるプルトニウム、僅かながら「燃えるウラン」である核分裂性核種のウラン235、各種の核分裂生成物が含まれる。

 このプルトニウムやウラン235を抽出し核燃料として再使用すれば、単に廃棄処分することに比べ多くのエネルギーを産出できる。また、使用済み核燃料のウランやプルトニウムを取り出すことになるため、放射能が減少し、廃棄物の量が減ることにもなる。更にウランは比較的政情が安定した国が多いため、ウランを全面的に輸入に頼る国でもエネルギーセキュリティ上のリスクは少ないが、核燃料サイクルで核燃料の有効活用と長期使用が出来ればよりリスクが低減されるメリットがある。

 一方、核関連施設や運搬が増えるため、特にプルトニウムを扱うため高いセキュリティと高度な技術が要求される。

 この分野のサイクルを扱うのがバックエンド・サイクルで、再処理事業、濃縮事業、廃棄物管理事業、埋設事業に分けられる。

 原子力発電所が正常に稼働していれば、生み出される核分裂生成物は毎年使用済み核燃料として取り出され、それを処理するために日本原燃六ヶ所村再処理工場が処理することになるが、最大処理能力はウラン800t/年、使用済み燃料貯蔵容量はウラン3,000t、2010年の本格的稼働を予定していたが、2010年9月、完成まで更に2年延期すると発表、完成まで延期は18回になる。

 建設費は7,600億円であったが、2011年2月現在までで2兆1,930億円になり、更に追加予算を必要としている。

 六ヶ所村の敷地内にはウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター、MOX燃料工場も建設、核燃料サイクルの為の核燃料コンビナートを形成する。

 核燃料サイクル事業で先行するフランスから技術協力を得ており、フランス人技術者が複数名、施設内で技術指導をしている。

問題発生

「もんじゅ」(福井県)、プルトニウムとウランを燃料に、消費した以上の燃料を生み出す高速増殖原型炉、青森県六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場と共に、核燃料サイクル政策の中核を担う。

 1995年に40%出力試運転を始めた直後、ナトリウム漏れ事故で停止、15年ぶりに運転を再開した直後の2010年には、核燃料の交換装置が原子炉容器内に落下し、再び停止した。これまでに投じられた国費は1兆円近い巨費。

 点検放置の背景は、原発の使用済み燃料からプルトニウムを再利用する核燃料サイクル事業の行き詰まりを意味するのか。

 高速増殖炉は燃やした以上のプルトニウムができるとして、かつては「夢の原子炉」としてもて囃されたが、経済性は低く、また余りの難題が多すぎて、各国は次々と撤退を決めた。しかし撤退を決めてもそれで終わりではない。

 脱原発もそれが終わりではなく使用済み核燃料は、現在は再使用可の財産であるが、もしサイクルが不可となれば核のゴミとなり、電力会社の最大に負の遺産になる。原子力機構は、原子力安全の研究では我が国最大の組織であり原子力の研究者、技術者、安全な後始末に頑張って欲しい。

 国は核から安全な撤退のためにも原子力機構の組織と意識を梃子入れすべきだ。

 原子力規制委員会は、日本原子力研究開発機構に対し、原子炉等規制法に基づき、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の使用禁止を命ずるらしい。

 理由は、内規に反し、1万個に近い危機の点検を怠たっていた問題を重くみた。

 期間はつけず、安全管理体制を全面的に見直すまで運転再開を認めない方針とした。

 「もんじゅ」は2010年8月に核交換装置が落下したトラブルを起こし、それ以降停止したままになっており、使用停止処分は長期化する見込み、同機構が目指す今年度中の運転再開は不可能となり、核燃料サイクル政策は大きく躓くらしい。

 経産省旧原子力安全・保安院が02年に東電福島第一原発のトラブル隠しで1年間の運転停止処分があったが、使用停止命令は初めてとのこと。

 これにより運転の前段階となる原子炉起動に必要な核燃料の交換や制御棒の動作、格納容器の密閉性などの確認作業が禁じられ、運転再開の準備ができなくなる。点検の放置が発覚したのは、昨年9月の旧保安院による抜き打ち検査、ナトリウム漏れ検出器の主要部品の点検がされていないことが発覚した。これを受けて同機構が内部点検したところ、10年以降で未点検の機器は984個に上り、中性子検出器や非常用ディーゼル発電機など最高度の安全性が求められる「クラス1」の機器が55個もあったという。

 規制委員会は、安全管理体制に重大な問題があり、「動かせる状態にない」として同機構に使用停止を命じることにした。

 原子力機構理事長鈴木篤之氏が引責辞任した。理事長は東大教授で専門は核燃料サイクル。後任は原子力安全推進協会代表の松浦祥次郎氏が6月3日付で就任した。

 元原子力安全委員会委員長を務め原発の耐震安全基準の改訂に携わっていた。

 高速増殖原型炉「もんじゅ」で約1万個の機器の点検が放置されていた問題で、原子力規制委員会は13年5月30日、日本原子力機構に対して、原子炉等規制法に基づき安全管理の改善命令を出した。残る未点検機器の点検や再発防止対策を終えるまで運転再開の準備作業は認めない。

 もんじゅは試運転のトラブルで停止中、機器の点検に時間がかかるうえ、今後、規制委員会による断層調査も控えているので、機構が目指していた今年度中の運転再開は困難になった。

 また被曝事故が起きた。13年5月27日、茨城県東海村の加速器実験施設「J-PARC」で放射性物質が漏れた事故で、国際原子力事象評価尺度(INES)暫定評価を8段階中下から2番目のレベル1(逸脱)としたと発表した。

 当時、実験装置の近くにいた人達を検査したところ、被曝者計33人、最大被曝量1.7ミリシーベルトだった。

 事故は日本原子力研究開発機構とJ-PARCを共同運営する高エネルギー加速器研究機構が素粒子を発生させる実験中に起きた。

 約300km離れた岐阜県のスーパーカミオカンまで素粒子ニュートリノをとばす最先端の実験を手掛けているという。

 放射能漏れは5月23日事故発生、それから1日半後の24日午後9時10分に原子力機構の安全部門に通報、同19分に原子力規制委員会に第一報を通報した。

 遅れた理由は、長時間に渡って加速器を止めると再稼働まで数日を要するので稼働しながら修復しようとしたらしい。

 安全に対する認識が甘かった、と釈明したが、最先端の実験施設でもこの程度の認識しかないのか、安全・管理の認識は日本全体が甘すぎるのだろうか。

オメガ計画

 長寿命核種の分離変換技術研究開発長期計画という長い名前の通称としてオメガ計画と言う。

 半減期の長いネブツニウム、アメリシウム、キュリウム等のマイナーアクチノイド核種や、セシウム137、ヨウ素129のような核分裂生成物を含む高レベル放射性廃棄物をガラス固定体にして地中の埋設するのではなく、それぞれ四つのグループに分離した上で、それぞれ利用したり、核反応を利用して消滅を促進したりさせることを狙いとした方法。

 例えば原発事故で飛散したセシウムやヨウ素(β線放射核種)等を、核反応を利用して短寿命に換え、放射能を消滅させることを目指すもので、例えば「半減期が30.1年であるセシウムを45分で処理できる」とまで言われ理想の処理方法を研究開発するのがオメガ計画であって、日本が先駆的に着手し、フランス、ロシア、アメリカが後追い的な研究で開始、1988年、原子力委員会放射性廃棄物対策専門部会が群分離、消滅処理のオメガ計画を取り纏めた。

 1994年の原子力長期計画では、分離変換技術について各研究機関が基礎的な研究を進め、1990年代後半を目途に評価を行い、それ以降の研究の進め方を検討するとした。

 2000年に原子力委員会原子力バックエンド対策専門部会によるチェックアンドレビューが行われ、同年、特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律の付帯決議に、国際協力。国際貢献の視点を加味し、定期的な評価を行いつつ、着実に推進する必要がある、と記載したが、いつの間にか立ち消えとなってしまった。

 この研究は文部科学省が主管庁となって、我が国の原子力機関が叡智を結集して半減期の長い放射性物質を素早く安全に処理する技術を開発しようとし、セシウムやヨウ素等を、核反応を利用して短い寿命に換え、放射能を消滅させることを目指して研究が開始され、国は莫大な予算を投じ、「原子力開発利用長期計画」の中心であった「オメガ計画」は夢で終わったらしく、研究を管轄していた文部科学省内でも消えてしまったらしい。

 研究に着手していた他の国々も事情は同じく余りの困難さに諦めてしまったらしい。

 原子力に関し原爆、原発とその開発には真剣に取り組んできたが、後始末的な使用済み核燃料、核燃料リサイクル、プルサーマル計画、オメガ計画等々が計画され、実施されてきたが、途中で頓挫したり、マスコミから厳しい批判が出たり、止めるのが当然のような雰囲気だが、しかし、研究成果が出ないからといって諦めてしまってそれでおしまいになるのであれば結構だが、終わりはない。

 世界中には放置されている使用済み核燃料が十数万トン有り、更に増えつつある。これをどうするのか。

 人間が作り出した最悪の核のゴミは、その処理方法を如何なることがあっても開発・解決しなければならない大問題で、絶対に避けては通れない世界の課題だ。

実弟の会社の汚職事件で関連したとして抹殺された。

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